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障害物を除かれた道

NO. 1579

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル

(タバナクルが新来者のみの入場に制限された晩になされた説教)


「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け」。――イザ57:14


 道とは何だろうか? 救いの道、天国への道とは何だろうか? イエス・キリストは、「わたしが道なのです」*[ヨハ14:6]、と云われる。主は神の御子であられる。だが、天の栄光を離れて、私たちの性質を身にまとい、地上で生涯を送られた。やがて時期が来て、主は私たちの罪を身に負い、その贖いをなされた。そして今や天に昇り、神の、すなわち御父の右の座に着いておられる。そして、間もなくそこからやって来て、生ける者と死ねる者とをお審きになる。罪から救い出される道、天国への道とは、単純にイエス・キリストに信頼することである。神は主を、なだめの供え物として公に示しておられ[ロマ3:25]、イエス・キリストを信ずる者は誰であれ、それまで何をしてきたにせよ、たちまち自分の罪を取り除かれるのである。キリストは、天に行く前に弟子たちにこう云われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:15-16]。これが私たちの宣べ伝える救いの道である。変わることなく、変わりえない道である。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。言葉を換えると、主に信頼すれば救われるのである。

 これが救いの道への入口であり、これが最後に至るまでその道の進路である。キリストに信頼せよ。「善行は必要ないのですか?」、とある人は云うであろう。善行は常にキリストを信ずる信仰から流れ出す。罪から救われたいと願う者がキリストに信頼すると、その人の性質は変えられ、かつて自分が愛していた罪を憎むようになる。また、自分を救ってくださったキリストに誉れを帰そうと努めるようになる。だが、私たちの救いという件においては、その根拠と土台は私たちのわざでも、涙でも、祈りでもなく、イエス・キリストの完成されたわざに単純により頼むことである。恵みのイロハにおいては、キリストが「い」であり、キリストが「ん」である。キリストが初めであり、キリストが終わりである。「彼を信じる者は永遠のいのちを持ちます」*[ヨハ6:47]。「御子を信じる者はさばかれない」[ヨハ3:18]。そして決して審かれることにはならない。というのも、その人は死からいのちに移っているからである[ヨハ5:24]。これが道である以上、それはごく単純である。これは矢のように真っ直ぐではないだろうか。だがしかし、この道には数々のつまずきの石がある。

 I. 第一に、《それがなぜかを示させてほしい》

 最初の理由は、信ずるという道が非常に普通でない道だからである。人々は信頼する道を理解しない。彼らは見たり、理屈をつけたり、論じたりすることは欲するが、「人となられた神」*[ヨハ1:14]――死んで、葬られ、よみがえり、天に上った神――を信頼すること、それは好まない。人は、「私は信頼できない」、と云う。ある牛が、その短いいのちの日々を、常に一日一日、飼料をあてがわれることによって生きてきたとする。それが突然、人間のするように理性によって生きなくてはならなくなったとしたら、何と困難な生き方となるであろう。それは、このあわれな獣にとって新奇で異様なあり方となるであろう。それと同じように、人が信仰によって生きなくてはならなくなるとき、それは牛が理性と論理に立った生き方をさせられるのと同じくらいぎこちなくなるのである。人にとって、それは勝手の違うことである。何と、私が何もせず、ただ《救い主》に頼りさえすれば、《救い主》が私を救ってくれるだと? 単にそれだけのことなのか? その通りである。「ならば」、とその人は云う。「私はそこに到達できない。その道にはつまずきの石がある」。

 別の理由は、人々が本当に救いを求めているときには、しばしば心に大きな悩みをかかえているからである。彼らは自分が過ちを犯してきたことを自覚している。良心が彼らを苛んでいる。彼らは、もし神が正しいお方だとしたら、自分たちの悪行ゆえに自分たちを罰さなくてはならないと感じる。彼らは、神が自分たちの心の秘密をご存知であることを身にしみて感じており、このため恐怖し、苦悩する。そして、イエス・キリストを信じるなら、一切の罪や冒涜が赦されると告げられても、それがいかにしてありえるのかと思い惑う。もし私たちがそれを平たく云って、「あなたの咎がいかに大きくとも、あなたの罪がいかに黒くとも、血で満たされたこの泉で洗えば、あなたはきよめられます」、と云っても、――それは十分に平明なものと思えるが、彼らにはそれが理解できない。罪意識が彼らを盲目にし、彼らは盲人のように真昼でも壁を手さぐりし[イザ59:10]、自分自身の恐れの中にしかないあれやこれやのものにつまずく。良心は私たち全員を不信者にしてしまう。そして、私たちの震えおののく状態によって数々のつまずきの石が作り出される。そうなるに違いないはずである。

 それに加えて、人々はしばしば救いの道について無知である。私は今、そうした人々を責めようとして語っているのではない。私は幼少の頃から規則正しく神の家に出席するように育てられた。病気でもしない限り、安息日には一度も欠席したことがないと思う。それでも、主を求め始めたときの私は、救いの道を知らなかった。その文字は知っていたが、本当の意味を知らなかった。神の御霊が明らかに示してくださらない限り、どうして人にそれが分かるだろうか? 太陽そのものが照っていようと、目が開かれていない人には決して何も見えないであろう。世の光なるキリストが来られるまで、人々は暗闇の中をうろつき回るであろう。何と、この私たちのロンドンに住む大多数の人々は、今なお救いが全く恵みによるという知識を持っていないのである。神のあわれみによる行為が人を救うこと、人が決して自分の熱心によっても、祈りによっても、涙によっても、いかなる行ないによっても救われず、ただ全くイエス・キリストにある神のあわれみによってのみ救われるということを知らないのである。福音は、その真の意味においては信じられも受け入れられもしていない。それで人々はつまずきの石に出会うのである。

 サタンは常に、魂がキリストにあって平安を見いだすのを嬉々として妨げようとする。彼はありとあらゆる思念を人々の精神に注入するであろう。地獄のような冒涜、信じられないような思念を、キリストを求めている人々の精神によぎらせるであろう。彼はある種の者らには余計な手出しをしない。彼らが自分のものであり、最後まで自分のものであり続けることを知っている。だが、人がいったん身を揺すって起き上がり、いのちがけで逃げ始めると、この悪い者は、この人の耳元で地獄を総立ちにさせる。そして、こうした努力のために多くの魂は、信仰によって歩めば十分なだらかなはずの道の途中でつまずかされるのである。

 II. さて、ここまでの話は、なぜかくも多くのつまずきの石があるのかということである。

 それでは、これから私は、神の助けにより、《そのいくつかをこの道から努めて取り除こう》と思う。

 この聖句は、「つまずきを取り除け」、と云う。ならば次は、そのいくつかを実際に持ち上げるべきである。

 ここにその1つがある。ある人は云うであろう。「私は、仰せのこのイエス・キリストを喜んで信じたいと思います。ですが、たとい私がキリストを通して神のもとに行っても、神は私を受け入れてくださるでしょうか?」 左様。受け入れてくださる。ここに1つの聖句がある。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。人類の全歴史の中で、イエス・キリストのもとに来て、キリストからはねつけられた者はいまだかつてひとりもいない。もしあなたがキリストにあって心を尽くして神を求めても、神があなたの面前であわれみの扉をぴしゃりと閉ざすとしたら、あなたは踵を返してこう云ってかまわない。「私はキリストから助けを拒まれた最初の人間だ。ということは、キリストは約束を破ったということだ。キリストは、『わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません』、と云ったのに、私を捨てたからだ」。おゝ、愛する方々。ある人々が来ないのは、拒絶されることを恐れているからである。だが、そのような恐れには全く筋が通っていない。キリストは、ご自分のもとに来る一個の魂をも拒絶することができないし、拒絶しようとも思っておられない。だから、そうしたつまずきの石よ、その道から消え失せるがいい!

 「ですが」、と別の人は云うであろう。「私は並みの人間ではないのです。私は、この世のいかなる人もキリストを信頼すれば救われるだろうと、容易に信ずることができますが、私だけは例外です。キリストが私をお救いになれるなど考えられません。私はこれほど度外れているのですから」。あゝ、愛する方々。私もまた、風変わりな人間なのである。そして、あなたが有しているのと同じように感じていたのである。私は自分が名簿からはじき飛ばされているものと考えた。私の弟や妹たちなら、十分に余裕をもってあわれまれるに足りるが、私は違う。――私は自分がいかにすれば赦されうるのか見当もつかなかった。私は、ここで話したいと思う以上に自分のことを良く知っていた。そして、自分自身についてこのことを知っていた。――すなわち、私には、多くの風変わりなあり方に加えて、自分でも振るい落とすことができない1つの独特の咎があった。だが、その後の私は、ほぼ六千人の魂を数える教会の教役者となり、しかも、長年にわたってその任に就いているのである。その私がこれまで見いだしてきたところ、人はほとんど全員が、私と同じくらい風変わりなのである。そのため私は、自分がそれほど異様だという考えを捨て去ってしまった。もしあなたが他の人々を知っていたとしたら、あなたは、自分以外にも奇妙な人々を見いだすであろう。そして、もし神がこれほど大勢の奇妙な人々を救っているとしたら、どうしてあなたをお救いにならないことがあろうか? 「私などが救われるとしたら」、とある人は云うであろう。「それは驚きですよ」。ならば、神はあなたをお救いになるであろう。というのも、神は驚くべきことを行なうのを喜ばれるからである。神は天国をあわれみの珍品でぎっしり満たされるであろう。天国は主権の恵みという驚異の博物館となるであろう。そして、もしあなたがそうした種類のひとりだとしたら、励まされるがいい。あなたは、確実に受け入れられるはずの人である。その門まで大胆に行くがいい。それがあなたの面前で閉ざされることはない。イエスを仰ぎ見て生きるがいい。

 しかし、ある人がこう云っているのが聞こえる気がする。「先生。私には、これほど恐ろしい罪意識があるのです。私は寝床で休むことができません! こんな自分が救われるなんて考えられません」。愛する方よ。一瞬待ってほしい。しばし待つがいい。向こう側にいるひとりの人に語りかけさせてほしい。何があなたの悩みだろうか? 「私の悩みは、先生。私に何の罪意識もないということです。私は自分が罪人であり、大罪人だと分かっています。ですが、私は自分が救われるとは思いません。というのも、私には総毛立つような思いが全くないからです」。では、あなたは他の人と入れ替わりたいと思うだろうか? その人はあなたと入れ替わりたがるだろうか? 私はあなたがたの双方ともに、入れ替わりなどしないように助言する。というのも、まず第一のこととして、絶望感は救いに必要ではない。そして、第二のこととして、あなたが自分を罪人だと分かっており、それを進んで告白しようというなら、そうした絶望感は真実ではない。聖書のどこに、絶望しなくては救われることができないなどと書いてあるだろうか? 福音の全体はこのことではないだろうか? 「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」。良心の呵責に駆り立てられなくては、キリストを見いだすことができないなどと、神のことばのどこに記されているだろうか? 悔い改めは全くの別物である。罪を悪いと思い、罪を憎み、罪から逃れたいと願うこと、――これは福音の祝福の1つである。だが、良心の呵責――自分自身を滅ぼしたいというあの脅かし、あの精神の責め苦――これは望ましいものではなく、もしあなたがそれを有していないとしたら、それをほしがってはならないし、それを有しているからといって絶望してもいけない。救いはキリストにあるからである。絶望している人よ。十字架を仰ぎ見て生きるがいい。そして、あなたがた、絶望していない人たち。同じ十字架を仰ぎ見て生きるがいい。というのも、そこには、十字架につけられたイエスを仰ぎ見るあらゆる目のための救いがあるからである。

 私には別のつまずきの石も見える。震えている人が叫んでいる。「私は行ってキリストにお頼りすることが怖いのです。なぜなら、私は自分が選民のひとりかどうか分からないのですから」。よろしい。私もあなたにそう告げることはできない。天国に行って名簿を調べてきたことなど私には一度もないからである。だが向こう側にいる青年は、商売を始めたばかりである。彼は、自分の卸し売り店を先週の月曜に開いた。そして、これから世の中で繁盛するだろうとの希望をいだいている。私の親愛なる青年よ。なぜあなたはあなたの店を開いたのか? なぜあなたは無為に座り込んで、こう嘆いていなかったのか。「私は店を開こうと思いはしますが、自分が繁盛するよう予定されているか分からないのです」、と。だがもし、あなたが試さなければ、決して繁盛しないであろう。それは全く確実である。隠された事がらに関して私たちは、常識という規則に従って行動する。この礼拝が終われば、あなたは自宅に帰るではないだろうか。しかし、もしあなたが腰を下ろしたまま、こう云うとしたらどうだろうか。「私はこの通路を下っては行くまい。なぜなら、私はそれが私を家へと至らせるよう予定されているかどうか分からないからだ」。その場合、あなたは家に帰り着けず、人によっては、あなたのことを馬鹿になるよう予定されているのだ、と考えるであろう。罪の中に生きるため、また、《救い主》を拒絶するための云い訳になるかのように予定について語るいかなる人も、馬鹿のように行動しているのである。もしあなたがイエス・キリストにより頼むなら、私はあなたに告げる。あなたは確実に神の選民である、と。というのも、キリストを信ずる者は誰でも、神の御霊によって召されており、そのようなしかたで召される者のうち、世の基が置かれる前から神によって選ばれていない者はひとりもいないからである。

 「あゝ」、と別の人は云うであろう。「私は、自分が赦されない罪を犯したと思います」。ならば私は、ぜひともあなたに願いたい。それが何であるかを教えてくれないだろうか? なぜなら、私はそれが何であるかを発見するために何冊もの本を読んできたが、それが何かは誰も知らないという結論に達したからである。それでも私は、その罪悪が何であるかについては判然としていないものの、あなたがそれを犯したかどうかをあなたに告げることは即座にできる。あなたは救われたいと願っているだろうか? 罪の力から解放されたいと切望しているだろうか? ならば、あなたは赦されない罪を犯してはいない。なぜなら、それは死に至る罪であり、それを犯した後の人は、その瞬間から決して神を求める生きた願いも願望もいだくことがないからである。その人の良心は麻痺している[Iテモ4:2]。そして、その人は神に挑戦するか、永遠の事がらについて全く無関心になる。しかし、あなたの胸の中に神を求める願いが脈打っている限り、また、あなたが浪費された人生を悔やむ吐息を漏らせる限り、また、一滴でも悔悟の涙があなたの目を濡らせる限り、自分が死に至る罪を犯したのだという考えで絶望に追い込まれてはならない。というのも、あなたはそうした種類のことを何1つ行なってはいないからである。そのつまずきの石をことごとく道から取り除こうではないか。

 「おゝ、しかし」、と別の人が云うであろう。「私のつまずきの石はこれです。すべてのことが、うますぎる話のように思われるのです。――私がただイエス・キリストを信じるだけで救われるなんて」。私も告白するが、それは実際うますぎる話のように思われる。だが、そうではない。あなたの罪が、一瞬にして、無代価で、無償で、完全に赦されることは、素晴らしいこと、無限に素晴らしいことである。だが、いかに素晴らしいことであれ、それは私たちの神に似つかわしいことである。明らかに神は、キリスト・イエスにあって驚嘆すべき恵みの行為を行なうことがおできになる。神を神のように扱うがいい。そして、思い出すがいい。天が地よりも高いように、神の道があなたの道よりもはるかに高く、神の思いがあなたの思いよりもはるかに高いことを[イザ55:11]。一生涯の間のすべての罪を神は、人が会計簿の負債を帳消しにするように、抹消することができる。朱墨の一打ちで、神は途方もない額の請求書の末尾に「受領済み」と書くことがおできになり、すると、それはみな消え去ってしまい、永遠になくなる。おゝ、神よ、あなたのような方はほかにいません! あなたのような方はほかにいません! 《創造主》として、あなたのように天と地を造ることのできる方は誰もいません。《贖い主》として、あなたがなさったように魂を穴から引き上げることのできる方は誰もいません。また、あなたが十字架からなさったように罪を海の深みに投げ込むことのできる方は誰もいません。ならば、ただこの《救い主》に信頼するがいい。そうすれば、あなたはその偉大な救いを見るであろう。この、話がうますぎるということに関するつまずきの石が一瞬たりとも残り続ける必要はない。

 私はこうした事がらについてこれ以上は話を続けるまい。ただ一言云いたいのは、私が取り除くことのできないつまずきの石もいくつかあるということである。それらは、残念ながらいつまでもそこに立ち続けるのではないかと思う。

 ひとりの反対者が私に云うであろう。「私はイエスを信じたいと思います。私は彼には何の欠点も見いだせません。ですが、彼に従う者たちを見てください。その多くは偽善者たちではありませんか」。しかり。私たちはイエスに従うと告白している者たちを実際見ているし、涙は私たちの目に浮かんでいる。というのも、主が有する最悪の敵とは、主ご自身の家の中にいる者たちだからである。ユダは主に口づけして主を売った。多くの者らは今なおユダのようである。ここを見るがいい。愛する方々。あなたはそれをどうしなくてはならないだろうか? かりにユダがキリストを裏切るとして、それゆえにキリストが少しでも悪者になるだろうか? あなたはユダに信頼するよう求められてはいない。キリストに信頼するよう求められているのである。「おゝ」、とある人は云うであろう。「ですが、彼らはみな偽善者たちです」。否、否。それは通用しない。ある人が贋の金貨を手に取るとする。――生まれてから死ぬまでに、五、六枚は贋金を手にするとする。ではその人は、金貨など全部贋物だと云うだろうか? 否、もし本物の金貨がなかったとしたら、贋金は決して使われないであろう。贋の金貨を作って元が取れるのは、本物の金貨に非常に価値があるからである。そして、それこそ、ある種の人々の考えるところ、自分をキリスト者であると云い繕っても元が取れる理由なのである。もし本物のキリスト者がひとりもいなかったなら、その名前を騙るものはひとりもいないであろう。ならば、いかにしてあなたは、何人かの偽善者がいるからといって、キリストご自身を拒絶しようなどという云い訳ができるだろうか? 「あゝ」、とある人は云うであろう。「ですが、私は信仰復興集会や回心について少しばかし知っているのです。あなたは、いかに大勢の者が回心し、その人々に何が起こるか知らないのですか?」 私はあなたの考えていることが分かる。だが、私はある友人が、その件について、1つの良い話をしてくれたのを聞いたことがある。彼はこう云ったのである。私たちは、確かに私たちの回心者たちの中から、一部の純粋でない者たちを抹消せざるをえないにもかかわらず、信仰復興を持つ価値はある。というのも、そこには真の利益があるからである。なぜなら、と彼は云った。この反対はあるアイルランド人のようなものだからである。彼は目方が足りない一枚の金貨を見つけ、それで十八シリングしか得ることができなかった。次に彼が地面に金貨が落ちているのを見つけたとき、彼はそれを拾わないであろう。というのも、と彼は云った。彼は先の金貨を拾ったときには、二シリング損したからである。馬鹿なことをするといって誰もが彼を笑うであろう。信仰復興や特別礼拝に反対する人々もそれと同じである。かりにあなたが二シリング分の価値は抹消しなくてはならないとしても、十八シリングは明らかに得になるのである。では、なぜあなたはその悪い二シリングになるべきだろうか? 愛する方々。なぜあなたがそうなるべきだろうか? たぶんあなたは、あなた自身のことを私よりも良く知っているであろう。また、おそらくあなたはその悪い二シリングなのかもしれない。だが、私はあなたがそうだとは云わなかったし、あなたがそうなることを願ってもいない。なぜあなたは本物の回心者、教会にとって真の利得になるべきでないのだろうか? この世に詐欺師がいるからといって、それは私がキリストのもとに行かない理由になるだろうか? 私は今あなたを微笑ませた。ということは、あなたは、世間でかくも大勢の人々が口にしている、この愚かなふるまいを、笑い飛ばせるということである。私は、腕の悪いパン屋がいるからといってパンを食べるのを拒否すべきだろうか? あなたは、ある牛乳に混ぜ物がされていたからといって、二度と牛乳を飲まないだろうか? ある場所の空気が汚染されていたからといって、自分の家の回りにある空気を二度と呼吸しようとしないだろうか? おゝ、そのように語ってはならない。そのつまずきの石は動きたがらないはずである。もしそれがあなたにとって何らかの妨げであるとしたら、私にはどうしようもない。それは残り続けるに違いない。

 「しかし」、と別の人は云うであろう。「ここに私のつまずきの石があります。もし私がキリストを信じて、キリスト者になるとしたら、私の全生涯を変えなくてはならないでしょう」。まさにその通り。私はその主張に異論を唱えない。そこでは何もかもが引っくり返されなくてはならないであろう。だが、そのとき御座に着いておられる方がこう云われる。「見よ。わたしは、すべてを新しくする」[黙21:5]。ことによると、愛する方々。あなたはあなたの商売をやめなくてはならないであろう。というのも、世の中にはキリスト者となった人が携わるわけにはいかない商売がいくつかあるからである。そして、もしあなたの商売がそのようなものであるとしたら、それを捨てる方が、あなたの魂を失うよりもましである。あるいは、あなたは自分の商売のいかさまやごまかしをやめなくてはならないかもしれない。ならば、それらを捨てなくてはならない。もしあなたの行なう何らかのことがあなたを天国から引き離そうとするものだとしたら、商売繁盛するために悪を行なって魂を滅ぼすよりは、貧しくなる方がましである。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」[マコ8:36]。とはいえ、これは極端な例である。というのも、誰にも全世界を得ることはできないからである。人々がずるをして得られるのは、ほんの四ペンス銀貨かシリング貨数枚にすぎない。そのために魂が失われるとしたら、そこに何の得がありえるだろうか?

 「おゝ、ですが」、とある人は云うであろう。「もし私がキリスト者になるなら、私は自分の家族の中で多くの試練を受けるでしょう」。その試練を受けるがいい。愛する方よ。神の敵たちからのおべっかを耳に響かせながら地獄に行くよりは、いかなる反抗を受けても天国に行く方がまさっている。もしあなたが流れのままに漂っている魚を見るなら、それが死んだ魚であると分かる。生きた魚はどちらの方に行くだろうか? 何と、上流である。そして、それこそ人が天国へ行かなくてはならない道である。「しかし、私は笑い者にされることに耐えられません」、とある人は云うであろう。あわれな魂。私は総じて、いま生きているほとんどいかなる者にも負けないくらい、相当の嘲りの分を受けてきたが、それゆえにほんの一分たりとも骨が一本でも痛んだことを覚えていない。そして私が思うに、もし私が私の分を――それは、相当に大きなものだったが――耐えることができるとしたら、あなたもあなたの分を耐えてそれに完全に圧倒されることはないはずである。あなたはどちらの方がましだと考えるだろうか?――正しいことを行なってあざけられることと、悪を行なって褒められることと。確かに、こう云う方が男らしく誉れあることである。「私は、誰にあざけられようとも、正しいことを行ない、キリストに従う」、と。あざけりが何だろうか? 犬どもは吠えるものだ。――吠えさせておくがいい。だが、神の御名によって云う。犬どもの機嫌を取るために自分の魂をふいにしないようにしようではないか。「しかし、私は実の兄弟たちから反対されるでしょう」。しかり。キリストがあなたにそう告げておられる。「わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。さらに、家族の者がその人の敵となります」*[マタ10:36-37]。あなたはこれから親切と愛によって彼らを征服するであろう。だが、そこに心痛があるだろうことも私は承知している。上流階級でキリスト者になる人は冷たくあしらわれる。下層階級で自由について公言する私たちの労務者たちは、現存する者らの中で最大の暴君たちである。人がキリスト者になった途端に、彼らは職場で彼に後ろ指を差す。朝から晩までその人をあざけり、冷やかす。その上で自分たちのことを生粋の英国人だと呼ぶ。彼らは好き放題に悪態をつき、不潔な話をする。ついにはあなたが、町通りを歩くとほとんど決まって耳に入る言葉遣いに気分が悪くなるほどになる。だが、もし同僚の労務者が礼拝所に行くことを選び、上品なふるまいを始めると、そのとき彼は職場のあざけりの的となる。これは、やむに違いなく、人間が人間であるとしたら、やむであろう。しかし、私の愛する方よ。私はあなたが反対によって怖じ気づいたり押さえつけられたりしないことを望む。もし彼らがあなたを笑い声によって地獄に落とすとしたら、いかなる笑い声によってもあなたを地獄から再び外に出すことはできない。それを思い起こすがいい。そして、もしちょっとしたあわれな微笑みをかちとり、ちょっとした下らないあざけりを避けるために、あなたがキリストを売るとしたら、いかにしてあなたは、キリストの御前に立ち、キリストがかの大きな白い御座[黙20:11]に最終的に着かれるときに、申し開きをしようというのだろうか? 殉教者たちを見るがいい。――いかに彼らがキリストのために死んだことか。あの判事の前に引き出され、判事がこう云っているときのバニヤンのことを思うがいい。「お前が! 鋳掛け屋風情が! 説教して回るだと! 舌を押さえているがいい」。「私には私の舌を押さえることができません」、とバニヤンは云う。「ならばお前を、二度と説教いたしませんと約束するまで牢屋に戻さなくてはならんぞ」。「たといあなたが私を、瞼に苔がむすほど牢の中に閉じ込めようとも、私は牢から出た最初の瞬間に、神の助けによって、再び説教するでしょう」。この人物には、なかなかの度胸があった。おゝ、これこそ神が愛される人物である。全世界に立ち向かっても正しいことを行ない、自分の《主人》に対して忠実であろうとする人物である。このつまずきの石は、たといできるとしても、私は取り除こうとは思わない。私たちが反対に遭うことは良いことである。今でさえ私は、あの最後の大いなる日に御座に着いておられる《王》を目にしているような気がする。そして、主がその廷臣たち、また、赤々と燃え上がる熾天使や、その輝きの限りをきらめかせつつ武具を固めた智天使たちに囲まれて、そこに着座しているとき、主はその御座から立ち上がり、彼方を見つめて叫ばれるのである。「そこに誰が来るのか? それはわたしのために苦しんだ者だ。わたしが蔑まれ、人々から拒絶されていたとき、彼はわたしのために蔑まれ、拒絶されたのだ。道を開けよ、御使いたち。道を開けよ、智天使たち。道を開けよ、熾天使たち。後ろへ下がって、彼を来させよ。彼はわたしの恥辱においてわたしとともにいた。わたしの栄光において、わたしとともにいさせよう。ここへ来て、神の右の座にわたしとともに座るがいい。あなたは、勇を振るってわたしのために蔑まれてくれた。では今は、わたしの統治の一切の光輝においてわたしとともにいるがいい」。おゝ、私たちはこのつまずきの石を飛び越えることができると思う。そして、それがそこにあることを喜べると思う。というのも、それは最後の大いなる日に、栄誉と栄光と不滅をもたらすからである。

 私に動かせない最後のつまずきの石はこれである。ある人が云うであろう。「しかし、こうしたすべては、私にとってあまりにも目新しく、奇妙に思われます。あなたは私に全く新しい生き方をさせたいと云います。私はまだそれが理解できていません。一度も見たことのないキリストに信頼するべきだというのですか!」 しかり。それがあなたの始めるべき所である。「そして、全く見ることのできない神を見るべきだというのですか?」 しかり。それがあなたのなすべきことである。あなたは、神の臨在を日ごとに意識する中で生きるべきである。そして、キリストを信頼し始めるなら、そうするようになるであろう。「しかし、私には、キリストを信頼することで自分にどんな効果がもたらされるのか分かりません」。しかり。あなたには分かるまい。だが、それはあなたに最も驚くべき効果をもたらすであろう。あなたは、この《救い主》を信頼した後では、二度と同じ人間にはならないであろう。あなたに信仰を与える神の御霊があなたの全性質を変えてしまわれる。あなたは、あたかももう一度生まれたかのようになるであろう。「どういうことか理解できません」、とある人は云うであろう。しかり。だが、こう考えることはできるかもしれない。ここにある人がいる。彼にはひとりの召使いがいる。だがその召使いは、自分の大旦那が諸悪の権化だと信じている。その結果、彼は主人を悩ませるためにできる限りのことを行なう。主人はその召使いを改めさせようとする。彼に語りかけ、彼をたしなめる。だが、彼はどんどん悪くなって行く。さて、かりに私がその家に行って、こう云ったとしよう。「ねえ君。どうかご主人を信じてやってくれないか。彼は君のことを大事に思ってくれているんだよ。君は彼を誤解してるんだ」。かりに私がこの召使いを納得させて、自分の主人を信じさせることができたとしよう。――何と、愛する方々。彼は全く変えられた男になるであろう。あなたにも分からないだろうか? 彼が主人を信じた瞬間から、彼は主人を喜ばせようと努め始めるだろうことが。もし彼が、「ご主人様は立派なお方です。私はご主人様を愛しております」、と云ったとしたら、その瞬間から、主人に対する彼の生き方の基調は一変するであろう。こういうわけで、主イエスを信ずることには大きな力があるのである。あなたが主を信頼した瞬間から、あなたは主の命令に従い、主の模範を見習い、主への奉仕に献身するのである。

 このようにして私は、自分にできる限り、救いの道をあなたの前に表わしてきた。私は、あなたがこの特別な機会にやって来られたことに感謝したい。私はあなたがたの顔を二度と見ないかもしれない。だが、たとい私が決してあなたに会うことがなくとも、この一事だけは真実である。――あなたは救いの道を聞いたのである。たといその道に従わなくとも関係ない。かの大いなる清算の日、説教者と聴衆が、この日曜の夜をいかに費やしたかについて申し開きをしなくてはならないときに私は、あなたがたの中のどのひとりの血についても責任はない。私はこう考えていた。もし私が自分の魂について悩んでいたとき、万が一誰かから救いの道をはっきり告げられていたとしたら、私は実際よりもはるかに以前に平安を得ていたことであろう、と。それで私は決心してきたのである。いかなる日曜日にも、救いの道を説教することなしに決して過ぎ去らせはすまい、と。そして、それこそ、二十と六年以上もの間、私の話を聞きに来る大群衆が減らないでいる理由なのである。私は告げるのは、単に昔ながらの古い物語でしかない。なぜ人々は来るのだろうか? 私たちは香味料や装飾品の類を扱っているのだろうか? 否。むしろ、パンである。そして、人々は常にパンを欲するのである。私が今晩あなたがたに与えたのは何の華美な装飾品でも精密な細工品でもなく、平易な救いの言葉である。あなたはそれを自分のものとするだろうか、しないだろうか? 願わくは神が、救いを受け入れる恵みをあなたに与えてくださるように。主イエス・キリストを信するがいい。そうすれば、あなたも救われる。そして、あなたは永遠のいのちを喜びながら帰って行くことができる。

 神がそれを与えてくださらんことを。キリストのゆえに。アーメン。

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障害物を除かれた道[了]

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