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弓の用い方

NO. 1694

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木曜夜の講義として
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「ダビデは、サウルのため、その子ヨナタンのために、この哀歌を作り、彼はユダの子らに弓の用い方を教えるように命じた。これはヤシャルの書にしるされている」。――IIサム1:17、18 <英欽定訳>


 翻訳者たちは、ここで非常に適切にも、「の用い方」という言葉を挿入している。というのも、それこそ、この箇所が意味していることだからである。だが、たといこうした言葉なしにこの箇所を読むとしても、それでも意味は変わらない。――「彼はユダの子らに弓を教えるように言った」。つまり、弓をいかに用いるか、である。

 現代の種々の批評学者たちによると、この「弓」という云い回しで意味されているのは、ダビデが作った歌のことであるという。そして彼らは、そうした考えを支持するために、マホメットの『コーラン』からの引用を持ち出す。彼らが私たちに告げるところ、その中のある章は「牡牛」と呼ばれており、それゆえ、ダビデは自分の歌を「弓」と呼んだというのである。まるで、これほど後代の東方の語法が適切なものだとでも云わんばかりに。だが私は断言するが、聖書の中には何1つ、この「弓」という言葉をダビデの哀歌に当てはまるという言明を正当化するようなものはない。疑いもなく、詩篇のいくつかには題が付されているが、詩篇がその題名で引用されている例は1つたりともない。詩篇はその番号で引用されており、どこを見ても名前では引用されていない。私は、この箇所を私たちの学識ある翻訳者たちが理解したように受け入れる。――ダビデはユダの子らに弓の用い方を教えるように命じた。もしも誰かが、「ならば、そこにいかなる関連があるのですか? なぜダビデは、サウロとヨナタンが殺されたからといって弓の用い方を教えなくてはならないのですか? なぜある種の武器の用法に関する軍事的訓令がここに挿入されるのですか? この箇所は哀悼で満ちているというのに」、そう尋ねるとしたら、私は答えよう。――これから示していくように、そこに不適切なものは何もない、と。あの練達の弓の射手ヨナタン、そしてペリシテ人の矢で倒れた他の君主たちのをこの上もないしかたで記念するには、彼らが殺戮された壊滅的な日から始まって、ダビデ自身の部族、ダビデが主たる権力を有する部族が、その特別な武器の用い方において訓練されるようにすることであった。

 I. しかし、話を進めよう。本日の聖句から私はいくつかの有益な教訓を得たいと思う。そして、第一のものはこうである。《活動は、悲しみを慰める名手である》。民は非常に嘆き悲しんでいた。サウロとヨナタン、国王と皇太子が殺されたからである。ダビデは彼らに思う存分嘆かせている。イスラエルの娘らが歌えるような、哀調に満ちた歌を書いている。しかし、それと同時に彼は、彼らの思いをその苦悩からそらすために、ユダの子らに弓の用い方を教えるよう命令を発している。というのも、活動は悲しみの折に望ましい結果を生み出す妙薬だからである。確かに、それと逆のことは、暗黒の絶望に向かわせがちであろう。あなたがたの中に、大きな悲嘆に陥っている人がいるだろうか? あなたは、この上もない損失を被っているだろうか? ではあなたの患難のことをくよくよ考え込むように、また、これ以上の奉仕からは免除されるべきだと考えるように誘惑されてはならない。ひとり閉じこもって、あなたに降りかかった大きな災厄のことを鬱々と考え込み、神に対するあなたの憤りを心にいだいていてはならない。こうしたことは、あなたにとって全く何にもならない。むしろダビデにならうがいい。彼は、わが子が病気の間は断食し、祈った。だが、その子が死ぬと、家に入り、食事をとった。というのも、彼はこう云ったからである。「あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」[IIサム12:23]。

 私は切に願う。サタンの誘惑に屈して、日ごとの活動をやめてはならない。特に、キリストのために携わっている聖なる奉仕をやめてはならない。あなたの悲しみは死別ではなく、自分の働きの上での失望かもしれない。あなたは、かちとりたいと思っていた魂をかちとれなかった。回心したとばかり思っていた人々が逆戻りしてしまった。そして今サタンはあなたに、もう何もするな、――二度と網を投げ入れるな、一晩中働いても何も捕れなかったではないか、――二度と種など蒔くな、道端にばらまいて鳥たちにむさぼり食われてしまったではないか、と誘惑している。これは悪い者のほのめかしである。これは、あなたをより深い苦悶に至らせるだけである。私はあなたに云いたい。おゝ、嘆く者よ。安楽椅子から立ち上がるがいい! ちりを払い落とすがいい。おとめ、シオンの娘よ。あなたの嘆きというあくたの上に座り込んでいるのではなく、攻め上るがいい。さもないと、より暗黒の悲嘆の中に沈み込み、あなたの苦々しさが苦よもぎと毒草になるといけない。

 何も活動しないでいることが人を暗黒の絶望に至らせるのとは逆に、私の確信するところ、働くことは、いやでも自らを押しつけてくる悲しみの種から心を散らすことになる。この世の何にもまして健全なことは、自分の行なうことのできる何らかの仕事を持つことである。私の見てきたところ、有閑身分の人々は子どもを喪うときに最も手ひどく自制心をなくしてしまう。その一方で、私の知っている労働者階級の人々は、同じくらい繊細な思いを心に有しているとは信ずるが、くじけることなく勇敢に忍ぶのである。神の下にあって、私はその違いはこの事実にあるものと考えてきた。その貧しい女は、自分の日々の糧を稼がなくてはならない。あるいは、自分の家の中で何か細々とした家事のあれこれが起こるたびにそれに精を出さなくてはならない。また、その貧しい男は自分の日ごとの務めを果たさなくてはならない。さもないと、家族が貧窮してしまう。このようにして、骨の折れる労働は、思いを独占しかねなかった悲しみから考えを引き離すことによって、祝福された必要となってきた。あなたは、アレグザンダー・クルーデン[1701-70]のことを聞いたことがあるであろう。だがあなたは、彼が失恋したこと、その他の幾多の試練にあって、ほとんど正気を失いかけたことは知らないかもしれない。だがしかし、アレグザンダー・クルーデンは気が狂いはしなかった。というのも、彼は聖書の用語索引を編纂するという巨大な働きに携わっていたからである。その用語索引は、私たちが神のことばを検索するための、非常に貴重な道具となっている。この仕事が彼を狂気になりきることから守ったのである。もし私が、「病んだ精神」に処方を規定しなくてはならないとしたら、私はこう云うであろう。「良い働きを行ない始め、それにたゆまず勤めなさい」。愛する方々。もしあなたが苦難の中にあり、サタンがあなたを誘惑して、ひとりきりになれ、主の働きなどやめてしまえ、と云っているとしたら、その有害なほのかしに抵抗するがいい。あなたの《主人》の働きを一心に追求するならば、聖霊なる神は多くの場合あなたを慰め、ご自分のみことばの数々の約束をあなたの魂に当てはめてくださるであろう。主のことに気を配るがいい。そうすれば、主はあなたのことに気を配ってくださるであろう。あわれな罪人たちに主の御傷のことを告げるがいい。そうすれば、主はあなたの傷口に包帯を巻いてくださるであろう。主の十字架の中で、あなたの十字架を忘れるがいい。ものを知らないために滅びつつある人々の子らの悲嘆の中で、あなたの悲嘆を忘れるがいい。そうすれば、あなたは何にもまして容易に慰藉への道を見いだすであろう。

 特に悲しみを癒す上で尊い慰めとなる活動は、私が思うに、新しい働きに関わることである。もしも、何か新しい困難が、あなたに新しい奉仕を示唆するとしたら、それはあなたを大いに助けるであろう。慣れた働きは、必ずしも思いをその悩みの種からそらさないことがある。というのも、手慣れた務めは機械的に、日課のように行なわれがちだからである。だが、何か全く清新なものは、私たちが自分の試練を忘れることを甘やかに助けてくれる。おゝ、何か新しい道に進むとしたらどんなに良いことか! イエスのための新しい誉れを、その御国のための新しい事業を、その福音に人々を引き寄せる新しい手段を考案すること――これは私たちの悲嘆をまんまと引き離す助けになるであろう。多くの人々にとって、キリストのために何らかの種類の奉仕をすることは全く新奇なこととなるであろう。そう云うのは悲しいことである。こうした人々は意気消沈している。そのことについてはそれほど私は悲しまない。なぜなら、働こうとしない者は食べるべきではない[IIテサ3:10]からである。そして、もしあるキリスト者が自分の《主人》に仕えようとしないなら、その人は《王》の功臣たちとともに饗宴に列するべきではない。おゝ、いま以上のことを貧者のため、無知な人々のため、キリストのために行なわないことによって、あなたがたの中の多くの人々は、いかに多くの喜びを取り逃がしていることか! 詩人ロジャーズは、ヴェニスにいたひとりの金持ちについてこう告げている。――そして、彼はその物語を詩にしているが、私はそれを忘れてしまった。――その金持ちは絶望に囚われ、心気を病んだあまり、身投げしようとして運河の方まで下っていった。だがその途中で、ひとりの貧しい少年に出会った。少年は彼のすそを引いてパンを乞うた。この金持ちから、お前はかたりだろうと云われた少年は、自分と一緒に家まで来てほしいと頼んだ。そこで父と母は飢えのために死にかけているというのである。彼はその部屋に入り、一家が文字どおり食物不足のために死に瀕していることを知った。彼は自分のかくしにあった金銭でたっぷりの食料を買ってやり、彼ら全員を喜ばせた。そして、内心でこう呟いた。結局のところ生きている甲斐も世の中にはあるのだな、と。彼は、新奇な喜びを見いだした。それが清新な生きる動機となったのである。私は、大きな苦難をかかえているあなたに尋ねたい。果たして主は、この手段を通して、あなたを新しい楽しみの道へと押しやってはいないだろうか。神の栄光を現わし、同胞の人々に善を施す清新な手段へとあなたを差し向けているのではないだろうか。あなたが良ければ、私はダビデの哀歌と同じくらい悲しげな歌を唄って聞かせるであろう。だが、むしろ私は、あなたに弓の用い方を教えたい。私の信ずるところ、私はあなたをキリストの軍隊の兵士として入隊させ、あなたにキリストの武器の使い方を教える方が、いかに哀調に満ちた吟遊詩人の挽歌であなたを慰藉するよりも、ずっとあなたの慰めにとって役に立つであろう。

 私がこの場で語りかけている方々の中には誰か、大きな地上的な患難に耐えていながら、霊的な事がらについては何も知らないという人がいるだろうか? 神はしばしば、数々の苦悩によって、ご自分のさまよう子らをみもとに招き寄せてくださるではないだろうか? あなたが慰められるべき道は、愛する方々。再び世の中に出て行き、そこでさらなる快楽を追求することにはない。もし神があなたを祝福しようと考えているとしたら、神はあなたを徹底的に飢えさせ、あなたが、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたい[ルカ15:16]とさえ思うようにされるであろう。あなたは放蕩三昧の生き方をしてきた。そして今あなたは絶望の瀬戸際にある。だがその絶望の暗い角を曲がれば、あなたの御父へ家への道が走っているかもしれない。あなたの現在の物質的な嘆きを駆逐するには、罪に関する霊的な嘆きが必要である。もしあなたが今のこの時、罪を悔い改めること、また、イエスに信頼を置くことをイエスから学ぶなら、あなたの魂は目を覚ましてこう云うであろう。「立って、父のところに行こう」*[ルカ15:18]。そうすれば、あなたが飢えることはなくなり、豚の飼槽のことは忘れるであろう。どこで? 何と、あなたの御父の家の音楽や踊り[ルカ15:25]のただ中でである。御父がこう仰せになるのを耳にする喜びの中でである。「わたしのこの息子は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、食べて楽しもうではないか」*[ルカ15:32]。

 しかり。ダビデは正しかった。民を意気阻喪した状態から引き起こす道は、彼らに弓の用い方を教えることであった。彼ら自身の矢が、彼らの悲嘆を殺すであろう。そして、あなたがた、嘆いている人たちをあなたの悲しみから引き出す道は、あなたにこうした聖なる活動を教えることである。そうした活動によって魂はキリストにより頼まされ、主の御足のもとで救いを見いだすように至らされるのである。

 これこそ私が思うに、この聖句がこの上もなく甘やかに教えている最初の教訓である。

 II. 第二の教訓はこうである。《惨事を素晴らしいしかたで善用するには、その教訓を学ぶことである》。惨事とは何か? サウルとヨナタンが射手たちによって射殺されたことである。ペリシテ人たちは明らかに弓の用い方に長けていた。だがサウル軍の射手の数は少なく、それで彼らはペリシテ人を遠距離から殺すことができなかった。接近戦に持ち込めば、イスラエルもペリシテ軍と互角に戦えたかもしれないが、それ以前にペリシテ人の矢がイスラエルの王に達していたのである。彼らが弓の用い方を知っていたとしたら、彼らの方が勝利をおさめていたかもしれなかった。それゆえ、ダビデは急いでユダの人々に弓の用い方を教えたのである。

 愛する方々。あなたは数々の失敗を目の当たりにしてきたと思う。私は、特にあなたに関わりのある惨事に言及している。何をすれば良いだろうか? 座り込んでは、苛々し、やきもきし、絶望し、あきらめるだろうか? 決してそうあってはならない。ユダの人々が、弓によって敗北したことを通して弓の用い方を学んだように、自分に降りかかったことから知恵を摘み取るがいい。あなたは、敵前で潰走させられただろうか? ならば、自分の弱点がどこにあったか突きとめるがいい。探って見きわめるがいい。それは、何らかの罪にふけっていることだろうか? 防御しておくべきだった点について不用心だったことだろうか? 祈りが弱かったのだろうか? 神のことばをないがしろにしていることだろうか? 天来の真理に無関心なことだろうか? 心の冷たさだろうか? それとも、何だろうか? もしあなたが敗北を喫したとしたら、そこには原因があるのである。もしあなたが落胆させられ、衰えさせられているとしたら、神に向かって云うがいい。「なぜ私と争われるかを、知らせてください」[ヨブ10:2]。主はあなたと云い争っておられるだろうか? ではその真相を究明し、この毒草と苦よもぎを生やした根を見つけ出すまで決して満足してはならない。この惨事の原因は神があなたとともにおられなこかったことではなかっただろうか? あなたのすることなすこと何もうまく行かないとしたらどうだろうか? あなたが早く起きるのも、遅く休むのも、苦心の糧を食べるのも、主の手があなたに下っているためにむなしいとしたらどうだろうか? もしもあなたが、かつては満足を覚えていたものに何の楽しみも感じないとしたらどうだろうか? もしも神があなたをご自分の矢の的とし、憤りをもってあなたに射かけておられることにその原因があったとしたらどうだろうか? そうかもしれない。あるいは、あなたはまだ神の子どもでは全くないのかもしれない。そして、神があなたを手まりのように右へ左へ転がしているのは、あなたがへりくだってキリストのもとにやって来て、キリストの御手からあわれみを叫び求めるまで、何の平安も見いだせないようにするためかもしれない。その原因を探り出すがいい。あなたに教えようと意図されている教訓を努めて学ぶがいい。あなたには、何か隠れた罪がないだろうか?

 ことによると、敗北を眺めることによって、あなたは勝利への道を学べるかもしれない。ダビデは、もし彼らが弓によって敗北を喫したのなら、弓によって勝つこともできるだろうと判断した。自分の敵たちから学ぶことは正しい。サタンからも学ぶべきことはある。もし彼が歩き回っているとしたら、私たちも勤勉になろう。もし彼が食い尽くすべき者らを捜し求めている[Iペテ5:8]としたら、私たちも救うべき人々を捜し求めよう。また、もし彼が私たちの弱点を見つけ出そうと虎視眈々としているとしたら、私たちも自分が祝福したい人々の心に、いかにすれば最も良く達することができるかを発見するために目を凝らしていよう。多くの人は貧困によって富む者となってきた。病によって健康に、罪を意識させられることによって聖くされてきた。打ち倒されたとき、そのときこそその人は神に叫び求め、神はその人を引き上げてくださった。わざわいなるかな。「鞭と、それを定めたお方に」[ミカ6:9 <英欽定訳>]耳を傾けようとしない者は。

 私はあなたに、あらゆる惨事が教えるだろう教訓を勤勉に学んでほしいと思う。ある教会に、また、あるキリスト者の集団に起こる不幸は、彼らにとって1つの実施要請――万人向けの活動要請――ではないだろうか? サウルは少人数の常備軍を有するだけで、全国民に軍事訓練を施してはいなかった。だがダビデは云うのである。「私は、私の氏族全員に弓の用い方を教えよう」、と。さて、教会が低調になり、鈍重になり、魯鈍になるとき――そして多くの教会はそうした方向に行きつつあるが――、また、誰もが眠り込んでいるように思われ、教役者の説教が一種の神聖な鼾となり、礼拝全体に眠りが染み込んでいるとき、何と、何をなすべきだろうか? そのときこそ、ユダの子らに弓の用い方を教えるべきときである。彼ら全員を聖なる企てに目覚めさせるときである。彼らに向かって云うがいい。「あなたがたは、ごく少数の者にキリストの働きをさせておいてはならない。全員がそれを行なわなくてはならない。あなたがたは全員が弓の用い方を教えられなくてはならない」。モラヴィア派の栄光であったのは、彼らの会員全員が宣教師であったことである。そして、それはあらゆる教会の栄光たるべきである。教会内のあらゆる男女と子どもが、イエスのための戦闘に参加すべきである。これこそが、神の恵みによって、霊的衰退を治療する方法である。人々に弓の用い方を教えるがいい。

 敗北によって数々の教訓を学ぶがいい。私たちを投げ倒した罪、神に向かって――この大いなるお方に向かって――私を支え給えと叫び求めるもととなった罪、そうした罪から学ぼうではないか。もし私たちが今のこの時、人生における何らかの大きな失敗の下にいるとしたら、より細心に用心することを学ぼうではないか。もし私たちが過ちを犯すままにしておかれたとしたら、油断を怠らないことを学ぼう。むっつりと、「私は悪いことをした」、と告白するのではなく、それを悔い改めるがいい。また、今後ペテロのように支えられる恵みを神に乞い求めるがいい。ペテロは転落した後で以前よりも強くなり、兄弟たちを力づけるために立てられた[ルカ22:32]。起きたことは取り返しがつかない。だが、神の教えによって二度とそうしたことを行なわないように、そこから学ぶことはできる。願わくは神が今回をそうした折としてくださるように。もしそれが適切だとしたら、私は今晩あなたに、魂の惨事について嘆きの歌を唄うこともできるであろう。だが、私の信ずるところ、私があなたに対してその倍以上の善を施す道は、あなたを奮い立たせて弓の用い方を学ばせること、すなわち、あなたの過ちを強制し、あなたの欠陥を補わせることである。

 III. さて、第三のこととして別の教訓がある。《友人に対する気高い記念碑はその卓越した点を真似ることである》。いかにしてこのことがこの聖句から出てくるだろうか? 何と、このようにしてである。ヨナタンとダビデがともに会話を交わしたとき、彼らが次の会合の段取りをつけたのは、ヨナタンが何本かの矢を射ることによってであった。明らかにヨナタンは大いに弓を用いることを好む人物であった。そして、父王が大規模に軍に導入することをしなかったにせよ、ヨナタンは弓の用い方に熟達していた。「よろしい。ならば」、とダビデは云うのである。「ヨナタンを記念して大きな石碑を積み上げる代わりに、私たちはユダの子らに弓の用い方を教えよう」。さあ、兄弟たち。このことを、あなたの愛する父上に対するあなたの記念碑とするがいい。――もし父上が神の子どもだったとしたら、父上のようになるがいい。もしあなたが、あなたの優しい母上を記憶にとどめておきたければ、母上のうちで輝いていた数々の美徳をあなた自身の内側で現わすがいい。あなたのあの可愛い子は天国に行ってしまった。そして、決して忘れられることはない。その子の面影は暖炉の前飾りの上を覆っている。私が云っているのは、死に間際にイエスのことを歌ったあの愛しい幼子のことである。もしあなたが、他の何を忘れてもその子のことを覚えていたければ、その子の《救い主》を愛するがいい。そして、小さなジェーンが行った所へ自分も行くがいい。いかなる記念碑も、模倣することにはかなわない。あなた自身が、世を去った愛しい者の記念碑となるがいい。彼らの美質すべてを自分自身の内側で現わすことによってそうするがいい。

 このことは、特に私たちの天来の主との関わりにおいて、いかに真実であることか! 私が見るに、ローマカトリック教徒たちは耐えず道端に十字架を掲げており、時にはその上に十字架刑によって死につつある人間の厭わしい像をつけている。また、そこには釘があり、海綿があり、槍があり、私には見当もつかない何だかだがある。これは、十字架につけられた《贖い主》の記憶を不滅にしたいという自然の情から発したものである。だが、愛する兄弟たち。あなたには、それよりもはるかに良いことができる。あなた自身がキリストとともに十字架につけられ、あなた自身の人格の中で、主のうちに見られたあの天来の自己否定、あのほむべき愛、あの無比の愛を披瀝するとしたらそうである。ある人々は教会を建て、種々の建造物のために巨費を投じる。私は彼らをとがめはしない。彼らの素晴らしい気前の良さには、あの石膏の壺を割って《救い主》の御足に香油を注いだ女の精神が香っているかもしれないからである。だが私が提唱したいのは、その人自身の内側に、神の御霊の力によって、キリストに似た性格を作り上げる方が、この世で最高の建造物を寄せ集めてできるだろうよりも、すぐれた記念碑となるということである。もしあなたが最高の彫刻家を雇い、また彼がその練達の腕前によって、生きているとしか思えないような大理石像を作り上げたとしたらどうだろうか? その記念碑は、主としてその芸術家のことを心に留めさせ、また、どちらかといえば、その作品の高価さのことを何よりも人々に考えさせるではないだろうか? その一方で、もしあなた自身が、大理石ではなく生きたからだにおいてキリストのかたちになるとしたら、そのとき人々は、あなたがイエスとともにいたのだ[使4:13]、そして、イエスから学んできたのだ、ということが分かり、それは主を最も強く記憶に留めるであろう。もし私たちが、自分の置かれた状況下でイエスが行なうだろうようなことを行なうとしたら、私たちが現わすことになるイエスの記念碑は、富で購えるいかなるものにもまさるであろう。ダビデがこの人々に弓の用い方を教えたとき、彼らは、矢を引き絞るたびにヨナタンのことを思い出したであろう。そして、射手の連隊が町通りの中を射的場に向かうたびに、彼らは世間にヨナタンのことを思い起こさせたであろう。ダビデがこうした形の弓兵隊を制定したのは、ヨナタンを記憶させるためであった。そして、愛する方々。あなたも、神への奉仕を行なうため、イエスがそうされたように従順に、また熱心に出て行くたびに、人々にイエスのことを思い起こさせるのであり、彼らは云うであろう。「神がこの人々を世の中で取り分けたのは、人々にイエスのことを思わせ、その御名を心の中で生きたものとしておくためなのだ。この人々が祝福となっているのは、イエスご自身が彼らを祝福しておられるからなのだ」、と。私はこのようにしてあなたがた全員を奮い立たせて、あなたの一生の間そのようなしかたで生活し、また、神に仕える努力をさせたいと思う。そのようにして、イエス・キリストの御名がこの国で、また、世界中で、生きたまま保たれるようにしたいと思う。

 IV. 最後に、そしてほんのしばし考えたいことがある。このようにユダの子らに弓の用い方を教えるため取られた軍制の形式は、愛する方々。寓意的に今晩のあなたがたに当てはまると思う。《信仰者にとって、弓の用い方を霊的に学ぶことは、大きな強みとなる》。まず、祈りという弓がある。それを用いることは廃れてはいない。むしろ私は、私たち全員が、主の勝利の矢[II列13:17]をいかにすれば今よりもはるかにうまく射られるようになるかを知っていればと思う。古の聖なる人々は一本の矢を取り上げ、それを選び出したときには、それをいかにして用いるか分かっていた。自分に何が必要かを知り、そのために祈った。彼らは自分の矢を弦につがえた。すなわち、神の約束を取り上げた。自分たちの願望にかなう約束である。そして、一方をもう一方に合わせながら、まっすぐ天国に狙いを定め、この矢のような請願が飛翔するのを見ていた。彼らは、自分たちがどなたに向かって祈っているかも、何について祈っているかも、また、なぜ聞き届けられることを期待しているかも分かっていた。そしてそのようにして全力をこめて祈りの弓を引いたのである。かの神の人がカルメル山の頂に上ったとき、また、そこで自分の弓を取り、それを引いたとき、そこには的を外す恐れは全くなかった。あるいは、万が一その矢に十分な力がなかったとしても、彼はその弓を二度引いたであろう。三度、四度、そして七度と、矢が的を射抜くまで引き続けたであろう。彼は自分の祈りの矢が天に突き立ったと分かるまで、その物見の塔から降りてこようとしないであろう。あらゆる患難の時に求められるのは、ユダの子らが祈りの矢の用い方を知ることである。

 あのアイルランドにおける、すさまじい暗殺の嵐について耳にしたとき、その知らせが私たちの大半の者らに達したのは安息日のことであった。そこで、神の人たちは、引きこもった所にある自分の銃眼へ赴き、あわれなアイルランドのための祈りを天に向かって撃ち込んだ。それは、なされえたことの中でも最高のことであった。私は警察や監獄よりも、はるかに祈りに信を置いている。国家的な必要が覚えられる、いかなる時にも、一国を救う人々は祈りの人々である。何と、賢明な政治家たちではないのか? 確かに、賢明な政治家たちである。だが、どなたが彼らを賢明にするのだろうか? 神はあらゆる精神に力を及ぼしておられ、この講壇からの祈りに答えて、向こうの下院議会にいる精神を訪れることがおできになる。西部の高知地方にある慎ましいあばら屋から1つの叫びが神へと立ち上り、それが首相へと降って彼の思考を導くこともありえる。メアリー女王がスコットランドに教皇制を再び導入したがっていた頃、常々何と云っていたか思い出すがいい。彼女はこう云ったのである。私は、スコットランドの領主たちがかき集めることのできる全軍勢よりも、ジョン・ノックスの祈りの方が恐ろしい、と。この時ばかりは彼女も正しかった。人々は、祈りを見落とすとき、人間的な諸事における最大の要因を見落としているのである。神の神秘的な杖は、今なお私たちの間にいる多くのモーセたちの手に握られている。――イスラエルに勝利をもたらし、アマレクを敗北させる杖である。教会の強さは講壇の雄弁にではなく、密室の雄弁に存している。この世に最も大きな貢献を行なう教会とは、最も神とともに事を行なう教会である。人々を神のために支配することのできる人とは、人々のために神から支配されている人である。自分の魂を神にささげて、神がそのみこころを自分の人生に書き込めるようにする人は、強大な人である。神のみこころが聖霊によって自分のうちに作り出されている人、また、それを熱烈な祈りに練り上げることのできる人は、たとい君主や権力者たちはそれと知らなくとも、彼らが達することのできる限度を越えて、ずっと物事の舵取り近くに座っている人である。私はアイルランドの災厄について、また、人々のもろもろの罪について、時代のもろもろの悪について、哀調に満ちた賛美歌を書くこともできよう。だが、祈りという弓の用い方をあなたに教える方がはるかにましであろう。というのも、そのとき、もしあなたが自分の数々の切望を主へと打ち上げることができるとしたら、数知れない祝福がこの国に降り注ぎ、主の敵どもは不快にされ、平和で幸いな日々が明け初めることであろう。

 ことによると、私がこの場で語りかけている人々の中には、祈りについて全く知らない人がいるかもしれない。たぶんこの場には、ペッカム・ライに関する説教を聞いた兄弟がいるであろう。残念ながら、それは相当に無謀な話だったではないかと思う。その講話の中で、その説教者は自分の会衆の全員に向かって、もし彼らが家に帰って神に何でも求めるなら、神はそれを彼らに与えてくださると云ったのである。私は、それほど無謀な言明を裏書きすることはできない。しかしながら、この男は説教者がそう云ったものと考えた。それは正しかった。そこで、生まれてこのかた一度も祈ったことはなかったが、彼はこの問題をある出来事について試してみた。そして、そのある出来事が、彼の願った通りの結果となった。それで彼は震え出した。確かに神はいるのだと考えたからである。さて、話をお聞きの愛する方々。私は、あなたがたの中の誰かが祈って求めることは何であれ与えられるとは云わない。あなたがた、不敬虔な人たちに対してそう云おうとは思わない。しかし、こうは云いたい。もしあなたがあわれみと、救いと、永遠のいのちを願い求めるというなら、また、信仰を有する罪人たちに対して約束されているいかなることをも願い求めるなら、あなたはそれを受けるであろう。私はあなたがその実験をしてみてほしいと思う。というのも、あなたは主が決して約束を破らないことを見いだすだろうからである。もしもあなたが、1つの約束が罪人に対してなされているのを読むとしたら、それはあなたに対して云われているのである。行って、それを嘆願するがいい。そうすれば、主はそれをかなえてくださる。私が主の保証人になろう。主はご自分の約束を守られる。主を信頼して試してみるがいい。そして、このようにして弓の用い方を学ぶがいい。

 神があなたを祝福してくださるように。キリストのゆえに。アーメン。

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弓の用い方[了]

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