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覚醒させられた精神の切迫した問い

NO. 1520

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「主よ。あなたはどなたですか。……あなたは私が何をすることをお望みですか」。――使9:5、6 <英欽定訳>


 パウロは、真昼の太陽よりも明るい光の輝きに圧倒され、地に倒れ伏した。そして、そこに横たわりながら叫んだ。「主よ。あなたはどなたですか?」 最初の問いへの答えを受けた後で、彼は謙遜にもう1つ問いを発した。「主よ。あなたは私が何をすることをお望みですか?」

 私は今朝、自分の全力を使い果たしてしまい、今晩のための余力がほとんど残らなかった。だが、その主題はいかなる疲労困憊にも値するだけのものであった。私が努めて示そうとしたのは、私たちが子どもたちのようになって天の御国を受けなければ、いかにしても決してそこに入ることはできない、ということであった。私は、できるものなら、その主題に一種の実際的な末尾をつけ加えたかった。そうした子どものような霊を、より詳細に説明することになるような部分である。それは、回心においてやって来るものであり、心に及ぼされた神の御霊のみわざの最初の目印また結果の1つである。この、子どものような霊の実例として、何よりもすぐれているのは、いま私たちが前にしている事例にほかならない。

 パウロは有力者であり、疑いもなくダマスコに向かう途上では非常に傲然としていたことであろう。彼はまことに、自分が神に奉仕しているものと考えていた。彼はパリサイ人の中のパリサイ人であり、自分の人格を非常に高く評価していた。また、今や大祭司からの書状を携えていたのである。これほど大きな権力のお墨付きがある自分は、並みの人間ではないと彼は感じていた。ダマスコにいる、あのあわれなキリスト者どもに、目にもの見せてくれるわ! 彼は、彼らを苦しめてその狂信を捨てさせるつもりだった。タルソのサウロがナザレのイエスよりも大物であることを思い知らせるつもりだった。しかし、主がこの男を一変させるにはほんの数秒で事足りた。いかにたちまち主が彼を引き落とされたことか! イエス・キリストご自身の天からの現われによって、たちまちこの大立者は小さな子どもへと弱められた。というのも、いま私たちの前にある2つの問いは、この上もなく子どもっぽいものだからである。彼は、聖なる好奇心によって、こう尋ねている。「主よ。あなたはどなたですか?」 それから彼は無条件降伏して叫んでいる。「あなたは私が何をすることをお望みですか?」 あたかも、こう叫んでいるかのようである。「私は武器を捨てます。『子どものように神の国を受け入れ』[マコ10:15]ます。屈伏して、あなたのしもべとなります。私が願うのは、ただ自分が何をすべきかを教えられることです。そうすれば、何なりと行ないます。あなたは私を征服されました。愛する方よ。あなたの足元に私は身を伏します。ただ私を引き起こし、あなたに仕えることを何かお示しください。喜んでお引き受けいたしますから」。こうした霊に至らない限り、私たちは誰ひとり救われることはできない。私たちは、イエスを知りたいと願うようなしかたで、イエスについて考えるようにならなくてはならない。それから、イエスを畏敬し、あらゆることにおいてそのみこころに喜んで従おうとするようにならなくてはならない。この2つの点について私は今晩、ある程度手短に語りたいと思う。

 私たちが第一に考えたいのは、自分の主を知りたいと欲する熱心な探求者についてであり、第二に、指示を要請している従順な弟子についてとなるであろう。

 I. まず第一に、もし私たちの中の誰かが救われたいと欲するなら、その人は天来の恵みに導かれて、《キリストを知ることを求める熱心な探求者》とならなくてはならない。その人はこう問いを発さなくてはならない。「主よ。あなたはどなたですか?」

 彼が進んで教えられようとしていることに注意するがいい。彼は地に伏し、キリストは彼の上におられた。そこで彼は主に問いを発している。彼は進んで学ぼうとしているだけでなく、熱心に教えられようとしている。「主よ。あなたはどなたですか?」、は彼の魂の内奥から出た言葉である。彼は知ることを欲している。では、話をお聞きの方々。あなたは知ることを欲しているだろうか? 世界中で、あなたが救われるべき名は1つしか与えられていない[使4:12]。その名を有するお方について、何か知りたいと願わないだろうか? あなたは、魂の問題については全く無関心で、自分の不滅の魂がどうなろうと無頓着なのだろうか? イエスが死んだことは、あなたにとってどうでも良いことだろうか? あなたはイエスの十字架の前を、それが市場十字ででもあるかのように通り過ぎるだろうか? イエスの死について聞いても、さながらそれが、一度読んでも忘れてしまう、歴史上ありふれた出来事の何かであるかのようにみなすだろうか? ぜひそうではないように願いたい。むしろ、あなたが永遠に失われるか、永遠に救われるかのいずれかでしかない以上、ここに来て、深い懸念とともに問うがいい。「主よ。あなたはどなたですか? あなたによらなくては私が救われないというあなたはどなたですか? 何の権利、何の力があるために、あなたは救うことがおできになるのですか? 私の信仰を要求するいかなる資格をお持ちなのですか? おゝ、教えてください。それを知りたいと私切に願っているのですから」。考えが足りないために人類の半数は滅んでいる。もし人々が、真理を理解しようと切望していたなら、彼らはすぐにそれを学んで、受け入れるであろう。もし彼らが、あのベレヤ人のように聖書を調べ真理を見いだそうとするなら[使17:11]、あるいは、ルデヤのように彼らの心が開かれてそれを受け入れるなら[使16:14]、彼らはすぐに主を知ることであろう。パウロのように、私たちは進んで学ぼうとしなくてはならない。

 また次に、彼が教えを受けたいと願った主題に着目するがいい。「主よ。あなたはどなたですか?」 もしもあなたが、キリストは《救い主》であると聞いたことがあるなら、あなたの大望を、キリストについてのすべてを知ることとするがいい。私はあなたに1つのことを告げよう。地上にいる聖徒たちは、また、天国にいる聖徒たちでさえ、常にこの問いに対するより十分な答えを欲しているのである。――「主よ。あなたはどなたですか?」 主を最も良く知っている者たちは、あなたに告げるであろう。主には、自分たちのあらゆる知識をさらに上回るものがある、と。そして私が思うに、私たちが顔と顔を合わせて主を見るときでさえ、主の比類なき愛の中には、1つの神秘が残り、主の天来のご人格の中には測り知りがたい深淵、そのときでさえ私たちが潜ることのできない深淵が残ることであろう。「主よ。あなたはどなたですか?」、は救いを求めている魂の問いとなって良い。それは、救いを見いだした者たちの問いでもあり続けているからである。

 「主よ。あなたはどなたですか?」 あなたのご人格はいかなるものですか? あなたのご性質はいかなるものですか? いかにしてあなたは救うことがおできになるのですか? よく学ぶがいい。このお方が神でありながら、それでも人であられることを。マリヤの子でありながら、それでも神の御子であられることを。この方は人であり、あなたの兄弟であり、あなたの弱さを思いやることができるが、それでも永遠の、無限の神であり、すべての権威と威光に満ちた、確かに神聖な神であられる。救われたいと思うなら、このことを学び、主イエス・キリストを万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神[ロマ9:5]とみなしつつも、仕える者の姿[ピリ2:7]をまとい、罪深い肉と同じような形[ロマ8:3]とされたお方とみなすがいい。

 「主よ。あなたはどなたですか?」 あなたの職務はいかなるものですか? もし私の目であなたを見ることができたとしたら、私はあなたに問うでしょう。いかなる称号をあなたは帯びておられますか? いかなる職務を保持しておられますか? 主は預言者であられる。あなたは主によって教えを受け、主の教えを信じなくてはならない。主は祭司であられる。あなたは主の血によって洗われなくてはならず、主はあなたのためのいけにえをささげなくてはならない。否、むしろ、主はそれをすでにおささげになったのであり、あなたはそれを自分のためのものであると受け入れなくてはならない。主は《王》であられ、もしあなたが主によって救われたければ、主があなたを支配することを許さなくてはならない。あなたは自分を主に明け渡し、主の臣下となり、主の十字架を取り、主の負いやすいくびき[マタ11:30]を負わなくてはならない。それは、首にとって重荷にはならない。預言者、祭司、王、そして他の一千もの職務を主は保持しておられる。問うがいい。あなたがた、渇仰する罪人たち。問うがいい。「主よ。あなたはどなたですか?」、と。あなたが、自分にとって、まさに当てはまるものを見いだすまで問うがいい。そのとき、あなたの信仰がそれを照らし出し、あなたの心はこう叫ぶであろう。「まことに主は、私の救いと願い」*[IIサム23:5]であられる、と。

 「主よ。あなたはどなたですか?」 これは、主がいかなる関係を有しておられるかについて、あなたが発して良い問いである。主はいかなるお方だろうか? 《いと高き方の子》[ルカ1:32]でありながら、最も卑しい者の兄弟でもあられる。主はいかなるお方だろうか? 御使いたちの王であり、《王の王》でありながら、しかし罪人たちの友、また、ご自分のもとに来る最も低い者の助け手でもあられる。主は教会にとって一切のものの上に立つかしら[エペ1:22]であられる。ご自分の教会の夫であり、この世の支配者、摂理の主人、天の主権者、ハデスそのものの征服者であられる。すべての権威は主の御手の中にある。御父は主にそれをまかせておられ、いま主は私たちに対してこのような関係にあられる。すなわち、もし私たちが主を信ずるなら、主は私たちに永遠のいのちを与え、私たちを一切の悪から守ってくださる。主はこう仰せられたからである。「わたしはわたしの羊に永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」*[ヨハ10:28]。おゝ、話をお聞きの愛する方々。もしあなたが救われたければ、この問いを深く調べるがいい。「主よ。あなたはどなたですか?」 そして、キリストを知り、キリストに知っていただくまで――あなたと主ご自身とが互いに知り合うまで――満足してはならない。というのも、そうでなくては、あなたは救われることができないからである。知られざるキリストは、あなたにとって何のキリストでもない。あなたが知っていない《救い主》は、やがてその現われの日にあなたのことなど全く知らないと仰せになる《救い主》である。

 「主よ。あなたはどなたですか?」 さて、キリストに関するこの問いは、すでに述べてきたように、私たち全員によって発されるべきだが、決して思弁的な問いではない。これは、万人にとって、きわめて実際的な重要性を有する問いであり、この問いに対する答えを知っている程度に応じて、人はその実際的な結果を受け取ることになる。これを聞き、それを受けるがいい。「主よ。あなたはどなたですか?」 この問いへの答えとして受けとる最初の結果は何になるだろうか?

 何と、パウロは、自分に向かって太陽よりも輝く御顔を向けているお方がナザレのイエスであると知ったとき、可能な限り最も深い悔恨の念にとらわれた。「何と!」、と彼は云っているかに思われる。「私は主を迫害してきたのか? あのあわれな人々を狩り立てていたとき、私はメシヤを狩り立てていたのか? 私は神のキリストに敵対していたのか?」 以前はそうと知らなかったが、主がどなたであるかを知ったとき、彼の心は彼の内側で深い罪意識に打ち砕かれた。さて、ここへ来るがいい。あなたがたの中のある人たち。あなたは何年もの間、真のキリスト教信仰に文句をつけ、それを軽蔑しながら生きてきた。だが、あなたは自分が神の御子なるイエス・キリストを拒絶し、神の《愛する方》を――愛ゆえに身をへりくだらせて、この世に来られ、苦しんでくださったお方を――軽蔑していたのだと考えたことはあるだろうか? 人々がイエスを殺したとき、イエスは、わが国の甘やかな詩人が云い表わしているように、――「愛の過多ゆえ 有罪(さばき)を受け」たのである。それが、主を訴えるべき唯一の罪状であった。だが、愛の過多ゆえ主は死なれた。だのに、あなたは主を拒絶してきたのである。あなたは今、この二十有余年の間、かの茨を戴いた頭を拒絶してきた。あのむごたらしく切り裂かれた額、あの傷ついた御手、あの深手を負った御脇を拒絶してきた。あなたが拒絶してきたのは、比類なき《救い主》、この方なしにはあなたが永遠に破滅するお方なのである! あなたはこのことを知っていただろうか? 故意にそうしてきたのだろうか? 私はあなたがこう答えることができればと思う。それは「信じていないときに知らないでしたこと」[Iテモ1:13]です、と。それゆえ、主はあなたの悪いふるまいを見過ごしにしてきたし、今あなたに向かって、ご自分のもとに来るよう命じておられる。そして、喜んであなたを迎え入れてくださる。主は決してあなたをお捨てにならない[ヨハ6:37]。

 こういうわけで、キリストを知ることが実際的な知識だというのは、それが悔い改めに導くからである。キリストが知られていないとき、私たちはキリストを拒絶し続け、迫害しさえする。だが、自分の拒絶し迫害してきたお方が神の御子であり、血を流し給う《小羊》であると明確に悟るとき、私たちの心は溶けてしまう。私たちは主の赦しを乞い求め、主の足元に身を投げ出す。

 二番目の実際的な結果は、そのとき私たちの希望が励まされるということである。というのもパウロは、主イエスの姿を見て悲痛な苦悶に満たされたに違いないが、同じ光景によってこそ、後に元気づけられ、慰められたからである。何と! あなたは太陽よりも輝く天におられるのですか? あなたが私の迫害してきたナザレの人なのですか? あなたが拒絶され、蔑まれてきたお方なのですか? おゝ、燦然と輝いているお方よ。あなたが、取税人や遊女たちの近寄っていたのと同じキリストなのですか? あなたが、失われた人を捜して救うために[ルカ19:10]来られたお方なのですか? あなたが、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、高く上げられた[使5:31]お方なのですか? ならば、私にも望みがある。天におられるのは罪人のキリストなのだ。幼子たちを抱きかかえ、「彼らをわたしのところに来させなさい」*[マコ10:14]、と云われたのと同じお方なのだ。おゝ、ならば、私はこの方を信頼しよう。私はそうして良いし、そうできるし、そうしなくてはならないと感ずる。私はこの方に自分を明け渡そう。今やこの方を知っているのだから。以前の私は知らなかった。この知識の何と実際的なことか!

 また、これはパウロに別の影響も及ぼした。これによって彼は完全な服従へと至らされた。彼は云った。「私が拒絶していたこのキリストは、万物の主ではないだろうか? ならば実際、とげのついた棒[使26:14]を蹴るのは、私にとって痛いことだ。私はもはやそうすまい。このお方に抵抗する? そのようなことができるものか! 一切の権威がこの方の御手の中にあるとしたら、この方に反抗するのはよこしまであるばかりか、まるで見込みのないことだ。さあ、私は無条件降伏します。おゝ、主イエスよ。私の王となってください。私をあなたの臣下として受け入れてください。もはやあなたに反抗などいたしません」。私がいま切に願うのは、イエスがこの場にいるある人々に――以前は全くご自分を知らなかった人々に――ご自分を知らせてくださること、また、そうした人々が今まさにこの時、イエスにご自分を明け渡すようになることである。なぜなら、もし彼らがいったん主を知ったならば、それは主への奉仕において彼らを熱烈に奮い立たせるであろうからである。これまでに、キリストを本当に知った人の中で、キリストが内なる炎でお満たしにならなかった人、また、それゆえにキリストのために生きて、死ぬことができると感じなかった人はひとりもいない。人間たちの中でも、何人かの指導者は、自分の軍隊に対して途方もない影響力を振るい、いのちがけの命令を下しても、朗らかに従わせることができたものであった。神のキリストは、ご自分を知る者たち全員の心に最高の力を振るわれる。見るがいい。パウロが主の影響をいかに感じたか、また、キリストの失われた者たちをかちとるため、いかに世界中を捜し回ったかを。盗賊の難、川の難、大海そのもの、鞭打ち、石打ち、こうしたすべて[IIコリ11:25-27]は、キリストを知った日以来、使徒にとっては何ほどのことでもなかった。彼は、この上もなく激しくキリストに反抗していたが、今やキリストのための熱心に燃え、その炎を噴き上げている。そして、イエスを知る者すべてが、それと同じになるであろう。ならば、まさにこの問いは実際的である。「主よ。あなたはどなたですか?」 おゝ、神の御霊があらゆる人に自分自身のこととしてこの問いを発させてくださるように。

 もう一言だけ語って、この問いから離れることにしよう。それは、このことである。パウロは、進んで学ぼうとしており、彼の主題は重要なものであった。というのも、彼はキリストについて学びたいと願っていたからである。また、それはこの上もなく実際的な主題であった。というのも、それは彼をあらゆる良いものへと動かしたからである。だが、その一方で述べておくに値することは、彼が考えられる限り最高の《師》に教えを乞うたということである。というのも、私の兄弟たち。キリスト以外の誰が私たちに、キリストがいかなる方であるかを告げることができるだろうか? ここにはキリストの書がある。それを読むがいい。ここには姿見がある。キリストは向こうにいて、この書をのぞき込んでおられる。そして、もしあなたがよく洗った目でこの書をのぞき込むなら、あなたはこの鏡の中に反射した主の心像を見てとれるであろう。それが、せいぜい、いかにぼんやり映るもの[Iコリ13:12]であっても関係ない。また、あなたが主に仕える忠実なしもべたちの説教を聞いているときも同じように、あなたはキリストの何がしかを見てとれよう。だが、あなたに云わせてほしい。いかなるキリストの光景にもまさるのは、聖霊によって個人的にあなた自身の魂のもとにやって来られるキリストの姿にほかならない。私は決して、私たちの間にいる誰かが、地上にいる間にこの目でキリストを見てとることになると云っているのではない。たといそうしたとしても、それは私たちにとって善を施さないかもしれない。というのも、何千人もの人が主を見ていたが、それにもかかわらず、「十字架につけろ」[マコ15:13]、と叫んだからである。むしろ私が意味しているのは、この目の内側には目があり、心の目、魂の目があり、それに対してキリストはご自分を明らかに示してくださるに違いない、ということである。そして私は、これまで一度も主を見たことがないと云うあなたに命ずる。膝まずいて、「私にあなたをお示しください」、と叫ぶがいい。あなたは、主と個人的に接さなくてはならない。各人がひとりずつそうしなくてはならない。そして、あなたはそのように個人的に接することができる。主は今晩、近づきつつあられる。主は、あなたが主を求めるなら、すぐさまあなたを受け入れてくださる。主はご自分のもとに来る者を捨てないと宣言しておられる[ヨハ6:37]。おゝ、あなたは主に、ご自分を私に現わしてくださいと願わないだろうか? もし主があなたを拒絶するだろうとあなたが知っているとしたら、その祈りを免除されても良いであろう。だが、主があらゆる悔いた、心へりくだった、求める魂にご自分を現わしてくださる以上、あなたは主を求めないだろうか? 今しも主に向かって謙遜にこの問いを差し出さないだろうか? 「主よ。あなたはどなたですか?」 あなたを私に現わしてください。あなたはご自分を、世には現わさなくとも、求める魂には現わしてくださるのですから[ヨハ14:22]。

 ここまででその問いについては終わりとし、二番目の問いに目を向けよう。願わくは聖霊がそれを扱う際に私たちを助けてくださるように。

 II. 私たちが常にあなたに告げているように、主イエス・キリストを信ずる者は誰でも永遠のいのちを持つ。それが福音の根本教理である。だが、思い起こすがいい。私たちは決してあなたに、主イエス・キリストを信ずるなら、それからは自分勝手に生きていって良いと告げたことはない。とんでもない。真にキリストを信ずる者は、キリストがお命じになる通りに行ない、それ以後は、キリストに救われた者であると同時に、キリストのしもべ、また、キリストの弟子となる。それゆえにこの問いが来るのである。「主よ。あなたは私が何をすることをお望みですか?」

 あなたも注意するであろうように、使徒はここで、命令を待つ兵士の立場に自分を置いている。彼は、上官の命令を受けるまでぴくりとも動こうとしない。「主よ。あなたは私が何をすることをお望みですか?」 彼はいつなりともそうしようと立っている。だが、その命令が何かを知る必要がある。それで、上を見上げては、こう祈るのである。「主よ。ご指示ください。あなたは私が何をすることをお望みでしょうか?」 彼がいま行なおうとしているのは、主のみこころだけである。「主よ。あなたは私が何をすることをお望みですか?」 以前には、こうであった。「モーセは私が何をすることを望むだろうか?」 また、この場にいるある人々にとっては、こうであった。「私は何をしたいだろうか?」 というのも、そうした人々は自分の望む通りのことを行ない、いかなる新しい快楽があろうと、それがいかに罪深いものであれ、自分の手の届くところにあれば貪欲にそれを追求してきたからである。だが、救われたいと望む人は、自分自身の意志を自分の主に明け渡さなくてはならない。さて、愛する方々。気をつけて、キリストがあなたの《主人》となり、他の誰もそうならないようにするがいい。「教会は私が何をすることを望むだろうか?」、と云おうと、決して全く何にもならないであろう。教会がキリストの教えたことを教えている限りは、教会に従うがいい。だが、それ以上はいけない。「使徒は私が何をすることを望むだろうか?」、と云うことさえ正しくないであろう。パウロはこう云った。「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください」[Iコリ11:1]。しかし、もしパウロがキリストを見習っていないとしたら、私たちはパウロを見習ってはならない。彼は云う。「私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」[ガラ1:8]。そう事を定めるがいい。あるキリスト者が、現存する定命の人を、あるいは、今や天国にいる誰かをさえ自分の導き手や師とするとき、それはそうした人々の基準が悲しいほどに低下しているしるしだと思う。「あなたがたの師はただひとり、キリストだからです」[マタ23:10]。そこで、あなたの問いはこうあるべきである。「主よ。あなたは私が何をすることをお望みですか? 私は《祈祷書》が私に何をせよと云っているか分かっています。学識者や敬虔な人々が私に何をせよと云っているか分かっています。ですが、こうした事がらは私の良心の上に何の権威も持っていません。主よ。あなたは私が何をすることをお望みですか? あなたのみこころ、あなたのおことばでない限り、そこには何の光もありえないことを私は知っています。ですが、私の知らないことをお教えください」。

 それから、使徒のこの子どもらしい従順さが個人的なものであることを見てとるがいい。それはこうである。「主よ。あなたは私が何をすることをお望みですか? 私は私の隣人とはほとんど何の関わり合いもありません。彼らには彼らの義務があり、彼らの使命があります。ですが、主よ。あなたは私が何をすることをお望みですか? 他の人々は彼らの有する光に従わなくてはなりません。ですが、主よ。あなたは私が何を行なうことをお望みですか? 私の父や、兄弟や、友人について、私には彼らを裁く何の権利もありません。彼らが立つのも倒れるのも、その《主人》の心次第です[ロマ14:4]。ですが、主よ。あなたは私が何をすることをお望みですか?」 あなたがた、キリストのもとに来るとき自分自身の無力さを見つめている人たちは、個人的な信仰をもって、みこころを行なうための力を懇願しながら、キリストのもとに来なくてはならない。あなたはキリストに個人的な服従を引き渡さなくてはならない。たといそれがあなたの家族全員からあなたを引き離すことであってもそうである。最も近親の絆をも分離させるがいい。あなたの以前の友人たちからつまはじきにされるがいい。死に至るような迫害を受けるがいい。あなたは、こうした結果とは何の関係もない。あなたの務めはこう云うことである。「あなたが私に何をするようお望みかをお示しください。そうすれば、私はそれを行ないます」。私は、私自身の経歴の中にある小さな一事件に言及しよう。そのことについて、私は常に神に感謝すべき十分な理由がある。私が相当長い期間にわたる悲痛な霊の苦悶の後で、神に回心したとき、私は安息を見いだした。そして、キリストのうちに安息を見いだしたとき私が真っ先に行なったことは、自分ひとりで新約聖書を読み、主が私に何をすることをお望みか見てとることであった。私は神のことばの中に、信仰者のバプテスマという義務を見いだした。私は、それまでの一生の間、自分ひとりでこの真理を発見するまで、いかなるバプテスト派の友人たちとも出会ったことが全くなかった。私は彼らの存在すら聞いたことがなかった。それほど彼らは、その件に関する彼らの見解の伝播について怠慢だったのである。しかし、自分のギリシヤ語辞書を片手に新約聖書を手に取り、この言葉が何を意味しているかを見てとろうとしたとき、私は、バプテスマを施すという言葉が水に浸すという意味であることを見いだした。聖書を読むとき、私は至る所で信仰者たちが水に浸されていたことを見いだした。私は最初、こうした意見をいだいている別の人の存在を知らなかったが、私の考えは毛頭変わりはしなかった。私が恐れたのはただ、自分にバプテスマを授けてくれる人を誰も見いだすことができないのではないかということだったが、私はその義務に何とかして従うつもりであった。後に私は、多くの人々がすでに聖書を調べて私と同じ結論に達していたことを発見した。だが、そのときの私にとって、それは自分の知っているキリスト者である人々全員と袂を分かつことのように思われた。私はその一歩を悔やんだだろうか? 否。大したことではないと一部の人々は思うかもしれないが、それは私の霊といのちのすべてに、1つの基調をもたらし、そのことについて私は神に感謝すべき理由がある。私は、自分ひとりで聖書を読んだ上で、自主的にものを考える者となっていた。私は、私の主また《主人》に従ってわが道を行くことにした。そして、その日から私は、自分の知る限り一度も、教理においてであれ戒めにおいてであれ、意図的に主の掟からそれたことはなく、自分の学んだ通りの信仰を教えてきた。夜に私が自分の私室に行くとき、告白しなくてはならない不完全さは一千もあろうと、私は、自分が正直かつ真実に自分の《主人》に従ってきたと感じることができる。もし私が過ちを犯したとしたら、それは光の不足のためであって、主に仕えたい意志の不足のためではななかった。だが、もし私がその最初の確信を放り出していたとしたら、また、もし私が自分の良心において最初に小さな切り傷をいくつかつけていたとしたら、私は今晩あなたがたみなの前に立って、こう宣言することができただろうか? 私は、ひるむことなく、神のご計画の全体[使20:27]を行なうことと、知らせることの双方をしてきた、と。私は、あらゆる青年に命ずる。キリストを信じるや否や、聖書を自分ひとりで読み、調べ、そして云うがいい。「あなたが私に何をすることをお望みか、お示しください」、と。私は、全世界とともに間違っているよりも、たったひとりでも正しくありたいと思う。また、あらゆる正直なキリスト者の人はこう感ずるべきである。自分は、人間の云い伝えに従って大群衆とともに走るよりは、二、三人の人々とともにキリストに従いたい、と。愛する方々。神があなたを助けて、回心するや否や、徹底的に従順な弟子とならせ、みことばを調べさせてくださるように。私は、あなたが調べた結果よりも、そのように調べることそのものの方が、ずっと重要であると考える。私がより大きな関心をいだいているのは、あなたがいかなる結果に達するかよりも、いかなる精神が弟子としてのあなたを導いているか、また、それがいかに真剣にあなたを自分の《主人》に従いたいと願わせ、また、主のみこころであるとあなたの信ずるあらゆることを――大きなことと同じく小さなことも――行なわせようとするかということである。願わくは主が私たちを助けて、あらゆる事がらにおけるご自分のみこころを知り、結果を恐れず行なうことに熱心にならせてくださるように。

 やはり注意すべきは、使徒が単にこのことを個人的に云い表わしただけでなく、ただちに恵みを乞い求めているということである。「主よ。あなたが私に何をすることをお望みか、お示しください」 あたかも、「私はすぐさまそれを行ないます」、と云うかのようである。彼は、少しだけ猶予を許してくださいと頼んではいない。むしろ、「あなたは私が何をすることをお望みですか? ここに私がおります。あなたの仰せに進んで従うしもべが立っております」、と云うのである。青年よ。もしあなたが救いを得たければ、今晩、キリストに従う覚悟をしなくてはならない。今晩、もしかすると、神の御霊はあなたと争っておられるかもしれない。そして、もし抵抗されれば、二度とお戻りにならないかもしれない。たった今、秤はちょうど釣り合いを保っている。これからどちらに傾くだろうか? 今晩、その秤は死か生へと傾き、それで最後となるかもしれない。おゝ、天におられるほむべきイエスよ。あなたが実際に私たちを救おうと望んでおられるとしたら、なぜ私たちはためらうべきでしょうか? 私たちは完全に自分を明け渡し、こう云うべきである。「今、まさに今、私はあなたの旗印の下で兵籍に入ります。私はあなたに進んで従うしもべなのですから」、と。

 さらにもう1つ着目したいのは、彼がいかなる種類の条件もつけていないということである。あなたは私が何をすることをお望みですか? 私はそれを行ないます。たとい肉にとっては不快であっても、私の心にとっては快いことでしょう。また、たといそれが厳しく見えても、それでも、もしあなたが私を助けてくださるなら、私はそれを行ないます。「あなたは私が何をすることをお望みですか?」 サウロは、その問いを発したとき、自分の《主人》のみこころを行なうことに何が伴うかほとんど分かっていなかったが、彼はそのとき、それが何を伴うにせよ、それを行なおうと本気で覚悟していた。おゝ、あなたがた、キリスト者になりたいと願っている人たち。単に何かを――信仰箇条の何か1つを、あるいは、何か儀式を受けることを――信じれば救われると思ってはならない。あなたは、もしキリスト者であるとしたら、自分をキリストに明け渡さなくてはならない。主がこの世に来られたのは、裏道や、ねじくれた通り道によって人々を天国に至らせるためではない。むしろ、彼らを義の道に導くためであり、その道の果ては永遠の平安である。あなたは主に従うだけの子どもになろうとするだろうか? あなたは、子どものような霊になり、まず主がどなたかを知ろうと欲し、それから、こう叫ぼうとするだろうか?――

   「火水(ひみず)越ゆとも イェスみちびかば、
    われ従わん、主の行く方向(かた)へ」。

願わくは主が、私たちをそうならせてくださるように!

 しめくくりに一言云いたい。すなわち、キリストを知ることによってこそ、あなたはキリストに従うことを学び、キリストに従えば従うほどそれは容易になる、また、キリストに従うことにおいて、あなたは自分の誉れを見いだすであろう。パウロは今日、神の教会の中で最も誉れある地位に立っているが、それはただ、神にそのみこころを行なうよう召されて、それを最後まで忠実に行なったがためにほかならない。パウロが一瞬にしてその古きパリサイ主義をことごとく忘れ去ったかのように思われるのは、美しく見えないだろうか? それまでの彼がキリストに対して発してきた、あらゆる辛辣な言葉や、痛烈な冒涜は即座に消え去った。ある人々には、いかに異様な変化が瞬時に訪れることであろう。私の学生のひとりは、かつては船乗りをしていたが、長い間福音を宣べ伝えてきていた。だが、彼の英語は到底文法的に正しいものではなかった。神学校を出てからしばらくの間は、彼も正しく喋ることを始めたが、突如として古い癖が彼に戻ってきた。彼は、《アリス王女》号にかの悲しむべき惨事が起こった際、同船に乗り合わせていたが、ほとんど奇跡的なしかたで難を免れることができた。その後ほどなくしてから私は彼に会い、彼の脱出について祝いを述べた。すると彼が答えたことによると、彼は命拾いはしたが、自分の文法を全部失ってしまったというのである。彼は自分がしばらくの間、二、三年前の言葉遣いをしていることに気づいた。そして、元気を回復しつつある今でさえ、かつて学んだことを取り戻せないと断言するのである。彼は、あの恐ろしい折に、自分の文法を溺れさせてしまったかのように思われれる。さて、私たちは何らかの良いものを、すさまじい事故か出来事で失ってしまうことがありえる。そうした事態が、私たちの精神を巨大な波のように覆い、私たちの宝物を洗い流してしまうのである。さて、全くそれと同じように、キリストが今晩、いずれかの人とお会いになるとしたら、1つのほむべき大変動によって、そうした人々が尊んでいたものの多くが洗い流されることであろう! あなたは、蝋の上に文字を記し、その記録を後生大事にしているかもしれない。だが、熱い焼きごてを持ってきて、その蝋の上をなでまわすと、それはみな消え失せてしまう。それこそ、イエスがパウロの心になさったまさにそのことであるように思われる。そこには、冒涜や反逆がびっしりと書きつけてあったが、主は燃える愛という焼きごてで彼の魂をなで回された。すると、よこしまな碑文はみななくなってしまった。彼は冒涜することをやめ、賛美を始めた。願わくは同じことがこの場にいる多くの人に対してなされ、私の《主人》の愛と力とがほめたたえられ、その栄光が現わされるように。アーメン。アーメン。

 

覚醒させられた精神の切迫した問い[了]

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