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尋ねられるべき問い

NO. 1511

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル

(本説教の後で、氏の子息トマス・スポルジョンによる送別説教がなされた)


「しかし、だれも問わない。『私の造り主である神はどこにおられるか。夜には、ほめ歌を与え、地の獣よりも、むしろ、私たちに教え、空の鳥よりも、むしろ、私たちに知恵を授けてくださる方は。』と。」。――ヨブ35:10、11


 エリフは、地の権力者たちが困窮する者らを虐げていることに気づいた。そして、その傲慢な暴虐の原因は、彼らが神を忘れていることにあるとした。「しかし、だれも問わない。『私の造り主である神はどこにおられるか。……』と」。確かに彼らは、神について思うことがあったとしたら、それほどの不正を働きはしなかったであろう。さらに悪いことに、――もし私がエリフを正しく理解しているとしたらだが、――彼は、虐げられている者たちの間でさえ、その心には同じ主からの離反があったことに不平を云っていた。彼らは、力ある者の腕のために助けを叫び求めた[ヨブ35:9]が、不幸なことに、自分たちの造り主である神に向かって叫んだのではなかった。神がそうしたすべての者たちをいつでもあわれみ、すべて虐げられている人々のために、正義とさばきを行なおうとしておられても[詩103:6]関係ない。大きな者であれ小さな者であれ、抑圧者であれ被抑圧者であれ、私たちの性質の中には1つの共通した欠点があり、それを使徒はロマ書でこう述べているのである。「悟りのある人はいない。神を求める人はいない」[ロマ3:11]。天来の恵みがやって来て、私たちの性質を変えるまで、「私の造り主である神はどこにおられるか。夜には、ほめ歌を与えてくださる方は」*、と云う者は誰ひとりいない。これは非常に大きな欠点であり、このことについて私たちはほんのしばし語ることにしたい。また、願わくは聖霊がこの言葉を祝福してくださるように。

 I. では第一に、《こうした、ないがしろにされていた種々の問いを、じっくり考えてみよう》。最初はこうである。「私の造り主である神はどこにおられるか」。この聖句には4つの問いがあるが、いずれも私たちに、このことを忘れることの愚かさを思い起こさせるものである。最初に、どこに神はおられるのだろうか? この世のいかなるものにもまして、私たちは神のことを考えるべきである。ポープは、「人間の真に研究すべくは人なり」、と云った。だが、それよりもはるかに真実なこととして、人間の真に研究すべくは神である。人間は、人を第二のこととして研究するがいい。だが、神は第一に研究すべきである。悲しむべきは、神はすべてのすべてであられ、私たちはすべてを神に負っており、神に臣従する義務があるにもかかわらず、神をないがしろにしているということである。一部の人々は、人という人のことを考えながら、神についてだけは考えない。他のあらゆるもののためには余地を設けるが、神のための余地は心に全くない。他の人格関係における義務はきわめて几帳面に果たすのに、自分の神のことは忘れている。誰に対してであれ、当然支払うべき負債を払わなければ自分を卑劣な者とみなすだろうに、神からは盗みを働く。彼らは神の誉れを盗むが、それを全く意に介さない。神から従順を盗む。神の律法が彼らに支配力を有していないからである。神からその賛美を盗む。神の御手から日ごとに与えられていながら、自分たちの偉大な《恩恵者》に対して何の感謝もささげないからである。「だれも問わない。『私の造り主である神はどこにおられるか』と」。話をお聞きの愛する方々。あなたは、この罪を確信させられているだろうか? あなたはこの広壮な家の中を行きつ戻りつしながら、これをその宮殿としておられる《王》にお目にかかりたいと欲したことが決してないだろうか? この大いなる饗宴を楽しんでいながら、自分の《主人》にお会いしたいと願ったことが一度もないだろうか? 外へ出て自然界の様々な場を行き巡りながら、その息によって花々を匂わせ、その鉛筆によって雲を描き、その微笑みで陽光を作り、その眉をひそめて嵐を起こすお方を知りたいと願ったことが一度もないのだろうか? おゝ、これは奇妙な、悲しい事実である。――神がこれほど私たちの近くにおられ、私たちにとってこれほど必要でありながら、しかし慕い求められることがないとは!

 次の点はこうである。「だれも問わない。『私の造り主である神はどこにおられるか』と」。おゝ! 考えることをしない人間よ。神はあなたを造られた。あなたの骨々のくすしい仕組みを考案し、その一本一本をしかるべき場所に嵌め込まれた。針仕事のように、あらゆる神経、血管、腱を縫い合わされた。この、千弦(ちすじ)に倍する精妙な琴を作られた。素晴らしいことに、それはかくも永くに調子(ふし)を乱さないのである。神はあなたの《造り主》であられる。あなたは、ちりの塊であり、それを保つ力を神が引き込められれば、今この瞬間にも崩れ落ちてちりに戻るであろう。神がお語りになるだけで、あなたは分解して、自分が踏みしめている土へと還る。あなたは一度も自分の《造り主》について考えないのだろうか? この方によってこそ、考える力が与えられているというのに、そのお方について全く考えないというのだろうか? おゝ、これは、いかに奇妙に歪んだ狂気であることか。人は、自分がこれほどくすしいみわざで作られていること、自らのからだの内側に自分を狂人にするか礼拝者にするだろうものがあることを見いだしながら、しかし、そうしたすべてにもかかわらず、この《創造主》とは全く関わりを持っていないかのように生きているのである。――「だれも問わない。『私の造り主である神はどこにおられるか』と」。

 次の一句には大きな力がある。「だれが夜には、ほめ歌を与えるか」 <英欽定訳>。これはつまり、神は私たちの《慰め主》だということである。愛するあなたがた、神を知っている人たち。確かにあなたはこう証言するに違いない。たといあなたが非常に厳しい試練を受けたことがあっても、神があなたの近くにおられるときには、常にそうしたものの中にあって支えられてきた、と。あなたがたの中のある人々は、死ぬほどの病気にかかったことがある。だが、自分の病室を愛するようになったあまり、ほとんどそこから出て行きたくないと思うほどになった。その部屋は、神の臨在によってそれほど輝かしいものとなっていたのである。この場にいる私たちの中のある者らは、最愛の者を墓に葬ることがいかなることかを知っている。他の人々は日々の糧に事欠き、毎朝、日ごとのマナを求めて天を見上げざるをえないでいる。だが、あなたの天の御父があなたとともにおられるとき、――語るがいい。あなたがた、神の子どもたち。――あなたの住まいには喜びと歓喜と光があるではなだろうか? 夜の闇が非常に深まるとき、それでも燃える火の柱は砂漠を赤々と照らしてきた。神があなたとともにおられるとき、いかなる呻きも夜を厭わしいものとはせず、あなたは最暗黒の影の中にいる夜啼鳥のように歌ってきた。私は、神の臨在がいかなる喜び、いかなる確信、いかなる内なる平安を人に与えるものか、ほとんど告げることができない。それは、その人に大きな事を忍ばせ、行なわせ、大きな安らぎと争闘をくぐり抜けさせ、屈しても征服させ、死んでも生かす。それゆえ、もし私たち、あわれな苦しむ者たちが私たちの神を、私たちの《慰め主》を、私たちにほめ歌をお与えになるお方を忘れるとしたら、それは非常に悲しいことである。

 かつてふたりの少年が、火の戦車によって天に上って行ったエリヤについて語り合っていた。そのひとりが云った。「エリヤってほんとに勇気があると思うよ。ぼくだったらそんな乗物に乗るのはおっかないよ」。「ああ、だけどさ」、ともうひとりが云った。「神様が御者なら、ぼくは気にしないよ」。キリスト者もそのように云うであろう。彼らは、神が御者となられるなら火の戦車に乗り込むよう召されても気にしない。私たちは正直な人間として、自分が知り、感じていることを語っているが、私たちの同胞たる人々すべてにこう告げるものである。神が私たちとともに臨在しておられる限り、私たちには自分に起こること――悲しむか喜ぶか――について選択の余地がない。私たちは、神ご自身の臨在が私たちの魂を励ますときには、患難さえも喜ぶことを学んできた[ロマ5:3]。なぜ彼らも、ほめ歌の《与え主》を知ることを求めないのだろうか?

 それから第四の点がある。「だれも問わない。『私の造り主である神はどこにおられるか。……地の獣よりも、むしろ、私たちに教え、空の鳥よりも、むしろ、私たちに知恵を授けてくださる方は。』と」。ここで私たちは、神が私たちの《教え主》であられることを思い起こさせられている。神は私たちに知性を与えておられる。私たちが獣や鳥よりも卓越しているのは偶然ではなく、神の賜物のゆえである。さて、動物たちが神に目を向けないとしても、私たちは不思議に思わないが、人間が忘れて良いだろうか? 云うも奇妙なことながら、獣や鳥たちの間には、神に対する何の反逆もなかった。獣は彼らの神に従い、人間に服従している。罪を愛する牛馬だの、背教した鳥だのはいないが、堕落した人間たちはいる。考えるがいい。おゝ、人よ。もしあなたが自分の《造り主》と和解することなく生き、死んでいくとしたら、あなたは蛙か、蟾蜍として造られていた方が、人間として生きたよりもましだったということになりかねないであろう。あなたは、自分が獣ではないことを大いに誇っている。その獣が、あなたを罪に定めることにならないように用心するがいい。あなたは自分が、自宅の上に舞い降りる燕よりも、はるかにまさっていると考えている。用心するがいい。もっとまともに生きるようになり、もっと高貴な物事に心をかけるがいい。たとい鳥たちに選択の自由があり、また、彼らに魂が宿っていたとしても、彼らの吟遊詩人たちは今と同じようにきよらかであろう。彼らは、人間たちがするようにみだらで浮薄な歌を唄うことを拒否し、永遠に神を称える甘やかな詩篇を唄っているはずだと思う。もしいずれか生き物に魂があったとしたら、彼らは御使いたちがそうするのと同じくらい確実に神に身をささげようとするであろう。では、なぜ、おゝ、人よ。なぜあなたは、天賦の優越した才質を有しながら、唯一の反逆者となり、土の鋳型で造られた被造物の中で唯一、創造し給い、教え給う主を忘れる者とならなくてはならないのだろうか?

 こういうわけで、4つの点が出そろった。人は神を、また、自分の《造り主》を、また、自分の《慰め主》を、また、自分の《教え主》を尋ね求めない。人は、四重の狂気に満たされているではないだろうか? いかにしてその弁解ができるだろうか?

 II. かりに、あなたがこうした問いを尋ねていないとしたら、こう思い起こさせてほしい。《神には、あなたに尋ねるべきいくつかの問いがある》、と。

 アダムが神の命令を破ったとき、彼は、「私の造り主である神はどこにおられるか」、とは云わなかったが、だからといって主は彼を放っておかれなかった。しかり。主は出て来られて、1つの声が木々の間を貫いた。恵みで銀白色に輝きつつも、正義に満ち満ちたすさまじい声である。「アダム。あなたは、どこにいるのか?」*[創3:9] 神を無視してきたあなたにも、やがてそのような御声がやって来るであろう。あなたの《審き主》がこうお尋ねになるであろう。「あなたは、どこにいるのか?」 あなたは、カルメル山の頂に身を隠そうと、曲がりくねる蛇とともに海の深みに潜ろうと、その声を聞くであろう。そして、いやでもそれに答えさせられるであろう。とうの昔に風で吹き散らされていたあなたのちりは、再び寄り集まり、あなたの魂があなたのからだに入り、あなたはこう答えざるをえないであろう。「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」、と[Iサム3:6]。

 それから、あなたは第二の問いを聞くであろう。「なぜあなたは、わたしを抜きにして生き、そして死んだのか?」 そして、このような問いが、雨霰と降り注ぐであろう。「わたしが何をしたために、あなたはわたしをないがしろにしたのか? わたしはあなたに無数のあわれみを与えはしなかったか? なぜあなたは、わたしについて全く考えなかったのか? わたしはあなたに、わたしに立ち返るよう懇願しなかったか? なぜあなたは、わたしを拒んだのか?」 あなたは、こうした問いに何の答えもないであろう。それから別の問いがやって来よう。――あゝ! 私がいかに願っていることか。この問いが、まだ答える時間のあるうちに、あなたのもとにやって来てほしいと。――「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう?」[ヘブ2:3] 今晩、私があなたにこのように問うのは、あなたに、何か逃れる道を提唱させるためである。もっとも、あなたの想像力は、その務めには力不足であろう。あなたは、今でさえ何か逃れる道を作り出そうと試みるだけで、途方に暮れるであろう。では、やがてあなたが審かれる時が本当にやって来たときには、いかにいやましてそうなることか! もしあなたがキリストにある神の救いをないがしろにするとしたら、あなたが救われることはありえない。来世において、いかにあなたはこの問いに答えるだろうか?――「どうしてのがれることができましょう?」 あなたは岩に向かって、かくまってくれと頼むであろう[黙6:16]が、彼らはそうした恐ろしい恩恵をあなたに与えることを拒むであろう。あなたは、彼らに自分を粉砕してくれと懇願するであろう。もはや御座に着いておられる《王》の恐ろしい御顔を見ずにすむようにと。だが、それすらも、あなたには拒まれるであろう。おゝ、賢くなるがいい。そして、永遠の《王》の御怒りにいどむ前に、また、その円盾の打出し突起に突進する前に、向きを変えて悔い改めるがいい。なぜ、あなたがたは死のうとするのか?[エゼ18:30]

 III. さて、もし誰か、この聖句の深刻な問いかけに対する答えを求めて、真摯に、「私の造り主である神はどこにおられるか?」、と尋ねるとしたら、《その答えを与えよう》。神はどこにおられるのか? 至る所におられる。今、あなたの回り中におられる。もしあなたが神を求めるとしたら、ここに神はおられる。神は、あなたに対していつくしみ深くあろうと待ち受けておられる。あなたの《造り主》である神はどこにおられるだろうか? あなたの視界の中にはおられない。神を見ることはできない。だが、神はあなたを見ておられる。あらゆる思いと、あなたの霊のあらゆる動きとを読みとり、それを記録すらしておられる。神は呼べば聞こえる所におられる。語るがいい。神は聞いてくださる。左様。囁くがいい。――否、唇で言葉を形作る必要すらない。思いが魂の中にありさえすれば、神はあなたの間近におられ、――というのも、あなたは神の中に生き、動き、また存在している[使17:28]からである。――あなたが自分でも気づく前から、あなたの心を知ってくださる。あなたの《慰め主》はどこにいるだろうか? その方は、その「夜のほめ歌」とともに待ち受けておられる。あなたの《教え主》はどこにいるだろうか? この方は、あなたに知恵を与えて救いに受けさせよう[IIテモ3:15]と待ちかまえておられる。

 「それでは、どこで私は神にお会いできるのですか?」、とある人は云うであろう。あなたが神に会うことのできる唯一の道、――そう試みて良い唯一の道、――それは、かの《仲保者》による道である。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」[Iテモ2:5]。もしあなたがイエスのもとに来るなら、あなたは神のもとに来たのである。「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです」[IIコリ5:19]。その言葉を私たちは宣べ伝えているのである。イエス・キリストを信ずるがいい。そうすれば、あなたの神はあなたとともにおられる。あなたの魂をイエス・キリストに預けるがいい。そのとき、あなたは自分の《創造主》を見いだしており、二度と決して、「私の造り主である神はどこにおられるか」、と云わずにすむはずである。というのも、あなたは神のうちに生き、神はあなたのうちに生きることになるからである。あなたはあなたの《慰め主》を見いだしており、あなたは主を喜び、その一方で主はあなたを喜ぶであろう。また、あなたはキリスト・イエスのうちにあなたの《教え主》を見いだしたのであり、このお方は一生あなたを導き、彼方の輝かしい天上界であなたを完璧へと至らせてくださるであろう。

 願わくは聖霊がこの小さな説教を短剣のように用いて、あなたの無関心さを殺してくださるように。キリストのゆえに。

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----尋ねられるべき問い[了]
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