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サムエルと青年サウル

NO. 1547

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「彼らは、町はずれに下って来ていた。サムエルはサウルに言った。『この若い者に、私たちより先に行くように言ってください。若い者が先に行ったら、あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから』」。――Iサム9:27


 これはサムエルにとって、この美青年との三度目の会見であった。すでにサムエルは彼と言葉を交わしたことがあったし、彼を自分の広間でもてなし、彼を誉れある座席に着かせてもいた。その後でサムエルは、その晩、屋上で静かに彼と話をした。そして今や彼らが別れようとする際に、サムエルは新たな機会をとらえて彼と話をすることにしたのである。今回のサムエルは、非常に個人的で親密に話し合うことを申し出て、しもべが同道しないよう先に行かせ、サウルに云うことを他の誰も聞けないようにした。彼はこの青年の魂の内奥に語りかけようとした。この預言者は深く厳粛なものを感じていた。彼の口からこぼれ落ちる一言一言に、彼の心の全体がこもっていた。サムエルはこの青年が王になること、非常に重い責任を負うことになること、また、それがイスラエルにとって非常な呪いとなるか非常な祝福となるかのいずれかであると知っていた。それゆえ、この神の人は、自分の年齢の重々しさのすべてと、愛に満ちた霊の熱心さのすべてをこめてこう云った。「あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから」。私には、彼の熱心な口調と、その大きな愛で甘美にされた抑揚とが聞こえるような気がする。というのも、サムエルはサウルを愛しており、その情愛によってこそ、これほど熱心かつ一途に語っていたからである。この場で私の話を聞いている方々の中には、私が幾度となく話をしてきた人々がいるであろう。だが私は今ひとたび、その人たちと特別に個人的な会見を持ちたいと思う。さあ、青年よ。脇に寄り、私にあなたと話をさせてほしい。この場には、説教者とあなた自身のほか、誰ひとりいないものと考えるよう努めるがいい。そして、この説教者が語る言葉が、あなたのことを意味しているのだと考えるがいい。私は今回、神の御霊の力によって、あなたに対する私の《主人》の働きを徹底的に行ないたいと思っている。今回、この説教者は、ひとりひとりの人にこう云うかのように、あなたがたを堅くつかむであろう。「私はあなたを去らせない。あなたが自分の心をキリストに与え、今この時からキリストのしもべとなるのでなければ」。

 この聖句の中には私が語りたいと思うことが2つある。まず第一に、サムエルがいかなる注意を要求したか。そして第二に、こちらの方はより詳細に語りたいと思うが、サムエルがいかなる主題について語っているかということである。

 I. 第一に考えたいのは、《彼が要求した注意》である。サムエルはしもべに、「私たちより先に行くように」、と命じ、しもべは先に行った。あなたも、自分の精神の中から、私たちがあなたの前に持ち出そうとしている事がら以外の一切の思念を追い払うようにしてほしい。しもべには先に行くよう命じるがいい。しばらくの間あなたの仕事のことは忘れるがいい。あなたの家族について忘れ、あなたの種々の喜びについて忘れ、あなたの種々の悲しみについて忘れるがいい。おそらくあなたは、この一週間ずっとそうしたものを山ほどかかえていたであろう。ことによると、眠りの中でさえそれらにつきまとわれていたかもしれない。あなたの夢は、あなたの数々の試練が再現されるため不幸なものになっていたかもしれない。だが、あなたの精神の努力によって、また、神の助けを得て、こうしたしもべたちを先に行かせるよう努めるがいい。私が願うのは、人々がホイットフィールドの説教について云ったようなことが、私の説教についても云われるようになることである。ある人は云った。「私は以前には教会に行くといつでも、この教会には何台の機織り機が並ぶだろうかと計算するのが常であった」。――彼は織工だったからである。――「だがホイットフィールドの話を聞いたときには、機織り機のことなど全く思い浮かばなかった」。別の者は云った。「教会にいるときの私は、しばしば一隻の船を丸ごと建造してきたものだ。だが、ホイットフィールド氏の話を聞いたときには、厚板一枚さえ据えることができなかった。彼は私の思いをそうした事がらから全く引き離し、より高い思念でふさいでしまったのである」。私はあなたに願いたい。どうか私があなたの注意を独占しようとする努力を助けてほしい。船など去らせるがいい。機織り機など去らせるがいい。台所など去らせるがいい。商売など去らせるがいい。しもべには、先に行かせるがいい。そして、今はあなた自身と神だけになるがいい。

 ここで要求された注意における次の点は、サウルが「ここにしばらくとどまって」いるようにとの求めである。彼らは静かに丘から下って、その町の最後の家の所まで来た。そして、彼らがかなり野へと出て来てから、サムエルは、「あなたは、ここにしばらくとどまってください」、と云ったのである。それは、こう云うかのようであった。――私にはあなたに話すべき重要なことがあります。そして、あなたがそれをよく聞き取るには、あなたのからだが落ち着いていて、動いていない方が良いでしょう。ですが、何よりも、あなたの精神が静かにしていることが肝心です。あなたが探していた雌ろばのことも、あなたの父の家のことも、実家でのあれこれの用事のことも忘れて、ただ静かに私に耳を傾けなさい。私たちが福音に耳を傾けているとき、非常に望ましいのは、それが私たちにその完全な影響を及ぼすようにさせること、私たちの心を傾注して、こう云うことである。――「それを露のように来させ、ギデオンの羊の毛に降りた露のように私の魂にしみこませてください。それをにわか雨のように来させ、私の性質そのものの中に入らせてください。にわか雨の優しい影響によって柔らかくされた土くれに雨がしみこむように」。ぜひあなたは、暖を取ろうとする人が陽射しを浴びるように、福音を浴びてほしい。福音が、そのしかるべき影響をあなたに及ぼすようにさせるがいい。あなたの胸の裡を福音に吐露するがいい。あなたの魂が、まるで死んで墓所の中にあるものであるかのように、いかなる不注意の石にも、のしかかられていないようにするいい。むしろ、天来の御霊の生かすことばによって復活させられた、いのちあるものとして出て来させるがいい。

 神のことばは、そのように遇されて当然ではないだろうか? みことばには、私たちの生きた、愛に満ちた注意を与えるべきではないだろうか? 神がお語りになるときには、全く静かにするがいい。あなたがた、枢密顧問官たち。神がお語りになるときには、静まるがいい。あなたがた、君主たち。《王の王》が声を上げるときには、黙っているがいい。あなたがた、天界の聖歌隊たちでさえ、エホバがお話しになるときには静かにするがいい。霊の深い畏怖と畏敬によって、神の御声には従順な敬意を払うべきである。あなたは、これまで真夜中にひとり静まり、サムエルがしたように、「主よ。お話しください。しもべは聞いております」[Iサム3:9]、と云ったことがあるだろうか? 一度もしたことがないとしたら、幼子サムエルから叱責されるべきであろう。彼は神によって語りかけられることを願っていたのである。しかし、おゝ! 私たちは忙しすぎる! 多忙すぎる! 忙殺されすぎている! 聞いた話だが、聖ポール大寺院の大時計は、チープサイドでは、往来の交通のためほとんど聞こえないという。そのように、この最も厳粛な御声は、私たちの仕事の絶え間ない喧噪のために埋没してしまい、私たちは神の御声をめったに聞くことがない。そうならないためには、しばし活動をやめて、あえて聖なる静寂に身を置き、私室の中にひとりとどまり、こう云うしかない。「さあ、主よ。私と親しくお語りください。私はあなたの御声を聞くことを望んでおります。私は自分の聖書を開きます。その何節かを読もうとしています。おゝ、私にお話しください」。私の信ずるところ、このような習慣を有し、このように神に語っていただきたいと願いながら神のことばを日々開くことを実行している人が回心しないままでいることは、めったにないであろう。ならば、来るがいい。愛する方々。あなたのしもべを先に行かせ、あなたの仕事のことを忘れ、静かにとどまっているがいい。私が神のことばをあなたに聞かせるのだから。

 神のことばは、このように静かな注意を払われるに値するのと同じく、確かにそのような注意によってのみ、私たちを祝福するはずである。信仰は聞くことから始まるが[ロマ10:17]、一部の人々のような聞き方では始まらない。そうした人々の場合、みことばは一方の耳から入って、もう一方から抜けて行く。彼らは福音が、町角で聞かれるたわごとか戯れ歌ででもあるかのように聞いては、立ち去って行く。否。だが、もしあなたが祝福を受けたければ、それを永遠のために、全身を耳にして、心を尽くして聞かなくてはならない。聞いている間は、こう祈っていなくてはならない。「主よ。これを私にとって祝福としてください! 主よ。これを私にとって祝福としてください!」 私は、ひとりの子どもが説教の間、目に見えて真剣な注意を払っていたことを思い出す。その子の母親は、息子の深い熱心さに気づいて、その理由を尋ねた。すると彼はこう答えた。「だって、母さん。前に先生がこう云うのを聞いたんですもの。もしもお話の中に、ぼくらの魂にとって良いものとなるような所が少しでもあると、サタンがそれを失わせようとするって。でも、ぼくはどの部分で神様が祝福してくださるか分からないので、その全部を聞いて、全部を覚えようとしているんです」。おゝ、人々がそのような霊とともにこの説教者の話を聞きにやって来るとしたら、説教することは甘やかな務めとなろう。空腹な馬にものを食べさせることは容易にできる。そして、義に飢え渇いている魂を養うこともたやすい。「その人は満ち足りる」[マタ5:6]。主が私たちを助けて、救いに至らせるそのみことばを熱心に心に留めさせてくださるように。「あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから」。

 しかし、あれやこれやが次々と生じては、この注意を妨げる。ある人々を静かにさせておくことは決してできない。あまりにも軽薄すぎるからである。そうした人々を考え込ませることはできない。一部の人々は、ほとんど「猫」の背中を手で触るのを怖がるかのように、考えるということを恐怖する。こうした人々は、考察し、瞑想するということに耐えられない。神は、思考能力を与えることによって、彼らを獣にまさる者として区別されたのに、この高い特権を彼らは無視しようとする。彼らは、どんな与太話や、他愛もない歌や、娯楽や、気晴らしにも気をそそられるのに、真面目な事がらには全く気が乗らない。彼らの生き方は、あらゆる花から蜜を吸う蜜蜂のようではなく、蝶々のようである。庭園だけが自分のひらひら飛び回る場所だとみなし、時折そこに降り立つことはあっても、何も集めず、派手派手しく一日を明け暮れし、何も蓄えようとしない。私たちは、ひらひら舞っては無為に日を送る昆虫のような者とならないようにしようではないか。願わくは私たちが、この愚かな世のならいに従うことがないように。願わくは、浮薄さも軽率さも私たちから取り去られ、私たちが真面目な熱心さをもって永遠の事がらに気を遣うことができるように。それとは逆に、他の人々は、この世の事がらに度を越した注意を払いすぎるため、神のことばについて考えることができない。彼らにとって天国とは何だろうか? 彼らは、ぼろ儲けをする計画は知っている。キリストとそのあらゆる麗しさについて聞かされても、まるで耳を貸す余裕もないというのに、耳元で半ポンド金貨をチャリンチャリンと鳴らしてやれば、その欲望は勃然と起こり立つのである。金持ちや有名人になる方法を教えてやれば、彼らはその処方にたんまり報酬をはずむであろう。だが、キリストについて語ると、半頁を読ませるにもなだめすかさなくてはならない。そして、説教を聞くことについて云えば、――それは無味乾燥で、彼らはそっぽを向いてしまう。おゝ、あなたがた、金に貪欲な人たち。あなたには少しでも魂があるだろうか、それとも、あなたはただのからだでしかないのだろうか? あなたは、銭金を貯めておく革の財布にすぎないのだろうか? あなたは未来に生きること、永遠に生きることを期待しているのだろうか、それとも、あなたの足元をちょこちょこついてくる犬のように死んでいくつもりなのだろうか? おゝ、話をお聞きの方々。もしあなたが不滅の者でないとしたら、私もあなたが不滅について考えないことを大目に見てよいであろうが、現実にあなたが神のかたちに造られた人であり、永遠に生きる運命にある以上、あなたが永遠の住まいについて考え始めることは常識中の常識である。その永遠の住まいにあなたは、世々にわたって、とこしえまで住むことになっているからである。ここにしばらくとどまり、あなたの霊の沈黙を何物にも破らせないようにするがいい。私は、この場にいる、まだ救われていないあらゆる人に熱心に勧めたい。ぜひとも、どうにかして一時間、ひとりきりになってほしい。そうすると心に決めるがいい。人中から離れて閉じこもり、一時間を厳粛で、真剣な思考に費やし、神の前におけるあなたの状態を熟考するがいい。私は確信するが、それを厳粛かつ熱心に行なう人のうち、それが良い結果に終わらない人はほとんどいないであろう。そして、私たちは、その一時間がもたらした幸いな結果について、じきに神をほめたたえることになるはずである。

 II. この、払うべき注意という点はここまでとして、次に、サウルと《サムエルが話を交わした主題》について考察することにしよう。というよりも、これは、もし幸いにもあなたに耳を貸してもらえるとしたら、私が今ここで話をしたい主題についての考察である。サムエルは云う。「あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから」。主題は、神のことばである。いついかなる時であれ、神が私たちにみことばをくださることは、非常に恵み深いことである。神が私たちに語りかけるほど身をへりくだらせてくださるというのは、驚くべきことである。なぜなら、多くのことが私たちには理解できないからである。私たちは、良くてせいぜい小さな子どものようなものである。天におられる私たちの御父が、ご自分の広大な知性の意味する偉大な事がらを引き下ろして人間の言語にしてくださるというのは、まことに驚くべきである。あの嵐と雷鳴を伴ってシナイで神がお語りになったときでさえ、ともあれ人に神が語りかけられるというのは恵み深いことであった。だが、この終わりの時には、神は御子によって、私たちに語られた[ヘブ1:2]。その御子とは《ことば》であられる。イエスがこの世に降って来られたのは、人に対して神の通訳となるためであった。ある人の精神が、他の人の精神に通じるのは、言葉を介してである。言葉が話し手の思いにあることを告げる。そのようにキリストは、神から私たちのもとに来てくださった。神は私たちにこう云っておられる。「あなたは、わたしが語ることを願っているが、これが私の語ること、わたしの《子》だ。あなたに対するわたしの愛は、わたしがわが《子》を与えたという事実に読みとるがいい。わたしの正義を読みとるがいい。というのも、わたしは彼に血を流させたからだ。わたしのあわれみを読みとるがいい。というのも、彼にあってわたしはそむきの罪も、不義も、罪も見過ごしにするからだ」。神がそのような黄金の言葉で語っておられるというのに、また、ご自分の御子、永遠の《ことば》によって語っておられるというのに、あえて神に聞くべきであるなどと求める必要があるだろうか? 神がご自分のふところにおられた愛し子を、むごたらしい死へと引き渡されたというのに、それでも私たちが脇を向き、かまいつけないなどということがあって良いだろうか? 願わくは主が、そのような気違い沙汰やよこしまさから私たちを救い出し、私たちを助けてこう感じさせてくださるように。もしも救いが神の御子の死に値するものだとしたら、それは私たちが心を傾注するに値するものに違いない、と。もしイエスが人の救いのために十字架上で血を流すことがご自分にとって価値あることだとお考えになったとしたら、救いを得るまであらゆることを脇へ置くことは、私にとって価値あることである。自分の私室へ行き、戸を閉じてから、膝まずいて祈りをささげ、イエス・キリストによって神との平和を見いだすまで立ち上がるまいと感じることは、私にとって価値あることである。神が、すなわち、御父が、人の救いに携わっておられる。イエスが、すなわち、ほむべき御子が携わっておられる。そして、聖霊が、すなわち、天来の《罪の確信者》がそれに携わっておられる。確かに、この、天来の一致せる三方のほむべき位格の無限のみ思いを占めていることは、確かにあらゆる賢人に向かって耳を傾けよ、全思念を傾けよと呼びかけるに違いない。それは、キリスト・イエスにあって神が無代価で私たちに与えてくださる尊い物事を受け、獲得し、所有し、楽しみ、自ら喜ぶためである。ならば、話をお聞きの愛する方々。思索を巡らすがいい。そして、「あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから」。

 サムエルがサウルに語った特定の神のことばの中には、私があなたに伝えなくてはならない使信と幾分似通ったものがある。というのも、まずサムエルはサウル向かって、1つの王国について語ったからである。この青年は、その王国の王となるのである。彼は以前には決してそのようなことを夢見たことがなかった。彼は父親の雌ろばのことなら考えていたが、王座や王冠など一度として考えに入れたことがなかった。おゝ、この礼拝にひっそり入ってきた、そこの見知らぬ若者よ。あなたは、神の国というものがあることを知っているだろうか? イエスは云われた。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」[マタ6:33]。若者よ。あなたは王になれることを知っているだろうか? しかり。もしあなたがこの福音によくよく心を留めるならば、あなたは王となり、私たちとともに主イエスに向かって歌うことになるのであろう。主は私たちを王とし、祭司とされ、私たちは主とともに治めることになる[黙5:10]からである。あなたは、自分の仕事や、大学で学位を得ることや、試験に合格することや、勤め口を得ることで心が一杯だろうか? 私は、そのような追求からあなたを追い払いはしないが、こうした事がらよりも、格段に重大なことがあるのである。こうした事がらで満足していてはならない。というのも、神があなたを召しておられるからである。それよりもさらに高い運命、さらに高貴な事がらへと。その高貴さは、それにあずかる者たちが地上の王たちよりも高い身分となるほどである。サウルは、この日、1つの王国が自分に与えられるなどとは、ほとんど夢にも思っていなかったが、あなたも、このことについては、まだ夢にも思っていないであろう。だが、ぜひともこの神のことばをあなたに示させてほしい。というのも、そこにあなたは、これから1つの王国を――あなたのための王国を、あなたのための、しぼむことのない[Iペテ5:4]いのちの冠を、そして、キリストの現われの日に、キリストとともに神の右に着座すべき座席を――見いだすことができるからである。

 サムエルは、単に王国について語っただけでなく、神のことばをサウルに示すために油を注いだ。彼は少量の油が入っている瓶を取ると、それをサウルの頭に注ぎ出した。「おゝ、話をお聞きの方。ここにしばらくとどまるがいい」。そうすれば、私はあなたに油注ぎについて語るであろう。もしあなたが、いま聞いている神の御声を本当に大切にするなら、また、本当に心からあなたの耳を傾け、いのちを得るために[ヨハ5:40]キリストのもとに来ようとするなら、あなたは、そうすることによって、《聖なる方》からの油注ぎを受けることになり、それによって、あなたの魂とあなたの神に関わる一切のことを知るであろう[Iヨハ2:20]。あなたは、「私はキリスト教信仰のことなどほとんど知りません」、と云う。だが、あなたは神から教えられるであろう。こう約束されているからである。「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある」[イザ54:13]。あなたは、「私には、高尚で、高貴なことは理解できません」、と云う。だがあなたは理解できるようにされる。というのも、神があなたに油を注がれる日、あなたは力を受けるからである。――「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」[ヨハ1:12]。あなたは、聖霊の天来の油注ぎによって、心の目を開かれ、光で照らされるであろう。あなたは今までこのようなことを考えたことがあるだろうか? そこには、単にあなたを洗う水だけでなく、あなたに注がれる油がある。キリストは、この瞬間にもあなたの罪を取り去ることができ、また、あなたに恵みを与えることもおできになる。そのとき、あなたは、これまであなたを縛りつけていた種々の習慣を脱し、キリスト・イエスにあって新しく造られた者[IIコリ5:17]となる。このように恵み深い訪れは、しばらくとどまって受けるに値しないだろうか?

 サムエルはサウルに別のことについても語った。すなわち、彼がこうむることになる1つの変化についてである。サムエルは彼に話をする中で、こう云った。「あなたは預言者の一団に出会います。あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます」*[Iサム10:5-6]。愛する方々。あなたには、神がいかなることをあなたになさるか、ほとんど想像もつかないであろう。もしあなたが喜んで聞こうとするなら、あなたは、この国の良い物を食べることができる[イザ1:19]。もし神の御霊があなたを悔悟に導き、あなたの罪を告白させ、謙遜で子どものような信仰によってキリストをつかませるなら、あなたは、サウルがなりえたいかなる者よりも高い意味で、「新しい人」となるであろう。あなたは新しく生まれるであろう。キリスト・イエスにあって新しく造られた人となるであろう。このほむべき契約の言葉に耳を傾けるがいい。というのも、私はあなたをつかまえて、あなたにこの神のことばを示したいからである。「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える」[エゼ11:19]。「わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える」[エレ32:40]。「私などキリスト者に決してなれるはずないでしょう」、とある人は云うであろう。しかり。今のままのあなたではなれない。だが、あなたは新しい人にされるのであり、その新しい人はキリストのかたちに従って造られる、一個のキリスト者なのである。このことについて、一度も聞いたことはないだろうか? 変えられることについて、全く変化させられることについては? あなたは一度も聞いたことはないだろうか? 神があなたを二度目に創造することがおできになると。あなたの内側で罪の力を滅ぼし、あなたを別の支配の下に移し、あなたがこれまで悪を切に求めていたのと同じくらい切に善を求める者とし、あなたがこれまで悪魔に仕えることで幸いにしていたのと同じくらいキリストに仕えることで幸いにする、左様。それより一万倍も幸いにする、と。

 そして、おゝ、私は不思議に思わないが、あなたには到底ありえないと思われることが起こる。神はあなたの口を開いて、他の人々にキリストのことを語らせるであろう。若者よ。今の瞬間のあなたは、そのようなことをほとんど夢にも思っていない。だが、主が私を遣わしたのは、あなたをご自分のもとに召すためであったかもしれない。それは、あなたが自分をキリストに明け渡し、その上で、いつの日か、あなたがこうなるためであったかもしれない。

   「まわりの者に 立ちて告げん
    汝れの知りたる 救世主(きみ)のことをば」。

そして、これまでのあなたがこの世の浮薄な物事に熱中していたのと同じくらい、主イエスに仕えることに熱中することになるかもしれない。あなたの心の中には、私が語っていることに、ひそかに共鳴しているものがないだろうか? おゝ、主よ。それが真実であるようにしてください。

 ということは、これこそ私たちがあなたに考えてほしいことである。王国と、油注ぎと、神があなたの中で作り出すことのおできになる変化である。もしあなたが、これから神のことばをよくよく考えるなら、あなたはその中に、あなたの過去の人生すべてに応ずるものを見いだすであろう。それがどのような人生であっても関係ない。それは染みで汚れているかもしれないが、神のことばのうちにあなたは、それをことごとく洗い流すものを見いだすであろう。あなたは自分の人生について涙を流してきたかもしれないが、それでもその汚点を洗い去ることはできない。だが、神のことばはあなたに告げるであろう。いかにあなたが雪よりも白くされ、あらゆる真紅の汚点から救い出されて、人生を新しくやり直すことができるようになるかを。現在について云えば、それはあなたを悩ませているだろうか? あゝ、さもあろう。人生は、神を知らない者たちにとって、もつれ合った糸玉だからである。しかし、あなたは、その手がかりを見いだすであろう。その迷宮を通り抜けるであろう。あなたの数々の患難でさえもが、いかにしてあなたの益と働くか、あなたの病がいかにあなたの健康を意味するか、あなたが失職し貧困の中にあることがいかにあなたを豊かにするか、あなたが死の扉の前で横たわっていることでさえもがいかにあなたにいのちを与えるために送られたものであるかを見てとるであろう。そして、あなたは現在を理解し、その一切の見かけ上の悪によっても、それがあなたの益のために働いていると感じるようになるであろう。また、未来について云えば、あなたは自分の運命を正しく読みとりたいだろうか? 私の主はあなたにこう知らせることによって、未来を告げることがおできになる。「まことに、あなたのいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、あなたを追って来るであろう。あなたは、いつまでも、主の家に住まうであろう」*[詩23:6]、と。おゝ、人々が、説教を聞くことにおいても、自宅で個人的に読むことにおいても、神のことばをないがしろにしようとしなければどんなに良いことか。というのも、嘘ではないが、聖書の中には、まさにあなたにぴたりと当てはまるものがあるからである。あわれな堕落した婦人よ。あなたは今夜、何の気なしについここに立ち寄ったのだろうか? 聖書の中には、あなたのためのものがある。あわれな絶望している男性よ。とうの昔に一切の望みをなくしたあなたのためにも、この《書》の中には、まさにうってつけのことがある。私は、聖書の中にある特定の聖句が、特に私の状況のために書き記されたのだと思うことが多々あった。それは、私が人生を生き抜いてから書き記されたかのように思われた。それほど正確に私のことを描写していたのである。それと全く同じように、愛する方々。聖書の中にはあなたのためのものがある。鍵をなくして抽斗が開けられなくなった人が錠前師を呼びにやると、彼は無数の合鍵を回し続け、その中から、とうとう正しいものを見つけ出し、その鍵を開けてくれる。聖書もそれと同じである。そこには、あらゆる錠前のための鍵があり、あらゆる困難を解決する手がかり、あらゆる苦難のための助け、あらゆる悲嘆のための慰めがある。ただ、ここにしばらくとどまって、私たちに神のことばを示させてほしい。あるキリスト者の兄弟が、あなたのための鍵を見つけてくれるかもしれない。あるいは、あなたひとりでみことばを探っている間に、不意にそれに出くわすかもしれない。あるいは、聖霊がそれをあなたにもたらしてくださるかもしれない。あなたの状況にしっくりくるみことばはある。それゆえ、この《書》に十分な機会を与えてやるがいい。そして、そこにしばらくとどまって、神のことばに聞くがいい。

 そして、私にこう云わせてほしい。あなたはみことばを知らないが、みことばはあなたを知っている。あなたは聖書を知らないが、聖書はあなたを、あなた自身でも知らないくらい、よく知っている。というのも、神のことばは生きていて、力があり、心の色々な考えやはかりごとを判別することができる[ヘブ4:12]からである。これまで数限りないほどの人々が私に手紙を寄こすか、直接に面と向かって、こう云ってきたものである。「あなたは、あの説教の中で私個人のことをほのめかしていたのですか?」 そして私はこう答えてきた。「ええ、その通りです。確かに私はそうしていました。ですが私は、あなたとは一度も会ったことがありませんし、あなたの状況については全く何も知りませんでした。ただ、私を遣わしたお方が、あれこれのことを云うよう私にお命じになったのであり、その方は、誰がそこに来て、それを受け取ることになるかをご存知だったのです。それで、ご自分のしもべの思いと言葉を導いて、あなたの状況に寸分違わぬしかたで当てはまるものとし、それについては、何の取り違えようもないようにされたのです」、と。いわば、その手紙はその人の家に、住所氏名をはっきり記して届けられたのであり、神がそれをその人に送られたことには何の疑いもないのである。それゆえ、話をお聞きの方々。いま神のことばのもとに行くがいい。もしも個人的に取り扱われたいという願いを持って行くならば、それはあなたの心の奥底に語りかけるであろう。

 愛する方々。今このときあなたに向かって語っている者は、心に重荷をかかえながら語っていると正直に云うことができる。若者よ。私はこの場にやって来て、あなたと語らいながら、まず私の云う一言一言に聞き従うよう熱心に願わないではいられない。そして、一体全体、《救い主》の愛を求めよとあなたに促す私の動機が、あなたの善のため以外でありえるだろうか? 最後の審判の日になって、あなたが救われているかいないかなど、私に何の関わりがあるとあなたは思うだろうか? もし私がキリストをあなたの前に忠実に示したならば、たといあなたが私の主を拒絶したとしても、私はあなたの血について責任はない。――全く何の責任もない。しかし、私はあなたの上に私の手を置く。サムエルも疑いもなくサウルの上にそうしたであろう。そして、あなた自身のためにあなたに懇願したい。あなたの前に横たわっている一切の未来にかけて、また、ことによると、その臨終の際の言葉が「私について来なさい」、であったかもしれない何人かの人々にかけて、また、あなたのために祈っている母上、この祈りの家であなたが腰かけている間もあなたのために祈りつつある母上にかけて、そして、何にもまして、あなたを救うことを愛し、祝福することを喜びとされるお方にかけて、そうしたい。おゝ、今しがた私たちが賛美した、傷ついた御手にかけて、痛める心にかけて、常に愛にあふれた、罪人たちの《とりなし手》の強烈な愛情にかけて、ぜひともしばらく静かになって、神のことばを知ることを求めるがいい。もしや今この瞬間、あなたは1つの選択をしなくてはならない状態に至らされているであろう。――永遠のかかった選択、天国か地獄かの選択を。願わくは神があなたを致命的な選択を行なうことから救ってくださるように。そこには、明日に関する1つの約束がある。それは、もしあなたが従うならば、あなたの破滅となるであろう。その約束を果たしてはならない。願わくは神の御霊があなたを導き、すぐさまこう云わせてくださるように。「私は神の側につきます。私はそうせざるをえず、そうします。もう決めました。もう迷いません。もし神が私をご自分のものとしてくださるなら、私は神のものです。もし神が私を洗ってくださるなら、私は喜んで洗われましょう。もし神が私を新しくしてくださるなら、私は新しくされることを懇願しています。もし神が私を手に取って、ご自分のもとに引き寄せてくださるなら、ここに私がおります。ここにおります。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません』[ルカ15:21]。ですが、私を受け入れ、もう一度私をお受け取りください」。あゝ、そこにいる信仰後退者の方。私は祈る。あなたが、この王国と油注ぎを受ける決心へと導かれ、今この時に1つの変化をこうむるようにと。今をそのときとするがいい。あなたの魂のために定められた、あわれみの時とするがいい。もしも私たちがいのち長らえたとしたら、今から長年月の後にこうなるとしても私は驚くまい。すなわち、愛する方々。あなたと私は、それ以前には一度も言葉を交わしたことがなくとも、今のこの集会について喜び合うことになるであろう。サムエルは長いこと非常にサウルを気に入っていた。不幸にしてサウルが、自分にかけられた期待のすべてを裏切ったにもかかわらずそうであった。だがこの場には、主によって油注がれた何人かの人々がいるものと私は期待する。主がこの良きときに祝福しようと心に決めており、やがてこう仰せになるはずの人々が。「きょうから後、あなたをわたしは祝福しよう[ハガ2:19]。若き心よ。あなたはわたしに自分を明け渡した。きょうから後、あなたをわたしは慰め、祝福し、励まし、きよめ、教え、成長させ、強くしよう。また、わたしへの奉仕においてあなたを用いよう。そしてあなたは、わたしがわたしの宝石たちを完全なものとする日に、わたしのものとなるだろう」。運命の大時計が今晩、その時を打ち、あなたがそれを聞いて、厳粛にこう宣言するとしたらどんなに良いことか。「成し遂げられぬ、大いなる取引(わざ)、われは主のもの、主はわれのもの。主われを引きて、われは従い、魅せられ告白(い)わん、天つ御声と」。

 願わくは神がそれをかなえてくださらんことを。キリストのゆえに。

 

サムエルと青年サウル[了]

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