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愛されているが、苦しむ者

NO. 1518

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マントンにて病身の婦人たちを前に行なった説教
説教者:C・H・スポルジョン


「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。――ヨハ11:3


 あの、イエスが愛された弟子[ヨハ21:20]は、何のはばかりもなく、イエスがラザロをも愛されていたと記している。かの《愛する御子》から選ばれた者たちの間には、何の嫉妬もない。イエスはマリヤを、マルタを、そしてラザロを愛しておられた。幸いなのは、一家全員がイエスの愛のうちに暮らしている家族である。彼らは、特にお気に入りの三人であった。だがしかし、蛇がパラダイスに入り込んだように、悲しみは、ベタニヤに住む彼らの穏やかな家庭にも入り込んだ。ラザロが病気になったのである。彼らはみな、イエスがそこにおられれば、病気はたちまち主の御前から逃げ出すだろうと感じた。では、彼らのすべきことは、自分たちの試練について主に知らせることしかなかったではないだろうか? ラザロは死の扉に近づいており、彼の優しい姉たちはすぐさまこの事実をイエスに伝えて云った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。それからも、この同じことづけは、何度となく私たちの主に送られてきた。幾度となく主は、ご自分の民を悩みの炉で試みてこられた[イザ48:10]からである。この《主人》については、こう云われている。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」[マタ8:17]。それゆえ、肢体がこの点で彼らの《かしら》に似るものとなるとしても、それは全く異とするには当たらない。

 I. まず第一に注意したいのは、この聖句で言及されている《1つの事実》である。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。この姉妹たちの口吻には、このことに対する驚愕めいたものがあった。というのも、「ご覧ください」、という言葉には、幾分か驚きの念がこもっているからである。「私たちは弟を愛していますし、すぐにも治してやりたいと思います。あなたは弟を愛しておられますのに、弟は病んだままです。あなたなら一言で弟を癒せます。では、なぜあなたが愛しておられる者は病気なのですか?」 愛する病める方々。あなたもしばしば、思い惑ったことがあるではないだろうか? 自分の痛みを伴った長患いは、自分が選ばれ、召され、キリストと1つにされていることと、どこが釣り合っていると云えるのか、と。おそらく、このことはあなたを大いに困惑させてきたであろう。だがしかし、実のところ、このことは決して不思議ではなく、予期すべきことなのである。

 主の愛しておられる者が病気であっても驚き呆れる必要はない。その人は人間でしかないからである。イエスの愛は、人間生活に共通した様々な必要や弱さから私たちを切り離しはしない。神に仕える人々は、今なお人間である。恵みの契約は、肺病や、リウマチや、喘息から免除されることではない。私たちの肉ゆえに私たちにもたらされる肉体的な病は、墓場まで私たちに伴うであろう。パウロによれば、私たちはこのからだの中にあって、まさに「うめき」[ロマ8:23]を発しているのである。

 主が愛しておられる者たちは、常人にまして病気になりやすい。彼らは特別な訓練の下に置かれているからである。こう書かれている。「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」[ヘブ12:6]。ある種の患難は、真に神から生まれた子どもたちの目印の1つであって、その試練が病のかたちを取ることは決して珍しくない。ならば私たちは、自分たちが代わる代わる病室に入らなくてはならないことに驚くべきだろうか? ヨブが、ダビデが、ヒゼキヤがそれぞれ痛みを覚えてきたとしたら、私たちは何様だからというので、自分が不健康になったことに驚くべきだろうか?

 また、私たちが病むことは、しばしばそこから私たちのもとへ大きな恩恵が流れ来ることを思案するとき、常ならぬことにはならない。ラザロが特にどのような点で向上させられたかは分からないが、イエスの弟子たちの多くは、苦しみに遭ったことがなかったとしたら、大した役には立たなかったであろう。強い人々は無情で、横柄で、同情心に欠けた者になりがちである。それゆえ、彼らは炉の中に投げ入れられ、溶かされる必要がある。私の知っているキリスト者の婦人たちが、あれほどまでに温和で、優しく、賢明で、経験に富み、聖い姉妹たちになったのは、ひとえに彼女たちが肉体的苦痛によって円熟させられたがためであった。人間の庭と同じく、神の庭にも、傷つけられない限り決して熟さない実がある。移り気で、うぬぼれが強く、お喋りな若い婦人たちを、甘やかさと光に満ちた者になるよう訓練するのは、しばしば病に次ぐ病であり、それによって彼女たちはイエスの御足のもとに座すことを教えられるのである。多くの者らは、詩篇作者とともにこう云うことができた。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」[詩119:71]。こういうわけで、いかに女の中で高い恵みと祝福を受けた者[ルカ1:28、42]といえども、剣によって心を刺し貫かれる[ルカ2:35]ことがありえるのである。多くの場合、こうした、主が愛しておられる者たちの病は、他の人々に善を施すこととなる。ラザロが病んで死ぬことを許されたのは、彼の死と復活によって使徒たちが恩恵を受けるためであった。彼の病は、「神の栄光のため」[ヨハ11:4]であった。ラザロの病に続くこの千九百年の間、あらゆる信仰者たちは彼の病から益を受けてきたし、本日の私たちもみな、彼が病み衰えて死んだがゆえに大きな益を受けている。教会と世は、善良な人々の種々の悲しみによって莫大な利益を受けることがありえる。病における私たちの証しを通して、無頓着な人々は目覚めさせられ、疑う者らは確信させられ、不敬虔な者らは回心させられ、嘆く者らは慰められることがありえる。もしそうだとしたら、私たちは痛みや弱さを避けたいと願うべきだろうか? 友人たちが私たちについてもこう云うようになることを全く望まないだろうか? 「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。

 II. しかしながら、本日の聖句は単に事実を記録しているばかりでなく、その事実を告げる《1つの報告》についても言及している。この姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、このことを知らせた。私たちは、あらゆることについて私たちの主と絶えざる通信を保とうではないか。

   「イェスに賛美(うた)えや、こころ衰(や)むとき、
    みな主に告げよ、慰(え)みも不平(なげき)も」。

イエスは私たちについてすべてをご存知だが、私たちの心のありったけを主の御前で注ぎ出すことは非常な救いとなる。バプテスマのヨハネの傷心の弟子たちは、師の首がはねられるのを見たとき、「死体を引き取って……イエスのところに行って報告した」[マタ14:12]。彼らは、これ以上ない最善のことをした。いかなる苦難においても、イエスにことづけを送るがいい。自分ひとりでみじめさをかかえこんでいてはならない。イエスの場合、遠慮する必要はない。主があなたに木で鼻をくくったような扱いをしたり、情味のない無関心さで応じたり、残酷に裏切ったりする恐れはない。主は、決して私たちの信頼に背くことのない腹心の友であり、決して私たちを拒むことのない友であられる。

 イエスにお告げすることには、素晴らしい希望がある。主は試練の下にある私たちを支えてくださるのである。もしあなたがイエスのもとに行き、主に向かって、「あわれみに富み給う主よ。なぜ私は病んでいるのですか? 健康なときの自分はよく用いられていると思っていましたが、今の私には何もできません。なぜこのようなことが起こったのですか?」、と尋ねるとしたら、主はその理由をあなたに示してくださるであろう。さもなければ、理由は分からなくとも、忍耐をもって主のみこころを喜んで忍ぶ者としてくださるであろう。主は、ご自分の真理をあなたの思いに悟らせ、あなたを励ますことがおできになる。あるいは、そのご臨在によってあなたの心を強めるか、思いもかけない慰めをあなたのもとに送るかし、あなたが自分の患難を喜べるようにすることがおできになる。「民よ。……あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」[詩62:8]。マルタとマリヤがイエスにことづけを送ったことは無駄にならなかったし、いかなる者であれ、あたら空しく主の御顔を求めることはない。また、覚えておくがいい。イエスは癒しを与えることもおできになる。思い込みの信仰に頼って、医者やその薬をお払い箱にするのは、肉屋や仕立屋を放り出して、信仰によって食べたり服を着たりしようとするのと同じくらい賢明なことではない。だが、それすらも、主を全く忘れて、人間だけに頼るよりははるかにましであろう。からだと魂の双方の癒しは神に求めなくてはならない。私たちは医薬を利用する。だが、これらは、「私たちのすべての病をいやす」*[詩103:3]主を離れては何も行なえない。私たちはイエスに自分の疼痛や苦痛について申し上げて構わない。徐々に衰えていく体調や、不快な空咳について申し上げて構わない。ある人々は、自分の健康のことで神のもとに行くのを恐れている。彼らは罪の赦しについては祈るが、頭痛を取り除いてほしいと主に願うことなど畏れ多くてできないのである。だがしかし、確かに私たちの頭の外側に生えている髪の毛がみな神によって数えられている[マタ10:30]以上、頭の内側でずきずきする痛みや圧力を取り除くことは、神にとってさほどへりくだりの度を増すことにはならないに違いない。私たちにとって大きな事がらは、この大いなる神にとっては非常に些細なことに違いなく、私たちの小さな事がらは、微少きわまりないこととなるに違いない。神のみ思いの大きさを証明すること、それは神が、一方では天と地を支配しながら、こうした重要な関心事に没頭することなく、ご自分のあわれな子どもたちのどのひとりの最も小さな痛みや必要のこともお忘れにならない、ということである。私たちは、自分の途絶えそうな呼吸のことで神のもとに行って構わない。そもそも神こそ最初に私たちに肺といのちをお与えになったお方だからである。かすみつつある目や、遠くなりつつある耳について申し上げて構わない。神こそ目や耳をお造りになったお方だからである。私たちは、むくんだ膝について、腫れ上がった指について、凝った首筋について、挫いた足首について口にして構わない。神こそ、こうした私たちの器官すべてを造り、そのすべてを贖い、やがてはそのすべてを墓からよみがえらせてくださるお方だからである。すぐに行って、こう云うがいい。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」、と。

 III. 第三に、このラザロの場合で注意したいのは、私たちが期待すべきではない《1つの結果》である。疑いもなく、マルタとマリヤがイエスに使いを送って、このことを知らせたとき、彼女たちは、その使者が《主人》のもとに着くや否やラザロが回復するのを見ると期待したに違いない。だが、その期待はかなわなかった。二日間、主はそのおられた所にとどまり、ラザロが死んだと分かるまで、ユダヤに行こうと語ることをなさらなかったからである。ここから教えられるのは、イエスは私たちの苦難について知らされても、まるでそれに対して無関心であるかのように行動なさることがありえる、ということである。私たちは、回復を求める祈りが、あらゆる場合にかなえられると期待してはならない。もしかなえられるとしたら、自分のために祈ってくれる幼子や子どもたち、友人や知人がいる限り、誰も死なないであろうからである。神の愛する子どもたちのいのちに関する私たちの願いにおいては、私たちの祈りを妨げかねない1つの祈りがあることを忘れてはならない。というのも、イエスはこう祈っておられるからである。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。……わたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」[ヨハ17:24]。私たちは、人々が自分とともにとどまるように祈って良いが、イエスが彼らを上で求めておられることに気づくとき、主のより大きな権利を認めて、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」[マタ26:39]、と云う以外に何ができるだろうか? 私たち自身の場合、主が私たちを引き起こしてくださるように祈っても良いが、主は、私たちを愛してはおられても、私たちの容態が次第に悪化し、ついには死ぬのを許されることがある。ヒゼキヤは、その寿命にもう十五年が加えられたが[イザ38:5]、私たちはほんの一日たりとも猶予を得られないかもしれない。あなたにとっていかに親愛な者のいのちにも、あるいは、あなた自身のいのちにさえも、主に対する反逆となるほどの重きを置いてはならない。もしあなたが自分の親しい誰かのいのちをあまりにも堅く握りしめているとしたら、それは自ら災いを招いているのと同じである。また、もしあなたが自分自身の地上的ないのちをあまりにも愛しすぎているとしたら、あなたは自分の死に行く寝床のために、茨の枕を作りつつあるのである。子どもたちはしばしば偶像となる。そうした場合、彼らをあまりにも熱烈に愛する者たちは偶像礼拝者となっているのである。私たちは、自分の同胞である被造物を礼拝するくらいなら、ヒンドゥー教徒がしていると云われるように土くれで神像を造って、それを拝む方がましである。というのも、愛する者らも土くれでなくて何だろうか? ちりを大切なものとしすぎるあまり、それについて私たちの神と争うようであって良いだろうか? たとい私たちの主が私たちを苦しむままになさるとしても、不平を云わないようにしよう。神はそのことを私たちにとって最も親切で最上のこととして行なわれるに違いない。神は私たちを、私たちが自分自身を愛するにもまさって愛しておられるからである。

 私には、あなたがこう云っているのが聞こえるような気がする。「しかり。イエスはラザロが死ぬのを許されました。ですが、主は彼をよみがえられたではありませんか」。答えよう。主は私たちに対しても、よみがえりであり、いのち[ヨハ11:25]であられる。世を去った人々については、慰められるがいい。「あなたの兄弟はよみがえります」[ヨハ11:23]。そして、イエスに望みを置いている私たちはみな、私たちの主の復活にあずかることになる。私たちの魂が生きるだけでなく、私たちのからだも朽ちないものによみがえる[Iコリ15:52]のである。墓は精錬用の器となり、この卑しいからだは、もはや卑しくないものとなって出てくるであろう。一部のキリスト者たちは、主が来られるまで自分たちが生きていて、死を免れるだろうと考えて非常に元気づかされている。告白するが、私はそれが大してすぐれた得ではないと思う。というのも、眠っている人々にまさる恩典があるどころか、再臨のとき生き残っている人々は、ある一点の交わりを取り逃がすことになるからである。すなわち、自分の主と同じように死んでよみがえることにおける交わりである。愛する方々。すべては、あなたがたのものであり、そのすべてとして列挙された物の中には、はっきりと死が言及されている[Iコリ3:21-22]。それゆえ、死を恐怖してはならない。むしろ、「脱衣(ふくす)つ宵待て、主との安息(やすき)の」。

 IV. しめくくりに語りたいのは、《1つの問い》である。――「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」[ヨハ11:5]。――イエスは特別な意味であなたを愛しているだろうか? 悲しいかな、多くの病者たちは、彼らに対してイエスが何か特別な愛をいだいておられる証拠を全く持ち合わせていない。というのも、彼らは決して主の御顔を慕い求めることも、主に信頼することもしてこなかったからである。イエスは彼らに向かって、「わたしはあなたがたを全然知らない」[マタ7:23]、と云って当然であろう。彼らが主の血潮と主の十字架に背を向けてきたからである。愛する方々。あなた自身の心に向かって、この問いへの答えを出すがいい。「あなたはイエスを愛しているだろうか?」 もしそうだとしたら、それは主がまずあなたを愛してくださったからである[Iヨハ4:19]。あなたは主を信頼しているだろうか? もしそうだとしたら、あなたのその信仰は、主があなたを世界の基の置かれる前から[エペ1:4]愛しておられたという証拠である。信仰は、主がご自身の愛する者と誓約を交わしておられるあかしだからである。

 もしイエスがあなたを愛していても、あなたが病んでいるとしたら、全世界に見せてやるがいい。あなたが自分の病においていかに神の栄光を現わしているかを。友人たちや看護婦たちに見せてやるがいい。主に愛されている者がいかに主によって励まされ、慰められるものかを。あなたの聖なる忍従で彼らを驚嘆させ、あなたの《愛するお方》をあがめさせるがいい。このお方は、苦痛の中にあってもあなたを幸福し、墓の門でも喜ばしくさせるほど、あなたに対して恵み深くあられるのである。もしあなたのキリスト教信仰に何らかの値打ちがあるとしたら、それは今あなたを支えるべきであるし、それは不信者たちにいやでも見てとらせるであろう。主が愛しておられる者は、病むときも、不敬虔な者が健康と体力に満ちている状態をはるかにまさっている、と。

 もしもイエスがあなたを愛しているかどうか分からないとしたら、あなたは、病の夜を元気づかせることのできる最も輝かしい星を欠いているのである。私は、あなたが今のまま死んで、イエスの愛に恵まれないまま幽明境を異とするようなことにならないでほしいと思う。それは実際すさまじい災厄であろう。今すぐ主の御顔を慕い求めるがいい。そうすれば、あなたの現在の病は、イエスがあなたをみもとへ導かれる愛の道の一部となるかもしれない。主よ。この場にいる、魂において、また、肉体において病んでいる人々すべてを癒し給え。アーメン。

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----尋ねられるべき問い[了]
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