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迷わされた人々

NO. 1546

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか」。――ガラ3:1


 ガラテヤ人たちは、パウロが彼らに福音を宣べ伝えたとき、非常に熱狂的にそれを受け入れた。彼らは非常に心暖かな、だが、移り気な人々であり、パウロはそのことを見いだして大きな悲嘆を感じた。彼が遠く離れている間に、何人かのにせ教師が入り込み、パウロが伝えた福音から彼らを脇へそらしてしまったのである。彼はこの問題について非常に率直な物云いをした。この節ではことのほか強い言葉を使って、こう告げている。――「ああ愚かなガラテヤ人。……だれがあなたがたを迷わせたのですか」。私は、このような迷わしが、あなたがたの中の誰かの上に降りかかったことがあるかどうか分からないが、このことだけは分かっている。人間である以上、私たちはみな似たような危険に陥りやすいものである。また、やはり私の知るところ、今のこの時代には、空気そのものの中にすら1つの迷わしがただよっており、この国の教会という教会にいる非常に多くの人々に、まさにこの言葉が語りかけられてしかるべきなのである。

 パウロがこれほど厳しく断罪している、この悪から私たちが逃れる唯一の希望は、正しい警戒手段を用いるというこにほかならない。事実、聖霊が私たちを守ってくださる際にのみ、私たちは、過誤の魅力に抗して耐え抜くことができ、ほむべき神の大いなる、昔ながらの福音に対して真実な者であり続けるのである。今回、私がごく手短に語りたいのは、第一のこととして、ここでほのめかされている、油断のならない危険についてである。「だれがあなたがたを迷わせたのですか」。第二に、もう少し詳細に語りたいのは、このほむべき予防方法についてである。こうした迷わしから守られる道として何にもまさるのは、十字架につけられたキリスト・イエスが目の前にはっきりと示されることにほかならない。そして第三に、しめくくりとして二言三言語りたいのは、この天来の予防方法を試した後で、それにもかかわらず、過誤に迷わされてしまう者の途方もない愚かさについてである。

 I. まず第一に、私たちを常に取り巻いている、《この油断のならない危険》について考えてみよう。

 当初、異教徒の間で福音を宣べ伝えることは困難な働きであった。そうするためには、自分のいのちを投げ出さなくてはならなかった。人は異教徒たちの精神が容易には受け入れない、新しい事がらを提起しなくてはならなかった。しかし、神の御霊の力によって、回心者たちが起こされ、教会がいくつも形成された。すると今、別の困難がやって来た。この回心した者たち、あるいは、回心したように見えた者たちが、突如として、あれやこれやの誤りに、いわば呪術で迷わされてしまったのである。あたかも家庭の子どもたちが、突然体の不具合を訴えてばたばた病に倒れてしまうかのようである。そうした不具合は、幼少期にはつきものと思われる。もし親たちが一度もそうしたことを聞いたことがなかったとしたら、彼らは驚愕するであろう。そうした、説明不可能な病が突然子どもたちの中に現われたとき、子どもたちが死んでしまうに違いないと思うであろう。だが、そうした子たちは生き延びるのである。キリストの家族の中にも、折にふれ、ある種の疫病が急に発生することがある。その時点でなぜそれが起こるのかは分からない。また、ことによると最初は私たちも、このような病が生じたこと自体に困惑し、目を白黒させるかもしれない。だが、その病は生じるものである。これにより、私たちはそうした事態に対して用心を固めておくのが良い。パウロはそれを呪術に迷わされることと呼んでいる。なぜなら、こうした人々が陥ったのは奇妙な過誤だからである。裏づけとなる議論が何もない誤り、呆れて唖然とさせられるような誤りである。彼はこう云っているように思われる。「私にはどうしても腑に落ちない。私には、いかにしてあなたがたがこのように誤り導かれたのか理解できない」、と。パウロの時代、その誤りは普通、ユダヤ教であった。彼らは割礼に戻りたがった。律法の古の種々の犠牲に戻りたがった。パウロはこのことについて十分に憤りを発した。「すべての人に、私は証しするが」、と彼は云った。「もし割礼を受けるなら、その人は律法の全体を行なう義務があるのだ。そして、恵みから落ちてしまったのだ。もしあなたが、ユダヤ教の古い無価値の幼稚な教えに逆戻りするなら、あなたはキリストから離れ、キリストを拒絶し、自分の魂を危険にさらしているのである」、と。彼は、どういうわけで彼らがそうしたいと願うのか理解できないと云い切っている。彼はそれを呪術と呼ぶ。というのも、彼の時代、人は互いに凶眼を投げかけ合い、同胞に災いを降りかからせることができると信じられていたからである。これはパウロにとってそれに似た何かであった。――あたかも悪魔自身が一枚噛んでいて、やって来ては人々をキリスト・イエスから引き離し、律法とそのすたれた諸儀式に頼りを置くよう逆戻りさせているかのようであった。

 しばらくすると、パウロは別の種類の過誤を教会の中に見いだした。あまり良家の出ではない信仰者たちのもとに、学のある人々が入り込んで来た。彼らは自分のことを高度に知的な人間たちと考えており、ソクラテスやプラトンについてそれなりの知識を有していると思っていた。そして彼らは云った。「こうした教理はあまりにも単純すぎる。貧しい民衆でもそれを理解して教会の中にやって来る。だが、疑いもなくそこには、ずっと深い意味があって、奥義を伝授された者たちだけのものであるに違いない」。それで彼らはあらゆることを霊化し始めた。そして、その過程で、福音そのものをこっそり運び去ってしまった。パウロにはそれが我慢できなかった。彼は、自分の宣べ伝えた福音以外の福音を宣べ伝えるような者がいたとしたら、それは自分であれ天から来た御使いであれ、呪われた行ないであると云った。ユダヤ教であれ、グノーシス主義であれ、彼はそれに激しい一撃を加え、そこに陥った者たちに向かってこう云った。「だれがあなたがたを迷わせたのですか」。

 教会史を読んでいるあなたがたが知っている通り、その後の時代、教会はアリウス主義に陥った。そこでは、キリストの神性について大論戦が繰り広げられ、大気は長い間、この致命的な疫病に満たされていた。その戦いが終わると、また、私たちの《贖い主》の《神格》という問題にアタナシオスのような人々が決着をつけると、今度はローマのありとあらゆる迷信が噴出した。――かのすさまじい真夜中、濁った暗雲で暗く閉ざされた夜が幾多の時代にわたって教会を覆った。実際、歴史を振り返って見ると、栄光に富む単純さのすべてをもって福音を宣べ伝えられていた人々が、結局は自分たちの精神を古のローマのそれのように卑しむべき虚偽の数々に屈服させ、異教徒であった先祖たちがしていた通りの、異教徒めいたしかたで木石の像の前に這いつくばってきたというのは、呪術の迷わしめいて思われることである。

 この現代、私たちの中のある者らにとって驚愕させられるのは、いかにして諸教会が再び迷わされてしまっているか、ということである。少年だったときの私は、ジェイ氏が、「ピュージー主義は嘘っぱちである!」、と云うのを聞いたのを思い出す。私はその言葉が、まさにそのように、この立派な牧師の口から飛び出してくるのを覚えている。そして、誰もが、あるいは、ほとんど誰もが彼と同じように考えていた。高教会や儀式派の礼拝所が建立されるのは、驚くべき出来事であった。それには誰もが驚愕した。だが、もしあなたが、「これが英国国教会なのですよ。そして、これが国教会の祈祷書にかなったことなのですよ」、と云うと、誰もがあなたは愛がないと云い、そのようなことはないと云うのだった。彼らは私たちの恐れを憐れみ、ローマ教徒になろうとする者も十人くらいはいるだろうが、それで終わりさ、と云うのだった。今、見てみるがいい。方々。そうした事がらが大っぴらになされている。わが国の至る所の教区教会では、通常は弥撒が行なわれており、多くの教区で英国国教会はほとんどローマ教会と区別がつかないものとなっているが、誰も驚きはしない。そして、もし私たちがそれについて言及すると、私たちは頑迷だと非難される。誰がこのプロテスタント国を迷わせたのだろうか? スミスフィールドから殉教者たちの灰がほとんど拭き去られてもいないというのに、彼らは十字架像を再び立てている! オリヴァー・クロムウェルと彼の鉄騎兵が再び現世に舞い戻って、人々がこの国をどうしようとしているかを見ることができたとしたら、何と云うだろうか? きっと何か激しい言葉を云うだろうことを私は知っている。そして、私は彼が口にしたであろうような強烈な言葉を語ることはできないが、この主題をパウロから借りた言葉にまかせよう。この場合にうってつけの言葉である。「ああ愚かな英国人。誰があなたがたを迷わせたのか?」

 それですべてではない。この迷わしの別の形は、私たち非国教徒の諸教会の間で見ることができる。まだ忘れられていない時期に、ユニテリアン信仰やソッツィーニ主義が次第次第に非国教徒の諸会衆に忍び入り、各地の講壇はキリストのためのその証しを失ってしまった。諸処の集会所では閑古鳥が鳴き、真のキリスト教信仰はこの国から死に絶えつつあるように見受けられた。そのとき、ホイットフィールドが、ウェスレーが、そして、彼らの大勢のメソジスト派信者たちがやって来て、ほとんど消えかかっていたほむべき炎を再び燃え立たせた。そして、この世代の私たちは互いにこう云い交わした。「こうした経験は二度と繰り返されないだろう。非国教徒の諸教会は決して再びああした方向には行かないだろう。彼らは、もう分別がついている。この現代的な教えの悪影響が見えている。彼らは大いなる昔ながらの福音を今や堅持するであろう」。そう私も夢見ていた。だが、もはや私は、そうしたしかたで夢見ることはない。というのも、ほとんどどの方面を見ても、キリストの福音が希釈され、みことばの乳に混ぜ物がされ、あの大いなる福音は――ルターやカルヴァンが大喝したであろう福音は――ごくまれにしか聞こえてこないからである。あゝ、愚かな非国教徒たち。誰があなたを迷わせて、真理に従わせず、この新機軸やあの新機軸を求めさせ、――この洗練さやあの洗練さを求めさせ、――あなたの神であり《救い主》であられるお方を去らせているのか? 私たちについて云えば、たとい孤立することになっても、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない[ガラ6:14]。

 これが危険である。

 II. 私たちの第二の項目は、《唯一の予防法》である。使徒によると、ガラテヤ人には、十字架につけられたイエス・キリストが、彼らの目の前ではっきり示されていたという。

 よろしい。ならば、もしあなたが信仰において正しく、かつ健全に保たれたければ、第一のことはあなたの心の中心に、正しい対象―― 十字架につけられたイエス・キリスト――を据えておくことである。パウロは、それを宣べ伝えたと云う。彼はイエスをはっきりと示した。他の何を明らかにしなかったかもしれなくとも、彼はイエス・キリストのご人格とみわざについてははっきりと示した。愛する方々。これをあなたの魂に据えて、あなたの唯一の希望、また、あなたの瞑想の唯一の対象が常にイエス・キリストとなるようにするがいい。私が何を知らなくとも、おゝ、私の主よ。私があなたを知るように助けてください。私が何を信じようと、あなたを信じ、あなたに頼り、あなたのあらゆることばを神の真理そのものとして受け入れることができるようにしてください。愛する方々。キリストをほとんど含んでいないようなキリスト教信仰など投げ捨てるがいい。キリストがアルファでありオメガであり、最初であり最後でなくてはならない[黙22:13]。私たちの行なうことや、私たちの感情や、私たちの意志することによって成り立っているようなキリスト教信仰は偽りである。私たちのキリスト教信仰は、キリストをその土台とし、キリストを隅のかしら石とし、キリストを冠石としていなくてはならない。そして、もし私たちがキリストの上に基盤も土台も置かず、その上に堅く立って踏みとどまっていないとしたら、私たちのキリスト教信仰はむなしい。パウロは、キリストが第一のものとされた誰かが少しでも迷わされるということ自体に驚いている。そして私が思うに、もしキリストが本当にあなたの魂にとってそのようなものとなっているとしたら、あなたは過誤によって脇へそらされることなく、十字架につけられたキリストがあなたを堅く保ってくださるであろう。

 しかしパウロは、キリストを彼らに宣べ伝えただけでなく、キリストをはっきり示したとも云っている。これは、彼が入念な注意を払って、キリストに関するすべてを彼らに分からせたという意味だと理解したい。彼は、人また神としてのキリストのご人格を宣べ伝えた。贖いのいけにえとしてのそのみわざを宣べ伝えた。復活し、神の御座の前でとりなしておられるキリストを宣べ伝えた。私たちの身代わりとしてのキリストを宣べ伝えた。このことを主たる教理としていた。――すなわち、もし私たちが救われたければ、キリストの義によって救われるのであり、私たちの罪が取り除かれるのは、キリストがそれを私たちに代わって負い、それが受けてしかるべき罰をお受けになったからであって、それにより、神の正義は満足させられ、私たちは救われることができるのである。これこそ、十字架につけられたキリストということで彼が意味していることである。彼はこの点に関して詳細に述べ、十字架を中心として立ち並んでいる栄光に富む諸教理をはっきりと示した。兄弟たち。もしあなたが現代の迷わしから守られていたければ、キリストを重要視し、キリストについて詳細に調べるがいい。主の天来のご人格に親しむがいい。主がどのように豊かな関係に立っているお方であるか、また、いかなる職務についておられるかに精通するがいい。主が恵みの契約においていかなる存在であるか、御父に対していかなるお方か、あなたにとっていかなるお方かを知るがいい。おゝ、主を知ることを求めよ! 主はなおも知識を越えたお方であられる。だが、キリストの研究者であるがいい。キリストについての単なる皮相的な知識を持つのではなく、キリストを知り、キリストの中にある者として認められる[ピリ3:9]ことを求めるがいい。これは、あなたを過誤に捕われないように守るであろう。

 使徒が自分はキリストをはっきり示したと云うとき、次に意味しているのは、彼がこれを非常な平明さとともに行なった、ということである。そのギリシヤ語は、公示あるいは布告と関係がある。それは、こう云っているも同然である。「私はキリストを、あたかも大きな貼り紙に印刷し、それをあなたの目の前に高々と掲示したのと同じくらい、あなたの前にはっきりと示したのだ。私は一語一語を大文字で書き記した。国王が何かを布告するとき、それを壁に掲示し、それに注意を呼びかけるように」、とパウロは云う。「私はキリストをあなたの前に示したのだ。私は決して何か神秘的なしかたで、何を云っているか分からないようにキリストについて語りはしなかった。むしろ私はキリストをはっきり示した。私はキリストについて、キリストが私たちに代わって苦しんだこと、私たちのために呪われた者とされたことを告げた。『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』[ガラ3:13]、と書いてある通りに」。

 パウロはキリストを平明に示した。さて、あなたは一部の人々によってイエス・キリストがどのように宣べ伝えられているか知っているであろう。それは、次のように云った古のダンカン博士によって良く描写されている。「彼らの宣べ伝えるところ、キリストの死は、どうやらこうやら何らかの種類のつながりを、どうやらこうやら人々の救いと有しているらしいのである」。しかり。それがこれである。――霞がかかったような、曖昧模糊とした、五里霧中の、とらえどころのないものである。私たちはキリストをそのように宣べ伝えはしない。むしろ、はっきりこう告げる。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」[イザ53:6]。そして、主が私たちの代わりとして、代理として、私たちに成り代わってしいたげられ、苦しめられたがために、それゆえ、神はこの上もない無償の行為として、信ずる者たちの罪を赦し、自由放免にしてくださるのである。代償。――願わくは私たちが決してこのことを口ごもることがないように。――罪人の代わりとなられるキリストである。

 愛する方々。もしあなたがこの真理を掴み、自分の魂の中に良く織り込むとしたら、時代の儀式尊重主義や合理主義に制せられることはないであろう。その教理を手放す? いったんこの教理を飲み込んで、その甘やかさを知った人が、それを手放すことなどありえない。というのも、その人はこう感じるようになるからである。それをひとたび信じれば、それはその人の中にあって、検出器のように働き、何が偽りの教理かを発見するのである。また、それはその人に特別な味覚を与え、それによって偽りの教理を厭わしく思わされ、「消え失せろ!」、と叫ばされるのである。もしも、これに反する何かがその人の前にやって来ると、その人は、「誰にでも自分の意見を持つ権利はありますよね」、などと、びくつきながら云ったりしない。むしろ、こう云う。「しかり。人は自分の意見を持つ権利があるであろう。そして、私も私の意見を持つ権利があるのだ。そして、私の意見によると、キリストの代償的犠牲から栄光を取り除くようないかなる意見も、忌み嫌うべき意見なのだ」、と。キリストの真の贖いをあなたの魂に徹底的に入れるがいい。そうすれば、迷わされることはない。

 それですべてではない。パウロによると、キリストは彼らの間で目に見えて十字架にかけられて示されたという。あなたはこれまでこのようなしかたでキリストを見たことがあるだろうか? 私は、あなたが何か幻を見たことがあるかどうか問いはしない。そのようなものを誰が望むだろうか? また、あなたの想像力が逞しくなり、あなたに《救い主》を見たと思わせたことがあったかどうかを問いもしない。そのようなものには特に何の益もないであろう。というのも、何千人もの人々がその目で十字架についたキリストを見たが、彼らはキリストに向かって舌を突き出し、自分の罪の中で滅びてしまったからである。しかし、あなたにこう云わせてほしい。私たちの敬神の念を何にもまして強める事がらの1つは、私たちが信仰によって、あたかも《救い主》を見たかのように感じるようになることである。私たちは、主が来られるまで主を見ることは期待しない。だが、ひとり自分の私室にいるとき私たちは、自分の目を用いなくとも主の臨在をありありと実感し、あたかも文字通り主を見たかのように思うことがあった。主は確かに、実感を伴って、私たちの前で十字架にかけられていた。これが、その要点だからである。パウロは、それほどの生々しさでキリストをはっきり示したと云う。――彼は、言葉で徹底的にあざやかな描写を行ない、全く平明に、また全く単純に語ったために、彼らはあたかもこう云うかのようであった。「私たちには見えます。キリストが私たちの代わりとなり、私たちの罪のために血を流しているお姿が」、と。彼らは、まるでキリストが自分たちのただ中で、自分の前におられたかのように、キリストを見ているように思われた。愛する方々。このように云ってはならない。「キリストはカルバリで死んだのだ。それは何千哩も彼方にある場所だ」、と。それは私も承知している。だが、キリストがどこの地域で死んだかなどに、何の意味があるだろうか? キリストはあなたを愛された。そして、あなたのためにご自分をお与えになった。キリストを、あなたにとっては、ニューイントン・バッツで十字架につけられたお方とするがいい。また、その十字架がこの大会堂の真中にあるかのようなお方とするがいい。「おゝ、ですが、キリストは千九百年も昔に死んだのですよ」。私もそれは知っている。だが主の死の効力は今日のものである。「キリストは、ただ一度罪に対して死なれた」*[ロマ6:10]。そして、そのただ一度が、その効力の輝きのすべてを代々の時代に注ぎ出しており、あなたがなすべきことは、あなたがいま十字架の上で、まさに死につつある主を見ているかのように感じることである。――あなたが十字架の根元にじかに立ち、上を仰ぎ見て、その十字架から主が見下ろして、こう云っているのを見ることである。「わたしは、このすべてをあなたのために行なったのだ」。あなたは、このことが自分にとってそれほど真に迫るものとなるよう主に願えないだろうか? 私は、この大群衆を眺めている間、あなたがた全員のことを忘れたいと思う。そして、イエスがここに、その釘跡をつけたまま立っておられるのを見たいと思う。おゝ、もし主を見ることができたとしたら、いかなるへりくだりとともに私はその足元に身を投げ出すことであろう! いかなる愛をもって主をかきいだくことであろう! いかなる畏敬をこめて主を賞賛することであろう! しかし、私の《主人》よ。私は、あなたが私の代理として死なれたという事実を、また、私のもろもろの罪があなたの上に置かれたという事実を堅く確信しています。それで、今でさえ私は、あなたが私のあらゆる負債を支払っておられ、私のあらゆる呪いを負ってくださっている姿を見ているのです。あなたが栄光に入られたとはいえ、私は、あなたがここにおられるのを私はまざまざと実感します。このことは私にとって事実となっています。

 恵みの諸教理についてあげつらい、それをあざ笑っている人々がいる場にあなたが加わるときは常に、また、別の種別の人々がいる場にあなたが加わり、その人々が、「あなたがたの単純な神礼拝など御免こうむる! われわれは司祭たちや、薫香や、祭壇や、そういったすべてのものを持たなくてはならないのだ」、と云っているときは常に、そうした人々と議論してはならない。ひとりきりになり、イエス・キリストをもう一度目の当たりにすることを願い求めるがいい。主の回りに何か1つでもカトリックじみた飾り物がついているかどうか見てみるがいい。あなたは主を見るや否や、自分はそれ以外の一切のものを空疎で虚偽と呼ぶことにする、と決心し、福音をあなたの心に堅く結びつけるであろう。十字架は正統信仰の学び舎である。そこに留まるよう努力するがいい。私は、ひとりで大陸にいた間、自分の静思の時の中で何度も、私の《主人》を肌身に迫るように体験した。そして、そうしたとき、私は鳩の翼を借りることができたらと願ったものであった。そうすれば、私はその場でただちに立ち上がって、あなたに語ることができたであろうに。私は、非常に病み衰え、体中に痛みがあり、霊においては抑鬱していた。そして私は自分のことを、あらゆる人の中で最も無価値なものと判断したし、その判断は正しかった。私はそれ以来、その判断を持ち続けている。私は自分がただ、私の主の御足から塵のようにはたき落とされ、永遠に底知れぬ所に投げ込まれるだけの価値しかないと感じた。そのとき、私の《身代わり》なるお方こそ私の希望となった。そして、マントンの孤独な私室の中で、私は主の愛しい衣のすそにすがりついた。私は主の御傷をのぞき込んだ。私はもう一度私自身を主にゆだねた。そして自分が救われている者であることを知った。私はあなたに云うが、救いは他のどこにも一切なく、ただイエスのうちにだけある。あなたは、もしあなたが絶えずこの真理に立ち戻るなら、他のいかなる教理にも、うかうかと誘い出されはしないであろう。ある人々は患難でしたたかに打ちのめされることが、彼らにキリストを愛させるためには必要である。また、一部の老いた信仰告白者たちには、時としていささかの貧困が、あるいは、ちょっとした患難が、あるいは、リウマチという拷問台が必要である。それが彼らをその辛抱へと至らせ、彼らは大声で現実を叫び求め始め、種々の気まぐれな思いつきや空想は取り除き始めるであろう。神とあなたの魂との間の近しいやりとりに至るとき、また、死が真っ向からあなたを睨みつけるとき、ほかならぬ十字架につけられた《贖い主》以外の何物も役には立たない。また、私たちの代わりに苦しんでくださったお方の完成されたみわざに、罪人が子どものようにより頼むことの他のいかなる信頼も役には立たない。私は強い調子で語っている。だが私は、自分に語ることができるよりも一千倍も強く感じているのである。

 III. 第三の点は、イエスを他の何かで見変えて離れ去ろうとする者たちの《愚の骨頂ぶり》である。かりに誰かがひとたび単純にイエス・キリストにより頼み、キリストの死を実感し、この死に給う、血を流し給う《主人》との真の接触に至ったとしよう。そして、かりに、その後でこの人が自分の信頼を司祭たちや聖礼典に置き始めるとしよう。あるいは、その人が、その後で、薄紫色をした子山羊皮の手袋をはめ、哲学者になったとしよう。――その人は何をするだろうか? さて、ぜひともこのことは誰にも云わないでほしい。あなたひとりの胸に留めておいてしほい。使徒パウロは紳士を気取ることはなく、実際非常に歯に衣着せない語り方をした。あなたの学識ある隣人たちに、私がそう云ったと告げてはならない。私がそう云ったのではない。パウロがそう云ったのである。彼は云う。そのようなことをする人は――《馬鹿》である、と。「ああ愚かなガラテヤ人!」 パウロよ、あなたは何をしようというのか? 彼らは自分たちの礼拝式を装飾してきたのだぞ。確かに、あなたはそれに反対することはできないであろう。パウロよ、あなたは知らないのか? 古のユダヤの祭司たちは宝石作りの輝かしい胸当てをつけ、鈴とざくろを縫いつけたエポデを着ていたのだぞ。確かに神礼拝において私たちは、気品のある、立派な風采で事を行なうべきではないか! そして、こうした申し立てによって、このガラテヤ人たちは、はなはだしくわが身を飾り立ててきた。「馬鹿なガラテヤ人だ!」、とパウロは云う。よく聞くがいい。何と無礼な云い草であろう。何と無礼であろう! 私は彼の弁解をしようとは思わない。というのも、私は彼の判決を完全に支持するからである。

 しかし、ここにひとりの紳士がいる。彼はプラトンをずっと読んできた。そしてプラトンを読んだ後で、イエス・キリストのことばを読んできた。そして云うのである。キリストのことばは、一般庶民がその意味だと考えるような意味ではないのだ。――その中には非常に神秘的な、哲学的な意味が隠されているのだ。例えば、イエス・キリストは、「この人たちは永遠の刑罰にはいる」*[マタ25:46] 、と云うが、これはこの言葉が云っているようなことは全く意味していないのだ。それは、彼らが究極的には回復されることを意味しているのだ。さて、パウロよ。この人は哲学者である。彼について何と云うか? パウロは云う。「馬鹿げている!」 それが彼の云うすべてであり、彼が云う必要のあるすべてである。というのも、学のある愚かさは、愚かさのきわみだからである。「ああ愚かなガラテヤ人。だれがあなたがたを迷わせたのですか?」

 なぜ私たちはこうした人々が馬鹿げていると考えるのだろうか? なぜなら、私たちが同じことをするとしたら、自分でも馬鹿げた者となるからである。もう何十年も前の遠い昔のことになるが、十五歳か十六歳だった頃の私は《救い主》を求めていた。そして、ひとりの貧しい人が福音を説教するのを聞いた。彼はイエスの御名によって云った。――「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。それは、非常に平易な言葉であり、私はそれを理解し、それに従い、安息を見いだした。私は、それ以来の私の幸福の一切を、この同じ平易な教理に負っている。さて、かりに私がこう云うことになるとしたらどうだろうか? 「私も非常にたくさんの本を読んできたし、私の話を聞きにやって来る非常に多くの人もいる。私が最初に説教していたような陳腐な福音は実際、もう説教できないだろう。私はそれを洗練されたしかたで表現しよう。そして選良しか私の話を理解できないようにしよう」。私はどうなるだろうか?――何者になるだろうか? 私は、かえって著しく馬鹿になるのである。それよりも悪い。私は私の神に対して反逆者となる。というのも、もし私が単純な福音によって救われたとしたら、私はそれと同じ単純な福音を死ぬまで宣べ伝え、他の人々もそれによって救われるようにしなくてはならないからである。私がイエスを信じる信仰による救いを宣べ伝えることをやめるときには、私を癲狂院に閉じ込めてほしい。というのも、そのとき私の正気が失われていることは確実だからである。

 あなたがたの中には、キリストにあって完璧に幸いに感じている何百人もの人々がいる。あなたは、自分のもろもろの罪がすべて洗い流されていること、キリストの義によって義と認められていること、《愛する方》にあって受け入れられていることを信じている。さて、かりに、あなたがそれを放棄して、こう云うとしよう。「キリストが一度死んで贖いを成し遂げたことを信ずる代わりに、私は弥撒において人間が不断にささげる犠牲を信じることにしよう」。あなたは、非常に馬鹿げた者となるであろう。かりに、完璧な赦罪と義認のためにイエス・キリストにより頼み、もはやキリスト・イエスにある以上あなたが罪に定められることはないと知る代わりに、あなたがわざに逆戻りし、こう云うとしよう。「私は自分自身の行ないによって自分自身の救いを達成することにしよう」。あなたは極度に馬鹿げた者となろう。そして、すぐにその事実を、あなたの霊に降りかかるみじめさによって発見するであろう。

 さらに見るがいい。あなたがキリストに最も近く生きており、最もキリストにより頼んでいたとき、あなたは最も強く聖潔への欲求を感じなかっただろうか? さて、私に告げてほしいが、もしあなたが現代の見解を試したとしたら、あなたは、自分の日々の歩みについて、いかなる精神状態に至るだろうか? 私があなたに告げよう。あなたは、こうした現代的な見解によって、劇場や、演芸場に足繁く通っても、平気の平左でいられるようになるであろう。また、仕事の上でも、小利口なごまかしを行なって、何のやましさも感じずにいられるであろう。だが、あなたは、キリストを見ているときにはそうした種類のことが全くできないことを知っている。あなたは、キリストの臨在によって聖められている。あなたは完璧なきよさへの強い欲求を感じる。罪への恐怖とおぞましさを感じる。あなたの歩みは注意深く、用心深く、あなたは自分の不完全さを思うと精神の苦悩によってうなだれる。では、どちらが正しい教理か判断するがいい。あなたを最も聖くするものこそ確かに真実であるに違いない。そして、もしあなたがあなたの主から離れ去るとしたら、――その臨在そのものが聖化を吹き込み、そのお方との交わりが聖さを確実にもたらすお方から離れるとしたら、――あなたは馬鹿者となるであろう。そして、私たちはこう云わざるをえないであろう。「ああ愚かなガラテヤ人。だれがあなたがたを迷わせたのですか?」

 最近ここで催した何回かの集会では、私の愛するフラートン兄弟とスミス兄弟が福音を説教した。イエス・キリストの生一本の福音である。そして、その後開かれた1つの集会では、何十人もの人々が立ち上がっては、この兄弟たちの伝道活動が、聖霊なる神によって彼らの魂に何を行なったかを告げることとなった。そこでは盗人たちが矯正され、酔いどれたちが矯正され、遊女たちが矯正され、大罪人たちが矯正されていた。よろしい。さて、かりに、こうしたすべての後で、あなたがたの中のある紳士淑女の方々がこう云ったとしよう。「私たちは福音に何ができるかは見ました。ですが、私たちは他の何かを試してみましょう」。あなたは馬鹿になるであろう。私は常に新しい機械を試してみるのにやぶさかではない。そのうちに私たちは、確信が持てるようになれば、瓦斯灯の代わりに電灯を試すであろう。だが、もしもそれが一斉に消えてしまい、私たちが真っ暗闇の中に取り残されることになったらどうであろう! 私は、この発明が実証されるまで待つであろう。それと同じことが、人々の持ち出してくる、新しい宗教的な光にも起こりかねない。それは、福音の真理という輝かしい太陽にくらべれば、薄暗い灯心草のようなものである。私たちは、自分の魂を危険にさらしてまで、新しい何かを試そうとは思わない。私たちは、昔ながらの古い福音から離れないであろう。それがすり切れるまで守り続けるであろう。それがすり切れて、誰ひとり救わなくなり、だれひとり慰めなくなり、もはや私たちを神に近づけることをしなくなるときには、そのときこそ私たちが何か清新なものを考案すべきときであろう。しかし、そうしたことがまだ起こっていない以上、こう云わせてほしい。私は私の昔ながらの軍旗に別の釘を打ち込み、それを昔ながらの帆柱になおもしっかりと固定するであろう。私があなたがたの間で、この二十六年の間宣べ伝えてきたことを私は再び宣べ伝えるであろう。というのも、私は、人々の間で、キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心しているからである[Iコリ2:2]。願わくは、こうした迷わしを受けて説教者が馬鹿になったり、その聴衆の誰かが馬鹿になったりしないように。イエス・キリストの栄光に富む福音を誰も捨てることにならないように。おゝ、あなたがた全員がその力を知り、それによって全員が救われることになればどんなに良いことか! 神があなたがたをそうしてくださるように。イエスのゆえに。アーメン。

 

迷わされた人々[了]

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