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重要な問いかけに対する平明な答え

NO. 1521

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです』」。――ヨハ6:29


 この前後関係に注意するがいい。さもないと、この言葉の意味を理解しそこなうであろう。というのも、一見すると私たちの《救い主》は、私たちがご自分を信ずることは神のわざである、と私たちに教えられたように見受けられるからである。さて、それは全く正しいであろう。聖書の他の箇所できわめて平明に教えられているように、信仰は神のみわざである。だが、それは、この特定の場合における教えではない。そのことは、文脈を眺めればきわめて明白である。第一に、私たちの《救い主》は人々に対してこう云われた。「あなたがいかに自分のからだのパンのために働いているか、見るがいい。あなたがこの湖岸中わたしを探して回ったのは、わたしからもう一度パンと魚で養ってもらおうとしたからであった。だが」、と主は云われた。「もっと良いものを求めて働くようにするがいい。なくなる食物のためにではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至るもののために働くがいい」。主は彼らを優しく叱責しておられる。「物質的な善を求めるために力を使い果たしてはならない。むしろ、あなたの不滅の性質について考えるがいい。あなたの霊の、あなたのよりすぐれた部分の飢えを満足させるがいい」。すると彼らはすかさず答えた。「なくならないパンのために働けと仰いますが、私たちは、神のわざを行なって、それを獲得するために、何をすべきでしょうか?」 英欽定訳でははっきりしていないが、彼らは、《救い主》が用いられたのと全く同一の言葉を用いた。主は「働くがいい」、と云われ、彼らは、「私たちは、この神の働きを働くために何をすべきでしょうか? それは何ですか?」、と云ったのである。彼らは主の言葉尻をとらえ、それに従って1つの問いを発した。

 人々は、霊的な事がらに関して目覚めさせられ始めると、自然とこう叫ぶ。「救われるためには、何をしなければなりませんか?[使16:30] 私たちが神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか?」 これは誤った問いである。それは、あらかた彼らの無知と過誤によって形作られた問いである。彼らは、なされるべき何らかのわざがあると考えている。ある律法を行ない、それに従うことによって稼ぎ取るべき何らかの功績があると考えている。それで彼らは、このような形でそれを云い表わしたのである。――「私たちは何をすべきでしょうか? 私たちは、神のわざを行なうために、どんな行ないをすべきでしょうか?」 《救い主》は、この問いの形のゆえに彼らをたしなめはしなかった。それは、正確さを期すべきときではなかった。むしろ、主は彼らに、彼らが理解できるような真理を与えて、こう答えられた。「あなたは、『神のわざ』となるような、すなわち、神をお喜ばせするような、いかなるわざを行なわなくてはならないか知りたいというのか。ならば、これが『神のわざ』である。人によってなされうる一切のわざの中でも最も神をお喜ばせするわざ、それは、あなたがたが、神が遣わした者を信じることである」、と。ここで教えられているのは、信仰が神によって私たちの中で作り出されるということではない。それは、すでに述べたように偉大な真理ではあるが、むしろ、ここではこう教えているのである。――すなわち、もし人々が行なうことを願うとしたら、あらゆるわざの中で第一の、また最も主要なものは、神が遣わされたイエス・キリストを信ずることである、と。信仰が人のわざと呼ばれることに反対するような人が誰かいるだろうか? だとすると、なぜ反対するのか私は問いたい。確かに信仰は神の賜物であるが、このことは一瞬たりとももう1つの真理、すなわち、信仰が人のわざであることに影響しないのである。というのも、信仰は人の行為であるし、人の行為でなくてはならないからである。正気の人なら誰もそのことを否定すまい。あなたは、人が信じるのではないなどと云うだろうか? ならば、私はあえてあなたに告げるが、個人的にイエス・キリストを信じない人は失われた人である。また、もしある人自身の行為でも行ないでもないような信仰などというものがあるとしたら、それはそうした人々を救わないであろう。その人は自分で信ずるか滅びるかの2つに1つである。これが聖書の明白な教えである。悔い改めは聖霊によって私たちの中に作り出されるが、私たちは自分で悔い改めなくてはならない。さもなければ決して救われないであろう。信仰は聖霊によって私たちの中に作り出されるが、聖霊は信ずることも、悔い改めることもなさらない。これらは、その人自身の行為なのである。私たちは、自分の心で信じて義と認められる[ロマ10:10]。もし私たちが信じなければ、私たちは信ずる者たちに与えられている約束にあずかってはいないのである。それゆえ、信仰は人のわざである。そして、それはわざの中でも主要なもの、最も神に喜ばれるざ、最も神にふさわしいわざである。すなわち、この聖句が云い表わしているように、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」。

 私は高き所からの助けを祈り求めつつ、次のような点について解き明かしたいと思う。端的に云えば、こういうことである。信仰は、人が行ないうる一切のわざの中でも最も喜ばしいものである。それは、ここでは「わざ」と呼ばれているが、厳密な、また、正確な意味でそうなのではない。というのも、それは決して種々の律法のわざと同列には置けず、そうしたものとは本質的に異なっているからである。むしろ、《救い主》は彼らの用いた言葉を取り上げて、彼らの無知に対して語りかけ、彼らを教えようとされたのである。

 I. わざとしての信仰について云えば、それは神にとって最も喜ばしいものである。というのも、まず第一に、《これは一切の真のわざの完全な要約である》からである。信仰の腰の中には、可能な限りのあらゆる形の聖潔がある。一個のどんぐりの中に、1つの森が眠っているように、信仰の範囲内には、いかに小さくとも、あらゆる美徳が隠れている。それは形としては微視的なものかもしれないが、確かにそこにあり、発展させるだけで良いのである。悔い改めは信仰の中にある。イエス・キリストを信じて救いに至る人は自分が罪人であると知っており、そうした人は罪に対する何らかの憎しみをいだいているに違いない。さもなければ、自分の罪から救い出すキリストを受け入れようとはしないであろう。神への愛もそこにある。というのも、何にもまして確実なことだが、私は、ある人を信頼するとき――完全にその人を信頼するとき――、自分の霊がその人に何らかの愛着を感じていない限り、そのようなことをするのは不可能だろうからである。そして、魂を完全にキリストにまかせることは――それが信仰だが――、キリストに対する並々ならない愛をうちに有している。もしここに、神の御霊のあらゆる恵みの一覧表があるとしたら、また、それを1つ1つ取り上げて、それから信仰を分析するとしたら、御霊のこうした良いわざすべては、大なり小なり、イエス・キリストを信ずるという単純な行為の中に隠れていることが分かるはずである。

 私は、あなたがたの中のある人々が何と云っているか分かっている。――「救われるためにすべきことは、それがすべてなのでしょうか? ただ単純に、ひたすらキリストを信じる、つまり自分をキリストにゆだねるだけで良いのでしょうか?」 しかり。それがすべてである。そして、これはごく小さな行為であって、いかに無学な人でも行なうことができる。だがしかし、その中には、想像も及ばないほどの敬虔の奥義がある。さながら、胡桃材の手箱1つの内側に、手の込んだしかたで、ありとあらゆる宝石や宝玉類が、「奥様用の手袋」とともにしまい込まれているのが見られるのと全く同じように、「信じて生きよ」という、この小さな胡桃材の手箱の中には、少しでも注意深く目を凝らせば、神の御霊のあらゆる恵みが見いだされるであろう。

 それだけでなく、すべての恵みはしかるべき時に信仰の中から出て来る。信仰は、一個のキリスト者の人生のすべてを要約しているからである。さて、私はあなたにヘブル書11章全体を読むよう求めたい。そして、何らかの高貴で、勇敢で、栄光に富むことのうち、それに対応するものがその章のうちにないものを考えつけるかどうか見てみるがいい。しかし、思い起こすべきは、それが描写している英雄的な行為の主体は――種々の美徳のあれこれではなく――信仰なのだということである。アベルに始まり最後の者にまで至る、この長い一覧において、信仰がすべてを生じさせているのである。信仰から発した力が獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、弱い者を強くするのである。信仰こそ誘惑を踏みにじり、世に勝つものである。信仰こそ聖潔に達するものである。あなたが手でかかえることもできる、また、ほとんど重さも感じることができないほど軽い、この小さな赤子の身裡には、向こうにいる、英国陸軍の先陣を務めることもできる、六尺余寸の大男のあらゆる要素が詰まっている。そのように、キリストの身丈に完全に達した真のキリスト者たる人は、次のように叫ぶ恵みの赤子の内側にみないるのである。「信じます。不信仰な私をお助けください」[マコ9:24]。

 私たちの《救い主》がこう云われたのも、むべなるかな。「もしあなたが神のわざを行ないたければ、あなたは神が遣わしたイエス・キリストを信じなくてはならない」。というのも、その行為の中には、あらゆる美徳があり、その行為の中からあらゆる美徳がしかるべき時に育っていくからである。

 II. しかし今、第二に、この、イエス・キリストに信頼するという単純な問題、いわゆる《信仰は、それ自体として、最も神にとって喜ばしいことである》

 最初に、これは被造物がその神を認めることである。ある人が、「自分の魂のことなど、どうでもいい」、と云うとき、その人は無神論の中で生きており、神の権威を認めず、あたかも神などいないかのように生きているのである。ある人が、「救いなど必要ない」、と云うとき、それは神の証言を否認しているのである。私たちがみな道から外れ、忌まわしいものになり果ててしまったという神の証言を否定しているのである。ある人は次のように云う。「私は正道を踏み外しているかもしれませんが、自分で立ち直ることができます。私自身の良いわざが私を救います」。その人は、自分を自分の神から独立したものとしている。事実、自分を自分の神とし、そのようにすることによって、別の神を打ち立てているのである。しかし、ある人々が、「私は罪を犯しました」、と叫ぶとき、そこでは、律法が良いものであり、聖く正しいものである[ロマ7:12]と認められているのである。それからその人が、「私はこれほどの罪を犯した以上、罰に値します、そして、自分をそれに服させます」、と云い足すとき、そこでは天の法廷が承認され、その判決の正義が認められているのである。反逆的な心が自らを神の権威に引き渡しているのである。その人はさらにこう云う。「ですが、大いなる神よ。私は聞きました。あなたがあなたの御子をお与えになり、罪人たちに代わって血を流させ、苦しませてくださったことを。また、この方がご自分を信ずる者たちを完全に救うことがおできになることを。それで私は、この方に信頼するのです」。この人の神に対する服従は完全である。以前はこう云っていた。「私は信じない。それは理性にかなっていない」。それは、なおも反逆者である高慢な理性であった。あるいは、その人は云った。「それはそうかもしれないし、そうでないかもしれない。だが、私は贖いの犠牲ということが特に美しいとは思わない」。それもやはり、高慢な心が神を蹴りつけているのである。しかし、信ずるときその人は正しい立場に立つ。その人がイエス・キリストを信じ、この偉大な犠牲によるあわれみを受け入れるとき、神は大いに喜ばれる。なぜなら、ご自分のあわれな誤っている被造物が、その正しい立場に立ち、神はその信仰の行為の中に正しさの回復をご覧になるからである。

 さらに、神が信仰をお喜びになるのは、それが神の和解の方法を受け入れるからである。神がキリストを与えたのは、キリストによって私たちをご自分に和解させるためであった。人が、「私はキリストを私の《救い主》として受け入れます」、と云うとき、その人は神の和解の方法を受け入れるのであり、そのとき神は和解させられざるをえない。というのも、神はそうすると約束しておられたからである。神が和解させられることを切望し、ひとりでも滅びること望まず、人々が悔い改めに進むことを望んでおられる[IIペテ3:9]のと同じく、神は彼らが神ご自身の定めたしかたで進んで和解しようとするとき喜ばれるのである。それは神の知恵への敬意、神の愛への信頼、神の神聖な意志への服従を示しており、それこそ神が求めておられることなのである。これらすべては、私は云うが、信仰に含まれており、神を喜ばせるものとなっているのである。

 ことによると、神の御前で信仰を最も受け入れられるものとしているのは、それがイエス・キリストに誉れを与えるという事実である。神はご自分の御子を深く愛しておられるからである。ご自分のひとり子に対する御父の愛がいかに深いか私たちには想像もつかない。そして、愛する方々。あなたの自己信頼はキリストの功績と救いに恥辱を加えることであり、神はそれを忌み嫌われる。だが、あなたがそれを振り捨て、御子が行なわれた大いなる贖い以外に何の希望もいだかないとき、そのときに、私は云うが、あなたの信仰がイエスに誉れを帰すがゆえに、神は信仰を喜び、あなたの信仰に誉れをお与えになるであろう。神が、この大いなる《大祭司》にすがりつく魂をお捨てになることはありえない。おゝ、もしあなたがイエスを仰ぎ見るとしたら、あなたの目は決して盲目になることはない。もしあなたの心がイエスにすがりつくなら、あなたのその心は決してそのいのちを失わない。もしあなたの魂がイエスにあって喜ぶなら、あなたのその魂は決してその喜びを失わない。

 実際、信仰は私たちを神との正しい関係に立たせるのである。というのも、被造物が自らの神に対する正しい関係とは、依存関係以外にあるだろうか? 神が私たちを造られた以上、また、あらゆる権威、あらゆる権力を有しておられる以上、私たちが自分の幸福のためのみならず、自分の存在のためにも、神に依存することは、最もふさわしいことではないだろうか? 神がいかに世界を無の上に吊り下げておられるか見るがいい。この丸い地球は決して曲がることも、ふらつくこともなく、神の見えざる御手によって着実にその巨大な行進を保たれている。向こうの星々は、茫漠たる諸世界ではあるが、自らをその場所に保持しておく力はない。むしろ、神の力がそれを確立させているのである。万物は神によりかかっており、造られた物の唯一の立場は、全き依存である。それは信仰以外の何だろうか? 私は天国にも信仰があると信ずる。そこに信仰がないと云わないでほしい。栄化された者たちが絶対的な信仰を実践し、決して疑いを感じないことこそ、天国の本質であると私は信じる。一瞬ごとに自らの不滅性と至福について神に依存すること、また、神が決してそのことをおやめにならないと全く信頼していること、それは御座の前にいるあらゆる霊の喜びとなるであろう。ある種の信仰は見るところとなるであろう。だが、もし信仰が神への信頼だとしたら、神をほむべきことに、私は天国においては、地上において持ち得る以上に大きく信仰を有するであろう。完璧な子どもは完璧な父への完璧な信仰を持たなくてはならない。信仰が被造物を意識的な依存へと連れ戻すゆえに、神は信仰を大いに喜ばれるのである。

 信仰は私たちを子どものような安息の場に立たせることによって回復する。もしある息子が悪意をいだいた人間の手に陥り、自分の耳に、お前の父親はお前を憎んでいるのだ、――お前を破滅させるために可能な限りあらゆることを行なっているのだ、――と囁かれたとしたら、その青年は最初はその告発を信じないであろう。だが、しばらくすると、それが本当だと考え出すかもしれない。その時以来、彼の父親の一挙手一投足が邪推されることになるであろう。そして、もし父親の生活に普段よりも親切なものがあると、まず間違いなく、このあわれな誤り導かれた少年は、そこに父親の通常の行動にまさって格段に根深い陰険さがあるのではないかと勘ぐることであろう。この若者は自分の父親の命令を破り、父親を苛立たせ、怒らせるであろう。この青年を正しくするには、まずどうしたら良いだろうか? 父親を恐ろしく思わせることはできるかもしれない。そうすれば彼は、表向きは行儀正しくふるまうであろう。だが、彼は、自由の身になる時期を待ちうけるであろう。だがもし自分の父親を信じさせることができたとしたら、また、父親が彼を愛していること、その間ずっと地上で最も親切な人物であったことを確信させることができたとしたら、彼は父の腕の中に飛び込んで行くであろう。彼は自分の信頼する親に従うことに何の異存もなくなるであろう。そうすることが彼の喜びとなるであろう。

 あなたは彼の信頼をかちとったのであり、今や何の問題もなくなる。悪魔と私たち自身の腐敗した性質は云う。「神は意地悪だ。神はすさまじい地獄を作り出したではないか」、云々。だが信仰は割って入ると、こう叫ぶ。「神はその御怒りをお捨てになった。神は罪のための完全な贖いを成し遂げられた。喜んで私たちを受け入れてくださる」。それから信仰は云う。「神に信頼するがいい。黙って神に信頼するがいい」。そして魂がそうしたときには、信仰はこう証しする。「神はあなたを永遠の愛で愛しておられたのだ、イエスはあなたのために死なれた。そして、あなたのために天国を供しておられるのだ」。このことが知られ、感じられたなら、いかなる変化が生ずることか! おゝ、そのときあなたは自分の罪を憎む! おゝ、そのとき、あなたは喜んでこう云う。「どうして私は、これほど親切で、これほど善良で、これほど正しいお方に対して馬鹿な真似ができるだろうか?」 この衝動の下であなたは神に仕え、神のために生きるであろう。神を信じるという単純なことがこうしたすべてを成し遂げたのである。それは人格を左右する要である。神に対してかたくなな思いをいだいていれば、反逆の行為に至るが、無限の愛に対する子どものような信頼は心を和らげ、聖め、その人をこの偉大な御父にとって真の子どもとする。ならば、信仰そのものの中に神を喜ばせるものが大いにあることに何の不思議があるだろうか? そして、もしあなたが神を喜ばせるためになすべき大いなるわざは何ですかと尋ねるなら、私たちは何棟もの私設救貧院を建てよとか、孤児院に寄付せよとか、自分のからだを焼かれるために引き渡せなどとは云わない。イエス・キリストを信ずるがいい。そうすれば、あなたはこうしたすべてを合わせたよりも大きなことを行なったのである。

 III. さて今、信仰がこれほど大きなことである第三の理由はこのことである。――《イエス・キリストを信じる信仰は、神のために働いているという試金石である》。というのも、これまでにあったいかなるわざも、イエス・キリストを信じる信仰がなければ、全く神のためのわざではないからである。

 私の云いたいことを説明させ、証明させてほしい。かりに、ある人がこう云ったとしよう。「ですが私はこの偉大な神のために生き、その神のために働くつもりでいますよ」。信仰がなければ、このわざの精神は間違っている。愛する方々。かりにあなたが私にこう云ったとしよう。「私はあなたのために生き、私の人生をあなたへの奉仕のために費やしましょう。ですが、あなたの云うことを信じるつもりはありませんよ」。私たちの間にある不一致の点は、あなたを私に対して全く役立たずにしてしまうか、あなたが行なうどんなことも私にとって無価値にしてしまうであろう。まず初めにあなたは私を嘘つきと呼び、それから私に仕えると云うのである。福音を聞いたことのあるあなたがたの中の多くの人々は、ことによると、キリストを一度も信じたことがなくとも、自分は神に仕えていると考えているかもしれない。だが、私は云うが、あなたの最上の行動も白塗りの罪でしかない。あなたの行なうすべてのことには、真にすぐれた部分が欠けているに違いない。なぜなら、あなたは神を嘘つきにすることから始めているからである。それは厳しい言葉だとあなたは云うであろう。だが、それもやむをえまい。それがヨハネの言葉なのである。聖書の人物中、最も優しい心の持ち主ヨハネがそう云うのである。「神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神の御子を信じないからです」*[Iヨハ5:10]。もしあなたが神を嘘つき呼ばわりすることから始めるとしたら、私はあなたがその後で何をしようとどうでも良い。私はあなたが不道徳であるよりは道徳的であってほしいとずっと思うし、酔いどれであるよりは素面でいてほしい。だが、結局、もしあなたが神を嘘つき呼ばわりし続ける限り、いずれの場合も、あなたは失われるであろう。あなたのいかなる聖潔も、もしあなたがイエスを信じようとしないのであれば、にせものであろう。「神が遣わしたイエス・キリストを信じること」*、――それが、神のための真のわざの試金石である。

 信仰がなければ、わざの目当ては達せられない。「しかし」、と別の人が叫ぶであろう。「私は、自分が神の賞を受けるに足りると信じます。私は自分をかなり正しく保ってきましたし、多くの善良な行ないを果たしてました」。そうしたすべてをあなたは何のために行なってきたのだろうか? 「私は、私が救われるために働いてきました」、とある人は云うであろう。言葉を換えると、あなたは自分自身のために働いてきたのである。ならば、自分で自分に報酬を払うがいい! 自分のことが最初であり、最後なのである。あなたの働きは徹頭徹尾、利己主義である。あなたが善良になろうとしてきたのは、それによって天国に行くためである。それは卑しい、乞食めいた生き方で、自分のことで終始している! あなたが心を尽くして愛さなくてはならないあなたの《造り主》をあなたは全く愛してこなかった。単にあなたは自分を救おうとして、浅ましくもこのお方を愛するふりをしてきたのである。あなたがいだいていたのは、一種の欲得ずくの愛情であり、驢馬や牛が穀物の大箱や牛舎に対していだくような愛であって、本物の愛情では全くない。いかにしてあなたに、高潔な行為など果たせるだろうか? 自己があなたの専制的な君主となっているというのに。あなたがかつてイエス・キリストを信じたことがあるなら、あなたは救われており、それ以後のあなたは主の御名の栄光を現わすために生きる。主があなたの中に作り出してくださったものを達成し、主のみこころのままを志し、事を行なうために生きる[ピリ2:12-13]。だが、信仰によって救われるのでなければ、自己が必然的にあなたの第一の考えである。誰も自己を目標としている限りは美徳を行なうことができない。そして、あらゆる人は、救われるまで自己を自分の目標とするに違いない。その人が救われたとき、その人はより高貴な大気へと完全に上り、そのときその人のわざは神に受けられられるものとなる。あなたも分からないだろうか? 少なくとも自分を義とする思いから脱して、キリストを信ずることによって救われない限り、神のための真の働きなど全く行ない始めることはできないはずである。その点に至るまで、すべては自分自身のための働きであろう。そしてそれは、情けないほどにあわれなことであって、いと高き神を喜ばせることはできない。

 愛する方々。イエス・キリストを信ずる信仰によって生きることは、あなたが神のために行なう一切のわざの真摯さを示す証拠である。というのも、あなた自身の高慢が最高の地位を占めている限り、神に対する真の働きなど少しでもありえるだろうか? 神はあなたに、あなたの最高の働きも不完全であり、あなたを救うことはないと告げ、あなたが罪人であるがゆえに、ご自分の愛する御子を十字架にかけてあなたを救ってくださる。だのにあなたは、十字架からそっぽを向いて、こう云う。「私自身の功績は十分良いものです」。それからあなたは、その後で、神に仕えることについてなど語る! 神は、あなたがご自分の御子を拒絶し、ご自分を侮辱した後で、あなたの手から何かを受け取ることなどおできになるだろうか? あなたは、あなた自身の嫌悪すべき義を手に取っているとき、神の逆鱗に触れているのである。あなたの義など、神の御目においては汚染した襤褸屑の山、忌まわしい汚穢の塊でしかないのに、あなたはそれを神のひとり子の血と義にまさって好んでいるのである。これほど極悪非道な犯罪の後で、いかにしてあなたは神に奉仕するなどということについて語るのだろうか? 恐れながら、それは不可能である。あなたの心の底には偽りがある。それを取り除くがいい。いかにしてあなたは、自らの高慢がこのように主を怒らせているというのに主に仕えることなどできるだろうか? 主は、あなたがご自分の御子の前にひれ伏し、御子に信頼するようあなたに告げておられる。だが、あなたの答えはこうである。「いいえ。私は何かを感じるか、何かを行なうかしなくてはなりません」。これは、こう云っているも同然である。「私は、私なりのやりかたで救われるのだ」。あなたは、このような邪悪な「私は……こうするのだ」といった言葉で神を平然とはねつけた後で、神に仕えることについて語るのである。かりに、あなたの家族の誰かがあなたに云われたことをしようとしないとする。その人は図々しくもあなたを無視している。その人は、俺には俺のやり方があるんだと云う。その後でその人は庭に行って一輪の花を積み、それをあなたの元に持ってきては、その贈り物があなたを喜ばせると期待するのである。何だと? あなたに逆らっている手によってである! わがまま放題で、癇癪を起こし、かんかんになった状態にありながらである! その人は、そのような愚にもつかないもので、あなたが喜ぶと思っているのだろうか? あなたは云うであろう。「いいや。息子よ。そのようなことはありえない。お前はまず自分の父親の前にひれ伏して、自分が悪いことをしたと認めなくてはならない」。その子は口をとがらして、あんたになんか絶対に従うもんかと云い、それから、あなたに口づけしてくださいと云うであろう。その子は父親の口づけを受けるだろうか? 決してそのようなことはない。まず、その子が屈伏しない限りありえない。それこそ、神を求める多くの人々の状態にほかならない。その人は心の中によこしまな高慢と、反逆的な意志をいだいている。そして、もしその人がイエスを信じようとするなら、それはその人の高慢と反逆が打ち捨てられた証拠となるであろう。だが、もしその人が屈することも、信頼することもしようとしなければ、神から救っていただくことも期待できないであろう。

 IV. 私が第四のこととして云いたいのは、神を信ずる信仰が最も幸いで、受け入れられるのは、《それが他のあらゆる祝福の証印である》からである。

 神を信じる信仰が――まず最初に――私たちの選びの証印であることに注意するがいい。37節を読んでみてほしい。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます」。さて、もしあなたがキリストのもとに来るなら、愛する方々。あなたは御父が主にお与えになった者なのである。あなたは、主の選びの民のひとりである。おゝ、これは何という祝福であろう。選びの教理は、それにあずかっているすべての人にとって豊かな慰めに満ちており、選びそのものは、あらゆる恩顧の中で最大のものである。「しかし、いかにすれば私は自分が神の選民のひとりであると分かるのでしょうか?」 この証しによってである。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます」。選ばれたあらゆる魂は、成年に達するとイエス・キリストを信ずるように導かれる。そして、あなたがイエス・キリストを信ずるように導かれるのと全く同じくらい確かに、あなたは自分が永遠のいのちに予定されていることを絶対に確信することができる。

 次のこととして、信仰は私たちの有効召命に証印を押す。もう少し下の方に目を向けると、こう書いてある。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」[6:44]。これはキリストが語られた通りのことばであり、それが示すところ、キリストのもとにやって来るあらゆる人は御父によって引き寄せられたに違いないのである。すなわち、有効召命が、その天来の力をその人に及ぼしたのである。いったん自分がイエス・キリストを信ずる信仰を有していると確信した後ならば、誰も、「私は御父によって引き寄せられたのでしょうか?」、と云う必要はない。というのも、それが天から与えられなかったとしたら、あなたは決してイエス・キリストを信ずることはできなかっただろうからである。この44節はきわめて明白である。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」。あなたは主のもとに来ている。それゆえ、御父があなたを引き寄せてくださったに違いない。

 信仰が私たちに確信させる次のことは、最終的堅忍である。47節を読むがいい。――「信じる者は永遠のいのちを持ちます」。あなたは、「私は永遠のいのちを受けているだろうか?」、という問題を提起する必要はない。まずこの問題を提起するがいい。「私はイエス・キリストを信じているだろうか? 信じているとしたら、私には永遠のいのちがあるのだ」。ただのいのちではない。よく注意するがいい。四半期の終わりになると期限が切れて、また新たに切符を買うことになるようないのちではない。――あなたを老年までは保つが、その後であなたを見捨てて誘惑と死に引き渡すようないのちではない。しかり。「信じる者は永遠のいのちを持ちます」。ここにおいて、信ずる者には最終的堅忍が保証されている。イエスはこう云われなかっただろうか? 「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」[ヨハ10:28]。私たちはこう告げられていないだろうか? キリストを信ずる者のうちには、「永遠のいのちへの水がわき出」[ヨハ4:14]る泉がある、と。あるいは、キリストがまさに本章で云い表わしておられるように、その人は「決して飢えることがなく、……決して渇くことがありません」[ヨハ6:35]。

 これは、信仰が私たちにもたらす非常に大きなものである。だが、それですべてではない。というのも、ここでは、その二、三倍も大きなことが告げられているからである。すなわち、キリストを信じる者は誰でも終わりの日にはよみがえらされるのだ、と。それで、信仰は復活を保証するのである。39節および49節を読むがいい。「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです」。いかにして私は、自分がほむべき復活を得ることになると分かるだろうか? いかにして私は、虫けらがこのからだをむさぼり食っても、キリストが終わりの日に地上にお立ちになるとき、自分の肉から神を見る[ヨブ19:26]と確信できるだろうか? 私はそのことを全く確信できる。なぜなら神が遣わされたイエス・キリストを私が信じているからである。

 愛する方々。信仰はこの権利証書の末尾に押された証印であり、それを有する人に対して、時と永遠にかかる一切のことを保証している。もしあなたが信仰者だとしたら、摂理の一切の車輪はあなたのために回転している。もしあなたが信仰者だとしたら、御使いたちの全員はその翼をあなたのために広げている。もしあなたが信仰者だとしたら、いのちはあなたのものであり、いのちを閉ざすように見える死は、単にもう1つの、より輝かしい部屋の扉を開くために任命された玄関番にすぎない。もしあなたが信仰者だとしたら、神ご自身があなたのものであり、その御子キリストがあなたのものである。もしあなたが信じるとしたら、天国は、あなたの目が見たこともないような、また、あなたの心が思い描いたこともないような、その永遠と無限の喜びとともに、あなたのものである。自分の神を信じ、自分の《贖い主》に信頼する人には、何物も差し止められない。おゝ、主が信仰をあなたがた全員に与えてくださればどんなに良いことか。「悲しいかな」、とあなたは云うであろう。「私は正しい感じがしていません」。あなたの感情など気にすることはない。キリストに信頼するがいい。「おゝ、ですが私はひどい罪人なのです」。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」[Iテモ1:15]。「悲しいかな、ですが私は以前も試したことがあるのです」。あなたの以前の試しなど放り投げるがいい。試すのはやめて、完成されたみわざを受け入れるがいい。いまイエスに信頼するがいい。「あなたは、もし私が自分自身をキリストにゆだねれば、私がこの会衆席に座ったままでも救われると云うのですか?」 まさにそう私は云っているのである。あなたがどのような人であれ、今晩イエスを仰ぎ見て、救われるがいい。

 もしあなたが自分にこだわることをやめて、あなたの魂をイエスの御手に――ご自分の上で自らを安らがせる者をお救いになると誓われたお方の御手に――ゆだねるとしたら、あなたは救われる。おゝ、この福音を何度も聞いたことのある人々が今、初めてそれを理解し、こう云うとしたらどんなに良いことか。「結局、これがあらゆるわざの中でも最も大いなるわざなのか。――私が神の遣わされたイエス・キリストを本当に信ずることが。主よ。信じます。不信仰な私をお助けください。そして、いま私を救ってください」。おゝ、神よ。多くの人を助けてください。そして、この瞬間に信仰の祈りを囁かせてください。イエスのゆえに。アーメン。

 

重要な問いかけに対する平明な答え[了]

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