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ヨハネとヘロデ

NO. 1548

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」。――マコ6:20


 ヨハネは人々の間で何の誉れも求めなかった。彼が喜びとしていたのは、私たちの主イエスについてこう云うことであった。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」[ヨハ3:30]。だがヨハネは、人から全く誉れを求めはしなかったが、誉れを得た。「ヘロデは、ヨハネを恐れた」*、と書かれているからである。ヘロデは大君主であり、ヨハネは一介の預言者、その衣服や食物は粗末きわまりないものであった。だが「ヘロデは、ヨハネを恐れた」。ヨハネには、王であるヘロデよりも、ずっと王者の趣があった。その人格によって彼は真の王とされていたし、名ばかりの王は彼の前で震えた。人は、その身分によってではなく、その人格によって評価されるべきである。神がお認めになる貴族階級は、人の正しさと聖さに従って順序が決められる。神と聖なる御使いたちの前で第一の者とされるのは、従順において第一であった者である。また、治め、王とされ、祭司とされる[黙5:10]のは、神が聖め、聖なる生活という美しい亜麻布を着せられた者たちである。世俗の誉れに貪欲であってはならない。あなたの生き方が「主への聖なるもの」[ゼカ14:20]であれば、悪人たちからさえ十分な誉れを受けることになるからである。

 もしもヨハネに墓碑銘が必要だとしたら、彼の墓には、「ヘロデは、ヨハネを恐れた」、と書くことにしよう。福音に仕える教役者にとって、これ以上に受けることが望まれる証言は1つしかない。すなわち、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」[ヨハ10:41]、と云われることである。彼は、自分の世代の人々を驚かせるような、驚異的なわざを何も行なわなかったが、イエスについて語った。そして、彼が云ったことはみな真実であった。願わくは神が、私たちの《主人》のしもべたちにこうした賞賛をかちとらせてくださるように。

 今回の私の主題は、ヨハネよりはヘロデについて多くを語ることになる。私はこの会衆の中に、ヘロデなどひとりもいてほしくないと思うが、あなたがたの中のある人々については、ヘロデのようになるのではないかと案じている。それゆえ私は、あなたがたの中の誰も、この悪王の足どりにならわないでほしいと願いつつ、衷心から語りたいと思う。

 I. ここで考えてもらいたいのは、《ヘロデの性格に見られた有望な点》である。まず、私たちの見いだすところ、ヘロデは正義と聖潔に敬意を払っていた。というのも、「ヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ」ていたからである。私は、いかなる人の内側においても、美徳に対する敬意を見ると嬉しく思う。その人自身が美徳の持ち主でなくとも関係ない。というのも、次の一歩はその美徳を願うこととなるかもしれず、正しくなりたいと願う人は、ほとんど正しい者となっているからである。一部の人々は、はなはだしく罪深い者となっているため、善良さを蔑み、正義や献身をあざけるまでとなっている。願わくは私たちが決して、いかにしても、そのように恐ろしい状態には至らされないように。善良で聖いものに対する畏敬を失うほど混乱した良心に陥るとき、その人は実に悲しむべき窮境にあるのである。ヘロデはそうした状態にはなかった。正義と、正直と、真実と、勇気と、生活のきよさを尊んでいた。彼自身はそうしたものを持ち合わせていなかったが、それでも彼はそうしたものに対する健全な恐れを有していた。その恐れは、もう一歩でそれらに対する敬意となりえるものである。私は、いま話を聞いている大多数の人々が、善良で正しいことすべてを敬っているものと承知している。そうした人々は、自分自身も善良で正しいものになれさえしたらと願っている。とりあえず、それは良いことである。

 ヘロデの中に見られる次に良い点は、正義と義を現わしている人物を彼が賞賛していたということであり、それはさらに一歩進んだことである。というのも、人は抽象的な美徳を賞賛しても、それが実際的にひとりの人によって体現されるのを見るとき、その人を憎むということもありえるからである。古代人たちはアリスティデスの正義を認めていたが、しかし、彼らの中のある者らは彼を憎み、彼が「正義の人」と聞かされることにうんざりするようになった。人は正しく聖い人であると認められ、まさにそれを理由に恐れられることがある。あなたは動物園で獅子や虎を見るのは好むかもれしないが、自分の部屋の中でそれらを見るのは好まないであろう。それらが鉄格子の向こう側や、檻の中に入っている所を見ることの方が大いに好ましく思われるであろう。そのように、非常に多くの人々は、キリスト教信仰への敬意を有してはいるが、キリスト教徒たちには我慢がならない。彼らは正義を賞賛する! いかに雄弁に彼らは正義について語ることか。だが、正義に立った取引をすることは好まない。彼らは聖潔を賞賛する! だが、聖人に出会うと、彼を迫害する。「ヘロデは、ヨハネを恐れた」。そして、ヨハネを寛大に扱い、しばらくの間、彼をヘロデヤの手の届かないところで保護してやることさえ行なった。あなたがたの中の多くの人々は、神の民とともにいることを好む。事実、卑俗な人々とともにいることが苦手である。彼らには我慢がならず、卑しむべき悪徳を行なっている人々から、あなたはたちまち逃げ出す。あなたは精選された人づきあいを喜ぶ。とりあえず、それは良いことである。だが、それで十分ではない。私たちはさらに先まで行かなくてはならない。さもないと、私たちは結局ヘロデのような者のまま留まってしまいかねない。

 ヘロデに関する第三に良い点は、彼がヨハネの話に耳を傾けたということである。あなたや私が説教に耳を傾けることには別段素晴らしい所はないが、ひとりの国王が、しかもヘロデのような国王がそうすることには素晴らしいものがある。君主たちは、めったに――衣裳を着飾り、へつらいを旨とする宮廷説教者によるものでもなければ――キリスト教信仰の講話になど頓着しない。ヨハネは王宮向きの人種ではなかった。――あまりにもがさつで、あまりにも単刀直入で、あまりにも率直に物を云った。彼の言葉は、あまりにも深々と心に突き入れられた。だが、ヘロデは喜んで耳を傾けていた。彼が、正義と、聖潔と、「世の罪を取り除く神の小羊」[ヨハ1:29]を宣べ伝えた人物の話を聞こうとしていたこと、それは彼の性格における有望な点であった。それがいかに自分の良心に深々と突き入るものであろうと神のことばの正直な宣言を聞こうとし、それに耳を傾けようとすることは、いかなる人においても立派な点、有望な点である。ことによると、私の話を聞いている人々の中には、時たまにしか福音を聞かない人がいるかもしれない。そして、あなたがキリスト教信仰の集会に立ち寄るとき、あなたは図書館の中の犬のようで、万巻の書物と一本の骨とを喜んで交換しようとするであろう。ロンドンには、そうした人々がたくさんいる。キリスト教信仰は彼らの性に合わない。娯楽の場所の方が、ずっと気に入る。ある人々は説教者についてこう云う。「もう二度とあんな奴の話など聞くものか。奴は、深々と切りつけすぎる。あまりにも個人的になりすぎる」。ヨハネは、ヘロデに向かって、彼が兄弟の妻を自分のものとしていることは不法である、と云ったが、彼がこれほどはっきりと語ったにもかかわらず、ヘロデは彼に耳を傾けた。なぜなら、ヨハネが「正しい聖なる人」だったからである。これは、ヘロデの良い所だったし、あなたにおいても、愛する方々。もしあなたが、いかに実際的に語られる福音をも喜んで聞こうとしているとしたらそうである。とりあえず、それは良いことである。

 しかし、ヘロデにはさらに良い点がまだあった。彼は自分の聞いた言葉に従った。ヘロデはヨハネに喜んで耳を傾け、「ヨハネの教えを聞くとき、多くのことを行なった」<英欽定訳>。私たちの話を聞く人々の多くは何も行なわない。聞いて、聞いて、聞いて、それで事は終わってしまう。彼らはその道について学び、その道を知り、その道の専門家にはなるが、その道を辿ることがない。彼らは福音の招きを聞くが、その宴会にやっては来ない。ある人々は、キリスト教信仰の義務が、説教を聞くこと、そして、その後でそれについて語ることにあると考えているかのようである。だが、それは間違いである。ヘロデの方が、ずっとよく分かっていた。彼は単に聞くだけでなく、何かを行なった。そして、この聖句が「多くのことを行なった」、と告げていることに注目すべきである。ことによると、次のようなことは、その多くの事がらの中の一部だったかもしれない。――彼は、民衆を搾取していた取税人を解雇し、ないがしろにされていたやもめに対する不正を正し、自分の発布した冷酷な法規を改正し、自分の習慣やふるまいをいくつかの点で変えたのかもしれない。確かに、多くの点で彼は改善された人間となった。というのも、バプテスマのヨハネが彼に影響を与えて善へと向けていたからである。「ヘロデは、ヨハネを恐れた。また、ヨハネの教えを聞くとき、多くのことを行なった」*。私の話を聞いている人々の中には、説教を聞くと、その一部は実行に移す人がおり、そうした人々は、この場所に初めて集ったとき以来、多くのことを行なってきた。そのことについて、私たちは非常に感謝している。私の知ってるある人は、福音に魅了され、自分の酩酊も、安息日破りもやめ、冒涜的な言葉遣いをやめようと試み、相当程度までそれに成功した。そして、このようにして大いに行ないを改めた。だがしかし、だがしかし、この人は結局はヘロデでしかない。というのも、多くのことを行なった後でもヘロデはヘロデであり、その心の中には、やはりありとあらゆるよこしまさを、なおもいつでも行なう用意があったからである。それでも、彼は少しは品行を改め、とりあえず、それは良いことであった。

 ヘロデには別の点もあった。すなわち、彼はこの説教者の話を喜んで聞き続けた。というのも、それは、この節の最後に置かれて、あたかも、彼がそれでもヨハネの話を聞いていたことを示すかのようだからである。ヨハネは彼の良心に障ったが、それでも結局、ヘロデはなおも喜んで耳を傾けていた。彼は、「もう一度バプテスマのヨハネを連れて参れ」、と云った。ヘンリー八世は、ヒュー・ラティマーから面と向かって非難されても、彼の話に耳を傾けるのが常だった。ラティマーが彼の誕生日に送った手巾に、「神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれる」[ヘブ13:4]という聖句が記されていようと、彼は叫ぶのだった。「正直者のヒュー・ラティマーの話を聞こうではないか」、と。悪人たちでさえ、自分に真実を告げる者たちのことは賞賛する。その警告がいかに嬉しくないものであっても、彼らはそれが正直に語られたものと信じ、それゆえ、その説教者を敬う。これは良い点である。この場にいて、まだ回心していないあなたがたは、私から最も痛烈なことを聞かされてきた。「やがて来る審判」[使24:25]について、また、自分の罪の中で死ぬ者たちの上にとどまる永遠の御怒りについて聞いてきた。ならば、あなたに警告させてほしい。もし神のことばの数々の告発を聞いた後で、なおもあなたが喜んで聞こうとしているとしたら、私はあなたについて大きな期待を有するものである。とりあえず、それは良いことである。

 ヘロデには、他の点がもう1つだけあった。そして、それは、彼の良心がヨハネの説教によって大いに影響を受けたということである。というのも私は、この箇所、「ヘロデは多くのことを行なった」、を違うように訳す、ある特定の翻訳が正しいかもしれないという気がするからである。すなわち、「ヘロデは非常に当惑した」、あるいは、「ヘロデはためらわされた」、と。一部の写本にはそうした意味が見いだされる。彼は自分の罪を愛していたが、信仰の道における「聖潔の美しさ」を見てとることができ、聖くなりたいと願った。だが、そこにはヘロデヤがおり、彼は彼女をあきらめることができなかった。ある説教を聞いたとき、彼は後代の自分の親戚のように、「ほとんど説得され」かかった[使26:28 <英欽定訳>参照]が、自分の情欲を捨てることはしなかった。彼は、ヨハネが彼に行なわせようとすることを最後までやり抜くことができなかった。自分の最愛の罪を手放すことはできなかった。だがしかし、彼は、それを手放したいと願っているかのように感じた。彼はどっちつかずによろめいており、ためらい、ふらついていた。もしも善を有するとともに自分の快楽も有することができたとすれば、善に傾いていた。だが、彼の快楽は、彼のあまりにも強大な主人であったため、彼はそこから逃げ出せなかった。彼は鳥もちで捕まった鳥のようで、飛びたいと思ってはいたが、云うも悲しいことに、自分の情欲という罠に捕えられていたため、喜んでとどめられてもいたかった。これが、私たちの話を聞いている多くの人々の状態である。彼らの良心は、自分のもろもろの罪に嫌気が差していない。それらをあきらめることはできない。だがしかし、そうできることを願うのである。そうした人々は瀬戸際で愚図愚図しており、一気に旅立つことを恐れている。彼らはほとんどソドムの外に出かかっており、ほとんどあの火の雨から逃れようとしているが、だがしかし、十中八九はロトの妻のように塩の柱になって立ちつくすであろう。なぜなら、後ろを振り向き、自分の心からなかなか消えない罪を愛しているからである。良心は近頃は流行していないように見受けられるが、みことばの説教に敏感な良心を有することは、賞賛すべきことである。そして、もしあなたにそうしたものがあるなら、とりあえず、それは良いことである。

 II. ということは、ヘロデには六つの良い点があったことになる。しかしここから、非常に悲しみつつも私が示したいと思うのは、《ヘロデの場合に見られる欠陥》である。最初の欠陥はこうである。彼らはヨハネを愛してはいたが、決してヨハネの《主人》を仰ぎ見ようとはしなかった。ヨハネは決して誰をも自分の弟子にしたがったことはなく、「見よ、神の小羊」[ヨハ1:36]、と叫んだ。ヘロデは、曲がりなりにではあっても、ヨハネの弟子であったが、決してイエスに従う者ではなかった。あなたにとって、ある説教者の話を聞き、彼を愛し、彼を賞賛するのは容易なことであるが、その説教者の《主人》はあなたにとって全く知られていないことがありえる。私は切に願う。愛する方々。誰ひとりとして、そうした者になってはならない。私は花婿の友人[ヨハ3:29]であり、花婿があなたの心をかちとるとき大いに喜ぶであろう。私の牧会伝道活動があなたを私に導き、そこであなたをとどめてしまうようなことは決してあるべきでない。私たちは単にキリストを指し示す道しるべにすぎない。私たちを越えて進むがいい。私たちがキリストに従う者である限りにおいて、私たちに従う者となるがいい。私たちがあなたに願うのは、主のもとへ直接行き、主に赦罪を求め、主に贖いを求め、主に心の一新を求め、主に新しいいのちを求めることである。というのも、いかに忠実な説教者の話を聞いても、その説教者の《主人》に聞くことをせず、その福音に従わないのでは無駄だからである。あなたがたは、恵みによってイエス・キリストに導かれない限りヘロデであり、それ以上の何者でもないであろう。

 ヘロデの場合にまつわる二番目の欠陥は、彼が自分の心中の善良さに全く顧慮を払わなかったことである。彼は他人のうちにはそれを認めたが、自分自身の中にはそれが全くなかった。私たちの《救い主》は見事なしかたでヘロデを描写された。キリストは何と卓抜した人物素描の名手であられたことか! 主はヘロデについて云われた。「行って、あの狐にこう言いなさい」[ルカ13:32]。ヘロデは狐のごとき人物であった。利己的で、ずる賢かった。目上の者の前に出ると臆病だが、自分の身を守れない者たちの前にいるときには冷酷かつ傍若無人であった。時々こういう狐のごとき者たちに出会うことがある。彼らは天国に行きたがっているが、地獄への道を好む。イエスに対する賛美を歌うだろうが、陽気な仲間たちと寄り集まるときには、大いにおだをあげて歌い騒ぐことを好む。むろん教会には一ギニーをささげる。おゝ、しかり! ご立派なことである。しかし、いかに多くのギニー金貨が何らかのひそかな情欲のために費やされるだろうか? おびただしい数の人々が神とサタンの間でぬらりくらりと云い抜けようとしている。彼らはどちらともゴタゴタを起こしたくはない。内股膏薬をやる。善良なものすべてを賞賛するが、それを自分ではあまり持ちたくない。自分自身の肩でキリストの十字架を運び、自分自身の生活の中で几帳面になり、杓子定規になるのは不便であろう。ただし、決して一言も他の人々がそうしていることには文句をつけない。だが自分自身のうちに何の根もないことは致命的な欠陥である。――罪に定められる欠陥、あなた自身を断罪することである。――正しいことを知っていながらをそれを顧みず、それに敬意を感じていながらも、足でそれを踏みにじっていることはそうである。私の判断するところ、そうした者の末路は、善を全く知らず、悪徳の跋扈する貧民街で育てられ、聖潔やきよさなど一度も目にしたことがなかった者たち、それゆえ、決して故意にそれらにそっぽを向いたのではない者たちの運命よりも、はるかにいやまさって恐ろしいものとなるであろう。

 ヘロデの人格におけるもう1つの欠陥は、彼が決して神のことばを愛さなかったということである。彼はヨハネを賞賛し、おそらくはこう云っていたであろう。「あれこそは私好みの男だ。彼がいかに自分の《主人》の使信を大胆に伝えるか見るがいい。あれこそは私が話を聞くのを好む男だ」。しかし、彼は決して自分に向かってこうは云わなかった。「神がヨハネを遣わされたのだ。神はヨハネを通して私に語りかけておられるのだ。おゝ、ヨハネの語っていることを私が学びとり、ヨハネの口にしている言葉によって教えを受け、向上させられることができたならどんなに良いことか。なぜなら、それは神のことばだからだ」、と。否、否。私は切に願う。ぜひとも自分に問うてほしい。愛する方々。果たしてこれがあなたに当てはまらないかどうかを。あなたがある説教を聞く理由が、誰それ氏の講話だからであり、その説教者をあなたが賞賛しているからということはありえないだろうか? もしみことばをそのように扱うとしたら、それはあなたにとって致命的なこととなるであろう。それはあなたにとって、真理の中にあるもの、神のことばでなくてはならない。さもなければ、それはあなたを救いはしないであろう。それが自分の魂に感銘を与えるものであってほしければ、あなたはそれを神のことばとして受け入れ、その前に額ずき、その力のすべてを感じたいと願わなくてはならない。神の口からそのまま出て来たもの、また、その聖霊によってあなたの心に送り届けられたものとしての力を感じたいと願わなくてはならない。

 さて、なぜヘロデがこの言葉を神のことばとして受け入れなかったことが分かるかというと、彼はそれを分断し、選り好みをしていたからである。彼は、ヨハネが第七戒について語ったときには、その講話を好まなかった。だが彼が第四戒について語ると、こう云うのだった。「これは素晴らしい。ユダヤ人ならばこれを守らなくては」。だが、ヨハネが第七戒を扱うときには、ヘロデとヘロデヤはこう云うのだった。「説教者たちは、こうした主題についてほのめかすべきではないと思う」。これは常に私の目についてきたことだが、悪徳を行なう中で生きている人々は、それほどみだらな物事を、神のしもべたちがほのめかすべきではないと考えるのである。私たちが非難することを許されるのは、月世界の人の罪や、中央アフリカの野蛮人たちの悪徳である。だが、ロンドンの町中で日常行なわれているもろもろの悪徳について、神の御名によってはっきり指摘すると、ただちに私たちに向かって誰かがこう叫ぶのである。「こうした事がらについてほのめかすのは、たしなみのないことです」。ヨハネは神のことば全体を扱ったし、単に、「見よ、神の小羊」、と云うだけでなく、こう叫んだ。「斧は木の根元に置かれています」*[マタ3:10]。彼は良心に向かって率直に語った。それゆえヘロデの人格には、こうした致命的な欠陥があったのである。彼はヨハネが神のことばとして伝えたことには心を向けなかった。ある部分は好み、他の部分は好まなかった。ヘロデに似ているのが、教理的な講話は好きだが、神のことばのもろもろの戒めには我慢がならないという人々である。私は誰かが叫んでいるのが聞こえるような気がする。「私は実際的な講話を好んでいます。私は何の教理もほしくありません」。左様か? 神のことばの中には教理もあるのであり、あなたは神がお与えになるものを受け取るべきである。聖書の半分ではなく、イエスにある真理[エペ4:21]真理全体を。それはヘロデにあった大きな欠陥であった。彼はヨハネの証言を神のことばとしては受け入れなかった。

 次に、ヘロデは多くのことを行なったが、すべてを行ないはしなかった。神のことばを真に受け入れる人は、単に多くのことを行なおうと試みるだけでなく、すべての正しいことを行なおうとする。一個の悪徳を、あるいは、十何個の悪徳を放棄するのではなく、あらゆる偽りの道を捨て去ろうと努力し、あらゆる不義から解放されようとする。ヘロデには、手元に残しておきたい1つの罪があり、ヨハネがそれについて率直に語ったとき、耳を貸そうとしなかった。

 ヘロデのもう1つの欠点は、彼が罪の支配下にあることであった。彼は身も心もヘロデヤにささげていた。彼女は彼の姪であり、彼の弟に嫁ぎ、何人もの子の母になっていたが、しかし彼は弟の家から彼女を連れ出し、自分の妻にしようとした。彼の方でも、善良で、長年彼に忠実に連れ添っていた妻を追い出した。これは、考えたくもないような不潔な近親相姦騒動である。この女の影響力が彼の呪いであり破滅だった。いかに多くの男がそのようにして破滅してきたことか! この町では、日ごとにいかに多くの女が、他人の不道徳な影響下に置かれることによって身を持ち崩していることか! 私の愛する殿方婦人方。やがてあなたは自分の責任で神の御前に立たなくてはならない。いかなる者にも、あなたを虜にさせてはならない。私は切に願う。命がけで逃げるがいい。悪徳に狩り立てられるときには、一目散に逃げ出すことである。わたしは今この瞬間に、まさにあなたのための言葉をもって遣わされているのかもしれない。あなたの良心をかき立て、自分の危険を感ずるようあなたを覚醒させるための言葉をもって。未回心の人の影響下にあることは常に危険である。その人がいかに道徳的であろうと関係ない。だが、邪悪な女あるいは、悪辣な男の魅力の下にあるのは、この上もなく危険なことである。神があなたを助けて、ご自分の御霊によってあなたにそれを乗り越えさせてくださるように。というのも、もしあなたがみことばに聞く者でありながら悪を行なう者であるとしたら、あなたの末路はヘロデとなることであり、それ以外の何者にもならなくなるからである。

 私は、ヘロデの人格の中にある別の点を単にほのめかすだけとしよう。すなわち、彼の信仰心は、確かに彼に多くのことを行なわせはしたが、愛によるものというよりは、恐れによるものであった。ヘロデが神を恐れたとは云われていないが、「ヨハネを恐れた」<英欽定訳> とは云われている。彼はヨハネを愛さなかった。「ヨハネを恐れた」。すべては恐れの問題であった。見ての通り、彼は獅子ではなかった。狐であった。――びくびくする、臆病な、どんな犬に吠え立てられても尻に帆かけて逃げ出す狐であった。

 多くの人のキリスト教信仰は、全く恐れの中にしかない。ある人々にとって、それは人々への恐れである。――もし信心深いふりをしていなかったとしたら、人々から何と云われるだろうかという恐れである。――もし立派にしていなければ自分のキリスト者の仲間たちがどう思うだろうかという恐れである。他の人々には、何らかのすさまじい審きが降りかかるのではないかという恐れがある。しかし、キリストの信仰の主ぜんまいは愛である。おゝ! 福音を愛し、真理を楽しみ、聖潔を喜ぶこと。これが純粋な回心である。死の恐れ、地獄の恐れは、情けない、あわれな信仰を生み出す。それは人々をまだヘロデ並みのところにとどめておく。

 III. しめくくりにあなたに示したいのは、非常に痛ましいことだが、《ヘロデがどうなったか》ということである。そのあらゆる良い点にもかかわらず、彼は悲惨きわまりない末路を迎えた。まず最初に彼は、かつては敬っていたこの説教者を殺した。処刑人を使ったにせよ、彼こそそれを行なった張本人であった。彼は云った。「行って、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて参れ」。同じことが、説教を聞いている多くの有望な人々にも起こってきた。彼らは、かつてはその前で身震いした当の説教者たちの中傷者となり、迫害者となり、自分にできる限り相手の首を取ろうとする。しばらくすると、人は叱責されることが不愉快になり、その不快さをつのらせ、とうとう以前には畏敬の念をいだいていた事がらをあざけり、キリストの御名を軽々しく扱って笑い物にするようになる。用心するがいい! 私は切に願う。用心するがいい! 罪の道は下り坂だからである。ヘロデは、ヨハネを恐れた。だがしかし、彼の首を刎ねた。人は福音派に属し、カルヴァン主義者その他の者ではあっても、しかし、ある特定の条件下に置かれると、一度は公言した真理を憎む者、迫害する者となることがありえる。

 しかしながらヘロデは、もう一段下落した。というのも、このヘロデ・アンティパスこそは、後に《救い主》を嘲弄した男だったからである。こう云われている。「ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せ……た」[ルカ23:11]。これがヨハネの指導の下で「多くのことを行なった」男なのである。彼の行く手は今や変わってしまっていた。彼は《贖い主》につばを吐きかけ、神の御子を侮辱する。福音を最も暴虐に冒涜する者たちの何人かは、元々は《日曜学校》の生徒や教師たちであった。「ほとんど説得され」かかった青年たちであった。だが彼らは立ち止まり、ためらい、迷った果てに、深みへと飛び込んだ。真理の光を見てとっていたとしたら、おそらくなることができたであろう所の者よりも悪い者となってしまった。もし悪魔が一個のユダ――「滅びの子」[ヨハ17:12]――を作るための原材料を欲しているとしたら、彼はひとりの使徒を手にとって働きかける。また、彼がヘロデのような徹底的に悪い人格を取り上げるときに必要なのは、ヘロデがヨハネの手でそうされていたように、思い通りの形に作れるほど柔らかくすることである。どういうわけか、境界にいる人々は最悪の敵となる。英国とスコットランド間で古に行なわれた幾多の戦闘においては、国境の住民こそ戦う者であった。それと同じく、境目にいる人々は、わが方に引き込まない限り、他の誰よりも大きな害悪をなすであろう。おゝ、神の恵みが今ためらっている人々を決心させればどんなに良いことか!

 私はこのこともあなたに言及できよう。ほどなくしてヘロデは、彼の所有していた一切の権力を失ってしまった。彼は狐のごとき男であって、常に権力を獲得しようと努めていたが、結局はローマ皇帝の不興をこうむって召還された。それが彼の一巻の終わりであった。多くの人は栄誉と引き替えにキリストを捨てたが、キリストを失うだけでなく、自分自身をも失ってしまってきた。古のカトリックによる迫害時代に、信仰ゆえに投獄されたある人のようにである。彼はプロテスタント信仰を愛していると云ったが、「焼かれるなんてできません」、と叫んだ。それで彼は信仰を否定した。すると彼の家は、丑三つ時に火事になってしまった。焼かれることができなかった人はいやでも焼かれることとなった。しかし、その焼かれることには何の慰めもなかった。というのも、彼は自分の主を否んだからである。もしあなたが、一皿の煮物のためにキリストを売り渡すとしたら、それはあなたの唇を火傷させるであろう。あなたの魂の内側を溶融した鉛のように永遠に焼くであろう。というのも、「罪から来る報酬は死」[ロマ6:23]だからである。黄金の貨幣がいかに明るく輝こうとも、また、そのチリンチリンがいかに妙なる響きであろうと、それを得るために自分の主を売る者にとって、やがてそれはすさまじい呪いとなるであろう。

 今日、ヘロデの名は永遠の汚名となっている。キリスト教会のある限り、ヘロデの名は忌み嫌われよう。では、こう考えることは厳粛なことではないだろうか? 「ヘロデは、ヨハネを恐れ、多くのことを行ない、喜んで耳を傾けていた」のである。私は、この場にいるいかなる若者も自分が一個のヘロデになるなどと信じてはいないことを知っている。私があの預言者のように、「あなたは、やがてこのことを行ない、あのことを行なうであろう」、と云えば、あなたは答えるであろう。「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう」[II列8:13]。しかし、あなたはそれを行なうであろう。神のために生きると心を決めない限りそうである。

 このような訴えに、私は一度驚いたことがある。私がまだ若くて年端も行かなかった頃、ひとりの有望な若者がいた。私とともに学校に通い、私にとっては1つの模範と見えた若者である。彼は善良な少年で、私は彼の名前にさしたる愛情を感じなかった。それは、彼の善良さを引き合いに出されては、絶え間なく叱られていたからであり、私は善良さなどからほど遠かったからである。彼よりも年下だった私は、彼が年季奉公に出るのを見た。そして彼が大きな町の歓楽にうつつを抜かし、つらよごしとなって帰ってくるのを見た。それは私を恐怖でぞっとさせた。私も自分の評判に泥を塗るのではないだろうか? そして私は、もしキリストに身をささげるなら、キリストが私に新しい心とゆるがない霊[詩51:10]を与えてくださると知ったとき、また、「わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える」[エレ32:40]、というあの契約の約束を読んだとき、それは私にとって、《評判保険協会》のように思われた。もし私がイエス・キリストを信ずるなら、私の評判は保証されるのだった。というのも、キリストは私が聖潔の通り道を歩けるようにしてくださるからである。これは私を魅了して、キリストの恩恵にあずかることを願わさせた。

 もしあなたがヘロデのようになりたくなければ、イエス・キリストの弟子となるがいい。というのも、あなたがたの中のある人々にとっては、何の選択の余地もないからである。ひとりの老スコットランド人が、あるときロウラント・ヒルのことをまじまじと見つめていた。この善良な老紳士が、「何を見ておられるのですかな」、と云うと、彼は云った。「あなたの人相を観じておりました」。「どう思われましたかな?」 「もしキリスト者になっていなかったとしたら、あなたは途轍もない罪人となっておられたでしょうな」。一部の人々は、そうした種類の人々である。彼らは振り子のようで、一方かもう一方に振れるしかない。おゝ、あなたが今晩、キリストの方に振れるならばどんなに良いことか。こう叫ぶがいい。「主よ。私を助けて私の道をきよめさせてください。私を助けて全くあなたのものとしてください。私を助けて全くあなたのものとならせてください。私を助けて、私の賞賛する義を、私の敬っている聖潔を所有させてください。お助けください。ある事がらを行なうだけでなく、あなたが私に行なわせたいとお望みのあらゆることを行なうことができますように。私をお取りください。あなたのものとしてください。そうすれば、私は、私を聖くしてくださるお方にあって喜び楽しみましょう」、と。愛する方々。神があなたを祝福したまわんことを。イエス・キリストのゆえに。アーメン。

 

ヨハネとヘロデ[了]

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