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骨の髄まで忠実

NO. 1512

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「イタイは王に答えて言った。『主の前に誓います。王さまの前にも誓います。王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます』」。――IIサム15:21


 ダビデが息子アブシャロムの前から逃げ出したとき、彼の勇気は出なかったように見えるが、他のいくつかの高貴な特徴が、燦々と輝くようなしかたで現われ出た。そしてその中の1つが、ダビデの心の広さであり、他者に対する彼の思いやり深さであった。彼ほどの絶望的な状況にある者であれば、多くの友人たちを真剣に必要としていたであろうし、その全員を手元に留めておきたいと願ったに違いない。だがしかし彼は、友人たちの奉仕が彼ら自身にとってあまりにも大きな代償となる場合には、それを強いて要求しようとはしなかった。それで彼はイタイに対してこう云うのである。イタイは、イスラエルに改宗したペリシテ人と思われるが、最近ダビデの傘下に入ったばかりであった。――「どうして、あなたもわれわれといっしょに行くのか。あなたは、私のもとに来たばかりなのに、あなたを悲嘆の中にある私と一緒にさまよわせるに忍びない。戻って、新しい王のところにとどまりなさい。あなたは外国人で、それに、あなたは、自分の国からの亡命者なのだから。あらゆる祝福があなたの上にあるように。恵みとまことがあなたとともにあるように」*[IIサム15:19]。ダビデが彼を去らせたのは、彼を疑ったからではない。むしろ、自分の波乱に富んだ運命につき合わせることによって、イタイが払わざるをえなくなるであろう大きな犠牲を要求できないと感じたからであった。「これから私がどうなるかは分からない」、と彼は云っているかに思われる。「だが、あなたを無理矢理引きずって行きたくはないのだ。私の命運が絶望的なものになるとしたら、それに決してあなたを巻き込みたくはない。だから、誠心誠意、私はあなたに別れを告げたいのだ」。私はこの心の寛大さを賞賛する。一部の人々は大きな期待をする。こうした人々は自分の友人たちに頼って生きていながら、愛が冷たいと文句を云う。彼らは、友人たちから、当然受けられる以上のものを期待しているのである。ある人が地上で有する最高の友は、自分自身の二本の強い腕であるべきである。浮浪人は寄生植物であり、自分の根を全く有していない。むしろ、宿り木のように、別の木に根を下ろし、そこから生気そのものを吸収しては自分自身の養分とする。悲しいことに人々は、このように軽蔑すべき卑しさに身を落とすことがある! だが自分で何とかできる限りは、自分で何とかするがいい。また、極度の必要を覚えるときには、人の助けを期待する権利があるとはいえ、誰もが恒久的にあなたの世話を焼き続けるものと期待してはならない。ダビデがイタイに対して感じたように感じるがいい。――自分が決して受け取る権利もないような奉仕は所望すまいと思うがいい。自主独立の気風こそ英国人の特徴であった。それが常にそうあり続けることを私は希望する。特に、神の子どもたちの間でそうである。

 その一方で、イタイを見るがいい。立ち去ることは完璧に自由であったが、この云い争いにきっぱりけりを付け、自分がダビデを見捨てるつまりはないことをダビデに知らせるために、彼は自分の神エホバの前で厳粛な誓いを立てている。さらにダビデのいのちにかけて、自分は去らないと誓うことによって、それを二重にしている。生きるにせよ、死ぬにせよ、自分はダビデとともにいる、と。彼はどのようなことがあろうとダビデと運命をともにすると決め、最後まで忠義を尽くすつもりなのである。古の大家トラップは云う。「忠義の朋友はみな幾年前に巡礼の旅に出て、そのひとりだに還って来ることはなかった」、と。この意見に太鼓判を押すことはまずできないが、残念ながら、イタイほどに忠実な友は天空に同時に2つの月が浮かぶことほどまれではないかと思う。あなたは、この世の果てを越えて旅しない限り、そうした友を見いだせないであろう。しかしながら、私が思うに、忠実なイタイたちがこれほど希少になった1つの理由は、心の広いダビデたちがこれほどまれになったからであろう。あなたが人に向かって、君からは相当のものを期待しているよと云えば、その人は理解に苦しむであろう。なぜあなたは、それほど大きなことを望めるのだろうか? 彼はあなたに何の義理もないのである。あなたはたちまち彼の寛大さが流れる弁を閉じてしまう。しかし、彼に向かって正直にこう告げてみよう。自分は、正しい分を越えて何の期待もしていない、酷な要求をするつもりはない、と。あなたがあなた自身の幸福よりも彼の幸福を顧慮していることを彼が見てとるとき、まさにそれを理由として、彼はあなたへの愛着を感じ、このように寛大な心の人に仕えることを喜びとみなすことになるのである。一般に、二人の人が仲違いするとき、その非は双方にあるものである。もしも寛大な精神がまれだとしたら、それは忠実な友人がまれだからであろう。また、もし忠実な友人が希少であるとしたら、それは寛大な精神もまた希少からであろう。キリスト者として私たちは、仕えられるよりは仕えるために生きよう。私たちがこのように仰せになった《主人》に従う者であることを思い出そう。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためです」*[マタ20:28]。私たちは他の人々が私たちに仕えることを期待すべきではないが、私たちの人生は彼らに仕える努力のために費やされるべきである。

 私はイタイの言葉遣いをさらなる目的のために用いたいと思う。もしイタイが、ダビデの人品骨柄に魅了されたために、外国人の寄留者の身でありながら、一生、彼の旗印の下にとどまっていてかまわないと感じたとしたら、――しかり、その場でただちにそうすると宣言したとしたら、――いかにいやましてあなたや私は、キリストが私たちのために行なわれたこと、また、キリストがどんな方で、私たちから何を受けるに値するお方であるかを知っているとしたら、この良き折に、主にこう誓約し、誓うがいい。「主の前に誓います。私の主なる《救い主》がおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます」、と。

 それではまず第一に、この宣言がいかなる形でなされたかに注意することから始めよう。そによって私たちが、いかにして同じ宣言をなすべきかを学ぶためである。

 I. この宣言は、いかなる形としかたでなされただろうか?

 最初のこととして、これがなされたのは、ダビデの命運が最も沈滞しきったときであった。その結果、この宣言は、全く非利己的に、また、そこから何かを得ようなどという考えをまるで抜きにしてなされた。ダビデは今やあらゆる者から見捨てられていた。彼の忠実な護衛だけが、地上で彼が頼りにできる唯一のものであった。そして、そのときにこそ、イタイはダビデと運命をともにすることにしたのである。さて、愛する方々。キリスト教信仰が銀の上靴を履いて戸外に出ていくときにそれに従うことはごく容易だが、真実の人は、それが襤褸をまとい、ぬかるみや沼を通り抜けるときも従っていく。誰もがキリストの御名を褒めそやしているときに、キリストと親しくするのは、偽善者が行なうようなことである。だが、人々が、「除け! 除け!」[ヨハ19:15]、と叫んでいるときにキリストと親しくするのは別問題である。時には、キリストに対する単純な信仰が非常な不人気であることがある。ある時には、種々の儀式を押しつけることが大流行する。誰もが、飾り立てられた礼拝を愛する。そして、純粋な福音の素朴さには、けばけばしい装飾品の山が負わされ、積み上げられる。こうした時期にこそ私たちは、神の、より単純な方式のために立ち上がり、ほとんど偶像礼拝に等しいような、また、福音の単純さを押し隠すような象徴主義を排除しなくてはならない。

 別の時には、福音は種々の博学な批判によって激しく攻撃され、聖書各巻の真正性と霊感に反対するあてこすりによって揺さぶられる。その一方で、根本的な諸教理は1つまた1つと掘り崩され、昔ながらの信仰を保っている者は時代遅れだの何だかだと云われる。しかし、幸いなのは、最悪の状態にあるときもキリストと親しくし、福音に親しみ、真理に親しんでこう叫ぶ人である。「もしこれが愚かなふるまいだとしたら、私は愚か者である。というのも、キリストがおられるところに、私はいるからである。私は最悪の状態にあるキリストを、最善の状態にある他の者らにもまさって愛する。そして、たといキリストが死んで墓所に葬られるときでさえも、私はマリヤとともに、また、マグダラのマリヤとともに行き、その墓所の真向かいに座り込み、主がよみがえるまで見守っていよう。主はよみがえることになるからだ。だが、主が生きるにせよ、死ぬにせよ、キリストがおられるところに、主のしもべも必ずそこにいるのだ」。おゝ、ならば、勇敢な霊たち。あなたがたはキリストの旗印がずたずたに引き裂かれているときも、キリストのためにその兵籍に留まるではないだろうか? 主の武具に血のしみがついているときも、主の下で兵籍に留まるではないだろうか? たとい主が殺されたと報告されるときも、主のもとに馳せ参じるではないだろうか? あなたがたは幸いなるかな! あなたの忠義は、あなた自身の永遠の永遠となるであろう。あなたがたこそ主が誉れを喜んでお与えになる兵士たちである。

 イタイは、ダビデの傘下に入ったばかりでしかないときに、完全にダビデに身を捧げた。ダビデは云っている。「あなたは、きのう来たばかりなのに、きょう、あなたをわれわれといっしょにさまよわせるに忍びない」。しかしイタイは自分の来たのがきのうであろうと二十年前であろうと頓着せず、こう宣言している。「王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます」。キリスト者生活は、徹底的な献身によって始めるに越したことはない。あなたがたの中に誰か、キリスト者であると告白していながら、一度も自分をキリストに全くささげ切ったことのない人がいるだろうか? いいかげんにやり直すべきときである。これは、私たちの《主人》に私たちがささげる礼拝の、最初の形の1つたるべきである。――この、自らを主に全く服させることはそうである。主のみことばによれば、私たちの信仰の最初の告知はバプテスマによるべきであり、バプテスマの意味は――すなわち、水に浸されることの意味は――死と埋葬と復活である。この点に関する限り、その誓いはまさにこうである。「私はこれよりキリスト以外の一切に死にました。いま私はキリストのしもべです。これからは、誰も私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから[ガラ6:17]。頭から爪先まで私には透かし模様が入っています。私は、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られました[ロマ6:4]。これ以後私が主に属する者であることを示すためです」。さて、あなたがバプテスマを受けたことがあるかないかは、あなた個人のこととしたいが、いずれにせよ、このことは正しいに違いない。――すなわち、これ以後あなたはすでに死んでおり、あなたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるのである[コロ3:3]。キリストがあなたのものとなるや否や、あなたはキリストのものとなったはずである。あなたが主に身を任せる日には、真っ先に、「私の愛する方は私のもの」が「私はあの方のもの」[雅2:16]と結びつくべきである。

 また、イタイが自らをダビデに明け渡したしかたは、最も自発的なものであった。誰もイタイをそうするように説き伏せはしなかった。事実、ダビデはそうしないよう説得したように見受けられる。ダビデは彼の心根を調べ、試してみたが、彼は自発的に、真情をこめてこう云った。「王さまがおられるところに、しもべも必ず、そこにいます」。さて、愛する若い方々。もしあなたが主イエス・キリストをあなたのものであると信じているとしたら、明確な行為と行ないによって、自分自身を主にささげるがいい。何の圧力も議論も必要としない、この一大衝動を感じるがいい。――「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」[IIコリ5:14 <新共同訳>]。だが、あなたの義務があなたに訴えるのを待っていてはならない。というのも、その献身が自由なものであればあるほどそれは受け入れられるからである。聞くところ、最初の優しい一押しで葡萄から流れ出した葡萄酒ほど美味なものはないという。絞り出すのが長くかかればかかるほど、その果汁は味気なくなる。私たちは、人から無理矢理絞り出した奉仕を好まない。そして確かに愛の主は強制労働をお受け入れにならないであろう。しかり。あなたの自発的な心を現わすがいい。こう云うがいい。――

   「取らせ給えや 私自身(わがみ)を、われは
    常にみな、ただ 汝がものならん」。

私の心は、その主に奉仕することを慕いあえいでいる。イタイが示したのと同じ自発的な思いをもって、ダビデの主にあなた自身を厳粛に献身するがいい。

 さらに、私の用いた1つの言葉はもう1つの点を示唆している。すなわち、イタイはこのことを非常に厳粛に行なった。彼は私たちキリスト者が行なってはならないような、また、行ないたいと願ってはならないような誓いを立てたが、それでも私たちはこの明け渡しをそれと全く同じほどの厳粛さをもって行なうべきである。ドッドリジ博士の『キリスト教信仰の上昇と向上』には、非常に厳粛な献身の文句がある。キリストに身をささげようとする青年たちに彼は、これに署名することを勧めている。私はそれを実行したが、人にもそれを勧められるとは云えない。というのも、残念ながら、そこには多少の律法精神が伴っており、それが魂を奴隷状態にしかねないのではないかと思うからである。私の知っている一部の人々は、キリストへの献身宣誓書を書き、それに自分の血で署名する。私は勧めも咎めもしないが、こう云いたい。完全な奉献は何らかのしかたでなされなくてはならず、それは慎重に、また、真剣な思いをもってなされるべきである。あなたは代価を払って買い取られたのである[Iコリ6:20]。それゆえ、明確なしかたであなたの主があなたのうちに有しておられる所有権を認め、あなたのからだと霊と魂の権利書を主に譲渡すべきである。

 そして、イタイはこのことを公に行なったと思う。いずれにせよ、彼は、「引き返しなさい」、とダビデが云ったとき、誰からも見えるようなしかたで行動したし、先頭を切って進軍していった。――かの川を越える最初の者となった。おゝ、しかり。愛する方々。あなたは公に自分はキリスト者であると認めなくてはならない。もしあなたがキリスト者であるとしたら、裏通りをくぐって天国にもぐり込もうとしてはならない。むしろ、男らしく、あなたの《主人》のように、あの狭い道を行進していかなくてはならない。主は決してあなたのことを恥ずかしく思われなかった。そう思って良い理由があっても関係なかった。いかにしてあなたは、恥ずかしく思う理由など何1つないこのお方を、恥ずかしく思うことができるだろうか? 一部のキリスト者たちは、信仰告白を全くしなければ、気楽に暮らせると考えているらしく思われる。羽目板のかげにいる鼠のように、彼らは蝋燭の光の後で姿を現わし、パン屑をさらっては、こそこそと帰って行く。私はそのような暮らしを送りたいとは思わない。確かに恥じることなど何もないのである。キリスト者――その名前を誇りとしようではないか! 主イエス・キリストを信ずる者――もしも良ければ、それを玄関の表札に書き記そうではないか。なぜそれに赤面すべきだろうか? 「ですが」、とある人は云うであろう。「私はどちらかというと物静かにしていたいのです」。私はいま、この臆病な物静かさの下に発破を仕掛けようと思う。主イエスは何と云われただろうか? 「人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。しかし、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます」*[マタ10:32-33]。自分の十字架を負い、そして主について行くがいい[マタ16:24]。というのも、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」[ロマ10:10]からである。私たちの《主人》は、高い所に上られたとき、すべての造られた者に福音を宣べ伝えよと私たちに命じられた[マコ16:15]。では、それを主はどのように云い表わされただろうか? 「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。それゆえ、そこには信じることと、信じていることを認めることとがなくてはならない。「ですが、表立ってキリストを告白しなくとも、私が信仰者として救われることはありえないのでしょうか?」 愛する方々。あなたには、自分の《主人》の命令を改竄しておいて、「主は恵み深いお方ですから、これわ省いても赦してくださるではないでしょうか?」、などと云う権利はない。2つの命令の1つをないがしろにしてはならない。むしろ、主のみこころのすべてに従うがいい。もしあなたにイタイの精神があれば、こう云うであろう。「王さまがおられるところに、しもべも必ず、そこにいます」、と。

 私はこの件を、夜イエスのもとに来たニコデモ[ヨハ3:2]や、弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ[ヨハ19:38]のような人たちの良心にゆだねたいと思う。願わくは、そうした人々が公然と姿を現わし、自分の《主人》を認めるように。そうすれば主が自分たちを認めてくださると信じてそうするように。

 II. 第二に、この宣言には何が伴っていただろうか? イタイについて云えば、そこに何が伴っていただろうか?

 最初に、それ以後の彼はダビデのしもべとなった。むろんダビデの兵士として、彼はダビデのために戦い、ダビデの命令を行なうべきであった。方々。あなたは何と云うだろうか? あなたは片手をキリストに挙げてこう宣誓するだろうか? 「これより私は、あなたのしもべとして生き、私の心ではなく、あなたのみこころを行ないます。これからは、あなたの命令が私の掟です」。あなたはそう云えるだろうか? 云えないとしたら、主を欺かず、後ろに引き下がるがいい。願わくは聖霊があなたに、このように始め、このように貫き、このように終える恵みを与えてくださるように。

 次にイタイにとってこのことに伴っていたのは、彼がダビデの王権の確立のために死力を尽くすべきだということである。名ばかりのしもべとなるのではなく、彼の兵士として、必要とあらば王のために向こう傷を負うことも、負傷することも、死をも覚悟するべきであった。それこそ、イタイが、無骨な兵士言葉で意味していたことである。彼はそうすることを厳粛に誓った。さて、もしあなたがキリストの弟子になりたければ、主の恵みにより、これからは主の御国の進展を防護しようと決意するがいい。もし激しい戦いがあるならば、そこに加わることを、また、もし決死隊が必要とされるならば、それを率いることを、また、もしあなたの《主人》の御国の進展のために召されるならば火の中水の中をくぐり抜けることを決意するがいい。幸いなことよ、《小羊》が行く所には、どこにでもついて行き[黙14:4]、自らを完全に自分の主にささげて、心を尽くして仕えようとする人は。

 しかしイタイは、この約束において、自分の主人の身辺に個人的に付き添うことを宣言している。それこそ実際、この件の要であった。「王さまがおられるところに、しもべも必ず、そこにいます」。兄弟たち。それと同じ決意を心の中で固めようではないか。キリストがどこにおられようと、そこに自分もいる、と。キリストはどこにおられるだろうか? 天国である。やがて私たちはそこにいることになる。キリストは地上のどこに霊的にはおられるだろうか? 答えよう。ご自分の教会の中におられる。教会とは、信仰を有する人々の集まりである。そして、そうした人々が集まる所には、キリストもその中におられる[マタ18:20]。よろしい。ならば、私たちは教会に加わるであろう。というのも、私たちの主、《王》がおられる所に、そのしもべたちもいるべきだからである。贖われた者たちの一覧が読み上げられるとき、私たちはその名簿の中に見いだされるであろう。私たちの主の御名もそこにあるからである。

 それ以外のどこにイエスは行かれただろうか? その公生涯の開始時に主はバプテスマの水の中に下られた。私たちも、《小羊》が行く所にはどこにでもついて行こうではないか。その公生涯を閉じるとき、主はパンを裂いてこう云われた。「わたしを覚えてこれを行ないなさい」[ルカ22:19]。足繁く主の聖餐に集うがいい。というのも、もしもこの地上に主がご自分の子どもたちに自らをお現わしになる場所が1つでもあるとしたら、それは主の御名でパンが裂かれる場所だからである。今、1つの秘密を明かさせてほしい。あなたがたの中のある人々はそれを聞いたこともあるかもしれないが、すでに忘れているであろう。それはこうである。――私たちの主は普通は、ここで月曜の晩に行なわれる祈祷会の中におられ、実際、ご自分の民が祈るためにともに集まっているときには常に、そこにおられるのである。それで私は、本日の聖句をあなたに読み上げ、果たしてあなたがこの基準に達しているかどうかを見てみよう。――「わが主、わが王がおられる所には、祈祷会であろうと、説教であろうと、しもべも必ず、そこにいます」。もしあなたが自分の主を愛しているとしたら、あなたは主がよく来られる場所を知っているはずである。主に従い、万障繰り合わせてもそこにいるようにするがいい。

 主イエス・キリストはどこにおられるだろうか? よろしい。兄弟たち。主は真理のある所どこにでもおられる。そして私は神に願う。神の真理のある所どこにでもいようと決意する種族を、英国に起こしてくださるように、と。世の中には、立派な会衆がいる所なら常にそこにいようとする、おびただしい数の軟体動物たちがいる。その立派さとは、着物や現金ではかられる立派さである。かつて神の教会で最も尊重されていたのは、最も敬神の念に富む人々であった。今は黄金の方が恵みよりも上に立つようになり果ててしまったのだろうか? 私たちの父祖たちは牧会者の活動が健全かどうかを考えたが、今や問題はこうである。――その人は才気豊かだろうか? 巧言が真理よりも好まれ、雄弁術が福音を牛耳っている。何と恥ずべき時代であろう。おゝ、あなたがた、まだ完全には自分の長子の権を売り払っていない人たち。私はあなたに命ずる。このみじめな退廃から身を引き離すがいい。

 キリストを徹底して愛する人はこう云うであろう。「王さまがおられる所には、しもべも必ず、そこにいます。たといそれが五、六人の貧乏なバプテスト派かメソジスト派とともにいることであろうと、町中で最も蔑まれている人々の間にいることになろうと」、と。私はあなたに命ずる。愛する方々。たまたまあなたがいかなる町や田舎に暮らしていようと、自分の本心に忠実であるがいい。決して節を曲げてはならない。真理がある所ならばどこにでも行くがいい。そして、真理に反することが少しでもある所に行ってはならない。そこにあなたの《主人》は見つからないからである。

 次は何だろうか? よろしい。私たちの《主人》は、私たちの同胞である人々に少しでも善が施されている所では必ず見いだされる。主イエス・キリストは、ご自分の失われた羊を探し求める働きがなされている所では常に見いだされるはずである。ある人々は、キリストとごく僅かな交わりしか有していないという。それも、見れば不思議はない。二人の人は、同じ歩調で歩こうとしない限り、一緒に歩くことができない。さて、私たちの主は、この世を通り抜ける時には常に熱心な歩調で歩まれる。というのも、《王》の命令は急を要する[Iサム21:8 <英欽定訳>]からである。そして、もし主の弟子たちが、蝸牛のようなしかたで這いずっているとしたら、彼らは主とともにいられなくなるであろう。もし私たちの呻いている兄弟たちの何人かが《日曜学校》に出て、そこで小さな子どもたちの面倒を見ることを始めるとしたら、彼らはかつてこう云い云いしておられた彼らの主に出会うことになるであろう。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい」[マコ10:14]。もし他の人々が小さな集会を開くことにし、無知な人々を教えることにするとしたら、彼らはそこで主を見いだすであろう。主は、無知な迷っている人々を思いやる[ヘブ5:2]お方であったからである。私たちの主は、砕かれるべき枷、取り除かれるべき重荷、慰められるべき心がある所におられる。そして、もしあなたが主と常にともにいたければ、あなたはそうした奉仕を助けなくてはならない。

 私たちの《主人》はどこにおられるだろうか? よろしい。主は常に真実と正義の側におられる。そして、おゝ! あなたがた、キリスト者である人たち。あらゆることにおいて――政治、経済、その他すべてにおいて――世間受けすることではなく、正しいことを守るように心がけるがいい。僅かな間だけしか褒めそやされないようなことに膝を屈してはならない。むしろ、廉直さと、博愛と、神の御国と誉れと、人間の自由と進歩とに呼応する事がらに堅く立つがいい。誤ったことを行なうのは決して賢明なことにはなりえない。正しくあることが愚かであることは決してありえない。圧政や抑圧は決してキリストの心にかなうことであるはずがない。すべての清く、愛すべき、評判の良いこと[ピリ4:8]を常に守るがいい。そうすれば、そうする限りにおいて、あなたはキリストとともにいることになるであろう。節制、純潔、正義――これらは主がことのほかお気に入りのものである。主のために、最善を尽くしてこれらを押し進めるがいい。

 何にもまして、いかにイエスが密室の祈りを愛されたかを覚えておくがいい。そして、もしあなたがキリストともにいようと決意するなら、あなたは恵みの御座のもとで大いに過ごさなくてはならない。

 私はこうした点のそれぞれについて、あなたを長々と引き留めようとは思わない。むしろ単純に、イタイの宣言はこのことをも意味していたのだ、と云おう。――すなわち、彼はダビデの境遇を共有しようとしたのである。もしダビデが大いなる者となるなら、イタイは喜ぶであろう。もしダビデが追放されるなら、イタイはダビデの放浪に付き添うであろう。要するに、神の力によって私たちはこう決意しなくてはならない。降っても晴れても、誰がともにいようといまいと、そして、生きるにせよ死ぬにせよ、キリストとともにいよう、と。あゝ、この「死ぬ」という言葉が、何とそれを甘やかなものとしていることか。なぜなら、そのとき私たちはキリストとともに生きてきた幸いな結果を刈り取るからである。私たちは最後に階上に行き、すべての人に暇を乞い、それから、こう感じることになるであろう。主は、生において私たちが主とともにいたのと同じように、死において私たちとともにおられるのだ、と。私たちの良い行ないは、私たちが死につつあるとき決して自信の根拠にはなりえないが、それでも、もし主が私たちに力を与え、《小羊》が行く所にはどこにでもついて行けるようにし、断固とした、明確で、徹底的に、廉直なキリスト者生活を送れるようにしてくださるとしたら、私たちの死の枕が、後悔の茨が詰まったものになることはないであろう。むしろ私たちは、自分ができる限り忠実な証しを立ててきたことについて神をほめたたえざるをえないであろう。そのような場合私たちは、死のうとするとき、もう一度やり直して、自分の人生の過ちや偽りを改めたいと願いはしないであろう。しかり。愛する方々。死においてイエスと二人きりになることは、非常に非常に甘やかなことであろう。主は私たちの病において私たちの床をことごとく整えてくださるであろう。私たちの臨終の枕を柔らかくしてくださるであろう。そして私たちの魂は、主の愛しい唇で口づけされてこの世から消失し、私たちは永久永遠に主とともにいることになるであろう。主に最も近い所にいる者たちについて、こう云われている。「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは白い衣を着て、彼とともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである」*[黙14:4; 3:4]。

 しめくくりに、こう述べることにしたい。私たちの主イエス・キリストは、私たちの手から今晩、そのような献身の言葉をお受け取りになるだろうか? もし私たちが主に信頼して救われようとしているとしたら、主は私たちが、生きてある限りは主とともにいますと云うことをお許しになるだろうか?

 答えよう。主は、私たちが自力に頼ってそう云うことをお許しにならないであろう。かつてひとりの若者がこう云った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります」[マタ8:19]。だがキリストは彼を冷たくあしらわれた。また、もう少し年長の者がこう云った。「たとい全部の者があなたを捨てても、私は捨てません」*[マコ14:29]。だが、それに答えて彼の《主人》は、彼の信仰がなくならないように祈られた[ルカ22:32]。さて、あなたはペテロがしたように約束してはならない。さもないと、より大きな失敗を犯すことになるであろう。しかし、愛する方々。この自己献身は、もし私たちがキリストの弟子であるとしたら、キリストが私たちに期待されるものである。主は私たちがご自分よりも父や母を愛することお望みにならない。私たちは主のためにはすべてを捨てる覚悟をしなくてはならない。これは、私たちの《主人》が私たちから期待しておられることばかりでなく、主が私たちから受けてしかるべきことである。

   「驚くばかりの この主の愛の
    求むは わが魂(たま)、命と、すべて」。

 このことも、主が私たちを助けて行なわせてくださることである。というのも、主は私たちに、もし私たちが主の御手から求めさえするなら、恵みをお与えになるからである。そして、これこそ主が、恵み深く報いてくださること、また、ヨハネ12章の、あのえり抜きのみことばにおいて、すでに報いてくださったことである。そこで主は、26節においてご自分の弟子たちについてこう仰せになっている。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」。おゝ、永遠の中で神から誉れを与えられるとは、いかなることであろう。そのとき神はこう云われるのである。「後ろに下がるがいい。御使いたち。道をあけよ。熾天使、智天使たち。今からやって来るのは、私の愛する御子のために苦しんだ者なのだ。今からやって来るのは、わたしのひとり子を、その顔がつばきで汚されていたときにも、恥ずかしく思わなかった者なのだ。今からやって来るのは、イエスとともに晒し台に立ち、そのために悪口雑言を浴びた者なのだ。後ろに下がれ。お前たち、御使いたち。この者たちは、お前たちよりも大きな誉れを受けるのだ」。確かに天の御使いたちは、黄金の街路を行き巡り、殉教者たちに出会うたびに、彼らの苦しみについて尋ね、こう云うに違いない。「あなたは私たちよりもずっと恵まれています。あなたは主のために苦しみを受け、死ぬという特権にあずかったのですから」、と。おゝ、兄弟姉妹。イエスのために生きるという特権に飛びつくがいい。この日、主に自ら献身するがいい。この時以後は、自分を富ませるためにでも、栄誉や尊敬をかちとるためにでもなく、イエスのために、イエスのためだけに生きるがいい。おゝ、もし私が主をこの場であなたの前に置くことができるとしたら、もし私が主をこの演台の上に立たせることができたとしたら、それも、ゲツセマネからその血の汗をまつわりつかせたままの主にやって来ていただくか、あの十字架の上から、その栄光に輝く、また私たちの贖いの血を流し出させる生々しい傷を帯びたまま降りて来ていただくことができたとしたら、私はあなたがたひとりひとりがこう云うのを聞こえる気がする。「主イエスよ。私はあなたのものです。そして、あなたがおられる所なら、生きるためでも死ぬためでも、しもべも必ずそこにいます」。そのように、主がその最も恵み深い御霊によって私たちを助けてくださるように。御霊こそ、私たちのうちにあって、私たちの一切の行ないを作り出されるお方なのである。イエスのゆえに。アーメン。

 

骨の髄まで忠実[了]

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