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また会うときまで

NO. 1628

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように。アーメン」。――黙22:21 <英欽定訳>


 初代の聖徒たちは、彼らの主であり《救い主》であるお方のことを長いこと語らずにいることができなかった。主が彼らの心を満たしており、それゆえ、主について語らないわけにはいかなかったのである。彼らがいかに巧みに主を提示していることか! 彼らが何らかの書簡を書き出すとき、その挨拶には確実に主の御名が伴っていた。ある手紙の真中を書いているとき、彼らはその筆を止めて、1つの祈りをささげる。そして再び書き出すときには、それは主の御名を如実に示すような祝祷、あるいは、御父および聖霊とともに主に栄光を帰すような頌栄をもって始めている。ヨハネの黙示録はキリストで満ちている。その冒頭の節には、この尊い御名が響きわたっており、その末尾の行は、私たちがいま前にしているものだが、この天的な御名を繰り返している。主イエス・キリストは、パトモスで目にされたあらゆる幻の要諦であり栄光ではないだろうか? 私は、ヨハネが新しいエルサレムについて語ったように、黙示録についてこう云って良いではないだろうか? 「小羊が都のあかり」[黙21:23]である、と。このお方が、かの封印を解いて、かの巻き物を開かれるまで、ヨハネのこの預言書は、いかなる者にも理解できないように閉じられているのである。

 ヨハネは自分の書物を閉じる際に、いかなる名にもまして自分にとって最も愛しい名前に言及せずにはいられなかった。自分の筆を擱き、もはや何も書くまいとしたとき、彼はしめくくりに、あらゆる場所にいるすべての聖徒たちへの祝福を祈願している。そして、これがその形式である。「主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」。パウロは、この祝祷の用法を自分の独特のしるしだと主張したかのように思われる。「これが私の手紙の書き方です」[IIテサ3:17]。本当にそうだったかどうかは分からない。というのも、使徒はそこで彼自身の大きな手書き文字と、彼が自分の手紙に付した署名のことを指しているのではないかと私は思うからである。しかし、それでも、多くの解説者によると、パウロはこの特定の祝福を彼の個人的な記号、ある手紙の真正性の証印として用いていたのだという。コリント人およびテサロニケ人への手紙の末尾を見てみるがいい。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように」[Iテサ5:28]。確かにパウロはこの言葉を頻繁に用いた。だが、ことによると、パウロが召された後で、ヨハネはパウロの座右の銘を採用し、それによって、いわば黙示録という最後の書物に自分の印章と証印を押すべきだと判断したのかもしれない。この祝祷は、いかなる単一の使徒によっても、あるいは、実際、使徒たち全員を合わせても、独占されることがありえなかった。パウロはそれを自分のものとしたが、ヨハネにもそれを用いる同等の権利があった。そして、これは今や、この巨人たちの双方が用いたがために、私たちにとっていやが上にも愛しいものとなっている。

 兄弟たち。私たちの前にある祝祷は、単にパウロの言葉であり、ヨハネの言葉であり、聖書の最後の言葉であるというだけでなく、これは今やイエス・キリストに仕えるすべての教役者たちのえり抜きの言葉である。これは、私たちが信仰者たちを解散させるときの言葉ではないだろうか? 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」[IIコリ13:13]。これは、主がもう一度来られるまで、そのようなものであり続けるであろう。これは最も恵み深い心にとってふさわしい云い回しであり、信仰者が幸福を祈る自分の気持ちを発し、自分の最も敬虔な願いを表現するための祈りである。今回私は、あなたがた全員の上に、私自身の最も謙遜かつ真摯な心をこめて、この祝祷を宣言したい。「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」、と。

 もし御霊が私を助けてくださるなら、私は今回、まず第一に、この祝祷について考察しようと云いたい。それから第二に、その独特の位置を考察しよう。というのも、そこから学べることがあるからである。

 I. では第一に、《この祝祷について考察する》ようにしよう。これは3つの部分、3つの項目の下に分けられる。――何を? いかにして? そして、誰に対して? である。

 1. 何を? ヨハネがこう云うとき、彼が願っていることは何だろうか?――「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」。

 原語はカリスである。私は「恵み」以上の訳語がありえるとは思わない。これは通常、新約聖書を通じて恵みと訳されている。ギリシヤ語に精通している人々が私たちに告げるところ、これはその語根として「喜び」があるという。カリス、すなわち恵みの根には喜びがあるのである。これはまた、恩顧、いつくしみ、そして特に愛をも意味する。そして私は、御霊の意味するところをゆがめることなしに、この言葉をこのように読めるであろう。「私たちの主イエス・キリストの愛があなたがたすべての者とともにあるように」。しかし、私たちのように無価値な存在に対する愛が、無代価の恩顧――すなわち、恵み――としてしか表わせず、ここで用いられている訳語[恵み]が正確な表現であると分かっている以上、私たちはこの言葉をそのままにしておき、ただ、その中に含まれている愛という甘やかな蜜を一滴か二滴、振りかけておこう。ヨハネが願っているのは、私たちがイエス・キリストの無代価の恩顧を、イエス・キリストの愛を、私たちの主イエス・キリストの恵みを得ることなのである。

 イエス・キリストご自身は、普通、私たちの祝祷の中で恵みをお持ちのお方として言及されており、御父は愛を有するお方とされている。そして、私たちの通常の祝祷は私たちの主イエス・キリストの恵みと神の愛から始まる。それは適正な順序だろうか? 私たちはむしろ、御父、御子、聖霊と云うべきではないだろうか? 兄弟たち。この祝祷において述べられている順序は、私たちが経験する順序なのである。私たちが学んでいく順序、私たちが受けとっていく順序なのである。私たちはまず、キリスト・イエスにある恵みと無代価の恵みを受け、その後で、そこから御父の愛を学んでいく。というのも、いかなる者もイエス・キリストを通してでなければ、御父のもとに行くことがありえない[ヨハ14:6]からである。この順序は、私たちの経験にとっては正確であり、1つの教えに富んだ祝祷の中で聖霊はこのことを私が学ぶように意図しておられるのである。

 御父の愛は、いわば、あらゆることのひそかな、神秘的な胚種である。イエス・キリストのうちにある同じ愛が恵みである。主の愛は、その活動的な形にある愛、地に降って来る愛、人間の性質をまとう愛、大いなる贖いの代価を支払う愛、天に上る愛、御座に着いて待っている愛、嘆願する愛、やがて力と栄光を帯びてやって来る愛である。この永遠の愛は、いわば御父のふところに宿っていたものであったが、それが立ち上がり、活動へと移り、それからは私たちの主イエス・キリストの恵みと呼ばれているのである。

 この私たちの主イエス・キリストの恵みは、それゆえ、天来のご人格の恵みである。兄弟たち。私たちは、自分自身について願うのと同じように、あなたがたについても、神ご自身の、豊かで、果てしなく、尽きせぬ、不変の、天来の恵みを願うものである。それは、一部の人々が語っているような一時的な恵みではない。自らのものを守ることをせず、自らの牧場の羊さえさまよい出させ、滅びるにまかせるような恵みではない。むしろ、私たちの主イエス・キリストの恵みである。それについてはこう書かれている。「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」[ヨハ13:1]。この上もなく強力で、こう云った恵みである。「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません!」[ヨハ10:28] 私たちは、この恵みがあなたとともにあってほしいと願う。大地の始まりからあなたを愛した恵みが。――「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」[エレ31:3]。このあわれな世界が溶けて、元々発した無へと戻ってしまうときも、あなたとともにある恵み、無限で、永遠で、変わることなき恵み――私たちはあなたがそれを有するように願う。願わくは、その天来の高さ、深さ、長さ、広さをあなたが豊かに有することができるように。願わくはあなたが、人知をはるかに越えた、キリストの愛に満ちた恵みを知ることができるように。願わくはあなたがキリストの測りがたい富をつかむことができるように。これは決して小さな宝ではない。――天来のご人格のこの恵みは。

 だが、私たちの主イエスは人間でもあられる。天来のお方であるのと同じくらい真の人間であられ、主を信ずる者として、あなたは、人なるイエス・キリストの恵みを、あなたがたすべての者とともに有している。願わくはあなたが主の優しさ、主の兄弟らしさ、主の恵みを感じられるように。主はあなたの親類であり、恵み深くもご自分の親類の者たちに恩顧を与えられる。このお方は、私たちにとっても最も近親の人であり、ルツがボアズのすべての愛を自分のものにできたように、あなたもイエスの心をすべて所有できるのである。願わくは主があなたの相続地をあなたのために買い戻し、あなたをめとって、ご自分とのほむべき永遠の結び合いによって、ご自分のものとしてくださるように。願わくはナザレの《人》の恵み、マリヤの《子》の恵みが、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」[ロマ9:5]、賛美されるべき方の恵みと同じく、あなたとともにあるように。この、一人格において神であり人であられる、また、私たちが主と呼ぶ、驚嘆すべきお方の恵みが今、あなたの上にあるように厳粛に祈願されているのである。

 この聖句をもう一度読み、その中途でしばし立ち止まり、「私たちの主……の恵み」を喜ぶがいい。いかなる親しみを私たちがこのお方に感じていようと、私たちはこのお方を《主人》また主と呼び、このお方も、「あなたがたがそうするのはよい。わたしはそのような者だからです」*[ヨハ13:13]、と云われる。このことを忘れないようにしよう。このお方の尊厳から来る恵み、このお方のかしら性から来る恵み、自らのからだなる、ご自分の教会に対する、このお方の天来の人間的優位性から来る恵み――これこそ、私たちがあなたがたすべての者のために願っている恵みである。

 次の言葉を読むがいい。「私たちの主イエス……の恵み」。願わくはそれがあなたとともにあるように。すなわち、私たちの《救い主》の恵みである。それがイエスという言葉の意味だからである。その救いに至る恵みのすべて、咎から、罪から、苦難から贖うもののすべて、私たちを永遠の救いをもって救うもののすべて――願わくは、それが余す所なくあなたのものであるように。

 それから別の言葉がやって来る。「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがた……とともにあるように」。このお方が、《油注がれたお方》として、あなたがたを訪れてくださるように。願わくはこのお方の油注ぎの恵みがあなたがたとともにあり、その《かしら》に注ぎ出された聖なる油があなたがたにも下って来るように。かの聖なるナルドがアロンのひげから滴り落ちて彼の衣のすべてを香らせたように[詩133:2]。願わくはあなたがたが、あなたがたに知識を与えるという、かの《聖なる方》からの油注ぎ[Iヨハ2:20]を得るように。私はこうした言葉の1つ1つについて詳細に述べたい気がする。だが、そうするには時間が足りない。ただ、この「私たちの」という言葉には念を入れておこう。「私たちの主の恵みがあるように」。この甘やかな言葉をとらえるがいい。この場合、ことによると、それは原典にはなかった言葉かもしれない。というのも、それはシナイ写本にはないからである。だが、この特定の事例にそうであろうとなかろうと、それはみことばにあり、永遠に真実のこととして立っている。イエスは私たちの主である。――私たちの主イエス・キリストである。あなたがたの主でも私たちの主でもあられる。願わくはこのお方の恵みがあなたがたとともに、また、私たちとともにあるように。

 2. 次の区分は、いかにして?である。「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」。これは何を意味するだろうか? 私たちの最初の答えは、私たちの主の恵みが事実問題としてあなたがたの上にとどまるように、という願いである。――すなわち、主が真実に、また、強くあなたがたを愛するように。単に世を愛するようにではなく、世にいるご自分のものを愛された[ヨハ13:1]ように愛するように。願わくはあなたが主の贖いを有するように。一般的なこととしてではなく、次の言葉に従って有するように。「主は私たちを人々の中から、あらゆる部族から贖われた」*[黙5:9; 14:4]。願わくはあなたがたが特別な、独特の愛を有するように。それは、キリストが、御父から与えられた者たちに対して有しておられる愛である。彼らの名前は主の胸当てに刻まれており、彼らのために主は、実効ある贖いの代価を払って、それによって彼らが救い出されるようにしてくださった。願わくはそのような恵みがあなたがたとともにあるように。事実問題として、それがあなたがた、選ばれ、子とされ、召され、聖められた者たちの上にとどまっているように。

 次に、願わくはあなたがたがその恵みを信じるように。その恵みを信頼するように。それによってあなたの信仰が迫られるがゆえに、また、あなたがそれにより頼んでいるがゆえに、それがあなたがたとともにあるように。あなたはイエスが自分を愛していると信じている。主の恵みを信じ、自分を主にゆだね、自分の霊を、自分のために刺し貫かれ、十字架につけられたあの御手による守りに引き渡している。願わくはこのお方の恵みが、そうした意味であなたがたとともにあり、あなたがたがそれを悟るようになるように。

 さらに、願わくは主の恵みが信仰の対象としてあなたがたとともにあるように。それは、あなたの信ずる思いが完全な確信となり、キリストがあなたに対して有しておられる愛を知り、あなたが地上で有する最愛の友の愛を疑わないのと同じくらいそれを疑わなくなるように。願わくは主の愛が現在の事実となり、疑念を抱かれるべきものとはならないように。あなたが自分の魂の隠れた場所で、こう云って喜ぶ宝物となるように。「主は私を愛し私のためにご自身をお捨てになった」*[ガラ2:20]、と。願わくは主の恵みが、揺るぎなく確信できるような意味であなたがたとともにあるように。

 そして次に、願わくは主の恵みが、そこから流れ出すいつくしみにかけても、あなたがたとともにあるように。願わくはあなたがたが、キリストの恵みの生み出しうるすべての祝福をわがものにできるように。平穏な良心の恵み、きよめられた歩みの恵み、神に近づくことのできる恵み、熱烈な愛という恵み、聖なる期待という恵み、自己否定の恵み、完璧な聖別という恵み、そして最終的堅忍の恵みがあるように。願わくはこの泉と水源があなたがたとともにあり、きらめくような流れがあなたがたの足元を流れるように。

 そして次に、願わくは恵みが、私たちとキリストとの間の絶えざる交わりを生み出すようなしかたで私たちとともにあるように。主のいつくしみが私たちの心に流れ込み、私たちの心がその感謝をお返ししているように。おゝ、キリストとのほむべき交易に携わること、弱さと強さを交換し、罪を義と交換し、思い煩いを信頼と交換することができるように。おゝ、愛に愛を与え、心に心を与え、ついには私の最上の愛が私を愛し、私の最上の愛がことごとく主のご自身のものであるように。おゝ、この峠に至り、私たちの《愛する方》が私たちとともにおり、私たちが互いの甘やかな交際を楽しむようになるように。これが、イエスの愛を、あるいは、恵みを私たちとともに有するということである。

 願わくは私たちの主イエス・キリストが、このようにその恵みにおいて私たちとともにおられ、私たちのためになしうることのできるすべてのことをなしてくださるように。願わくは私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たち。あなたがたが祈りたいと願うときにともにあるように。そのとき、かの偉大な《大祭司》があなたがたのためにとりなしてくださるように。私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたとともにあり、あなたがたが意気阻喪しているときも、主がこう云ってくださるように。「あなたがたは心を騒がしてはなりません」[ヨハ14:1]。私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたとともにあり、あなたがたが脇へそれそうになるとき、あなたがたを引き留め、自分の道が分からなくなるときあなたがたを導き、今にも意気消沈しそうなときにあなたがたを元気づけ、ほとんど足が滑りそうになるときあなたがたを堅く立たせてくださるように。願わくはあなたがたの心とからだが衰えるときも、最期の時がやって来たときも、これから神の前に現われるというときにも、私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたとともにあるように。願わくは、あなたがたが常に知ることができるように。キリストがあなたがたのうちにあって、あなたがたのために、あなたがたとともに、あなたがたによって行なうことがおできになるすべてのことを。これ以上にすぐれたいかなる祝祷を、ヨハネその人でさえ口にできただろうか?

 3. しかしいま、私たちの講話の第三の部分に移ろう。その項目は、「誰に対して?」である。「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」。確かに、もし私たちがこのことを、考えうる限り最大に広い意味で受け取って、――それがあなたがたすべての者とともにあるように――と云うとしたら、すべての人が私たちの主イエス・キリストを自分のかたわらに置くように願うことは間違いではありえないであろう。だが、私も承知している通り、一部の健全な兄弟たちは、野放しの表現に見えるようなもの、すべての人に善を願うような表現には、非常に疑り深い目を向ける。私自身としては、慈悲深い願望に制限をかけたがるような正統信仰の性質を理解できない。私は、自分の前に立ち現われるすべての人に善を願うという方向においては、どんどん異端的になっていきたいと思う。あらゆる人々にとって起こりえる最善のことが彼らに起こればどんなに良いことか。私はこれっぽっちの偽善もなしに、次のような願いを全人類に向かって表明したい。「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」。それでも、疑いもなく、この言葉の前後のつながりからしても、また、いくつかの異本の同じ箇所からしても、この祝祷は聖徒たちに限定されたものであり、実際的には、常に聖徒たちだけに限定されるに違いない。というのも、私たちの主イエス・キリストの恵みは、自分の心をイエスにささげ、イエスによって、イエスにあって、イエスに対して生きている人々だけによって知られ、わがものとされるからである。私たちは私たちの主イエス・キリストの恵みが、いずれにせよあらゆる聖徒たちにあるように願おう。聖徒たちの中のある人々は、到底私たちのことを認めないであろう。だが、私たちの主イエス・キリストの恵みが彼らにもあるように。彼らは私たちが彼らの講壇で説教することを許さないであろう。だが恵みが彼らとともにあるように。彼らは、私たちとともに聖餐式にあずからないであろう。恵みが彼らとともにあるように。彼らは私たちを分離派だの分派だのと呼ぶが、「私たちの主イエス・キリストの恵みが彼らすべての者とともにあるように。アーメン」。いかなる者たちであれ、そのひとりひとりとともにあるように。もし彼らがキリスト・イエスにあるなら、私たちの主イエス・キリストの恵みが彼らとともにあるように! 時折あなたは、すべての真理を理解しているとは到底云いがたいような人によって書かれた本に出くわすことがある。だが、著者はイエス・キリストを知っており、彼の筆から《主人》について発された、その甘やかな言葉を読み進めるうちに、あなたは自分の心が著者に織り合わされるのを感じる。あなたの魂は、筆者が高教会派であるのは残念なことだと感じる。だが、もし彼が主イエス・キリストを愛しているとしたら、私たちは彼の過誤を忘れ、彼の中に見られるイエスのいのちを喜ぶ。もしある人がキリストを知っているとしたら、そうした人々は最も重要な事柄を知っているのであり、私たち自身が守っているいかなるものにも全く劣らぬほど貴重な秘密を所有しているのである。というのも、私たちはキリストを越えた何を知っているだろうか? また、キリストにあるもの以外にいかなる希望を有しているだろうか? もしあなたがキリストを愛しているとしたら、あなたの手を私に差し出してほしい。愛する方よ。あなたがいかに大きな間違いを犯していようとかまわない。もしキリストがあなたのより頼むすべてであり、あなたの信頼のすべてであるとしたら、私はあなたの目がそれよりもはるかに多くのことを見えないことを残念に思うし、あなたの頭がずっと真っ直ぐにものを考えられないことを残念に思うが、あなたの心は正しい所にあってイエスの上で安らぎ、イエスの上で休息しているのである。では、私は何者だからというので、あなたを裁くべきだろうか? キリストのうちには、一千もの過誤によっても殺せないいのちがある。それを有するすべての者たちのうちには全く同じいのちがある。彼らが、その意見や外的な儀式において、いかに多種多様なあり方をしていようと関係ない。そこには永遠のいのちがあり、そのいのちとはキリスト・イエスであり、そのいのちを有するすべての人に私たちは真心からこう云うものである。「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」、と。

 私は、パウロがこのことを彼の書簡の1つで云っていることに気づく。その宛先の教会は、すさまじいばかりの不行跡を働いていた。それは、いかなる教役者も御免こうむる教会の1つであった。全員が好き勝手なことを語っており、パウロから、「神は混乱の神ではない」*[Iコリ14:33]、と云われた教会であった。彼らはあまりにも堕落した教会であったため、近親相姦をしている人間を聖餐式に出席させているほどであった。だが、それでも使徒は、彼らを叱責した後で、こう云ったのである。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように」[Iコリ16:23 <英欽定訳>]。私たちもまた、コリント人たちのように無知ゆえに過ちを犯している人々にそう云わなくてはならない。たとい私たちが兄弟たちと意見を異にしていようと、たとい彼らを叱責しなくてはならないとしても、たとい時として彼らも私たちを叱責し、そのことで怒りの色を見せるとしても、それでもこれが、そうした一切の最終楽章となるように願いたい。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように」。私たちは、キリストのからだの中にあるすべての人々に対して、最高の程度の恵みを願うべきではないだろうか? この祝祷は、単にそう云うべきであるからというだけでなく、そう云うことが喜びであるがゆえに口にしよう。聖徒たちの幸福を祈るときには、義務感からではなく、私たちの心がそうざるをえないがためにそうしよう。

 II. さて今、あまりあなたを長々と引き留めないようにして、ほんのしばしこのことに熱心に注意してほしいと思う。《この祝祷の位置》についてである。

 最初に、私が云うべきことを引き出したいのは、これが聖書の最後の言葉だという事実からである。それゆえ、私はこれが使徒の最後にして最高の願いであるとみなすものである。私たちはこのことを見いだして嬉しく思う。旧約聖書は1つの呪いをもって閉じられている――「それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」[マラ4:6]。――が、新約聖書は1つの祝福をもってしめくくられているのである。「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」。あたかもキリスト者のいのちと精神そのものが祝福であるべきであることを示すかのようである。そして、これは私たちにとっても、人々に対する私たちの最後にして最高の願いであるべきである。――すなわち、彼らが私たちの主イエス・キリストの恵みを受け、それを保つことである。私の愛する兄弟姉妹。私はこの祝福をあなたがたすべてに願っている。あなたがたが何に不自由するとしても、私たちの主イエス・キリストの恵みは常にあなたがたとともにあるように。いかなる点であなたが、あるいは、私たちの中の誰かが不足するとしても、決して私たちが私たちの主イエス・キリストの恵みに欠けることはないように。説教者が、他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるとしたらどうなるであろう![Iコリ9:27] そうならないように祈ってほしい。執事や長老がキリストの群れを導きながら、しかし、私たちの主イエス・キリストの恵みが彼とともにないとしたらどうなるであろう! 彼はもうひとりのユダかデマスになってしまう。それはすさまじいことである。あなたが日曜学校で幼子を教えていながら、しかし自分自身は学んでいないとしたらどうなることか! 主の晩餐のもとに来ていながら、主の肉を食べも、主の血を飲みもしていないとしたら悲しいことである。水に浸されながら、決して聖霊のバプテスマを知ったことも、キリストにつく霊的なバプテスマを授けられたこともないとしたら、悲しいことである。もしも、さんざん信仰告白してきた後で、また、必死に労苦し、教えてきた後で、私たちの主イエス・キリストの恵みが私たちとともにないとしたら、どうなることであろう。私は切に願う。兄弟たち。他のどの祈りがかなえられないとしても、この教会のあらゆる教会員について、また、イエス・キリストのあらゆる教会の教会員について、いずれにせよ、私たちの主イエス・キリストの恵みが私たちとともにあるように、と。それ以下の何物をもってしても私たちの役には立たず、それ以上の何も私たちは欲さない。もし私たちがイエスからの恵みを得たなら、私たちはイエスとともに栄光を受けることになるが、それがなければ私たちに希望はないのである。

 このように、黙示録の末尾にあることから、次に私は、この位置が、終末が来るまでの私たちに必要なものを指し示すものとみなす。すなわち、今から私たちの主が再臨によって降って来られるまでの間ということである。これこそ私たちが求める1つのことである。「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」。願わくはそれが私たちとともに日ごとに、ふんだんにあるように! それが私たちとともにあって、それぞれの時代における私たちの態度行動について教えてくれるように! それが私たちとともにあって、あらゆる罪から私たちをきよめ、主が光の中におられるように、私たちも光の中を歩けるようにしてくれるように![Iヨハ1:7、9] それが私たちとともにあって、私たちの日々の重荷を負う力を与え、時代時代で異なる状況下にあって御名のための証しを行なわせてくれるように。それが私たちとともにあって、人生の試練が気を散らすときも私たちに助言してくれるように! 私たちが栄光から栄光に姿を変えて行き、ついにイエス・キリストのかたちを帯びるに至るまでの間[IIコリ3:18]、願わくはこれが私たちとともに十分豊かにあらんことを! 主はこう仰せにならなかっただろうか? 「わたしの恵みは、あなたに十分である」[IIコリ12:9]。願わくは私たちの主イエス・キリストの恵みが、主の来られるまでに必要とされるあらゆるしかたにおいて、あなたがたすべての者とともにあるように! 主はあなたに神のすべての武具[エペ6:11]を供することがおできになる。この巡礼の生において必要なすべてを備えることがおできになる。福音の漁師としての私たちの労苦のために、主は私たちが必要とするあらゆる網を支給し、主の葡萄畑における私たちの働きのために、あらゆる道具を私たちに与えてくださる。願わくは私たちの主イエス・キリストの恵みが私たちとともにあるように。そうすれば、私たちはかもしかのように足が速くなり、若い鹿のように山腹にあっても足どり確かで、いかに険しい山地でも滑ることはないであろう。ただキリストが私たちとともにいてさえくださるなら、私たちはキリストにあって全き者である。キリストにある成人[コロ1:28]である。人々が地上と天国の間でよみと戦い、この世を踏みにじり、永遠の完成に入るために必要なあらゆる装具は、キリストの中に見いだされる。願わくはその恵みがあなたがたすべての者とともにあるように。アーメン。

 この祝福がこの書の末尾に位置していることから、最後にこのことを考えたい。――これは、終わりが来るときに私たちが願うだろうことである。私たちは、自分の聖書の最後に至るのと同じように、人生の最期に至る。そして、おゝ! 年老いた方々。願わくはあなたのかすんだ目が、あなたの読み込んだ聖書の最後の頁の上と同じく、人生の最後の頁の上にも私たちの主イエス・キリストの恵みを見て励まされるように。たぶん、あなたがたの中のある人々は、恵みを得る前に人生の最終頁に至るであろう。私はそこであなたがそれを見いだせるように祈る。私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたとともにあるように。あるいは、かりに私たちが死なないと考えてみよう。かりに主が突然、その神殿に来る[マラ3:1]としよう。おゝ! そのとき私たちに主をお迎えする恵みがあるように。私は1つの祝祷が黙示録をしめくくっていることを非常に嬉しく思う。というのも、黙示録という書に立つとき、あなたは雷鳴の轟きを立て続けに聞き、怒りの鉢がぶちまけられ、大気を暗くし、太陽と月が暗黒と血の色になるのを見るのである! 地はあなたの足の下で揺れ動き、星々は無花果の葉が木から落ちるように落ちてくる! あなたは混乱し狼狽に満たされる。そこへ、この聖なる囁きが聞こえるのである。「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」。天空の星はみな好きな所へ落ちて来るがいい。私たちの主イエス・キリストの恵みは私たちとともにあるのだ。山々よ、振動し、揺れ動き、溶け崩れるがいい。おゝ、大地よ。消え失せるがいい。もし私たちの主イエス・キリストの恵みが私たちとともにあるなら、私たちは終末を恐れはしない。私たちは心穏やかに物質の破損を、また世界という世界の崩壊を眺めることができる。この最後の尊厳な法廷が開廷し、人々がその前に立つべく召還され、その最終的な運命を云い渡されるときも、私たちの主イエス・キリストの恵みがともにありさえすれば、私たちは震えることなくこの大きな白い御座[黙20:11]の前に進み出て、そこに立つことができるであろう。

   「われ大胆(なお)く立たん かの大いなる日に
    そは誰(た)ぞ われを 責めうべき?
    主の血潮にて われ解放(とか)れるに
    罪の膨大(すさま)じ 呪い、恥より」。

おゝ! 幸いな人々よ。自分の《救い主》キリストによって覆われ、保護され、かくまわれている彼らにとって、主の恵みはタボル山で変貌した白い衣[マタ17:2]のようになる。というのも、彼らは《愛する方》にあって受け入れられており、自分の《主人》の栄光によって栄化されるからである。この人々に対してこそ、この聖句は成就するのである。「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」。

 これを最後に、兄弟たち。暇を乞おう。そして、あなたがたがここを出て行くときに、私はただ戸口の所に立って、私の友情の手を差し伸ばし、ひとりひとりの方にこう云いたい気がする。

 「しばらくの間、さようなら。あなたのために幸福を祈らせてください。――私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたとともにありますように」、と。あなたは後ずさりしてこう云うだろうか? 「先生。私はその恵みについて何も知りません」、と。ならば、もうほんの少しあなたを引き留めても良いだろうか。私はこう祈るであろう。「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたとともにありますように」。もしかすると、あなたの目に宿っているのは悔悟の涙ばかりで、そこにはまだ信仰の光がないであろう。あわれな心砕かれた悔悟者よ、私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたとともにあるように! もしかすると、あなたはまだイエスを知ってはおらず、イエスを求めているだけであろう。いま主の恵みがあなたとともにあるように。主がご自分をあなたに現わしてくださるように! そして、あなたがた、信仰後退者たち。あなたは自分が祝福など受けられないかのように感じているだろうか? 私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたとともにあり、あなたを引き起こし、転落したペテロに対して主がそうされたように、あなたを再びあなたの足で立たせてくださるように。私は、もし自分にできることなら、今晩この建物の中にいる見知らぬ人、あまり頻繁には神の家に集うことのない人にこう云いたい気がする。私たちがあなたのために衷心から願うこと、それは、あなたが私たちの主イエス・キリストの恵みを真実に知るようになることである、と。この場にいる少年少女たちに、この牧師は云おう。「神があなたを祝福されるように」、と。小さなメアリー、あるいはジェーン、あるいはジョン、あるいはウィリー、あるいは、あなたが他のどんな名前をしていようとも、「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」。というのも、主はこう云っておられるからである。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません」[マコ10:14]。あなたがた、白髪の方々、じきに故郷に帰る人たちに対しては、私はこのお別れの祝福を願いたい。「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべての者とともにあるように」。私があなたとまた会うときまで、「神があなたを祝福したまわんことを」。その日が開けて、影が逃げ去るまで、私たちの主イエスが決してあなたのもとから去られることがないように。アーメン、アーメン。

 

また会うときまで[了]

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