HOME | TOP | 目次

みなしごの父

NO. 1695

----

----

木曜日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。――ホセ14:3 <口語訳>


 イスラエルの神である主、唯一の生けるまことの神は、このことをご自分の性格の1つの特別なしるしとしておられる。すなわち、みなしごがご自分によってあわれみを得るということである。「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神」[詩68:5]。異教徒の偽りの神々が通常、名を馳せているのは、その想像上の力や狡猾さ、あるいは、その邪悪さ、虚偽、好色さ、残虐さによってである。だが、天をお造りになった私たちの神は《いと聖なる方》であられる。私たちの神は聖なる神であり、愛に満ちてもおられる。実際、それは神の御名であり、ご性格であるばかりでなく、その本質にほかならない。というのも、「神は愛だからです」[Iヨハ4:8]。そして、神の愛を明らかに表わす種々の行為の中にこのことはある。――神はすべてのしいたげられている者たちのために、正義とさばきを行なわれ[詩103:6]、特にやもめとみなしごといった、寄る辺ない者たちをみつばさのかげにかくまわれるのである。

 聖書との関連でこの主題を調べてみれば、これが非常に際立っていることが分かる。私たちは、このことを律法の賦与の直後に見てとる。律法は出エジプト記20章に記されている。そして同書の22章には、律法のすぐ後に続いて、みなしごに関する神のことばが記されている。エホバのことばに耳を傾けるがいい。それは強烈で力強い。その響きには雷鳴が伴っている。「すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。わたしの怒りは燃え上がり、わたしは剣をもってあなたがたを殺す。あなたがたの妻はやもめとなり、あなたがたの子どもはみなしごとなる」[出22:22-24]。これはシナイの上で十の戒めを語られたあのエホバの言葉なのである。私たちの神の御心がいかにやもめとみなしごの訴えのそば近くにあるか見てみるがいい。

 主は申命記でもう一度律法をお与えになった。その書の10章17節に目を向けるなら、このような掟を見いだすであろう。――「あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる」。この2つの強力で驚くべき証拠は、この事実を明らかに示している。みなしごの訴えは神の御心の近くにあるのである。

 彼らのために数々の律法が制定され、それ以外の律法の中には十分の一税の規定がなされた。私は什一税の天来の権利に関する驚くべき言明をいくつか読んだことがある。ある人々の頭の中には、このことが確固と定まっているらしい。すなわち、神が什一税をレビ人に与えられた以上、当然神は、国教会の教役者たちにもそれを与えておられるに違いないというのである。私には成り立つとは思われない推論である。それと同じくらい即座に私は、神がそれをバプテスト派の教役者たちに与えておられるとの推論を引き出すこともできよう。確かにそれは、彼らの意見以上に非論理的なことにはなるまい。私たちが祭司である、あるいは、レビ人であって、強制的に徴収した什一税を配当されるべきだとの考えは、あまりにも忌まわしいものであって一瞬も心にいだくことはできない。しかし私は、什一税の天来の権利についてはしばしば言明されたり論じられたりするのを見かけるが、その什一税が、律法の経綸の下で神が特に取り分けられた人々に与えられるべきだと主張されるのを一度も聞いたことがない。さて、聖書に目を向けるなら、あなたはこのことを見いだすであろう。地のあらゆる産物の十分の一は、レビ人と、在留異国人と、やもめおよびみなしごに与えられるべきだったのである。そして、十分の一がしかるべく配分されるというとき、そこに何らかの天来の権利が少しでもあるとしたら、それがやもめとみなしごに与えられることは確実きわまりないことであろう。私たちは、レビ人が姿を現わす時には、それが部分的には彼に与えられることに同意すべきだが、現在は誰がレビ人であるか分からないので、彼の分は、彼が現われるまで一時中止して良い。しかし、やもめとみなしごは、今なお地上の私たちの間におり、貧しい者が国のうちから絶えることはないであろう[申15:11]。そして、什一税の規定がレビ部族のためのものであったのと同じくらい彼らのためのものであった以上、彼らには彼らの取り分を与えようではないか。レビ部族には、いくつかの権利があった。他の部族にはそれぞれの割り当て分があったのに、この部族には何の相続地もなかったからである。それゆえ彼らは什一税の一部と、いくつかの住むべき町々を受けることで、その取り分を引き出したのである。申命記14:29を読んでみるがいい。――「あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである」。私は、国教会の聖職者たちが自分たちの地上的な相続地を、非国教会の教役者たち以上に放棄したなどと聞いたことはないし、それゆえ、彼らがレビ人と同じ資格を有しているとは思えない。だが私には、やもめとみなしごの権利がはっきり見てとれる。それで私は祈るものである。もし誰かが権利を有しているとしたら、疑いもなく彼らこそその持ち主であるところのものに彼らがあずかることになる日が到来することを。

 やもめとみなしごについては、もう1つの規定がなされている。――すなわち、人々が収穫を取り入れたときに、麦を一束置き忘れてきたとしたら、決してそれを取りに戻るべきではなかった。むしろそのままにしておき、やもめとみなしごのためのものとすべきであった。「あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである」[申24:19]。麦の取り入れをする際には、畑は隅々まで熊手でかき集められることなく、落ちたものはやもめとみなしごとのために残された。それは明確に命令されていた。彼らが葡萄を取り入れるとき、決して二度は取り集めるべきではなく、その房をやもめとみなしごのために残して熟させるべきであった。「あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない」[申24:20]。エホバがイスラエルの王であられたときには、天来の支配において忘れられていた者は誰ひとりいなかった。だが、この2つの階級には絶えず特別の注意が払われていた。――やもめとみなしご、そして、たまたまイスラエルの門内にいた貧しい異国人たちである。「あなたは在留異国人に親切にしてやらなくてはならない」、と主は云われた。「なぜなら、あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである」*[出23:9]。私は特にこのことにあなたの注意を引き、聖書を調べ、見てみるように願いたいと思う。いかに神が何度となくご自分の民に向かって、やもめとみなしごを気遣うよう要求しておられるかを。かの、神が受け入れておられた廉直な人ヨブは、やもめとみなしごを忘れていたとの非難が自分には当たらないと主張した。そして、あなたも知っている通り、新約聖書の下にはこう書かれているのである。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」[ヤコ1:27]。

 ならば、このことは確立されているのである。神は、イスラエルの神としてさえ、みなしごにあわれみを得させるお方なのである。私たちも彼らのことを気遣おうではないか。「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」[エペ5:1]。

 しかしながら、これが今回の私の主題ではない。私はあなたが自分自身、天来の愛の対象となるために、孤児として神のもとに行き、あなた自身を神の守りの下に置いてほしいと思う。それはあなたが、みなしごのように、神の御手の下であわれみを得るためである。もし私たち自身が心に悲しみを覚え、霊に悩みを覚え、必要に窮しており、欠乏と試練に満たされているとしても、神のもとに来るよう励ましを受けようではないか。なぜなら、神によってみなしごはあわれみを得るからである。

 第一に、ここには励ましがある。第二に、ここには何をなすべきかに関する励ましがある。そして第三に、ここには何を期待すべきかに関する励ましがある。

 I. 第一に、ここには《励まし》がある。ここには励ましがある。困窮する者たちのほか誰も見つけ出さないようなものであっても関係ない。注意すると分かるように、「みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」、と云った人々は、自らの不義によって堕落していた人々であり、こう云って主に立ち返るよう命じられている人々であった。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください 」[ホセ14:2]。彼らは、あらゆる自己信頼を放棄し、こう叫んだ人々であった。「アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません」[ホセ14:3]。彼らは、神の聖霊の取り扱いを受けることによって、自分たちの高慢をはぎ取られ、自分たちの咎を自覚させられた。そのときこそ、彼らはこの尊い事実を見つけ出したのである。すなわち、みなしごがあわれみを得るのは神によってなのである。ダビデが歌った、神の御恵みとあわれみに関する歌の中でも何よりすぐれているのは、彼が自分の大きな罪について嘆いた際に歌った詩篇51篇であった。心の打ち砕かれた罪人は、一種の本能によって、神のご性格の中の柔らかい点を発見してきた。自分に満足し、自分の状態についての真理を一度も知らされたことがない不敬虔な人は、しばしば神を厳酷な人になぞらえ、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるお方だとする[マタ25:24]。だが、いったんそうした人々が自分の咎を知り、それを嘆くや、目を見開いて神を仰ぎ見、神のうちにあわれみを見つけ出す。そして、その人こそ、神によってみなしごがあわれみを得るのを喜ぶ人である。これは彼にとって希望の泉となる。

 この場には、誰か罪に打たれている罪人がいるだろうか? あなたは意気消沈し、絶望に駆られているだろうか? この場に来たときには、自分になど何のあわれみもあるはずないと感じていただろうか? このことばにすがるがいい。「みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。神はあわれみ深い神であられ、優しく、親切で、思いやり深い。明らかに神は、無力で、望みなき者たちに気を配ってくださる。神は、他の者たちから見捨てられた者たちの保護者であられる。友なきやもめたち、庇護者なきみなしごたち――こうした者らを神は気遣われる。あなたも、神があなたを気遣ってくださると希望して良いではないだろうか? あなたは、あなたの罪の深みと、心の打ち砕かれた状態との中で神のもとに行き、こう云って良いではないだろうか? 「おゝ、主よ。私はあなたが友なき者の《友》であられると聞きました。私にとって《友》となってください」。あなたの御父の家には、やもめのための蝋燭が灯されているかのようである。それが暗闇の中であなたを家へと導くのである。願わくは神があなたを助けて、それを見させてくださるように。だが、私は知っている。あなたが目に涙を浮かべていない限り、それを見ようとはしないことを。というのも、困窮した者以外に誰もこの恵み深い真理を悟らないからである。

 さらにこの励ましは、他の一切の信頼を投げ捨てるよう強く誘いかけるものである。もし神がみなしごの《友》であるとしたら、神は私にとって《友》となることがありえよう。私は神を信頼して、これまで頼みとしていた他の物事とに信頼するのをやめるのが良いではないではないだろうか? 見ての通り、この聖句にはこう書かれている。「アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず」。これらは彼らの大きな頼みの綱であり信頼の的であった。それから彼らは続けてこう云う。――私たちは偽りの神々も拝みません。というのも、私たちはまことの神が親切であられること、みなしごである者たちに親切であられることを見てとることができるからである。それゆえ、私たちは神のもとに来て信頼して良いのである。ある人がちょっとした希望をいだくとき、その人は自分に向かってこう云う。「私は、あえて主を仰ぎ見ることさえしてみよう」。あの遠い国にいた放蕩息子は自分の生活費をことごとく費やしてしまっていた。何が彼を連れ戻したのだろうか? 何と、それはこの思いであった。――「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか!」[ルカ15:17] これによって彼は実家に戻る決心をしたのである。私は悪魔が何をするか承知している。彼は、あなたのためには何のあわれみもないと告げるであろう。彼は昔から偽りを云う者である。最大の罪人のためにも大きなあわれみがある。それについて悪魔が何を知っているだろうか? 彼はあわれみを求めたことなど一度もなく、いかなるあわれみを受けたことも決してなく、いかなるあわれみを受けることも決してない。というのも、彼は決してそれを求めないだろうからである。だが、あわれな魂よ。あなたの御父の家には、あなたのために、いくらでもパンがあり余っている。では、なぜあなたは飢え死にするのか? 立って、あなたの御父のところに行ってはどうだろうか? もし神がみなしごの《父》であられるなら、このことからして私たちは御父のもとに急ぎ、御父のうちに休らぐよう誘われるであろう。「私もイエス・キリストに信頼してかまわないのでしょうか?」、とあなたは云うであろう。「私も?」 もちろん、そうしてかまわない。そうしないのはあなたの罪であり、実際、あなたの最も大きな、また、最も破滅的な罪である。あなたがたの中の多くの人々はあなたの聖礼典や、あなたの祭司たち、あるいは、あなたの善行やあなたの祈り、あるいは、あなた自身の感情に信頼している。なぜなら、キリストに信頼することに差し障りがあると考えているからである。しかし、差し障りなどない! みなしごを、そのほむべき翼の下にかかえてくださるお方は、あなたをも、ご自分のもとに来るよう招いておられる。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。もしこの方がはねつけた人がひとりでもいたとしたら、あなたをもはねつけるかもしれない。しかし、みなしごがあわれみを得るのがこの方によってである以上、また、この方のもとに行くすべての者が、この方のうちにあわれみを見いだす以上、さあ早くやって来て、すぐさま、このあわれみ深いお方に信頼するがいい。

 さらに、本日の聖句には大きな励ましがある。なぜなら、それによって私たちは神の御心の中をはっきりとのぞき込まされるからである。私は常に、いかにある人が子どもたちを扱うかを見るのを好む。あなたは、それを見るとき人について大いに学ぶことができる。ある人々は子どもたちを忌み嫌い、ほとんど子どもたちを根絶させることができれば良いのにと願うほどである。みなしごの子どもたちについて、彼らは云う。「あいつらを救貧院に送り込むがいい。そうしたら、奴らに悩まされることもなくなるさ」。だが、優しい心をした人は、決して困っている幼子を見て、この上もない憐憫を感じないことがない。私は、苦しんでいる子どものことを、いかなる男や女よりもずっと可哀想に感じる。成人には、ある程度まで自分を助ける力がある。だが、家の中に貧困があるとき、小さな者はやせ衰えても救済を受けられない。この大都市の中の幼い少年少女たちは、彼らの両親の家が――しばしば飲酒その他の罪によって引き起こされた――貧困によって荒廃させられるとき、大いに苦しめられる。父親が死ぬときの、幼子たちの苦しみを誰が知ろうか? 告白するが、私は、小さな子どもたちがそのように苦しんでいることに心が締めつけられる思いがする。人々がよこしまであるとき、彼らの罪の後を貧困が追って来ることには、ほとんど感謝できる。それが彼らを鞭打ってその罪をやめさせるからである。だが、この子羊たちが何をしたというのだろうか? 優しい心ならみなそう感ずる。これは、神の御心を私たちにじっと眺めさせる素晴らしい聖句ではないだろうか? 「みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。大いなる神よ、熾天使はあなたを賞賛しています。御使いたちは、日夜、密集した隊伍をなして、あなたの命ずることを何なりと行なおうと待ち受けています。あなたの御声は雷鳴であり、あなたの御目の一瞥は稲妻です。あなたの命令によって王たちは死に、王朝は衰え、帝国は拭い去られますが、しかしあなたは、幼子ややもめたちを気遣われます。これは私にとって非常に美しいことである。わたしは、それゆえに神をなおさら良く信頼し、自分の日々の重荷と、日々の思い煩いを――左様。そして私たちのもろもろの罪を――かかえてみもとに行けるかのような気がするし、神が私を拒絶されることはないだろうと確実に感じる。これはイエスの御父なのである。私はそれを確信している。おゝ、いかに御子は御父に似ておられることか。というのも、もし御父がこのように子どもたちの《保護者》であられるとしたら、あなたがたは御子がこう云われたとき、御子について、また、御子がその御父に似ておられることについて、どう考えるだろうか? 「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」[マコ10:14]。神の御心がこのように、この聖句のほむべき言明の中で露わにされているのを見るとき、これは、あなたを励まさないだろうか? 「みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。

 そこには、このような励ましもある。私たちの思い煩いは、やもめとみなしごのそれのようなものだということである。孤児には何の父も、何の助け手も、何の生計の手段もない。そして、話をお聞きのあなたは、神を抜きにしては、そのような状態にある。神がおられなければ、あなたにはひとりも父親がいない。もし信頼すべき神がおられなければ、あなたにはひとりも庇護者がなく、あなたは一巻の終わりである。もし神があなたの光でなければ、あなたには何の光もなく、もしキリストがあなたの希望でなければ、何の希望もない。あなたはそれを感じているだろうか? よろしい。ならば、あなたは孤児である。みなしごの者である。さあ来るがいい。イエスはこう云われたからである。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」[ヨハ14:18]。主のもとに行き、孤児の《父》の御顔をのぞき込み、こう云うがいい。私は、あなたのおことばを申し立てます。「みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。主よ。私があわれみを得るようにしてください。というのも、私の状況はみなしごたちのそれと平行しているからです。

 もしこの場に励まされることを欲している心があるとしたら、それは私の意味するところを明快に示すであろう。しかし、もしあなたにそれが必要ないとしたら、あなたがたの中のある人々はそれを必要としない。というのも、あなたは立派なお歴々であって、あなた自身の義に満ちているからである。ならば、私はあなたに、このこと以外に何も云うことはない。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。キリストは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」*[マコ2:17]。

 II. 第二に、この場にいるすべての貧しく、困窮した罪人には、《何をすべきかについての励まし》がある。

 最初に、もし今晩あなたが救いを見いだしたいと欲しているとしたら、この聖句を一種の霊的な案内書として手に取り、あなたの必要を申し立てるがいい。あなたは、自分の功績について何か云うだろうか? それについては語ることが少なければ少ないほど良い。あなたの立場は、人物証明書を求められたときにこう云ったアイルランド人の召使いに似ている。すなわち、前の勤め先の主人は、人物証明書など持たせない方が、お前のためだろうと云ったというのである。あなたの場合も、まさにそれと同じである。ただ、あなたは、あなたの人物証明書を求められても、せいぜいこのようにしか云えないというだけのことである。「私の人物証明書は考えられる限り最悪のものです」、と。そして、そのとき、あわれみを求めるがいい。「主よ」、とこの聖句は云っている。「みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。これは、みなしごが善良で聖いとは云っておらず、単に、彼らがみなしごだと云うのである。それは、彼らが報酬を得るとは云っておらず、あわれみを得ると云っているのである。主よ。それだけが私があなたに申し上げなくてはならないことです。私には必要があります。――すさまじい必要があります。そして、私はこのような罪人ですから、私の必要はいやが上にもはなはだいものとなっています。というのも、そこに私の必要は存しているからです。私には義が必要です。新しい心が必要です。ゆるがない霊が必要です。完全に一新されることが必要です。すべてが必要です。というのも、私には罪と悲惨しかないからです。おゝ、主よ。私はただ、あなたがみなしごをお助けになることだけを訴えます。ただ単に、彼らが困窮しているがゆえに。私はあなたに祈ります。私の人格とは無関係に私をお救いください。私の必要は大きいのですから。

 あなたのための次の教訓はこのことである。この取っ手によってこの聖句をつかみ、あわれみを求めるがいい。「みなしごはあなたによって」――何を得るだろうか? あわれみを得るのである。あわれみこそ、この聖句の取っ手である。あなたが神のもとに行くときには、正義ではなくあわれみを求めるがいい。ひとりの母親が、あるとき皇帝ナポレオンのもとに行き、自分の息子のためにあわれみを求めた。その子はフランスの国法に触れることを何か行なっていたのである。それで皇帝は答えた。「奥さん。この少年が違反を起こしたのはこれで二度目ですよ。正義は彼が死ぬことを要求しています」。彼女は答えた。「陛下。私がここに参りましたのは正義を求めるためではなく、あわれみを求めるためでございます。どうぞ、あわれみをお与えくださいまし」。彼は答えた。「あの子はあわれみを受けるに値しませんよ」。「陛下」、と彼女は云った。「もしあの子に値があったとしたら、それはあわれみではありませんでしょう。私はあわれみを求めているのです」。彼女が事をそのように云い表わしたとき、皇帝は応じた。「よろしい。ならば、私はあわれもう」。話をお聞きの、まだ救われていない方々。あなたは今晩、地獄の中にいるに値している。あなたが滅び失せなかったのは、主のあわれみゆえである[哀3:22]。正義を求めようなどと夢見てはならない。というのも、正義はあなたの破滅となるだろうからである。むしろ、この言葉をつかむがいい。「主よ。私をあわれんでください」。そして、もし何かが、「何と、お前はかたくなな罪人ではないか」、と囁くとしたら、云うがいい。「主よ。それは本当です。ですが、主よ。私をあわれんでください」。「しかし、お前はこれまで信仰後退者だったではないか」。答えるがいい。「主よ。私はそうした者でした。ですが、そのことゆえに私をあわれんでください」。「しかし、お前は恵みに逆らい、拒絶してきたではないか」。「主よ。それは本当です。ですが、私はそのことゆえに一層あわれみが必要なのです」。「しかし、お前の中には赦しが得られる理由が何1つないではないか」。云うがいい。「主よ。それが全くないことは承知しております。だからこそ私はあわれみをお求めするのです。私は、それを唯一の理由として云うのです。私のうちに、あなたのあわれみをお示しくださるよう、切に乞い願います」。これが懇願のしかたである。ここからそれないように注意するがいい。それが真っ直ぐな道である。あなたはそのようにして天国に着くであろう。というのも、あなたはそのようにしてキリストに達するからである。キリストのあわれみは永遠になくならない。「みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。

 別の教訓を学ぶがいい。あなたがた、神との平和を今すぐに得たいと欲している人たち。そして、私はあなたがたの中のある人々がそうなってほしいと希望している。あなたの罪、試練、悲しみを神に投げかけるがいい。この聖句は云う。「みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。それで、みなしごである者たちの務めは、神のもとに行き、ただ神にあわれみを仰ぐことだけである。そして、それがあなたの努めである。私はあなたに命ずる。他のいかなる者をも仰がず、ただ神だけに助けを仰ぐがいい。人々が祭司に頼るのは罠であり、それも、身の毛もよだつような罠である。そして、それに加えて私は云うが、教役者たちを頼りとすることや、他のいかなる人間を頼りにすることもそうである。私の知っているある人々は、ある講話を聞いて、それに感銘を受けると、こう云う。「おゝ、私は求道者室でキリストを見いだすことができるに違いない!」 その求道者室は、あなたがそのように語るとしたら、あなたにとって罠になりかねない。あなたは、あなたに向かって説教した人と語りたいのではないだろうか。彼と語ってはならない。直接イエスのもとに行くがいい。「しかし、私は先日私と話をしてくれたあの善良な人のお目にかかりたいのです」。よろしい。いずれそうすることも良いだろう。だが、その善良な人、あるいは、その善良な婦人をイエスの位置に置かないよう注意するがいい。この聖句は云う。「みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。そして、キリストによってこそ、キリストによってのみ、そのあわれみは得られるのである。直接に、また、明確にキリストのもとに行くがいい。そうすれば、キリストの御霊の助けによって、あなたは会衆席に着いている間にあわれみを得られよう。神はどこにでもおられる。あなたの霊に、神が臨在しておられることを意識させ、それから今、あなたの心を神に語りかけさせるがいい。神にあなたの罪を告白するがいい。その塵芥を定命の人間の耳に注いではならない。神に向かってあなたの心をむき出しにするがいい。神に対してだけそうするがいい。それは、人間にはふさわしい眺めではない。主イエスにあなたのあらゆる必要と災厄を告げるがいい。そうすれば、主はあなたをお助けになるであろう。というのも、人々の子らは神の御子によって助けを得るからである。おゝ、私がこうした事がらをいかに話すべきか分かっていればどんなに良いことか。だが、これらは確かに霊的必要の中にある人々の心には深く突き入ることであろう! あなたがた、必要を覚えていない人たち。あなたがた、善人である人たち。あなたがた、自分を義とする人たち。あなたがたはこの聖句の中に自分のためのものを何1つ見いださないであろう。しかり。そして、そこにそうしたものがあるはずもない。というのも、主はご自分の民をみもとにお引き寄せになるのであり、そうした人々はこのことによって知られるからである。――彼らは自分に嫌気が差している。

 神の選ばれた民は、弱者の生まれつきの芸を発揮する。すなわち、すがりつくことである。彼らは自分の貧しさ、自分の必要を感じさせられており、それでキリストの満ち満ちた豊かさについて聞くと大急ぎでキリストをつかむ。あなたは一度も注目したことがないだろうか? 神によって弱いものに造られた植物たちがみな、いかに何かにすがりつく機能を自然に賦与されているかを。葡萄が真っ先にすることの1つは、その巻きひげを伸ばして、何かにしがみつこうとすることである。唐花草、忍冬、麝香豌豆、これらはみな支えをすぐにつかもうとする小さな手指を備えている。さて、もし神が今のこの時に祝福しようとしておられるとしたら、あなには小さな巻きひげがあって、それは何かつかむものを探して伸ばされつつあるであろう。そして、園丁が注意深く彼の棒を麝香豌豆のために立ててやったり、農夫が彼の竿を唐花草のために立ててやったりするように、私は本日の聖句をあなたの道の途上に立てようと努めてきたのである。私はほむべき主をあなたの前に立たせて、こう云いたい。みなしごはこの方によって、あわれみを得るのだ、この方にすがりつくがいい、この方にすがりつくがいい、と。そうすることは、あなたのいのちなのである。堅くしがみつくがいい。海辺の笠貝はほとんど何もできないが、しがみつくことはできるので、それはしがみつく。しかも非常に強くそうする。それは、あわれな罪人よ。あなたにできる1つのことである。そして私は聖霊があなたを導き、今すぐにそうさせてくださるよう祈る。神があなたを今この瞬間に助けてキリストにしがみつかせてくださるように。そして、もしあなたそうするなら、あなたは救われるのである。しかり、即座に救われるのである。みなしごはキリストによって、あわれみを得る。キリストにしがみつくがいい。そうすれば、あなたもあわれみを得るであろう。

 III. さて最後に、ここには《神から何を期待すべきかに関する励まし》がある。「みなしごはあなたによって、あわれみを得るでしょう」。

 私たちが、みなしごたちに対して神の立場にあり、彼らを私たちの《孤児院》に連れて行き、彼らに対して父親のようになろうと努めるとき、彼らは私たちに何を期待するだろうか? よろしい。私はごく幼少の子たちに、自分たちが期待すべきことをみな知るだけの知性があるかどうはか分からないが、彼らはすべてを期待する。彼らは自分の欲するすべてを期待し、確かに自分が何を欲しているか完全には分からなくとも、彼らはそれを私たちにゆだねる。彼らは、自分の必要とするすべてが見いだされると信ずる。私は次のようなあわれなキリスト者を好んでいる。それは、自分に何が必要か完全には分かっていなくとも、自分の神が自分の必要のすべてを満たしてくださると知っているキリスト者である。その人はすべてについてイエスに信頼している。子どもとして、天におられる自分の御父に信頼している。その人は、きょう自分が何を必要とするか、知られざる将来に何を必要とするか分からない。だが、そのとき、その人の天におられる御父はそれを知っておられ、その人はそのすべてを御父にゆだねる。しかしながら、私たちの孤児の少年たちが大きくなっていくと、彼らは自分の必要とするものを悟り始め、自分の父親が供してくれたはずの一切を得られると、また、ことによると、それ以上のものを得られると信頼するのである。大いなる御父のもとに行くときの私たちもそれと同じである。私たちは云う。もし私がすべてを有しているとしたら、また、知恵の望みうる限りのすべてを彼らに与えることができたとしたら、私が私の子どもたちに供するであろうすべてのものを、私の神は私たちに供してくださるであろう。というのも、神は私たちにとって《父》となられるからである。もしあなたがたが、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているとしたら、なおのこと、あなたがたをご自分の家族に入れてくださったお方が、かつてのあなたがたはみなしごであったとしても、あなたがたに良いものを下さらないことがあるだろうか?[マタ7:11] あなたは食物と衣服を受けるであろうし、それは現世において十分であろう。あなたは守りと、導きと、教えと、優しい情愛を受けるであろう。時には一打ちか二打ちの鞭を受けるだろうし、それはあなたがたの間におけるえりぬきのあわれみであろう。だが、あなたは、神の甘やかな愛に満たされ、いとおしまれもするであろう。そして、やがてあなたがふさわしくなるときには、神はあなたを学び舎から家へと連れて行き、あなたは神の御顔を見て、永遠に天の神の家に住むことになるであろう。そこには多くの住まいがあるのである[ヨハ14:3]。おゝ、もしあなたがやって来て、単純な信仰によって、この、神のほむべき後見と守りの下に身を置くならば、神はあなたがご自分の《救いの孤児院》に入所することを許可してくださるであろう。そして神はあなたの面倒を見てくださり、あなたは神が、あなた自身に対してあなたがそうあるであろうよりも格段にすぐれた《父》であられることを見いだすであろう。――これまでいたことのある最上の父親が、最も愛された子どもに対してそうであった、いかなるあり方にもまさってすぐれた《父》であられることを。「わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる」[IIコリ6:18]。私はこれ以上何も云うまい。だが、最後の言葉として、ヨハネのえり抜きの文章の1つを残して行きたいと思う。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう!」[Iヨハ3:1] 主よ。あなたの御名はほむべきかな。私たちもまたあなたの御霊によって導かれ、実際に知るようになったのです。みなしごが、あなたによってあわれみを得ることを!

 

みなしごの父[了]

-----
----

HOME | TOP | 目次