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四つのえりぬきの言葉

NO. 1630

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1881年2月3日、木曜日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「見よ。わたしはあなたとともにあり」。――創28:15

「わたしはあなたとともにいる」。――創31:3

「私の父の神は私とともにおられるのだ」。――創31:5

「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ……る」。――創48:21


 今晩の私の講話は、ほとんど説教とは云えないものとなろう。――それはむしろ、ある一点におけるヤコブの生涯と経験の解き明かしとなるであろう。それを明らかにするには、四つの聖句が必要だが、その1つでも記憶から抜け落ちないように、ここでそれを一度にまとめて示すことにしたい。

 I. 第一に、創世記28章15節に目を向けて、《現在の祝福》について読んでほしい。主はご自分のしもべヤコブに云われた。

   「見よ。わたしはあなたとともにあり」。

ヤコブは彼の父から大いなる祝福を受け継いでいた。というのも、この言葉が語られたのは、それに続く言葉と結びついてのことだったからである。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である」[創28:13]。愛する方々。父親と祖父を、また、ことによると、さらにそれ以前をも振り返って、こう云えるということは、言葉に尽くせぬほどの特権である。「私の生まれ出た家は、歴史によって教えられる限りのはるか昔から主に仕えてきたのだ」、と。代々のキリスト者の子孫であるとき私たちは、君主たちの子孫であるよりも大きな誉れを有している。聖徒たちの紋章にまさる紋章はない。ヤコブは、神がアブラハムを祝福し、イサクを祝福されたのと同じように自分を祝福されたこと、彼らに対して語りかけたのと同じ言葉遣いで自分に語られたことに対して非常に感謝したことであろう。というのも、神はそのいずれに対してもはっきりと、「わたしがあなたとともにいる」、と云われたからである。あなたがたの中に敬虔な両親のもとに生まれた人たちがいるだろうか? そして、主はその恵みによってあなたを召されただろうか? ならば、主の御名をたたえて、これほど誉れある身分に恥辱をもたらすようなことを何も行なわないように用心するがいい。あなたが生きてある限り、無限の愛によって神があなたの家に着せてくださった良い名を保つように努めるがいい。しかしながら、あなたは敬虔な両親のもとに生まれながら、まだ回心していないだろうか? あなたに警告するが、自分の生まれにいささかも頼りを置いてはならない。というのも、思い出すがいい。イサクはアブラハムの子どもであったが、イシュマエルもそうだったのであり、いかなる種類の霊的祝福もイシュマエルにはやって来なかったからである。血や、肉の欲求[ヨハ1:13]によって生まれることはむなしい。私たちは上から新しく生まれなくてはならない。神は主権者であり、ご自身の恩顧を父から子へと施さなくてはならない義理はない。また、神がそうなさるとき、私たちは神の恵みを賞賛すべきである。遺伝性の敬神の念などというものがあると想像してはならない。それでも、これまでに神が私に授けてくださった数ある重大な特権の1つ、それは、私が父によって、また、祖父によって、神への恐れの中で訓練されることができたということである。そして、私はそのような血統を有するあらゆる青年に祝いを申し述べたい。神があなたを祝福してくださるように。あなた自身が、あなたの父祖たちに神から与えられたあわれみを獲得し、主がこう仰せになるのを聞くまでは満足してはならない。「わたしはあなたとともにある」、と。

 このあわれみがヤコブの心に深く突き入れられたのは、彼がそれを大いに必要としていた時であった。彼は父の家を出てきたばかりで、自分の孤独を感じていた。彼は特別な試練に乗り出しつつあった。そしてこのときにこそ彼は、神が彼のために蓄えておられた特権をより大きく理解させられるという恵みを受けたのである。この言葉を読み上げさせてほしい。「わたしはあなたとともにある」。私はこの言葉に関する話をしようとして、ここに含まれていることを細大漏らさず考えてみた。だが、その内容はあまりに豊かすぎた。私はあらゆる人に向かって挑戦したい。その高さと深さ、その長さと広さを測りきわめてみよと。神がヤコブに、食すべきパンを与え、まとうべき衣服をお与えになることでさえ大きなことであったが、それも、「わたしはあなたとともにある」、とくらべれば無である。神がその御使いをヤコブとともに遣わし、彼を守らせなさることでさえ大きなことであったに違いないが、それも、「わたしはあなたとともにある」、とくらべれば無である。ここには無数の祝福が含まれているが、それ自体が、私たちの考え及ぶ一切の祝福をはるかに越えたものなのである。ここから生ずる実は数多いが、そうした実を結ばせた木の方が実よりもすぐれている。「わたしはあなたとともにある」。神は果たして人間とともに地の上に住まわれるだろうか?[II歴6:18] 神が人とともに歩み、彼と語らうものだろうか? 「主よ。人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」[詩8:4]。だがしかし、神は云われる。「わたしはあなたとともにある」。あなたは上つ大庭にあり、あなたのご臨在によって天を天をとしておられるのに、「わたしはあなたとともにある」、と仰せになるのですか。あなたは、熾天使に対してさえ、これ以上に何と云えましょうか?――「わたしはあなたとともにある」。

 何と、神が人とともにあるとき、そこには全く言葉に尽くすことのできない、へりくだりの親しみがある。それは無限の愛を保証する。「わたしはあなたとともにある」。神はご自分が憎む者たちとともにお住まいにはならない。神は、地上のすべての悪者を金滓のように取り除かれる[詩119:119]。彼らに向かってこう云われる。「離れて行け。わたしはあなたがたを全然知らない」*[マタ7:23]。人が友とともにあることを喜ぶように、キリストはご自分が選んで、血によって贖った人の子らをお喜びになる[箴8:31]。

 「わたしはあなたとともにある」。――これは実際的な助けを意味する。私たちが何に携わろうと、神はその務めにおいて私たちとともにおられる。私たちがいかなる苦しみを受けようと、神はその苦しみにおいて私たちとともにおられる。私たちがどこをさまよおうとも、そのさまよいにおいて私たちとともにおられる。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」[ロマ8:31]。もし神が私たちとともにおられるなら、私たちにできないことがあろうか? もし神が私たちとともにおられるなら、私たちに耐え忍べないことがあろうか? その問いに答えるかのように、いみじくも使徒は云う。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」[ピリ4:13]。「わたしはあなたとともにある」。さあ、兄弟姉妹。もしあなたがこの特権の満ち満ちた豊かさを手にしたければ、神が今あなたの近くにおられることを信じるがいい。あなたのそばに座っているかのように近くにおられることを。否、それよりも近い。というのも、神はあなたの内側にいるほど、あなたとともにおられるからである。そして、あなたは、神の《神格》のすべてがあなたとともにあることを知っているだろうか? 「わたしはあなたとともにある」。あたかも、他には誰もいないかのように、《神格》全体があなたとともにあるのである。あなたはバアルの祭司たちのように、神の注意を引くため叫んだり、短刀で自分を傷つけたり[I列18:28]したことはない。神は、「わたしはあなたとともにある」、と云われるからである。あなたの吐息を神はお聞きになる。あなたの涙をその皮袋にたくわえてくださる[詩56:8]。「わたしはあなたとともにある」。そして、あなたは単に神の臨在だけではなく、神の同情をも得ている。神はこう意味しておられるのである。わたしはあなたを思いやっている。あなたとともに苦しんでいる。もし何か重荷があれば、わたしがあなたとともに負っている。もしなすべき働きがあれば、わたしがあなたとともに働こう。あなたがたは神とともに働く者[IIコリ6:1]である。愛する方々。私は確かに、このすべてをあなたに解き明かすことはできないと云ったではないだろうか? これを甘露のようにあなたの舌の上で転がすがいい。そして、それがあなたの腹中に下っていくとしたら、それはそこで苦くなるのではなく、いやまさって甘やかなになるであろう。「わたしはあなたとともにある」。おゝ、この特別な祝福の豊かさよ!

 このことは、あのむさくるしい場所でヤコブのもとにやって来たとき、いかに尊く思われたに違いないことか。そこで彼は生け垣を自分のとばりとし、空を自分のひさしとし、大地を自分の寝床とし、石を自分の枕として横たわっていた。だが神が彼の同伴者だった。「わたしはあなたとともにある。明日あなたは自分の目を開けて、西の方を振り返って云うがいい。『私は父と、母リベカの家を後にしてきた』。そして、涙があなたの目に宿るであろう。それから、あなたは東を眺めて云うであろう。『私は私の母の親戚の家に行くのだ。だが私は彼らを知らない。ただ、伯父のラバンについて、ごうつくばりで強欲だと聞いたことがあるばかりだ。それに私は彼がどのように私を迎え入れてくれるかも分からない』」。しかし、このこととともに旅を始めることは尊いことではないだろうか?――「わたしはあなたとともにある」。――わたしが、永遠にほむべき者があなたとともにあるのだ。あなたの母があなたとともにいなくとも、「わたしはあなたとともにある」。この場に、これから実家を離れようとしている若い方が誰かいるだろうか? 親元を離れるのは初めてのことで、悲しい気分になっているだろうか? それとも、あなたは遠い国に移民することになっていて、心の重苦しさを感じているだろうか? その前に、ぜひともこの、「わたしはあなたとともにある」、をつかめるようにするがいい。主に向かって申し上げるがいい。「もし、あなたの御霊がいっしょにおいでにならないなら、私をここから上らせないでください」*[出33:15]、と。神がこのお答えを与えてくださるまで待つがいい。「わたしの御霊がいっしょに行って、あなたを休ませよう」*[出33:14]。これが、あなたの開け行く人生の祝福となるべきである。「わたしはあなたとともにある」。神は今晩あなたとともにおられるだろうか? 神があなたとともにおられることがありえるだろうか? 人々は、自分の妻や家族の者と喧嘩した後で礼拝にやつて来る。神はそうした人々とはともにおられない。よこしまな商売に携わり、よこしまな生き方をし、福音を拒絶している人たち。神がそうした人々とともにおられることはありえない。「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」[アモ3:3]。もしあなたがキリストを信ずる信仰者だとしたら、神の御霊はあなたのうちに御霊の真の実を結んでおられ、そのときあなたはこう云えるであろう。「神は私とともにある」、と。だが、そうでない限り、それはできない。

 II. さて、創世記31章13節に目を向けて、この言葉を読むがいい。

   「わたしはあなたとともにいる」。

私たちはこれを《未来の祝福》と呼ぼう。この二番目の聖句を取り上げることは、ほとんど不必要である。というのも、もしも、「わたしはあなたとともにある」、と書かれているとしたら、あなたは、今後も神が私たちとともにおられると当てにして良いからである。神はご自分の民をお捨てにならない。ある人々の信ずる神は、きょう愛したかと思うと、明日は憎むという神である。罪を許すが、後で罪に定める神である。そのような神は私の神ではない。というのも、私の神は変わることがありえないからである。

   「一度愛せし もの 主は捨てず
    いまわのきわまで 愛させ給う」。
    神であるわたしは変わることがない。
    ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない」*[マラ3:6]

あわれなヤコブは、それまでラバンと暮らしていた。そして、多くの失敗と苦難を経てきていた。だが、このとき彼は、もう一度祝福のことばを受けることとなった。こう記されている。「ヤコブは、彼に対するラバンの態度が、以前のようではないのに気づいた」*。彼は世俗の人々の取り分に根を下ろし、約束の地へ行かずにすますつもりだった。自分の世俗的な縁故の間で一家を構える気になっていた。だが、主は実質的に彼に、「ここがお前の安息の地ではない」、と云われた。ラバンの息子たちは、自分たちの義弟の群れがいかに増し加わっているかを見て不平を云い始め、それゆえ、ヤコブが立ち去るべき時はすでに来ていた。ヤコブにはそれが気に入らなかった。彼は決して転居を好まなかった。家族の結びつき、何人もの子どもたち、そしておびただしい数の家畜からして、移住は一大事業であった。そのとき主は、彼に云われたのである。「わたしはあなたとともにいる」。それは、こう仰せになるかのようであった。「わたしは、これまで、約束の地ではないこの場所であなたとともにいた以上のしかたで、カナンでもあなたとともにいよう。わたしは、あなたがあの分離された人生の地へと出発するなら、また、あなたの父イサクがしたようにわたしとともに歩むなら、わたしの特別の臨在をあなたに与えよう」、と。私たちの中のある者らは、すでにもう何年もの甘やかな年月の前に、主から、「わたしはあなたとともにいる」、と云われ、それを真実であると見いだしてきている。というのも、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わり」[Iヨハ1:3]だったからである。だが、もしもこの時、主が私たちに対するご自分の約束を新たにし、「わたしはあなたとともにいる」、と云ってくださるとしたら、それは非常に時宜にかなうことであろう。あなたは新しい形の生き方を始めつつある。新しい試練に入りつつある。新しい義務を引き受けようとしている。そして今、新しい約束がやって来るのである。「わたしはあなたとともにいる」。たといあなたを支えるものと当てにできるはずの人々があなたに逆らい立つとしても、また、たといあなたに対して本当に借りのある人々があなたに対してねたみを燃やすことになるとしても、――「それでも、それにもかかわらず」、と神は云われる。「わたしはあなたとともにいる」。

 ヤコブの旅は、非常に無謀なものであった。彼はラバンがそれを好まないこと、そして、おそらくは自分を追跡して来るだろうことを知っていた。だが、神は云われるのである。「行け。わたしはあなたとともにいる」。ヤコブはまた兄エサウが、かつて手ひどく一杯食わされた計略のため、確実に自分に復讐するだろうことも知っていた。そして、それは彼の良心を疼かせ、彼は恐れおののいた。だが神は、「わたしはあなたとともにいる」、と云われた。世界一平坦な道も、神がそれを辿るようお命じにならなければ、間違いである。だが、いかに険阻で、ぞっとしない道も、神が私たちに旅するよう命令されたとしたら、安全で正しいものとなるであろう。ヨナはタルシシュに行くことに何の問題もないと考えた。だが神は彼とともにおらず、彼は決して辿ることなど予期していなかった経路で逆戻りした。もしあなたがあなた自身の路を行くとしたら、私は願う。ヨナと同じくらい上等の乗り物を得てふりだしに戻るという幸運があなたにあるように、と。というのも、あなたは確実に後戻りせざるをえないだろうからである。しかし、もしその路が決してそれほど険しくないとしたら、もしそれが神の路だとしたら、あなたはかもしかのようにそれを駆け抜けるであろう。神はあなたの足を雌鹿のようにしてくださり、あなたの高い所に立たせてくださるであろう[詩18:33]。「あなたのかんぬきは、鉄と青銅であり、あなたの力は、あなたの生きるかぎり続く」*[申33:25]。ただ、神があなたとともにおられる路を辿るように心がけるがいい。というのも、いくつかの道においては決して神が見いだされないからである。神は罪の道を歩くことがおできにならない。世俗的な道、自己を求める道をお歩きになることはありえない。もし私たちがそうした道を選ぶなら、私たちはひとりきりで行かなくてはならない。

 では、約束されたあわれみを見て、それを喜ぶがいい。先へ進むがいい。神の愛しい子どもたち。もし雲の柱が動いているとしたら、一瞬もためらうことなく行くがいい。そして、このことをあなたの喜びと慰めとするがいい。――「わたしはあなたとともにいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたとともにいる」。

 III. 私はもう一歩先へ進み、第三のこととして、《経験した祝福》に目を向けたいと思う。ヤコブの経験を眺めてみるがいい。ヤコブは神が自分とともにおられたことを見いだしただろうか? 彼は長く、そして辛苦に満ちた人生を送った。彼は非常に多くのことを知った人物であったし、非常に多くのことを知った人々は、大きな苦難に出会う見込みが倍増しになる。狡猾で、頭が切れて、器用で、遠謀を巡らし、自己を頼む人々は、しばしば1つの沼からもう1つの沼へとのたうちながら進む。何にもまして私が相棒にすることにぞっとするのは、頭が切れすぎる人である。というのも、そうした人々は自分から馬鹿になるか、片目を開いたまま眠ってしまうからである。ヤコブの狡猾さは、長い目で見ると彼にとって損であった。アブラハムは子どものように単純であった。彼は神を信じ、決して策を弄するほど身を落とすことはなかった。それゆえ、彼の一生は高貴なものであった。ヤコブは非常に頭の切れる人間であり、投資家や、会社の支配人になるような種類の紳士であった。彼はまれに見る実業家で、事実、ユダヤ人の祖先であった。そして、それは大したことである。それでも、その頭の切れ味のために、彼はしばしば盗まれ、自分の狡猾さのゆえに、まんまと一杯食わされた。そして、結局彼は、単純な思いをした祖父アブラハムほど人生を楽しむことも、裕福になることも、幸せになることもなかった。

 しかしながら、ヤコブは、神のこの2つの恵み深いことばについてこう語っているのである。「見よ。わたしはあなたとともにある」。「わたしはあなたとともにいる」。もう一度、31章に目を向け、5節を読むがいい。彼は、自分がラバンのもとを去ろうとしているこの時点までについて、こう云う。「私の父の神は私とともにおられるのだ」。私はこの証しを読んで非常に嬉しく思った。私はヤコブについてこう思った。――よろしい。あなたは確かにラバンとともにある間、さほど恵みにおいてすぐれてはいなかった。あなたがたは、あれこれと策謀を巡らし、たくらみを図っていた。――あなたはラバンに対して、ラバンはあなたに対して。だがしかし、あなたはこう証ししている。「私の父の神は私とともにおられるのだ」。これは、あなたから発されたがゆえに、一層大きく人を励ますものである、と。ヤコブは自分の神についてこう云っているかのようである。神こそ私に妻子をくださったお方なのだ。神こそ私を、私から盗もうとする者たちの面前で私を栄えさせてくださったお方なのだ。私の父の神が、私の一切の欠点にもかかわらず私とともにおられたのだ。私は、あなたがたの中の一部の人々が、同じ証しをできるものと思う。あなたは、キリスト者生活において自分に願えるだけの最高のあり方になってはいないとはいえ、それでもこう云うことができる。「私の父の神は私とともにおられるのだ」。

 さて、私たちはもう少し長く彼を眺めてみよう。35章3節を見ると彼はこう云っている。――「私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう」。

 すでに述べたように、彼はラバンの家を離れた。そして、それは非常に危険な旅だった。だが、神は彼とともにおられた。ヤコブが私たちにそう告げている。あわれなヤコブは、エサウが彼に会いに出て来ると聞いたとき恐れに満たされた。見ると彼は、自分の牛と羊を二手に分け、大きな贈り物をエサウに取り分けている。しかし主は、ご自分の民の恐れゆえに彼らを離れることはなさらない。私はそのことを非常に感謝している。もし主が、私たちの不信仰ゆえに私たちを捨てることがおできになるとしたら、とうの昔に捨て去られていなかった者が私たちの中にひとりでもいるだろうか? そこにペテロがいた。勇敢な信仰によって波の上を歩んでいた。キリストは彼とともにおられただろうか? しかり。さもなければ、彼は波の上に立つことなど全くできなかったであろう。次第に彼の信仰は衰え、ペテロは沈没しだした。だがキリストは彼を見放して、「死ぬがいい。あなたの不信仰の通りになれ」、と云われただろうか? 否。そのようなことばは一言も聖書に書かれていない。むしろ、こう書かれている。「あなたがたの信仰のとおりになれ」[マタ9:29]。イエスは御手を伸ばし、沈みつつあるペテロをつかむと、こう云われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」[マタ14:31]。そのように、あなたが疑いや恐れによって主を嘆かせようと、また、そのようにすることで自分を恥ずかしく思おうと、主はあなたをお捨てにはならない。もしあなたの心の中に信仰があるなら、たといそれが小さくとも、あなたは自分の疑いや恐れにもかかわらず、こう云うに違いない。「神は私の苦難の日に私とともにおられ、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた」、と。

 ヤコブはある晩、葛藤しなくてはならなかった。その信仰によって彼は、力強い祈りによって神に近づくことができ、その恐れによっていやまさって死物狂いで、執拗にすがりついた。だが、それは神が彼に逆らっていたためではなく、神が彼ととともにおられたからであった。というのも、執拗な祈りを行なえる者は、神が彼とともにいてこのように彼を強めて、嘆願させていることを証明するからである。彼の葛藤は、彼の勝利によって終わった。

 その日にもまた、疑いもなく、ヤコブは非常に打ちひしがれていたに違いない。なぜなら、彼は自分の罪を思い出したからである。彼は自分がエサウに吠え面をかかせて、彼から祝福を盗んだことを承知していた。だが、そうしたすべてにもかかわらず、彼は悔い改めた心をもってやって来て、自分を兄の手にゆだね、彼を喜ばせることなら何でも行なった。このことゆえに、神は彼とともにおられた。おゝ、その日、愛する神の子どもよ。あなたが自分の数々の欠陥を思い出し、あなたの心が重苦しくなっているその日、主があなたを離れ去られたと考えてはならない。主があなたに自分の罪を告白させ、御前で自分をへりくだらせておられるのは、神があなたとともにおられる1つのしるしなのである。なおも神を信じるがいい。なおも神のことばを聞くがいい。すると、あなたはこう云わざるをえないであろう。「神は私の歩いた道に、いつも私とともにおられた」、と。

 その人生の終わりに私たちが見いだすヤコブは、それまでよりも格段に豊かに、神の臨在が自分とともにあったという告白を行なっている。私があなたに読み上げた箇所で彼が願ったのは、彼とともにおられた神が、同じようなしかたで彼の孫たちとともにおられることであった。――48章15節、16節である。「それから、ヨセフを祝福して言った。『私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください』」。これが、神の真実さに対する彼の最後の証言である。

 彼はラケルを失っていた。――おゝ、それがいかに彼の心を刺したことであろう。だが彼は云う。「神はすべてのわざわいから私を贖われた」、と。その土地には大飢饉が起こった。だが、彼によれば、神はずっと私の羊飼いであられたという。彼はヨセフを失い、それは大きな悲しみであった。だが今、後ろを振り返って彼は、そのときでさえ、神がすべての災いから自分を贖われたことが分かるという。彼はかつてはこう云った。「ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ」[創42:36]。だが今、彼は前言を翻してこう云うのである。「主はすべてのわざわいから私を贖われた」、と。彼はいま神が常に自分とともにいて、常に自分を養い、常に自分を贖い、常に自分を祝福してくださったことを信じている。

 さて、よく聞くがいい。もしあなたが神を信頼するなら、このことが人生の終幕におけるあなたの判断となるはずである。あなたが死に臨むとき、あなたは、あれこれと試練や困難がないではなかった人生を振り返るが、そのすべてのゆえに神をほめたたえるはずである。そして、もし人生における何か1つのことについて、他のことにまさってあなたが神を賛美しなくてはならないことがあるとしたら、それはおそらく、あなたにとって最も暗黒と思われる出来事そのものであろう。神がヤコブのために行なわれた良い事がらの中でも、何にもまさることは、ヨセフを取り上げ、エジプトに送り、全家族を生き延びさせたことではなかっただろうか? それは、このあわれな老人の経歴の中で最も悲痛な試練であったが、結局は最も輝かしい祝福だったのである。あなたはそれが信じられないだろうか? その硬い殻の胡桃の中身には、あなたが味わった中でも最も甘やかな実が詰まっているのである。このことは確信しておくがいい。あなたの父のゴロゴロ音を立てる荷馬車は、あなたを眠りから起こし、あなたはそれに恐れをなした。だが、その荷馬車には黄金の鋳塊が積み込まれているのである。あなたは、あなたの大きな苦難が通り過ぎた後には、これまで一度もなかったほど富裕になるのである。

 IV. いいかげんにしめくくる時間である。それで私は、第四のこととして、もう一言だけ祝福の言葉をあなたの前に持ち出そう。私たちは三度にわたって、現在の祝福を見てきた。未来の祝福を見てきた。体験された祝福を見てきた。さて今、私たちが向かうのは、《伝えられた祝福》である。というのも、私たちの見いだすところ、ヤコブはこの祝福を自分の息子と、自分の孫に伝えているからである。48章21節を読むがいい。

「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられる」。

私は冒頭で、アブラハムからイサクへと伝え渡された祝福に注目した。そして今、私たちが見てとるのは、ヤコブがそれをヨセフに、マナセに、そしてエフライムに手渡しているということである。――「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられる」。あなたがたの中のある人々は、ことによると、こう考えているかもしれない。「私たちは人生の終わりに近づきつつある。私たちには子どもたちがいるが、彼らはまだ全員が回心してはいない。また、回心している者たちも、おそらくは私たちを頼りとしているであろう。彼らはどうなるだろうか?」 あなたは、神があなたの子どもたちから離れ去ると思うのだろうか? 彼らを神にゆだねることはできないだろうか? あなたの父上は自分の息子をどうしただろうか? 次から次へと以前の世代は過ぎ去ってきた。そして主は、後を継ぐ者たちに対して真実であられた。あなたは、神が次の世代の者たちに対して真実でなくなると思うのだろうか? あなたは、主への恐れの中で子どもたちを育ててきた。あなたは主の御名により頼んできた。それゆえ、あなたは彼らに対してこう云えるであろう。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられる」。やがて時が来れば、教役者である私たちは、地上における自分の愛する務めから取り去られる。そのとき私たちは、私たちの口から出る言葉を一心に聞いている、また、私たちの牧会活動により頼んでいる愛する人々のことを考えずにはいられない。少し先のことを見越して、こう云うのは私たちにとって良いことであろう。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられる」。私の尊ぶべき前任者、リッポン博士は、自分の後継者のために何度となく祈りを積んできた。確かに彼は、誰が自分の後を継ぐかを知らなかったに違いない。というのも、私が生まれたのは、彼が死ぬ間際の頃だったからである。だが、疑いもなく、私はかの善良な人の数々の祈りを受け継いでいる。それを私は確信している。「私は今、死のうとしている」、とこの老人は云ったかもしれない。「しかし、神はあなたがたとともにおられる」。ニューパーク街にあった教会は、この老紳士が死ぬことを途方もなく恐ろしいことだと考えた。だが、彼が永遠に地上にとどまっていたとしたら、彼は私たちにとって何の役にも立たなくなっていたことであろう。そして、同じことがやがて起こるであろう。人々は云う。「タバナクルの人々は、もし彼らの教役者を失ったらどうするのだろう?」 それが起こるとき、おそらくそれは、最大の祝福となることであろう。多くの善良な人々は、そうしてしかるべき長さを越えて、自分の地位にしがみつき、自分たちの建ててきたものを引き倒してきた。そうした人々に神がこう云われることは良いことである。「友よ。ここに上れ」、と。私たちはひとりひとり、自分が担任する学級を離れることを待ち望んで良い。あるいは、自分が監督してきた教会を離れることを、あるいは、自分が主催してきた大きな働きを離れることを待ち望み、こう云って良い。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられる」。神はひとりの教役者に、あるいは、五十人の教役者にも限定されてはいない。私たちが去るときも、神はあなたがたとともにおられる。人々は、私たちの親愛なる友ジョージ・ミュラーについてこう云うのが常であった。「ミュラー氏が働けなくなったとしたら、あの《孤児院》はどうなってしまうことでしょう?」 私が彼と話をしていたときに、彼は私にこう云った。「それは、ジョージ・ミュラーとは何の関係もない問題だという気がします。神は、ご自分のお望みになるだけ長くジョージ・ミュラーをお用いになるでしょう。そして、彼を脇へやることを選ぶとき、神は別の誰かをお用いになることでしょう」。そして今、よく聞くがいい。ジョージ・ミュラーはブリストルにいないのである。私の信ずるところ、彼は今現在、米国で説教をしている。それまでの彼は全欧州を説教して回っており、かの《孤児院》は彼の物理的な存在をほとんど欠いていたが、しかしそれは、ジョージ・ミュラーを抜きにしても、これまでのところうまくやっている。このような事実は、人間の無駄な質問に答えるのに役立つであろう。永遠の神はほむべきかな。――たといアブラハムが死んでもイサクがいる。そして、たといイサクが死んでもヤコブがいる。そして、たといヤコブが死んでもヨセフがいる。そして、たといヨセフが死んでも、エフライムとマナセが生き残っている。主は決してご自分の軍旗を人々の子らの間で掲げ持つ戦士に事欠くことはない。ただ、より多くの忠実な教役者たちを起こしてくださるよう神に祈ろうではないか。それが私たちの休みなき祈りであるべきである。

 ある種の教役者たちはあふれている。だが、おゝ、人々が受け入れるようなしかたで、生一本の福音を過不足なく計り分ける教役者たちが今以上に多くいればどんなに良いことか。私たちには、あまりにも美辞麗句や、立て板に水の雄弁が多すぎ、完全にして平易な福音の宣教が少なすぎる。だが、神は使徒的継承を保ち続させてくださるであろう。この点で決して心配することはない。ステパノが死につつあるときには、パウロが遠くない所にいる。エリヤが取り去られるときには、自分の外套を後に残していく。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられる」。慰められるがいい。愛する方々。そして、願わくは神の御霊が、その愛する御子イエス・キリストによって、あなたがたとともにおられるように。その名はキリストであり、神の愛する御子の名は、「インマヌエル」――神は私たちとともにおられる――である[マタ1:23]。この説教者は、その友人たちから、不在時には彼らに報告するようにとしばしば要求される。それゆえ、彼は自分が無事に南仏に到着したことや、すでにこの転地により、また、霧と霜を逃れて、穏やかな夏の大気のもとへやって来たことによって気分が清新にされていることなどを告げる。もしこのようにして苦痛が避けられ、精神が爽快にされ、寿命が延ばされるとしたら、その時間はよく費やされているのである。愛に満ちた友人たちの多くの祈りが求められる。こうした退隠中に、網が繕われ、後にそれが多くの人々を捕えることとなるように、と。

 

四つのえりぬきの言葉[了]

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