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四つの訴因による告発

NO. 1580

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない」。――ゼパ3:2


 四つの重い訴因をもとに、すさまじい告発がエルサレムとユダヤの民に対してなされている。エルサレムが大王の都[詩48:2]でありながら、その高い状態から堕落したことを思い起こすのは、悲しいことではないだろうか? それは大いなる神殿のある場所であった。他の国々が暗黒に沈んでいる間も、そこでは神の光が輝き出していた。他の場所では偽りの神々があがめられていたが、そこでは厳粛な神礼拝が執り行なわれていた。だがしかし、その罪は主を怒らせ、ついに主がそれを滅ぼす者に引き渡すまでとなったのである。それゆえ、いかに著しい光も、いかに多大な特権も、人々を神の前で生きた、正しい者に保つことができないことは明らかである。もし心が変えられていなければ、また、もし神の恵みが外的な諸制度に伴っていなければ、天にまで高く上げられた者たちも、地獄にまで投げ落とされることがありえる。最良のものが腐敗すると、最悪のものとなる。そして、エルサレムのように恵まれた町が不潔な獣どもの住みかとなるとき、それは悪の巣窟そのものとなる。ニネベも、バビロンも、ツロも、シドンも、犯罪行為という点では、この、かつては選びを受けた、大王の都とは比較にならなかった。それゆえ、国民としての私たちは、自分の受けている種々の特権ゆえに鼻高々になり始めないようにしよう。というのも、もし私たちがそうした特権にふさわしい者であることを証明しないと、その燭台はこの場所から取り去られ、私たちの暗闇は、自分の失った光のゆえにいやまさって濃密なものとなるだろうからである。もし私たちが主の前を従順に歩いていないとしたら、主はこの島をバベルの塚や、あのツロの云い表わしがたいほど大いなる破滅の現場となさるかもしれない。

 私たちは通常、エルサレムを教会の予型と受け取る。そして、これは1つの教会の最も充実した予型の1つである。それは、「上にあるエルサレム……私たちの母」[ガラ4:26]である。それゆえ、私たちはエルサレムの運命を、諸教会に対する特別な警告とみなして良い。ある教会の中には神の住まわれる所がある。そこには知識の光がある。犠牲の火がある。その中から神が輝き出ておられる。しかし、教会は悲しいほどに衰退することがありえる。ある教会は、今や反キリストの名に値している。その教会は過去に逸脱し、転落の一途を辿り、ついには人間をその頭に戴き、彼を無謬と呼ぶまでとなった。多くの主と、多くの神々を立て、聖人や聖女たち、また、無数の礼拝対象を打ち立てては、捨てられた襤褸切れや、腐った継ぎ布を拝むまでとなった。ある教会はこの告発を今日下されて当然である。「呼びかけを聞こうともせず」。――それは福音を聞かなかった。「懲らしめを受け入れようともせず」。――改革者たちがやって来たときには彼らの血を求めた。「主に信頼せず、神に近づこうともしない」。むしろ、他の者らにつき従い、キリスト以外のとりなし手たちを打ち立て、教会の真の《かしら》を拒絶した。

 他の諸教会も、霊的な力によって守られない限り、同じような罪に陥ることがありえる。ラオデキヤを思い出すがいい。いかにこの教会が、熱くも冷たくもなかったためにキリストの口から吐き出されたことか[黙3:16]。サルデスを思い出すがいい。そこには、その名を汚さなかった者がほんの数人しかいなかった[黙3:4]。そうした町々や諸教会は今どこにあるだろうか? 荒廃に答えさせるがいい。それらについては、主がこう云われたギルガルについてと同じことが云えよう。「さあ、先にわたしの名を住ませた所へ行って、そこで石が崩されずに、積まれたまま残っているものがあるかを見よ」*[エレ7:12; マタ24:2]。おゝ、教会としての私たちが、また私たちの姉妹教会たちが、主の前で、教理的な正しさと、実際的な聖潔と、内なる霊的いのちとに対する聖なるねたみをもって歩むことができればどんなに良いことか。というのも、そうでないと、私たちの末路はみじめな失墜となるだろうからである。もし恵みの塩が教会の中になければ、それは神に受け入れられるいけにえになることも、あらゆる肉の塊にとって自然の成り行きである腐敗から長いこと守られることもありえないからである。ある民は、他の民より何がすぐれているのか? また、ある共同体は、他の共同体より何がすぐれているのか? 私たちは生まれながらに人であり、同じ悪に傾きがちである。では私たちが同じそむきの罪に陥らないでいるとしたら、それはイスラエルを守る主が私たちを守ってくださっているとしか考えられない。そして、ここにこそ私たちの信頼があるのである。主がまどろむこともなく、眠ることもないということに[詩121:4]。

 この聖句は、単に一国家や一教会に当てはまるばかりでなく、神ご自身の民の中にいる個々人にも当てはまる。もちろん、ある程度までではあるが。神の民の中のある人々は、遠くからキリストについて行く。おゝ、彼らの霊的いのちは、彼らの確信よりは、彼らの恐れにおいてより目立って見える。彼らが神に対して生きた者[ロマ6:11]であるとは私たちも思うが、私たちに云えるのはそこまでである。残念ながら、彼らについては、「呼びかけを聞こうともせず」、と云えるのではないかと思う。天来の御声の優しい囁きもかなつんぼの耳に落ちる。おゝ、兄弟たち。いかにしばしば神が語られたのに、私たちが耳を貸さず、御声に従わないことがあったことか。また、残念ながら、時として私たちは、「懲らしめを受け入れようとも」しないことがあるのではないかと思う。数々の患難も私たちに効き目を及ぼさないときのことである。私たちは病床につく前よりも、起き上がるときの方が悪くなっている。私たちの数々の損失や十字架は、私たちに心を探らせるよりも、私たちを怒らせ、つぶやかせてきた。私たちは、すり鉢の中にある小麦のようにすりこぎで痛めつけられてきたが、私たちの愚かさは私たちから離れて行かなかった。そして、これは非常に神を怒らせることである。私たちは鞭と、それを用いる御手を蔑み、主に打たれても立ち返らなかった。だが神の民の中のある人々はそれと同じなのである。彼らは呼びかけを聞こうとせず、懲らしめを受け入れようともせず、それゆえ、時として、「主に信頼せず」の状態に陥る。彼らは自分たちの試練を自力で耐え抜こうとする。友人に助言を求めに行き、呪いを受け継ぐ。こう書かれているからである。「人間に信頼し、肉を自分の腕とする者はのろわれよ」*[エレ17:5]。彼らは枯れたような状態に陥る。砂漠に生えたヒースのように、良いものが来るときもそれが見えない。人間に信頼しているからである。私たちの中のある者らは、ここで自分の罪を認めなくてはならないではないだろうか?

 私たちの数々の欠陥に加えて、私たちは、信仰後退するときには常に、「私たちの神、主に近づこうとしない」*。キリスト者生活の喜びと力は、神のそば近くに生きることに見いだされる。羊飼いの近くにあって、決してさまよい出さず、彼が導いてくれる緑の牧場に伏し、彼自身を牧場よりも尊び、私たちの喜びとし、私たちの楽しみとして生きることにある。しかし、悲しいかな! ある者らについてはこう云える。「あなたは神に祈ることをやめている」*[ヨブ15:4]。「神の慰めと、あなたに優しく話しかけられたことばとは、あなたにとっては取るに足りないものだろうか」[ヨブ15:11]。あなたのそむきの罪とあなたの不義が、あなたの神をあなたから隠してしまった。神があなたに逆らって歩まれるのは、あなたが神に逆らって歩んでいるからである。これもまた、あまりにもしばしば、イエスに実際信頼し、死からいのちに移っている人々についてさえ当てはまることである。そして、それが当てはまる際には常に、それは悲しみを意味する。神の子どもでは全くなく、偽善者である人なら、誠実の通り道から好き勝手にいくら遠くさまよい出しても、最後の日に至るまで苦しまないことがありえる。だが、神の子どもが罪を犯すなら、そのために疼痛を覚えずにいられることはない。こう書かれていないだろうか? 「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる」[アモ3:2]。私たちの御父はご自分の子どもたちを鞭打たれる。町通りの悪童どもは好き勝手なことをしても良いが、私たちの大いなる御父はご自分の愛する者たちを確かに懲らしめられる。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」[黙3:19]。

 今回、私は本日の聖句の言葉を、こうしたいかなるしかたでも用いるつもりはない。むしろ、それを、未回心の人々に言及するものとして取り上げたいと思う。というのも、これは非常に明らかに、全くいかなる無理もなく、神から遠く離れて生きている多くの人々を描写しているからであり、私はあなたがしばしの間、私の語ることに注意してほしいと思う。私はこれから四つの大きな罪に注目しよう。それらが言及されるとき、私はこの聖句を深く掘り下げ、そこから四つの隠された慰藉を取り出すことであろう。――それらは、表面上は明らかにされていないが、信仰が顕微鏡をあてがい、この聖句の中心をのぞき込むと、それは、悔悟する罪人をキリストのもとに来るよう励ます四つの事がらを発見するのである。

 I. 第一に、ここには《四つの顕著な罪》がある。

 本日の聖句の主語が女性形であることは、果たしてこの説教が、神の摂理によって特に婦人に適応するためであるかどうかと思う。私には分からないが、そうだとしても驚くべきではないであろう。私がこの聖句に目を向けさせられたのは、どこかのあわれな、さまよいつつある姉妹がこう感じるようになるためであったかもしれない。神はこの聖句を特に自分たち女性に向かって伝えているのだ、と。これは云う。彼女は――「呼びかけを聞こうともしない」*、と。私たち人類の誰かに属することは何であれ、全員によって受け取ることができる。キリスト・イエスにあっては男子も女子もない[ガラ3:28]からである。しかしながら、私はこの事実を指摘し、神に祈りたい。そのみことばが、聖霊によってみこころの方向へと向かうようにと。

 この一番目の罪は、神の呼びかけに聞こうとしないことである。多くの人々は長い一生の間、全く神の呼びかけを聞いたことがない。それを耳にしたことはある。――耳にしないわけにはいかない。だが、決して注意を払ったことがない。決して、「主よ。お話しください。しもべは聞いております」[Iサム3:9]、と云って、一心に耳をすましたことがない。神はこの場にいる多くの人々に向かって警告という形で語ってこられた。神は云われた。「娘よ。もしお前がこのことをするなら、それはお前を嘆きと悲しみに至らせるだろう。もしお前が強情を張って、無頓着なままであり続ければ、決してその結末は幸いなものとならないだろう。いま良くないものは何1つ、最後に良くなることがありえないのだ。悪はそれとともに災いをもたらすのだ」。時としてこの警告は心に深く突き入れられることがあった。だが、私がいま語りかけている人はそれを締め殺して、こう云った。「いいえ。むしろ私は私自身の道を行き、私自身の楽しみに従いましょう」。その警告は、ことによると、夜のしじまの中にやって来たかもしれない。あるいは、罪を犯している真っ最中にやって来たかもしれない。その手綱を抑える何か、それを引き留める何かが。だがこの罪人はくつわや手綱の馬具[詩32:9]をもってしても押さえることができなかった。むしろ、そのくつわを歯で噛んだまま罪に向かって突進して行った。おゝ、思い出すがいい。あなたがた、天来の警告をないがしろにしてきた人たち。あなたはそれらを忘れ去ったかもしれないが、神は忘れてはいない。あなたがた、自分の子どもたちを愛している人たちが、わが子に語りかけ、彼らに警告したとき、彼らは自分勝手な道を歩み、「母が云ったこと」を全く忘れ去ったかもしれないが、母はそれを覚えており、涙を流しては、その叱責の記憶の数々を自分の顔に刻み込むのである。そして、神はご自分が人々の子らに差し出した警告を忘れてはおられない。

 しかしながら、私が話しかけている中のある人々は、単に警告を受けて、それを拒絶してきただけでなく、多くの教えを受けてきている。あなたは、まだ少女だった頃には《日曜学校》に通っていた。あなたは、ごく幼い時から救いの計画について知っていたし、今もそれが分かっている。だが、それでもあなたはその呼びかけに従わなかった。そこにキリストがおられる。だが、あなたはその衣のすそに触れたことがない。血で満たされた泉がある。あなたがよく歌ってきた泉である。だが、あなたは決してその中で自分を洗ったことがない。そこにいのちのパンがある。だが、あなたはそれを一度も食べたことがなく、その結果、あなたは神に対して生きてはいない。おゝ、こう云われることができるとき、それは悲しいことである。「彼女は呼びかけを聞こうともしなかった」、と。

 この場にいるある人にとって、神の呼びかけは説諭というしかたでやって来た。神のことばの中には、多くの説諭がある。例えば、――「悔い改めよ。立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」*[エゼ33:11]。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ」[ホセ6:1]。「言え。『すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。喜んで私たちを愛してください』」*[ホセ14:2、4]。あなたがたの中のある人々は、自分の心と良心に、こうした数多くの説諭を語りかけられてきた。だが、あなたはその呼びかけを聞こうとしなかった。

 そしてそれから、このことに背後には招きがやって来ていた。甘やかな数々の招きがやって来ていた。聖書の中で、あなたはをそれを読んだことがあり、賛美歌の中で歌ったことがあり、講壇から聞いたことがあり、親切な友人たちから告げられたことがある。おゝ、いかに甘やかにイエスは飢え渇いている者たちに向かって、ご自分のもとに来るよう命ぜられたことか。重荷を負っている者、うなだれている者に向かって、ご自分のもとにきて安きを見いだせとお命じになったことか。あなたもかつては、こうした招きに従おうという気分になることがあった。だが、あなたはそうせず、この罪はあなたの門口にあるのである。あなたの平安への路上にあるつまずきの石となっているのである。――「彼女は呼びかけを聞こうともしなかった」。人々は、正しく行なうことにしくじると、普通はその逆である悪を犯す。あなたは別の呼びかけに聞き従った。誘惑という海精の声があなたを迷わせた。へつらいの声があなたを高ぶらせた。サタンの声があなたを騙した。肉の声があなたを魅了した。この世の声があなたを口説いて、あなたをとりこにしてしまった。

 私たちがこの告発をあなたの前に置いている間、あなたがたの中のある人々はこう云わずにはいられないであろう。「それは私のことです。まさに私のことでしかありません」、と。願わくは主があなたに悔い改めを与え、あなたの耳を開いてくださるように。こう書かれているからである。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ」[イザ55:3]。おゝ、天来の御霊よ。人々がこれ以上つんぼでいないようにしてください。むしろ、あなたの指で彼らに触れ、彼らが神の呼びかけを聞いて生きるようにしてください。

 これがこの告発の一番目の訴因である。さて二番目の訴因は、それと似ており、それから生じてきたものである。――「彼女は懲らしめを受け入れようともしなかった」*。人々が神の呼びかけを聞こうとしないと、すぐに彼らはずっと頑なになり、神の懲らしめを拒絶する。手綱の云うことを聞こうとしない馬が、じきに鞭をも逆らうようになり、全く手のつけようがなくなるようなものである。主の懲らしめは、時として主のみことばから私たちのもとにやって来る。主が怒って語り、キリストを信じない者の上にはご自分の怒りがとどまる[ヨハ3:36]ことを私たちに思い起こさせられるときがそうである。おゝ、悔悟していないあなたがたには、主からの重苦しい知らせが数多くある。この書はもて遊んで良い書ではない。これは主に反逆し続ける者に対する、主の恐怖が降ることである。ことによると、あなたは自分の聖書を読んでいたときに身震いさせられたことがあるかもしれない。そして、不義を続ける者に対して、いかに主が厳粛な呪いを宣告しておられるかを見てとったことがあるかもしれない。

 しかし、懲らしめは、神のことばによって生かされた、あなた自身の良心からもやって来たことがあったであろう。あなたは落ち着かない気分になった。ぎょっとさせられるような夢によって眠りからはね起きたことがあった。もしあなたが、かつての私と同じような者であるとしたら、あなたの目にするあらゆるものが、あなたを非難する口を有しているように思える。今でも覚えているが、主の懲らしめが重くのしかかっていたときの私は、葬式を見るたびに、自分もいつ墓場に運ばれることになるのかと思い惑わずにはいられなかった。教会墓地の脇を通るたびに、自分もすぐにそこに行くのだと思い返さずにはいられなかった。そして、弔いの鐘を聞くたびに、それは私がじきに審かれ、罪に定められるのだと告げているかに思われた。私には罪赦される何の希望もなかったからである。これらは神の懲らしめであり、私はあなたがそれらを顧慮することを切に願う。

 しかしながら、もしかすると、あなたは患難に耐えてきたかもしれない。あなたは具合が良くない。あなたは、死の扉越しに永遠をのぞき込まされている。ひょっとすると、あなたの友人たちのひとりか二人は、すでに運び去られてしまったかもしれない。あなたはいま、喪服を身につけている。神があなたを懲らしめておられるのである。あなたは、自分では到底耐えきれないと思うような損失をこうむった。それは、それほどに厳しかった。「主の懲らしめを軽んじてはならない」[ヘブ12:5]。むしろ、主の鞭に聞くがいい。そして、その中で主が云われることに耳を傾けるがいい。覚えておくがいい。神は、そうされたよりもずっと重くあなたを打つことがおできになるのである。というのも、こうしたいくつかの苦痛や痛みを、神はずっと苛烈な激痛にすることがおできになるからである。もしひとりの子どもが失われたとしたら、神はもうひとり連れ去ることがおできになる。あなたの胸にすがりつく幼子さえそうできる。もしひとりの親族が死んだとしたら、別の者が後を追うことがありえる。というのも、かの偉大な射手は数多くの矢を矢筒に有しており、一本では足りない場合、すみやかに別の矢を飛ばして、その痛ましい飛翔を行なわせるからである。私は用心するよう切に願う。そして、あなたについてこう云われないようにするがいい。「彼女は懲らしめを受け入れようともしなかった」、あるいは、「彼は懲らしめを受け入れようともしなかった」、と。むしろ、神がこのようにあなたを取り扱っておられる間に、願わくはあなたが進んで耳を傾けようとするように。

 ここから三番目の訴因に至る。そこには致命的な罪の本質が宿っている。「彼女は主に信頼しなかった」*。キリストのもとに来て、救いのために信頼しようとしなかった。彼女は自分自身の義を信じようとした。キリストが自分を助けて罪に打ち勝たせてくださることを信頼しようとしなかった。自分で自分を十分きよくすることができると云った。おゝ、多くの若者はどこから見ても万全の様子で天国へ向かって出発してきた。だが、それは彼自身の力によってであって、従順者のように、《落胆の沼》に落ち込むや否や、天の都に背を向け自分が出てきた場所へと舞い戻るのである。私は切に願う。キリスト・イエスにある神への信頼に基づかないような、いかなる希望とも関わりを持たないように用心するがいい。あなたの信心深さは、イエス・キリストの贖罪に基づいていない限り、空しいものであり、高き天への侮辱である。イエスを信ずる信仰が何もない場合、平安は増上慢である。キリストを信ずるまで、希望をいだいてなどいる人は、あだな望みをいだいているのである。しかし、あゝ、ある人々は、一見恵みから出ているように見える多くの事がらを行なうように駆り立てられているが、しかし、この1つのことだけは行なおうとしない。彼らは主に信頼しようとしない。そして私はこのことが、大きな患難の中にある一部の人々に悲しいくらい当てはまることを知ってきた。彼女は主に信頼していなかった。彼女はやもめだったが、主に信頼していなかった。彼女には多くの小さな子どもたちがいて、彼らのためにどこからパンを見つければ良いか分からなかった。だが、主に信頼していなかった。彼女は自分自身が病んで、病気になっていたが、主に信頼しなかった。彼女は死の扉の前に横たわっていた。診療所や病院にいたが、主に信頼しなかった。彼女の心は非常に重く、死ねたらずっと楽になるのにと云っていたが、主に信頼しなかった。彼女の友人たちは彼女を助けなかった。親切であるべき人たちは残酷だった。だが彼女は主を信頼しなかった。彼女はいかなる方面でも手詰まりに陥っていたが、それでも主を信頼しなかった。

 左様。だが、これは大きな罪である。というのも、確かに神が私たちの支えや頼りを取り去るのは、私たちが自分の全体重で神ご自身によりかかるようにならせるためだからである。だが、ある人々は、このように全くより頼むこととは何の関わりも持とうとせず、現世のためにも永遠のためにも、からだのためにも魂のためにも、そうしようとはしない。災いなるかな。たとい神の子どもではあっても、いったん信仰の通り道からそれるような人は。というのも、私たちが見えるところによって歩むとき、私たちは自分が盲人だったならば良かったのにと願わされるような事がらを見ることになるからである。ただ信頼するときにのみ、こう云わざるをえないからである。「私は恥を見ることがなく、いつまでも、はずかしめを受けることがない」[イザ45:17]。これは悲しいことである。――「彼女は主に信頼しなかった」。

 四番目の罪悪は、こうであった。「彼女は神に近づこうともしなかった」*。そこには全く祈りがなかった。彼女の困難について語ることは多くあった。彼女が何をしたいかについて語ることは多くあった。だが、神に願うこと、私室に入って神の前に状況を打ち明けること、そして、神のあわれみを懇願することは全くなかった。神のことは全く考えられもしなかった。精神は神に近づこうとしなかった。種々の願いは一千もの曲がりくねった通り道でぶらついていたが、神のもとには行かなかった。おゝ、あなたがたの中のある人々に神のことを考えさせるのは困難なことである。いかに手を尽くして私が説教しようとも、また、あなたに神のことを考えさせる意表を突くような言葉を見いだそうとしても、だが、おゝ、いかにしばしば私は失敗することか! 私が用いるえり抜きの方法も自滅する。願わくは今がそうならないように! もはやあなたについては、こう云われないようにするがいい。「彼女は神に近づこうともしなかった」、と。私たちは神について考えるべきである。神を求めるべきである。神のもとへ行くべきである。鷹が空中を舞っているとき、めんどりの呼ぶ声を聞いた小さなひよこたちが、たちまち母鳥の翼の下に身を隠すように。私たちは大急ぎで祈り、私たちについてこう云われるようにすべきである。「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである」[詩91:4]。もしあなたに子どもがあるとして、その子が悩みを覚えるとき町通りに飛び出して行き、その小さな心が重苦しくなるとき赤の他人に助けを求め、父親にも母親にも決してその悲しみを打ち明けないとしたら、あなたは大いに傷つくであろう。これこそ、神がその反逆的な民に対していだかれる苦情の種である。彼らは神のもとに行くくらいなら、サタンそのひとのもとに行こうとするのである。否。私が云い過ぎをしているとか、突飛な云い回しを用いているとか考えてはならない。というのも、サウルはそうしたからである。神が彼にお答えにならなかったとき、彼は悔悟した嘆願をささげることなく、呪術を行なう女に助けを求めた[Iサム28:7]。多くの人々は、神のもとに行こうとするくらいなら、未知の世界の奥まった場所に入り込み、霊的な奥義に干渉しようとするのである。愚かな女たちは占い師を信じようとはするが、《救い主》を信頼しようとはしない。

 あなたがたの中にそれと同じ者がいるだろうか? ならば、この非難の言葉を深く染み込ませ、あなたのそむきの罪を主に告白するがいい。

 この四つの文章を1つにまとめてみよう。彼女は、「呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない」。――ではどうなるだろうか? 何と、「わざわいなるかな」<口語訳>。この章の第1節を読んで見るがいい。そう記されている。私がここへ来る途中、この言葉「災い」「災い」「災い」が私の耳の中で響きわたるようであった。そして私は、それがどこから来るのかと思い惑った。あなたに告げよう。それは、さらに悪い言葉になるはずの言葉なのである。それをあなたのために宣告させてほしい。――災い、と。そして、ここから至るのは、さらに格段に災いなるもの――より災いなるものである。そして、最も災いなるもの、すべての中でも最も悪いものへと至る。最大の災厄、最悪である。それは悪く、嘆くべき、破壊的、破滅的なもの、痛ましく、惨めで、非難な災い、さらなる災い、最悪の災厄である。私は私の《主人》がかつて云われたように、この言葉を宣言できればと思う。「わざわいだ、ベツサイダ。わざわいだ、コラジン。わざわいだ、カペナウム」*[マタ11:21 <口語訳>]。私は主が仰せになったように云いたいとは思わない。主には私の持ち合わせていない審きの光があったからである。――「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」[マタ23:13 <口語訳>]、云々。しかし、主が宣告された通りのその「災い」は、すさまじく、柔らかに、悲しげに、峻厳に、心を差し貫くものであったに違いない。あゝ、最後になったとき、御使いたちはそれをいかに響かせることになるだろうか? 今それを聞くがいい。最後にそれを聞くようなことがないように。「第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。なお別のわざわいが来る」*[黙9:12]。全地の《審き主》がかの封印を解き、かの鉢をぶちまけ、不敬虔な人々の子らが《苦よもぎ》と呼ばれる星[黙8:11]を見、神の御怒りの苦々しさを飲むときのことである。災い。それは地上における悲しみを意味する! 何の安らぎもない! 何の満足もない! 災い、災い。きょうのこの日においてすら、神に信頼しない人の上には災いがある。しかし、来世においてそれは何を意味するだろうか?――キリストの御顔の前から放逐され、永遠にこだまする「災い」に後を追われること。災いなるかな、災いなるかな、災いなるかな! 私はむしろここで言葉を切り、ホイットフィールド氏とともにこう叫びたい。「必ず来る御怒り! 必ず来る御怒り!」 いのちがまだあるうちに、また、イエスがあなたに嘆願している間に、そこから逃れるがいい。というのも、そうしないと、それが怒れる《審き主》の手から発された雷電のように降りかかるからである。――「災いなるかな。彼女は呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしなかった」*。ならば、これらすべては災いに変じ、顧みられなかった御声が再び鳴り響くであろう。「子よ。思い出してみなさい。子よ。思い出してみなさい[ルカ16:25]。災いなるかな、災いなるかな」。顧みられなかった懲らしめについて云えば、おゝ、それは、キリストを拒絶した者たちの上にそのとき降りかかる打撃にくらべれば、何と軽く優しいものに見えることであろう! そのときあらゆる懲らしめは災いに変ずるであろう。また、《救い主》に信頼しないこと、不信仰は、いかなる災いをもたらすことであろう! 神に近づこうとしなかった代償は、いかなる災いとなるであろう。そのとき私たちは、自分が遠く離れていることを見てとり、私たちと神との間に大きな淵が据えられ、誰も私たちのもとに渡ってくることはできないのである。しかり。私たちの舌を冷やしてくれる水一滴すらももたらすことがないのである。また、私たちのもとから誰も出て行くことはできず、その災いの場から逃げ出すこともできないのである。

 II. この災いから逃れたいと願う人を助けるために、私がしばし注目したいのは、《この聖句のうちに存する四つの隠された慰藉》である。

 私はこれらについて詳しく語るつもりはない。この講話の前半があなたの精神に留まっていてほしいからである。だが、ここには四つの隠された慰藉がある。最初のものは、もし私が神の呼びかけにまだ聞き従っていないとしたら、明らかに神はいま呼びかけておられるのである。私に語りかけておられるのである。わが魂よ、わが魂よ。神はおしではない。お前がつんぼであって良いだろうか? なおも神はお前を招いておられる。まだお前に呼びかけておられる。まだその良き御霊はお前と争っておられる。今晩の私のこの声は、私の希望するところ、あなたがたの中のある人々に対する神の呼びかけとなることであろう。元気を出すがいい。神はあなたをあきらめてはおらず、まだ呼んでおられる。死の宣告が下されるとき、そこには何の警告も与えられない。そして、あなたが別の呼びかけを受けている以上、私はあなたに希望するよう励ましたいと思う。

 次は、「彼女は懲らしめを受け入れようともしなかった」。ならば、私の一切の苦難と患難は私をキリストに導くためのものである。それらはみな、愛によって私の魂に送られているのであり、私はそれらをそのようなものとみなすべきである。愛する方々。あなたはどこにいるだろうか? 私はあなたがどこにいるのか分かっていない。あるいは、いかなる人に自分が語りかけているのか分からない。だが、私はあなたがこのことを見てとってほしいと切に願う。すなわち、あなたを非常につらい目に遭わせているかに思われる神は、単にあなたをあわれみへと追い立てておられるのである。神の御声は峻烈で、その御手は重いが、愛によってあなたを懲らしめておられる。おゝ、神に耳を傾け、神のもとに来るがいい。裁判官は、死に定められた犯罪者を懲らしめはしない。神は、ある魂を全く放棄されたとしたら、それを懲らしめて矯正しようなどとはなさらない。

 次の文章に目を留めるがいい。「彼女は主に信頼しなかった」。私が主に信頼しなかったことは、罪悪なのだろうか? ならば私は主に信頼して良いのである。そして、私はそうしよう。というのも、あることを行なわないことが罪となるのだとしたら、私にはそれを行なう権利があるに違いなく、もしそれが私の非に帰されているとしたら、――「彼女は主に信頼しなかった」、おゝ、甘やかなあわれみ、甘やかなあわれみよ。――私は信頼して良いのである! これこそ聖書があたかも、あなたが確実に信じて良いと請け合うかのように、こう云っている理由である。「信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。なぜなら、もし信じなければ、あなたは罪に定められるからである。ならば、来るがいい。そして、この聖句の暗黒面にもあなたに対する微笑みを浮かべさせるがいい。そして、あなたを導いてあなたの神に信頼させるがいい。というのも、神はそうしないことであなたを責めているからである。

 そして、そこには最後の罪悪がある。「彼女は神に近づこうともしなかった」。何と、では神は私が神に近づこうとしないことを過ちとしておられるのだろうか? おゝ、私は神の御霊があなたの心にこう云う思いを入れてほしいと思う。「これ以上、それを私の過ちとはすまい」、と。

   「われ近づかん 恵みの《王》へ、
    その王笏(しゃく)赦し 給われば。
    主われに命じて 触れさすらん、
    さらば懇願者(もとめ)は いのち受けん」。

私は自分が来てはならないのかと思っていた。だが、今や私には分かる。私が罪とされるのは、来ないことゆえなのだ。ならば私は行くことにしよう。もはや遅れはすまい。イエスのもとに行こう。滅びるのだとしたら、イエスの足元で滅びようと決心しよう。望みをいだくがいい。愛する方々。というのも、そこで滅びた者はこれまでひとりもいないからである。願わくは神が、この説諭の言葉に証印を押してくださるように。イエスのゆえに。アーメン。

 

四つの訴因による告発[了]

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