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飢えの苦痛

NO. 1510

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「彼の精力は飢え……ようとしている」。――ヨブ18:12


 ビルダデが宣言しているのは、偽善的で、増上慢で、邪悪な人間がいかなる道を辿るかということであった。そして疑いもなく彼は、ヨブがまさにそのような人間であるとほのめかしているに違いない。ヨブは人を欺いてきたのであり、それゆえ、ついに神の摂理が彼を見つけ出し、彼のもろもろの罪ゆえに彼を罰しているのだ、と。この点においてビルダデは、自分の友に対して大きな不正を犯しているとのそしりを免れない。この三人の、ヨブの惨めな慰め手たちは、彼らの弁論の特定の目当てにおいて間違っていた。だがしかし、各人の所説に関して云えば、その一般的な言明の大部分は真実であると云えよう。彼らは真理を口にしたが、間違った推論を引き出した。そして、ヨブに対して投げつけた非難において狭量であった。確かに偽善者や不敬虔な者の上には、遅かれ早かれ――現世か来世において――考えうる限りのあらゆる呪いが降りかかることにはなるが、あるキリスト者が苦難に陥っているとき、そうした人々が自分の罪ゆえに苦しんでいるのだと判断するのは正しくない。そのように考えるのは冷酷であり、よこしまなことでもある。それにもかかわらず、ビルダデの云ったことは大筋において真実であったため、その適用は不親切で誤ってはいたものの、私たちは彼の口から一句を取り上げることに全く問題を感じないものである。

 多くの人々の場合、彼らの精力は真実に飢えるようになる。そこで私はこの言葉について3つのことを語ろうと思う。第一に、これは確かに不敬虔な人々の上で成就するであろう呪いである。第二に、これは、自分を義とする人々が自分を救おうとするとき、神がしばしばその人の上に及ぼされる懲戒である。そして第三に、――そして、こう云わざるをえないのは嘆かわしいことであるが、――これは、しかるべきほどに神の近くで生きていない信仰者たちに対する懲らしめの1つの形である。――彼らの精力は飢えるようになる。

 I. 第一に私たちは本日の聖句を、《不敬虔な人々の上で成就することになる呪い》として眺めたい。「彼の精力は飢え……ようとしている」。

 これは、単に彼らが飢えようとしているとは云っていない。彼らの精力がそうなるのである。そして、もし彼らの精力が飢えるようになるとしたら、彼らの弱さはどうならざるをえないだろうか? ある人の強さが飢えによって食い破られるとしたら、いかなる飢えが彼の性質全体を食い荒らすことであろう。

 さて、大方の人々は、自分たちの黄金を自分の精力、自分の城、自分のやぐらとしている。そして、しばらくの間、自分の富を楽しみ、それを集めること、それが増し加わるのを見ること、やがてそれが大きな蓄えとなると希望することに大きな満足を見いだす。しかし、あらゆる不敬虔な人は知るに違いない。富は永遠ではなく、しばしば翼を生やしては飛び去ってしまうことを。巨富を有する人々は乞食へと落魄してきた。彼らは大きな冒険を行ない、大きな失敗を得た。確実不変のものは何1つもない。人間は、この世にいる限り、海上の船のようなもので、いつ難破してもおかしくない。おゝ、あなたがた、自分の黄金を自慢し、自分の宝を自分の主たる善と呼んでいる人たち。いつの日か、あなたの精力は飢えることになり、飢饉の犠牲者たちのように、あなたは自分が無力であることを見いだすかもしれない。――あなたがた、以前は自分の金銭があらゆる事がらを満たし、自分を全能の者と感じてきた人たち。

 しかし、もちろん、次のように云われることであろう。すなわち、不敬虔な人の富という精力は、必ずしも常に飢えるとは限らない、と。そして、私は喜んでその点を認めよう。しかし、それは別のしかたでも起こることになるのである。この世の中のいかに多くの人々が自分の富は守っていながら、それにもかかわらず、非常に貧しい者であることか。黄金がなくなるわけではないが、それが手元に留まっていても、彼らを慰めないのである。私はこの2つのうちどちらの方が悪いか分からない。――パンが不足するために飢えることか、パンをあり余るほど有していながら、何を食べても飢えたままとどまっていることか。この世の中には、まさにそうした状態の人々がごまんといる。彼らは、心が望むことのできる一切のものを有している――もし彼らの心が正しければそうである。だが、それは彼らにとって何にもならないように思われる。なぜなら、彼らの霊の中にねたみがあるからである。ハマンを思い出すがいい。彼は酒宴に招かれている。帝国第一の貴族である。自分の君主の寵臣である。だが、モルデカイが門の所に座っているがために、これらのことは一切彼のためにならないのである[エス5:13]。ねたみが彼の魂をただれさせていた。たとい彼がアハシュエロスその人の王座に上ることができたとしても、それは彼に何の違いももたらさないであろう。そこでも彼は不幸であろう。そのすべては、ひとりのあわれなユダヤ人が彼に膝を屈めようとしなかったがためなのである。チープサイドを毎日往来している人々の中には、絶えがたいほどにみじめな思いをしている人々がいる。だがその理由は、分別のある人々に向かっては到底口に出せないようなことにあるのである。話にならないほど些細なことが、着物を虫が食うように彼らを苛立たせ、彼らの地位のあらゆる栄光をむしばんでいる。彼らの精力は飢えるようになるのである。

 そのただれがねたみではなかった場合、それは、それに似通った1つの情動であるかもしれない。すなわち、復讐心である。悲しいかな、私たちは今なおこの地上に存在する復讐心について語らなくてはならない。キリストはこの世に来られ、私たちにこう祈るよう教えてくださった。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」[マタ6:12]。だが、一部の不敬虔な人々は、恨みを心にいだいていることが正しいとすら考えている。ちょっとした無作法な一言、不親切な行ないが積もり積もっては、仕返しの機会が狙われることになる。そうでなくとも、何らかの障害か、神からの一撃がそうした悪者に下れば良いのにという希望がいだかれることになる。そして、もしそうした悪者がそれでも傲然とし、まるで陽気に暮らしていて、なされた不正に何も償いもしないと、被害を受けた側は無念のあまり心をぼろぼろにし、その富の精力は飢えるようになる。

 こうしたことが当てはまらない場合、ことによると、それは、より往々にして、貪欲さによって苦しめられている人々に起こる。金持ちであることほど人を貧乏にするものはない。富を楽しんでいる富んだ者を見つけることは困難である。富んだ人とは自分の欲するすべてを有している人であり、多くの人は数シリングの週給をもとにして富んでいる。貧しい人とは自分の欲するものを得ていない人であり、二万ポンドの年収がある人々もその名簿の中に入っている。事実、こうした貧困さがどこにもまして見いだされるのは、こうした貧しい金持ちたちの間ではないだろうか? 守銭奴はしばしば強盗が押し入るからといっておちおち眠れないような者として描かれる。彼は真夜中に起き出しては、自分の貯め込んだ宝を数え上げる。公債や、有価証券や、抵当権証書といったものが、結局紙屑にしかならないのではないかと恐々している。あまりにも大きな生活の手段があるために、自分の生活を苛立たせ、やきもきさせ、そこなっている。――このような人はどこにでもいるわけではないかもしれないが、非常に多くを有していながら、あたかも商売を始めたばかりの、ほとんど一文無しの男と同じくらい神経質で、意地汚く、気難しい人々を見いだすことは容易なことである。――彼らの精力は飢えつつある。もし誰かが彼らに向かって、「そのうちに、あなたは何千ポンドもの財産持ちになるんでしょうね」、と云ったとしたら、彼らはこう云うであろう。「あゝ、もし私がそれだけのものを得たら、私は完璧に満足するでしょうよ」。彼らはとうの昔にそれだけの額を貯え、その十倍も得ている。すると今度は彼らはこう云う。「あゝ、金を欲するということは、金を相当に自分のものにするまでわからんものですよ。大量の金を自分のものにすると、もっと持たなくてはなりません。私たちは黄金の流れが首まで達していますが、底から足が離れて泳げるくらいにならなくてはなりません」。あわれな愚か者たち! 彼らは自分たちを浮かせるに足るだけの水を得ているのに、溺れるほどでなくてはならないというのである。足のなえた人にとって一本の杖は重要なものである。それは私も完全に分かる。だが一千本の杖はひとりの人にはとんでもない重荷となるであろう。誰かが十分なものを有してるとき、その人はこれほど便利な支えを有していることに感謝するがいい。だが、その人がそれ以上のものを蓄積するまで、自分の持っているものを用いようとしなければ、その人の財産の慰めは消え失せとしまい、その人の精力は飢えるようになる。

 場合によっては、そうした飢えは私がうまく描き出せないような形を取る。時としてある人々は自分の黄金を自分の精力としていながら、全く安楽に感じていない。ある人々は自分の頭脳が病んでいるのだと考えているが、むしろその病はもう少し下の部分にあり、彼らの心を冒している公算が大きい。私たちの知っている一部の富裕な人々は、自分を貧乏だと信じており、いずれ救貧院で死ぬことになるのではないかという考えにとりつかれている。百万長者であっても関係ない。また、他の人々は、一円一銭を分け合う際にもいがみあう。一万ポンドの損失でさえ、彼らにとっては蚤の喰い跡のようなものであろうとそうである。莫大な財産の中にありながら、彼らは堅固な安息を全く見いださない。彼らはしばしば自分自身の召使いたちのように朗らかにしていられたらと願う。彼らは自分の馬車の中でだらしなくもたれかかり、村の腕白小僧たちの薔薇色の頬を眺めていると、その子たちのような健康が欲しくてたまらず、もしあのような食欲を得られるなら、その襤褸服を着てもかまわないとさえ感じる。家族愛と家庭内の喜びに囲まれた貧民たちを眺めるとき、また、わが身の喜びがその方面ではいかに僅かかを感じるとき、彼らは大いにそうした人々をねたましく思う。世俗的な人々がこの世で落ち着かなく感じさせられるのは大きなあわれみである。このように神が彼に、彼の偶像たちに嫌気を差させようとされるのは、希望をいだくべき1つの根拠である。しかし、悲しいかな、ある人々は現世では安息していないが、来世で安息しようともしない。彼らは日の下で神が彼らに与えておられるものに何の安息も感じないが、魂の確かな憩いであられるお方のもとに飛んで行こうとしない。

 富の中に見いだされる精力の衰えについて、これ以上長々と物語る必要はないであろう。キリストの外で、また神から離れて慰めを見いだそうとするあらゆる種類の人々について、このことは同じである。「彼らの精力は飢えようとしている」*。何にもまさるその陰鬱な実例はソロモンである。

 彼には、その至高の善への追求においてあらゆるものを試す機会があったし、実際にあらゆるものを試した。それで私たちはその実験を繰り返す必要はない。彼は、ありとあらゆる種類の金属を黄金に変えてみようと試みた大錬金術師であったが、そのすべてに失敗した。一度は数々の大宮殿を建てていたし、建築熱にとりつかれている間は、幸福であるように思われた。だが、いったんそうした豪勢な建物群が完成してしまうと、彼は云った。「空の空。すべては空」[伝1:2]。それから彼は造園や、希少植物の栽培や植樹を計画し、噴水を掘ることに熱中したが、それに飽きると自分の果樹園や、葡萄畑に目を向け、再びこう呟いた。「空の空。すべては空」。それから彼は、笑いや狂気を試してみようと思った。人間の生の、有益な側面と同じく、その滑稽な側面をも試そうとした。それで彼はありとあらゆる種類の快楽に没入し、男女の歌うたいを集め、あらゆる肉の喜びをわがものとした。だが、そうした杯を深々と飲み干した後で、やはり彼は云った。「空の空。すべては空」。あわれなソロモン! 彼には大きな精力があったが、彼の精力は飢えるようになった。彼はあちこちに目を向けた。上をも下をも、右手をも左手をも捜したが、自分の魂の糧を何も見いださなかった。彼は影をひったくり、あぶくで自分を養おうとした。飽満のただ中で飢えの虜となっていた。そして、イスラエルのつましい人々が、自分たちの一生を良いもので満たし、自分たちの若さを鷲のように新しくされる神[詩103:5]をほめたたえている間、あわれなソロモンは日の下には何1つ新しいものがない、人は人生を送るよりは生まれてこなかった方がましだと愚痴を云っていたのである。

 さて、注意すべきことは、たといこうした飢えが不敬虔な人の前半生にやって来なくとも、その生涯を閉じるときには彼のもとにやって来るということである。私たちになすべきことがたくさんあり、思いが何かで一杯になっているときには、あれこれの考えを遠のけておくこともできるかもしれない。だが、ついに神がかの、骨と皮ばかりの手をした使者を私たちのもとにお送りになるとき、――その使者の雄弁は魂を刺し貫き、その鈍く黒ずんだ目玉のない目は魂に火を突き立てるが、――そのとき、あらゆる人間的な精力は飢えることとなる。死がその人と二人きりで残されるとき、彼は自分の金袋が何ら貴重なものを含んでいないことを悟る。なぜなら、彼はそれを置いて行かなくてはならないからである。いま彼の広大な田野はどうなるだろうか? いま彼の広々とした地所はどうなるだろうか? いま彼の御殿のような住まいはどうなるだろうか? いま彼が愛しいと呼んだ一切のものはどうなるだろうか? いま彼の博士号や彼の学識はどうなるだろうか? いま彼の名声や彼の名誉はどうなるだろうか? いま彼の家庭内の慰めや人生の喜びですらどうなるだろうか? それらはみな飢えるようになる。彼が死ぬ間際になると、それらは彼の助けにはならない。彼の内側にある魂、彼が語ることを許そうとしないだろう魂が、今やその飢えた口を開いてこう叫ぶ。「お前は私に糧を与えなかった。神が、神だけが私を満たせたのだ。だのにお前は私に神を与えなかった。そして今、お前は私に臨んでいる飢えを感じている。そして、それをお前は感じざるをえないのだ。それも、永遠に感じるしかないのだ」。悲しいかな、悲しいかな、悲しいかな。人が自分の一生を費やして失望を稼ぎ出し、さんざんに苦労した果てに自分の魂を失い、汗水流して懸命に努力したあげくに競走に敗れ、刻苦勉励の後に地獄に落ちることになるとは。というのも、それが多くの人に起こることであり、それが神から離れ、神の愛する御子の血と義を抜きにして永続的な善を求めている全人類を漂い流している潮流の向かう先だからである。そうした者らのひとりひとりについて、こう云われることになるであろう。「彼の精力は飢えるようになる」、と。

 私はこうした事がらを私自身の心に対して嘆きながら語ってきた。だが私はあなたがたの中のこういう人々に対しても云いたい。金持ちではないかもしれないが、自分の善を自分自身の小さな家庭やその種々の慰めの中で探している人たち。――人生の大目的を学識やそうしたものの中に求めている若者たち。――もしあなたが神のために生きていないとしたら、あなたの精力は飢えることになるであろう。もしあなたが「神の国とその義とをまず第一に求め」[マタ6:33]ていないとしたら、あなたが何を獲得し、いかに一時的な満足を得ていようとも、すさまじい飢えが究極的にはあなたに臨み、あなたはそのとき、糧でもないもののために自分の金銭を費やしたこと、満足させもしないもののために自分の労働を費やしたことを嘆くことであろう。

 II. 第二のこととして、手短に私たちは、本日の聖句をこのようなこととして語ることにしたい。すなわち、《自分で自分を救おうとしている、自分を義とする人々に対して神がお与えになる懲罰の一種》である。

 多くの人々は非常に宗教的であるが、それでも救われていない。彼らが救われていないのは、自分自身の義を打ち立てることに精を出し、神から出た、イエス・キリストにある義に自らを服させていないからである。さて、こうした人々はしばらくの間は自分自身の義に非常に満足しているかもしれない。そして、もし彼らが神の子どもたちでないとしたら、一生の間それに満足しているであろう。彼らの中のある人々はこのように語る。「私は、一度も人に迷惑をかけたことがないと思います。私は常に正直で立派な取引をしてきましたし、子どもたちをきちんと育て上げました。つらい戦いを経てきましたが、それにもかかわらず、誰ひとり私が自分の品性を汚すようなことをしたといって後ろ指を差すことはできません」。しばらく前に私が辻馬車に乗ったとき、その御者は老人であった。彼の辻馬車から降りたとき、私は彼の年齢に触れ、彼もそのことについてこう語った。私は云った。「よろしい。一生の終わりには、あなたもより良い世界で受け継ぐ分を受けるでしょうな」。「へえ、あっしもそう思いまさあ」、と彼は云った。「あっしは一度も酔っ払ったことがありやせん。それは、はっきりしておりやす。これまでの人生で一度も。いつだって礼儀正しい奴だと思われてきやした。悪い言葉は一度も使ったことがありませんし、時には教会にだって行きやす」。彼は完璧に満足しているように見えた。それで、私が彼の安泰さを確証してやらなかったことに仰天することになった。彼の自信は、英国人の全階級がよりかかっている共通の基盤にあり、彼らは必ずしも常にこうした形で云い表わしはしなくとも、とどのつまりはこう考えているのである。――すなわち、一種の善良さ、非常に貧弱な、まだら模様の善良さによって、人々は結局は天国に行けるのだ、と。さて、神がある人を救おうとされるとき、心に飢えがやって来て、その人ご自慢の美点をことごとくむさぼり食らってしまう。何と、霊的に飢えた魂は、自分を義とする五十年を手に取ると、一片のパンのように呑み込んでしまい、もっと寄こせと叫ぶものである。私たちの善良さは、律法の要求やこの場合に必要とされるものにくらべれば無である。私たちの見事な義は、神の御霊が霜のように働かれるとき、いかに秋の葉っぱのようにしなびてしまうことか。私たちの数々の美徳は、金鳳花で飾り立てられた春の牧草地のようなもので、神の《息吹》がそれに吹きつけると、草は枯れ、花はしぼむ。すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだからである[イザ40:6-7]。聖霊の働きの一部分は、人間性のあらゆる栄光を枯らし、生まれつきの美徳という、私たちが非常に重んずるこうした一切の麗しい花々を損ない、草刈人が大鎌を用いてそうするようにそれらを刈り倒すことである。まことに、善なる者はいない。ひとりもいない[詩14:3; 53:3]。私たちはみな不信仰と罪との中に生来閉じ込められている。天性の最高の状態にあってさえ、罪は全身に影響を及ぼしている。「頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている」[イザ1:5]。そして、聖霊が私たちにそのことを感じさせてくださるとき、それは大きな祝福である。私たちの精力が決定的に飢えるようになるのを感じることは悲痛ではあるが、その結果は幸いである。

 左様。また、ある人々が非常に満足しているのは、殊勝な生き方に加えて、ある特定の儀式を行なっているからである。そうした儀式に、彼らは大きな神聖さを帰している。近頃行き渡っている1つの理論は、癲狂院や精神病院にいるわけでもない一部の人々が信じているものである。すなわち、聖礼典の執行によって恵みが伝わるという理論である。理性ある存在が、そのようなことを考えられるとは驚くべきだが、他の事がらでは理性的に見える人々が、水滴を幼児の額に振りかければ、その子を新生させることができるとか、パンを食べ葡萄酒を飲めば本当にキリストが魂に伝わるなどといった類のことを信じているのである。水液の塗布や、物質的な祝いの催しが霊的な恩恵を心にもたらしうるというのである。――バアルの祭司たちにこそふさわしい奇怪な教理であり、そう言明されるのを聞く者が自分の耳を疑うほどに愚劣なものである。こうした働きを経ており、堅信礼だの何だの私の知らないその他のものを受けたがために、多くの人々は満足している。非国教会の群れにたまたま属する他の人々は、教会に加入するという苦しい試練を経たか、日曜学校の集会に集ってきたか、種々の協会に寄付してきたため、自分たちは救われているものと考えている。地獄の相続人たちは、こうした外的な事がらで安心しきってしまうが、天国の相続人は決してそうはできない。彼らの精力は、もし彼らが外的な宗教を自分の精力としているとしたら、やがて飢えるようになり、彼らはこう叫ぶことであろう。「私の神よ。鹿が谷川の流れを慕いあえぐように[詩42:1]、私の魂はあなたを慕いあえぎます。私は外的な形式では満足できません。内的な恵みを欲します。そして恵みが形式に伴うのだと告げられても満足できません。私は真理のうちにある神の恵みを知りたいのです。それを感じることを切望しているのです。それを私自身の人生の中で現わしたいと思い焦がれているのです」。私は、赤子のときに新しく生まれたのだと告げられても満足しないであろう。内なるいのちを、神の新しいいのちを私の霊の内側で感じたいと欲する。私は、あのパンを食べるときキリストを食べたのだと告げられても、満足しないであろう。私の心はキリストが本当に私のうちで栄光の望みとなっているか、また、私がキリストを糧として生きているか知りたいと切望する。もし私が神とも、その愛する御子とも、私自身の魂の中で、自ら交わりを有していないとしたら、私はあらゆる実体の、儀式的で、祭司的で、また、そうした他の類のものから、嫌悪とともに顔を背ける。愛する方々。私はあなたが、あらゆる聖礼典から離れて、《救い主》のもとへと逃れてほしい。種々の儀式からキリストの十字架へと飛び去ってほしい。そこに、あなたの唯一の希望がある。信仰によって主を仰ぎ見るがいい。というのも、これを抜きにした他の一切は外的で、肉的なものでしかなく、あなたの霊にとって何のためにもならないからである。もしもあなたが外的で非霊的な何かにより頼んでいるなら、あなたの精力が飢えるようになるように。

 多くの人々は、自分の頼みとしていた一切のものを、いかにこの飢えが貫通するかを思い知ってきた。かつての私は、《救い主》を見いだす前には、自分の数々の祈りから僅かな慰めを得ることがいかなることかを知っていた。だが、神の御霊が私を取り扱われたとき、私は自分の祈りについて祈りをささげる必要があることを見てとった。私は、自分には何らかの種類の悔い改めがあると思って、そのことで満足し始めていたが、神の御霊が来られたとき、私の悔い改めについて悔い改める必要があることに気づいた。私は自分が聖書を読んでいることにある程度の自信を感じ、公の礼拝に定期的に出席しているので救いがもたらされるだろうと希望していた。だが私は、結局はみことばを欺いていることを見いだした。というのも、私はそれを読んではいたが、信じていなかったからである。聞いてはいたが、受け入れていなかったからである。自分の知識と責任を増し加えてはいたが、それでも神に服従をささげていなかったからである。愛する魂よ。もしあなたがキリストに達さない何かにより頼んでいるとしたら、あなたの精力が飢えるようになるように。あなたは、キリストから離れては全くの弱さとなるとき、最も強いのである。あなたが完全にキリストに、また、キリストだけにより頼むとき、そのときこそ、救いがあなたのうちで成し遂げられる。それまで、そうはならない。願わくは神がその無限のあわれみによって、キリストから離れたあなたの精力のすべてを飢えさせてくださるように。それも、すみやかに。

 III. 最後に、そして非常に熱心に――また、ことによると、この最後の部分は、これまで述べてきたいかなることにもまして、あなたがたの中のほとんどの人々に関係があるかもしれないが、――私はこう信ずる。《神のしもべたちの中の多くの者らの精力は、嘆かわしいほどに飢えつつある》、と。この時代、私たちはみな忙しくしており、忙しくしていることによって、魂を養う種々の定めをないがしろにしがちである。私の意味しているのは、聖書を読むこと、みことばを聞くこと、それを瞑想すること、祈り、そして神との交わりである。あなたがたの中のある人々は、自分にできるほど早起きをせず、祈りを大急ぎで済ましてしまう。また、あまりにもしばしば、晩には一日の多くの心遣いによって、半分眠ったようになっており、祈りはぞんざいなしかたでささげられる。それだけではない。というのも、日中のあなたは、もしもしかるべきあり方をしているとしたら、絶えず祈っているべきであるのに、あのこと、このこと、別のことを考えており、仕事の圧力が高すぎて、矢のような祈りを発することがほとんどない。いかにしてあなたに祈ることができようか? 以前のあなたは祈っていた。聖書の聖句を1つ朝に取り上げては、それを一日中沈思していた。そして、あなたはその中から多くの甘やかさを得て、あなたの魂は成長するものだった。だが今は、聖書の1つの聖句の代わりに、寝床を出るや否や、切迫した用事が待っている。あなたは、時折、真昼の祈祷会にそっと入るようにしていたかもしれない。あるいは、二、三分をひとり静まるときとしていたかもしれない。だが、次第にあなたはそうした習慣をやめにし、そうすることが正当であると感じるようになってしまっている。というのも、「本当に、時間があまりにも貴重で、この競争の時代には、しなくてはならないことが多すぎる」からである。愛する方々。私はあなたの審査員ではないが、こう尋ねさせてほしい。果たしてあなたは、神のことばに養われていないことによって、飢えるようになってはいないだろうか。魂は、食事をないがしろにされたからだと同じくらい、霊的な食事を抜きにしては強くなれない。私は、母親たちが子どもたちと鶏について、1つの良い規則を語るのを聞いたことがある。――それは、「ちょっとずつ、しばしば」である。そして、私はこれがキリスト者にとっても真実であると思う。キリスト者は、一日の間に少量を、しばしば必要とする。聖書の長い箇所ではない。それでは記憶できないかもしれない。むしろ、短い箇所を今、また短い箇所を別のときに読み、小さな祈りを今、また、小さな祈りを別のときにささげるのである。そのようなしかたで魂がいかに成長するかは驚くべきである。悲しいかな! 残念ながら、こうしたすべてはないがしろにされ、霊的な精力は飢えるようになっているのではないかと思う。これからは、私たちの魂の維持に注意を払い始めようではない。日々神のことばで養われるようにし、それによって成長するようにしよう。そうすれば、私たちの精力はもはや飢えることはないであろう。

 

飢えの苦痛[了]

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