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救霊こそ私たちの唯一の務め

NO. 1507

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです」。――Iコリ9:22


 

 1つの圧倒的な情熱に全く支配された人を見るのは、素晴らしいことである。そうした人は力強い人に違いなく、もしその圧倒的な原理がこの上もなくすぐれたものであれば、その人もまた、この上もなくすぐれた人であるに違いない。1つの目的に立つ人こそ、真の人である。やたらと目当ての多い人生は、無数の細流となった川のようで、そのいずれにも、ほんの小さな底浅舟すら浮かべる広さや深さがない。だが、1つの目的を目指す人生は、あたかも悠々と流れる大河が、おびただしい数の船舶を海へ運び、両岸の土壌を肥沃なものとしているのに似ている。もしもある人が、1つの大目的を魂に据えているばかりか、それによって完全に支配され、それに自分の全精力を集中させ、その一大目的のための猛烈な熱心に燃え立っているとしたら、その人は、世界が生み出すことのできる最大の力の源泉となるひとりに違いない。もしもある人が、心においては聖なる愛に没頭し、頭脳においては何らかの支配的な天上の思想に満たされているとしたら、その人は、いかなる境遇に置かれても人々に知られることになるであろうし、あえて予言すれば、その人の名前は、その人の墓所の場所すら忘れ去られた遠い将来にも覚えられていることであろう。

 そうした人こそパウロであった。私がこれから行ないたいのは、決して彼を神棚の上に乗せて、あなたに彼を見上げさせ、感嘆させることではないし、いわんや彼を聖人として伏し拝ませ、礼拝させることではない。私がパウロに言及したのは、彼が、私たちひとりひとりが目指すべき理想の人物だったからである。確かに私たちは使徒ではなく、彼と同じ職務についてはおらず、彼と同じ才能や霊感にあずかってはいないが、それでも私たちは、彼を駆り立てていたのと同じ精神に支配されるべきであるし、さらに云えば、彼と同じ程度まで、それによって支配されるべきである。あなたはそれに異議を唱えるだろうか? あなたに訊きたいが、神の恵みによってパウロのうちにあったものの中で、あなたのうちに生じえないものが何かあるだろうか? イエスがパウロにしてくださったことの中で、あなたに対してなさったこと以上のものが何かあるだろうか? パウロは天来の力によって変えられた。もしあなたが暗闇から素晴らしい光に移されているとしたら、これはあなたも同じである。彼は多くを赦された。あなたも、豊かな赦免を受けている。彼は神の御子の血によって贖われた。あなたも同じように贖われている。――少なくとも、そうあなたは告白している。彼は神の御霊に満たされていた。あなたも、真に自分のキリスト者としての告白通りの者だとしたら、そうなっているはずである。ならば、自分の救いをキリストに負っているあなた、イエスの尊い血に負債を負っているあなた、聖霊によって生かされているあなたに私は訊きたい。なぜ同じものが蒔かれたのに、同じ実が生じないわけがあるだろうか? なぜ同じ原因から同じ結果が生じないわけがあるだろうか? 使徒は例外だ、もっと普通の人間たちの通則や模範にはできない、などと云ってはならない。というのも、これから私は、もし私たちが今パウロのいる所に行きたかったら、パウロと同じようなあり方の者とならなくてはならない、と告げなくてはならないからである。パウロは、すでに得たとも、すでに完全にされているとも思っていなかった[ピリ3:12]。私たちは、彼がそうした者だと考えてよいだろうか?――そして、彼は余人の真似できない完璧な人物だと考え、彼のあり方以下の自分に満足していてよいだろうか? 断じて否である。むしろキリストを信ずる信仰者として、私たちの絶えざる祈りとすべきことは、パウロがキリストに従っていた限りにおいて、私たちもパウロにならい、彼がその主の足跡を辿りきれなかったところでは、彼をもしのぐようになること、この異邦人への使徒よりも熱心になり、よりキリストに献身するようになることである。おゝ、聖霊が私たちを、私たちの主イエス・キリストご自身に似た者とならせてくださるように。

 今ここで私があなたに語らなくてはならないのは、人生におけるパウロの大目的である。彼が私たちに告げているところ、それは「幾人かでも救う」ことであった。それから私たちは、パウロの心の中を覗き込み、少なくとも幾人かでも救われることが、これほど重要であると彼に思わせていた大理由のいくつかを告げてみたい。そして三番目に私たちは、その目的のために使徒が用いていた手段のいくつかを指し示すであろう。こうしたことを行なうのはみな、あなたがた、私の話を聞いている方々が、「幾人かでも救う」ことを目指すようになるため、また、それを、到底抵抗できない強力な理由から目指すようになるため、そして、結果的にうまく行くような賢明な手段によって目指すようになるためである。

 I. まず第一に、兄弟たち。《パウロがその日常生活および宣教活動において大目的としていたことは何だろうか?》 彼によると、それは幾人かでも救うことであった。

 今のこの時、ここには、キリストに仕える教役者たちを始めとして、市中宣教師たち、聖書配付婦人たち、日曜学校教師たち、その他、私の《主人》の葡萄畑で労する働き人たちが一堂に会している。そこで私は、そのひとりひとりに向かって大胆に問いたい。――これは、あなたのキリスト者としての奉仕すべての目的だろうか? あなたは、他の何にもまして救霊を目指しているだろうか? 残念ながら、ある人々はこの大目的を忘れてしまっているのではないかと思う。だが、愛する方々。このことに達さないいかなるものも、キリスト者生活の大目的としてはふさわしくない。恐ろしいことに、ある人々は、人を面白がらせるのを目当てとして説教している。人々が群れをなして集まる限りにおいて、また、彼らが都合のよいことを聞かされて、自分の聞いた話に満足して帰っていく限りにおいて、そうした雄弁家は得々として、両手を組み合わせては、自己満足して家路に着く。しかしパウロは、大衆を喜ばせ、群衆を集めることに精を出したりしなかった。もし彼らを救わないとしたら、いくら彼らに興味を起こさせても全く無益だと感じた。真理が彼らの心を刺し貫き、彼らの人生に影響を及ぼし、彼らを新しい人とするのでない限り、パウロは家路に着きながらこう泣いたであろう。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか? 主の御腕は、だれに現われたのか?」[イザ53:1]、と。

 これは、現代の多くの人々の意見らしいが、キリスト者が努力すべき目的は人々を教育することにあるという。私も、教育それ自体はきわめて価値あるものであると認める。その価値ゆえに、キリスト教会全体は、ついにわが国に国家的な教育制度が敷かれたことを大いに喜んでいるに違いないと思う。この制度を慎重に実施しさえすれば、この国のあらゆる子どもたちは知識の鍵を手に入れられるであろう。他の人々が無知にいかなる価値を置こうとも、私たちは知識を大いに推賞するものであり、知識が普及すればするほど喜ぶであろう。しかし、もし神の教会が、世における自らの使命を単なる精神的諸機能の養成にあると考えるとしたら、それは非常に深刻な間違いを犯しているのである。というのも、キリスト教の目的は、人々を俗的な職業のために教育することでも、より洗練された芸術や、より優雅な職業のために訓練することでさえもなく、彼らが自然界の美や詩文の魅力を楽しめるようにすることでもないからである。イエス・キリストが世に来られたのは、こうしたいずれのことのためでもなく、失われた人を捜して救うため[ルカ19:10]であり、主はそれと同じ使命に教会を遣わされた。そして教会は、もし趣味や芸術の美に惑わされて、キリスト、すなわち十字架につけられた方[Iコリ2:2]を宣べ伝えることこそ、自分が人の子らの間に存在している唯一の目的であることを忘れてしまうとしたら、《主人》に対する裏切り者となっているのである。教会の務めは救いである。教役者は、何とかして、幾人かでも救うべきである。このことを、その心の唯一の願いとしていないような者は、決してキリストに仕える教役者ではない。宣教師たちは、土人を文明化することで満足しているとき、あるべき標準にまるで達していないのである。彼らの第一の目標は救霊でなくてはならない。同じことが日曜学校教師を始めとする、あらゆる子どもたちの間での働き人にあてはまる。もし彼らが単に子どもに読むこと、賛美歌を暗唱することなどを教え込んだだけだったとしたら、彼らはまだ自分の真の使命に触れてもいないのである。私たちは、その子たちが救われるようにしなくてはならない。私たちは、この釘をめがけ、常にその頭に鎚を振り下ろさなくてはならない。――もしも何とかして、幾人かでも救うことができるとしたら、どんなによいことか。というのも、私たちは幾人かでも救われない限り、何も行なっていないからである。

 パウロは、人々を道徳的にする努力をしたとさえ云っていない。道徳の最良の助け手は福音である。人は救われるとき道徳的になる。――否、それ以上である。聖くなるのである。しかし、真っ先に道徳をめざすのは完全に的外れであり、たとい私たちがそこに達したとしても――達さないだろうが――、それでも自分たちが世の中に遣わされている使命を達成したことにはならないであろう。チャーマズ博士の経験は、キリスト者の宣教活動が単に道徳を称揚することでなくてはならないと考えている人々にとって、非常に有益なものである。というのも、彼の云うところ、彼は、その最初の教区では道徳を宣べ伝えたが、自分の勧告からいかなる善が生ずるのも全く見てとれなかった。しかし、彼が十字架につけられたキリストを宣べ伝え始めるや否や、ざわめきや、騒ぎや、大きな反抗が起こったが、恵みが広まったのである。芳香を欲する者は花々を育てなくてはならない。道徳を押し進めたいと願う者は、人々が救われるようにしなくてはならない。屍体に動いてほしい者は、最初にそれにいのちが与えられるよう求めるべきであり、正しくきちんとした生き方を見たいと願う者は、まず聖霊による内的な刷新を願うべきである。私たちは、隣人に対する種々の義務を人々に教えたとき、あるいは、神に対するその義務を教えたときでさえ、それで満足すべきではない。モーセにとってはそれで十分であろうが、キリストにとってはそうではない。律法はモーセによってやって来たが、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した[ヨハ1:17]。私たちは人々に、彼らがいかにあるべきかを説教するが、それよりはるかに大きなことを行なう。聖霊によって適用された福音の力によって、私たちは彼らを、神の御霊の力によってそうあってしかるべき者とする。私たちは盲人の前に彼らが見るべきものを置くのではなく、彼らの目をイエスの御名によって開くのである。虜囚に向かって、いかに彼が自由となるべきかを告げるのではなく、扉を開き、彼の足枷を取り除くのである。私たちは人々に、彼らがいかなる者とならなくてはならないかを告げるだけで得々としてはいない。むしろ彼らに向かって、その人格がいかにして得られるかを示し、いかにしてイエス・キリストが、永遠のいのちに不可欠なものすべてを、ご自分のもとに来て、信頼をささげる人々全員に豊かに与えてくださるかを示すのである。

 さて、兄弟たち。よく見るがいい。もし私が、あるいはあなたが、あるいは、私たちの中のだれかが、自分の一生を費やして、単に人々を面白がらせることや、教育することや、道徳的にすることばかりしているとしたら、かの大いなる最後の審判の日に、自分の申し開きをすることになったとき、非常に悲しい状態に至り、非常に悲しい記録しか提出できないであろう。というのも、ある人が教育を受けたとしても、永遠の断罪を受けるときにはそれが何の役に立つだろうか? 面白がらされたとしても、かの喇叭が鳴り響き、天と地が震え動き、かの穴がその火の顎をぱっくり開き、救われていない魂を呑み込むとき、それが何の助けになるだろうか? 道徳的な者とされたことすら、やがて審き主の左手に立たされるとしたら、また、「のろわれた者ども。離れて行け」*[マタ25:41]、との宣告がやはり自分の受ける分だとしたら、それが何の役に立つだろうか? 信仰を告白するキリスト者たちが、自らのすそに魂の殺害による血を赤くへばりつかせていたくないとしたら、彼らのすべての働きの趣旨と、目的と、目当てを、「幾人かでも救う」ことにするしかない。おゝ! 私はあなたに願う。特に、あなたがた、《日曜学校》や、《貧民学校》や、その他の場所で働いている愛する方々。子どもたちの魂が救われるまで、自分が何ほどのことをなしたとも考えてはならない。このことこそ、その務めのすべてであると銘記し、キリストの御名によって、また《永遠の御霊》の力によって、この唯一の目的にあなたの全力を傾注するがいい。――何とかして、幾人かでも救い、彼らが必ず来る御怒りから逃れることができるように、幾人かでもキリストのもとへ導くことである。

 パウロは、幾人かでも救うことを願うと云うとき、何を意味していたのだろうか? 救われるとはどういうことだろうか? パウロがそのことによって意味していたのは、幾人かが新しく生まれることにほかならない。というのも、いかなる人も、キリスト・イエスのうちにある新しく造られた者[IIコリ5:17]とされるまで、救われてはいないからである。古い性質は救われることができない。それは死んでおり、腐敗している。それについてなしうる最良のことは、それを十字架につけ、キリストの墓所の中に埋葬することである。聖霊の力によって、新しい性質が私たちの中に植えつけられていない限り、私たちは救われることができない。私たちは、それまで存在していなかったのと同じくらい新しく造られた者とならなくてはならない。楽園におけるアダムと同様、天来の知恵によって今日、形作られたかのように私たちは、《永遠の神》の御手から、もう一度、清新に出て来なくてはならない。かの《大いなる教師》のことばはこうである。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」[ヨハ3:8]。「人は、上から新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」*[ヨハ3:3]。さて、これこそパウロが意味していたことである。すなわち、キリスト・イエスのうちにあって人は新しく造られた者とならなくてはならない。そして私たちは、そのような変化が人々にもたらされるのを見るまで、決して心を安んじてはならない。「幾人か」が新生させられること、これこそ私たちの教えの、また私たちの祈りの目的、否、私たちの人生の目的でなくてはならない。

 これに加えて彼が意味していたのは、幾人かが、神の御子の贖いの犠牲という功績を通して、その過去の不義からきよめられるようになるということである。いかなる人も、贖いによらずして、その罪から救われることはできない。ユダヤ教の律法のもとでは、こう記されている。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる」[ガラ3:10]。この呪いは決して破棄されたことがなく、それから逃れる唯一の道はこうである。イエス・キリストは私たちのために呪いとなってくださった。こう書かれている。「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」[ガラ3:13]。さて、イエスを信ずる者、自分の手を、御民のためのアザゼルの山羊[レビ16:8、10]、ナザレのイエスの頭に置く者は、自分のもろもろの罪を失っている。その人の信仰は、その人のもろもろの不義がとうの昔に、かの偉大な《代理者》の頭に置かれたという確かな証拠である。主イエス・キリストは、私たちの代わりに罰を受け、私たちはもはや神の御怒りを受けるべき者ではなくなっている。見よ。罪を贖う犠牲が殺され、祭壇の上でささげられており、主はそれを受け入れておられる。そして、それをお喜びになるがために、イエスを信ずる者はだれであれ、完全に、また永遠に赦されると宣言しておられるのである。さて私たちは人々がこのように赦されるのを見たいと願っている。私たちは切望している。放蕩息子の頭を《御父》の胸の中に引き寄せ、さまよっている羊を良い《羊飼い》の肩に載せ、失われた貨幣を持ち主の手に返したい、と。そして、これがなされるまで、何事もなされていないのである。と云うよりも、兄弟たち。いかに霊的なものであれ、いかに永遠のものであれ、いかにキリスト者人生の苦しみに値するものであれ、決して不滅の霊がその火焔のすべてにのしかかられて過ごすことと引き替えにできるものとはみなせない。おゝ、主よ。私たちの魂は切に見たいと願います。イエスがご自分の血で買い取られた者らの救いという報いを得るところを。願わくは私たちを助け、魂をイエスのもとに導かせ給え。

 さらに云うが、使徒が幾人かでも救うことを望んだとき、彼が意味していたのは、新生させられ、赦された上で、彼らがきよめられ、聖なる者にもされることである。というのも、人は罪のうちで生きている限り救われていないからである。いかに人が好き勝手なことを云っていようと、罪の奴隷である間は、罪から救われていることにはなりえない。ある酔いどれが酩酊から救われていると云いながら、まだ以前のように飲み騒いでいるとしたら、どうしてそのようなことがあるだろうか? 悪態をつく者が冒涜から救われたというのに、まだ聖なる御名を汚しているとしたら、どうしてそのようなことが云えるだろうか? 言葉は、その真の意味で用いられなくてはならない。さて、キリスト者の働きの大目的は、幾人かでもその罪から救われ、きよめられ、白くされ、御霊の実としての誠実と貞潔と正直と義の模範となることであって、こうしたことが云えない限り、私たちの労苦はむなしく、自分の力をいたずらに費やしているのである。

 さて、私はあなたがた皆の前で、誓うものである。私はこの祈りの家の中で、決して魂の回心以外の何物も求めてはこなかった、と。また私は、天と地を、また、あなたがたの良心をも、証人として云うものである。私は決してこのこと、すなわち、あなたがたをキリストのもとに至らせること以外の何物のためにも労したことがなく、あなたがたを最後には神のもとに、《愛する方》にあって受け入れられる者としてささげることができる、と。私は、決して種々の堕落した欲望を、教理の新奇さによっても、儀式の新奇さによっても、満足させようと求めたことはなく、むしろ福音の単純素朴さを守ってきた。私は、神のことばの宝のいかなる部分をもあなたがたから押し隠したことはなく、むしろあなたがたに、神のご計画の全体を伝えようと努力してきた。私はいかなる美辞麗句をも求めたことがなく、むしろ平易に語り、あなたの心と良心に向けて歯に衣着せずに語ってきた。そして、もしあなたが救われないとしたら、私は神の御前で嘆き、悼み悲しむものである。今日に至るまで、私はあなたがたに何百回となく説教してきたが、それでも私の説教はむだになってしまった、と。もしあなたがキリストに近づいておらず、もしあなたが血で満たされた泉で身を洗ったことがないとしたら、あなたは役立たずな土地の切れ端であって、そこからはまだ何の実りも生じていないのである。ことによると、あなたは私に告げるかもしれない。自分は多くの大罪から守られてきているし、ここに来ることによって多くの偉大な真理を学んできた、と。そこまでのところは良い。だが、私は、単にあなたにいくつかの真理を教え、あなたを公然たる罪から引き離しておく、それだけのために生きているなどと云っていられるだろうか? いかにして、その程度のことで私は満足できるだろうか? その間ずっと、あなたはそれでも救われておらず、それゆえ、死後、地獄の炎の中へ投げ込まれるとわかっているというのに。否。愛する方々。主の御前で私が、あなたがたの牧師のいのちと、魂と、精力に値するものとみなすものは、唯一、あなたがたをキリストにかちとること以外にない。あなたの救い以外の何物も、決して私に、心から欲する望みのものが授けられたと感じさせることはありえない。私は、この場にいるあらゆる働き人に、こう願うものである。この的、また、この目標の中心を狙って射ることから決して脇へそれないように、と。すなわち、魂をキリストにかちとり、彼らが神に対して生まれ、血で満たされた泉で身を洗うようにさせるということから、決してそらされないように、と。働き人は、心を痛ませ、慕い求め、喉がしゃがれるまで叫ぶがいい。だが、少なくとも、いくつかの場合において、人々が真に救われるまで、何事をも成し遂げたと判断しないようにするがいい。漁師が自分の網で魚を捕りたいと切望するように、狩人が自分の獲物を家まで運びたいとあえぐように、母親が失われたわが子を胸にだきしめたいと思い焦がれるように、そのように私たちは、魂の救いを求めて気も遠くならんばかりである。そして、私たちは魂を得なければ死んでしまうに違いない。彼らを救い給え。おゝ、主よ。キリストのゆえに彼らを救い給え。

 しかし、ここで私たちはこの点から別の点に移らなくてはならない。

 II. 《使徒は、いくつかの大きな理由によって、このような人生の目的を選んだ》

 もし彼がこの場にいたとしたら、彼はあなたに、自分の理由はこのような種類のものであると告げたであろう。魂を救う! もし彼らが救われないとしたら、いかに神は恥辱を与えられることか! あなたは、これまで考えたことがあるだろうか? ロンドンで、一日のうちの何らかの一時間に、私たちの神なる主の栄誉が、いかに途方もなく汚されているかを。よければ、この祈りの時間を取り上げてみるがいい。私たちは、見かけ上はまぎれもなく祈るためにこの場に集まっている。もしこの大集会の内心の想念が、ことごとく読めたとしたら、いかにその多くが《いと高き方》にとって恥辱となるものであることか! しかし、考えてもみるがいい。あらゆる祈りの家の外側、あらゆる種類のあらゆる礼拝所の外側において、何万、何十万、何百万もの人々が、自分たちを造り、自分たちを存在させておられる神をあがめる礼拝のふりをすることすら、いかに一日中ないがしろにしてきたことか! ごてごて飾り立てた安酒場の扉が、この聖なる時間に、何度その蝶番をきしらせて開け閉めされていることか。その酒場で神の御名が何度冒涜されていることか! こうした事がらに輪をかけて悪いことがある――これより悪いことがあるとすればだが――。だが、その垂れ幕は引き上げない方がよいであろう。あなたの思いを、もう一、二時間してからの、暗闇の帷がおりた後に向けてみるがいい。廉恥のあまり私たちは、人々が神の御名にいかなる恥辱を与えているかを考えることさえ許せない。彼らの最初の祖先は神のかたちに造られたというのに、今の彼らは自らサタンの奴隷、獣欲の餌食となっているのである! 悲しいかな! 悲しいかな! この町は。これは忌むべきものに満ちている。それについて使徒はこう云っている。「彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことです」*[エペ5:12]。キリスト者の方々。社会悪を拭い去れるのは福音しかない。悪徳は蝮のようなもので、イエスの御声だけがそれらをこの国から追い出せる。福音は、この町の不潔な汚れをきよめる大きな竹箒であり、他の何物も役に立たない。あなたは、日々その御名が汚されている神のために、幾人かでも救いたいと思わないだろうか? もしあなたがあなたの思念を拡大し、欧州全域の大都市すべてを取り込み、左様、さらに越えて、中国やヒンドスタンの偶像崇拝者たちすべて、にせ預言者と反キリストの礼拝者たちすべてを取り込むとしたら、ここに私たちは何と大量の怒りを招くものを有していることか! こうした偽りの礼拝は、エホバの鼻腔に何という煙となるに違いないことか! いかにしばしば神はその剣のつかに御手をかけ、こう云うかのようであったに違いないことか。「あゝ! わたしの敵どもを一掃してやろう」、と。しかし、神はそれを辛抱強くお耐えになった。私たちは神の寛容さに無関心にならないようにしよう。むしろ、日夜神に向かって叫び求めよう。また日々神のために働き、そのご栄光のために、幾人かでも救うようにしよう。

 また、愛する方々。私たち人類というこの種族の極度の悲惨さを考えてみるがいい。今この瞬間の、病院や救貧院におけるロンドンの悲惨さを総まとめにし、それについて少しでも考えがつくとしたら、それは非常に恐ろしいものとなるであろう。さて、私は、貧困について一言も弁護しようとは思わない。どこにそれがやって来ようと、それはむごい病である。だが、よくよく注意してみるとき気づくのは、ごく少数の人々は避けがたい状況から貧しくなっているものの、ロンドンにおける貧困の大半をもたらしている全く明確な原因は、浪費と、計画性のなさと、怠惰と、最悪のこととして酩酊である。あゝ、酩酊! これは悪の王者である。もし飲酒を取り除くことができたとしたら、私たちは悪魔そのひとをも打ち負かすことができるに違いない。地獄のごとき酒屋で作り出された酩酊、この大都市全域が中心地となっているこの悪疫は、肝をつぶすほどのものである。しかり。私はあわてて語ったのでも、口を滑らしたのでもない。多くの飲み屋は地獄のようなものにほかならない。いくつかの点でそれ以下である。というのも、地獄には、罪に対する天来の抗議という役目があるが、ごてごてと飾り立てた安酒場については、何1つ弁護の余地がない。この時代の種々の悪徳こそ、あらゆる貧困の四分の三を引き起こしている。今晩、多くの家庭では、婦人たちがその夫の帰宅してくる足音に震え上がり、小さな子どもたちは、その小さな寝藁の上で恐ろしさのあまり縮み上がりながら、自分を「男」と呼ぶ、人の皮をかぶった獣が、自分の欲望にふけっていた場所から、へべれけになって帰ってくるのを待っている。――もしあなたがそうした数々の家庭、そうした幾多の光景を目にすることができたとしたら、また、もし今晩そうしたことが一万回も見られているということに思いを馳せるとしたら、あなたはこう云うだろうと思う。「神よ。私たちを助けて幾人かでも救わせ給え」、と。この致命的に有害な木の根元の置かれている大斧がキリストの福音である以上、願わくは神が私たちを助けて、そこでその斧を持たせ、絶え間なくその斧をふるい続けて、この毒の木の巨大な幹がゆらゆらと揺らぎ出すようにさせ、それを切り倒させてくださるように。そうして、この、あらゆる枝から滴り落ちている浅ましさと悲惨さからロンドンが救われ、世界が救われるように。

 さらに、愛する方々。キリスト者には、幾人かでも救うことを求める他の理由もいくつかある。そして、それは主として、悔悟しない魂の恐ろしい未来のためである。私の前にある垂れ幕はいかなる者にも見通すことができないが、天国の目薬を目に塗られた者には、その向こうを見透かすことができる。では、何が見えるだろうか? 無数のおびただしい霊が、すさまじい列をなして、その肉体から出てきては、行き過ぎつつある。――どこへ? 救われもせず、新生してもおらず、かの尊い血で洗われてもいない彼らは、私たちの目の前で、かの厳粛な法廷へ出て、そこで沈黙のうちに判決が下り、彼らは神の御前から追い払われ、名状しえず、想像もつかない恐怖の中へ追放される。これだけでも、私たちを日夜苦悩させるに十分である。この運命の決定には、恐ろしい厳粛さが伴っている。しかし、復活の喇叭が鳴り響く。この霊たちは、彼らの獄屋から出てくる。私が見ていると、彼らは地上に戻ってきて、穴の中から出てくると、生きていた頃住まいとしていた肉体の中に戻る。そして今や私には、彼らが立っているのが見える。――群集また群集、群集また群集が――《さばきの谷》に立っている[ヨエ3:14]。そして、《あのお方》がやって来られる。その冠を頭に戴き、その数々の書物を前にして、大きな白い御座[黙20:11]に着いておられる。そしてそこに彼らは、法廷に引き出された被告人として立っている。私の幻は今や彼らの姿を見てとっている。――彼らがいかに震えていることか! いかにぶるぶるとおののいていることか! いずこに彼らは逃れえようか? 岩々は彼らを覆うことができず、山々はその腹を開いて彼らを隠すことができない! 彼らはどうなるだろうか? すさまじい姿の御使いが鎌を手に取り、刈り入れ人がかまどに放り込む毒麦を切り倒すように彼らを刈り取り、寄せ集めては、絶望が永遠の苦悶となる場所へと彼らを叩き込む! あゝ、悲しいかな。私の心は彼らの悲運を目にし、彼らの遅すぎた覚醒の恐ろしい叫び声を聞いて沈み込む。おゝ、キリスト者よ。幾人かでも救うがいい! 何とかして、幾人かでも救うがいい。彼方の炎にかけて、外の暗闇にかけて、泣くこと、うめくこと、歯がみをすることにかけて、幾人かでも救おうとするがいい。使徒と同じように、このことをあなたの人生最大の、あなたの支配的な目的とするがいい。何とかして、幾人かでも救うようにするがいい。

 というのも、おゝ! もし彼らが救われるならば、その対照に注目するがいい。彼らの霊は天国に上り、復活後に彼らの肉体も昇天し、そこで彼らは贖いの愛を賛美するのである。いかなる指にもまして敏捷に立琴の弦をかき鳴らしているのは彼らの指である! いかなる調べにもまして甘やかなのは、こう歌う彼らの調べである。「私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ってくださったお方に、栄光がとこしえにあるように」*[黙1:5-6]。これは何という至福の光景であろう。かつての反逆者たちが神のふところのもとへ連れて来られ、御怒りを受けるべき子ら[エペ2:3]が天国の持ち主とされているのである。これらすべてが救いには含まれている。おゝ、あの無数の群衆が、このほむべき状態に至らされたならどんなによいことか。「幾人かでも救う」がいい。――おゝ! 少なくとも幾人かでも。幾人かでも、かの栄光のうちにいられるようにしようとするがいい。あなたの《主人》を見るがいい。この主こそ、あなたの模範である。主が天国を離れたのは、幾人かでもお救いになるためであった。十字架に赴き、墓に赴いたのは、「幾人かでも救う」ためであった。ご自分の羊のためにいのちを捨てる[ヨハ10:11]こと、これは主の生涯の大目的であった。主がご自分の教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた[エペ5:25]のは、教会をご自分のものとして贖うためであった。あなたの《主人》にならうがいい。その自己否定と、そのほむべき献身に学んで、何とかして、幾人かでも救うようにするがいい。

 私の魂があこがれ求めるのは、私が個人的に「幾人かでも救う」ようになることだが、私の願いはそれよりも大きい。私の愛する方々。私は、ここで教会の交わりに連なるあなたがた、ひとりひとりが、神の子どもたちの霊の親になってほしいと思う。おゝ、あなたがたひとりひとりが「幾人かでも救う」ようになれば、どんなによいことか。しかり。私の高齢の兄弟たち。あなたは奉仕に当たれないほど年老いてはいない。しかり。私の若き友人たち。あなたがた、青年や若い娘たち。あなたがたは《王》の軍隊の新兵となれないほど幼くはない。もしも御国が私たちの主のもとに来るとしたら――そして、それは必ず来るであろうが――、決してそれは、ほんの数人の教役者や、宣教師や、伝道者たちが福音を宣べ伝えるだけでやって来はしないであろう。それは、あなたがたひとりひとりが福音を宣べ伝える――店の中で、炉辺のそばで、外を歩きながら、部屋で座っていながら宣べ伝える――ことによってやって来なくてはならない。あなたがたは、ひとり残らずみな、常に「幾人かでも救う」努力をしていなくてはならない。私は今晩、あなたがた全員を新たに兵籍に入れ、《王》の軍旗をあなたがたの上に新たに結わえつけたいと思う。あなたがたが、もう一度新たに私の《主人》と愛に落ち、あなたの婚約時代の愛[エレ2:2]へと二度目に入らせたいと思う。時々私たちが歌うクーパーの賛美歌にこうある。――

   「おゝ、いや近く 主と歩まほし!」

願わくは私たちが、神といやまして近く歩むようになるように。そうすれば私たちは、罪人たちの救いによってキリストをあがめたいという願いをも、いやまして激しく感じるようになるであろう。私は今晩、私の話を聞いている方々、救われているあなたがたに、この問いかけをもって迫りたいと思う。――あなたは他の人々を何人キリストのもとに導いたことがあるだろうか? あなたが自分ひとりの力でそうできないことはわかっている。だが私が云いたいのは、神の御霊はあなたによって何人の人をお導きになったか、ということである。何人、と私は云っただろうか? だがあなたは、ひとりでも確実にイエスのもとに導いたことがあるだろうか? あなたは、ひとりも思いつけないだろうか? ならば、私はあなたを哀れに思う! 「記録せよ」、とエレミヤは云う。「この人を『子を残さない男』と記録せよ」*[エレ22:30]、と。これは、恐ろしい呪いと考えられたものである。私の愛する方々。私はあなたを「子を残さない人」と記録してよいだろうか? あなたの子どもたちは救われておらず、あなたの妻は救われておらず、あなたは霊的に子どもがいないのである。あなたは、こうした思いに耐えられるだろうか? 願わくはあなたが、あなたのまどろみから目を覚まし、自分を役に立つ者とし給え、と《主人》に願うように。「聖徒たちがわれわれ罪人のことを気にかけてくれたらよかったのに」、とある青年が云った。「気にかけていますよ」、とある人が答えた。「あなたのことを、たいへん気にかけていますよ」。「なら、なぜそれを態度で示してくれないんです?」、と彼は云った。「ぼくは今まで何度も、キリスト教に関係した話をしたいと思っていたのに、ぼくの友人は、教会の会員なのに、絶対にその話題を切り出そうとしません。まるで、ぼくがそばにいるときには、できるだけその話題から遠ざかろう、遠ざかろうとしているように思えます」、と。こうしたことを云わせてはならない。人々に、キリストと天来の事がらについて告げるがいい。そして、あなたがたのひとりひとりが、心にこう決意するがいい。人がもし滅びるとしたら、それは、自分に祈りが欠けていたためでも、自分が熱心で愛のこもった導きをしなかったためでもないようにする、と。願わくは神があなたに、あなたがたひとりひとりに、何とかして、幾人かでも救おうと決意させ、その意図を実行する恵みを与えてくださるように。

 III. しかし、私の時間はほとんどなくなってしまった。それゆえ最後のこととして、《使徒が用いた偉大な方法のいくつか》に言及しなくてはならない。

 「幾人かでも救う」ことをこれほど切望していた彼は、いかにしてそれに着手しただろうか? 左様。まず第一に、単純にキリストの福音を宣べ伝えることによってである。彼は、耳目を引くような言辞によって大評判をとろうとはしなかったし、群衆の同意を獲得するために誤った教理を宣べ伝えることもしなかった。残念ながら、一部の伝道者たちは、内心では自分でも真実でないと知っているに違いないことを宣べ伝えているのではないかと思う。彼らは、特定のいくつかの教理を押し隠している。それらが真理でないからではなく、それらが彼らの大ぼらの十分なはけ口とならないからである。また彼らは、大勢の人々の精神に達したいと思うがために、あいまいな云い回しを用いている。人がいかに罪人たちの救いのために熱心であろうと、自分の冷静な判断によって正当化できないようなことを少しでも語る権利があるとは私は信じない。信仰復興系の集会で云われたり、行なわれたりしていると私が聞いている事がらは、健全な教理に従ったものではないと思う。だが、それらは常に、「その場の興奮」という云い訳で許されているのである。私は主張する。たとい魂を救うことになると知っていたとしても、私には偽りの教理を述べるいかなる権利もない、と。もちろんそうした想定は馬鹿げている。だが、それであなたは、私の云わんとすることが見てとれるであろう。私の務めは、虚偽ではなく真理の影響を人々に与えることである。また、もし私がいかなる口実にかこつけても、人々に嘘っぱちをつかませるとしたら、私には弁解の余地がないであろう。確信しているがいい。福音のいかなる部分を押し隠しておくことも正しくはなく、人々を救う正しい方法でもない、と。罪人にはあらゆる教理を告げるがいい。もしあなたが、私の望んでいる通り、カルヴァン主義の教理を奉じているとしたら、それについて口ごもったり、奥歯に物がはさまったような云い方をせず、それをはっきり言明するがいい。嘘ではない。多くの信仰復興が雲散霧消していったのは、福音が余すところなく宣言されなかったためなのである。人々にはあらゆる真理を伝えるがいい。聖い火のバプテスマを受けたあらゆる真理を。そのとき、あらゆる真理は、それ自身の有益な効果を精神に及ぼすであろう。しかし、大いなる真理は十字架である。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」、という真理である[ヨハ3:16]。兄弟たち。これを守り抜くがいい。これこそあなたが鳴らすべき鐘である。人よ! それを鳴らすがいい! 鳴らすがいい! 鳴らし続けるがいい。この調べをあなたの銀の喇叭で鳴り渡らせるがいい。あるいは、たといあなたが子羊の角笛の人でしかなくとも、それを鳴り渡らせるがいい。そのときエリコの城壁は崩れ落ちるであろう。わが国の「洗練された」現代の神学者たちの美辞麗句の何と情けないものであることか。私は彼らが反対を叫び、私の古めかしい助言を糾弾しているのが聞こえる。十字架につけられたキリストについてのこういった話は古くさくて、因循で、さびついたものであり、現在の素晴らしい時代の優雅さには全く不似合いであると云われる。最近の私たちがいかに博識になってしまったかには驚愕させられるものがある。私たちは賢くなりすぎたあまり、残念ながら、遠からぬうちに――まだ完全になってはいないにせよ――愚者になり果ててしまうのではないかと思う。近頃の人々は、「考え方」を欲していると云われ、労働者の人々は、科学が神格化され、深遠な「思想」がたてまつられている所へ出かけていく。私の注目したところ、一般的に云って、新しい「考え方」が古い福音を追い出している所では、どこであれ人の数よりは蜘蛛の数の方が多く、イエス・キリストが単純に宣べ伝えられている所では、人々が立錐の余地もないほど押し寄せている。結局のところ、一定の時を越えて、ある集会所を何にもまして群衆で一杯にするのは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることなのである。しかし、この件について、それが人気を博していようと不人気であろうと、私たちの心は決まっており、私たちは足をしっかと踏まえている。自分の行き方について、私たちには何の疑問もない。もし血による贖いを高々と宣べ伝えることが愚かだとしたら、私たちは愚か者になるであろう。また、たとい昔ながらの真理にしがみつくことが気違い沙汰だとしても、まさにパウロがその真理をそのあらゆる単純さによって、何の洗練も改善もすることなく述べたように、私たちもそれにしがみつこうと思う。時代による進歩を受けつけることができないと笑い物にされようが関係ない。というのも、私たちはこう確信しているからである。「宣教のことばの愚かさ」[Iコリ1:21]は、天来の定めであり、かくも多くの人々をつまずかせ、それ以上に多くの人々から嘲られているキリストの十字架は、今なお神の力、神の知恵[Iコリ1:24]なのである。しかり。ただの古風な真理――もしあなたが自分は救われると信じているなら――、それにこそ私たちはしがみつきたい。そして、願わくは神が、ご自身の永遠のご目的に従って、その真理の上に祝福をもたらしてくださるように。私たちは、こうした宣教が人気を博すると期待してはいないが、遠くない先に、神がそれを正当なものと示してくださることを知っている。それまでの間、私たちは心をぐらつかせることはない。なぜなら、

   「われらの愛す 真理(まこと)を 盲(みえぬ)世
    妄想(ゆめ)よ迷妄(うそ)よと 冒涜(けが)しつつ
    識(し)らぬ危険の あるを否みて
    唯一の救済(すくい)を 笑いて死なん」。

 これに次いで、パウロは多くの祈りを用いた。福音だけでは祝福されない。私たちは、自分の宣教について祈らなくてはならない。ある大画家が、その絵の具に何を混ぜ合わせているのか尋ねられたところ、こう答えた。自分は絵の具に頭を混ぜ合わせているのだ、と。画家にとってはそれでよいであろうが、もしだれかが、ある説教者に、あなたは何を真理に混ぜ合わせているのかと尋ねるとしたら、その人はこう答えることができなくてはならない。――祈りである。多くの祈りである、と。ある貧しい男が、道端で花崗岩を砕いているとき、膝まづきながら一打ち一打ちを加えていた。そこへひとりの教役者が通りかかって云った。「あゝ、ご精が出ますね。あなたの仕事は、私の仕事にそっくりですよ。あなたは石を砕かなくてはならないし、私も石を砕かなくてはなりませんからね」。「そうですとも」、と男は云った。「それに、もし先生が石の心をうまく砕くつもりなら、先生はあっしのようにしなくちゃなりませんよ。膝まづきながらやってくんです」。その男は正しかった。大いに膝まづいていない限り、いかなる者も福音の鎚をたくみに用いることはできないが、人がいかに祈るべきかを知っているとき、福音の鎚は火打石のような心もたちまち割り砕く。神を説き伏せれば、人をも説き伏せられるものである。私たちは、自分の小部屋から、油注ぎを受け、御霊の神の油を清新に受けた者として出てきて、講壇に立とうではないか。隠れたところで受けたものを、私たちは朗らかに公に分け与えるのである。私たちは、人々のために神に語りかけないうちは、決して神のために人々に語ったりしないようにしよう。しかり。話をお聞ききの愛する方々。もしあなたが、自分の日曜学校の教えに、あるいは何か他のキリスト者としての働きに祝福がほしければ、それを熱心なとりなしの祈りと混ぜ合わせるがいい。

 さらにもう1つのことに注目するがいい。パウロがその働きに出て行くときには常に、自分が扱う人々に対する強い同情――個々の人々に進んで自分を合わせるほどの同情――を伴っていた。彼は、ユダヤ人を相手に話す場合には、自分は異邦人への使徒であるとまくし立て出したりせず、自分はユダヤ人であると語った。事実、彼はユダヤ人だった。彼は、国籍や儀式については何も問題を提起しなかった。彼がユダヤ人に告げたかったのは、イザヤがこう語ったお方についてであった。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]。それは、相手の人がイエスを信じて救われるためであった。異邦人に出会った場合、この異邦人への使徒は決して、そのユダヤ人教育のために身にしみついていた神経質さを全く示さなかった。彼はその異邦人が食べるように食べ、その人が飲むように飲み、その人とともに座り、その人と語り合った。いわば、ひとりの異邦人としてその人のそばにいた。決して割礼や無割礼についての問題を提起しなかった。むしろ、ただただキリストについてその人に告げたいと願った。ユダヤ人と異邦人の双方を救い、彼らを1つにするために世に来てくださったお方のことを告げたいと思っていた。

 もしパウロがスクテヤ人と出会ったとしたら、彼はその人と蛮族の言葉で語り、古典ギリシヤ語で語ったりしなかった。ギリシヤ人と出会った場合、アレオパゴスでしたように彼は、洗練されたアテネ人にふさわしい言葉遣いで語った。彼は、すべての人に、すべてのものとなった。それは、何とかして、幾人かでも救うためであった。キリスト者の方々。あなたもそれと同じである。あなたの人生における唯一の務めは、人々を、聖霊の力によって、イエス・キリストを信ずる信仰に導くことである。そして、その他のあらゆることは、この一大目的にくらべれば、二の次とされるべきである。もしあなたが人々を救うことができさえすれば、他のすべてはしかるべきときにちゃんとやって来るであろう。愛する神の人ハドソン・テーラー氏は、中国内地で大きな働きをしている人だが、中国人のような服を着て、弁髪を結うことが有益であることを見いだしている。彼は常に民衆と入り交じり、可能な限り、彼らと同じような生き方をしている。これは私にはまことに賢明なやり方であると思われる。可能な限り中国人のようになることによって、中国人の会衆をかちとれることは理解に難くない。だとすれば私たちは、中国人には、中国人のようになるべきである。それは、中国人を救うためである。ズールー族を救うためにズールー族となるのは不適当なことではないであろう。もっとも私たちが、コレンソがそうしたのとは違う意味でそうすることは頭に置いておかなくてはならないが。私たちは、自分が助けてやりたいと願う人々と同じ水準に自分の身を置くことができる場合の方が、異邦の外国人のままとどまって愛と一致について話す場合よりも、ずっと容易に自分たちの目的を達することができる見込みが高いであろう。おのれを捨てて人の利益を図ることこそ使徒の考え方であった。人々をイエスに導くためには枝葉末節的な部分は投げ捨てて、どうでもよい一千もの点について譲ること、私たちの《主人》の御国を進展させたければ、それが私たちの知恵である。決して私たちの側の気まぐれや因習によって、ある魂が福音を考慮するのを遠ざけてはならない。――それは、実にぞっとするようなことである。つまらないことに関する争いによって、罪人を来させるのを遅らせるよりは、どうでもよい事がらにおいては人に合わせて個人的な不便をこうむる方がはるかにまさっている。もし今日ここにイエス・キリストがおられたとしたら、主は、ピュージー主義者たちが嬉々と着用しているあのけばけばしい襤褸布を全く身につけておられないに違いない。私は、私たちの主イエス・キリストがそのような様式で着飾っている姿など想像もつかない。左様。使徒は信徒の婦人たちに控えめな服装をするよう告げており[Iペテ3:3]、私は、キリストがご自分に仕える教役者たちに道化のような手本を示すよう望んでおられるとは思わない。むしろ、衣服においてさえ、本日の聖句の原則に立って行なえることがあるであろう。イエス・キリストは、地上におられたとき、いかなる衣服をまとっておられただろうか? 平易な言葉で云えば、主は野良着を着ておられた。ご自分の国の人々が普通に着用していた服を着ておられた。上から全部一つに織った、縫い目なしの着物[ヨハ19:23]を着ておられた。そして私が思うに、主はご自分に仕える教役者たちが、その聴衆が普通に着ているような服に最もよく似た衣裳を着ていることを望んでおられると思う。彼らが衣服においてさえ、その聴衆の仲間となり、人々のひとりとなることを望んでおられると思う。教師たちよ。もしあなたが自分の子どもたちを救いたければ、主はあなたが子どもたちのように彼らに語りかけ、できるならばあなた自身が子どもになることを望んでおられる。あなたがた、青年たちの心に達したいと願っている人々は、若くなろうとしなくてはならない。あなたがた、病人を訪問することを願う人々は、彼らの病気において彼らに共感できなくてはならない。自分が病気の時に話しかけられたいと思うようなしかたで話すようにするがいい。あなたの所まで上って行けない人々のもとへ下って行くがいい。水に落ちた人を引っ張り上げたければ、身をかがめて、彼らをしっかりつかまえる以外にない。すさんだ性格の人々を扱わなくてはならないとしたら、あなたは彼らのところまで下りて行かなくてはならない。彼らの罪にならうというのではなく、彼らの荒々しさや、言葉遣いにおいて、彼らをつかまえようとしなくてはならない。願わくは神が私たちに、自分を合わせることによって魂をかちとるという聖い技術を学ばせくださるように。人はムアフィールズにあるホイットフィールド氏の会堂を、「《魂の罠》」と呼んだ。ホイットフィールドは喜んで、それがいつも魂の罠であればよいと云った。おゝ、わが国の礼拝所のすべてが魂の罠であり、すべてのキリスト者が人々をすなどる漁師であればどんなによいことか。ひとりひとりが最善を尽くして、漁師がそうするように、最高の技術と技巧を用いて、めざす魚をつかまえようとするのである。永遠の禍福に定められた霊という偉大な目的物をかちとるには、何を用いても惜しくはないであろう。潜水夫は真珠を探すために深く潜る。そして私たちは魂をかちとるためにいかなる労苦や危難をも受け入れられるであろう。私の兄弟たち。この神のごときわざのために、自分を奮い立たせるがいい。そして主が、そのことであなたを祝福してくださるように。

 ここまで私が思いつくままに語ってきた種々の思想に、ぜひ熱心に注意してほしい。不敬虔な人々には、イエスのもとに来てイエスを信じるのでない限り、自分の滅びがいかなるものとなるか、よくよく考えるように願いたい。また、信仰者の方々には、今のこの時から人々の魂の救いのための労苦に倍増しで熱心になってほしいと思う。そして願わくは神が、私たちに大きな祝福を送ってくださり、私たちからそれがあふれるほどになるように。

救霊こそ私たちの唯一の務め[了]

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