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主に願い求めよ

NO. 1304

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1876年7月9日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう」。――エゼ36:37、38


 人数が増し加わることは、非常に昔からある祝福の形である。人間に対する最初の祝祷は、これと同種のものであった。創世記1章にはこう記されている。「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ』」[創1:28]。同じ祝福は、神がそのしもべノアを受け入れられたときにも再び宣告された。創世記9:1にはこう記されている。「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ』」。またこのことは、忠実なアブラハムに対して約束された祝福の大きな部分をなしていた。創世記22:17および他の多くの箇所には、次のように記されている。「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう」。これは、神の選びの民の祝福であった。パロのいかなる悪意をもってしても抑えつけることのできない祝福であった。イスラエルはしいたげられればしいたげられるほど増えていったからである[出1:12]。ダビデは詩篇107篇で、このような云い回しを用いている。「主が祝福されると、彼らは大いにふえ」[詩107:38]。それで、明らかに家族や国民の数が増えることは、古代においては天来の恩顧のしるしとみなされていたのである。

 霊的な意味において、これは神の教会の祝福である。教会は、聖霊の力の訪れを受けるとき、四方八方で人が増し加えられる。膨大な住民数を擁する地域において、《教会》が、人数的に鳴かず飛ばずであるか、減少さえしつつあるとき、いかなる人もそうした状況に神の祝福のしるしを見てとることはできない。確かに、それは風変わりな種類の祝祷であろう。というのも、最初の祝福――ペンテコステの祝福――によっては、一日だけで三千人の人々が《教会》に加えられ、後にはこう書かれているからである。「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」[使2:47]。『使徒の働き』には、諸教会が「主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った」、と記されている[9:31]。こうした初期の頃以来、主がその民とともにおられるとき、彼らは人数が増え、彼らの子どもたちは流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生えてきた[イザ44:4]。彼らの「数が減り、またうなだれ」[詩107:39]たとき、それは彼らが真理から離れるか、その初めの愛[黙2:4]を失ってしまったためであった。福音の証しの明瞭さが曇らされ、霊性が衰え、聖霊がさげすまれ、その働きを手控えられるとき、教会は減退し、ついには生きているとされているが、ほとんど死んだものとなってしまってきた[黙3:1]。だが、主が教会に戻って来られるや否や、教会は子沢山の母となり、その子どもたちはこう叫んできた。「この場所は、私たちには狭すぎる。私たちが住めるように、場所をあけてもらいたい」*[イザ49:20]、と。主が福音宣教に御力を添えられるとき、回心者たちは朝露の雫のように、また、浜辺の砂のように数え切れなくなった。明らかに、私たちが教会として一心に求めるべき祝福の1つは、とどまることなく人数が増えていくことである。神の教会全体は、霊的な子孫が日々増し加わることを期待して待つべきである。この聖句の中には、その約束がある。だが、それには次のような条件がつけ足されている。「わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう」。あらゆる真のキリスト者は、教会に人が増えるのを見たいと願うものである。少なくとも私は、自分をキリスト者だと考えていながらそうした望みを全く待たないような人をあわれに思う。「その栄光は地に満ちわたれ」[詩72:19]。これこそ神の子ら全員の自然な熱望であり、もし誰かが自分は神の子どもであると思い込んでいながら、おびただしい数の回心によって主の栄光が現わされることを願っていないとしたら、私はそうした人の心や理解のありさまをあわれに思う。私は、私たちがみな宣教精神を感じているものと思う。私たちはみな主の御国がやって来ること、シオンで回心者たちが増し加わるのを見たいと切望している。しかし神は、私たちの願いをかなえる前に、私たちがそのために祈ることをつけ加えておられる。私たちは嘆願し、願い求めなくてはならない。さもないと、そのように人が増えることは差し控えられるであろう。

 なぜ主はこのように、祈りを祝福に必要な前触れとされたのだろうか? 神がそうされたのは、私たちの魂に対する大きなあわれみのゆえにほかならない。主は、私たちが大いに祈りに励むことが、いかに私たちにとって有益であるかをご存知である。それゆえ神は、私たちがご自分に近づきやすくしておられるのである。神は私たちが贖いのふたに近づく理由を山ほど与えておられる。私たちが何度も何度も請願すべき理由にできる数々の用向きを与えておられる。人が、ある人の扉を叩くとき、何かなすべき用事があるのは良いことである。それなら大胆に叩けるからである。たとい門番が扉を開いて、「何の御用ですか?」、と尋ねても、私たちは、「恐れ入りますが、重要な用向きがあるのです」、と云うことができ、その扉の前に大胆に立ち続けることができるのである。さて、主はご自分の民と交わることを愛しておられるので、わざわざ彼らに、みもとに来ざるをえないような用向きをいくつも与えておられる。私たちは決して、自分があわれみの門で尋問を受け、「お前はここで何をしているのか?」、などと厳しく問いただされるのではないかと恐れる必要はない。というのも、私たちには祈るべきいくつかの理由がすでにあるからである。実際、あらゆる約束は祈るための理由となる。約束は、私たちが贖いのふたの所でそれを嘆願するまでかなえられないからである。

 さらに、こう云って良ければ、神があわれみによって私たちを祈らざるをえなくさせておられるのは、そうした嘆願を祝福に必要なものとすることによってである。私たちは祈らなくてはならない。祈らなくては祝福されない。それゆえ、私たちは種々の必要によって贖いのふたへと駆り立てられるのである。私たちは、いかに恵みにおいて低調で、いかに霊的でなく、祈りの時に対してほとんど何の乗り気も楽しみも感じられなくとも、それでも祈らなくてはならない。神聖な強制力が、私たちの数限りない必要から生じては私たちの上に及ぼされているのである。ならば、私たちは神に感謝するものである。神は私たちが赴くべき数々の理由を与え、しかり、私たちが神のみもとに近づかざるをえないような圧力をかけておられるのである。さて、教会の人数が増えてほしいという願望、すなわち、すでに語ったような神のあらゆる子どもの胸に宿っている願望を、私たちが熱心な、また、力ある祈りへと駆り立てられるべき力強い衝動として働かせるがいい。というのも、もし私たちがこのことに駆り立てられるとしたら、教会はその人数をきわめて増大させるであろうからである。

 これこそ、今朝のこの講話の目標である。おゝ、恵みと嘆願の御霊よ。いま私たちの上に臨んでくださり、私たちが祈りの霊できわみまで満たされるようにしてください。私はこの聖句について次のように語りたいと思う。なぜ私たちは、この聖句が語っている願い求めへと自ら奮起すべきなのか? 「わたしは……願いを聞き入れて」。次に、いかにして、このような義務は果たされるべきか? この聖句は1つの手引を私たちに供している。そして第三に、主から祝福を賜りたいと願い求めることにおいて、兄弟たちに加わることから、いかなる根拠に立てばキリスト者たる者が免除されうるのか?

 I. 《なぜ私たちは、主にこうした願い求めをすべく奮起すべきなのか?》 私がこのような問いを発するのは、あなたがたの中の多くの人々が、祈りの必要について教えられる必要があると思うからではなく、むしろ、この点を思い起こさせて、あなたのきよい心を奮い立たせるのは良いことだと思うからである。

 私が示したいと思う第一の理由は、主に願い求めることが許されるのは偉大な特権だからである。この預言の20章に目を向けて、第3節を読むとしたら、このことが非常にまざまざと見てとれるであろう。「人の子よ。イスラエルの長老たちに語って言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたが来たのは、わたしに願いを聞いてもらうためなのか。わたしは生きている、わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない」。同じ章の31節も眺めてみるがいい。「しかも、ささげ物を供え、幼子に火の中を通らせ、今日まであらゆる偶像で身を汚している。イスラエルの家よ。わたしはどうして、あなたがたの願いを聞いてやれようか。わたしは生きている、――神である主の御告げ。――わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない」。何と厳粛な呪いであろう、神から耳を傾けていただけないとは! いかに恐ろしい罰であることか、神が祈りの門を閉ざし、「わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから顔を隠す。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない」*[エゼ20:31; イザ1:15]、と宣言されるときには。人々は、はなはだしい罪の状態に陥り、はなはだしく神から離れ、故意に神の命令に対して不従順な状態に至るために、神から、「わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない」、とさえ云われることがある。さて、かりに私が、しばしの間ここに立ってこのように云うべき痛ましい義務を有していると考えてみるがいい。「兄弟姉妹。私たちが祈っても、それは何にもならないのである。贖いのふたは廃止されてしまった。神は怒って、かの《仲保者》にその任を放棄するようお命じになった。嘆願はもはや聞かれないのだ」。いかに手をもみしぼり、いかに目のみならず心からの涙が引き起こされることであろう、もし祈ることが本当に神の民には認められなくなったとしたら! エゼキエルがこう云うように命ぜられたとき、それは麗しい瑞兆であった。すなわち、神は今やその呪いをご自分の民から取り去り、かつては、「わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない」、と云われたが、今は、恵みの契約の下で、彼らのもろもろの罪を許されたがために、あわれみ深くもこう宣告されたのである。「神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう」。あなたが祈ることを禁じられたとしたら恐怖に打たれるであろう。だとしたら、私はあなたに切に願う。それが許されている間に、祈りの特権を用いるがいい。もし神の耳に語りかけることが五、六名の人にしか許されていなかったとしたら、いかにあなたは彼らを尊ぶことであろう! いかにあなたは彼らの数のひとりとなることを願うであろう! もし少数の選ばれた者たちが取り分けられ、彼らだけが信仰によって願うことができるとしたら、また、彼らに対してだけこの、「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」[ヨハ15:7]、との約束がかなえられるとしたら、いかにあなたは彼らの高い特権をうらやむことであろう! ならば、現時点においてあなたがたの全員が――もし神の民であるとしたら――王である祭司とされており、贖いのふたがあらゆる信仰者に対して開かれている以上、自分の生得権を軽蔑しないように用心するがいい。あなたがたの中のひとりひとりに対して、この約束が与えられているのである。「捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」[マタ7:8]。ではこれは、私たちが主から与えられた特権を用いるよう奮起すべき十分な理由ではないだろうか?

 第二に、祈りはまた、偉大な特権としてばかりでなく、神の御霊の尊い賜物であるとみなされるべきである。祈りの霊が存在する所どこにおいても、それは聖霊ご自身によって心の中で作り出されている。そして、この聖句が、「わたしは……願いを聞き入れて」、と云うとき、それは人々が願い求めることになる約束なのである。契約の約束と、契約の恵みとのおかげで、人々は祈らされるのである。というのも、主はこう云われたからである。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ」[ゼカ12:10]。少しでも物の分かった神の子どもであれば知っているように、真の祈りは、「人に入りし御息吹(みいぶき)」が「発せしもとへ返り行」くものである。それは最初に神からやって来て、それから神へと帰って行くのである。御霊は、神のみ思いがいかなるものかを知っており、それから神のみ思いを私たちの思いに書き記してくださる。このようにして信仰者の願望は、神の聖定の写しとなり、それゆえにこそ首尾良い祈りがなされるのである。よろしい。私の兄弟たち。もし心を合わせた、熱心な、また、真情のこもった主への願い求めが契約の賜物であり、御霊のみわざであるとしたら、私たちはそれを蔑もうとなどとはせず、むしろ、それを熱心に求めたいと思う。私たちは、ある程度の祈り深さを獲得したときには、それを涵養し、それが大きく育つことを求めるべきである。契約の賜物は、いずれも常に熱心に求められるべきである。それらは、「よりすぐれた賜物」[Iコリ12:31]だからである。その契約がいかなる血によって証印を押され、すべての子孫に保証されたか[ロマ4:16]を思い出すがいい。この契約が聖徒たちに譲渡している相続財産のいかなる項目を眺めようとも、あなたはその代価が《贖い主》の心血であったことを感じずにはいられないはずである。ならば、ある人々のように、祈りのために一緒に集まることをやめたりせず[ヘブ10:25]、個人的に贖いのふたをないがしろにすることもせず、さらに、主に願い求めることもやめないようにするがいい。嘆願は契約の賜物の1つであり、天国のいかなる相続人もそれを蔑んではならないからである。

 これらは2つの有力な議論だが、ここにもう1つ議論がある。第三のこととして、私たちが祈らなくてはならないのは、それが、祝福を獲得するために必要なわざだからである。神の教会は増し加わることになっている。だが、「神である主はこう仰せられる。わたしは……願いを聞き入れて」。覚えておくがいい。このことは、実質上あらゆる約束の底に書き記されていることである。神は、「わたしは、これこれのことをしよう」、と仰せになるが、当然ながら、それを求めて人は神に願い求めるべきである。疑いもなく私たちは、求めもしなかった多くのいつくしみを受けているが、御国の規則は、「求める者は受け……ます」[マタ7:8]である。この規則は、この御国の王そのひとにすら当てはまる。――「わたしに求めよ」、と神はご自分の御子に云っておられる。「わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える」[詩2:8]。ならば、兄弟たち。私は、大いに主に願い求めるようあなたに勧告しなくてはならない。なぜなら、無数のことが祈りの実践にかかっているからである。しばらく、こうした祝福がいずれも来ないと想像してみるがいい。かりに何箇月もの間、この聖句の特定の祝福が差し止められたと思うがいい。あらゆる熱心なキリスト者がいかなる精神状態に陥ることであろう。ただのひとりも人数が増えない。――私たちが聖餐台のもとにやって来ても、何の増員も報告されない。教会集会を開く必要などない。というのも、耳にすべき信仰の告白は1つもなく、天来の愛の力を告げるために前に進み出る回心者はひとりもいないからである。そうした、よどんだ状態が何箇月も私たちに続いたとしてみるがいい! そして、なぜそうならないわけがあるだろうか? 他の多くの教会は、すでにそうなっている。ならば、老齢に達した神の子どもたちがひとりまたひとりと天国に行くにつれて、教会員名簿には空隙が生じ、誰もそれを埋める者がなく、誰も死者の代わりにバプテスマを受けず、誰も敬神の念に富む死者が取り除かれた後の隊伍に立つ者はいない。願わくは、この目がそのような災厄を決して見ることがないように。願わくは、この舌が天上の聖歌隊でその力を費やすようになってから、よほど遠い先にならない限り、そのような夜が降りかかることがないように。そのようなことになったとしたら常に、あなたがたは、この祈りの家の最前部に、「イ・カボデ」[Iサム4:21]と書き記して良いであろう。というのも、栄光は去っているはずだからである。現時点に至るまで、私たちは決して、主が私たちを去られて人が増えなくなったと吐息をついたり泣いたりせざるをえなくなる試しはなかった。だが、万が一にも、この祝祷が引き込められたと考えてみるがいい。あなたは、そう望むとしたら、祈りを抑えることによって、その祝祷を引き込めることができるのである。何千もの熱心な心から絶えず神に立ち上っているこの叫びが、ほんのひとときやんだだけで、それは、祝福もまたやんでしまったしるしとなるであろう。ただ、このような主への願い求めがある限りにおいて、私たちは主がこれまでしてこられたように行なわれることを――すなわち、群れとしての私たちを人々で増し加えてくださることを――期待できるのである。それゆえ、真剣に願い求めるがいい。祝福がそれにかかっているからである。

 次に、私たちがこのように願い求めるべき理由は、これが他の何にもまして大きな利益を生む務めだからである。この聖句を眺めてみるがいい。「神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう」。これは、大群衆を示す美しい観念である。あなたは、ことによると、おびただしい数の家畜を見たことがあるかもしれない。あふれんばかりに数多く群がった生き物の集団である。教会の人数が増えることも、そのようになるのである。しかし、それから、この祝福をさらに高めるために、こう云い足されている。「ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように」。これは、ユダヤ人の精神には、膨大な数を伝えるものであった。五旬節、過越の祭り、仮庵の祭りという三大祭礼の際に、イスラエル人はおびただしい数のいけにえをささげることに慣れていた。それゆえ、エルサレムに連れ込まれてくる子羊や羊の途方もない数は、私が前にしているこの本がなければ、言及するのをためらわれるような数であった。これはヨセフスその他の人々によって書き留められた数字である。ソロモンのいけにえは、「羊十二万頭」と記されている[I列8:63]。また、ヒゼキヤの時代には、一日で一万七千頭の羊がささげられたと記されている[II歴30:24]。それゆえ、私たちは、私たちの《救い主》の時代、ベテスダの池の脇に羊市場があったことが、いかに必要であったかを想像できよう。というのも、これほど数多くの家畜のためには途方もない定期市が必要だっただろうからである。その頃のこの町は、イザヤの述べた、次のような言葉遣いで描写されて良かったであろう。「ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり、ネバヨテの雄羊は、あなたに仕え、これらは受け入れられるいけにえとして、わたしの祭壇にささげられる」[イザ60:7]。さて、主はこう云っておられるのである。わたしは、単にシャロンやカルメルの上の羊が増し加わるようにあなたを増し加えるだけでなく、例祭のときに四方八方から寄り集まってエルサレムに上ってくる、何千、何万もの家畜のように増し加えよう。あなたは問うであろう。「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」[イザ60:8]、と。主は、いかなる勘定も及ばないほどに民を増し加えてくださるであろう。この約束には、もう1つ、美しいものがつけ足されている。すなわち、例祭の際にエルサレムに連れて来られる羊は、単に数が多いばかりでなく、国中で最上の羊だったのである。なぜなら、傷のある動物は決して神にささげることができなかったからである。祭司たちは過越の祭りのための子羊やいけにえのための羊を選ぶことには、ことのほか気を遣っていた。そして、彼らは常に群れの中でもえりぬきの羊、パレスチナのあらゆる群れの中で最高の羊であった。何というあわれみであろう。主は、教会を聖なる群れで増し加えてくださるとき、例祭のときのエルサレムの群れのような群れでそうしてくださるのである! それに加えて、それは単に群れのえりぬきのものであったばかりでなく、みな神にささげられたものであった。それらは、いけにえとしてささげられるためにエルサレムに連れて来られたからである。おゝ、幸いなことよ。ただ名ばかりで教会にやって来るのではなく、自分のからだを神への生きた供え物としてささげる[ロマ12:1]ためにやって来る、自己犠牲的な者たちを受け入れる教会は。彼らはからだも、魂も、霊も、イエスの足元に置いてこう云うであろう。「ダビデの子よ。私たちはあなたのもの。私たちの持てるすべてのものも」、と。

 それから、これを願い求めることによって、何を得ることができるか見てみるがいい。「わたしは……この願いを聞き入れて」 <英欽定訳>。では、ここで語られている「この」とは何だろうか? 何と、これは、神が私たちに非常に多くの民、えりぬきの民、神のご自身の選びの民を与えてくださり、彼らがみなご自身に聖別されるということである。彼らは、神のことばによって、自分自身をまず主にささげ、その後で私たちにゆだねることになる。これは、そのために祈ることによって起こるのである。あゝ、わたしの主よ。祈りをいや増さないとは、何と私たちは愚かなことでしょう! あなたの教会には、その種々の協会があり、その種々の機関があり、その他一切のものがあります。そして、教会は、ことによると、あなたよりも、こうしたものを頼りにしているかもしれません。ですが、あなたこそ私たちの戦斧であり戦いの武器です。あなたは民を増し加え、喜びを増やすことがおできになります。あなたは教会の矢筒を霊の子どもたちで満たし、そのようにして教会を祝福することがおできになります。あなたにだけ、私たちはこの恩顧を期待します。わが魂よ。黙って、ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ[詩62:5]。主はいくさびと。その御名は主[出15:3]。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ[詩98:1]。おゝ、イスラエルの家よ。主に願い求めよ。そうすれば、あふれんばかりの祝福がやって来ることになる。

 長々と述べる必要はないと思うが、私たちに祈る必要があるのは、私たちがすでに描写したような祈りの結果が、大いに神の栄光を現わすからである。どうかこの聖句の最後の文章を読んでほしい。「このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう」。ある教会に、えりぬきの、徹底的に聖別された人々が大いに増えるとき、その教会はイスラエルには神がおられることを新たに知るのである。この世もその目を驚きに見開き、結局祈ることにも一理あるのだと認めるであろう。神の国が祈りの答えとして人数を大きく増やすとき、そこには懐疑主義者たちの種々の議論に答え、不敬虔な舌の下品な冗談を黙らせる素晴らしい力が巷にあふれるであろう。「これは神の指です」[出8:19]、と彼らは云うであろう。ホイットフィールドやウェスレーが最初にほむべき福音を宣べ伝え始めたとき、いかに人々は痛烈に彼らを嘲ったことか。彼らは狂信者であり熱狂主義者であり、国の平和をかき乱す者らであった! イエズス会士であり、ジェームズ二世派であり、私の知る限りのありとあらゆるもの、ただし悪と考えられていたすべてのものであった! しかし、主がこうした人々に力を添えて、彼らの支持者を何万単位で増し加えられたとき、たちまちこの世はその口調を変えて、かつては蔑んだ彼らに怯え、恐れをいだいた。今もそれと同じである。もし私たちが祈らなければ、もし私たちが心において冷たくなるとしたら、この祝福は引き込められ、そのとき世故に長けた者たちはこう云い始めるであろう。「これは昔ながらの、気の抜けたような教理が、清教徒たちの最後のひとりによって宣言されているのだ。――それは、今にも死に絶えそうなものだ」、と。だが、神が私たちを祝しておられ、人々が群れをなしてやって来て、教会がこの国の一勢力へと成長しつつあるのを見るや否や、彼らは、特にそれを好むようになるわけではないが、それを敬わざるをえなくなるであろう。おゝ、主が教会としてのあなたがたを祈りへと奮い起こし、国中のあらゆる教会をそうしてくださるとしたらどんなに良いことか。そうなることで、主の敵どもは横っ面を張られ、主に仇どもは沈黙させられるであろう。そうなることで、あざける者や不信心、および遊女のごとき儀式尊重主義の双方はまごつかされ、懐疑主義および迷信の双方ともに、イエスの昔からの大真理には、なおも主なる神の全能性が宿っているのだと認めさせられるであろう。

 II. 第二に、この問いに答えてみよう。――《いかにしてこの義務は果たされるべきだろうか?》 最初に、このことは教会全体によってなされるべきである。私たちの聖書に目を向け、この聖句をもう一度読んでみよう。「わたしは……願いを聞き入れて」。――これは教役者たちの願いだろうか? 長老たちの願いだろうか? 常に相集って祈っている少数の善人たちの願いだろうか? 見よ! 注意して見よ! 「イスラエルの家の願い」である。これは主の民の全員のことである。大いに人が増やされるためには、全員が一致した祈り、イスラエル全家から出た祈りがなくてはならない。あらゆる者が例外なしに加わらなくてはならない。ふたりでも三人でも相集う所には、平安という答えがあるであろう。たったひとりの祈りにも力はあるであろう。だが、もしイスラエルの家が、また、信仰ある者たちの全集団が、祈りにおいて寄り集まるとしたら、あゝ、そのとき私たちは、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように聖徒たちが増し加わるのを見るのである。そして、このことは、そうなされるまで見られないであろう。イスラエルがアイで敗北したとき、彼らが失敗した原因の1つは、アカンの天幕の中に忌みきらうべきものがあったからだが、もう1つの敗因は、彼らがこう云ったからである。「民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください」[ヨシ7:3]。民の一部が行ってアイを攻め取ることにし、残りの者はのんびり横になっていればいいのです、と。贖われた者たち全員によってなされるべきことが、少数の人々にゆだねられている限り、神の教会は常に逆境に陥るであろう。イスラエルの全家がアイを包囲するのでなければ、アイを攻め取ることはできない。生ける神の全軍がともに膝をかがめ、ともに神に嘆願するのでなければ、いかなる大勝利も成し遂げられることはない。

 次に、首尾良く主に願い求める道は、教会がこの件に個人的な関心を寄せることである。「神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、彼らのために次のことをしよう」 <英欽定訳>。人々が、魂の回心は自分たち自身の個人的な事がらなのだと感じるとき、また、《日曜学校》の教師たちが、教会に人が増し加わることは自分たちのためになされる何かなのだと感じるとき、そして、キリスト者である奉仕者ひとりひとりが、魂を救うことには自分の個人的利害が関わっているのだと感じるとき、そのとき主のみわざは大きな規模でなされるであろう。兄弟たち。あわれな罪人たちの問題が私たちの問題となるとき、また私たちの心が、「この魂たちが救われない限り私は砕けてしまう」、と叫ぶとき、私たちは確かに上首尾をおさめるに違いない。もし罪人が悔い改めなければ、彼のことで私たちの心を砕こうではないか。行って主に彼のもろもろの罪をお告げし、あたかもそれらが私たち自身の罪であるかのようにそれらについて嘆き悲しもう。もし人々が救われないとしたら、私たちは信仰によって彼らを神の前に連れてゆき、彼らのための神の約束を申し立てよう。彼らを祈らせることができなければ、私たちが彼らのために祈り、彼らのためにとりなそう。そうすれば、私たちの悔い改めに答えて彼らは悔い改めさせられ、私たちの信仰に答えて彼らは信ずるように導かれ、私たちの祈りへの答えとして彼らは祈るよう動かされるであろう。主はそうなさると云っておられるが、それを私たちに個人的な恵みとして求めさせたいと望んでおられる。それは、そのようにして私たちの魂が御国の進展のために熱心なものとされるためである。

 この祝福がやって来るのは、第三のこととして、ただより頼む教会の祈りに対してである。これがいかに云い表わされているか見るがいい。「神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、彼らのために次のことをしよう」。すなわち、彼らはこのことを自力でできるなどとは夢にも思うことなく、そうしていただくよう神に請願するであろう。キリスト者たる人々は、決して信仰復興を起こそうなどと語るべきではない。あなたはそれをどこから起こそうというのか? 私の知る限り、あなたが信仰復興を引き起こせる場合は、ただ1つ、あなたがそれとは全く何の関わりを持たない場合にほかならない。私たちは、それを私たちのために行なってくださるよう主に願い求めなくてはならない。あまりにもしばしば私たちは、誰か卓越した信仰復興運動家に要請するか、どこかの大説教者を説いてやって来させられないか尋ねたいという誘惑に駆られる。さて私は、魂をかちとる説教者たちを招くことにも、他の何か有用な計画にも反対するものではない。たが、私たちの最たる務めは主に願い求めることである。というのも、結局、主だけしか人を増やすことはできないからである。かりに私たちが大勢の人々を集めたとしよう。それが何だろうか? 新聞にそう書かれるのは大したことだが、それで終わるとしたら、そこに何の益があるだろう? かりに私たちが何度も大集会を持ち、熱狂的な興奮が見られたとしても、そのすべてが一箱の密造酒をきこしめすことで終わったとしたら、神の栄光はどこにあるだろうか? 逆に神の御名には不名誉が帰され、神の教会は特別な努力を行なったことによって気をくじかれるであろう。だが、この聖なる働きが祈りの中から始まり、祈りの中で続けられ、何につけてもあからさまに神の御力により頼んでいるという場合、その祝福は実際、有する価値あるものである。あなたがたを増し加えてくださるよう主に願い求めるがいい。そうすれば、あなたがたは増し加わるであろう。私たちは、自分自身では何事も行なえないことを自覚しつつ、神を待ち続けなくてはならない。また、魂を回心させる唯一の力としての聖霊に期待しなくてはならない。もし私たちがこのような、より頼む姿勢で祈るとしたら、あふれんばかりの答えを獲得するであろう。

 さらに、約束された祝福を獲得するには、その祈りが真剣な気遣いと、鋭い観察力と、積極的に行動する教会によってささげられなくてはならない。ここで用いられている、「わたしは……願いを聞き入れて」、という云い回しには、この民が種々の問いかけを思い巡らしては、発していたに違いないこと、また、神と論じ、神に嘆願していたに違いないことが暗示されている。神に向かって、なぜこの祝福を与えてくださらないのかと問うこと、また、なぜ神が今そうすべきかという理由を力強く主張するのは良いことである。私たちは神に向かってその御約束を引き合いに出し、私たちの本来あるべきではない大きな窮乏を神に告げ、それから再び乞い求め、願い求め、自分の訴えを嘆願することに立ち戻るべきである。そのような教会が嘆願するときには、いかなる疑いも越えて、祝福をかちとるであろう。それは、荒れ果てた地を覚えている教会でなくてはならない。この聖句はそれを約束の中で云い表わしており、それをこの祈りの中で忘れてはならない。――「廃墟であった町々を人の群れで満たそう」。首尾良く行っていない種々の奉仕の場を懸念のうちに覚えている教会、悪い状態にある他の諸教会に好意的な目を投げかける教会、神の御霊が働いていないように思われる所々を注意深く心に留め、そうしたすべてを祈りの中で言及する教会、そうした教会にこそ、この約束はなされているのである。私は主に願う。主が、あなたがた、愛する兄弟たちの心を、心砕かれない罪人に代わって砕いてくださるように。切望に満ちていない者たちに代わって、痛ましい切望をあなたに与えてくださるように。願わくは神が、事実、この教会の全会員を切に願い求めさせてくださるように。そして、救われた者たちが自らも切望して願い求める者となるとき、この世からは切望せる願い求めがふんだんに引き出されるであろう。願い求める罪人たちを有したければ、私たちが願い求める聖徒となることである。聖徒たちが主に願い求めるとき、罪人たちはシオンを求め、その道に顔を向けるであろう[エレ50:5]。あらゆる祈祷会は、事実上、願い求める者たちの集会となるべきである。そこで真の心は主の麗しさを仰ぎ見、その宮で願い求める[詩27:4]のである。

 もし私たちがこの祝福を祈りに答えて獲得したければ、その祈りは信仰に満ちた教会によってささげられなくてはならない。おゝ、私たちが神の約束を本当に信じてきたとしたらどんなに良いことか。主は云われる。「わたしは願いを聞き入れて、彼らのために次のことをしよう」。だが、不信仰な願い求めは、神を愚弄するものでしかない。いかに僅かな人々しか、本当には祈りを信じていないことか! 先日私は、支那における《奥地伝道団》の回心者たちについて読んでいたが、彼らはまれに見るような際立った敬神の念を示している。彼らは、神が祈りを聞かれると知ったとき、常に祈っていることを欲した。なぜなら、彼らによると、「もしそんだとしたら、もしこの大神様が祈りを聞いてくださるんだとしたら、しこたま多くのことをお願えしようじゃねえか」。それゆえ彼らが、その信仰に満ちた祈りに対して数々の答えを受け取ったのも不思議ではない。それは、不信者には与太話と思われかねないものとして、宣教師がほとんど物語るのをしぶるほど尋常ならざる答えであった。実際、そうした恐れは決して理由のないことではない。というのも、他の場合、祈り深い人々について記された伝記の数々ははなはだしく疑いの目を向けられてきたからである。ハンティングドンの『信仰の貯蔵所』は、「たわごとの貯蔵所」と呼ばれてきた。だが私の信ずるところ、彼は徹底して正直な事実を記録しており、虚偽を記すことなど完全に不可能である。人々がサミュエル・ヒックの物語を読み、彼が祈りによって風向きを変えたと読むと、ほとんどの人々は半信半疑になる。だが、なぜか? あるキリスト教の集会のためにパンが必要になったが、小麦粉が手に入らなかった。風がなくては製粉機が動かせないからである。ヒックは自分の麦袋を粉屋に渡して、それを挽くように命じた。「けどよ、風が吹いてねえんだぜ、サミー」、と粉屋は云った。「かまわんよ。あんたが麦をその漏斗に入れさえすりゃ風は吹く」。麦が入れられた。すると風がその小麦を挽き始め、それからやんだのである。「あゝ」、と人々は云うであろう。「そりゃメソジストのする類の話さ」。しかり、その通りである。そして、そうした種類の話は他にもたくさんあるし、私たちの中のある者らも、そうしたことが自分の身の上に起こったのを知ってきた。祈りに対する答えは、今の私たちにとっては、自然法則に反するものとは見えない。私たちにとって、ありとあらゆる自然法則の中でも最大の法則は、主がその約束を守り、御民の祈りを聞かれるに違いないということである。引力その他の法則が一時停止されることはあっても、この法則が停止されることはありえない。「おゝ」、とある人は云うであろう。「私にはそんなことは信じられません」。しかり。それであなたの祈りも聞かれないのである。あなたは信仰を持たなくてはならない。というのも、もし信仰が欠けているとしたら、祈りのまさに背骨と魂を欠くことになるからである。おゝ、強大な信仰があればどんなに良いことか! もしひとたびある教会が真の活発な信仰で満たされ、それが生ける神――イスラエルの神――への信仰に満ちた祈りにおいて行使されるのを見たとしたら、私たちは諸教会が羊の群れのように人を増やされるのを見ることであろう。

 III. 私たちは今、あなたがた、祈祷会に来ることをしないか、他のしかたで祈りの格闘をしていない人たちを励ましたいと思う。《誰かが祈りの義務を免除されるなどという根拠が、何かあるだろうか?》 答えよう。そのような根拠は皆無である。あなたは、共通の人間性という根拠に立って免除されることはできない。神が祈りに答えて罪人たちをお救いになるというのに、私が祈らないとしたら、私は何者だろうか? 魂が死につつあり、滅びつつあり、地獄に沈みつつある一方で、救いのために定められた仕組みは祈りであり、みことばの宣教である。では、もし私が祈りを抑えるとしたら、私は何者だろうか? 確かに、人間としての親切心という乳は私の胸の中から流れ尽くしてしまっており、私は人間であることをやめているに違いない。だとすると、いかに神との交わりなどについて語っても、それは無駄口である。傷ついた人に何のあわれみも持たず、食べ物がないために飢え死にしかかっている人を助けてやろうともしない人は怪物である。だが、永遠の火の中に沈み込みつつある魂に一片のあわれみも有していない人、それは何だろうか? それには自分で答えを出すがいい。

 次に、キリスト教の中に、祈りをおこたるべき云い訳が何か見いだせるだろうか? 答えよう。人間性の中と全く同様に、キリスト教の中にも何1つない。というのも、もしキリストが私たちを救ってくださったとしたら、キリストは私たちにご自分の御霊を与えておられるからである。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」[ロマ8:9]。では、キリストの御霊とはいかなるものだろうか? 主はエルサレムを見下ろして、「わたしの信ずるところ、この町は見放されており、滅びに予定されているのだ」、と云われただろうか? そして冷たく去って行かれただろうか? 否。そうはなさらなかった。主は予定を信じておられたが、その真理は決して主の心を凍てつかせなかった。主はエルサレムのために涙し、こう云われた。「ああ、エルサレム、エルサレム。……わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」[マタ23:37]。

   「罪人のため 主は泣きたるに
    われらの頬の など渇くべき」。

神が私たちのためのみならず、罪人たちへの祝福の管としても祈りを定めておられるというのに、私たちの心の中に何の祈りもないというようなことがあって良いだろうか? ならば、いかにして私たちは、自分をキリスト者などと云えるだろうか? 人の子らへの祝福を求める力強い祈りのうちに、自分の心が神へと立ち上っていないとしたら、神の御名にかけて、いかにして私たちは、キリスト教の告白を行なうことができるだろうか?

 しかし、ことによると、ある事実のうちに1つの云い訳が見いだされるかもしれない。キリスト者たる人が、自分の心の不毛な状態ゆえに、自分の祈りなど大して重要なものではないのだと感じているという事実である。あゝ、よろしい。それは何の云い訳でもなく、罪の悪化である。私の愛する兄弟たち。もしもあなたが、祈れないような気分を感じているとしたら、あなたこそは、他の誰にもまして二倍も祈るべき人にほかならない。あなたの精神が、祈りに気乗りがしない状態に陥ったときには常に、その状態を危険信号とみなすべきである。何かが非常に調子を狂わせているのである。そのようなときには、倍増しで神に呼び求めるべきである。祈りの御霊を賜るようにと。

 実際、私はあなたに命ずる。信仰を告白するキリスト者たち。神に祝福を求める祈りを抑えてはならない。というのも、もしそうするなら、あなたは残りの兄弟たち全員を傷つけることになるからである。死んだ骨の一片をあなたのからだに埋め込んでみるがいい。それは、最初はそれが埋め込まれた部位を害し、その後は全身を損なってしまう。からだの中にある死んだ物質の破片のために、頭の天辺から爪先までの全組織が病んでしまう。そのように、もし私たちの間に祈りのない信仰告白者がいるとしたら、その人は全集団に害をもたらすのである。あなたがたの中のある人々は、軍のお荷物であり、その行軍と戦闘の妨げである。私たちはここに偉大な軍隊を有しており、もしあなたがたがみな五体満足で、戦いへと行進しようとしているとしたら、私たちは幾多の大勝利を目にするであろう。だが私たちは、傷病者運搬車の中に病んだ者たちをかかえており、牧師や教会役員たちの時間の大半は、そうした役立たずの、病院にいるしかふさわしくない兵士たちの世話を焼くことに取られなくてはならない。「誰のことを云ってるんです?」、とあなたは云うであろう。あなたのことである。愛する方。――まず間違いなく、あなたのことである。それが誰について云われた言葉かを、あなた自身の良心に決めさせるがいい。

 さて、確かに私たちが大いに祈りに励まなくてはならないのは、結局のところ、私たちは非常に多くを祈りに負っているからである。私よりも前からキリストのうちにいた人々は、私のために祈ってくれていた。では私は、他の人々のために祈るべきではないだろうか? あなたがたの中のある人々は、母上の祈りによって、まだ少女の頃にキリストのもとに導かれた。では、あなた自身の子どもたちのために祈ることによって、母上のその恩義をお返ししたくはないだろうか? 青年よ。あなたは父上の祈りによって《救い主》の足元に導かれた。今はあなた自身よりも若い者たちのために祈るがいい。彼らもまたイエスのもとに導かれるようにと。教会の祈りという宝庫は私たちをキリストの足元に導くために消費されてきた。いま私たちは、この普通株に掛け金を払い、私たちの祈りを他の人々の回心のために投げ入れようではないか。私たちは、人として当然な感恩の情からして、そうするように励まされている。

 残念ながら、私は次のようにも訴えなくてはならないのではないかと思う。すなわち、もしあなたが祈りに加わらないというのであれば、兄弟たち。私はあなたの信仰の健全さを疑わなくてはならない、と。私の知っているある人々は、信仰という点では、どこから見ても健全である。それが彼らの初めであり終わりである。だが私が何年か前に知っていた数名の人々は、何から何まで健全でありながら、決して魂が救われようが救われまいが気にかけていなかった。自分たちがそれほど健全だったからである。そうした種類の健全さは、空しい健全さである。願わくは主が、そのようなものから私たちを解放してくださるように。厳正な意見をいだいているからといって、自分の同胞たちに対して無情であって良いというのは、お粗末な弁解でしかない。もし私たちが正統信仰を有しているというなら、私たちは新生が神の御霊のみわざであると信じているのである。ならば、愛する方。自然な推論からして、私たちの中の新生している者らは、聖霊が他の人々をも新生させてくださるように祈るべきである。もしそれが完全に御霊のみわざであり、説教者などに全く頼ることができないとしたら、私たちは天来の力を切願しなくてはならない。もしあなたがこのように天来の精力を呼び求めることができないとしたら、あなたの健全さはどこにあるのか? 確かにあなたは魂が救われるのを願っているに違いない。だが、もしそれが御霊のみわざであり、あなたが御霊にそのみわざを行なってくださるよう祈っていないとしたら、確かにあなたは自分の教理を信じていないに違いない。それゆえ、信仰におけるあなたの健全さにかけて、私はあなたに訴えたい。祈りにおけるあなたの熱心さを増し加えてほしい。

 あなたは云うかもしれない。「でも私は免除されると思いますよ」、と。だが、私はあなたが免除されることはありえないと答えざるをえない。「私はとても病んでいるのです」、とある人は云うであろう。あゝ、ならば、あなたは寝床に横になって祈ることができる。私たちの中の誰も、寝たきりの病人である私たちの友人たちの嘆願に答えて、このタバナクルに降ってきた祝福を完全には見積もることができない。私の信ずるところ、主は教会のある特定の部分を取り分けては、夜番の間中、祈りをささげさせ続けておられるのである。そして、健康であるあなたや私が熟睡している間に、この番人たちはまどろむことも、沈黙を守ることもなく、賛美か祈りによって、その時間を彼らの敬虔な勤めによって聖なるものとしているのである。私は、何年もの間その祈りによって私を支えてくれた愛するキリスト者の男女が彼らの故郷の栄光へと連れ去られてしまうとしたら、自分が途方もない損失をこうむると考えている。その空隙を誰が埋めるだろうか?

 「私はこんなに貧乏なのです」、とある人は云うであろう。よろしい。何もあなたは、神に向かって祈るたびに一シリング払うように召されているわけではない。あなたがいかに貧しいかは関係ない。あなたの祈りは同じくらい受け入れられる。ただこのことは覚えておくがいい。もしあなたが貧しいとしたら、あなたはいやまして祈るべきである。なぜなら、あなたは自分のささげ物を黄金という形ではささげることができないからである。私はあなたに、使徒たちとともに[使3:6]こう云ってほしいと思う。「金銀は私にはありません。しかし、私にあるものを上げましょう。私の《主人》よ。私は大いに祈りに励みます」、と。

 「あゝ」、と別の人は云うであろう。「ですが、私には何の才質もないのです」。それもまた、あなたがより祈るべき理由であって、祈らない者となるべき理由にはならない。なぜなら、もしあなたが、才質に欠けているがゆえに教会の公の奉仕に貢献できないとしたら、あなたは、個人的な祈りととりなしを実践することによって、より熱心に教会を強くすることに貢献すべきである。そして、そのようにして、前線に出て行くのにより適した人々を強くするべきである。

 「あゝ」、とある人は云うであろう。「ですが、私は回心したばかりなのです。私は、自分でもほとんど平安を獲得していません。いかにして私に祈れましょうか?」 もしあなたがその問いに対する答えを欲しているとしたら、詩篇51篇を読むがいい。ダビデはこう始めている。「神よ。私に情けをかけてください、あなたの豊かなあわれみによって」*、云々。だが彼は、ほどなくしてこう叫んでいるのである。「どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください」[18節]。彼は、自分が罪から洗いきよめられたばかりだというのに、用いられる者となるよう祈り始めている。――「私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう」[13節]。あなたがた、新しく回心した人たちこそ、力を込めて祈るべき者である。それで私は、自分の魂の奥底から、あたかも命がけで嘆願しているかのように、あなたに乞い願うものである。(そしてこれは、ある人々が想像する以上に、私の健康と寿命に関わることである)。ぜひともあなたは、主に願い求めてほしい、と。このようにすることにおいて、私はこの教会の末長い繁栄のために嘆願しているのである。ロンドンの益のために嘆願しているのである。全世界の恩恵のために嘆願しているのである。もしあなたが主イエスを愛しているとしたら、兄弟姉妹。教会に人を増やすというこの大いなる約束について、主に願い求めるがいい。主を今ためしてみるがいい。そして、主があふれるばかりの祝福[マラ3:10]をあなたがたに注ぐかどうかを見てみるがいい。しかり。果たして主があなたがたを羊の群れのように、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように増やさないかどうかを見てみるがいい。願わくは神が、その祝福を授けてくださるように。キリストのゆえに。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――エゼキエル36:1-14; 24-38


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 145番(第一の歌)、985番、968番

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主に願い求めよ[了]

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