この上もなき見もの
NO. 1509
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---- マントンにて執筆された説教
C・H・スポルジョン著「ただ、……イエスのことは見ています」。――ヘブ2:9 聖書の中で、信仰は目で見ることの対極に置かれている。だがしかし、それはしばしば眺めること、また見ることと述べられている。信仰が、肉的に見ることとは反対であるとされているのは、それが霊的に見ることだからである。肉体から出た認識ではなく、聖霊によって私たちのうちに作り出された、魂の強い信念から生ずる認識だからである。信仰が見ることというのは、そこに明確で真に迫る知覚があるということである。議論の余地のない確かな悟り、鋭敏で疑いようもない事実が認識されているということである。私たちはイエスを見ている。その臨在が確かだからである。その実在について疑いようもない証拠を有しているからである。そのご人格について理性的で親密な知識があるからである。私たちの魂は、からだのぼんやりとした視覚器官よりはるかに強力な目を有しており、その目によって私たちは現実にイエスを見ている。私たちは、イエスについて話を聞き、そのように聞いた証しによって信じた。また、信じることを通して、私たちには新しいいのちがやって来た。新しい光と、開かれた目とを喜ぶいのちである。そして、私たちは、「イエスのことは見て」いるのである。見るということの古い意味では、私たちは主について、「見たことはないけれども愛して」[Iペテ1:8]いるお方として語るが、新しい意味においては、「イエスのことは見ています」。愛する読者の方々。あなたには、このように新しい種々の感覚を有する、更新された性質があるだろうか? また、こうした感覚によって主を認識しているだろうか? もしそうでないとしたら、聖霊がこれからあなたを生かしてくださるように。そして、その間、主が生かしてくださった者として、私たちからあなたに請け合わせてほしい。私たちは主の御声を聞いたことがあるのだと。主は、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます」[ヨハ10:27]、と云われたからである。また、「神のすばらしいみことば……を味わった」[ヘブ6:5]ことがあるのだと。また、主にさわって、いやされた[マコ6:56]ことがあるのだと。また、私たちは主の芳香の匂いをも知っている。主の御名は私たちにとって「注がれる香油のよう」[雅1:3]だからである。そして今、本日の聖句の言葉によると、私たちは「イエスのことは見ています」。信仰は、あらゆる感覚が1つになったものであり、それを無限に越えたものである。そして、それを持っていない人々は、目しいた、また、耳しいた人々よりも悪い状態にある。霊的いのちそのものが欠けているからである。
I. さて、愛する兄弟たち。その目に光を受けている人たち。しばらくの間、私たちの種々の特権について思い巡らしてみよう。それは、私たちがそうした特権を喜びつつ行使し、それらによって主を賛美できるようになるためである。最初に、イエスという栄光に富む見ものを《埋め合わせ》とみなすことにしよう。この聖句は、「ただ」、という言葉で始まっている。それは、私たちがまだ見ていない何か、強い願いの的である何かに言及しているからである。「私たちはすべてのものが彼に従わせられているのを見てはいません」[ヘブ2:8 <英欽定訳>]。私たちはまだ、イエスが《王の王》として全人類に認められているのを見ておらず、このことは私たちの大きな悲しみの原因となっている。というのも、私たちは主が、地上の津々浦々で、生あるあらゆる人間によって、栄光と誉れの冠を戴かされるのを見たいと切望しているからである。悲しいかな、主は多くの者らにとって全く知られておらず、大勢の人々によって拒絶され、蔑まれ、比較的僅かな者によってしか畏敬と愛とをもって遇されていない。私たちを取り巻く光景は、エレミヤとともに私たちを泣かせてしかるべきである。「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら」[エレ9:1]。というのも、四方八方で冒涜と野次り声、偶像礼拝、迷信、不信仰がはびこっているからである。「ただ」、と使徒は云う。私たちは「イエスのことは見ています」。そして、このように見ることは、他の一切を埋め合わせるのである。というのも、私たちが見ている今のイエスは、もはや御使いよりもしばらくの間、低くされ、死の苦しみを味わっていたお方ではなく、「栄光と誉れの冠をお受けに」なっているお方だからである。私たちは主を、もはや人間的な標準で[IIコリ5:16]、恥辱と苦悶の中にあるお方として見てはいない。はるかに心を陶酔させるのが、この見ものである。というのも、そこでは主のみわざが成し遂げられ、主の勝利が完成させられ、主の帝国が磐石のものとなっているのが見えるからである。主は祭司として神の右の御座に着いておられ、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられる[ヘブ10:12-13]。
これは、目に見える神の国が遅れていることに対する天来の埋め合わせである。なぜなら、これこそ、その大きな部分だからである。主要な戦闘は、すでに勝利されている。私たちの主がその代償的な悲嘆を忍ばれたことにおいて、また、主の個人的な達成により罪と死と地獄が転覆されたことにおいて、この争闘の核心部は決着がついている。すでに成し遂げられたこととくらべものになるようなものは全く残されていない。選民を集めること、また、すべてのものを従わせることは、今や天の所における争闘が終わり、イエスが多くの捕虜を引き連れて行かれた[エペ4:8]以上、比較的容易に成し遂げられることである。私たちは、この世の諸王国の征服を、すでに敗北した敵軍の掃討とみなしてよい。敵兵力は、私たちの救いの偉大な《指揮官》[ヘブ2:10 <英欽定訳>]によって、事実上、壊滅されているからである。
この埋め合わせを、いやが上にも偉大なものとしているのは、私たちの主の御座への着座が、残りすべての担保となっているということである。すべてのものを主に従わせることは、まだ私たちが見てはいないことだが、いま私たちが見ていることによって私たちに保証されている。高く上げられた《救い主》には、天においても、地においても、一切の権威が与えられている[マタ28:18]。そして、この「一切の権威」によって主は、ご自分のみこころの欲するままに、その力強い杖をシオンから伸ばし、その敵の真中で治めておられる[詩110:2]。その膝元には、宇宙的な支配のために必要な全兵力があり、その白い馬は扉のところで待ち構えており、主がお選びになる時にはいつでもそれに乗って、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行くことがおできになるのである[黙6:2]。その唇から一言発するだけで、かのバビロンの淫婦[黙17:5]は破滅し、にせ預言者は死に、異教徒の偶像どもはことごとく破壊されることになる。邪悪の帝国は、夜の幻や、人の魂に押し迫る暗黒の厭わしい悪夢のようである。だが人は、目覚めればその心像を蔑み、それは溶け去ってしまう。
ならば私たちは、涙を拭って、人間の迷信や懐疑主義や悲しみといったみじめな光景から目を転じて、私たちの上の、開かれた天にある鮮明な幻に視線を向けようではないか。そこに私たちは、古くから約束された「かの《人》」を見てとる。すべての国々の宝物[ハガ2:7]、解放者、死の死、地獄の征服者を見てとる。だが、このお方は、その戦争が完遂した者のようすをしている。御父によって定められた、分捕り物を分ける時を待っているだけであるかのように見える。これは、あらゆる霊の抑鬱に対する解毒剤であり、希望をもって忍び通すための刺激であり、言葉に尽くせない喜びの確証である。
II. また、この見ものは、私たちにまだ与えられていない他のものの埋め合わせというだけでなく、それ自体、現在の《歓喜》の原因である。このことは、あまりにも数多くの点で当てはまるため、逐一それを列挙しようとすれば時間がなくなるであろう。私たちは「イエスのことは見ています」。そして、イエスのうちに、以前の私たちの不幸な状態が永遠に終結していることを見ている。私たちはアダムにおいて堕落していたが、イエスにおいて私たちの破滅が、第二のアダムによって修復されているのを見ている。法的な契約は、それが私たちの最初の連帯的かしらによって破られているのを見るとき、私たちに渋面を向けていた。だが、新しい契約は、至福の天国全体をもって私たちに微笑んでいる。一切のものの上に立つかしらであるお方が教会に与えられており[エペ1:22]、この方においてすべてが備えられ、また守られる[IIサム23:5]のを私たちが見てとるとき、そうである。罪はかつて私たちを永遠の絶望という運命に定めていたが、今はそうではない。ご自分の犠牲によって罪を取り除かれたお方が、そのよみがえりによってご自分の民を義と認めておられる[ロマ4:25]からである。その負債はもはや私たちの重荷ではない。というのも、永遠の栄光の中には、一度限りそれを支払われた《人》がおられるからである。イエスを一瞥するとき、あらゆる咎による恐れは殺され、あらゆる良心の脅かしは沈黙させられ、心に平和を深く焼きつける。一切の過去の中で、刑罰に怯えさせるもの、あるいは、神に隔絶される恐れを引き起こすものは何1つ残っていない。というのも、死んだキリストはいつも生きていて、私たちのためにとりなしをし[ヘブ7:25]、御父の前で私たちを代表し、私たちのために永遠の安息となる場所を用意しておられるからである。私たちは、もし主が私たちに不利な債務証書を無効にされなかったとしたら[コロ2:14]、自分が律法の下で死んでいる姿を目にしていたであろう。一度私たちのために呪いとなられた主が、いま満ち満ちた祝福の中で統治しておられなかったとしたら、自分が呪いの下に置かれているのを見ていたことであろう。私たちは、自分のもろもろのそむきの罪を告白するときに涙する。だが、イエスを見ては、心の喜びのため歌うのである。主がそむきをやめさせ、罪を終わらせ、永遠の義をもたらされたからである[ダニ9:24]。
同じことは、現在についても甘やかなしかたで当てはまる。というのも、現在の私たちの状態が、主と私たちとの結び合いのおかげで、まことに果報なものとなっているのを見ているからである。私たちはまだ自分の性質が完璧にされ、悪へのあらゆる傾向からきよめられているのを見ていない。むしろ、現実には重荷を負って、呻いている[IIコリ5:4]。それは、私たちのうちに住みついている罪[ロマ7:17]ゆえであり、また、恵みのほむべき支配に逆らって願い、反抗する古い人ゆえである。そして、私たちがいたく打ちひしがれ、絶望へと引きずり込まれることもありえたであろうが、ただ私たちは、「イエスのことは見て」おり、このお方にある自分は、肉が論じ立てているような存在ではないと悟っている。主は、最も真実なしかたで私たちを現わしてくださり、この鏡をのぞき込んで私たちは見てとるのである。自分がキリスト・イエスにあって義と認められていること、この愛する方において受け入れられていること、御父から子とされていること、《永遠の》心にとって愛しい者、しかり、この方において、ともによみがえらされ、ともに天の所に座らされていること[エペ2:6]を。私たちは自我を見て赤面し、恥を感じて落胆する。「ただ……イエスのことは見て」おり、私たちのうちにある主の喜びは見ており、私たちの喜びは全きものとなる。キリストにある愛する兄弟。あなたがこの次に自己嫌悪の堆肥の山に上るときには、このことを考えるがいい。あなたの目を上げて、あなたのいのちが隠されている[コロ3:3]お方がどこにおられるか見るがいい。イエスを見て、主がそうあられるようにあなたも《無限の威光》の御前にいるのだとわきまえるがいい。あなたは罪に定められてはいない。キリストが御座に着いておられるからである。あなたは蔑まれても、忌み嫌われてもいない。キリストが愛され、高く上げられているからである。あなたは破滅の危険にさらされても、投げ捨てられる寸前になってもいない。キリストが永遠に《全能の神》なる主のふところに住んでおられるからである。これはあなたにとって何という幻であろう。イエスを見るとき、あなた自身が見えるのである。イエスのうちで満ち満ちている[コロ2:10]、しかり、キリスト・イエスにあって完璧なあなたの姿が!
このような見ものは、実質的に、地上における私たちのあらゆる将来的な懸念を消し去ってしまう。確かに私たちはまだ激しく試みられかねず、戦いは私たちにとって激しいものとなるかもしれない。だが、私たちは凱歌をあげておられるイエスを見ており、このしるしによって勝利を掴むのである。ことによると、私たちは痛みや、貧困や、中傷や、迫害に遭うかもしれない。だがしかし、こうした事がらのいずれも私たちを動かすことはない。高く上げられたイエスを私たちは見ており、それゆえ、これらが主の御力の下にあること、主のお許しがない限り、私たちに指一本触れることができないことを知っているからである。死は、間近に迫って見えるとき、時としてすさまじい形相を呈する。だが、イエスを見るときその恐怖はやむ。主は、墓所の影を無事にくぐり抜け、墓場という暴君を打ち破り、ご自分のすべての民のために、不滅への通路を開きっぱなしにされたのである。私たちは数々の苦痛や、呻きや、死の苦悶を見る。実際、私たちの恐れによって、それは現実以上に大きく見える。その結果として起こる恐慌を解消する唯一の道は、こう仰せになったお方を見ることである。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」[ヨハ11:25-26]。私たちがイエスを見るとき、過去も現在も将来もこのお方の中で総括されており、すべてを越えて、栄光に富むいのちが輝いている。私たちの魂を、言葉に尽くすことのできない喜びで満たすいのちである。
III. 第三に、私たちはこの上もなく嬉しい《期待》とともに「イエスのことは見ています」。主の栄光に富むおからだは、私たちにとって、やがて自分がなるべきものの有りようであり、担保である。というのも、「後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」[Iヨハ3:2]。無限の愛によって、主は身をへりくだらせて、私たちと同じような者となられた。使徒がこう云う通りである。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」[ヘブ2:14]。そして、私たちの低い状態において私たちと出会うため、主の側においてなされたこの愛による下降は、主の高い状態において主と出会わせるために、主の愛が私たちを引き上げるであろう確証である。主は、ご自分が私たちの性質にあずかるものとなられたのと同じく、私たちをご自分の性質にあずかるものとしてくださる。こう書かれている。「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とません」*[ヘブ2:11]。これはいかなる至福であろう。私たちは受肉した神に似た者となるのである! これが本当だとしたら話がうますぎると思われよう。だが、私たちの主は、私たちのために大いなることをなして測り知れないのが常なのである[詩126:2; ヨブ5:9]。
また、私たちは、主のおからだから私たちの将来に関する慰めを引き出すことができるばかりでなく、主の居場所に関する希望によって喜ばされることができる。イエスがおられるのを私たちが見ている所に、私たちもいることになるはずである。主の天国は私たちの天国である。主の祈りの保証するところ、私たちは主のいる所に主と一緒にいて、主の栄光を見るようになるはずである[ヨハ17:24]。きょうの私たちは、救貧院か、病院の病棟か、荒れ果てたあばら屋にいるかもしれない。「ただ……イエスのことは見ています」。そして、じきに私たちは、この偉大な《王》の宮殿に住むことになると知っているのである。
イエスの栄光はたちまち目を打つ。それで私たちは、主の身分において歓喜させられる。というのも、それもまた私たちのものだからである。主は、ご自分が御父の御座に着いているのと全く同じように、私たちをご自分の御座に着けてくださるであろう。主は私たちを王とし、神のために祭司としてくださった[黙1:6 <英欽定訳>]。そして私たちは永遠に統治するのである。私たちの栄光に富む《花婿》が到達した安息、幸福、安全、栄誉のいかなるものも、確かに主はご自分の花嫁と分かち合われるであろう。しかり。そして、主の民はみな、キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている場合、神の相続人、イエス・キリストとの共同相続人となることがいかなることかを知るであろう[ロマ8:17]。
私たちの状態がいかに素早く、昇天された主に完全に似たものに高められるか、私たちには分からない。だが、それが長くなることはありえないし、ごく短い時間かもしれない。時間という帷は、ある場合には非常に薄い。もうほんの一週間しか、隔てとなっていないかもしれない。そして、そのときには! あゝ、そのときには! 私たちはイエスを見ることになるのである。それはいかなる見ものであろう! その光景に天国が存している。これこそ、私たちの愛に満ちた心の願う天国のすべてである。
私たちがいま恵まれているような、イエスを見ることは、私たちのために取っておかれている、より明確な見ものの前味であり、それゆえ、幸いな知恵となのは、その前味を大いに楽しむことである。一千もの物事が私たちを脇道へ誘惑するが、しかし比較してみれば、その1つとして、一瞬の考えにも値してはいない。
芸術作品だの、科学的発見だの、私たちの《愛する方》にくらべれば何だろうか? 美人の額を飾る数々の宝石や、麗しいかんばせからひらめく眼差しも、主と競わせてみれば何だろうか? 他の重大で大切な事がらをも考える必要はある。だがしかし、そうしたものすら、イエスが間近におられるときには二の次にして良い。
私たちは、真理において深く教えを受けたいという願いにもかかわらず、神学博士ではないかもしれない。「ただ……イエスのことは見ています」。多くの奥義を私たちは詮索できない。「ただ……イエスのことは見ています」。どこで神の主権は人間の責任と調和するのかは、私たちにとってあまりに深遠な問題である。「ただ……イエスのことは見ています」。時と季節は私たちを煙に巻き、終末の経綸は私たちにとって謎めいている。「ただ……イエスのことは見ています」。私たちを見下して得意がるがいい。あなたがた、遠くを見通す預言者たち! 私たちをあざ笑うがいい。あなたがた、深淵を一瞥する哲学者たち! 私たちは、あなたを大得意なまま放っておく。私たちはあわれな、近視眼の生き物であって、ほとんど何も知らない。だが、1つのことだけは知っている。私たちは以前は盲目であったのに、今は見えるということである[ヨハ9:25]。そして、「イエスのことは見ています」。
この見ものによって私たちには見えなくなる多くのことがある。いま私たちの同胞の人々の目をくらませている多くの物事である。彼らは、自分たちと同じような人間である、一部の人々のうちに祭司的な権力を見ることができる。これを私たちは見ることができない。というのも、いけにえをささげる祭司の系譜を終わらせ、あらゆる聖徒に共通した祭司性を授けている「イエスのことは見て」いるからである。多くの人々は、種々の疑惑にかられた学派に大きな知恵を見てとっているが、そうしたもののうちに私たちが見てとるのは、うぬぼれきった愚劣さだけである。というのも、私たちは「イエスのことは見て」おり、あらゆる人間の知恵は、イエスのうちに全うされている神の知恵の前では色褪せるからである。
私たちの兄弟たちの一部は、肉のうちに完璧さを見ているが、私たちは「イエスのことは見ています」。他の人々は教会を、また、彼ら自身の党派を見ているが、私たちは「イエスのことは見ています」。少数の人々は、自分たちが他のあらゆる人々から分離していること、そして、他の一切のものを排除する自分たち独自の卓越性のほか何も見ていない。だが私たちは「イエスのことは見ています」。
さあ、愛する方々。私たちの密室に行こうではないか。その交わりにおいて、ピスガの頂からやって来られるようなイエスを見てとろう。聖書の頁を繰って、その香料の花壇の真中でイエスを見よう。聖なる儀式、特にパンを裂く儀式にしばしば集い、そこにイエスを見よう。私たちが主の苦しみに似たものとされるような経験の中を見張って、そこに主を見よう。聖なる労働の現場に出て行き、帯を締め、奉仕の鋤に手をつける際、そこに私たちの《主人》を見よう。しかり。あらゆることにおいて、私たちの主を見るようにしよう。というのも、自然も《摂理》も、経験も聖書も、主を映し出す鏡を掲げているからである。夜が明けて、影が逃げ去る時まで、主を見つめ続けよう。私たちの目が現実に主を自ら目の当たりにし、それが他の者の目ではなくなるまで[ヨブ19:27]そうしよう。これを私たちの人生の壮大な特異性とするがいい。他の人々が何を見ようと見まいと、私たちは「《イエスのことは見ています》」。
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----この上もなき見もの[了]
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