天国の喜びイエス
NO. 1225
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「彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです』」。――黙5:9、10
ある人の人格を知りたければ、その人の自宅で調べるのが良い。その人の子どもたちや召使いたちは、その人のことをどう思っているだろうか? 常日頃その人とともにいる人々は、どのような評価を下しているだろうか? ジョージ・ホイットフィールドは、あるときひとりの人についてどう思うかと尋ねられたが、彼の答えは非常に賢明なものであった。彼はこう答えたからである。「私は、彼と一緒に暮らしたことがありません」。キリストにある愛する兄弟たち。あなたの主について、彼方にある故郷でいかなる評価が下されているかを見るがいい。そこでは人々が最も良く主を知り、最も不断に主を目の当たりにし、最も明瞭な光のもとでそうしているのである。彼らは、主に何の欠陥も発見していない。創造されたとき以来主を見ていた御使いたちも、また、主とともに――ある者などは何千年も――過ごしてきた贖われた者たちも、主には何の傷も見いだしていない。むしろ、喜ばしい歌によって惜しげなく表明された、彼らの満場一致の評決はこうである。「あなたは尊ばれるにふさわしい方です、尊ばれるにふさわしい方です、尊ばれるにふさわしい方です」。
ある人を知りたければ、最上の種類の人々がその人についてどう考えているかを突きとめるのが良いであろう。というのも、悪人の良い意見など無価値だからである。悪い人格の者から称賛されているのを知った、あるギリシヤ哲学者はこう云った。「私が何をしたというので、あなたは私をほめるのですか?」、と。判断を下すにふさわしい人々、きよさとは何かを知っている人々、美徳とその贋物とを識別する目を開かれている人々から出た評判――そのような評判こそ有するに値するものである。人は、聖徒から悪く思われたいとは思わないであろう。私たちが大切に思うのは、その判断が当てになる人々、偏見のない人々、また、誠実で評判の良いことだけを愛する人々からの評価である。さて、愛する方々。あなたの主が、最上の面々の中でどのように思われているか見るがいい。そこでは、あらゆる者が完璧であり、もはや子どもではなく、みな判断力があり、明白な光の中に生きており、偏見から脱しており、過ちを犯しようもないのである。彼らが主をどう考えているか見るがいい。彼ら自身、御座の前で何の欠陥もない者たちだが、彼らは自分たちを尊ばれるにふさわしい者だとは考えていない。イエスだけに尊さを帰している。誰ひとりとして立ち上がって、大いなる《王》の開かれた御手から、かの巻き物を受け取る者はいなかった。《小羊》がそうするのを見たとき、彼らは、その顕著で栄誉ある立場を占めることが彼の権利であると感じ、一斉にこう云った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられ……たのですから」<英欽定訳>。あなたや私は、いかにイエスを高く称賛しても称賛し過ぎることはない。主のことをどれだけ考えても間違いではない。主への私たちの評価をますます高め、トマスとともにこう叫ぼう。「私の主。私の神!」[ヨハ20:28] おゝ、イエスを大いなるお方と考えること。おゝ、主を私たちの魂で思い描ける限り、また、想像しうる限り、最高の御座に着けること。また、私たちの人間性のあらゆる力と精神機能を、この長老たちのように主の御前で平伏させるとともに、神が私たちに着せかけてくださるいかなる栄誉をも、常に主の御足元に投げ出して、心と唇と行為によって、常にこう云うこと、これはどんなに良いことか。「あなたは尊ばれるにふさわしい方です。イエスよ、インマヌエルよ、《贖い主》よ。あなたは私たちをあなたの血で贖ってくださいました。あなたは尊ばれるにふさわしい方です、永久永遠に尊ばれるにふさわしい方です」、と。
この完璧な霊たちの評価に、私はあなたの注意を引き寄せたいと思う。あなたがたはキリストについてどう考えているだろうか? あなたがた、栄化された方々。私たちがじきに合流する方々。あなたの答えは、先に読み上げた言葉の中にある。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです」。
I. 第一に注意すべきことは、御座の前にいる輝かしい者たちは主イエスを《仲保者という気高い職務にふさわしいお方》としてあがめている、ということである。彼らは、その職務にふさわしい唯一のお方として主をあがめている。というのも、この巻き物が神の御手にあり、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」[黙5:2]、と挑まれたとき、天には沈黙があったからである。あの四つの生き物は口をつぐんでいた。智天使や熾天使も沈黙していた。その座にすわる二十四人の長老たちも粛然と黙っていた。彼らは、それにふさわしいという申し立てを全くしなかった。むしろ、その沈黙により、また、後にキリストが進み出た際に発されたその歌により、彼らはこう認めたのである。主だけが神のご計画を解き開き、それを人々の子らに向かって解釈することがおできになったのだ、と。というのも、私は、私たちの主がご自分の御手にその巻き物を取られた意味の1つはこのことであると受けとっているからである。すなわち、主は、あれほど固く封印されたその神秘的な巻き物を成就するお方だったのである。主は来てそれを開かれた。また、主が主立った位置を占める取引によって、それは成就された。神のご目的の鍵はキリストである。私たちは、神の聖定がどのようなものになるか、それが成就するまで分からない。だが、これだけは分かっている。すなわち、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るということ[ロマ11:36]、また、すべてはイエスによって始まり、終わるということである。というのも、主はアルファであり、オメガであり、最初であり、最後であるからである[黙21:6; 22:13]。主は全歴史の最初に記された一文字であり、その御座を父なる神にお渡しになり[Iコリ15:24]、神をすべてにおいてすべてとするとき[Iコリ15:28]、主は歴史の「――完――」となられる。私たちの主イエスは、成就するお方であるばかりでなく、解釈するお方でもあられる。主は御父ともにおられ、「子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がない」*[マタ11:27]からである。主は、私たちに神のみこころを通訳する偉大な解釈者であられる。私たちのうちに住む主の御霊は、神のみこころのことを取っては、それを私たちに示される。そして、この御霊の光に照らして、私たちはキリストの御顔にある神の栄光[IIコリ4:6]を見てとるのである。「わたしを通してでなければ」、と主は云われる。「だれひとり父のみもとに来ることはありません」[ヨハ14:6]。というのも、御父を私たちに説き明かせる唯一のお方、御父に私たちを導くことのできる唯一のお方は、イエス・キリスト、この天来の秘密の唯一の解釈者だからである。そして私は、この箇所の表現が主を仲保者として述べているものとみなす。というのも、主は、神と人との間[Iテモ2:5]に立たれるお方だからである。主はその巻き物を、私たちに代わって御手に取り、私たちのために、星々の彼方にある私たちの相続地の証文をつかむにふさわしいお方であられる。他の誰も、私たちのため、《いと高き方》の尊厳ある御前に出て行き、私たちに代わって恵みの権利証書を手に取ることはできないが、キリストにはそれができ、それを取り、それを開き、選ばれた者らに対する選びの愛の驚嘆すべき目的を、私たちに説き明かすことがおできになる。下がりおるがいい。お前たち、鉄面皮をした、反キリストの子たち! いかにしてお前たちは、女の中の祝福された者[ルカ1:42]である、ひとりの処女を持ち出しては、彼女を神の御前における私たちのとりなし手と称することで、その名前そのものを汚れたものにしようなどとするのか? いかにしてお前たちは、自分の聖人だの聖女だのを連れてきては、彼らに神と人々との仲介をさせようなどとするのか? 「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」[Iテモ2:5]。天の聖徒たちは主について歌う。「あなたはふさわしい方です」。だが、それ以外のいかなる者をもほめたたない。他のいかなるとりなし手や、仲保者や、解釈者や、天来の恵みを成就する者のためにも、敬意を留保してはおかない。というのも、他の者を知らないからである。彼らは主に、そして主にだけ与える。人々の子らに代わって《王》の御前に進み出て、この巻き物をその手に取る誉れを。
彼らがこのふさわしさを何に帰しているかに注意深く目を留めるがいい。――「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられ……たのですから」<英欽定訳>。さて、事の次第はこうである。神は私たちに、恵みの契約の中で無数の祝福を与えてくださった。だが、それらが与えられるには条件があった。契約には2つの面がある。イエス・キリストは私たちの代表者であり、契約上の首長であり、仲保者として主が果たさなくてはならなかった条件とはこのことであった。――すなわち、私たちのもろもろの罪によって神の誉れに加えられた一切の損害のため、しかるべき時に主が、天来の正義に対して、万事遺漏ない償いを差し出すことである。仲保者としての私たちの主のふさわしさは、単に神また完璧な人としてのご人格からのみ生じたのではなかった。このことは、主がその職務を引き受けるにふさわしくしはしたが、神が御手に掲げておられた《大憲章》に記された種々の特権を請求できる主の権利は、また、七重に封印されたこの証文をご自分の民に代わって所有する主の権利は、ここに存していた。すなわち、主がこの契約の条件を果たされたことである。そして、これによって彼らは歌うのである。「あなたはふさわしい方です。あなたは、ほふられたのですから」、と。「あなたはふさわしい方です。あなたは、地上で生まれ、現実に聖い生涯を送られたのですから」、ではない。「ほふられたのですから」、である。というのも、主は、憤怒する正義と毀傷された聖潔とに、償いを行なわなくてはならず、それをあの血まみれの木の上で成就されたからである。このことについて私たちが語り出すと常に、現代風の贖罪を信ずる者たちは――それは贖罪でも何でもなく、夢幻の世界の一吹きのもやであるが――、私たちにこう云う。「おゝ、あなたは商業理論を奉じているのではありませんか」、と。彼らは重々承知しているはずである。私たちが、聖書が用いているがゆえに、商業的な表現を比喩として用いていることを。だが私は彼らにあえて云おう。「あなたが、自分の体系には何も商業的なものはないと主張するのも当然である。というのも、あなたが信じているような贖罪の支払いには、にせの一銭銅貨ほどの商業的価値もないからだ」、と。私の信ずる贖罪において、キリストは文字通りご自分の民の罪を引き受け、彼らのために神の御怒りを耐え忍び、正義に向かって、正当になされるべき一切のもの、あるいは、それと同等のもののquid pro quo[代償]を与えられた。私たちには負いきれない、だが私たちが当然受けるべき御怒りを身に負われた。イエスご自身は真に、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」[Iペテ2:24]。「罪を知らない方が、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」*[IIコリ5:21]。これは、文字通りの、積極的で、現実の代償なのである。「正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです」[Iペテ3:18]。他の贖罪はみな、それを宣べ伝える息ほどの値打ちもない。それは良心に慰めを与えも、神に栄光を帰しもしないであろう。しかし、この岩の上に私たちの魂は恐れなく安んじてよく、それは彼らが天国で歌っているこのことのゆえなのである。「あなたはふさわしい方です。あなたは、ほふられたのですから。あなたは私たちの赦罪を請求できます。あなたはあなたの選民の《大憲章》を御手に取り上げ、古の者らと確立された契約を解き広げることができます。あなたは私たちに、ダビデに対する確かなあわれみを啓示できます。その契約におけるあなたの本分を果たされたのですから。あなたの代償によってあなたの民は、あなたとの共同相続人になりました」。私は喜んで彼方へ飛んで行きたいと思う。だがそれまでは、この回らぬ舌にできる限り語るであろう。――「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられたのですから」。
II. 第二に、天国で彼らは主を自分たちの《贖い》としてあがめている。「あなたは、ほふられて、その血により、……神のために私たちを贖い……ました」<英欽定訳>。
この贖いという比喩は、もし私がそれを理解しているとしたら、このことを意味している。贖われたものは、厳密な意味では、それを贖った者に前々から属していた。ユダヤ法の下では、土地は今と同じように抵当に入れられた。そして、それをかたにして貸された金銭が、あるいは、それに見合うべき奉仕が支払われたとき、その土地は贖われたと云われたのである。ある相続地はまずひとりの人に属していた。それから貧苦に迫られて、その人の手を離れた。だが特定の代価が支払われる場合には戻ってきた。さて、「すべての魂はわたしのもの」[エゼ18:4 <英欽定訳>]、と主は云われたし、人々の魂は神に属している。ここでは、その比喩が用いられている。そして、読むがいい。こうした表現は比喩でしかないが、そのかげにある意味は決して比喩ではない。事実である。私たちの魂は、犯された罪ゆえに、いわば抵当に入っていた。それで神が、ご自分の正義を冒すことなしに私たちを受け入れるためには、何かがなされなくてはならなかった。無限に義なるお方が、無代価でその恵みを私たちに施せるようになる何かがなされなくてはならなかった。さて、イエス・キリストは、神の相続地からその抵当権を引き受けられた。「主の割り当て分はご自分の民である」[申32:9]。その割り当ての土地は、イエスがそれを解放するまでは縛られていた。私たちは常に神のものであったが、私たちは罪の奴隷へと陥っていた。イエスはやって来て、私たちのもろもろの違反ゆえの償いをなされた。このようにして私たちは、以前の立場に戻ってきた。変わった点は、主の恵みが賜る、いやまさる賜物を有していることだけである。天国で彼らは、「あなたは私たちを贖いました」、と云い、その代価を告げる。「あなたは、その血により、神のために私たちを贖いました」。そこにその代価は置かれていた。イエスの苦しみと死とは、その民が陥っていた奴隷状態から彼らを自由にした。彼らは贖われており、神のために贖われている。それが肝心な点である。彼らは、抵当が支払われたときに土地が所有者のもとに戻ってくるように、神のもとに戻ってくる。私たちは再び神のもとに戻る。私たちが、常にずっと属していたお方のもとに戻る。なぜなら、イエスがその血により、神のために私たちを贖われたからである。
そして喜び注目するがいい。天国で彼らの歌っている贖いが一般救済ではないことに。それは特定救済である。「あなたは、……その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために私たちを贖い……ました」。彼らが語っているのは、あらゆる部族、国語、民族、国民の贖いではない。あらゆる部族、国語、民族、国民の中からの贖いである。私は、神に感謝する。私は、ユダが贖われたのと同じしかたで贖われているのでも、それ以上の何も有していないのでもない。もしそうだとしたら、私はユダと同じように地獄へ行くはずである。一般救済は、誰にとっても何の価値もない。というのも、それだけでは、誰も天国における立場が確保されないからである。だが、真に人を贖い、人類の残りの部分の中から人々を贖う特定救済こそ、祈り求めるべき贖いであり、そのために私たちは永久永遠に神をほめたたえるものである。私たちは、人々の中から贖われた。「キリストは教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた」*[エペ5:25]。主は「すべての人々の」――決してこのことは否定しないようにしよう。――だが、「ことに信じる人々の救い主である」[Iテモ4:10]。そこにある広大にして無辺の犠牲的贖罪は、全人類に対して膨大な祝福をもたらすものである。だが、その贖罪は、1つの特別な天来の目的を目当てとしていたし、その目的が実行に移されるのである。その目的とは、主ご自身の選民を、彼らのもろもろの罪という奴隷状態から現実に贖い出すことであり、その代価がイエス・キリストの血なのである。おゝ、兄弟たち。願わくは私たちがこの特定の、実効ある贖いにあずかれるように。というのも、これしか、彼らが新しい歌[黙5:9]を歌っている所へ私たちを至らせることはできないからである。
この贖いは、個人的に実現されるものである。あなたは、神のために私たちを贖いました。贖いは甘やかなものだが、「私たちを贖いました」は、さらに甘やかである。もしも主が私を愛し私のためにご自身をお捨てになったことを信じられさえしたら、それは私の舌の調子を合わせてエホバへの賛美を歌わせるであろう。というのも、ダビデは何と云っただろうか? 「彼らは、主の恵み……を主に感謝せよ」[詩107:8、15、21、31]。彼はそれを何度も繰り返したが、すでにこう云っていなかったとしたら決してそうされはしなかったであろう。「主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖われた」*[詩107:2]。彼が他の者らに呼びかけても無駄だった。彼らの舌は、自分たちの種々の快楽にささげられていた。だが、主に贖われた者たちは、主の御名をほめたたえるにふさわしい聖歌隊である。
私が云いたいことの要点はこうである。天国で彼らがイエス・キリストを賛美するのは、主が彼らを贖われたからである。――話をお聞きの愛する方々。主はあなたを贖ってくださっただろうか? おゝ、とある人は云うであろう。私は主がすべての人を贖われたと信じます、と。しかし、それが何の役に立つだろうか? 人類の大部分は滅びに沈んでいないだろうか? もしあなたがそんな贖いにより頼んでいるとしたら、あなたは自分を救いもしないものにより頼んでいるのである。主はご自分の選びの民を贖われた。あるいは、言葉を換えると、信仰者たちを贖われた。「神は世を愛された」は、大いに持ち上げられている聖句である。だが、その先をぜひ読み進めてほしい。神はどれほど世を愛されたのだろうか? 「実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく」[ヨハ3:16]。そこには、その特定性がある。――「御子を信じる者が」。そして、もしあなたが御子を信じていなければ、御子の贖いについては何の関係もないし、それにあずかることもできない。あなたは罪とサタンとの奴隷であり、そのような者として生き続け、そのような者として死ぬであろう。だが主イエスを信じるとき、あなたは主によって特定的に、また、有効に贖われたという目印を有するのである。そして、あなたが天国に行き着いたとき、これがあなたの歌となるであろう。――「あなたは、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために私たちを贖いました」。このことゆえに、神はほむべきかな。あらゆる種類の中のある者らは救われる。あらゆる人種、身分、国民、年齢の中のある者らは救われる。あらゆる教育程度、また、道徳程度の中のある者ら、極貧の中のある者ら、富豪の中のある者らは贖われる。それは、私たちがみな天国で一堂に会するときに私たちが、確かに地上ではごた混ぜの群衆だが、1つの統一された聖歌隊を構成し、この1つの調べに声を揃えるためである。「ほふられた小羊は尊ばれるにふさわしい方です」[黙5:12 <英欽定訳>]。
III. 第三に、そして手短に云うが、天国で彼らがキリストを賛美するのは、単に仲保者や贖い主としてだけでなく、《彼らの尊厳を供してくださったお方》としてでもある。彼らは王であり統治している。私たちも王である。だが、まだ私たちはそう知られも、認められもしておらず、しばしば私たち自身、自分の高貴な家系を忘れてしまう。上天における彼らは、冠を戴いた君主たちだが、こう云う。「あなたは、私たちを王としました」、と。彼らは、私たちひとりひとりが今ある通りに祭司でもある。私たちの同胞たる人間が、ありとあらゆる種類のあや織りの衣裳を着ては前に進み出て、自分は祭司だと云うとき、いかに貧しい神の子どももこう云うことができる。「下がりおれ。私の職務の邪魔をするな。私は祭司なのだ。私はお前が何者か知らない。お前は確かにバアルの祭司に違いない。というのも、『祭服』という言葉が聖書で言及されている唯一の箇所[II列10:22]は、バアルの神殿と関係しているからだ」。祭司職は聖徒たち全員に属している。「あなたがたは神のclerosである」。――あなたがたは、神に仕える聖職者である。神のあらゆる子どもは聖職者なのである。聖書の中では、いかなる祭司的な区別も知られていない。そうしたものは除き去るがいい! 永遠に除き去るがいい! 《祈祷書》は、「そのとき司祭は云わなくてはならない」、と云う。この言葉がそこに残されたのは何と残念なことか。「司祭」という言葉そのものが、ローマの硫黄を臭わせているため、それがとどまっている限り、英国国教会は不快な匂いを放つことであろう。自分を司祭と呼ぶだと! 方々。私は、人々がそうした称号を恥じないことに驚く。あらゆる時代の司祭たちが何をしてきたか――ローマ教会に結びついた司祭たちが何をしてきたかを思い起こすとき、私は――これまでしばしば云ってきたことを繰り返すが――私は町中で誰かから悪魔だと指差される方が、司祭と呼ばれるよりもずっとましである。というのも、悪魔は悪い者だが、その悪魔でさえ、特別な祭司職という隠れ蓑の下で行なわれてきた犯罪や、残虐や、悪行には到底太刀打ちできないからである。そうしたものから、私たちが解放されるように。だが、神の聖徒たちの祭司職、神に祈りと賛美をささげる、聖潔の《祭司職》、――これを彼らは天国で有している。だが、彼らはそれについてこう云うのである。「あなたは、私たちを祭司としました」。聖徒たちが今あるところのもの、また、やがてそうなるところのものを、彼らはイエスのおかげであるとしている。彼らが有するいかなる栄光も、ただイエスから受けたものでしかなく、彼らはそれを知っており、絶え間なくそれを告白している。
贖われた者らとともに私たちの心を歌わせよう。――「すべてをイエスに。すべてはイエスによりたれば! すべてをイエスに。われらがすべてはイエスの賜物なれば」。その調べを地上で始めようではないか。
IV. さらにまた、天国にいる彼らは《救い主》を《神であるお方》としてあがめている。
私は決して本日の聖句の言葉をこじつけているのではない。むしろ、この箇所全体を自分の前に置いているのである。もしあなたがこの2つの章を読むならば、あなたはこう見いだすであろう。すなわち、彼らは、神に対して、「主よ。あなたは、誉れと栄光と力とを受けるにふさわしい方です」*[黙4:11]、と歌っている一方で、《小羊》に対してこう歌っているのである。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と……を受けるにふさわしい方です」[黙5:12]。《創造主》にささげられている頌栄が、《小羊》にもささげられており、《小羊》は同じ御座に着いているものと描かれているのである。注意深く見てみるがいい。彼らがご自分にささげる崇敬に、《小羊》は憤っていない。ヨハネが御使いのひとりを伏し拝もうとしたとき、彼は気色ばんだ抗議を受けた。「いけません。やめなさい」*[黙19:10; 22:9]。さて、もしキリストにささげられた礼拝が不正なものだったとしたら、限りなく神聖な《救い主》は、真剣きわまりないしかたで叫んだことであろう。「いけません。やめなさい」、と。だが主はその礼拝に何の反対もほのめかしておられない。それが、御座の前にいる一切の知的存在によってふんだんにささげられているとしても関係ない。嘘ではない。話をお聞きの方々。天国に行きたければ、あなたはイエス・キリストを神として礼拝する覚悟をしなくてはならない。彼らはみな、そこでそうしている。あなたはそうせざるをえない。そして、もしあなたがイエスは単なる人間であるとか、神以下の何者かであるとかいう考えをいだいているとしたら、残念ながら、あなたは真のキリスト教信仰が何を意味しているかを初歩から始めなくてはならなくなるのではないかと思う。あなたのより頼んでいる土台は貧弱なものである。私は、自分の魂をただの人間にゆだねたり、ただの人間によってなされた贖罪を信じたりすることができない。私は、これほど巨大な事業には、神ご自身が手がけてくださるのを見なくてはならない。私は、ただの人間がこの《小羊》のように賛美されるのを想像できない。イエスは、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です」[ロマ9:5]。私たちが少しでもソッツィーニ主義者やユニテリアン派について厳しく語るとき、あなたはそれに驚いてはならない。なぜなら、もし私たちが正しければ、彼らは冒涜者となり、もし彼らが正しければ、私たちは偶像礼拝者となるからである。その2つに1つしかない。私たちは、世界が立ち続ける限り、決して彼らに同意できないし、決して同意すべきではない。私たちは神の御子キリストを、まことの神よりのまことの神として宣べ伝えるし、彼らがキリストを拒絶しても大した違いはないなどと云うつもりはない。事実、それは雲泥の差をもたらす。私たちは、彼らが真実であると信じている以上のことを彼らに云ってほしいとは思わないし、彼らも私たちが真実であると信じている以下のことを私たちが云うものと期待してはならない。もしイエスが神であるなら、彼らはそれを信じなくてはならない。また、そのようなお方としてイエスを礼拝しなくてはならない。さもなければ、彼らはイエスが供しておられる救いにあずかることができない。私はキリストの神性を愛している! 私は力を尽くしてキリストの人間性を宣べ伝えるし、キリストが人の子であることを喜んでいる。だが、おゝ、キリストは神の御子でもなくてはならない。さもなければ、私には何の平安もない。
「神を人身(にく)にて 見ゆまでは
われに慰め つゆもなし。
聖く義しき 三つなる主
恐怖(おそれ)満たさん わが想念(たま)を。されどインマヌエルの 御顔(かお)現(い)ずば
希望(のぞみ)と喜悦(えみ)は 始まらん。
御名は禁ぜり 奴隷(ぬ)の恐れ、
恵み 赦せり わが罪を」。さて、私はほとんど話を終えてしまった。今から語るのは、この主題の結果でしかない。あなたは、天国で彼らがイエスについて有している意見を見ている。愛する方々。あなたは彼らと同意見だろうか? そうならない限り、あなたがそこに行くことはできない。天国には何の分派もない。――2つの党派はない。そこでは、彼らはイエスについて同じ見解をいだいている。ならば、あなたに尋ねさせてほしい。あなたは栄化された霊たちと同じことを確信しているだろうか? 彼らはイエスを、イエスがすでになされたことゆえに賛美している。これは私の思いにとって非常に素晴らしいことだが、彼らが《救い主》をあがめているとき、彼らはその1つの音鍵を打っているように思われる。彼らは主を。主がなされたことゆえに賛美し、彼らは主を、主が自分たちのためになされたことゆえに賛美している。さて、天でこれほどの威を振るっているこの理由は、地上で私たちを動かしているものと全く同一である。――「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」[Iヨハ4:19]。そして、あたかも、この同じ種類の愛が劣った愛ではないことを示すかのように、感謝の愛は天国の愛の要諦であるかのように思われる。――「あなたは、ほふられて、私たちを贖いました」。あなたは、自分を贖ってくださったがゆえに主を賛美できるだろうか? 話をお聞きの愛する方々。あなたはイエスについて何百回となく耳にしてきた。だが、主はあなたを救ってくださっただろうか? あなたは、血で満たされた1つの泉があり、それはあらゆる罪をきよめることを知っている。だが、それはあなたをきよめただろうか? あなたは主が御民を頭から爪先まで覆う義の衣を織り上げてくださったことを知っている。だが、主はあなたをそれで覆ってくださっただろうか? あなたは、それが真実のこととなるまでは決して主を賛美しないであろうし、喜んで主を賛美したくなるまでは決して天国に行けないであろう。「よろしい。ですが、私は礼拝所に通っていますよ」。そうかもしれない。だが、あなたが自ら個人的にキリストをつかまない限り、そうしたことであなたは救われないであろう。「私の母と父は敬虔な人々ですよ」。それは嬉しいことである。ぜひ彼らには不敬虔な息子がいないようにしてほしい。しかしながら、あなたは個人的なキリスト教信仰を有していなくてはならない。――イエス・キリストによってあなたのためになされたことがなくてはならない。向こう側にいる若い婦人よ。イエス・キリストはあなたを大衆の中から贖ってくださっただろうか? あなたのもろもろの罪からあなたを引き出し、ご自分のためにあなたを取り分けてくださっただろうか? あなたは自分の魂にその血を塗られただろうか?――あなたの良心において平和を告げる、あの尊い注ぎかけの血[ヘブ12:24]を。時は矢のように過ぎ去りつつある。あなたは毎月話を聞いている。それがいつまでも続くのだろうか? あなたは決して神にこう叫ばないのだろうか? 「主よ。私にあなたの贖いを知らせてください。この尊い血に私をあずからせてください。私のもろもろの罪から私を洗ってください」、と。覚えておくがいい。あなたは、主があなたのために行なわれたことゆえに主を賛美できなくてはならない。さもなければ、あなたは、天国にいる者たちと同じ意見ではなく、天国に入ることができないのである。
私が読んできた歌から明らかなことは、天国においてキリストは何にもまさる者であり、すべてだということである。キリストは、あなたにとってそのようなお方だろうか? この問いを人々に発するのは厳粛なことである。あなたにとってキリストは、最初であり最後であり中間であり、上辺であり底辺であり、土台であり絶頂であり、すべてのすべてだろうか? キリストがすべてであることを分かっていない人は、キリストを知らないのである。キリストと他の誰彼では決して役に立たない。キリストが唯一の《救い主》であり、唯一の信頼の的であり、ご自分を受け入れるすべての者らにとって唯一の預言者、祭司、王であられる。主はあなたにとってすべてだろうか? あゝ、ある人々は自分がキリストを愛していると考えている。キリストに信頼していると考えている。だが、もしキリストが彼らの家に来たとして、いま彼らに扱われているようなしかたでもてなされるとしたら、キリストは食卓の末席に着かされることであろう。彼らはキリストに安息日の切れ端しか与えない。午前中一杯ゴロゴロしていて、この夕方にしかここにやって来ることができず、今でさえ、彼らは礼拝しに来ているのではなく、ただの好奇心から来ている。聖書の中の一章――若者よ。その一章を最後に読んでから、どのくらい経っただろうか? 密室の祈り、――あゝ、私はそれを立ち入って調べてはならない。それは、あまりにも悲しい物語すぎて、あなたが告げなくてはならないであろう。もし誰かがあなたに、「あなたはキリスト者ではありません」、と云ったとしたら、あなたは立腹するであろう。よろしい。私はそう云うであろう。そうしたければ腹を立てるがいい。だが覚えておくがいい。あなたは私ではなく自分に腹を立てるべきである。もしあなたが私の主を怒らせているとしたら、あなたが主のしもべによって立腹させられることを私は全く恐れはしないし、それゆえ、私はあなたに告げるのである。もしキリストがあなたの魂において主でも《王》でもなければ、キリストとあなたは遠く隔たっている。主は最高位でなくてはならない。海上の《海軍司令長官》、陸上の総司令官でなくてはならない。主は下士官ふぜいになりはしないし、あなたの半端時間に、あなたにごまをするためやって来たりはしない。あなたは主を《かしら》とし、《主》とし、《主人》として受けとらなくてはならない。あなたはそうしているだろうか? そうしていないとしたら、あなたは天国にいる者らとは異なっている。彼らにとって主はすべてのすべてだからである。
もう一言云いたい。あなたは本日の聖句の言葉に唱和して、こう云えるだろうか? 「主は尊ばれるにふさわしい方です。尊ばれるにふさわしい方です」、と。この場にいる多くの人々は、一瞬でもその歌、「主は尊ばれるにふさわしい方です」、の爆発を聞いたなら、「左様。主は尊ばれるにふさわしい方です」、と云うであろうと思いたい。私は今晩、祈りをささげている間、――あたかも彼らが、「主は尊ばれるにふさわしい方です」、と歌うのを聞けたかのように思われたし、私はほとんどこう叫ぶのを抑えることができなかった。「よくぞ歌った。あなたがた、御座の前の霊たち! 主は尊ばれるにふさわしい方である!」 もし私たちが一瞬でも私たちの沈黙をゆるめ、この説教を通して守ってきた端正さを破るべきだとしたら、また、異口同音に、「しかり、主は尊ばれるにふさわしい方です」、と叫ぶべきだとしたら、私はそれがふさわしいことであろうと思う。イエスは私のいのちに値し、私の愛に値し、私が主のために云えるすべてのことに値し、それよりも一千倍ものものに値し、地上のあらゆる音楽と立琴に値し、あらゆる甘やかな歌い手のすべての歌に値し、最良の作家の詩歌すべてに値し、かがめられたあらゆる膝の一切の畏敬に値し、所有するすべて、思い描きうるすべて、測り知りうるすべてに値し、地上と、地下と、海中と、諸天と、天の天にある一切のものによってあがめられるに値している。主は尊ばれるにふさわしい方である。私たちが「ふさわしい」と云うのは、いかに尊ばれるのがふさわしいかが分からないからである。思うに、天国にいるこの善なる歌い手たちは、《小羊》に当然与えてしかるべきものをささげたいと願ったであろう。そして、そのとき、彼らは立ち止まり、自らに云ったであろう。「私たちは主に、主が受けてしかるべき賛美をささげることができない。だが、私たちは主が尊ばれるにふさわしいお方であることを知っている。私たちは、主にふさわしいものを耳を揃えてささげるふりはできない。だが、私たちは主が尊ばれるにふさわしいお方であると云おう」。しかり。主は尊ばれるにふさわしい。もし私が、このあわれなからだに五万のいのちを有していたとしたら、主はそのいのちのすべてが次から次に殉教に注ぎ出されるにふさわしい。あるものは生きながら焼かれるべきだし、別のものは刑車でいためつけて殺されるべきだし、別のものはじわじわと飢えさせられるべきだし、別のものは暴れ馬に引きずらせるべきだし、主はそのすべてに値するであろう。主は尊ばれるにふさわしく、もし私たちが印度のあらゆる宝庫を有していたとして、――銀や金や宝石や、いまだかつて生きたことのあるあらゆる王侯の最高の財宝を有していたとして、そのすべてを主にささげ、裸足で出て行くとしても、主はそれにふさわしい。そしてもし、それをなし終えた後で、私たちが日夜休みなく、不断に主のために全く働くことになり、もし私たちひとりひとりが一万人に分身し、私たち全員がそのように働くとしても、主はそうされるにふさわしい。ふさわしい。私はあらゆる露の雫を主への賛美にきらめかせ、銛のあらゆる木の葉に主の御名を負わせたいと思う。あらゆる渓谷、あらゆる山に畏敬を響きわたらせ、主への賛美を星々に教え、星々の上にいる御使いたちに教えたい。
「おゝ、千の舌にて 歌わばや、
わが大いなる 贖罪主(きみ)を称えて!」時と空間を1つの口にして歌わせるがいい。また、永遠すべてにこの強大な言葉、「主は尊ばれるにふさわしい方です」、と響きわたらせるがいい。あなたは、主が尊ばれるにふさわしいと感じているだろうか? 感じていないとしたら、あなたは彼らがこの歌を歌っている場所に入ることを許されないであろう。というのも、もしあなたがそこに入れたとしたら、あなたは不幸になるからである。あなたの魂がこう云えるようになるまで、そこに入ろうと希望してはならない。「私は主の血により頼みました。それによって神のため贖われました。そして《贖い主》は尊ばれるにふさわしいお方です。そして、主の尊さを、時がもはやなくなる時まで証ししましょう」。神があなたがたみなを祝福し給わんことを。イエスのゆえに。アーメン。
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説教前に読まれた聖書箇所――黙示録4、5章
天国の喜びイエス[了]
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