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教えるために教えられ

NO. 1578

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「その人は私に話しかけた。『人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。』」。――エゼ40:4


 私たちがこの聖句から学ぶのは、エゼキエル自身に関することである。彼は確かに最大の預言者のひとりであった。彼の幻は、その光輝においても、壮麗においても、数においても、ヨハネの幻を思い起こさせる。だがしかし、この卓越した預言者は「人の子」と称されている。彼はしきりにその名で呼ばれている。この称号は、彼の預言書を通じて何度も何度も用いられている。――「人の子」、と。それは彼に、たとい自分が予見者で、預言者で、霊感を受けた者で、幻に次ぐ幻で満たされてきた者だとしても、それでも、ただの人であることを思い出させるためである。いかにすぐれた人々でさえ、単なる人間にほかならない。熾天使を眺め、摂理の途方もない輪を見つめるために強められた、かの双眸は、なおも単に人の子の目でしかなかった。この称号が用いられたのは彼に謙遜を教えるためであり、なおかつ、彼に対する神のへりくだりを思い起こさせ、彼を畏怖と驚異の念で満たすためであった。人類の他の者らにくらべて別段にすぐれているわけでもない自分が選ばれ、他の目には与えられていない、このように驚くべき光景を見せられたことに対する驚異である。私たちにとって、このことは非常に有望な側面を帯びている。というのも、もし神が、ひとりの「人の子」にご自分を現わすことがおできになったとしたら、なぜ別の者にそうなさらないことがあろうか? もし神が、実際にそうされたように、一個の人の子エゼキエルを通してこれほど驚くべきことをお語りになったとしたら、なぜあなたを通してそうなさらないことがあろうか? なぜ私を通してそうなさらないだろうか? というのも、私たちもまた人々の子らだからである。私たちには何のふさわしさも取り柄もないが、エゼキエルもそのようなものがあるとは云っていない。彼は自分の血統を思い起こさせられている。彼はなおも人々の子らのひとりである。おゝ、励まされるがいい。自分など神に用いられるはずがないと思っている人たち。――あなたがた、心の貧しい、そして、神に仕えたいと願ってはいるが、自分自身の取るに足らなさを深く感じている人たち。覚えておくがいい。神はあなたの願うところ、思うところを越えてあなたのため豊かに施すことがおできになる[エペ3:20]。神はこれから、あなたが夢にも思ったことがないようなしかたで、あなたのうちにご自分の御子を示し、あなたに対して、あなたによって、ご自分を示すことがおできになる。そして、もしかすると、今のあなたがくぐり抜けつつある悲痛な経験は、あなたをこれからさらに高い山に立たせ、神の幻を見せるためにあなたを備えているのかもしれない。そして、それをあなたは、今よりも幸いな日々にイスラエルの家に告げることになり、大勢の人々があなたを通して祝福されるのかもしれない。

 これが現在の私たちの主題である。私たちは、神がご自分のしもべたちの幾人かにお授けになる種々の現われについて語るであろう。それから第二に、そうした現われを享受しつつある一方で彼らには責任があることを詳しく語るであろう。彼らは自分の目で見、耳で聞き、神が彼らに見せるすべての事を心に留めるべきである。そして第三に私たちが語りたいのは、何のために神はこうした現われを、より恵まれたご自分の民にお示しになるかということである。それは、彼らが自分の見たすべてのことを告げ知らせ、イスラエルの全家が、別の者がまず最初にそうしたことにより、あたかもこうした恵まれた目によって見、また、この選ばれた耳によって聞き、そして、自分たちの心を主のことばに留めるようになるためである。

 I. 第一に、私が多少とも語っておきたいのは、《神のしもべたちの一部が授けられる種々の現われ》についてである。

 主イエス・キリストは、ご自分の民のある者たちに対しては、ごく特別のしかたで近寄られる。主はエゼキエルに対してそうされた。というのも、私は、この章で言及されている人――その姿が青銅でできているようであるという人[エゼ40:3]――を、私たちの天来の主その人であると受け取っているからである。主は人であるが、その驚嘆すべきご人格の輝きにおいて、万人にまさるお方であられる。疑いもなく、エゼキエルの前に現われたのは主であられた。キリストは、死ぬために地上に降るはるか昔に、種々の異なるしかたでご自分のしもべたちにお現われになった。主は旅人のようにしてアブラハムのもとに滞在された。というのも、そのときこの族長は旅人だったからである。主はヤボクの川のほとりでヤコブと格闘された。というのも、ヤコブは非常な試練と格闘していたからである。主こそ、あの柴が燃えているとき、モーセにご自分を現わしたお方であった。また、主こそ抜き身の剣を手にした人としてヨシュアの傍らに立った人であった。様々なしかたと有様によって、主は、人の子らを喜んだ[箴8:31]ことを証明された。あるいは、ことばが現実の血肉となって現われて以来、主はそこここでご自分の選ばれたしもべたちと交わりを持ってこられた。あなたが主を求めるなら、主はご自分をあなたがたの中の誰にでもお示しになるであろう。喜んで見たいと願うあらゆる目に、ご自分の御顔の麗しさを明かしてくださるであろう。主を愛する心のうち、主にご自分の愛を現わしてもらえないものは決してない。しかし、それと同時に主は、そのしもべたちの何人かに恵みを賜る。ご自分のそば近くに生き、ご自分によって特別の奉仕に召されたしもべたちに、ご自分の光と栄光との尋常ならざる現われを与えてくださるのである。

 こうした顕現は絶え間ないものではない。いかなる人も常に同じようにしているものではないと思う。ヨハネがパトモス島にどれだけ長くいたかは分からないが、彼は、ある折の「主の日に御霊に感じ」[黙1:10]、特にそのことに注目を払っている。ダニエルやエゼキエルも、毎晩幻を見たり、毎日神の栄光を見ていたのではないと思う。人間性は、神の永続的な現われという不断の緊張にはほとんど耐えられない。こうした事がらは、後で見るように、「御使いたちの訪れのごと 少なくまれ」である。常に保っていられる交わりもあるが、現われの氾濫――真昼の顕現――はいつまでも続くものではない。エゼキエルは特別の現われを享受したし、それがいつであったかを私たちに告げている。というのも、人々が神の御顔を見て、それを覚えていないということはないからである。彼はその日付が知っており、それを記録した。「私たちが捕囚となって二十五年目の年の初め、その月の十日、町が占領されてから十四年目」[エゼ40:1]。天的な交わりの日々は、特筆すべき日であり、記憶が衰えない限り覚えておかれるものなのである。

 しかり。そして注目すべきことに、こうした現われの機会は、非常な苦悩の折であった。二十五年という捕囚期間は、神のしもべたちの精神をすり減らすのに十分であったに違いない。こういうわけで、炉で精練されて光り輝く真鍮のようである足[黙1:15]をお持ちのお方がやって来られ、ご自分をその民に現わされたのである。炉の中にある真鍮のように燃えながら、二十五年の捕囚の後で、彼らの恵みの時をお示しになったのである。またエゼキエルは、それを、町が占領されてから十四年目とも云っている。町が打ち砕かれて瓦礫の山と化してからの期間のことである。そのとき神は現われてくださった。おゝ、愛する方々。あなたが長いこと悲しんできたとしたら、輝かしい日々を期待して良い。漆黒の闇も結局は明るく輝くであろう。夜が永遠に続くことはない。大いに喜んでいるときは用心するがいい。行く手には悲しみがある。しかし、多くの悲哀をかかえているときには、望みをいだくがいい。行く手にはあなたに対する喜びがある。そう確信するがいい。私たちのほむべき主がご自分の民にご自身をお現わしになるのは、他のどこにもまして谷間においてであり、日陰においてであり、深淵の中においてなのである。主は、真夜中にご自身をご自分の子どもたちに現わし、暗闇をご自分の臨在で光とするのが習いであり、癖である。聖徒たちは、旺盛な健康にあるときよりは、ずっとしばしば苦痛の寝床の上でイエスを見てきた。スコットランドでは、現在よりも、あの流血のクレイヴァーハウス時代の草原や丘々において、より大きなキリストの現われがあった。フランスにおいては、今よりも、あのユグノーたちの時代の方が、ずっと多くの人々によってキリストが見られたはずだと私は信ずる。残念ながら、私たちの《主人》は、かつてご自分の民が羊や山羊の毛皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられていた[ヘブ11:37]頃とは違い、最近のこの国にはほとんど余所者のようにやって来ておられるのではないかと思う。というのも、以前には主はあらゆる街角、曲がり角で彼らにお会いになったからである。もし今の時代が陰鬱だとしたら、また、もし私たち自身が困難の中にあるとしたら、希望をいだこうではないか。私たちの《愛する方》がやって来られ、世には現わそうとしないようなしかたで[ヨハ14:22]、私たちにご自分を現わしてくださるであろう。

 この、エゼキエルに対する現われがなされたとき、彼は1つの高められた状態に置かれたらしく思われる。彼は云う。「神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた」[エゼ40:2]。神はご自分の民を持ち上げては、定命の喜びや悲しみ、心遣いや願いから遠く、遠く、遠く引き離しては、霊的な領域へと至らされるのが常である。そのとき、精神がその通常の水準の上へと引き上げられ、種々の精神機能が何らかの天来の過程によって受容性に富む状態にされたとき、神はご自身を私たちに明らかに示される。こうした時期は常にはやって来ないが、こうした時期が少しでもやって来る人は幸いである。山の上に神とふたりきりでいるとき、彼らの霊的性質はからだを圧する優位性を主張し、ついに彼らは自分が肉体にあるのかないのかが定かでないほどになる。そのとき、主はご自身を彼らに明らかにお示しになるのである。

 主がこのように彼を高く上げられたとき、主は彼をある特定の場所に導かれたように思われる。というのも、彼はこう云うからである。「わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ」。神の子どもたちが、常ならぬ場所に連れて来られるかのような経験をするのは、彼らがキリストにある神の愛と恵みとあわれみとを、他のいかなる場所においてよりも鮮明に見られるようにするためである。私は時として、なぜ自分がある種の精神状態を経験しなくてはならないのかと思い惑うことがある。時にはその理由を見いだすこともある。ことによると、それと同じくらい見いだせないことがあるかもしれない。私はある安息日に、この聖句からあなたに説教したことを覚えている。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。そして、もしもこれまでに、この聖句から説教したことのある教役者の中で、それが自分に当てはまるのではないかと恐れていた者がひとりでもいたとしたら、私がそうであった。私はその間ずっとすさまじい暗黒の中にあって、私にはそれがなぜか分からなかった。しかし、月曜の晩、私のもとにひとりの人がやって来た。その様子を一目見るなり、私は彼が狂気すれすれの状態にあることが分かった。彼の目は眼窩から飛び出し、彼の顔は恐怖に覆われていた。――そして、私と部屋で二人きりになると、彼は云った。「あなたは私を自殺から救い出してくれました。私は神に捨てられた男です。そして、今まで誰も私にも私の経験にも語りかけてくれたことはありませんでした。きのうの日曜の夜までは」。神の大いなる恵みと無限の恩寵によって、私たちはその兄弟をより穏やかな水路へと案内することができた。そして、私は彼が今も神を喜びながら暮らしているものと希望している。私は、自分があらゆる抑鬱を無理矢理くぐり抜けさせられたことを感謝してやまない気持ちになった。彼を助けることができたからである。時として私たちの経験は、他の人々の益となるし、時としてそれは私たち自身にとって益となる。ある種の宝石は、黒い天鵞絨の上に置くまではその美しさが分からない。何か黒いものを下敷きにしたとき、その輝きが見てとれるのである。そのように、神の約束の中には、何らかの暗黒の魂の苦難に相対して置かれない限り、決してその最も輝かしい意味を発見できないものがある。信仰の教育の多くは、暗黒文字の学びと云える。その文字は非常に黒くもあり、極度に醜い見かけをしてはいるが、その綴りをなぞらなくてはならない。日中に星を見ることはできない。日が沈むまで待たなくてはならない。神の多くの約束は、あなたが闇の中にいるときまで見えない。そして、魂が暗闇の中にあるとき、それは主がその魂をそこに達させ、綺羅星のような数々の約束を見つめ、そこから降り注ぐあらゆる光箭を尊ばせるためかもしれない。そのように、見ての通り、愛する方々。神はその民をキリスト者経験のある所から別の所に導き、丘々や谷間を、また、峡谷や断崖に沿って進ませなさる。――それはみな、彼らの精神が高められ、彼らがより輝かしい神の幻を見て、神をより良く知り、神をより愛し、神により良く仕える備えをさせるためなのである。

 しかしながら、天来の目的に影響を与えることができるのは外的な種々の環境ではない。そこには常に天来の御霊の動きがなくてはならない。第3節には、「主が私をそこに連れて行かれると」、と記されている。家でこの章全体を読み通してみてほしい。この言葉が繰り返されているのが分かるであろう。「彼が私を内庭に連れて行き、……彼は私を北の門に連れて行った。……彼は私を」あれこれの場所へと「連れて行った」、と。ある真理を内的に学ぶには、神が私たちをそこへ連れて行ってくださらなくてはならない。私たちは、ある真理を聞くことができる。真理のほか何も聞かないように注意すべきである。だが、神がその真理を心に突き入れてくださらなくてはならない。いかなる真理も、焼きごてによってでもあるかのように、私たちに焼きつけられるのでない限り、よく知ったことにはならない。一部の教理を私たちは決して疑うことができない。「おゝ」、と新しい1つの理論を私に納得させることができなかった人が云った。「あなたの頭に新しい考えを入れるには、外科手術でもするしかありませんな」。この証しは、その新しい観念が昔ながらの福音に反対するものだとしたら真実である。私が宣べ伝えている事がらは、私自身の本質的部分である。私はそれらが真実であると確信している。「あなたは無謬なのですか?」 とあなたは云うであろう。しかり。私が神のことばの中にあることを宣言しているときはそうである。私が神の真理を宣言するとき、私は、私自身にではなく、神のことばに無謬性を主張する。「すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」[ロマ3:4]。「われわれにも自分の見解や意見があるのです」、と云っても何もならない。何と、もし恵みの諸教理が真実でないとしたら、私は失われた人間である。もしそれらが神の真理そのものでないとしたら、私には何の生きがいもない。私には人生に何の喜びもなく、死に何の希望もない。願わくは、愛する方々。神があなたを真理へと連れて行ってくださるように。そうすれば、私はそこからあなたを連れ出してみるよう悪魔に挑戦しよう。もし神があなたをそこに至らせてくださるとしたら、また、もし神がそれをご自分の指であなたの魂に書き記されたかのようであるとしたら、あなたはそれを厳粛な確実性とともに知るであろう。人々は云うであろう。「どこにあなたの論理があるのです? また、いかにしてこれは人間思想の漸進的発展と調和するのです?」云々。答えよう。「あなたは行って、好き勝手な調べを奏でてかまわない。だが私について云えば、こうした事がらは私の本質的部分なのであり、私はそれらを私自身としてしまっているのだ」。私はそれらをつかんでおり、それらは私を堅く握りしめている。こうしたことについて私に選択の余地はない。私は無代価の恵みを信ずることを選んでいるのではない。私がそれを信ずるのは、信じざるをえないからである。ある人が、あなたはカルヴァン主義的教理をいだいていますか、と問われて、「いいえ」、と答えた。「おゝ」、と相手は云った。「そう聞かされるのは嬉しいことですね」。「左様」、と彼は云った。「むしろ、カルヴァン主義的教理の方が私をいだいているのですよ」。真理をいだくことと、真理があなたをいだいていることとは、天地ほどにも違う。真理を正しくいだいていたければ、心を尽くしてこう云えなくてはならない。「主が私をそこへ至らせてくださったのです」。「主は私を南のほうへ連れて行き、私を内庭に連れて行き、それから、私を外庭に連れて行った。それから神殿に連れて行った」。主がそのすべてをなさったのである。「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け……る」[イザ54:13]。そして、それにまさる教えはない。というのも、神から教えを受ける者は、無謬の教えを受けるからである。

 このように私は、神が御民のある者らにお授けになる種々の現われについて語ってきた。

 II. さて第二に注意したいのは、《こうした選ばれた人々には、このように恵みを受けている一方で責任がある》ということである。

 「その人は私に話しかけた。『人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ』」。その人はこう意味していたではないだろうか? ――「あなたのあらゆる感覚、あなたのあらゆる精神機能、あなたのあらゆる才知を用いて、天来の真理を理解せよ」、と。神の御霊があなたに光を恵まれるとき、それを見るよう心がけるがいい。また、恵みの音がするときには、それを聞くよう心がけるがいい。あのすぐに忘れる聞き手[ヤコ1:25]のひとりとなってはならない。彼らは自分の顔を鏡で眺めてから立ち去ると、それがどのようであったかを忘れてしまう。おゝ、もし自分の精神を傾注するなら、私たちは神のことばのいかに多くを理解することであろう。私たちは自分の子どもたちに、その学課を「心で学べ」[暗記せよ]と命ずる。もしその云い回しをあらゆる点でそのまま意味させるとしたら、それこそ神のみこころの事がらを学ぶ方法である。それをくまなく学ぶがいい。あなたの有するあらゆる精神機能によってそれをあなたの中におさめるがいい。神がその御霊によって与えてくださる助けに従い、与えられているあらゆる力を尽くして、その内奥の意味に達するよう努力するがいい。

 まず彼は云う。「あなたの目で見よ」。目は見るためのものでなくて何であろう? それはこういう意味である。――あなたの目で眺め、のぞき込み、調べるがいい。真理をあなたの前でひらひら飛び回らせておいた後で、「しかり、私はそれを見ました」、と云うのであってはならない。しかり。それを止まらせよ。心の目の前で熟考することによって、それをとらえよ。そして、あなたの目で見よ。その中を詳しく調べ、探査し、研究せよ。御使いたちについて何と云われているか思い出すがいい。「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです」[Iペテ1:12]。ただ「見たい」というだけでなく、「はっきり見たい」というのである。キリストを仰ぎ見ればあなたは救われる。だが、キリストをはっきり見ることこそあなたに喜びと、平安と、聖さと、天国を与えてくれるのである。福音を詳しく調べるがいい。あなたの目を見張り、あらゆる真理に堅く据えるがいい。特に、神があなたにご自分の御顔の真昼の光を恵んでくださったときにそうするがいい。そして、神のみことばに倍増しで専心するがいい。

 それから彼はこう云い表わす。「あなたの耳で聞け」。よろしい。人は自分の耳をそれ以外の用途に使えないではないだろうか。左様。だが、あなたの耳で聞くがいい。力を尽くして耳を傾けるがいい。あなたは心の耳でその意味を見つけ出すべきである。だが、それに加えて、その約束が、あるいは、その戒めが口にされた口調そのものをも捕えるようにするがいい。その正確な言葉を大切にしまいこむがいい。というのも、あらを探す者らは逐語霊感について語るのは愚かだと云うが、私は、逐語霊感がなければいかなる霊感もありえないと信ずるからである。ある人々があなたにこう云ったとしよう。「あなたの父親が語ったことの意味が真実なのである。その言葉など気にすることは全くない」。――あなたは答えるであろう。「ええ。ですが私は父が何と語ったか正確に知りたいのです。一言残らず」。私は、法律文書でもそれが同じであることを知っている。あなたは単に大意に関心を向けるだけでなく、あらゆる言葉が正しくなくてはならない。神のことばは、神から発している以上、正確無比のしかたで発されており、その意味を包み込んでいる音節に至るまで、そこには無謬性が伴っているのである。神のことばを受け取るとき、私はそれを私の目で見るだけでなく、私の耳で聞きたいとも思う。――その意味を見てとり、それから、その意味を私に伝えてくれる表現を愛したいと思う。その意味を伝える言葉について執拗に注意を払わない人は、その言葉の意味についても気を遣わないのである。おゝ、兄弟たち。神が、そのことばによってご自分の心をあなたに開いてくださるいかなるときも、何1つ失ってはならない。一音も――1つの音節をも失ってはならない。

 主はそれ以上のことを要求される。「わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ」。おゝ、だが、これこそ神から学ぶ方法である。――神が仰せになるすべてのことを愛すること、――神が何を仰せになろうと、それこそ自分が知りたいことだと感ずることである。真理を「あなたの心のすべてが知るようになるとき」、それは良いことであり、また、それを知るときには、それを暖かい情愛で包み込むがいい。そのようにして、それが琥珀の中の化石蝿のようになり、あなたの心の真中の言葉となり、そこに閉じ込められ、そこに安置され、決してあなたの中から取り去られないようにするがいい。そのことばにあなたの心すべてをかけるがいい。ある人々は、あまりにも多くの章を毎日読むことを好む。私はそうした人々を説得してそうした習慣をやめさせようとは思わないが、むしろ私は、いわば私の手を幾多の章ですすぎ落とすよりも、自分の魂を五、六節の言葉に一日中浸しておきたい。おゝ、聖書の一聖句に浴し、それがあなたの魂そのものに吸い込まれ、ついにはあなたの心を飽和させるようになればどんなに良いことか! 多くの本を読んだ人が必ずしも学識ある人とは限らない。むしろ、三冊か四冊かの本を何度も読み返し、それをきわめた人は強い。その人には相当の知識がある。その人は、種々の思想と表現を把握しており、それらが彼の人生を築き上げている。あなたの心を神のことばに据えるがいい! それが、それを徹底して知るための唯一の道である。あなたの全性質を、布が染料に浸されるように、みことばに没入させるがいい。

 主はこのことを、主が私たちに示すすべてについて行なうよう命じておられる。「わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ!」 私たちは、みことばの学びにおいてかたよるべきではなく、満遍なくみことばを受け入れるべきである。兄弟姉妹。あなたは神の聖書を選り好みするだろうか? 私は切に願う。そうした癖をやめるがいい。私の知っているある信仰告白者たちは、ある特定の章を読もうとしない。だが、今あなたを不快にさせている箇所を読み終えるまで、決して別の箇所を読んではならない。それを愛するようになるがいい。というのも、もしあなたと聖書との間に仲違いがあるなら、悪いのは聖書ではなくあなただからである。また、もしみことばのいずれかの箇所について、あなたが、「私はそれとは違う」、と云えるとしても、みことばは決して変わることなく、変わらなくてはならないのはあなたの方だからである。主には完全に従うよう努めるがいい。それによって愛好する意見の見直しを余儀なくされるとしても、また、あなたの教派的なつながりを変更することにさえなるとしても関係ない。「私たちは、小さなことについても、それほど厳密であるべきでしょうか?」、とある人は云うであろう。左様。小さな事がらにおいてこそ、忠実さが現われるのである。愛に満ちた従順な子供は、父親に従うときに、「これは大きなことで、それは小さなことです」、などと云いはしない。「あの方が言われることは何でもしなさい」*[ヨハ2:5]。小さな事がらをもてあそぶ癖は、たちまち大きな問題についても無感覚な良心に至る。「おゝ、ですが私たちはそれほど厳密になる必要はありませんよ」、とある人は云うであろう。実際、私たちはそれほど厳密になる必要があるのである。「なぜ君はそれほど厳格なのだ?」、とひとりの清教徒にある人が云った。「それは」、と彼は云った。「私の仕えているお方が、非常に厳格な神だからです」。「あなたの神、主は、ねたむ神である」[申6:15]。――このことに気をつけるがいい。そして、主は私たちがご自分のすべてのみことばを執拗に守る民となることを望んでおられる。教理においてであれ、戒めにおいてであれ、約束においてであれ関係ない。おゝ、私たちが進んで、また、喜んで、主のお望みになるすべてのことを見、主のお望みになるすべてのことを聞き、主のお望みになるすべてのことを自分の心に受け入れようとする恵みがあればどんなに良いことか。

 このようにして、私は神がそのしもべたちの何人かにお与えになる種々の現われと、それらによって彼らが負うことになる責任とについて語ってきた。

 III. しかしここで第三に、これらすべての実際的な意図は何だろうか? 《ご自分をそのしもべたちに現わされる神の理由は何だろうか?》

 その目的はこのことである。――「あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ」。

 まず、それをあなた自身で見よ。あなた自身で聞け。あなた自身で心に留めよ。そうしてから、それをイスラエルの家に告げよ。私は最近、講壇でこう云ったという教役者の話を聞いたことがある。「この教理は贖罪である。――私はこのことについて非常に多く聞いてきたが、それを理解できない」。彼は自分の疑いのいくつかを解決できるようにと、休暇を取ろうとしていた。もし彼が自分の疑いをすぐに解決しないとしたら、私が勧めたいのは、彼がその休暇を延長し、彼の寿命の長さにまで延ばすことである。贖罪の教理を理解していない人は、『小教理問答』を読み、自分に光を与えてくださるよう神に願うべきである。それは若く無知な者のために書かれた本であり、多くの教役者たちにとって有益であろう。願わくは私たちが、自分の知っていることを知り、自分が見たこと、聞いたこと、心におさめたことのほか何も他者に告げ知らせようとしないという恵みを与えられるように。

 しかし、それを行なった後で、私たちはその真理を他者に告げるべきである。特に、それに関係のある人々に告げるべきである。彼は1つの神殿と1つの町の形と幻を見てとった。彼はこれをイスラエルの家に向かって語るべきであった。愛する兄弟。あなたは自分が誰に対して語るべきであるかは分からない。だが、このことがあなたの手引となるであろう。――あなたが見て聞いたことは、それと関係のある人々に対して語るがいい。あなたは精神が沈滞した状態にあったのに、それが慰められただろうか? 次にあなたがそうした状態にある人に出会ったとき、その慰めについて告げるがいい。あなたは魂の大きな葛藤を感じていたのが、安息を見いだしただろうか? あなたの葛藤について、同じような葛藤を通り抜けつつある隣人に向かって告げるがいい。神はあなたを悲しみの時に救い出してくださっただろうか? あなたが次に出会う悲しんでいる人にそれを告げるがいい。世の中には豚に真珠を投げるということがある。それは、無分別なお喋りによって簡単になされうる。だが、空腹な人を見いだすときには、パンを与えるがいい。渇いている人を見いだすときには、水を差し出すがいい。神からの祝福を欲している人を見いだすときには、あなた自身の魂にとって尊いものについて告げてやるがいい。

 左様。だが、それでも、あなたの義務がこれで尽きるわけではない。神が私たちにその尊いみことばを示しておられるのは、私たちがそれをイスラエルの家に告げるためである。さて、イスラエルの家はうなじのこわい民であった。そして、エゼキエルが彼らのもとに行ったとき、彼らは彼を退けた。聞こうとしなかった。それでも彼は行って、みことばを彼らに教えるべきであった。私たちはこう云ってはならない。「私は、あのような人にはキリストのことを語るまい。彼はそれを拒絶するだろう」。たとい彼がそれを退けると分かっているとしても、彼に不利な証言としてそう行なうがいい。行くがいい。私の兄弟。そして、あなたの種を蒔くがいい。また、思い出すがいい。あのたとえの中で、種蒔く人が十分に用意のできた良い地面の所にだけ一握りの種をまき散らしただけでなく、いばらやあざみのただ中にも蒔いたこと、道にすら蒔いて、それをすぐに空の鳥が取り去ったことを。「あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ」[伝11:2]。「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない」[伝11:6]。行って、神があなたに告げられたことを語るがいい。いま私たちが読んだばかりのことを覚えておくがいい。「わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、わたしが家の中で語ったことを屋上で言い広めなさい」*[マタ10:27]。「ならば、私たちはみな説教者となるのでしょうか?」 しかり。神から教えられた者はみな、人を教えるべきである。「私たちはみな、公の場に立つべきでしょうか?」、とある人は云うであろう。私はそうは云わない。だが、いずれかの場所において――ことによると、あなたがいま座っている会衆席の上で、あるいは、あなたがここを出て行く際の階段の上で、あるいは、道端で、あるいは、明日の朝の店先で、あなたがたはみな、イエスのための言葉を差し挟むことができる。主の御名の誉れとなる言葉を一言から二言、口にするがいい。「私は何と云ったら良いか分かりません」、とある人は云うであろう。では、何も云ってはならない。兄弟よ。私はあなたに勧めたい。もしあなたが何と云って良いか分からないとしたら、何も口にしないことである。だが、もしあなたが自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で受け入れたとしたら、あなたは何と云うべきかを知っており、最初に手の届くところに来たものが、語るべき最上のことであろう。というのも、神は、人々の精神の状態をご存知であり、彼らの状態にいかにすればあなたをふさわしくすべきか、いかにすればあなたのキリスト者としての経験を、あなたの光の助けを必要としている人の経験に符合させることができるかを知っておられるからである。行くがいい。そして、主があなたとともにあるように。

 もしこの場に、まだ一度も主を見たことがない人がいるとしたら、また、もしそうした人々が主を求める願いを少しでも有しているとしたら、また、もし彼らが少しでも罪を意識しているとしたら、また、もし彼らが永遠の光に対する何らかの願いを有しているとしたら、そうした人々はあの恵み深いことばを思い出すがいい。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。また、あの尊い招きを思い出すがいい。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。

 願わくは聖霊があなたを導き、ただちにイエスに信頼させてくださるように。また、主の御名に賛美が永久とこしえにささげられるように。アーメン。

 

教えるために教えられ[了]

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