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学び舎にて

NO. 1519

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから」。――詩143:10


 これは行なうことに関する祈りだが、律法的な染みからは完璧に免れている。これをささげた人物は、自分の行ないによって救われるという考えを全くいだいていなかった。というのも、この詩篇の第2節で、彼はこう云っていたからである。「あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです」。これは救いを求める罪人の祈りではない。救いは神のみこころを行なうことにはよらず、キリストを信ずることによるからである。これは、すでに救われている人の祈りであり、救われた上で神への奉仕に献身し、主を恐れることにおいて教えられたいと願っている人の祈りである。「おゝ、神よ。あなたのみこころを行なうことを教えてください」。

 前後関係によって云えるのは、ダビデは神のみこころを行なうことこそ、自分の敵たちから逃れる最上の道であるとみなしていた、ということである。彼は、周囲のどこを見回しても、自分を助けようとする者を見つけられなかったと宣言する。そこで彼は祈るのである。「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから」。確かに、害悪から逃れる最も確実な道は、何の悪も行なわないことである。もしあなたが、あなたを中傷しようとする者たちに取り囲まれているとしたら、あなたの最善の防御は非の打ち所のない生活である。また、もし多くの者があなたの行き詰まりを待ち受け、悪意をもってあなたの失墜を願っているとしたら、あなたの安全は聖潔にある。あなたが自分の守りのためにささげることのできる最上最高の祈りは、「あなたのみこころを行なうことを教えてください」なのである。もしあなたが正しいことを行なっているとしたら、誰もあなたを傷つけることはできない。

 この祈りが思い浮かんだのは、この詩篇作者の精神の当惑であった。彼は圧倒されており、何をすべきか分からなかった。それゆえ、「あなたのみこころを行なうことを教えてください」、と叫んだのである。彼は、多くの路が合流している場所にやって来ていた。そして、自分の取るべき通り道が分からなかった。それで、定められた道に自分を導きたまえと神に祈ったのである。私は、いたく困惑し思い悩んでいるすべての人々に、この祈りを勧める。あなたは自分の判断力を働かせてきたし、ことによると、あまりにも頻繁に友人たちに相談してきたかもしれない。だがしかし、あなたの行く手は完全に塞がれているように見受けられる。ならば、これをあなたの衷心からの祈りとして神に頼るがいい。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」。

 願わくは神の御霊がいま私たちを祝福してくださるように。私たちがこの短い祈りを解き明かすとき、私たちを助けて、それを理解し、用いることができるようにしてくださるように。第一に、私たちはこの祈りについて語るであろう。それから第二に、その答えについて語るであろう。

 I. それでは第一に、《この祈りそのもの》である。――その性格に注目してみよう。

 これは聖なる祈りである。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」。この言葉を口にしている人は、罪から自由にされることを願っている。罪は決して神のみこころではありえないからである。いかなる状況においてであれ私は、不正を働きながら、それによって神のみこころを行なっているなどと夢想することはできない。私は極度に貧乏な、ひとりの人の話を読んだことがある。彼が自分の子どもたちのために火を燃やしてやる燃料を欲していたとき、この聖句が頭に浮かんだという。「すべては、あなたがたのものです」[Iコリ3:21]。この聖句で武装した彼は、自分の隣人から少しばかし薪を失敬しようと考えた。だが、非常に幸いなことに、別の聖句が頭に浮かんだのである。「盗んではならない」[出20:15]。彼にとって、その意味はきわめて明瞭であったため、薪には手をつけないこととした。だが、後に彼は、いかにその聖句が自分を大きなそむきの罪から救ってくれたかを思い出すことになった。嘘ではない。種々の状況や印象が何と云っているように思われても、あなたが不正を働くことは決して神のみこころではない。神の摂理があるように、悪魔の摂理もある。ヨナがタルシシュに行きたがったとき、彼は同地へ向かう船を見いだした[ヨナ1:3]。おそらく彼は云ったであろう。「これぞ摂理だ!」 しかり。だが、いかなる摂理も神に罪を犯す云い訳になることはありえない。私たちは正しいことを行なうべきであり、それゆえ、こう祈るのである。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」、と。

 これは謙遜な祈りである。――このように祈っている人は、深い経験を有する人物であった。だがしかし彼は、それにもかかわらず、――ことによると、それだからこそ、――自分の取るあらゆる歩みについて教えが必要だと感じていた。あなたが教えを欲さないとき、兄弟よ。それはあなたが、学ぶこともできないほど馬鹿だからである。このことに間違いはない。寄宿学校から出てきたばかりの、「教育に磨きをかけ終わった」うら若い令嬢か、途方もない大馬鹿者の男でもない限り、自分には学ぶことがもうないなどと考えはしない。自分を最も良く知っている人々、また、世間を最も良く知っている人々、また、神を最も良く知っている人々は、常に自分自身について最も低い評価を下してきた。彼らが有している自分自身の知恵とはただ1つ、すなわち、自分自身の知恵から逃れて、主にこう申し上げるだけの知恵である。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」、と。これは聖なる祈りであり、謙遜な祈りであり、あらゆる聖なる、また謙遜な心を引きつけるものである。

 これは、愛する方々。素直な祈りである。――教えられやすい人の祈りである。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」。見ての通り、これは単に、「あなたのみこころを教えてください」、ではなく、「行なうことを教えてください」、である。この人物は、無知のあまり、何事であれ、すべてにおいて、その行ない方を教えられる必要があるのである。あなたは子どもに、歩くとはどういうことか告げるかもしれないが、それでもその子は歩かないであろう。子どもには、どうすれば歩けるかを教えなくてはならないのである。神がエフライムに対してしたように、その子の腕を取らなくてはならないのである。神は云っておられる。「エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ」[ホセ11:3 <新共同訳>]。乳母が幼児にものを教えるのと全く同じである。「行なうことを教えてください」。主よ。あなたが私の頭に教え、私の心に教えてくださるだけでは足りません。私の手に、また、私の足に教えてください。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」。このような嘆願者は素直であり、進んで学ぼうとしている。

 これは従順な祈りでもある。それは大きく褒められて良い点である。「あなたのみこころを行なうことを教えてください。――私の心ではありません。私は自分の意志をわきに置きます」。彼はこう云ってはいない。「主よ。あなたのみこころの一部を行なうことを教えてください。私を喜ばせるような部分を」。そうではなく、なあたのみこころのすべてを教えてください。たとい、あなたのみこころの中に何か私を喜ばせない部分があるとしても、まさにその理由によってこそ、それを私に教えてください。私の魂の全体があなたのみこころにかなうものとなり、私があなたのみこころを愛するようになるまで。たまたまそれが私を喜ばせるからではなく、それがあなたのみこころであるがゆえにこそ、そうしてしてください。これは、隠忍と自己否定の祈りである。そして、ことによると、キリスト者がささげることのできる祈りの中でも最高のものの1つかもしれない。とはいえ、これは知恵の扉の前に最初に立つ学び手に非常にふさわしいものではある。

 それから注意したいのは、これが信仰に立った祈りだということである。――「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから」。この求めの中には、神を信ずる信仰がある。「あなたこそ私の神であられます」。そして、神が《教師》として働くほど身をへりくだらせてくださることに対する信仰がある。兄弟たち。私たちには2つの欠点がある。私たちは、神を、その本当の大きさほど大きくあられるとは考えない。また、神がそうおなりになれるほど小さくなれるとは考えない。私たちは両方の側で間違いを犯し、神の栄光の高みを知らないか、その恵みの深さを知らない。私たちは実質的にこう云っているのである。「この試練はちっぽけすぎる。私は、神などいなくともこれを負うことにしよう」。私たちが忘れているのは、星々を支配なさる同一の神が身をへりくだらせて一介の《教師》となり、私たちにご自分のみこころを行なうことを教えてくださるということである。一度私たちは、ある大国の大統領が、それにもかかわらず、《日曜学校》の教師をしていると聞いたことがある。それは非常なへりくだりと考えられていたが、このお方について私は何と云えば良いだろうか? 御使いたちの聖歌隊のただ中に座し、彼らの賛美を受け取っておられる一方で、ご自分の幼子たちのもとに降りてこられ、彼らにご自分のみこころを行なうことを教えてくださるのである! 私たちの前にある祈りは非常に尊い。というのも、それは聖にして、謙遜で、素直で、従順で、信仰に立ったものだからである。

 ここで私たちは、この要請が現実にいかなるものかに注意してみよう。それは言葉を尽くして、「あなたのみこころを行なうことを教えてください」、と云っている。ならば、兄弟姉妹。これは実際的な祈りである。彼は、こうは云っていない。「あなたのみこころを知ることを教えてください」。――これはこれで、非常に卓越した祈りである。だが、世にある非常に多くの人々は知ることにのみ執着し、行なう方に向かって行かない。こうした人々は、すぐに忘れる聞き手であって、自分を欺いているのである[ヤコ1:22-25]。十匁の行ないは、三百貫の知識に値する。この世で最も正統的な信仰も、それに汚れた生き方が伴っているとしたら、その人をそれだけ重い罪に定めることにしかならない。そこには、手足と精神とを服従のうちに神にささげること[ロマ6:13]がなくてはならない。さもなければ、私たちの知識が多ければ多いほど、私たちの断罪も大きくなるであろう。

 詩篇作者は、こうも云ってはいない。「主よ。あなたのみこころについて語ることにおいて私を助けてください」。確かに、それは語るのに非常にふさわしいことであり、それについて聞くことは非常に有益なことではある。しかし、それでも行なうことは語ることにまさる。さもなければ、この世には今以上に多くの聖徒たちがいることになるであろう。つまり、もしもし廉直なことを語っている人々が廉直な歩みをするようであれば、良いことであろう。だが、多くの人々にとって語ることは歩むことにまさっている。だが、汚れた生き方よりは、沈黙する舌の方がましである。実践的な敬虔さは、いかに甘やかな雄弁よりも好ましい。

 この祈りは、「あなたのみこころを行なうことを教えてください」、である。一部の人々は、あらゆる奥義において教えを受けたいと切望している。そしてまことに、ある奥義を正しく理解することは大きな特権である。だが、彼らの主たる考えは、深遠な教理を知りたい、神秘的な点を知りたい、ということであるように見受けられる。多くの人々は預言に立ち入って調べる。そして、そこに達すると、結構なごたごたを作り出す。数限りないほどの説が預言について生み出され、そのいずれもが、いずれ劣らぬほど馬鹿げたものである。これは残念ながら、この世の終わりまでそうあり続けるのではないかと思う。まことに、種々の預言を、また、あらゆる知識を理解するのは良いことであろう。「しかし私は、さらにまさる道を示してあげましょう」[Iコリ12:31 <英欽定訳>]。そして、そのさらにまさる道とは、謙遜で、敬虔な依存と信仰の生活を送り、あなたの生き方の中でキリスト・イエスにある愛を示すことである。主よ。私はまずあなたのみこころを知ることを欲しています。それを私に教えてください。そうすれば、私は満足します。

 すでに述べたように、この祈りは、神のみこころを私たちが行なうことを願っている。私たち自身の心ではない。おゝ! いかに自然と私たちの心はこう祈ることであろう。「主よ。私の願う通りになさせ給え」、と。それが、好きにまかされた場合の人間性が真っ先にささげる祈りである。「主とはいったい何者か。私がその声を聞かなければならないというのは[出5:2]。私の思い通りにさせよ」。こうした願いは、時としてキリスト者の心にも入り込むであろう。そこに長い間とどまっていないことを私は願うものだが。私たちは、「私の願いではなく、みこころのとおりにしてください」*[ルカ22:42]、と祈っているかもしれない。だがしかし、よこしまで、反逆的な心は、内心こう云っているかもしれない。「でも、どうかみこころが私の願いでありますように。主よ。どうか私の願いでありますように」。やはり私たちは自我にしがみついているのである。願わくは主が私たちを《迎意卿》から救い出してくださるように。彼は、その支配地がどこであれ、途方もない暴君となるのである。そして、これが私たちの祈りとなるように。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」。

 私たちは、他の人々の心を行なうように求めるべきではない。たが、ある人々は常に他者の意志の奴隷である。誰とともにいようと、それに彼らは同化してしまう。郷に入りては郷に従えとばかりに、自分を自分の家族に合わせる。はっきりした態度を打ち出すことも、決然とした姿勢を取ることもできず、自分の親族の云うなりに支配される、あわれな奴隷なのである。彼らは人の渋面を恐れる。おゝ、彼らがもっと高貴な者となり、こう祈るようになればどんなに良いことか。「主よ。あなたのみこころを行なうことを教えてください。それが地上の権力者たちの心であるか、私の有力な友人たちの心であるか、私の声高な隣人たちの心であるかどうかは、どうでも良いことです。私があなたのみこころを行なえるように助けてください。自分の立場を決めて、『私と私の家とは、主に仕える』[ヨシ24:15]、と云えるようにしてください」。

 神のみこころを行なうということで、彼は何を意味していたのだろうか? 「私を助けて、あなたのみことばが命ずることを行なわせてください」、と意味していたのではないだろうか? というのも、神のみこころを私たちに対してきわめて平明に示しているのは、神の律法であり、特に、キリストの御手の中にあって眺められた律法だからである。「神のみこころは、私たちが聖くなることです」*[Iテサ4:3]。神に敬虔に仕えること、私たちの隣人を私たち自身と同じように愛すること。――これが神のみこころである。願わくは、その御霊が私たちを助けてくださるように。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」。

 そのみこころは、摂理の形を取ることもある。2つの同等に正しい道筋の中から、時として私たちはこう問わなくてはならないことがある。「主よ。ここでは何があなたのみこころなのでしょうか?」 その2つのどちらにも不道徳なものは何1つない。それゆえにこそ私たちの困難があるのである。そのとき私たちは主のもとに行って云う。「ここには、律法の導きが得られない状況があります。さもなければ、私はたちまち決めることでしょう。ですが、あなたが私に何をするようお望みか、示してはいただけないでしょうか?」 別の場合、神のみこころは機会によって示唆される場合がある。愛する方々。神のみこころは、あなたが近くに座っている友人に、魂の問題について話をすることである。神のみこころは、あなたの未回心の召使いのためにあなたが祈り、教えを聞かせてやることである。神は、私たちが善を施せるようにと、私たちの行く手にわざと人々をお置きになる。私はこのことにいささかの疑いもいだいていない。多くのキリスト者が自分の選びもしないだろう所に行かされ、自分がつき合いたいと願いもしないだろう人々とつき合わされるのは、暗闇の場所に光を携え入れる手段とされ、神のもとから死んだ魂たちのもとへいのちを持って行くためである。だから、もしあなたがこの祈り、「あなたのみこころを行なうことを教えてください」、を祈るとしたら、また、それを実行するとしたら、あなたは主に仕える種々の機会を見張ることであろう。

 この祈りは、そうした範囲すべてを含んでおり、さらに多くを含んでいると私は思う。

 しかし、私は別の問いに答えよう。その様式において、この祈りは何を意図しているだろうか? これは、「主よ。あなたのみこころを行なえるようにしてください」、ではなく、「あなたのみこころを行なうことを教えてください」、である。あたかも、そこには教えられなくてはならない、何か独特の行ない方があるかのようである。それは、若者が手に職をつけるために徒弟奉公に出る場合と変わらない。主よ。私は年季奉公の契約証文の下で、あなたの恵みに自分を引き渡します。あなたが私に、あなたのみこころを行なう要領と秘訣を教えることがおできになるように。

 それでは、神のみこころはいかにしてなされるべきだろうか?

 それは思慮深くなされるべきである。非常に多くのキリスト者たちは、しかるべく払うべき思慮の半分も払っていない。私たちは、花から花へとひらひら飛び回る蝶々のように浮ついたしかたで人生を送るべきではない。一箇所にとどまり、蜜を吸い、巣箱のために甘美な蜜蝋を集める蜜蜂のようにすべきである。私たちは真剣に熱心になるべきである。そして、熱心になるべき1つの点はこのことである。

   「聖きおそれと おののきをもて
    わが召されしを 確かにし
    汝がはかりごと 成し遂げて
    義(ただ)しき御心 みなしのび
    最後(すえ)まで堅く 耐え抜かん」。

主よ。私があなたのみこころを行なえるように助けてください。私の全霊を傾けて真剣にそうできるようにしてください。あなたの宮中でぶらぶら過ごすことなく、人生を遊び暮らすこともなく、あなたへの愛のうちに、悟りをもって、みこころを行なわせてください。

 主のみこころはただちに行なわれるべきである。ある命令を知るや否や、それは従われなくてはならない。主よ。私に人と相談[ガラ1:16]させたりしないでください。主を恐れることにおいて、すみやかで、素早い悟りをお与えください[イザ11:3 <英欽定訳>]。御使いたちのように、あなたのみこころを行なうことを教えてください。彼らは、あなたのみことばを聞くや否や、炎のように飛びかけてはあなたの命令を果たすからです。

 神のみこころは朗らかに行なわれるべきである。エホバは奴隷たちでご自分の御座を飾ろうとはなさらない。私たちがご自分のみこころを楽しんで行なうことをお望みになる。しかり。神のみおしえは私たちの心の中にあるべきである。おゝ! 兄弟姉妹。あなたにはこう祈る必要がある。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」。さもないと、あなたは的を外すであろう。

 それを絶えず行なうことを教えてください。私が時にはあなたのしもべとなり、それからあなたから逃げ出すようなことがないようにしてください。屈せずやり通させてください。決して飽かせないでください。朝が私を起こすとき私に用意ができており、夕べが休むよう私に命ずるとき私が眠りに落ちるまであなたにお仕えしているように。

 また、主よ。それを満遍なく行なうことを教えてください。その一部分ではなくすべてを行ない、あなたの命令の1つたりともないがしろにされることなく、私の日々の務めの一箇所たりともなされないまま残りませんように。私はあなたのしもべです。私を自分の主人にとって良い召使いのようにならせ、家中のいかなる用事も怠らないようにさせてください。願わくは私があらゆる点で注意深くなれますように。

 あなたのみこころを霊的に行なうことを教えてください。杯や皿の外側をきよめるのではなく[マタ23:25]、魂の内側であなたに従わせてください。願わくは私の行なうことが私の心を尽くして行なわれるものでありますように。私が祈るときには、私を助けて霊において祈らせてください。私が歌うときには、私の心にあなたへの音楽を奏でさせてください。私があなたの御名について他の人々に語り、イエスの香りを広めようとするときには、私自身の力で、あるいは、誤った精神でそれをすることなく、聖霊が私の上にありますように。

 あなたのみこころを一心不乱に行なうことを教えてください。あなたの家を思う熱心が私を食い尽くしますように[詩69:9]。おゝ、私が自分のすべてをこのことに打ち込むことができればどんなに良いことか。

 この小さな祈りはぐんぐん大きなものとなるではないだろうか。これを祈るがいい。兄弟姉妹。そうすれば、主があなたに答えてくださる。

 やはりさらに、もし私たちがこの祈り、「あなたのみこころを行なうことを教えてください」、を真摯に祈りたければ、私たちが求めなくてはならないいくつかの必要な資質がある。まず、あなたは果断な性格にならなくてはならない。というのも、ある人々は神のみこころを行なえたらと願っているのに決してそれを行なわず、自分たちにそれが行なえないことを残念に思うと云うからである。彼らはそうしようと決意し、それで終わってしまう。おゝ、あなたがた、海綿のような魂たち! あなたがたの中のある者らが圧力にへこむ様子は悲しいほどである。いかなる手があなたをつかもうと、あなたは形を変えることができる。決断が必要である。というのも、神のみこころを行ないたければ、「否」と云うことを学び、梃子でも動かない態度を取り、何が起ころうとも自分は自分の神への奉仕から脇へそらされはしないと宣言できるようにならなくてはならないからである。

 もし主がご自分のみこころを行なうことをあなたに教えてくださるとしたら、あなたには勇気も必要であろう。この祈りは実質的にこう云っている。「私の敵たちが私を嘲るとき、あなたのみこころを行なうことを教えてください。彼らが私を脅かすとき、あなたのみこころを行なうことを教えてください。彼らが私を誘惑するとき、あなたのみこころを行なうことを教えてください。彼らが私を中傷するとき、あなたのみこころを行ない、正しいことを行ない、事を神にお任せしようと決意する勇気ををもって勇敢になることを教えてください」、と。

 「あなたのみこころを行なうことを教えてください」。それはこれを意味する。――私に隠忍を与え、私の中の自己本位さを殺してください。どうかお願いします。私の中で私の高慢を鎮圧し、私が喜んで何にでもなり、あなたのお望みになる何でも行なえるようにしてください。

 これは謙遜さを必要とする祈りである。いかなる人も、この祈りをささげたければ、喜んで身を屈めて聖徒たちの足を洗うようになっていなくてはならない。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」。あなたの栄光を現わすためとあらば、私をあなたの台所の下働きとしてください。あなたがすべてのすべてとなられるのであれば、選り好みなどしません。

 これは、霊的いのちのための、それも、その多くのための祈りでもある。というのも、死人に神のみこころは行なえないからである。死人が主をほめたたえるだろうか?[詩115:17] 墓に下った者が主に感謝をささげるだろうか?[詩30:9] おゝ、否。兄弟姉妹。あなたはいのちに満ちあふれていない限り、神のみこころを行なえない。一部の信仰告白者たちは、まだ三分の一も生き返らされていない。彼らもある程度までは生かされていると思うが、それはまだそのきわみまで達していないように見える。心の中は多少生かされているかもしれないが、そのいのちは舌を生かしてキリストを告白させておらず、手を生かしてキリストに差し出さすことも、キリストのために働かせることもしていない。彼らは半ば死んでいるように見える。おゝ、主よ。私を足の裏から頭の天辺までいのちで満たしてください。というのも、あなたの御霊が私をとことん飽和させ、脈拍の1つ1つまでが聖別されない限り、いかにして私はみこころを行なえるでしょうか? 私は全くあなたのものとなりたいのです。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」。

 II. 本日の説教の後半については、あなたを長々と引き留めまい。私たちがほんの少し語りたいのは、《その答え》についてである。ここに祈りがある。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」。それは答えを得られるだろうか? しかり。兄弟たち。それは確実に平安な答えを獲得するであろう。

 というのも、まずそこには答えを期待して良い理由があるからである。「あなたこそ私の神であられますから」。おゝ、しかり。もし私たちがこのことを他の誰かに求めていたとしたら、私たちも恐れて当然かもしれないが、「あなたこそ私の神であられますから」はほむべき議論である。なぜなら、大は小を暗示するからである。もし神が私たちにご自分を与えておられるとしたら、神は私たちに教えを与えてくださるであろう。教えることは神のなさり方でもある。――「主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、そむく者たちに道を教えられる」*[詩25:8]。善良な人の1つの資質は、他の人々をも善良にしたいと願うことである。善良な神の至高の資質は他の者たちを善良にすることである。神がいかなるお方であるかを思うとき、神が私にみこころを行なうことを喜んで教えてくださることは確実だと感じる。さらに、神はそうすると約束しておられる。「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう」[詩32:8]。そしてまた、神はそうすることによって栄光を帰される。というのも、神の民がそのみこころを行なうとき、それは神の栄光を現わすからである。それゆえ、私はこうした一切の理由から神が私にそのみこころを行なうことを教えてくださると期待して良い。

 また、愛する方々。この祈りは答えられる必要がある。「あなたのみこころを行なうことを教えてください。主よ。あなたがそうしてくださらない限り、他の誰も私にあなたのみこころを教える者はいません。私は決してそれを自力では学べません。この学識をたまたま獲得することなど決してあるはずありません。主よ。あなたが私を堅くつかみ、あなたの至高の腕前で私を教えてくださらない限り、私は決して自分で学びたいと願うほどあなたのみこころを行なうことを学べないでしょう」。見ての通り、この人物は他のあらゆる教師に背を向けて神に向かっている。彼は努めて神によってのみ教えられようとしている。そして、そこにこの祈りがある。「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから」。兄弟よ。あなたはこの教えを受けなくてはならない。さもなければ、決して神のみこころを行なうことはできない。天性のいかなる力も、天性のいかなる才知も、正しく神に仕えるためには決して十分なものたりえない。あなたは上から教えられなくてはならない。

 神がこの祈りにご自分のお答えを与えるしかたは数多くある。――「あなたのみこころを行なうことを教えてください」。私たちは、それに対する1つの素晴らしい答えをすでに受けている。神はイエス・キリストを私たちの《模範》として与えておられる。現実の模範にまさる教えはない。もしあなたが神のみこころを知りたければ、キリストの生き方を学ぶがいい。

 主は私たちに、同じご自分のみこころの、より微かな写しをご自分の聖徒たちにおいて与えておられる。聖書の中にある聖なる伝記の数々を読むがいい。あなたがたの中にいる、神にそば近く生きている人々の聖なる生き方を見守り、彼らがキリストに従っている限りにおいて、彼らにならうがいい。彼らは完全な写しではない。汚点や失態はある。それでも、主は若い人々を彼らの両親の敬虔な生き方によって教えておられるし、献身的な人々の数々の伝記によって私たちすべてを教授しておられる。

 また、主は私たちを、ご自分のみことばの一行一行によって教えてくださる。そしてしばしば、そのみことばが説教されるとき、あるいは、注意深く読まれるとき、それは魂に大きな力をもって突き入れられ、私たちをいのちの道に導く。

 さらに主は、ご自分の御霊によって私たちを教えてくださる。聖霊は、御霊の声を聞くことのできる者たちに、ひそかな囁きによって語りかけてくださる。必ずしも信仰を告白するキリスト者の全員が個人的な勧告という形で神の御霊の訪れを受けるわけではない。だが、ある聖徒たちは彼らの後ろから、「これが道だ。これに歩め」[イザ30:21]、と云う声を聞くのである。神はご自分のことばと同じようにご自分の目によっても私たちを導いてくださる。開かれた目は、一瞬にして主が何を意味しておられるかを見抜くことができる。神はもの柔らかな手段を有しておられる。主の、愛に満ちた優しさによる日々のお取り扱いは、私たちにとって導き手である。あらゆるあわれみは、私たちを水先案内して天国に至らせる星である。私たちが、それほど簡単には導かれようとしないとき、神は手荒なしかたで私たちを教えられる。主は、それを必要とする者らのためには、くつわや鞭をお持ちである。神は私たちを患難や疾患で抑制し、時には数々の損失や、死別や、霊の抑鬱といったもので私たちをはなはだしく懲らしめられる。だが、何らかの方法で神は教えを求めるこの祈りをかなえてくださるであろう。それは契約の約束だからである。「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け……る」[イザ54:13]。幸いなことよ、この教えが甘やかに、また、柔らかくやって来る人たちは。これは、私たちがそのように受けようと望んでいるなら、そうなりえる。だが、確かに、もし私たちが優しく導かれようとしないと、神は私たちに、くびきをかけられても反抗的で、仕込まれる必要がある雄牛に、人が無理矢理云うことを聞かせるようなしかたで、みこころを行なわせるであろう。主は教えを求める私たちの祈りをかなえてくださる。だが、それは私たちが選ぶようなしかたとは全く異なるようなしかたとなるかもしれない。

 そしてもう1つ、私たち主を知る者はみな、この祈り、「あなたのみこころを行なうことを教えてください」、を祈ったことがあると思う。さて、注意してほしい。私の愛する方々。それを真摯に行なうように注意し、自分が何に取りかかっているかをわきまえるがいい。なぜなら、このような嘆願をささげた後では、あなたはあえて罪に陥らないからである。あなたは、「あなたのみこころを行なうことを教えてください」、と祈った後で、浮ついた娯楽のもとに行ったり、夜な夜な空疎で軽薄な仲間づきあいに興ずることはありえない。なぜなら、それは傲慢にも神を欺くことだろうからである。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」、とあなたは云い、立ち上がっては明らかに神のみ思いやみこころに反すると分かっていることを行なう。何と傲然たる不敬であろう!

 さらに、この祈りを何らかの留保つきでささげてはならない。「あなたのみこころを、この1つのことだけは除いて行なうことを教えてください。その点についてだけは、ご勘弁ください」、などと云ったり、意味したりしてはならない。残念ながら、一部の信仰者たちは学びすぎたくないと願っているのではないかと思う。私は彼らが聖書の特定の箇所を読みたがらないことを知っている。ことによると、そうした箇所は彼らを教理的に悩ませるのかもしれない。あるいは、キリスト教信仰の種々の定めについて、あるいは、教会戒規の問題について悩ませるのかもしれない。たとい彼らがこうした頁を糊付けにして、その不快な箇所を隠していないとしても、彼らはそれらがあまりしばしば開かれることを好まない。むしろ、もっと自分の心にかなった節を読むのを好む。しかし、兄弟よ。もしあなたとある聖句が喧嘩しているとしたら、すぐさま仲直りするがいい。あなたがその聖句を変えてはならない。あなたの信条を変えるがいい。あなたの生き方を、あなたの考えを変えるがいい。聖霊なる神の助けによってそうするがいい。というのも、聖句は正しく、あなたは間違っているからである。「あなたのみこころを行なうことを教えてください」、とは、もし私たちがそれを正直に祈っているとしたら、「私は神の書を探して、何が神のみ思いかを知ろうとします」、という意味だからである。何と、あなたがたの中の一部の人々は、自分の育った教会がいかなるものであっても、それに加入する。わざわざ自分の教会が聖書的なものかそうでないかを吟味する手間はかけない。これはめくら滅法な行動のしかたである。これは神のみこころに従ってはいない。神の書が何と教えているか知るがいい。聖書を調べるがいい。多くのキリスト者たちが自分の教役者が説教することを信ずるのは、彼がそれを説教しているからである。だが、私の話している一言たりとも、神のことばの中に見いだせるものでない限り、信じてはならない。「おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない」[イザ8:20]。私たちはみな過りを免れない者であり、いかに最善を尽くして教えても、また、神が私たちによって大いにあなたを教えてくださると希望していても、私たちは霊感を受けてはいないし、受けていると云い立てもしない。独力で神の書を調べ、そこにあなたが見いだすことを忠実に守り、それ以外のいかなるものをも受け入れてはならない。聖書の導くところに従わなくてはならない。また、その導きに従うとき、あなたは闇の中を歩むことはない。神のみこころを知るよう努めるがいい。そして、それを知ったなら、それを実行するがいい。また、聖霊があなたの懇意にしてきた最も愛しい偶像――あなたを最も寄せる考え――を、もし永遠の神の至高のみこころに反するものだとしたら、あなたの思いの中から取り去ってくださるよう祈るがいい。願わくは主が、私たちにそのように祈らせ、そのことをかなえてくださるように。

 悲しいかな。未回心の人々は、本日の聖句のようなしかたで祈ることができない。彼らは、まず第一に主イエス・キリストを信じて初めて主のみこころを行なうことができるのである。願わくは、あなたがた全員が《救い主》を信ずるように導かれるように。そしてそうした上で、聖霊があなたを導いてこう祈らせてくださるように。「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから」、と。

 主があなたを祝福し給わんことを。キリストのゆえに。アーメン。

 

学び舎にて[了]

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