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罠から助け出された鳥

NO. 1696

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木曜日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された」。――詩124:7


 この聖句は魂の問題について述べている。《詩篇作者》は、肉体的な解放について語っているのではない。たとい、その意味における死からの救出が、彼によって甘やかに歌われるに値する主題であったとしても関係ない。彼は云う。「私たちの魂は仕掛けられたわなから鳥のように助け出された」<英欽定訳>。このように、霊的な救助を示しているのである。人の魂は人の根幹である。一部の人々はその注意をことごとくからだにしか払っていないが、途方もなく愚かなことである。それはあたかも、人が自分の財産の一切を家屋にしか費やさず、自分には食べるべき何のパンもないようなものである。私が話しかけている人々の中には、自分の魂について全く考えていない人がいるだろうか? あなたは本当に、自分が犬や馬のように死ぬのだと思っているのだろうか? 私には、あなたがそれほど自分自身について残忍な考え方をしているとは信じられない。嘘ではない。あなたの内側には、太陽よりも永続するであろう不滅の魂があるのである。もしあなたがこれまで自分の、より高貴な部分に無頓着だったとしたら、神の御霊があなたに知恵を教えてくださるように。私は切に願う。あなたが自分の魂を大切に思うようになり、本日の聖句があなたにとって興味深いものとなり、あなたがその解放の歌に唱和できるようになることを。

 私はこの聖句を歌と呼んだ。これは、そのように読めないだろうか? 「私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された」。これは確実なことをたたえる頌歌である。これは、「私たちは助け出されたと思います。わなが破られたのだと良いのですが」、とは云わず、「わなは破られたのだ。私たちは助け出されたのだ」、と云う。「もしかすると」だの「あるいは」だのは、何の音楽にもならない。ひょっとして、といった語句が入り込むとき、詩心は逃げ去ってしまう。確実なことこそ旋律である。私たちは人々が、「死んでも確実だ」、と云うのを聞くが、キリスト者は生きた確実さを喜びとしており、それが自分のものにならない限りみじめなのである。ならば、私の愛する方々。肉的な疑念という沼地を覆う霧と霞を越えて立ち上がり、全き確信という山に登り、そこに立って陽光を額に受け、疑いの雲によって汚されていない静謐な大気を呼吸するがいい。

 この聖句が歌のように読めるのは、単にその確実さのためばかりでなく、その喜びのためでもある。これは雲雀の翼と喉を有している。それが網から神へといかに飛翔しているか見るがいい。――「私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された」。また、それは別の飛翔も行なう。――「わなは破られた」。そして、それはさらに高く、なおも大きな喜びをもって上っている。――「私たちは助け出された」。この言葉は、霊が完璧に死の罠から助け出されるにつれて、天の調べへと溶け込んでいる。

 この聖句で用いられている隠喩は単純だが、それでも美しく、教えに富んでいる。それをできる限り活用することを許してほしい。

 第一に、ここには鳥がいる。第二に、罠がある。第三に、捕獲がある。そして第四に、救出がある。それから、そのすべてによる1つの教訓をつけ足すことができよう。

 I. 第一に、ここでは魂が《一羽の鳥》にたとえられている。これは小鳥でもある。――雀、あるいは、雀の類の何らかの鳥である。「私たちは小鳥のように助け出された」。――網を破って自力で自由になれる大鳥のようにではない。小鳥は、心へりくだっている際の私たちの魂を実にうまく表わしている。新生していない状態にあるとき、私たちは自分を少なくとも鷲の子であると考えるが、結局私たちは巨大な生き物ではない。私たちは偉人について語る。だが私たちはみな神の御前では小人である。「主よ。人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは」*[詩8:4]。雀は、私たちの主の時代にはその小ささゆえに非常に安価であった。市場では二羽の雀を1アサリオンで買うことができたし、五羽を2アサリオンで買えた。つまり、2アサリオン出せば、おまけで一羽余計に買えたのである。雀は取るに足らないものであった。「しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」[マタ10:29; ルカ12:6]。もし神が雀のことも気にかけておられるとしたら、魂のことを気遣ってくださることは確実であると思うがいい。また、あなたが自分のことを最も軽く考えるときも、主はあなたを顧みてくださると信ずるがいい。

 また、私たちの魂が小鳥のようであるのは、それが無知だからである。鳥は罠についてほとんど何も知らないが、完全に無知ではない。それで、「鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなこと」[箴1:17]なのである。この薄弱な知恵でさえ、人々が披瀝しているものよりはましである。というのも、人は自分が見ているところで張られた網にさえ飛び込んでいくからである。左様。神の摂理によって、たったいま助け出されることを許された、まさに同じ網へと、再び飛び込んで行くのである。人は生まれながらに愚劣さをきわめている。また、絶望的なまでに自滅への道を辿りつつある。人は「世間を知る」必要がある、と云い、それゆえに、死の門のあたりをうろつく。彼は鳥捕る者を自分の友とみなし、相手がその網を張っているのは、友好的なもてなしのためだと夢見る。彼は、鳥捕る者が自分のいのちを狙っていることを知らず、機会がありさえすれば自分を滅ぼすだろうことを知らない。それほど私たちは愚かであり無知なのである。私たちは、主が知恵を教えてくださらない限り、たちまちおとりに引っかかる鳥のようなものであり、知恵を教えられてさえ、時々刻々守られていなければ、滅ぼす者の罠にかかってしまう。

 私たちの魂がしばしば小鳥のようであるのは、それがあまりにも気焦りし、向こう見ずだからである。冬の間は、パン屑をひとかけら餌に用いるだけで、いかに単純な仕掛けの罠の回りでも鳥たちが大胆にふるまうことか! 悲しいかな、人々はそれと同様に無鉄砲である。彼らは他の人々が滅びるのを見ていながら、その轍を踏んでしまう。多くの者たちは酔いの回る杯をすするが、自分は絶対に酔っ払いにならないと宣言する。小銭をくすねるが、泥棒を蔑む。みだらな言葉遣いにふけるが、雪のように貞節だと誓う。疑わしい娯楽の場に出入りするが、きよいままでいられると希望する。おゝ、愚かな鳥たち! すなわち、愚かな魂たち! このようにして鳥捕る者はその皮袋を一杯にするのである。若い人々は不敬虔な人々とつき合っては云う。「ぼくらは、彼らによって道を迷わされるほど弱い心をしてはいませんよ」。このように彼らは、こうした自慢たらしい口によって、弱い心を露呈するのである。青年たちは、懐疑的な書物や、不潔な小説本を読んでも、また、下卑た歌やきわどい言葉遣いを聞いても、自分たちには何の害もありませんよと告げる。こうした、人の心をくすぐるような偽りを信じてはならない。さもないと、あなたはその日を後悔することになるであろう。「年を重ねた鳥はもみ殻では捕えられない」、と間抜け者は云い、網の中に飛び乗る。「若い鳥はここに来てはならない」、と彼は云う。「彼らには危険だ。だが私は十分に安全なのさ」。だが、年を重ねた鳥たちの首は、若い鳥たちのそれと同じくらい締められる。そして、年季を重ねた人々は未成年者と同じくらい愚かである。人が、「それは私には何の誘惑でもありません」、と云うとき、それは真実かもしれない。というのも、煤が煙突掃除人を黒くすることはないからである。小鳥たちよ、用心するがいい。鳥捕る者は快楽を約束するが、その終わりは死である。

 また、いったん網にかかってしまった小鳥は、罪に捕われた魂の格好の例えである。それは無防備だからである。それに何ができるだろうか? 鼠は縄を噛み切って獅子を自由にするかもしれないが、いかなる鼠も雀を解放しはしないであろう。多少、はためきはするだろうが、それきり何も聞こえなくなる。人が悪徳という鳥もちで捕えられるとき、激しくはためけばそれだけ強固に捕われることになる。罪の網にかかった魂よりも無防備なものがあるだろうか? 人は自らの種々の習慣に対していかに僅かな力しか有していないように見えることか! 彼らは、自分がどこででもやめることができると豪語する。――だが、悲しいかな、彼らはどこでもやめない。「おゝ、私はただ決心をつけさえすれば良いのですよ」。しかり。「決心をつけさえすれば良い」。だが、その決心をあなたはつけることがないのである。人々が罪の編み目に巻き込まれると、彼らの逃げる力は失われてしまう。エレミヤはこう問う。――「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう」[エレ13:23]。これが、習慣に捕えられ、情欲の奴隷となるということである。

 彼らがこのように無防備である一方、私たちは、いかに彼らがしばしば恐怖しているにかも注目しなくてはならない。鳥は網にかかるや否や怯えきってしまう。可哀想にそれは、もし逃げることができたとしたら、何と喜んで逃げることであろう! 魂は常にそうなるとは限らない。彼らはサタンの罠に捕まるだろうが、自分たちは幸せだと云うのである。罪に慣れ切ってしまうと、罪をとがめる良心も死んでしまう。「短くも楽しき人生」、と彼らは云う。まるで真の楽しみが、かの大いなる御父の家以外のどこかにあるかのように。だが御父の家においてこそ人は、それまで一度も楽しんだことがないかのように楽しみを知り始めるのである。多くの魂には十分な良心と、みことばによる十分な光があるので、自分が罪に捕われていることに気づくと恐怖する。そして、ジタバタし、自分を傷つけはするが、悲しいかな! その一切の努力にもかかわらず、彼らよりも強い御手がその網を断ち切らない限り、鳥捕る者の手で滅びてしまうであろう。

 さらにまた、私たちの魂が鳥に似ているのは、それらが網の目的だからである。もしパリサイ人たちが改宗者をひとりつくるのに海と陸とを飛び回るとすれば[マタ23:15]、確かにサタンは魂を1つ滅ぼすためには全宇宙を飛び回るであろう。というのも、彼は人々の魂を滅ぼすことを喜んでいるからである。また、それはサタンだけではない。というのも、全世界はせっせとこの鳥猟に励んでいるかに思われるからである。そして、自分の同胞を救うためには指一本動かさないような人々も、彼らを滅ぼすためには大いに力を尽くす。おゝ、小鳥たちよ。地上において、あなたがたにとって安全な場所はただ1つ、あなたがたを覆う、イエスの守りのみつばさのもとだけである!

 II. 第二に私たちがこれから語りたいのは、《この罠》についてである。この聖句は罠について二度語っている。

 鳥用の罠の多種多様さには驚くべきものがある。エジプトの墳墓群は鳥追いの技術を展示し、おとりや、罠や、網や、そういった類のものを示している。罠の眼目は、それが隠されていることにある。それで、鳥捕りの親玉が人々の魂を求めてやって来る時には、彼らの見ているところで網を張りはしない。何羽かの愚かな鳥たちはそうしたしかたで捕まるかもしれないが、ほとんどの魂には、誘惑が覆い隠される必要がある。罪に誘惑されるときは、目で見える以上のものがあるのではないかと常に疑うがいい。決して、これは小さなことだと云ってはならない。というのも、大悪は小さな過誤の中にひそんでいるからである。死と滅びは、見るからにちっぽけな違反の下に隠れている。おゝ、もし私たちが神が見るようにあらゆることを見てとれるとしたら、私たち、あわれで愚かな魂たちははるかにずっと危険が少ないであろう! しかし、悲しいかな、サタンは心そそるような餌に鉤針を隠し、私たちは捕まるのである。

 罠や落とし穴は普通、魅力的なものである。愚かな鳥は自分の好物の種を見ると、それを食べに飛んで行く。短い楽しみと引き替えに自分のいのちを差し出すことになるなどほとんど考えもしない。サタンもそれと同じである。彼は私たちを快楽で誘惑する。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢[Iヨハ2:16]で誘惑する。私たちは甘いものを味わっては、苦痛で刺し貫かれる。私たちは、かの魂の大敵の意図を知っていたとしたら、罪から飛んで逃れるはずである。あなたは、あの古い言葉を知っているであろう。「ギリシヤ人を恐れよ、たとい贈り物を携えていようと」。全く同じように、罪への誘惑を恐れるがいい。それがあなたに世界のあらゆる王国を差し出していようと。願わくは神が私たちを、罠の隠された魅力的な事物から守ってくださるように。

 しかしサタンの罠は、鳥捕る者の罠のように、悲しいほど効果的である。市場で売り物に出されている小鳥たちの量を見るがいい。こうしたすべてを捕まえるとは、鳥捕る者たちはこの上もなく腕が冴えているに違いない。もし私たちがサタンの市場を歩くことができたとしたら、いかにおびただしい数の魂が彼の紐にくくりつけられているのを見ることか! 大群衆に次ぐ大群衆が、自らの情動の犠牲となり、悪を善に見せかける、かの地獄的な手練手管の犠牲となっている。願わくは神が私たちを、こうした最も使命的な罠に捕われることから救い出してくださるように!

 何がこうした罠だろうか? ここではそのすべてに言及することはできない。それらはレギオン(大勢)だからである。幾多の罠が私たちの寝床の中に入り込み、幾多の罠が私たちの食卓に伴っている。幾多の罠が町通りにあり、幾多の罠が野にある。幾多の罠が卓子の上にあり、幾多の罠が私たちの日常の歩みの中にある。しかし、それらの中でも主立っているのは、罪への数々の誘惑である。かの《悪い者》は、努めて私たちを邪道に導こうとしており、その道は私たちの性に合ったものであろう。私たちにはそれぞれ独特の弱みがあり、彼はそれに適応するしかたに通じている。彼は、かくも長年の間、人間性を研究してきたため、人が自分自身について知っているよりも多くのことを人について知っている。それゆえ、彼は、私たちを最も惹きつけるであろう餌を選ぶのである。おゝ、私たちが快い罪から遠く離れていられる恵みを有しているならどんなに良いことか! ラビたちは、葡萄酒も強い酒も飲むべきではないナジル人に対してこう云った。「ナジル人よ。向きを変えよ、向きを変えよ。そして葡萄畑を通り抜けないようにせよ」。それで、神の子どもよ。あなたも向きを変えて、誘惑に陥らないようにした方が良いであろう。あなたの《主人》はあなたにこう祈るよう命じておられる。「私たちを試みに会わせないで……ください」[マタ6:13]。誘惑に対しても私たちは、そこから生じる見込みのある罪に対してと同じくらい油断せず、祈っているべきである。

 別の罠は、誤った教理である。今の時代、それは世に蔓延している。警戒するがいい。あなたは、高い教理も、低い教理も、広い教理も、狭い教理も有することができる。あなた好みの教理を持つことができる。というのも、近頃はあらゆる人が自分なりの福音を作っては、神のことばを裁きにかけているからである。愛する方々。真理を堅く守り、過誤でおびき寄せられないようにするがいい。もし誰かが何か新しい福音を持ってやって来たとしたら、彼らの欺きの教えからあなたの耳を背けるがいい。というのも、偽りの教理は、蝮の毒であり、そこには地獄の毒液があるからである。

 キリスト者である人々でさえ、別の罠に陥る危険がある。すなわち、人を欺くような行動である。誘惑者は囁くであろう。「あなたが悪を行なう必要はありませんよ。ですが、善悪を判断するしかたにも色々あるのです。そして、最善なのは商売の慣習に基づいて行なうことですよ」。サタンは、私たちを滅ぼそうとしているときには、物事を薔薇色に描き出す。あなたは誰か他の人の金銭を預かっていますね。もちろん、あなたはそれを盗みはしないでしょう。ですが、それを少しの間だけ拝借して、後で埋め合わせることもできますよ。確かに、それがなくなってしまえば、人々はあなたを泥棒呼ばわりするでしょう。でも、あなたがそれをなくすようなことはありませんよ。あなたの才気を働かせて、それを二倍にするのですよ。これは罠である。別のときに、誘惑はこのような形を取る。――「好きなものがあるなら、絶対に買わない手はありません。その支払いをする金銭がなくとも関係ありません」。あなたは盗むことにはなりませんよ。なるもんですか。別のやり方があるのだす。それを買ってしまって、支払わないことにするのです。これは、サタンが人々をたぶらかしては、破滅に至らせる罠の1つである。あゝ、人々がこれほどその誠実さから動かされてしまうとは何たることか! おゝ、神の子どもよ。すべてのことにおいて廉直であるがいい! いかにある事がらをもっともらしく云い紛らわそうとも、また、いかに他の人々がその云い訳をしようとも、それでも、ある行動が神の御前で間違っているとしたら、あなたはそのことを考えてはならない。

 私は別の罠にも気づいている。サタンはキリスト者である人々に、他の人々の経験の猿真似をさせようと努める。一部の善良な人はしばしば憂鬱な質をしている。「あゝ」、とサタンは云う。「あれこそあなたがあるべきしかたですよ。あなたは聖なる悲しみでうなだれているべきですよ」。私は、まだ年若かった頃に聞いたひとりの説教者の話を今もありありと覚えている。彼は、私たちの救いについて確信するのは危険だと云ったのである。そして彼は、自分の状態について永遠に疑いをいだいていることが義務であり、美しく、甘やかななことだと高らかに説教したのである。何人かの人々は、こうした説教者の回りに集まったものである。そして、ちょっとした快適な悲惨さをみな自分で受けとっては、自分たちが神を礼拝しているものと考えていた。さて、これはキリスト者にとって1つの罠である。なぜなら、キリスト者には喜ぶべき権利があり、「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから」[ネヘ8:10 <新改訳聖書欄外訳>]である。願わくは私たちがこの罠から遠ざかっていられるように! その一方で、不安に駆られた人々が、恵みにおいて進んでいる、信仰に満ちたキリスト者たちを見て、大いに意気消沈しているという場合もある。そのとき、《悪い者》は囁くであろう。「あなたは、あの善良な人々のようではありませんね。あなたはキリスト者などではないのですよ」。兄弟よ。あなたは他の人の顔をつけることができないのと同じくらい、他の人の経験を自分のものとすることはできない。いくつかの麗しい羊歯は日陰で最も良く生長し、日光の下では決して生き生きと育たない。逆に多くの花々は、陽射しがあればあるほど良い。この人やあの人のようになりたいと思ってはならない。むしろ、イエス・キリストに似た者となるよう神に祈るがいい。そして、あなたの経験が主のほむべき御名の栄光を現わすものとなるように祈るがいい。さもないと、他人の真似をしたいという欲望が、あなたにとって1つの罠となるであろう。

 このようにして私は、いくらでも罠を言及していくことができるであろう。そのいくつかは俗悪で、肉的である。だが、霊的な者たとには、非常に整然とした、小綺麗な罠がいくつもあって、彼らは知らぬ間にそれに捕えられてしまう。プリニウスによると、エジプト人が小鳥を捕えるのに用いていた網はしばしば非常に繊細なもので、森全体を包み込めるほど大きな網をひとりの人が持てたという。確かに、それは小さな森だったに違いないが、それでも、これほど信頼の置ける著者が行なう言明としては尋常ならざるものである。私たちはここに、サタンが、より高雅な精神の持ち主たちを取り囲むため、いかに繊細な誘惑を用いるかという例示を見てとることができよう。鉄のように強く、だが薄紗のように薄いのが、霊的な人々用の罠である。何と、サタンは1つの教会全体をそうした網の1つで包み込むことができるし、あなたはそこに網があるこにほとんど気づきもしない。だがしかし、その編み目の内側にある精神は、以前のように高く上って彼らの主に歌を歌うことが全くできない。というのも、彼らは見えない網の内側にいるからである。

 III. 私たちはさらにこの網という主題について詳しく語ることもできるが、目を転じて《この捕獲》について考察しなくてはならない。鳥たちは網に取り込まれるが、魂は罪への誘惑により、教理の過誤により、他の一千もの手段によって捕えられる。愛する方々。あわれな小鳥が捕まるとき、それは恐ろしいことである。特に、それが逃れようと必死になってジタバタし、自由になろうとする努力で自らを傷つけるときにそうである。いかにして、それは捕えられることになったのだろうか?

 それが捕えられたのは、空腹のためかもしれない。なかば飢え死にしそうになっていたその鳥は、必要な食物のため危険に突進していったのである。多くの真実な人々は非常な苦境と困難にあるあまり、悲しいほど、それによって網に引き込まれがちである。愛する兄弟たち。神があなたを貧困からも、大きな富からも救い出してくださるよう祈るがいい。というのも、そうした立場のどちらにも危険な罠があるからである。願わくはあなたが高く上げられることも、落ち込まされることもないように。むしろ、経験の中道に保たれるように。もしあなたが極度に困窮しているとしたら、あなたは自分の妻や家族を養うために不正を行なうよう誘惑されかねない。私はあなたがその誘惑に決して屈さないように祈る。むしろ、神に信頼するがいい。そうすれば神は、あなたが手を不義に突っ込まなくとも、あなたを救出してくださるであろう。

 他の鳥たちは、単に自らの欲望によって捕えられる。彼らは過度に飢えているわけではないが、ある種のえり抜きの種が大好物で、鳥捕る者はそれを知っているのである。そこで彼はそうしたものを罠の回りに振りまいておく。からだの安逸、過度の道楽、賞賛される喜び、権力や地位の甘美さ、こうしたものを初めとする一切の事がらが、鳥捕る者の餌となっている。大勢の人々は、心が願って良いすべてのものを有しているが、何としても金持ちになろうとし、それゆえ、避けられたはずの一千もの罠に陥る。人々は飲食によって、上等な衣服によって、虚栄によるひけらかしによって罠にかかる。からだの種々の欲望、また、精神の種々の切望の周囲には、十重二十重の罠が分厚く張り巡らされている。

 ある人々が罠にかかるのは恐れのためである。鳥たちは危険を恐れて網に押し寄せる。多くの人々は、道徳的な勇気が欠けているため、神に大きく背く者となってきた。彼らは馬鹿者どもの笑いを恐れる。いわゆる賢者の皮肉な言葉に耐えられない。それで彼らは真理を押さえつけ、嘲りを避けるために罪に加わる。願わくは神が私たちに聖なる勇気を与え、自分が神に従っていると分かっているときには、いかなる人の意見をもものともしない者とさせてくださるように。

 ある種の小鳥たちが失われるのは、仲間を愛する心によってである。鳥捕る者はおとりの鳥を有していて、それが甘やかに鳴き声を立てるか、快いしかたでしなを作ると、他の鳥たちはそれに従わずにはいられなくなる。神の教会の中で、私たちは多くの会員たちを不敬虔な結婚によって失ってきた。世俗の子らがそのしゃれた調べをさえずると、未熟な心はそれにとらわれてしまう。この清らかな熱心家は、「私が彼を回心させます」、と云うが、そうしたことが起こるのは非常に、非常に、まれである。普通は逆になる。これは多くの人々が捕えられるサタンの罠である。

 このようにしてあなたは、いかに魂が捕獲されるかが分かる。ことによると、私がこの場で話をしている人々の中には、すでに網に飛び込んでしまった人がいるかもしれない。愛する方よ。あなたは何をすべきか分からない。というのも、あなたは自分の縛めを打ち破るには全く無力だからである。あなたは非常に熱心に向かって行った。そして、おゝ、できるものなら、いかに熱心に再び出て来たがっていることか! しかし、逃れることはできない。あなた自身の無力さは、今や、それまで一度もなかったほどに明々白々である。しかしながら、1つだけはあなたにもできることがある。あなたよりも強い《お方》に叫ぶことである。あなたは主があなたの足を網から掴み出してくださるよう祈ることができる。そして、主はそうすることがおできになる。というのも、どんなことでも神にはできる[マタ19:26]からである。

 IV. もう一言か二言、《この救出》について云いたい。これは非常にほむべき聖句である。ここまでの説教が陰鬱なものであったとしても関係ない。というのも、今や私たちは、鳥捕る者が失望させられ、とりこが解き放たれるのを見るからである。

 私が願うのは、この場にいるあらゆる人が、この言葉を繰り返して、私の魂は助け出された、と叫ぶことである。私たちは網の中にいたが、私たちの魂は逃れ出た。罠は破られた。それはもはや私たちに何の力も及ぼしていない。私たちはその把握から自由であり、逃れ出ている。高く、高く私たちは舞い上がる。鳥捕る者とその網から離れて飛翔する。神に栄光あれ、私たちは逃れ出たのだ。

   「鳥捕る者の わなは破れて
    鳥は逃れぬ、つばさを張りて。
    わが魂(たま)サタンの くびきを脱(はな)れ
    喜び舞いて、高みで歌わん」。

この脱出は、神おひとりのおかげである。鳥が罠から逃れ出ることができなかったように、魂は誘惑から脱出できない。だが神はそれを連れ出すことができ、救出を行なってくださる。このことを聞くがいい。あなたがた、酩酊の奴隷となっている人たち。神はあなたを解放することがおできになる。あなたがた、放蕩に陥っている人たち。これを聞くがいい。――神はあなたを解放することがおできになる。いかなる罪の鳥もちがあなたを捕えていようと、かつて十字架に釘づけられた、かの恵み深い御手はあなたを自由にできる。見上げよ、見上げよ、見上げよ。あなたがた、絶望の淵で嘆き暮らしている人たち! イエスはあなたを解放することがおできになる。世界を無から造られたお方は、あなたからさえ喜びに満ちたキリスト者をお造りになることがおできになる。この方はあなたの悲嘆を踊りに、あなたの絶望を確信に変えることがおできになる。

 この救出は力によって成し遂げられる。「破られ」という言葉の中には力がある。「わなは破られ」。――その編み目は力強い御手で引き裂かれ、鋼鉄の罠は粉砕された。あなたがいかなる危険の中にいようと関係ない。神のうちには、そこからあなたを連れ出せるだけの力がある。私はかつて、神も決して私を救うことはできまいと考えていた。私は思った。神は私の弟や妹たちなら祝福なさるだろうが、私のことは捨てるだろう、と。だが、神は私を救ってくださった。御名はほむべきかな! そして、あなたをも、神は助け出すことがおできになる。「おゝ、ですが私は風変わりな人間なのです」、とあなたは叫ぶであろう。ならば、ここには私たち二人がいることになる。そして、もし神が風変わりな人間をひとりお救いになったとしたら、確かにもうひとり救うこともおできになるであろう。では、なぜ神は、あなたの奇矯さにもかかわらず、あなたをお救いにならないことがあろうか? 「ですが、私は神が私をお救いになるとは考えられません」。あなたの考えになど何の価値があるだろうか? 神はあなたをさえ救うことがおできになる。ただ神に信頼するがいい。あなたが網の中にいるとしても。そして、その網の中からあなたは、連れ出されるであろう。というのも、神はご自分に信頼を置くいかなる魂も滅びるにまかせなさらないからである。

 この救助が完全であったことに注意するがいい。「わなは破られ、私たちは助け出された」。ある小鳥の足にくっついているのが、いかに小さな木綿糸であっても、それがどこかにしっかり結びつけられているとしたら、その鳥は逃れていないのである。そして、あなたに1つ悪習慣がある限り、――あなたが本当に愛している悪が1つある限り、――あなたはすっかり逃れ出てはいない。あなたは自分のもろもろの罪からすっぱり切り離されなくてはならない。いかなる人も罪と離婚するまでは、キリストと結婚することはできない。主イエス・キリストが、そのほむべき御霊によってそうなさるのでなければ、誰が私たちにこのことを与えることができるだろうか? キリストがあなた自由にすると信頼するがいい。そうすれば、いかなる網もあなたをつかまえてはおくまい。 私はこの質問をも発するであろう。「私たちの中に、私たちは逃げ出しました、と云える者が何人いるだろうか?」 云えるとしたら、主に向かって歌おうではないか。また、自分は自由であると云えない人たちは、神に熱心に嘆願し続けるがいい。神が自分たちを解放してくださるようにと。

 V. 私はしめくくりに、この主題が私たちに教えるはずの《教訓》を示したい。一言か二言だけである。

 それは第一に、私たちに歌うことを教えるべきである。というのも、もしある鳥が網から抜け出るとしたら、それは歌わないだろうか? いったんそれが飛び去るときには、いかに喜ばしげに見えることか! おゝ、あなたがた、罪とサタンから解放された人たち。主に向かって歌うがいい! その御名を賛美し、ほめたたえるがいい。可能な限り幸福になるがいい。幸福に満ちあふれた者以上の何かになるがいい。いかにすれば、そうなれるだろうか? 何と、それで一杯になるあまり、それがあふれ出し、他の人々を元気づかせるほどになることである。私たちの喜びを、私たちにできる限り遠くまで伝えようではないか。というのも、私たちは助け出されたからである。私たちは助け出された。では、この罠を破られたほむべき神をほめたたえるであろう。

 次に、私たちは信頼しよう。というのも、もし主が私たちを、罪とサタンの恐ろしい罠から救ってくださったとしたら、神は私たちを他のあらゆるものから救い出されるであろう。私にとって悲しく思われるのは、誰かがその魂を主にゆだねていながら、自分たちの日々の糧や、日々の試練における助けのためには主に信頼できないということである。そうしたことがあってはならない。もし主が私たちの魂に、これほど大きな救出を与えておられるとしたら、信頼するがいい。主が私たちのからだをも気遣ってくださるだろうと。私たちにイエスを与えたお方は、食物と衣服を私たちに与えてくださるであろう。では、それによって私たちは満足しようではないか。

 最後に、見張っていよう。もし私たちがいったん罠に陥ったなら、そこに二度と赴かないように目を開き続けていよう。願わくは聖霊が神のいかなる子どもをも、一瞬たりともこの真っ直ぐな道から脇へそれないようにしてくださるように。「彼らを再び愚かさには戻されない」[詩85:8]は、神の民に対する神ご自身の警告の1つである。神はあなたを、滅びの穴から引き上げてくださった。その縁の近くで遊んではならない。主は、あなたの足を巌の上に置かれた。あなたが泥沼と何の関わりがあるだろうか? その滑りやすい地から逃れて、巌の上であなたの歩みを確かにするがいい[詩40:2]。

 もう一度あなたがた、網で捕えられた人たちに云いたい。――あなたがた、その罠に本当に捕まっている、そして、堅く握られている人たち。おゝ、主はすぐさまやって来られ、あなたを自由にしてくださる! 主はそうされると思う。しかり。私の確信するところ、もしあなたが主にそうしてくださるよう叫ぶなら、そうしてくださるに違いない。私はひとりの水夫のことを聞いたことがある。彼は牢屋に入っていたが、釈放されたときには、そのかくしに金銭を有していた。さてロンドン橋を渡っているとき、彼はひとりの男が鳥を売っているのを見た。――鶫擬、雲雀、などである。「それ全部でいくらだい?」、と水夫は聞いた。私はそれがいくらだったか忘れてしまったが、水夫はその金銭を見つけた。そして、その鳥たちが自分のものになるや否や、扉を開けて、そのすべてをみな飛び去らせた。男は大声で云った。「オイオイ、何のために鳥を買ったんだい、逃がしちまうなんて」。「おゝ」、と船員は云った。「あんたがおいらみたいに牢屋の中にいたとしたら、あんただってきっと、自分の手に入れられるものを何でも自由にしてやるに決まってらあな」。あなたや私は同じ種類の感情を、あらゆるあわれな束縛された魂に対して明らかに示すはずである。確かに、主イエス・キリストは私たちよりもずっと優しい御心をしておられるに違いない。それゆえ、主は確実にやって来られ、籠の戸を開いてくださるよう乞い求めるあらゆる囚人を自由にしてくださるであろう。主は大いなる《解放者》であられる。主にあなたの縛めを見せて、自由を乞い求めるがいい。そうすれば、主はそれをあなたに授けてくださるであろう。

 

罠から助け出された鳥[了]

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