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2つの良いこと

NO. 1629

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1880年6月17日、木曜日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」。――詩119:71

私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう」。――詩73:28


 ある古いことわざにこう云う。「人は四十にもなれば愚者か医者になっている」。すなわち、その人は、まるで何も知っていないか、さもなければ、自分にとって何が良いことかを知り始めている、ということである。その年齢をすでに越えている、私たちの中のある者らは、ある程度まで自分にとって何が良いことか知っていると思っている。他の人々にとって何が良いことかについては、あまり断定的になる気がしない。だが、自分自身に関することであれば、1つや2つは非常に独断的に云えることがある。「これこれは、私にとって良いことだ」、と。私たちは、十分な調査と実験と個人的な試しを積んできたので、反駁される恐れを全く持っていない。たといその恐れがあっても、私たちは自分の足をしっかと踏みしめて立ち、その反駁をものともしない。

 本日の2つの聖句にある2つの良いことを私は確信しており、この場には私の断定を共にしている多くの人々がいるものと信ずる。第一に、他の人々にとってはどうであれ、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」。そして第二に、他の人々にとってはどうであれ、「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」。私たちはこのことを主張する。そう云われたからではなく、個人的に試してきたからである。そして、私たちがこのことを主張するのは、決して留め金を締めながら、自分は何があろうとびくともするまいと考えている、旅に出たばかりの青二才としてではなく、人生という巡礼路でそれなりの距離を踏み越えてきた者、また、現実に試して、また、事実問題として、それが真実であると知っている者としてである。

 愛する兄弟たち。私たちは、自分の生涯の間、自分にとって良くないと分かっている多くの事がらに出会ってきた。ある事がらは如実に悪であった。罪は、いかなる姿をしていようと、常に毒を有している。過誤は、いかに目につかない形をしていようと、また、いかに詩的な言葉で表明されていようと、常に有害である。私たちが神に祈るのは、私たちが罪とも過誤とも全く関わりを持たないことである。というのも、こうした事がらは良いことではありえないからである。それらは悪に決まっている。また、私たちが時として出会ってきたいくつかの事がらは、私たちにとって良いことであるかのように思われ、ある面では実際に良いものであった。だが私たちは、現在の瞬間には、それが善であるかないか確信が持てない。私たちは、何不自由ない安逸な時間を楽しんできたが、それは、ことによると、私たちを惰弱にしたかもしれない。喜びのいや高い晴天の時を与えられてきたが、それはある程度まで私たちを慢心させたかもしれない。学びの時が割り与えられ、その中で大いに知識を獲得したが、「知識は人を高ぶらせ」[Iコリ8:1]、残念ながら私たちも高ぶったのではないかと思う。海鳥たちが波間に漂い、風がぴたりとやんで海面が湖のように鏡面をなす平穏な時を経験したこともあるが、その平穏には危険が秘められていて、私たちの霊の内側に悪臭と不健全さを生じさせた。さらに確信が持てないことがある。愛する方々。あなたは金持ちになるのは素晴らしいことだと考えてきたが、――私には、裕福になるのが良いことかどうか確信が持てない。というのも、そのときあなたは以前の半分ほども霊的な考え方をしなくなるか、半分ほども幸福でなくなるからである。しかり。あなたははるかに大きな領域で活動するようになったし、それは雄壮なことだと考えた。あなたは、喜びのあまり、ほとんど鐘を鳴らして回らんかのようだった。だがあなたは、それがあなたにとって良いことだったと完全に確信できるだろうか? あなたは、小さな領域にいたときと同じくらい、大きな領域の中でも善良な人でいるだろうか? それほど大きな仕事を扱うことになった今も、帽子1つで自分の地所を覆うことができ、何も失うものがないため盗賊の恐れなど全くなく寝床につくことができた頃と同じくらい神のそば近く生きているだろうか? 良いものと思われることの多くは、単に見かけだけでしか良くはない。しかし、本日の聖句において私たちが前にしている2つのことについては、何の疑問もない。私たちは、苦しみに会ったことが私たちにとって良いことであると知っている。神の近くにいることが私たちにとって良いことであると知っている。私たちがこれから語ろうと思うのは、こうした疑いもない宝石についてである。願わくは神が、私たちの話を有益なものとしてくださるように。

 I. 詩篇119篇71節に目を向けて、まずこの良いことについて語ることにしよう。《苦しみは私たちにとって良いことであった》。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」。私はいま云ったばかりのことを繰り返したい。あらゆる人は自分の意見を述べなくてはならない。私たちは、苦しみがあらゆる人にとって幸いかどうか確信は持てない。ある人々は苦しみによって気難しい者になってきた。彼らは苦難に陥り、神に反発した。それで、その苦難は彼らの中では何の永続的な善も作り出さなかった。むしろ、彼らのむかっ腹を立てる傾向を助長し、彼らはそれ以来、他の人々を攻撃し続け、他の人々が彼らを攻撃するように仕向け続けている。私の知っていたある人々は、家族内で自分の目にするあらゆる者に対する悪意をいだいているかのように思われた。それは単に彼らが若い頃に失望させられたか、向こう見ずな事業に乗り出して、損害をこうむったというだけの理由からなのである。彼らは偏屈になり、偏屈を続け、日ごとにいやまさって偏屈になり続け、ついには、彼らの血管の中を流れる偏屈さが、これ以上の強さで流れることがあるかどうか人が訝しがるほどとなる。ある人々にとって、苦しみにあったことは全く良いことではなかった。だがしかし、苦しみにその非はない。その非は、苦しめられた人の方にある。初めにすべてが正しかったとしたら、それは見事な性格を彼らの内側に生み出していたかもしれない。だが、すべてが悪かったために、甘やかさへと熟成していくはずの過程そのものが、彼らを急速に腐らせてしまったのである。恵み深い魂においては、きよく麗しいあらゆるものを生じさせるのと同じものが、他の人々においては、悪意とねたみに満ちたあらゆるものを生み出してしまった。しかしながら、私はこの場に出席している多くの人々についてこう云える、あるいは、彼らが自分自身についてこう云えると希望している。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」。問うべきことはこうである。――いかにしてそれは良いこととなったのか?

 まず最初に、それが良いことであったのは、多くの他の良い事がらとの関係においてである。それは、神が他のしかたで私たちに授けてくださった大きな数々の祝福との関連において、中和剤のような働きをした。私たちは、成り立ちからいって、あまりにも順風満帆な状況には耐えられない。ある人々は金持ちになれたかもしれないが、神は彼らがそれに耐えられないことをご存知であった。それで決して彼らが耐えることのできないような試練[Iコリ10:13]に遭うことをお許しにならなかった。他の人々は有名になれたかもしれないが、彼らは高慢によって破滅していたであろう。それで主は優しいあわれみによって、彼らが名を上げる機会を差し止め、この一見するところの利益を彼らの真の益のためにお与えにならなかったのである。神が誰かに繁栄を恵まれるとき、神はそれに対応する苦しみをも合わせて送り、その有害な傾向を剥奪してくださる。私の知っていたある人々は、地上で有力な立場について歩んでいたが、ついに慢心して転落し、神の教会においては災いとなった。私の見てきた別の人々は、神がいや高い尖塔の上に置かれたが、それと同時に神は彼らを、苛烈な霊的苦悩、あるいは家庭内の苦難、あるいは肉体的苦痛という石臼の上石と下石の間で、ほとんどすりつぶしてしまうかのようであられた。多くの人々は尋ねた。「どうしてこのようなことが?」 その理由は、彼らの苦しみが、彼らの成功と均衡を取る重りとなるためであった。神のしもべは、隠れた懲らしめを耐え忍ぶことがなかったとしたら、その足を滑らせていたことであろう。私はこのことを、神から大いに恵まれてきたあなたがたの中のある人々に対して説明したい。あなたは自分の繁栄を恩恵であるとみなしてきた。だがあなたは、なぜ自分がそれと同時に試練に遭ってきたのかと思い惑ってきた。それは、もしあなたが懲らしめを受けなかったとしたら、その恩顧を負いきれなかったからである。あなたは帆を喜び、それを膨らませる順風を喜んできた。だが、あなたには船倉に底荷が積み込まれた理由を理解できなかった。あなたはそれがあなたの進歩を妨げていると思った。愛する方々。もしそれがなかったとしたら、あなたは海から吹き飛ばされていたであろう。というのも、その底荷があなたをしかるべき場所に保っていたからである。私としては、鉄床と金槌とに、また、火と鑢とに、他の何にもまさる大きなものを負っていると思う。私は主の摂理という矯正作用について主をほめたたえる。それによって主は、たとい私を一方では甘味で祝福しておられたとしたも、もう一方では苦味で祝福してくださったのである。私に対して主は二重の祝福を量り与えてくださった。――子羊の肉と苦菜[出12:8]である。その一方だけということはめったになかった。

 このようにして、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」。他の良い事がらの矯正剤として良いものであった。

 また、愛する方々。苦しみに遭ったことは、私たちの性質の内側に存在する種々の悪を癒すものとして良いことである。ダビデは云う。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」[詩119:67]。これは、神の多くのしもべたちに当てはまることである。彼らは1つの特定の誘惑に引かれがちでったし、自分ではそれを見てとらなかったかもしれないが、神の懲らしめの御手は、彼らの性格の中のその特別の弱さを目当てとしていた。私たちは時として骨相学や、人の頭にある種々の隆起について語ることがある。そして、その件については非常に多くの過ちを犯すことがありえる。だが、神はあなたの種々の傾向や精神機能をご存知である。ご自分の子どもたちの種々の特徴を、いかなる科学が判定できるよりも正確に承知しておられる。そして、桁外れの知恵と思慮をもって、ご自分の家族の中のひとりひとりに対して事を処される。思うに、聖徒たちの伝記がみな永遠に照らして読まれるとき、私たちは、私たちでさえも、なぜ何人かのキリスト者たちの痛ましい経歴が現実にそうあったものとならざるをえなかったかが見てとれよう。さもなければ、彼らが天国に行き着くことはできなかったのである。私たちは見てとるであろう。なぜあの異様な試練が送られたか、また、なぜ彼らが最もそれに耐えられないような時に送られたかを。私たちは発見するであろう。神が試練という衝立を間に置いて、その永遠の御目によってのみ見抜くことのできた、見えざる火矢を防いでくださったことを。また、サタンが手を差し入れてまさに転覆しようとしていた所に、いかに重りを積んで、その重りそのものが、心の軽薄さのため足元をすくわれるしかなかったような人に立ち続ける力をつけ足したかを。兄弟よ。これはみな良いことである。良いことである。非常に深く切り開く外科手術――まさに骨髄まで切り裂く手術刀――は、単に害のある点にまで達するにすぎない。その害は、根こそぎ全く取り除かなくてはならない。私たちの内側には悪しき傾向という癌があり、その細根すら残しておくわけにはいかない。優しさゆえに、その最小の繊維を残しておくとしたら、それは無慈悲な優しさとなるであろう。というのも、その癌が再発し、その悪い力で心を満たしてしまうからである。それゆえ、主は愛ゆえに深く切り込まれる。それは、鋭利で冷徹な切り傷となる。最も冷徹に見えるとき、それは最も大きな恵みの優しさなのである。私たちはまだ、自分の内側にある害毒のすべてを知らない。私は、五分もあれば、いかに完璧な人にも自分が完璧ではなかったことを証明してみせよう。ただ、ある種の人々をその人にけしかけさせてほしい。その人をからかわせてみよう。すると、私たちはすぐにその人の苛立ちを目にすることになる。悪魔が、天国の門口の間近にいる人に矢を放つ。すると、すぐにあなたは、新生した人の心の中にさえ腐敗が宿っていることに気づくであろう。主はこのことを私たちに自覚させようとし、それゆえ、しばしばこの隠れた悪を明らかに示すために試練をお送りになる。私たちはしばしば、何時間も小揺らぎ1つしないでいる水鏡のようなもので、非常に澄み切っていて、輝いて見える。だが、そこには沈降物があり、少しでも揺らせばすぐにそれが現われ、この水晶を濁らせてしまう。その沈降物とは古い性質である。試練がやって来ると、じっと横たわっていたものをかき立てて活動させ、私たちはこう云う。「何ということだ。私はこのような悪が自分の心にあったとは考えもしていなかった」。もちろん、そうであろう。家庭の中で、キリスト者である友人たちに囲まれて、居心地良く暮らしているあなたは、いかに自分が罪深い者であるか分かっていない。あなたは外の世間で人々があれやこれやのことを行なっていると聞くと、こう云う。「そういう人は何と悪辣な人々なのだろう」。だが彼らは、あなたが同じ立場に置かれた場合よりも全然悪くはないであろう。ただあなたは安楽にしており、彼らはいたく誘惑されているというだけである。犬は誰も家に立ち入らなければずっと寝ているが、玄関の戸を叩く音がするとたちまち吠え始める。

 主は私たちがまがいの聖潔を自慢することを望まれない。それゆえ、私たちに試練をお送りになり、私たちが自分の心の中にひそむ害悪を見てとり、自分の罪に打ち勝つ力を求めて、聖霊へと追い立てられるようにしてくださる。咎が真に取り去られることを求めて、イエス・キリストのきよめる血潮へと追い立てられるようにしてくださる。自分の内なるもろもろの罪と葛藤してきている人は、それらの多くを発見し、克服するための助けとなっているのが自分のもろもろの患難であったことを知っているに違いない。それで、この意味において、苦しみに遭ったことは良いことなのである。「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る」[箴22:15]。もしそうだとしたら、私たちは単にその杖を我慢するだけでなく、それに口づけしさえするであろう。

 患難は、現実に神の民の内側に良いものを生み出すものとしても彼らにとって有益である。いくつかの美徳はひとりでに生ずることがありえない。――少なくとも私には、いかにしてそれらが患難を抜きにして生ずることがありえるか分からない。その1つは忍耐である。もしある人に何の試練もなければ、その人はいかにして忍耐できるだろうか? 私たちはみな、何も我慢するものがないときには、自分が忍耐強いと思う。私たちはみな、あの目もくらむような高みを試してみるまでは、山の頂上に立てる。また、戦争が終わっているときには、勇者である。だが、矢玉が唸りを立てて耳元を行き交うとき物事は違って見える。私たちが海に投げ込まれるとき、私たちの泳力は以前考えていたほど抜きんでたものにはならない。私たちは自分に何ができるかについて大袈裟に考えている。だが試練こそはその試金石である。思うに、忍耐がある人のうちにあると云いたければ、そうした人々が患難を忍ぶことがまず間違いなく必要である。「患難が忍耐を生み出し」[ロマ5:3]。老練な戦士は数々の戦闘から生まれ、忍耐強いキリスト者は逆境の子である。同情と呼ばれる非常に甘やかな恵みがあるが、これは苦難を経たことが全くない人のうちにはめったに見いだされない。聞くところ私たちの愛する主であり《主人》である方ご自身、あらゆる点で私たちと同じように試みられることによって同情を学んだという[ヘブ4:15]。主は私たちのもろもろの弱さを感じなくてはならなかった。さもなければ、私たちへの思いやりに心打たれることはできなかったであろう。確かに私たちもそれと同じに違いない。私が時々家に泊まらせてもらうひとりの立派な兄弟は、生まれてこのかた、痛みや苦痛を覚えたことが思い出せる限り一度もないという。彼は五十代で、抜群の健康の持ち主である。よろしい。彼は人々に同情しようと努め、自分の力の限りそうしようとするが、その様子には微笑みを誘われる。それはまるで象が丸薬をつまみあげようとしているようである。彼がそうすることは途方もない離れ業である。彼にはそれが理解できない。あなた自身、あなたの試練に似たような状況を一度も忍んだことのない人の同情を得ることがいかに困難か知っていよう。ある人がひとりのやもめを訪問し、彼女の悲嘆について彼女に話をする。だが彼女はその間ずっと内心でこう思っている。「この人に何が分かるっていうの? この人は一生の伴侶を一度も失ったことがないのに」。ある独身者が、幼子を葬ったばかりの婦人に話しかける。彼が非常に聡明な人でない限り、彼は子どもたちに関する何らかの言葉で、この死別を味わった母親を慰めるよりは苛立たせることになりがちである。あなたがいかに最善を尽くしても、その試練をくぐったことがない限り、同情という精神機能の多くを持つことはない。火の中をくぐることによってこそ、私たちは、炉の中にある人々にどう対処すれば良いか分かるのである。それで私たちは、もし私たちが教役者だとしたら、あるいは、他者を教える人だとしたら、自分が苦しめられたことを神に感謝できよう。私たちは時として、私たち自身のためではなく、他の人々のために苦しまなくてはならない。それは、倦み疲れている人に対して時宜にかなった言葉を語れるようになるため、また、そのような人にこう云えるようになるためである。「あなたの路は分かりますよ。私もその道を通ったことがあるのです。私はその道の暗闇や物憂さを知っています」、と。荒野の悪の数々を忍んでいる巡礼たちは、それらを日常茶飯事としている旅の仲間を見るときに元気づけられる。

 また、私にとって苦しみに遭ったことが良いことなのは、苦しみが素晴らしい活性剤だからである。私たちは非常にたやすく眠り込みがちである。だが苦しみはしばしば私たちを目覚めさせる。二頭の馬を御している御者の隣の座席に座っていた、ある乗客は、御者が右側の馬に鞭を一打ちすることに気づいた。その馬は全く正常に、しかるべく走っており、それを鞭打つのは必要もない残酷さと思われた。別の旅の折にも、この御者はまさに同じ場所で同じことをするのが見受けられた。それで質問が発された。「私はいつも君があの馬に、ちょうどここで鞭を一打ちするのを見るのだが、――それはなぜなんだね?」 「あゝ、旦那。あいつには、ちょうどこの場所で脇にそれるっちゅう悪い癖があるですよ」、と御者は云った。「それで奴の注意をそらすために、一瞬、鞭のことを考えさせるんでさあ」。これには一理ある。兄弟たち。時折あなたや私は道からそれがちになる。すると、1つの苦しみが私たちの注意を誘惑から引き離してくれるのである。安楽な人生には別の危険もある。私たちはあまりにも眠り込みがちである。馬たちのように、私たちは一定のだく足で進みがちになり、ついには機械的な動きで、半分眠ったように道を行くだけとなってしまう。私は、今でさえ私たちがみな目覚めているかどうかわからない。多くの教役者たちは眠りながら説教している。そのことを私は確信している。多くの執事たちは眠りながら教会の一切の仕事を行なっている。そして、多くの人々は眠りながら祈祷会に来て、祈りをささげる。私は肉体的な眠りのことを云っているのではなく、霊的な眠りのことを意味している。これは非常に深刻な問題である。一部の人々のキリスト教信仰の一切は一種の夢遊病なのである。

 そこには、あってしかるべき活力も、一途さも、熱心さもない。彼らは何か驚くようなことで目覚めさせられる必要がある。私たちの試練や苦しみは、まさにそのことを行なうためのものである。それらは雷鳴の響きのようにやって来ては、私たちを驚かせ、こう尋ねさせるまでとする。「ここはどこだ? 私は何をしていたのか?」 そして私たちは自問し始める。「私は本当に自分で告白している通りの者だろうか?」 死が真っ向から私たちを睨めつける。私たちは秤の上に乗せられ、目方を量られ、試される。私たちは自分のもろもろの希望や告白を試し、自己欺瞞に陥る見込みが少なくなる。苛烈な試練が私たちに降りかかるとき、現実は現実となり、幻想は幻想となる。この世の物事は、痛烈な苦しみがやって来るとき、私たちにとって夢まぼろしとなる。それでこれは私たちにとって格別な恩恵なのである。なぜなら、神の御霊のもとにあって、それは目覚めさせ、覚醒させるからである。

 また、本日の聖句によると、苦しみに遭ったことは教えのためにも私たちにとって良いことであった。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」。試練は、神が私たちを黒板の上で教えてくださる学校である。この学び舎には、陽気な光を差し込ませる窓が1つもない。それは非常に暗く、私たちが外を眺めて、外部の物事で気をそらされることはありえない。だが、神の恵みが内部で蝋燭のように輝き、その光によって私たちは、ここに来るまで決して見られなかったものを見てとる。私が日の光の下で、同胞の人間たちと同じ水準に立っているときには、星々を見ることができない。日光のまばゆい輝きがそれらを隠してしまう。だが私が苦しみという深い井戸の中に潜っていくとき、上を見上げると、私の頭上には星々が見えるのである。私には他の人々に見えないものが見える。私は聖書を手に取る。すると、その種々の約束は、人々が時として檸檬の果汁で書くように、見えない文字で書かれているかに思われる。だが、その本を苦しみという火の前にかざすと、書かれた文字が鮮明に浮かび上がり、私は聖書の中に、火のように燃える試練がなかったとしたら決して見なかったはずのものを見いだすのである。約束の言葉は尊いものであるに違いない。神がそれを与えられたからである。だが、私は自ら試練の中に陥り、そこでそれを試してみるときに、その尊さについて個人的に確信する。私が期待するに、私たちは喜びの明るさでも何事かは学ぶ。だが、私がずっと強く確信するところ、そこでは、《死の影の谷》で私たちが学ぶことの十分の一も学ばないに違いない。そこでは、この世がその魅力を失い、私たちは目をそらして神を見ざるをえなくなる。種々の幻影や惑わしは姿を消し、私たちは永遠の《岩》により頼むしかなくなる。そこでは、私たちは、決して忘れることも疑うこともないようなしかたで真理を学ぶ。私は、一部の若い説教者たちが一日中苛まれ、毎朝懲らしめを受けてほしいと思う。そうすれば彼らも、信仰において健全になるかもしれない。また私は、神の民の一部が患難の海に没入してほしいとさえ願いたい気がする。それは、今の彼らを喜ばせているような現代のたわごとから彼らが解放され、昔ながらの、実質的な、清教徒たちの諸教理に立ち返るためである。それこそ苦しみに、あるいは死に直面するとき、私たちが有するに値する唯一のものなのである。しかり。私にとって苦しみに遭ったことは良いことである。あなたにとっても良いことではないだろうか? 愛する方々。聖なる教育において、神のことばを、また、その価値と尊さをあなたに教えることにおいてそうではないだろうか?

 II. しかしながら、私はこれ以上は苦しみの種々の美質について語ることはできない。というのも、もうほんのしばらく、次の真理について詳しく語りたいと思うからである。《神の近くにいることは私たちにとって良いことであった》。詩篇73篇の最後の節に目を向けてみるがいい。――「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」。

 ここでもまた、私たちは大きな確実性をもって語る。さあ、兄弟姉妹。あなたにとって神の近くにいることは良いことではないだろうか? しかし、この、神の近くにいることとは、いかなる意味だろうか?

 最初に、神が私たちの近くにおられると感じることである。――神の臨在を意識することである。次に、私たちが完璧に神と、その御子の死によって和解させられていると、また、人がその友と語るように神に語ることが許されていると感じることである。また、神と語る際に、自分が受けていることゆえに神をほめたたえること、私たちが必要とするものを神に求めることが許されていると感じることである。あなたは、自分の友人の近くにおり、腹蔵なく語り合うということがどういうことか知っている。そのとき、あなたと、あなたの愛する者は全く二人きりで、隠し事は何もない。あなたはあなた自身の秘密をすべて告げ、あなたの愛する者の語ることをみな知る。これが神の近くにいるということである。――そのとき、あなたの心の秘密が神とともにあり、主の秘密があなたとともにある。そのとき、主はみことばによってあなたに語りかけ、あなたは祈りによって主に語りかける。そのとき、あなたは罪を告白し、主は赦しを授けてくださる。そのとき、あなたはあなたの欲するものを主の前に明らかにし、主はあなたにあふれんばかりの満たしを請け合ってくださる。さて、これは良いことではないだろうか? 快いことではないだろうか? 豊穣なことではないだろうか? 魂をこの世から高く上げはしないだろうか? 非常に良く、また、有益なことであって、私たちが力強くこう云えることではないだろうか? 「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」、と。

 ここから出てくる1つの良いことが、この聖句の中で言及されている。よく見るがいい。「私は、神なる主を私の避け所とし……ましょう」。あなたは、神に近づけば近づくほど、神により頼めるようになる。知られざる神は、信頼されざる神である。「御名を知る者はあなたに拠り頼みます」[詩9:10]。神と最も交流を密に行なっている人々は、神を最も信ずる。神との歩みを始めたばかりのあなたは、神を信頼しようと努力する。だが、神と長いこと交流してきた人々は、自分たちが神により頼んでいると感じており、そうせざるをえない。神を信ずる信仰とは、兄弟たち。世人共通の感覚ではないだろうか? いわゆる常識のように、それが全世界で最も常ならぬ、非凡なものであるとしても関係ない。真実であるに違いないお方により頼むことは、常識的な行為である。そして、偽りを云うことができない、私の神により頼むことは、真の理性の命ずるところである。最大の事実にして最大の要因であられるお方を私の人生において、最大の要因かつ最大の事実とすること、また、このお方を現実のお方と信ずる者として行動すること、これが思慮である。私は切に願う。神の近くにいるようにするがいい。そのようにして、信仰があなたにとって、あなたの人生の主ぜんまい――あなたの、教えを受けた霊的性質の新しい常識――となるようにするがいい。私は、私とともにいかなるものの中にも入って行く信仰を喜ぶ。日曜を守る信仰、集会に行く信仰は、もしそこで終わるならば、綺麗な一片の菓子類である。だが、私の痛みや、私の貧困や、私の意気阻喪や、私の老年とともにある信仰――それが信仰である。私が見たいのは、もっと強壮で、実際的で、働かしうる、主にあって表に出る信仰である。アブラハムの信仰を見るがいい。私はそれが霊的であったことを知っているし、あなたもそう知っている。だが、それがあなたと何の関係があっただろうか? それは、ひとりの子どもの誕生、1つの都を求めること、家畜、土地、日常生活の種々の出来事と関係していた。それが、あなたや私の必要とする種類の信仰である。――月曜の信仰、火曜の信仰、水曜の信仰、台所の中に入る信仰、本の折り子であるあなたとともに作業場にあり、他の娘からあなたが笑われるときにも生きている信仰、他の者らが口汚い言葉を用いる職場でもあなたとともにある信仰、嵐の中にいる水夫を元気づけることができる信仰、病院で死につつある人を助けることのできる信仰、家庭内での信仰、毎日の信仰である。これを手に入れるには、ただ神の近くにいることによるしかない。神のまさにそば近くにいるようにするがいい。実際に、現実にそうするがいい。あなたのいのちそのものが、神のいのちに立って生きるものとなるとき、そのとき信仰はあなたの日常生活に入り込むであろう。もしあなたが絶えず神の近くにいるようになるなら、あなたはあなたの信頼を、あなたの絶えざる助け手としての神に置くであろう。

 私は、この詩篇の最後の言葉によって私の証しをしたいと思う。――「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう」。私の最初の聖句は、一個の説教者と関係している限り、いかに彼が個人的に教えられるかを示している。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」。私の二番目の聖句は、その説教者に関する限り、いかに彼が公で説教する上で助けられるかを示している。「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう」。他の人々に対して神のみわざを語ることができるということは、決して小さな賜物ではない。そして、この賜物を得るには、自ら神を避け所とし、神の約束が真実であると見いだし、それから他の人々にその証しをすることである。神の近くにいて、神との交わりをもち、その上でその山から下りてきて人々と語るがいい。自分の云うことを信じ、それを聞く人々にとって神がそれを祝福としてくださることを信じてそうするがいい。それこそ説教するしかたである。そして私は切に願う。神のために自分の口を開く、私たちの中のあらゆる者らが、それをこのようなしかたで行なうようにと。私たちが人々の前に示さなくてはならないのは、単に聖書の中にあることばかりでなく、私たちが自ら味わい、体験的に真理の良きことばについて感じたことである。イエス・キリストを、私たち自身の心の中で知る通りの、その復活の力において宣べ伝えることである。このようにしたければ、神との親密で個人的な交わりによるしかない。愛する方々。あなたがた、教えに携わっている人たちが真理を学びたければ、ある程度の苦しみを経るしかない。また、それを正しい心ではっきり告げたければ、ごく親密に神の近くにいるようにするしかない。そのとき、あなたはこう云えるであろう。「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた」[詩34:6]。あなたはこう云えるであろう。「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」[ヨハ9:25]。あなたはこう云えるであろう。「私が主を求めると、主は助けてくださった」*[詩34:4]。このような個人的な証しには、人を確信させる力が伴う。ならば、神が祝福なさるのは単にキリストのことばだけでなく、あなたの言葉でもあるのである。「おゝ」、とあなたは云うであろう。「そんな大それたことが云えるのでしょうか?」 しかり。イエスご自身がそう云われた。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」[ヨハ17:20]。彼ら自身が、キリストからのことばを受けた。キリストが人々に食べ物を与えたとき、彼らがキリストの御手からパンを受け取ったのと同じようにである。それは、彼らが受け取るまではキリストのパンであったのと同じようにキリストのことばであった。だが、彼らがいったんそのパンを受け取ったとき、それはペテロのパンとなり、ヨハネのパンとなり、ヤコブのパンとなり、彼らはそれを分け与え、人々はそれで満腹したのである。そのように、みことばは、彼らが個人的に受け取り、その後にそれを他の人々に渡した際に、「彼らのことば」となった。それはことごとくキリストのことばだったが、それでも彼らの言葉であった。そして、あなたはあなた自身の手でそのパンを得なくてはならない。あなた自身でそれを味わわなくてはならない。あなた自身でそれを裂かなくてはならない。さもなければ、あなたが人々の子らの間で生ける力によって祝福されることはありそうもないであろう。さて、もし神が私たちを苦しめられたとしたら、また、もし神がご自身で私たちに近づいてくださったとたら、ともに神に感謝しようではないか。そして、行こうではないか。苦しみを求めるためにではなく――それは賢いことではあるまい。――苦しみがやって来るとき、希望をもってそれを受け入れるために。今晩、神に近づこうではないか。そして、《愛する方》の御顔を見るまで、寝床に就かないようにしようではないか。これを私たちの夕べの歌としよう。――

   「赦しの血潮 新たに受けて
    われ床に就く 安らけく、
    わが神われを いだくごとくに、
    救主(きみ)の御胸に もたるごとくに」。

 

2つの良いこと[了]

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