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熱心な説諭

NO. 1714

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1883年4月1日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」。――ロマ2:4


 使徒は、強烈に個人的な語りかけをしている。この節は、私たちを十把一絡げにして語っているのではなく、ある特定の者に向かって語りかけている。使徒は、その目をひとりの人に据え、「あなたは」[3節]、また、「あなたを」、と語っている。「あなたは……神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか?」 説教者が常に目指すべきこと、それは自分の使信を、聞く者それぞれの特質に沿って伝えるということである。もしもある人が、自分のことをひとりの個人として考え出し、福音の説諭と招きを聞いて、それが自分個人に向けられたものであるかのように思われるとしたら、それは常にきわめて幸いなしるしである。私は、あの遠回しで、随想風の説教には何の価値も認めない。それは、まるで夏の雷と同じように、瞬間的には目をくらませ、地の隅々まで燃え立たせるが、何の雷電も発さないために、かすり傷1つ負わせることなく、その甲斐のない炎は何の痕跡も残さない。私は、一同がみな同じ物云いを聞くだけで、誰も個々人として聞くことがないような話の聞き方に何の価値も認めない。説教者は、聞き手に向かって、「あなたを」、また、「あなたは」という口をきくときにのみ、何らかの善を施せるのである。ひとりひとりの人が、「これは私に云われているのだ」、と云わされるときこそ、神の力はその言葉の中に臨むのである。自分個人のこととして、自覚的にキリストのすそに一触れする方が、《主人》の回りにひしめく群衆がいかなる押し合いへし合いをするにもまさる祝福を伝えるのである。苦しんでいたひとりの個人が、癒しの御手を置いていただく方が、自分のこととして真理を受け入れない者らが、御口からこぼれたいかなる天的な説教を耳に入れるよりも、力強い効能を有していたのである。私は切に願う。私たちがみな、ひとりひとり、自分と主との個人的なやりとりに至ることができるように、また、神の御霊が、ひとりひとりの者らに、生ける神の御前におけるその状態に従って、罪を確信させてくださるように、と。おゝ、話をお聞きの方。あなたは今、愛に満ちた語りかけを受けようとしている。私は大勢の人としてのあなたがたに話しかけはしない。あなたに、たったひとりのあなたに語りかけるものである。

 注目してほしいが、使徒はひとりの個人を抜き出している。それは、他人をそむきの罪で断罪していながら、自分自身、同じ罪にふけっているという人であった。この人は、善と悪の見分けがつくほどには霊的な光を有しており、自分の知識をせっせと用いては他者を裁き、彼らをそのそむきの罪ゆえに断罪していた。だが彼自身については、日陰を好んでいた。そこでは、いかなる苛烈な光も彼自身の良心に襲いかからず、彼の不浄の平安を乱さなかった。彼の識別力は、自分の膝元にある種々の違反を扱うという痛みから免れるために、他の人々の種々の過失を俎上に上せていた。彼には一本の燭台があったが、それを自分の部屋の卓子の上には置かなかった。玄関先からそれを突き出しては、通り過ぎる自分の隣人たちを取り調べようとしていた。そら! 善良なるわが友よ。私の説教はあなたのためのものである。パウロはこの人を正面から見据えて云っている。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです」[ロマ2:1]。それから彼は、ぴしりとその人に云っている。「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか」[ロマ2:3]。使徒は、この鋭い矢の狙いを絶妙につけた。それは的の中心を射抜き、人類に共通した愚劣さに突き立っている。かの夜回りたちの詩人*1はこう書いた。――

   「誰しも思えり、われひとりのみ不死身ならんと」。

それと同じくらい真実に、こう云うことができよう。「誰しも思えり、われひとりのみ咎なしと」、と。咎ある人は、罪のために下されるべき刑罰が他人の上には確実に迫りつつあるとみなす。だが、それが自分に下ることがありえるなどとは、めったに信じることがない。自分が個人的に破滅するという観念を、彼らはいだくことがない。たといその恐ろしい想念が彼らの上に閃いたとしても、彼らは、人が雪片を外套から振るい落とすようにそれを振るい落としてしまう。個人的な咎、個人的な審き、そして個人的な断罪は、都合の悪いものなのである。あまりにも大きな悩みを内側に産み落とすものなのである。それで彼らはそれに宿を貸さないのである。不真実な者らは、平安だ安全だとうそぶきながら、だらだらと自分の道を歩いていく。まるで神が彼らに大赦令を下したかのように、また、彼らのためとあらば正義のいかなる規則にも、ご自分の宮廷のいかなる作法にも、例外を設けてくださったかのように、見境を失っている。人々は本当に、自分だけは罰を受けずにすむと信じているのだろうか? いかなる人もそんな観念には同意するまい。それが白黒くっきりと書き記されている限りはそうである。だがしかし、大多数の人々は、あたかも本当にそうだとでもいうかのような生き方をしている。私が大部分の人々というのは、他人のうちにある罪を断罪するに足るだけの光を受けている人々のことである。彼らは、自分自身の個人的な咎と断罪という事実からは飛びすさり、自らの不敬虔さを続けていく。自分のためには何の大きな白い御座[黙20:11]も、何の最後の審判も、何の審き主も、何の断罪の言葉も、何の憤りの地獄もないかのように。あゝ、あわれな狂人よ。このような夢を見ているとは! おゝ、《真理》の御霊が彼らを この致命的なのぼせあがりから救ってくださるように。

 罪は常に下り坂の上にあり、人がある程度の距離を進むと、必然的にその先へと進まざるをえない。使徒がここで語りかけている人も、最初は自分は審きを免れるだろうと考えていた。それからその後で、神の慈愛と忍耐と寛容を軽くみなすようになった。彼は、自分が未来には免れるだろうと考え、そのことにゆえに、現在における《いと高き方》の慈愛と寛容を軽んじるのである。もちろん彼はそうする。もしも来たるべき世の恐怖を信じていないとしたら、それを即座に経験せずにすんでいることは自然と小さなこととみなされるようになる。彼は、不毛な木のくせに、自分が切り倒されることがあるなどとは信じておらず、それゆえ、この葡萄園の番人が、こう云って懇願していることに何の恩義も感じない。「どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから」[ルカ13:7]。私は願う。神の御助けによって、この事がらを人々の良心に激しく突き入れることができるようにと。愛する無頓着な方よ。私は自分があなたにとって、ヨナがニネベにとってそうであったような者となれればと思う。私はあなたに警告したい。そして、あなたを悔い改めへとかき立てたい。おゝ、願わくは聖霊がこの説教を力あるものとし、まだ回心していないあらゆる聞き手あるいは読み手を目覚めさせてくださるように!

 I. 第一に、今朝、私があなたに向かって語りたいこと、それは、おゝ、未回心の、悔悟せざる人よ。《あなたが経験してきた神の慈愛》についてである。あなたは、神の慈愛と忍耐と寛容を知っているはずである。この聖句によると、実に「豊かな」ものが、未回心の、不敬虔な人々のために、そして、そのひとりであるあなたのために費やされてきた。おゝ、人よ。まず最初にあなたにこう語らせてほしい。思い起こさせてほしい。いかにあなたは、「その豊かな慈愛」にあずからされることによって、神からいつくしまれてきたことか。多くの場合において、このことは物質的な事がらにあてはまる。人々は神を恐れてはいないかもしれない。だがしかし、それにもかかわらず、神は商売上の彼らの努力を富み栄えさせてくださる。彼らは、ほとんどの場合、自分の期待以上の成功を味わう。――部分的には、そうである。おそらく、この描写はあなたにあてはまるであろう。彼らは最低の地位から身を起こし、人生の慰安と奢侈を身の回りに積み上げる。キリスト教信仰など全く有していなくとも、才覚と、思慮と、倹約を身につけており、それによって他人と競争する。神は彼らが富の競争において勝者となることをお許しになる。さらに、神は彼らが健康と、覇気と、頑健な体質を享受することを許しておられる。彼らは自分の若い時の妻を楽しみ、彼らの回りには子どもたちがいる。彼らは人もうらやむ境遇にある。死は、しばらくの間、彼らの扉を叩くことを禁じられているように思われる。それが近隣を荒し回っているときでさえ関係ない。病さえ彼らの家庭を悩まさない。彼らは他の人々のような困難には陥らず、他の人々のように苦しめられることもない。アブラハムはマクペラを用意しなくてはならず[創23:9]、ダビデは自分の息子たちについて悼まなくてはならなかった。だが、こうした人々は、家族の墓地についてほとんど何の備えをする必要もなかった。実際、1つの垣根が彼らを、また彼らの所有物すべてを囲んでいた。私の知るところ、このことは、神を愛さず、決して神の恵みの嘆願に服したことのない多くの人々について云える。彼らは、自分たちを富ませている御手を愛さない。日々自分たちに恩恵を浴びせている主をほめたたえない。いかにして人々は、これほどのいつくしみを受けていながら、何の礼もせずにいられるのだろうか? おゝ、方々。あなたはきょう、何不自由ない暮らしに恵まれている。だが、私は願う。あなたが貧困のどん底にいることもありえたことを思い出してほしい。あなたは、病気1つしただけで自分の職を失っていたであろう。あるいは、商売の風向きがちょっと変わっただけで破産していたであろう。あなたはきょうはぴんぴんしている。だが、病床で七転八倒していたこともありえる。病院にいて、手足を一本失う寸前になっていたこともありえる。神は、健康と、苦痛からの自由ゆえにほめたたえられるべきではなかろうか? あなたは、向こうの癲狂院に閉じこめられて、狂気に苦悶していたこともありえる。無数の病気があなたから遠ざけられている。あなたは《いと高き方》の慈愛によってこの上もなく恵まれてきた。そうではないだろうか? そして、まことに驚くべきことに、神はご自分に向かって自らのかかとを上げる者らにも、その御糧を与えてくださるのである。そこにあるご自分の慈愛を決して悟りもしない者らの上に、御光を照らしてくださるのである。それは、不敬虔な人々に対するご自分の数々のあわれみをますます多くするためである。彼らは神に対する自らの反逆をますます多くし、神の愛の賜物をそむきの道具とするしかないのである。

 さらに、神の慈愛は単に物質的な形においてあなたのところにやって来ただけではない。おゝ、悔悟していない人よ。それは霊的なしかたでもあなたを訪れてきた。私たちの同胞たるおびただしい数の人々は、決してキリストを知る機会を得たことがなかった。宣教師の足は一度も彼らの住んでいる町々を踏んだことがなく、そのため彼らは暗闇の中で死んでいきつつある。大勢の群衆は下へ下へと向かっている。だが彼らは上り道を知らない。彼らの思いは神のことばの教えによって一度も光を受けたことがなく、そのため彼らは罪を犯しても、はなはだしく重大な過失がそこにあるわけではない。だがあなたは、キリスト教の光の真っ只中に置かれていながら、しかし悪に従っているのである! あなたはこのことについて考えてみようとしないだろうか? 以前であれば、人は何年も働かなくては聖書を買えるだけの金銭を稼ぐことはできなかった。それだけの労苦をしても一冊も買えない時代もあった。今は神のことばがあなたの卓子の上に載っている。あなたは、自宅のあらゆる部屋に一冊は聖書を置いている。これは神の賜物ではないだろうか? この国は聖書が開かれている国であり、神のことばが宣べ伝えられている国である。ここにおいて、あなたは神の豊かな慈愛を経験している。あなたはこの豊富なあわれみを軽んずるのだろうか? ことによると、あなたはさらなる特権として、ことのほか平易で熱心な牧会伝道者の話を座って聞いてきたかもしれない。そうした説教は、だらだらとあなたの前に垂れ流されたのではなく、あなたに向けて直接なされてきた。教役者はあなたをとらえ、あなたの良心を深く揺さぶってきた。無理矢理にでもあなたを《救い主》のもとへ行かせようとでもするかのようにそうしてきた。叫びと懇願によって、あなたは、あなたの天の父へと招かれてきた。だがしかし、あなたは来ようとしなかった。これは小さなことだろうか?

 それだけでなく、あなたは鋭敏な良心に恵まれてきた。あなたは、何か誤ったことをするときそれが分かり、そのため心が疼く。あなたが誘惑に屈した後の、あの眠れない夜は何を意味しているだろうか? あのみじめな恥辱感は何を意味しているだろうか? あなたは、その内なる訓戒者を抑えつけることが容易でなく、神の御霊に抵抗することが難しいことを見いだしてきた。あなたが破滅へ向かう路は、ことのほか難儀なものとされている。あなたは、何が何でもこの路を進もうというのだろうか? 垣根も溝も乗り越えて地獄に行こうというのだろうか?

 あなたは、良心によって目覚めさせられてきたばかりではない。ほむべき御霊があなたと争い、あなたを説き伏せてほとんどキリスト者にするところであった。御霊のほむべきみわざはあなたの心に及ぼされ、あなたが時には全く溶かされ、恵みの鋳型にかたどり作られんばかりになるほどであった。奇妙な柔らかさがあなたの上に臨み、もしあなたが、自分のありったけの悪の力を結集しなかったとしたら、またもし悪魔があなたの抵抗を助けなかったとしたら、あなたは今頃、《救い主》の御腕の中に転がり込んでいたであろう。おゝ、このようにあなたに云い寄り、その愛をあなたに押しつけてくださった神の豊かな慈愛よ! あなたは神からほとんど何の鞭打ちも、渋面も、軽い叱責すら受けたことはない。神の道は、あなたの記憶にある最初の日以来今に至るまでも、ことごとく慈愛と、優しさと、寛容であった。「あなたは、神の豊かな慈愛を軽んじているのですか?」* おゝ、人よ。ぜひともどうかこの問いに答えてほしい。

 それから使徒が力説するのは、その豊かな「忍耐」である。忍耐がやって来るのは、人々が罪を犯したにもかかわらず、神が彼らに下してしかるべき罰を引き留めてくださるときである。人々が、あわれみへ招かれた上でそれを拒んだにもかかわらず、神がその御手を差し伸ばし続け、ご自分のもとに来るよう彼らを招き続けてくださるときである。数々の違反と侮辱を辛抱強く忍ぶことを神は、今この警告の言葉を聞いているあなたがたの中の多くの人々に対して現わしてこられた。主は、私が誰に対して語っているかをご存知である。そして、願わくは主があなたにも、私があなたに、そう、あなたにこそ語りかけていることを知らせてくださるように。ある人々は、しばし悔い改めていた当の罪へと舞い戻っていった。彼らは自分の愚行のゆえに苦しんできたが、自殺的な決意とともにそこへ再び向かっていった。彼らは絶望的なまでに自分自身の破滅へと進みつつあり、何物も彼らを救うことはできない。あつものに懲りたはずの者が、再び火傷のもとへと突進していった。飛んで火に入って羽を焦がした夏の虫が、再びともしびの火焔へと突入していった。このように自業自得の災いを、誰にあわれむことができようか? 彼らは破滅へと引き渡される。警告を受けようとしないからである。彼らは悪徳の根城へと戻ってしまった。いったんは、その不潔な奥深いどぶから危うく救出されたかのように思われたとしても関係ない。勝手気ままに、また、故意に、自分の酒杯へと戻っていった。以前に重ねた杯の毒が、自分の血管中でまだ燃え上がっていようと関係ない。それでも、こうした愚かさにもかかわらず、神は彼らに忍耐を示しておられる。彼らは神をはなはだしく怒らせてきた。みことばを軽蔑し、神礼拝の厳粛さを笑い物にしては、自分の良心に逆らい、自分でもわけのわからぬことをしてきた。だが神は、その御手を振り上げたとき、あわれみによってそれを引き込められた。見るがいい。いかに神が常に、ご自分の摂理を彼らに対するいつくしみで手加減してこられたかを。神は彼らを打ち倒し、重い病床に伏させたが、彼らの嘆きの声を聞いて快復させてくださった。彼らは死の間際で震えていたが、神は彼らが力を回復することを許してくださった。だのに今の彼らは、真人間になるとの誓いにもかかわらず、このように鈍感で、無頓着で、自分に執行猶予を与えてくれたあわれみを思いやってもいない。

 あなたは、この豊かな忍耐に何が含まれているか一度でも考えただろうか? 世には短気な人々がおり、少しでも気に障ることがあれば、たちまち激しい言葉と拳骨が怒りにまかせて飛んでくる。だが、おゝ、不敬虔な人々から面と向かって挑発されるときの神の忍耐はいかばかりか! 不敬虔な人々というのは、みことばを聞くが、それを拒否する人々のことである! 彼らは神の愛を侮蔑する。だがしかし、神はそれを堪忍してくださる。正義はその手を剣にかけるが、あわれみがそれを鞘へと引き戻す。そのように命拾いした者はみな、こう云ってしかるべきである。――

   「尽きぬ《恵み》よ、
    云いえぬ《愛》よ!
    われは、いまだに末路(すえ)へ至らず、
    いまだに地獄(よみ)に達しえじ!
    地はなおもその 口を開かず、
    わが魂(たま)をよく呑みこまじ。
    燃ゆ穴の上(え)に 吊されし、
    われははいまだに 望まさせらる」。

 私たちの使徒は慈愛と忍耐に加えて、豊かな「寛容」と云う。私たちは、忍耐と寛容の区別をこうつけよう。忍耐は罪の大きさに関係し、寛容はその多さに関係している。忍耐は現在の挑発に関係し、寛容は繰り返された挑発、また長い間続けられた挑発に関係している。おゝ、いかに長いこと神は、人々の無作法を容赦しておられることか! 四十年もの間、神はある世代を憤り[ヘブ3:10]、彼らの屍は荒野に倒れた。話をお聞きの愛する方。あなたも四十年の長きに達しているではないだろうか? もしかすると、それをも越えているであろう。半世紀もの挑発が永遠に送り込まれては、あなたに不利な証言をすることになったであろう。もし私が、六十年そして七十年と、引き続いて彼らのそむきの罪の重荷を積み上げ続けたと云わなくてはならないとしたら、どうだろうか? 神がこう仰せになるまでとなっていたとしたら、どうだろうか? 「束を満載した車が押えつけるように、わたしはあなたがたの罪の下で押えつけられている」*[アモ2:13 <英欽定訳>]。それでも、そうしたすべてにもかかわらず、今のあなたは、祈りの場にあり、神に嘆願できる状態にある。ここであなたは、まだ《救い主》が恵みの御座の上で支配しておられる所にいる。ここであなたは、求めさえすればあわれみが得られる所にいる。代価(かた)なき恵みと死に給う愛がその妙なる鈴を鳴らしては、喜びと平安へと招いている所にいる! おゝ、神の豊かな慈愛と忍耐と寛容よ。三重の訴えである。あなたは、それを顧みようとしないのだろうか? それを軽んじ続けることができるだろうか?

 私は、こうしたすべてを、できるものなら、ぎょっとするような光に照らして示してみたいと思う。それゆえあなたに、このような慈愛と忍耐と寛容を人々に表わしておられる神がいかなるお方で、何をなさるお方かを思い起こさせたい。人々が偉大な君主を侮辱するとき、その罪は極悪のものと考えられる。もし誰かが、私たちの愛する女王を公然と侮辱したとしたら、また、そうし続けるとしたら、国中が怒号を発して、そうした無礼をすみやかに終わらせるであろう。私たちは、愛する支配者が公に侮辱されることに我慢がならない。では、神を挑発する罪のことをあなたはどう考えるだろうか? 神に面と向かって反抗し、神の宮廷内で神に抵抗するとしたら? これが、いつまでも忍耐されて良いだろうか? 寛容にも限度があるではないだろうか? 慈愛もまた、その挑発の上塗りとなる。私たちは自然とこう云うからである。「なぜあのように慈悲深いお方が、あれほど無慈悲に扱われて良いだろうか?」、と。もし神が暴君であったとしたら、もし神が不正であったり不親切であったりしたとしたら、人々が神に逆らって立ち上がっても、さほど間違ったことではなかったであろう。だが、神の御名そのものが愛であり、神がその父としての真情を、さまよい歩くわが子たちに対して現わしておられるとき、神がこのように残忍に挑発されるというのは恥ずべきことである。イエスのこのことばは、この上もなく心揺さぶるものである。主はご自分の数々の奇蹟を指摘してから、こう尋ねられた。「そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか」[ヨハ10:32]。私は、神について考えるとき、こう云って良いであろう。――そのどのみわざのために、あなたは神を挑発するのか、と。毎朝、神は帷を開けては、地を光で喜ばせ、それを見る目をあなたに与えてくださる。その雨を地に送り、人のための糧を生え出させ、それを食べるいのちをあなたに与えてくださる。――これが、神に背くべき理由になるだろうか? 私たちの人生の一刻一刻は、神の優しいいつくしみで元気づけられており、あらゆる場所が、神の愛で喜ばされている。私は、主が、この咎ある、道徳的に汚れた種族を地の面から一掃なさらないことに一驚する。人の罪は日々、神にとって恐ろしいほど厭わしいものであるに違いない。だがしかし、それでも神はいつしくみと、愛と、忍耐を示してくださる。これは、人の不従順を途方もなく毒々しいものとする。いかにして人は、このような慈愛を悲しませることができるのだろうか? いかにして天来の慈愛は、このように卑しい忘恩に憤慨せずにいられるのだろうか?

 また、神の知識を考えてみるがいい。というのも、神は人々のあらゆるそむきの罪をご存じだからである。「目、見ざるものを心、悔やまず」、というのは至言である。だが、あらゆるそむきの罪は、まさに神の面前で犯されているのである。それで、悔悟したダビデはこう叫んだ。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました」[詩51:4]。そむきの罪は神の御目の中で犯されている。その御目からは何物も隠れてはいない。また、思い出すがいい。主は決して忘れることがありえない。主の御目の前では、すべてが白日のもとにさらけだされており、今日の事がらのみならず、1つの人生のあらゆるそむきの罪がそこにあるのである。だが、こうしたすべてにもかかわらず、神は忍耐しておられる。ご自分の面前に邪悪の悪臭が立ち上っているにもかかわらず、神は怒るに遅く、待ち続けては恵み深くあられる。

 その長い間ずっと、主は強大な力を有しておられる。ある人々が辛抱しているのは無力だからである。我慢し、忍耐するのは、それ以外にどうしようもないからである。だが神はそうではない。神がそう望まれるとしたら、あなたはたちまち地獄に叩き込まれるであろう。神が一言発するだけで、悔悟しない者は荒野に倒れ、彼らの霊は果てしない災厄の領土へと至っていたであろう。一瞬にして主はご自分の敵を取り除いて清々することができたであろう。瞬く間にあの生意気な口を封じ、あの肉欲に満ちた目を閉ざすことがおできになったであろう。あのよこしまな心臓は、神が御力を引き込められたとしたら鼓動をやめていたであろう。あの反抗的な息もまたやんでいたであろう。寛容がなかったとしたら、あなたがた、不信者たちは、とうの昔に怒れる神の手の中に陥ることがいかなることかを知っていたであろう。あなたは、これほど辛抱強くあなたを忍んでおられる神を嘆かせ続けようというのだろうか?

 決して忘れてならないことだが、罪は神にとって、私たちにとってそうであるよりも、はるかに隔絶して耐えがたいものなのである。神の目はあまりにきよくて、悪を見ることができない[ハバ1:13]。私たちが些細な罪と呼ぶ事がらは、神にとっては巨大で、はなはだしい悪なのである。それは、いわば神の瞳を突くものなのである。「もう、よせ」、と神は云われる。「わたしの憎むこの忌まわしいことをよせ!」 御霊はあらゆる無駄な言葉やあらゆる肉欲の思いによって悲しまされ、悩まされる。それゆえ、不思議中の不思議なのは、これほど罪に対して鋭敏な神、これほどご自分の敵に対して復讐をすることができる神、これほど人間の悪のおびただしさをご存知であり、そのすべてに注目しておられる神が、それにもかかわらず、豊かな慈愛と忍耐と寛容を表わしてくださるということである。だが、これこそあなたが、話をお聞きの不敬虔な方。あなたが長年にわたって経験してきたことなのである。ここで私たちはしばし立ち止まろう。そして、おゝ、いまだ救われていないひとりひとりの者が、この上もない真摯さとともに、このウォッツの言葉を歌えるようになるとしたらどんなに良いことか。――

   「主よ。汝が愛に、われ濫用(つけい)りぬ、
    長くふけりぬ、わがよこしまに、
    わが魂(たま)痛み 見るも血流さん、
    いかなる叛逆(そむき) われ犯せしか。

   「もはや情欲(まどい)は われ指図(うごか)さず、
    もはやそに われ ゆめ従わじ。
    主よ、汝が勝てる 御手伸べ給え、
    かく汝が仇(あだ)を 追い払えよや」。

 II. さあ、愛する方。ここで、《あなたが疑われている罪》について語らせてほしい。聞くがいい。未回心の罪人よ。あなたが疑われている罪とはこのことである。――「あなたは神の豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか?」* 主の慈愛は賞賛され、あがめられるべきであるのに、あなたはそれを軽んじているだろうか? 主の慈愛は驚嘆され、他の人々の耳に驚異として告げられるべきであるのに、あなたはそれを軽んじているだろうか? あなたの良心を少し掘り返すために、私に耳を貸してほしい。

 ある人が神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじるのは、彼らが決してそれについて考えもしないからである。神はあなたに、この世にとどまり続けるためのいのちを与えておられ、あなたをご自分のいつくしみに浴させておられる。だが、あなたはまだ、この辛抱強さが全く驚くべきものであるとも、一片の感謝に値するとも思うことがない。あなたはこれまで酔いどれだったではないだろうか。悪態をつく者だったではないだろうか。安息日を破る者だったではないだろうか。罪深い快楽を愛する者だったではないだろうか。ことによると、完全にそうではなかったかもしれない。だがそれでも、あなたは神を全く忘れ去ってきた。だがしかし、神はあなたに対するいつくしみに満ちておられたのである。これは非常な不正ではないだろうか? 神は云われる。天よ、聞け。地も耳を傾けよ。子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、このわたしの被造物たちは知らない。わたしが恩恵を施してきた者たちは悟らない、と[イザ1:2]。何と、あなたは、他の人々が決して受けていないほどの忍耐を神から受けている。あなたは、あなたの後をついて来もしないような犬、あなたに向かって歯をむき出して唸るような犬を飼いはしないであろう。水漏れをして、何の役にも立たないような陶器すら取っておきはしないであろう。むしろ粉々に砕いて、掃き溜めに投げ捨てるであろう。あなた自身について云えば、あなたは、からだについても魂についても、奇しく驚くべきしかたで形作られている[詩139:14]。だがしかし、あなたは、あなたの《造り主》にとって全く役立ってこなかったし、役に立つとさえ思われていない。それでも、神はこの歳月の間、あなたを容赦してこられた。だのにあなたには、そこに何の驚くべき忍耐があるとも決して思わなかった。おゝ、人よ。確かにあなたは、あなたの神の寛容を軽んじているに違いない。

 ことによると、他の人々はそれを考えてきたかもしれない。だが、決してそのことを真剣に思い巡らしたことがない。私たちは、ある人を立腹させたとき、まともな考え方をする者であるとしたら、その事実を後悔とともに気にとめるだけでなく、じっくり腰を据えて、その件を考量し、事を正そうするであろう。というのも、私たちは誰に対しても不正を働きたくはないからであり、もし自分が不当な行ないをしていたと感じるとしたら、その償いをつけるまで、そのことが心にのしかかるであろうからである。しかし、あなたがたの中のある人々は、これまで、あなたの神とあなたとの関係について半時間も考察したことがなかったではないだろうか? 神はずっとあなたを容赦してこられた。だがしかし、あなたは、密室に入って腰を下ろし、神に対する自分のふるまいについて考えようと思ったことは一度もない。あなたの《創造主》について考えることすら、七面倒に思われる。神の寛容はあなたを悔い改めに導いているが、あなたは悔い改めたことがない。事実、あなたはこの問題に少しでも考察する値打ちがあるとは考えていない。あなたは、「何を食べようか、何を飲もうか」、と尋ねる方がはるかにずっと大切だと考えてきた。パンや黒羅紗の布地によって、神への思いを閉め出してきた。あゝ、あなたはじきに神の審きの法廷に立つであろう。――それから? ことによると、今週が終わる前に、あなたは答えなくてはならないかもしれない。私に対してではなく、御座に着いておられるお方に対して。それゆえ私は、今あなたに懇願する。この件について最初の思いを馳せてほしい。もはや神の慈愛と寛容を軽んじてはならない。

 さらにこの寛容を軽んじているのは、神が自分たちのすることになど大した注意を払っていないだろうと想像してきた人々である。はなはだしく公然たる罪に陥ったり、自分の国の法を破ったりしない限り、彼らは神を愛そうが愛すまいが、義を行なおうが行なうまいが、素面で慎み深くしていようが酔っ払って浮かれ騒ごうが、神の御霊によって心をきよめられていようが、汚れた魂と生き方をしていようが大したことではないと信じている。あなたは、神が自分と似たような者だと思っており[詩50:21]、あなたのそむきの罪など目こぼしし、あなたの罪を覆ってくれるだろうと考えている。だが、あなたはそうではないことに気づくであろう。そうした卑しい考えは、あなたが神の寛容を軽んじている証拠である。

 ある人々は、次のような考えすらいだくようになっている。すなわち、こうした愛の警告など張り子の虎であり、神の脅かしなど決して実現されないのだ、と。彼らは罰を受けることもなく何年間もやってきた。そして、その打撃が落ちてくるのに長くかかればかかるほど、いざ来たときにはそれだけ重いものとなるという結論を引き出すどころか、審きが長く遅れているからには決してやって来ないのだと想像するのである。それで彼らは、死と地獄の顎の間でたわむれたり、ぶらぶら過ごしたりする。彼らは警告を聞いても、それがみなたわごとであるかのように扱い、この聖なる《本》でいかなる脅かしがなされていようと、それは虚仮威しにすぎないのだとする。もしあなたがそう考えているとしたら、そのときは実際、あなたは神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじてきたのである。あなたは、この忍耐が永遠に保つと想像しているのだろうか? あなたは、少なくとも自分にとってはそれが何年も何年も続くだろうと夢見ているだろうか? 私はあなたがひそかに考えていることを知っている。あなたは他の人々が突然死ぬのを見ている。だが、自分には長い時間とたっぷりの余裕があるとこっそり思っている。あなたは誰かが震顫麻痺で急死したとか、別の人が脳卒中でみまかったとか聞いている。だが、自分にはこうしたことを考える暇がふんだんにあると内心では信じている。おゝ、なぜあなたはそれほど安閑としていられるのか? なぜあなたはこのように主を試みることができるのか? このよこしまな時代には、にせ預言者たちは人々の都合の良いように行動し、徒な希望を差し出している。人は、悪い状態のまま来世に入っても、結局は正しい者にされることがありえる、というのである。これは、あなたの悪い心に対する薄汚いへつらいである。だがしかし、覚えておくがいい。こうした者らの駄法螺が本当であってさえ、この空想上の回復が起こる前には数世紀もかかるであろう。分別のある人なら、一年苦悶する危険さえ冒したいとは思わないであろう。激しい痛みに半時間苦しむことさえ、ほとんどの人は怖気を振るう。歯科医の扉から後ずさりし、痛む歯を抜く激痛すら恐れる当の人々が、何年もの苦痛を味わう危険を冒すものだろうか? この立場に立っていてさえ、悔悟していない者の未来を取り上げてみるがいい。それは非常に恐るべきものであり、いかなることをしても避けるべきものである。私は云うが、こうしたへつらう預言者たち自身、もし正しく理解されたならば、ほとんど希望を与えないであろう。だが、もし昔ながらの教理が正しいことが証明され、聖書の云い表わす通りに、あなたが地獄で永遠の火焔の中に没して行くことになるとしたら、あなたはどうなるだろうか? あなたは、そのような破滅の危険にさらされたまま一時間でも生きていたいと思うだろうか? あなたは、それほど主の寛容と忍耐を軽んじたいのだろうか?

 私は、これ以上詳しく述べたり、多くの言葉を用いたりすまい。私自身、言葉には飽き飽きしているからである。私は、涙をもってさえあなたを説得したい。私の魂のすべては、あなたをあなたの神、あなたの御父に引き寄せたがっている。私はあなたの間近にずいと近寄って、こう云おう。――あなたは、たとい何の教理的な過誤に陥っていないとしても、また、死後救済説あるいは霊魂消滅説のような朦朧とした希望に決してふけっていないとしても、それでもなお、このことは、神のあわれみを恐ろしく軽んじることだとは思わないだろうか? すなわち、あなたが神をもてあそび続け、神の恵みに向かって、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」[使24:25]、と云う場合である。神が優しいお方であればあるほど、あなたは先延ばしをする。それは、高潔なことだろうか? 正しいことだろうか? 賢いことだろうか? なすべき道理にかなったふさわしいことだろうか? おゝ、話をお聞きの愛する方。なぜなあたはこのように恥知らずなしかたでふるまおうとするのだろうか? あなたがたの中のある人々は、やって来ては私の話を聞くのを楽しんでいる。私の話すすべてのことに聞きほれている。私のことを、自分たちの魂について熱心な人だと褒めさえするであろう。だがしかし、結局あなたは神を、キリストを、天国を受け入れようとは決心しないのである。あなたは善と悪のはざまにあり、冷たくもなく、熱くもない。私は、あなたがたが冷たいか、熱いかであってほしい[黙3:15]。あなたがたが、私のこの言葉を偽りであると考えるか、さもなければ、それを真実であると信じて、直ちにそれに立って行動してほしいとさえ願える。いかにしてあなたは、神に背き、かつ、悪いことと知りながらそれを行なうという二重の咎を背負い込むなどということができるだろうか? あなたはキリストを拒否するが、しかしキリストを受け入れるべきだとは認めている! あなたは福音のことを良く云いながら、自分ではそれを受け入れようとしない! 《救い主》についての偉大な事がらを信じてはいながら、そのお方にあなたの《救い主》になっていただこうとはしない! イエスご自身こう云っておられる。「わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか」[ヨハ8:46]。

 「あなたは神の寛容を軽んじているのですか?」* あなたはあえてそうするだろうか? 私は神の慈愛を軽んじている人について考えると身震いする。それは、実質的な冒涜ではないだろうか? あなたはあえてそうするだろうか? おゝ、もしあなたがこれまでそうしてきたとしたら、もはやそうしてはならない。向こうの太陽が再び没するまでに、自分の心の中でこう云うがいい。「私は二度と神の慈愛を軽んじないようにしよう。立って、御父のもとに行き、こう申し上げよう。――父よ。私は罪を犯しました。主が私の罪を洗い流してくださった尊い血のもとでなければ休むことをしません」、と。

 III. この説教のしめくくりとして、あなたに思い起こさせたいことがある。おゝ、不敬虔な人よ。それは、《あなたが忘れている知識》である。本日の聖句を読むがいい。――「神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」。さて、この場にいる多くの人々は、教理上のこととしては、神の慈愛が自分を悔い改めに導いていることを知っている。だがしかし、彼らは、自分の生き方に影響する実際的な真理としてはそれを知っていない。実際、彼らは、それが彼らにとってまるで真理でないかのように行動している。それでも、もし彼らがこのことを知らないとしたら、彼らは故意に無知になっているのである。自分にとって不愉快きわまりない事実を、自分の精神の中に保っておきたくないのである。見ようとしない者にまさって盲目な者はいない。だが、目を持っていながら見ないでいる者の盲目さは、犯罪性を帯びている。それは、視力を持たない人々のうちには見いだされないものである。話をお聞きの愛する方。あなたがこの真理を知っていようといまいと、私はあなたに思い起こさせたい。あなたに対する神の辛抱は、あなたを悔い改めに導くためのものなのである。「どうしてです?」、とあなたは云うであろう。何と、まず、あなたに悔い改めの機会を与えることによってである。今やあなたにとって相当な数となっているこの歳月があなたに与えられてきたのは、あなたが神に立ち返るためであった。あなたは、成人する頃には申し分のないほどに罪を犯していた。ことによるとあなたは、その頃でさえ他の若者たちを誤り導き、自分の影響下にある人々に悪の手ほどきをし始めていたかもしれない。なぜ神はあなたをすぐさま取り去らなかったのだろうか? 神がそうしておられたとしたら、世のため人のためであったろうに。だがしかし、あなたは三十歳になるまで容赦された。あなたの引き延ばされた人生の一年一年は、主がこう云っておられた証拠ではないだろうか? 「わたしは彼を容赦しよう。ことによると、彼はこれから改心し、自分の神について考えを馳せるかもしれないからだ。わたしは彼にもっと光を与えよう。彼の慰めを増やしてやろう。彼により良い教育を与えよう。より良い説教を与えよう。ひょっとして彼も悔い改めるかもしれない」。それでもあなたはそうしなかった。あなたは四十になるまで生きてきただろうか? そして、あなたは、二十歳だったときにいた所にいるだろうか? まだ、キリストの外にいるだろうか? ならば、あなたはかつてのあなたよりも悪い。というのも、あなたはより深く罪を犯してきたし、よりひどいしかたで主を挑発してきたからである。あなたは今や十分な時間を得てきた。これ以上何が必要だろうか? 子どもが過ちを犯したとき、あなたは云うであろう。「坊主。今すぐごめんなさいをしないと、お仕置きするぞ」。あなたは、神があなたに与えてこられた年数ほどの分数をその子に与えるだろうか? 私はそうは思わない。ある召使いがあなたから盗みを続けているとしたら、あるいは、不注意で、ものぐさで、不従順だとしたら、あなたは彼に云うであろう。「私はお前の欠点を何度か見逃してやったが、近いうちにお前を解雇する。いつまでも、こんなだらしなさ、こんなへまさ加減、こんな怠惰さには我慢してはいられん。そのうちに出て行ってもらおう」。あなたは、自分の女中にそう云ったことはないだろうか? そして、彼女にもう一度だけ機会を与えてやったことで自分は親切だと思わなかっただろうか? 主は同じことをあなたに云ってこられた。だが、今のあなたは生きてはいるが、悔悟しない者としてである。容赦されてはいるが、その容赦はあなたのそむきの罪を増し加えるだけである。このことを知るがいい。神の忍耐はあなたに、悔い改めの機会を与えているのである。それを、あなたの心をかたくなにする機会にしてはならない。

 しかし、次に主はこのことにおいて、あなたに悔い改めるべき示唆を与えておられる。私にはこう思われる。ある人が毎朝、まだ悔悟しない者として目を覚ますたびに、また、自分が地獄に落ちていないことに気づくたびに、日光はこう云っているかのように思われる。「私はもう一日あなたを照らそう。この日あなたが悔い改めることができるように」。あなたの寝床が夜あなたを迎えるとき、私はそれがこう云うかのように思われる。「私はあなたにもう一夜の休息を与えよう。あなたが生きて、あなたの罪から立ち返り、イエスに信頼することができるように」。食卓に出されるパンの一切れ一切れはこう云っている。「私はあなたのからだの支えとなろう。あなたが悔い改める余裕を持てるように」。あなたが聖書を開くたびに、その頁は云う。「私たちはあなたに語りかけよう。あなたが悔い改められるように」。あなたが説教を聞くたびに、もしそれが神が私たちに説教させたがるようなものであったとしたら、それはあなたに向かって、主に立ち返って生きよと嘆願する。確かにあなたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行なってきたが、それは過ぎ去った時でもう十分である[Iペテ4:3]。「神は、あなたの無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」*[使17:30]。生と死が、天国と地獄が、そうするようあなたに求めていないだろうか? このように、あなたは神の慈愛のうちに、悔い改めるための余裕と、悔い改めるための示唆を得ているのである。

 しかし、ここにはそれ以上のことがある。というのも、私はあなたに、この聖句が、「神の慈愛があなたを悔い改めに召す」、ではなく、「導く」、と云っていることに注意してほしいからである。これはずっと強い言葉である。神は福音によって悔い改めに召される。神はその慈愛によって悔い改めに導かれる。あたかもそれは、神があなたの袖をつかんで、「こっちへ来よ」、と云われたかのようである。神の慈愛は、優しい手をあなたの上に置き、愛の綱、人間の絆であなたを引いている[ホセ11:4]。神の忍耐は叫んでいる。「なぜあなたはわたしを憎もうとするのか? わたしがあなたに何の悪いことをしたのか? わたしはあなたを容赦してきた。あなたのために、あなたの妻と子どもたちを容赦してきた。あなたの衣装箪笥を満たしてきた。あなたに無数の親切な行為をしてきた。なにゆえにあなたは私に従おうとしないのか? あなたの神であり父であるお方へと立ち返り、キリスト・イエスにあって生きるがいい」。

 逆にあなたが、あまり物質的に豊かな恩恵を受けてこなかったとしても、それでも主はなおもあなたを、より荒々しい御手で悔い改めへと導かれる。あの放蕩息子がいなご豆で腹を満たしたいほどであったが[ルカ15:16]そうすることができず、空腹の苦痛に襲われたとき、その苦痛が、パンのあり余っている実家へと彼を導く御父からの力強い使信となったのと同じである。「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」。おゝ、あなたがその甘やかな導きに屈して、子どもが乳母の導きに従うように従えるとしたらどんなに良いことか。あなたの種々の十字架が、真の十字架へと導くように。あなたの種々の喜びがキリストにある喜びをあなたに見いださせるように。

 あなたは、神ご自身があなたをそのように導いておられるからには、こうしたすべてがあなたを悔い改めへと励ましているとは思わないだろうか? 神は、あなたを悔い改めに導いているとしたら、あなたを投げ捨てようとは思っておられない。神は、あなたに悔い改めよと命じているとしたら、あなたの悔い改めを受け入れ、あなたと和解させられようと望んでおられる。神があなたに、あなたの思いを変えよと命じておられるとしたら、それは神ご自身の思いが愛だからである。悔い改めには、あなたの物の見方における、また、あなたの物事の評価における根本的な変化が含まれる。それはあなたの目指す目的を変化させること、あなたの思想やあなたのふるまい変化させることである。主は、あなたをそうした方向へ導いておられるとしたら、そのことにおいてあなたを助けてくださるであろう。その恵み深い導きに従い、その天来の御霊があなたを、さらに大きな力と、さらに大きな効力とをもって導くにまかせるがいい。ついにあなたは、御霊があなたのうちに、悔い改めと信仰の双方を作り出されたことに気づくであろう。そして、あなたは永遠の救いをもって主にあって救われているであろう。もし「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」のだとしたら、こう確信するがいい。神の慈愛は、あなたが悔い改めるとき、あなたを受け入れるであろう。またあなたは、神の御前で、神の愛する、赦された子どもとして生きることになるであろう。

 これでしめくくりとするが、私はそれを残念に思う。というのも、自分に願えていた半分も嘆願してこなかったからである。それでも、これ以上私に何が云えるだろうか? 私はそれをあなた自身にまかせよう。もしあなたが神の立場にあったとしたら、あなたは、あなたが神を扱ったようなしかたで扱われることに我慢できただろうか? もしあなたが慈愛と優しさに満ちており、ある被造物を今や三、四十年も我慢しているとしたら、いかにしてあなたは、その被造物がなおもあくまで抵抗し、むしろ、あなたの優しさから、図に乗ってその反逆を続けさせるような推論を引き出すことさえ行なうのを黙って見ていられるだろうか? あなたは云うではないだろうか? 「よろしい。もし私の寛容によってこいつが罪など大したことではないと思うとしたら、手を変えることにしよう。思いやりでこいつをかちとれないとしたら、こいつを放置しなくてはならない。もし私の愛でさえこいつに影響を及ぼさないとしたら、こいつのことなど放っておこう。こいつは、自分の悪い生き方に引き渡される。――こいつのことは見放そう。そして、こいつがどういう末路を辿るか見てやろう」。おゝ、主よ。そうは仰せにならないでください。この建物の中にいる誰に対しても、そうは仰せにならないでください。むしろ、あなたの大いなるあわれみによって、この日を多くの者らにとっていのちの始まりとしてください。おゝ、多くの心が、その軽蔑された《救い主》へのあわれみゆえに感動させられ、自らその御顔を求めるようになるとしたら、どんなに良いことか! ここに救いの道はある。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。あなたは、《主人》がいかに私たちにそれを云い表わすよう命じられたかを知っている。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:15-16]。最初に、私たちは信仰を宣べ伝えるべきである。信仰によって私たちはキリストをつかむのである。それから、バプテスマである。それによって私たちはその信仰を告白し、自分が死んでキリストとともに葬られたこと、そのようにしてキリストとともに新しいいのちに生きるようになること[ロマ6:4]を認めるのである。こうしたことこそ、主が私たちに命じて、あなたの前に置かせておられる2つの点である。おゝ、悔悟していない人よ。疲れながらも、だが、疲れ果ててはいない者として、私はあなたに嘆願する! これまでのあなたは、いくら嘆願されても聞き流すだけであった。だが、もう一度、私はキリストに代わってあなたに語るものである。――あなたの罪を悔い改めるがいい。あなたの《救い主》を仰ぎ見るがいい。あなたの信仰を、主ご自身が定められたしかたで告白するがいい。私はまことにこう信ずる。もし私があなたがたの中のある人々に対して、一匹の犬のいのちを救ってほしいと嘆願してきたとしたら、とうの昔にあなたを説き伏せていたに違いない。では、あなた自身の魂を救うことは、どうでもいいとでも云うのだろうか? おゝ、何とも奇妙な錯乱ではないか。――人が自分の救われることを良しとせず、むしろ愚かにも、狂気にも、自分を悔い改めに導いておられる神のあわれみに逆らい立とうというのである。願わくは神があなたを祝福してくださるように。愛する方。そして、あなたがたの中の誰ひとりとして、神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじることがないように。

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(訳注)

*1 エドワード・ヤング (1683-1765) 。英国の詩人。Night Thoughts on Life, Death, and Immortality (1742-45)。[本文に戻る]

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熱心な説諭[了]

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