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告白された愛に期待される証拠

NO. 1522

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「あなたがたの愛の証拠を……示してほしいのです」。――IIコリ8:24 <英欽定訳>


 あらゆる信仰者の心には、神への愛がある。さもなければ、その人は神の子どもではありえない。あらゆるキリスト者の魂には、イエス・キリストへの愛がある。そうでない場合、いかにしてその人がキリスト者でありえようか? その結果、あらゆるキリスト者の胸には兄弟たちへの愛がある。――「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」[Iヨハ3:14]。あらゆるキリスト者の胸郭には、全人類への愛もある。その人はあの二番目に大切な戒めを実践しているのである。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」[マタ22:39]。神の御霊は利己主義という悪霊を追い出してしまわれた。そして、その度合に応じて、人はキリストの心、愛であるその心を有するのである。すべての律法がただの一語、すなわち「愛」で全うされる[ガラ5:14]ように、私たちの聖なる信仰の成果もまたその一語、「愛」に含まれているのである。おゝ、私たちがそれに一杯に浸っていたならどんなに良いことか!

 心に真の愛がある場合、それは現実に働く原則となる。それは、休眠したりせずに働く。――豊かに働く。それは生きた原則であって、いのちのあるところには動きがあり、ある程度の活動がある。それは成長する原則であり、その成長の中から果実が生じる。こうした理由から、また、こうしたしかたにおいて、真の信仰者たちは、自分の心の中にある愛の確かな証拠を示すのである。

 私は今回、4つの問いに答えることによって、あなたがたに話をしたいと思う。

 I. 第一に、私たちが熱心に証明すべきである《この愛とは、何がそれほどすぐれているのだろうか?》 このキリスト者的愛には、何か偉大な価値があるに違いない。さもなければ、私たちは、それを有していることを証明するよう使徒から再三再四勧告されることはないはずである。

 最初に思い出すべきは、キリスト者の心の中にある、神と聖徒に対する愛は、その起源が天にあるということである。私たちは、神がまず私たちを愛されなかったとしたら、決して神を愛することにはならなかった。また、神の聖霊が私たちの情愛の流れをその方向に変えてくださらなかったとしたら、私たちは神から逃げ出し、神を憎んでいたはずである。神をも、神の民をも愛することはなかったはずである。女の子孫を憎むのは、蛇の子孫の性質であり[創3:15]、私たちは、断罪と御怒りの下にあり、自分の生まれながらの状態にある限り、蛇の側にあって、善なるものに戦いを挑んでいた。「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」[ロマ8:7]。それゆえ、もし私たちが神への愛を火花1つでも有しているとしたら、それは神が私たちに与えてくださったものに違いない。それゆえ、これは貴重なものである。なぜなら、これは神から出ており、私たちはそれを確実に所有するよう留意すべきだからである。また、私たちは、この天来の原理が私たちの霊を支配していることを他の人々が確信するような生き方も努めて送るようにすべきである。

 これはその起源が天にあるのと同様、その旺盛さにおいてもすぐれている。神への真の愛は、他の一切の愛を凌駕するからである。キリストは私たちにこう告げておられないだろうか?――人は父や母、あるいは、自分の有するいかに近しい親族にもまさってキリストのことを愛さなくてはならず、さもなければ、その人はキリストをまるで愛していないのだ、と。キリストは、私たちの心の残りかすで、はぐらかされはしない。私たちの心のすべてを所有しないではおさまらない。あらゆる人間的な情愛は、自然でしかるべきものだが、この壮大で支配的な情動にくらべればちりにも等しいものとされるべきである。キリスト・イエスにある神への愛――この情動こそ私たちの魂を燃え上がらせるべきものである。徹頭徹尾キリストを愛していない者は、まるでキリストを愛してなどいないのである。この情愛は、アロンの杖のように、他のすべてを呑み込まなくてはならない。そして、私たちの全心は私たちの神なる主のものとならなくてはならない。

 私たちは、その旺盛さにおいてこれほどすぐれた情愛があることを証明するよう気を遣わなくてはならない。というのも、確かにもしこの愛にそれほどの力があるとしたら、それはそれ自体の証拠を生み出すに違いないからである。もしそれが何か小粒の情動だったとしたら、――何か小さな、細々とした炎の噴出で、私たちの存在の片隅しか照らさないものだったとしたら、――それほどこの件について厳密に考えなくても良いかもしれない。だが、もしそれが私たちの人間性全体を燃え立たせるものだとしたら、それは何らかの効果を生じさせずにはおかない。さもなければ、私たちは自分がそれを有しているかどうか自問した方が良いであろう。

 この愛は、その必要性において絶対に死活に関わるものである。もしある人が神を愛しておらず、キリストを愛しておらず、キリストの民を愛していないと証明できたとしたら、神のいのちはその人のうちに宿っていない。いのちと愛は、並外れて類似した2つの言葉である。そして、私たちが霊的性質の根底をきわめて、その根本的な原則に達するとき、私たちはその2つが並外れたしかたで結び合わされていることを察知する。それは、「愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられ」[Iヨハ4:16]のほどである。これは使徒ヨハネお得意の、大いなる小さな言葉の1つである。その細密な形の中に、いくつもの世界を丸ごと含むほどの意味を有する言葉の1つである。愛する方々。私たちは神を愛さなくてはならない。さもなければ、私たちはキリストのうちにいないのである。こういうわけで、私たちの愛の証拠が明確きわまりないもの、また、取り違えようのないものであることは重要なのである。私たちは、私たちの召されたことと選ばれたこととを確かなものとすべきである[IIペテ1:10]。そして、この2つを確実なものとするには、私たちの愛の証拠がふんだんになくてはならない。これは、その必要性において死活に関わるものである。

 この愛がいかに大きなものとなるかということは、――また、すでに私は、それが最高の程度まで上りつめるものであると語ったが、――この件に関わる数々の事実によって裏づけられる。神への愛――私はそれを正当化するために一言も費やそうとは思わない。キリストへの愛――それをあなたに推奨することがいかにして必要になるだろうか?

   「驚くばかりの この主の愛の
    求むは わが魂(たま)、命と、すべて」。

そして、この愛はそのすべてを有することにもなる。私の兄弟たち。あなたはそう云わないだろうか? あなたはこの柔らかな、だが強大な絆に屈さないだろうか?――絹のように柔らかだが、鉄のように強い絆に。それは私たちを堅く掴んでおり、私たちはそこから逃れることができない。キリストを愛さない? その民を愛さない? 失われた罪人たちの世を愛さない? おゝ! 方々。もし私たちが愛の必要性について論議しなくてはならないような羽目になるとしたら、確かに私たちはあらゆる被造物の中で最も獣じみたものであろう。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」[IIコリ8:9]。行ってイエス・キリストを愛するがいい。人々から狂信者だと呼ばれるまでそうするがいい。行って主を愛するがいい。全財産を施して貧しい人々を養うまでそうするがいい。行って主を愛するがいい。牢獄に横たわり、あなたのまぶたに苔がむすまでそうするがいい。行って主を愛するがいい。火刑柱で焼かれて灰になるまでそうするがいい。それでもあなたの愛は、主が受けてしかるべき愛をこれっぽっちも越えてはいないのである。おゝ、私たちの最も《愛する方》よ。あなたの価値からすれば、あなたに対する私たちの熱心は、当然私たちを食い尽くす[ヨハ2:17]べきです。そして、食い尽くされた私たちは、あなたのご栄光を現わしましょう!

 キリストに対するこの愛は、あらゆる時代に、ことのほかすぐれたしかたで達成された。あるキリスト者の内側を愛が支配しているとき、それは常にその人を強くする。信仰は種々の不可能事を笑い飛ばして、こう叫ぶ。「やり抜かずにはおくものか」、と。だが、それをやり抜くのは愛である。というのも、「信仰は愛によって働く」*[ガラ5:6]からである。愛は信仰の右手である。キリストへの愛ゆえに人々が行なわなかったことが何かあるだろうか? まことに、その偉業の数々について語れば時間がなくなるであろう。愛する姉妹。もしあなたがイエスへの愛に満ちるようになった場合にあなたが行なうことは、あなた自身をも驚愕させるであろう。また、愛する兄弟。キリストの愛があなたの魂を通じて燃えるときにあなたが行なうはずのことは、これまであなたが夢見たいかなることをもはるかに越えることであろう。おゝ! より大きな愛があればどんなに良いことか。幾多の殉教者たちに語らせるがいい。愛が血肉を強めるとき、そのあわれな肉体的苦しみになど何ができるかを。キリストのために論議して議論して、また血を流して死んでいった聖なる婦人たちに語らせるがいい。その一切の臆病さと弱さにもかかわらず、、キリストのために獅子のように勇敢にされた彼女たちに、愛が何を行なったかを語らせるがいい。ローマの大競技場の石壁に、また、幾百もの円形競技場の敷地に語らせるがいい。男たちがいかに勇敢に雄々しくふるまったかを。女たちがいかに勇敢にキリストゆえの死に向かい合ったかを。《教会》の必要とは、聖霊が教会にキリストへの愛というバプテスマを授けていただくことに尽きる。そうすれば、何事も教会には不可能でなくなるであろう。

 このように私はこの愛を推賞しようとしてきたし、確かに私たちは、自分にそれがあることを証明できなくてはならない。もしも自分にそれがあるかどうか、いささかでもあやふやだとしたら、日夜を問わず、この大いなる論議に決着がつくまで、決して気を抜いてはならない。私たちはキリストを愛するか滅びるか、2つに1つである。おゝ! 主の聖徒たちが顔と顔とを合わせて主に見え、主と似た者となる確かさにかけて、私たちがこれまで到達したもの以上に高貴な、主への愛のかたちに上ろうではないか。

 これこそ、私たちが証拠を示すべき愛である。

 II. 第二に、《この証拠とは何だろうか?》 この聖句は云う。「あなたがたの愛の証拠を、諸教会の前で、彼らに示してほしいのです」。いかなる証拠を示せば良いだろうか?

 キリストへの愛を証明する行動には、あまりにも多くの形があり、到底そのすべてを逐一検討することはできない。特に、私の信ずるところ、各人が自分の愛について異なる証拠を示すだろうからである。それぞれの信仰者には、(難しい言葉を使えば)特異性がある。信仰者はみな独特であり、その愛も――それが純粋なものだとしたら――それが示す証拠において、人それぞれに固有のかたちを取ることであろう。いくつの証拠は、神と主イエスの方を向いている。もしあなたがキリストを愛するなら、あなたは主の戒めを守るであろうし[ヨハ14:15]、その戒めは重荷とはならない[Iヨハ5:3]。もしあなたが主を愛するなら、あなたは主に誉れを帰そうとするであろう。――主の栄光に富む御名の香りを広めようとするであろう。もしあなたがキリスト・イエスにある神を愛するなら、あなたは人々の心に及ぶ神の支配を押し広げようとすることに熱心になるであろう。もしあなたが神を愛するなら、あなたは神との交わりを切望するであろう。神と語り合うこともなく何日も暮らすことに満足しないであろう。もしあなたが神を愛するなら、神を悲しませるとき自分も悲しくなるであろう。あなたが道を踏み外すと、あなたの心があなたを懲らしめるであろう。もしあなたが神を愛するなら、神のようになることを切に願うであろう。聖潔を求めて励むであろう。もしあなたが神を愛するなら、神があなたを統治するであろう。キリストがあなたの《王》となるであろう。あなたの精神はキリストに服従するであろう。あなたの考えはキリストによって導かれるであろう。あなたの意見はキリストのみことばから取られるであろう。あなたの全生活は、あなたのうちに宿っておられるキリストの御霊によって調味されるであろう。あなたは、神に対するあなたの愛の証拠を示すことのできる何百もの方法があることが見てとれるではないだろうか? おゝ、願わくは私たちがこうした事がらのいずれにおいても目方が足りないことを見いだされないように!

 次のこととして、私たちはこの愛を神に仕える教役者たちに対して示すことができる。彼らについて言及せずにおくわけにはいかない。なぜなら、使徒はこの章できわめて明確に彼らとその同労者たちについて語っているからである。そして、それを示す1つの特別のしかたは、このことである。――もし彼らがあなたのことを褒めているとしたら、彼らにその聖なる自慢を引っ込めさせ、涙とともに、「私はこの人々に騙されていたのだ」、と云わせるような理由を与えてはならない。もし誰かがあなたをキリストのもとに導いてくれたとしたら、自分がその人たちにとって、また、その人たちが宣べ伝えている福音にとって誉れとなるようにするがいい。なぜなら、愛する方々。この世はあたりを見回すからである。そして、この世の子らは、ある教役者がいかに引きこもったところにいようと、その信徒たちの裏表のある生き方を面と彼に突きつけるに違いないからである。彼らは云うであろう。「これは誰それによって信じた者だ。その生き様を見ろ」、と。そして、キリストに導かれたと告白する者たちがふさわしくない歩みをするときには常に私たちの伝道活動は妨げられ、私たちの心は悲しまされる。私たちに向かってあなたがしばしば表明している愛の証拠を、キリスト・イエスにあってあなたに仕えている者としての私たちに示すがいい。私たちが自分の弁明をすることになるとき、喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないように[ヘブ13:17]歩むよう努めてほしい。

 次に、神の民に関してあなたの愛の証拠を示すがいい。それはいかにして行なえるだろうか? あなたがたの中のある人々は、このことについて綿密に調べられる必要がある。なぜなら、あなたは明らかにこのことを忘れ果てているからである。もしあなたが神のしもべであるとしたら、あなたは神の民を愛するはずである。そしてあなたが示す最初の証拠は、行って神の民に加わることであるはずである。云うがいい。「彼らの名簿に私の名前が登録されるのは光栄なことだと思います」、と。あなたがたの中の一部の人々は云うであろう。「私はそれを光栄だとはみなしますが、到底前に出て行く勇気がありません」。何と! 私は、来る日も来る日も、恐れおののく人々と面会してきたというのに、その全員はまだ来ていなかったというのか? ならば、あなたのために別の時間を設けよう。そして、私たちが思いやりのない人間かどうかを試してみるがいい。私たちはあなたが考えているほど恐ろしい者ではないし、あなたはイエス・キリストのあわれななしもべに向かって、あなたが本当に彼の《主人》の御名を愛していると告げることについて臆病になる必要はないからである。彼は喜ぶであろうし、あなたも喜ぶであろう。しかり。だが、あなたは半ば自分のことが心配なのだと云うであろう。私は、あなたが完全に自分のことを心配してほしいと思う。自分自身のことを心配すればするほど良い。というのもあなたは、あなたひとりでは箸にも棒にもかからない者だからである。しかし、自分をイエスにまかせることについて心配してはならない。そして、あなたがそのようにしたとき、次に即座に行なうべきことは、キリストの、目に見える教会と一体になることである。もしあなたが、「私は兄弟たちを愛しています」、と云うとしたら、その兄弟たちはあなたに向き直って云うであろう。「私たちにあなたの愛の証拠を見せてください。私たちと運命をともにしてください」、と。あの女のようにするがいい。自らは異邦人であったにもかかわらず、真の神を礼拝している者にすがりついて、こう云った女のように。「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」[ルツ1:16]。

 しかし、あなたが教会に加わったとき、そのとき確かにあなたは自分の愛を、聖徒たちとの心からの交わりによって示すべきである。私たちは、あなたが自分の名前を教会員名簿に記載し、信仰告白者となり、それから上部桟敷の片隅にある会衆席の1つに座り込み、やって来ては去って行き、誰とも話をしないということを望まない。私は今でさえこのように云う人と会うことがある。「私は何箇月もの間、タバナクルに来ていましたが、誰も私に話しかけてはくれませんでした」。よろしい。私は、数多くの熱心なキリスト者たちがこの場にいて、見知らぬ人々を見張っていることを知っている。それゆえ、もしあなたが誰からも話しかけられなかったとしたら、その非はあなた自身にあるに違いない。ことによると、あなたは、何か物凄いほどに硬直した格好をしていて、彼らを怖がらせたのかもしれない。よくは分からないが、そういうこともありえる。一部の人々は、背中にこう書いてあるかのような様子をしている。「私に近づくな。私は、自分に向かって何の質問もされたくはないのだ」。私たちの間にいる何人かの兄弟姉妹は、たぶんそれでもあなたの硬直さを打破できるであろう。だが、もし本当にそういうことが起こっていたのだとしたら、私はそのことを非常に遺憾に思うし、これ以上そうしたことはあってほしくない。本日の、この礼拝に来ている誰かに話しかけるがいい。私は、礼拝開始前に敬虔な会話が低い唸り声を立てているのを聞くことが嫌いではない。一部の人々はそれをひどく嫌がっているが関係ない。また、私はちょっとばかし昇降段やこの建物の近辺をぶらぶらしていることに反対を唱えもしない。あなたは互いに交わりを持つであろう。そして、そのようになることを私は好んでいる。私たちはいくら頻繁に出会っても十分ではないからである。キリスト者である人々が互いに徳を高めるために語り合うのは、決して安息日や礼拝の場所を汚すことではない。あなたが教会に加わるときには、真剣に加わり、神の民と大いに会話を交わすがいい。そして、あなたの心からの熱心によって、彼らにあなたの愛の証拠を示すがいい。

 それから、彼らの奉仕のすべてにおいて、彼らと結び合わされるがいい。《日曜学校》はその教師たちを求めている。あなたはキリストを愛していると云う。ならば、幼い者たちを愛するがいい。あなたの愛の証拠を示すがいい。来て、この良きわざを助けるがいい。イエスのために、また、イエスの教会のために、あなたが行なうことのできることが何か1つはある。それを行なうがいい。そして、そのようにしてあなたの愛の証拠を私たちに示すがいい。

 あなたのを愛の証拠を示すために、苦しみの中にある聖徒たちを慰めるがいい。彼らに必要があるとき、あなたにできる限り彼らを助けてやるがいい。彼らが痛罵されるのを聞くときには常に彼らの評判を擁護するがいい。あなたが近くにいるときには、誰にも彼らについて根も葉もない非難をさせてはならない。

 彼らにあなたの愛の証拠を示すために、彼らの種々の弱さを負うがいい。教会は完璧ではない。そして、たとい教会が完璧であったとしても、あなたがそれに加わった途端に完璧ではなくなるであろう。あなたは、自分自身がそれほど多くの弱さをかかえているのである。他の人々の弱さも辛抱強く忍ぶべきである。もし聖徒たちが、あなたの望むような姿とはほど遠くとも、それにもかかわらず、思い出すがいい。彼らはキリストの心にとっては愛しい者らなのである。そしてキリストは、ことによるとあなた自身により多くの美しさがあれば、あなたにも見てとれるような美しさを、彼らのうちに見てとっておられるのかもしれない。ことによると、過誤を見つけ出すあなたの力は、あなた自身が非常に多くの過誤をかかえていることから生じているのかもしれない。そして、もしあなたがより聖化され、よりキリストに似た者となったとしたら、あなたは彼らの過誤と同じように彼らの性格的な美しさにも目を注ぐようになるかもしれない。私たちにあなたの愛の証拠を示すがいい。私は、あなたがたの間に、あなたがたの愛のあり余る証拠を見てとっていないかのように語っているのではない。だが私の話を聞いている人々の中には、ことによると、まだ、決して、キリストおよびその御民に関する特権という自分たちの立場を悟っていない人々がいるかもしれない。そして、そうした人々はまだ一度も、キリストがご自分の尊い血で買い取られた人々に対して、本来しかるべきほどに同情を向けたことがないかもしれない。

 不敬虔な人々に対するあなたの愛の証拠をも私たちに示すがいい。――この四百万の大都市に対するあなたの愛を。あなたの愛の証拠を私たちに示すために、この炎の中から燃えさしをつかみとろうと努めるがいい。忙しく立ち働くがいい。できるものなら町角に立ち、イエス・キリストを宣べ伝えるがいい。印刷された福音をあなたの近づけるあらゆる場所で撒き散らして来るがいい。キリストについて仕事仲間に話をするがいい。気のあった友人たちにキリストの話をするがいい。この強力な薬草、このあらゆる形の霊的疾病の治療薬を広めるように努力するがいい。さもなければ、あなたがいかに口を利こうと、いかなる告白をしようと、私たちはあなたにこう云わざるをえないであろう。「あなたがたの愛の証拠を示してほしいのです」、と。

 私は単に、あなたの愛の証拠がいかなるものでありえるかという木炭素描を示してきたにすぎない。私は、絵画を描きも、彩色を行ないもしなかった。愛する方々。いかにあなたがこうした証拠をただちに示すことができるか考えるがいい。

 III. しかし今、第三のこととして《なぜこの証拠が要求されているのだろうか?》 ある人は云うであろう。「なぜ私は私の愛を証明するように求められているのですか?」 私がこのことを非常に厳しいしかたであなたに突きつけても心を痛めてはならない。というのも、あなたの場合は、やはりこのほか強く圧力をかけられた際のシモン・ペテロの場合にいささか似たものとなるだろうからである。

 ペテロは、自分の《主人》が三度、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」、と云われたとき心を痛めた[ヨハ21:17]。さて主は、ペテロを疑っていたためにそう問われたのではない。なぜなら、ペテロの心を知っており、ペテロの訴えが真のものであったと知っておられた。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」。それゆえ、これを恨みに思ってはならない。また、こう云ってはならない。「なぜ私は自分の愛を証明すべきなのだろうか?」 しかり。むしろ、こう耳を傾けるがいい。真の愛は常に自らを自分の価値を示すことを切望する、と。それは、そのようにせよとの命令を必要としない。機会を待ち受けている。それはあなたの家庭生活についても同じである。あなたはそのことを知っている。例をあげる必要はない。自分の愛する者たちに愛を示すことは何という楽しみであろう! それよりもはるかに高い程度において、キリスト者にとってイエスのために何かをすることはいかなる楽しみであろう! もしあなたがイエスのために何1つ明確に事を行なったことがないとしたら、あなたはいかなる種類の、神の子どもでありえるだろうか? 私は、私の《主人》への奉仕を愛しており、その民のためなら何でも喜んで行なうはずだと真実に云える。そのことについては、私が主のためなら何でも行なうはずだという感じに確信を持っているほどには確信がない。私は、何事かが明確に、また、全面的に私の主の栄光のためになると分かったとき、それを喜んで行なう。香油の入った石膏のつぼを割って、主の頭に注ぐことは[マコ14:3]、豊かな歓喜である。まことにそれは貧者たちに施し、貧者たちに恵むこともできたであろう。だがイエスご自身が最高であられる。「それは浪費だ」、とある人々は呟く。しかり、しかり。だが、キリストのために浪費的であることは、この上もなく高貴な経済である。おゝ、自分の主を愛する心たち。イエスのために費やすときには決して銀を数えてはならない! つぼを割るがいい! 香油を注ぎ出すがいい! 部屋は芳潤さで一杯になるであろう。それは浪費にならないであろう。それを嗅ぐ鼻孔が全くなくとも、もしイエスだけがその爽やかさを受け取るとしたら、それはなおのこと良いであろう。私は森の間にある空地に入ることを好んでいる。そこには人目につかない場所があり、赤鹿のほか何者も通り抜けることのない密生した藪がある。私はさざなみを立てて流れる小川の傍らにある、人間の足で汚されたことのない立麝香草の土手に腰を下ろし、こう考えることを嬉しく思う。「これは神の庭園なのだ。そして、あらゆる木の葉は神のために波打っているのだ」。誰にも見られることなく紅に染まるべく生まれた花々は、あだに砂漠に芳香散らすと詩人は云う。だが、なぜそのようなことが云えるのか? 何と、それらは神のために花開いているのであり、神がそれをお喜びになるのである。そして、それらはまさに世界一良いことに用いられた花々なのである。おゝ、時としてそのような花になること、また、自分が遠く離れていること――人々がやって来ては褒めたりけなしたりし、花々や果実に金銭ずくの賞を与えたりするような庭園から離れていること――神が自分を見て、自分のことをお喜びになる所にいると感じることができればどんなに良いことか。私たちはイエスだけのために働こうと努めるべきである。証拠が求められているのは、イエスが疑っておられるからではなく、イエスは私たちに私たちの愛を証明する機会を与えて、私たちを喜ばせることを愛されるからである。

 しかし、私たちが自分の愛を証明するよう求められている1つの理由は、それが他の人々にとって祝福となるだろうからである。コリント人たちが彼らの愛を証明すべきであったのは、エルサレムにいる貧しい民衆が飢えていたからであった。コリント人たちが愛についての賛美歌を歌っていながら、エルサレムにいる貧しい聖徒たちが食事のパンに事欠いているというのでは、何にもならないであろう。しかり。彼らは自分たちの愛を証明しなくてはならない。それが他者にとって益となるように、また、その愛が他の人々にも広まるように。なぜなら、使徒はこう云うからである。「もしあなたがたコリント人が自分の約束を果たさなければ、マケドニヤにいる人々は私に面と向かってそれを投げつけ、自分では何もしないであろう。それゆえ、マケドニヤの諸教会のために、あなたは気前よくならなくてはならない」。そのように、愛する方々。しばしば、ひとりの人が、自分の主人によく仕えることによって、他のキリスト者たちの大群をかき立てて、自分たちがこれほど僅かしか行なっていないことを恥じさせることがあるのである。私は非常に多くの説教を行なっているかもしれない。兄弟たち。だが、それは、もしあなたがたが、教会として、キリスト者としての目当てに恥じない行動をする場合に、あなたの説教が行なうことにくらべれば、ごく僅かな善しか施さないであろう。もしも聖なる愛と、和合と、あらゆる恵みにあなたが満ちあふれる者となるなら、他の諸教会は云うであろう。「見よ、あの教会を」、と。おゝ、あなたによって励まされた他の人々が自らもキリストのためにわざを行なうようになる、そのような聖徒にあなたがなるとしたら、どんなに良いことか。だからこそ、あなたはあなたの愛を証明するよう求められているのである。

 あなたが自分の愛を証明するよう求められているのは、あなたがそうすることが筋の通ったことだからである。神はあなたを愛しても、その愛を秘して、こう云われるようなうなことはなさらなかった。「わたしの名は愛である。だが、わたしは何も行なうまい」。否。神はご自分のふところにおられた御子を、ご自分のひとり子をお与えになった。それも、死なせるためにその御子を与えられた。神は実際的であられる。感ずることを行なわれる。語ることを行なわれる。私たちは多くの無駄口を叩くが、神のことばとみ思いは、種々の恵みの行ないとなって発される。それゆえ、私たちが自分の愛の実際的な証拠を示すことは正しくはないだろうか?

 IV. 残り時間が少なくなっている。さもなければ、第四の点について詳しく語ることになったであろうが。すなわち、《誰が私たちの愛のこの証拠を求めているのだろうか?》

 私は他の一切の人を抜かして、ただひとりだけをあげよう。それは、あなたの主である。あなた自身の、死に給い、生きておられる主が、このように仰せられるのである。「あなたの愛の証拠をわたしに示してほしい」、と。私はあなたに、いかにして主がそう云っておられるかを告げよう。患難があなたの家に入り込んだ。愛する者が死んだ。するとイエスは云われる。「今、あなたはわたしを蹴りつけるだろうか、それとも、あなたの宝を私に引き渡すだろうか? ヨハネの子シモン。あなたはわたしを、こうした愛する者たち以上に愛するか? もし愛するとしたら、あなたは彼らと別れても文句を云わないであろう」。「マリヤよ。あなたは母よりも、姉よりも、友よりもわたしを愛するだろうか? もし愛するとしたら、あなたはわたしが彼らを取り去るときも、わたしをほめたたえるであろう。今があなたの好機である。わたしにあなたの愛の証拠を示してほしい。わたしの懲らしめの前に頭を垂れ、それでもわたしを愛することによってそうするがいい」。私たちの主は、単に私たちから、ご自分が私たちにお与えになったものを取り上げておられるにすぎない。それゆえ、私たちは主の御名をほめたたえようではないか。死別を味わった人たち。それこそ主があなたに求めておられる愛の証拠であろう。

 ことによると、あなたは最近、友情で結ばれていてしかるべき人と仲違いをしたかもしれない。そして、今あなたの良心はこう云っているかもしれない。「キリスト者同士は、平和と愛のうちに生きるべきだ」、と。しかし、サタンはこう云っている。「お前が悪いんじゃないさ。お前に反対する、あんな高慢ちきな奴の前で身をへりくだらせるなよ」。しかし、私の主であり《主人》であるお方はあなたに云われる。「あなたの愛の証拠をわたしに示してほしい。私のために彼を七度を七十倍するまで赦すがいい。そして、もしあなたが彼に不正を働いたのだとしたら、その不正を告白し、わたしのために身をへりくだらせるがいい。わたしがわたしの弟子たちの足を洗ったのだから、あなたの愛の証拠をわたしに示すため、互いに足を洗い合うがいい」。どうかこうした訓戒に注意を払ってほしい。

 しかし、もしかすると、この場には、自分の思いの中に、何か並外れたことをイエスのために、あるいは、教会のために、あるいは、貧者のために、あるいは、異教徒宣教のために行なおうと計画している人々がいるであろう。サタンはこう云ってきた。「それほどのものを与えるなど、もってのほかだよ」。イエスは云われる。「わたしはあなたを富ませてきた。他の人々が商売で失敗したときも、わたしはあなたの面倒を見てきた。あなたの愛の証拠をわたしに見せてほしい」。あなたは主の召しを聞こうとしないだろうか? あなたの手を引き込めてはならない。別の誰かから説得されたいと思ってはならない。なぜなら、それはすべてを台無しにしてしまうであろう。それは自発的なものでなくてはならない。それを受け入れていただきたければ、それはあなた自身の心の中から発し、神の御霊によってのみ動かされたものでなくてはならない。ことによると、私が話をしている方々の中には、何年もの間、この教会の会員であった若者がいるかもしれない。そして、その人の脳裡にはこういう考えがよぎっているかもしれない。「私は、私の愛を示すために何を行なえば良いだろうか?」 そして、その人の大望は遠国で宣教師となることである。自分を制してはならない。愛する若き兄弟。たといそれが愛する親類縁者から引き裂かれるか、自分のいのちを代価とすることになるとしても、イエスの御霊があなたに示唆する通りの、あなたの愛の証拠をイエスに示すがいい。あるいは、あなたが人々に向かって彼らの魂について語るべきだということだろうか? 主はあなたの道の途中に誰かを投げ入れられるであろう。あなたの愛の証拠を示すために、聖なる勇敢さを振るい、イエス・キリストのためにまっすぐに語り、それを恥じないようにするがいい。主はあなたをご自分との近しい交わりに招いておられる。神の山の高みに来るよう、また、より徹底的に聖別されるよう招いておられる。ならば、主にあなたの愛の証拠を示すがいい。

 私はこのことをあなたにゆだねよう。もしあなたが主を愛しているなら、それを示すがいい。愛していないなら、おののくがいい。私は聖書が云っていることを、まるで私から出たことででもあるかのように、繰り返しはすまい。むしろ、あなたにそれを思い起こしてほしい。パウロは云う。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください」[Iコリ16:22]。――キリストが来られるときにもたらされる呪いをもって呪われよ。もしあなたがキリストを愛さなければ、この通りになるに違いない。

 おゝ! もしあなたが主を愛しているとしたら、創意に富む者となるがいい。これまで他の誰もイエスのために行なったことのない新しいことを考えつくがいい。まっさらな通り道を作り出すがいい。自分にあれこれ慰安を与えることをせず、主の御霊があなたを導き、あなたを助ける通りのしかたであなたの愛を証明するという慰めを得るがいい。そして、主の御名にとこしえに賛美があるように。アーメン、アーメン。

 

告白された愛に期待される証拠[了]

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