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不信者のつまずきの石イエス

NO. 1224

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「したがって、信じているあなたがたには尊いものですが、不従順な人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。』のであって、『つまずきの石、妨げの岩。』なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからです」。――Iペテ2:7、8 <英欽定訳>


 イエスがやって来られる所には、それと同じことが常に起こる。主は人々の集団を信仰者と不信者、従順な者と不従順な者に分割される。しかし、なぜここで不信者は不従順な人々と呼ばれているのだろうか? 信仰は律法の問題だろうか? また、人は信じないがゆえに、不従順になるのだろうか? いかにすれば、そうならないわけがあろうか? 真実であることを信ずるのは、万人にとって自然な義務ではないだろうか? 私たちの中の最も小さい者も、これほど単純な問題においては判断するがいい。実は原語では、信ずることと従うことは語形と音韻がほとんど同じであり、確かに信じないことと従わないことは、非常に近い関係にある。信じないことは、その真髄においては従わないことである。というのも、王の言葉を信じない者は、心の中で不忠実であることになるからである。もし私が神の真実さを疑うとしたら、私は神の権威を激しく攻撃したことになる。もし神が罪のためのなだめの供え物としてご自分の御子を公にお示しになったとき[ロマ3:25]、私が御子を受け入れるのを拒否するとしたら、その拒否の中には不従順が含まれているのである。いかなる罪のかたちによって私たちの先祖アダムが堕落したのかを告げることが難しいだろうように――というのも、あの禁断の木の実を取ることの中にはあらゆる罪が包みこまれていたからである。――、不信仰はその内側に、人々にとって可能なあらゆる罪の卵を含んでいるのである。

 さらに、神のことばへの不信仰は、他のあらゆる罪の根である。ある人が自分の神を信じない場合、その人は神の律法を振り捨てる。その人はすでに自分の福音を拒絶しているのである。なぜ律法を尊重するなどということがあるだろうか? もし愛という絹の綱が真っ二つに断ち切られているとしたら、いかにしてその人が、律法の束縛を我慢するなどということがあるだろうか?

 さて、福音を聞く人々の中の非常に大きな部分が信ずることなく、不従順であることは痛ましいほどに確実ではあるものの、次のことを考察するのは重要なことである。すなわち、この不従順の結果は何だろうか? この不従順は彼らを激越な反対へと至らせる。彼らの反抗はいかなる効果を生み出すだろうか? この聖句は私たちに、キリストご自身に及ぼされる、人間たちの反抗の結果を教える。それから第二に、そのように反対する人々に及ぼされる結果について語る。

 I. まず第一のこととして、《不信仰と人々の反抗とによって、主イエス・キリストに及ぼされる結果》を考察しよう。私たちは、主に関する限り、こう告げられている。「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」。――つまり、それは全く何の効果も及ぼさなかった。人類の反抗は、決して、また、いかなる程度においても、神がその愛する御子に着せかけた栄光を減じさせはしない。家を建てる者たちは、軽侮とともにその石を拒絶した。「こんな石は組み込めんよ」、と彼らは云った。「われわれの望む宮の中にはな」。だが、神は云われた。「それは、その冠石になるのだ」、と。 そして、確かにそれはその冠石なのであり、地上や地獄のいかなる反抗にもかかわらず、そうなるのである。ちっぽけな人間の怒りが主を負かせないのは、羽虫がいかに怒っても太陽に影響できないのと同様であり、人間の反抗が天来のみこころを妨げられないのは、ナイアガラに投げ込まれた一枚の枯れ葉がその大瀑布をせき止められないのと同様である。この石につまずく者は粉々に砕かれるが、この石そのものは無傷であろう。

 主イエスが人からいかに拒絶されたか注目するがいい。だがしかし、主の御国の進展はいかなる反抗にも立ち向かってきた。最初に来たのはユダヤ人である。ユダヤ人は民族的な高慢を保たなくてはならなかった。ユダヤ人は選ばれた神の民ではなかっただろうか? イスラエルは《いと高き方》によって取り分けられなかっただろうか? イエスは、すべての造られた者に福音を宣べ伝える[マコ16:15]ために来られ、その弟子たちを異邦人にさえ遣わされる。それゆえ、ユダヤ人は主を認めようとしない。彼らは現世的な君主を求めていた。主は彼らが期待していたような威容を伴ってやって来ることがない。主は、砂漠の地から出る根のように育ち、見とれるような姿もなく、輝きもない[イザ53:2]。彼らは、このダビデの枯れ果てた切株から生えたあわれな芽生えに、ソロモンの壮麗さを全く見てとらない。それゆえ、「除け! 十字架につけろ!」[ヨハ19:15] しかし、同国人からの反抗は、キリストの御国の進展を挫折させはしなかった。たといパレスチナで拒否されても、主のことばはギリシヤで受け入れられ、ローマで勝利し、スペインにまで伝えられ、英国にその住まいを見いだし、今日、それは地の面を照らし出している。エルサレムで使徒たちが迫害されたことによって、福音の伝播は早められた。というのも、散らされた人たちは、みことばを宣べながら巡り歩いた[使8:4]からである。それで、ユダヤ人の敵意は益へと転じられ、この愚かな家造りたちは、拒絶された礎石を掲げ上げるために一役買わされたのである。

 次に、哲学者が福音の敵として起こり立った。様々な思想の学派がその時期の教養人たちの精神を支配していた。そして、こうした哲学が知られていた場所でパウロが宣教を始めるや否や、彼らはパウロをおしゃべりと呼んだ[使17:18]。彼らは、パウロの云い分を聞き、彼を愚か者と宣告した。死者の中からの復活、人間の罪の代わりに苦しんだ、受肉した神についての教理――これは、彼らにとっては単純すぎ、彼らの精緻な哲学と調和するには平易すぎた。しかし、確かに哲学は、一時的にはグノーシス主義的な異端という形で神の教会をすさまじく蚕食しはしたが、実際にそれはキリストの戦車の車輪を遅らせただろうか? おゝ、否。私の兄弟たち。というのも、今日、そうした哲学がどこにあるだろうか? いま誰がストア哲学を信じているだろうか? 誰がエピクロス派と呼ばれたがるだろうか? こうした哲学は過ぎ去ってしまった。人手によらずに山から切り出された石[ダニ2:45]がそれらを粉々に打ち砕いた。キリストの石投げから放たれた石は、異教の哲学の額を打った[Iサム17:49]。その首なしの死骸は多くの古代の大冊の中に見受けられるが、その間ダビデの《子》は、勝利の上にさらに勝利を得ようとして[黙6:2]出て行っておられる。

 こうした時代の後に、神の教会に対抗してやって来たのは、世俗的権力の断固たる反抗であった。帝国の権力筋は、キリスト教の中に脅威を見てとった。こうした百姓や田舎者や下賎の者どもは新しい宗教を打ち立てた。別の王で、イエスなる者について語る宗教である。彼らは週の最初の日に集まり、彼を神としてたたえる賛美歌を歌っていた。さらに彼らは、神々の聖日を守ることを拒否した。現皇帝の像も故皇帝たちの像をも礼拝しようとしなかった。他の誰もが、こうした帝国内の悪鬼どもに敬意を表していたのに、このキリスト者たちだけはそうしなかった。それで世俗の権力は云った。「われわれは、こいつらを弾圧しよう。こいつらを裁きの座に引きずり出そう。牢獄に叩き込み、財産をはぎ取ってやろう。もしそれでも、この新しい教えから追い出せなければ、拷問台やそういった類の苦しみを試してやろう。それでもやめさせられなければ、殺してやろう。なぜ父祖伝来の神々を礼拝できないというのか?」 こうして彼らはイエスを信じる信仰を撲滅しようとして、その牢獄を人で満杯にし、自分たちの脅かしに多量の血を注ぎ、死刑執行人たちをいやというほど働かせた。残虐さによって行なえる一切のことが行なわれた。だが、私の兄弟たち。その結果はどうなっただろうか? キリスト者は、抑圧されればされるほど増し加わっていった。石炭を撒き散らすことによって、この大火災は燃え盛っていった。彼らが裁かれる法廷は、キリスト教が宣べ伝えられる講壇となり、火刑柱に立って焼かれている人々は、途方もない大聴衆を集めては、その中でイエス・キリストを王として宣言した。殉教者の勇気によって人々はこう自問させられた。「ここには何かがあるのではないか? このようなことを私たちは今まで一度も見たことがない」。そして、ほどなくして帝国の軍団がキリストの十字架の前に額づくこととなり、このガリラヤ人が勝利をおさめた。

 その時以来、教会は様々なしかたで攻撃を受けてきた。アリウス派の異端はキリストの神性を襲撃したが、教会は、パウロが蝮を火の中に振り落としたように[使28:5]、この忌まわしいものから自由になった。それから教皇制――反キリスト――イエスの猿真似――主の犠牲の偽物――がやって来た。さて彼らは、宝石を巻きつけた象牙の十字架を打ち立て、恥辱の十字架についた《王の王》のまがい物を作った。彼らは私たちの前に、十字架についたイエスご自身の代わりに、人間の作った十字架像を突きつけた。さて、私たちは聖人たちや、聖遺物や、聖像や、私が知りもしないような他の何かを礼拝するように求められている。そして、ひとりの人間が祭り上げられて、無謬の神の御座に着かされている。臆病風に吹かれた一部の人々は、きっとイエス・キリストは拒絶された石として目につかないところに打ち捨てられてしまうだろう、そして、ローマにいるキリストの代理者が他のすべてより高く、礎の石とされるだろう、と恐れている。だが、主はそのようなことをお許しにならない。兄弟たち。神を信じ、そのようなことを考えないようするがいい。ローマカトリックであれ英国国教会であれ、種々の《教皇制》の様式は、イエス・キリストの十字架と御国の進展に立ちはだかった、他のすべてのものが過ぎ去ったように過ぎ去ることになる。一瞬ごとに波の上に生ずる泡ぶくがたちまち割れては永遠になくなるように、こうしたすべては消滅するであろう。だが、イエス・キリストの聖なる福音と、《救い主》なるキリストご自身は、猛り狂う波浪をものともしない巌として高く据えられる。いかに素晴らしい時であったことか。ルターの荒々しい抗議が暗黒時代の沈黙を破り、カルヴァンの明瞭な教えがその後に続き、ツヴィングリの大胆な声音が響き、一千もの声が口々に叫んだ、かの時は! いかに素晴らしい日であったことか。国々がその長い眠りから目覚めて、二度と再び祭司による支配の下に眠ることなく、自由になろうと決意したその日は! ある1つの宗教改革を送った神は、別の宗教改革を送ることがおできにならないだろうか? 雄々しくあるがいい。より輝かしい時代が近づいているからである。やがて、より大きな覚醒の時がやって来る。ご自分の教会のために復讐なさる主がやがて身を起こされる。そして、家を建てる者たちが却下した石、その同じ石が隅の礎の石となるであろう。

 預言的な幻によって、私は別の反抗が終結しているのが見える。それは、以前にあったいずれの反抗とも同じくらい扱いが困難な反抗である。私は、神の教会の隊伍の中に、いかなる信条も憎むと云う人々が寄り集まりつつあるのが見える。それは、すなわち、いかなる真理も軽蔑するという意味である。彼らは、私たちの間で喜んで教役者になろうとしていながら、私たちが神聖なものと考えているあらゆるものを足で踏みにじっている。自分たちの不信心を最初は小出しにしか説かないが、次第次第に勇気をかき集め、その不信仰と異端ぶりを表に出すのである。恐《信条》病が多くの人々を狂わせている。彼らは、自分たちが何事かを信じるのではないか恐れているように見受けられる。無神論にも悪魔礼拝にも――実際、唯一の真の宗教以外のあらゆる宗教に――何か良いものが見つかるのではないかと希望しているように見受けられる。私たちは、熱心な抗議の声を上げる。だが、たといそれが一般大衆の叫喚の中でかき消されるとしても、また、たとい国々が再びこの不品行の葡萄酒によって酔わされ、道をそれて過誤に至るとしても、永遠の御国が究極的に成功することにとっては、それが何ほどの問題だろうか? エホバはまだご自分の聖なるシオンの山にご自分の王を据えてはおられないが、しかし、かの永遠の定めは成就し、キリストの御座は堅く立ち、かの血で証印を押された契約は選ばれたすべての子孫にとって確実なものとされるであろう。私たちは慰めを受けようではないか。というのも、人間たちや悪鬼たちによってなされうる一切のことにもかかわらず、選ばれた魂は1つたりとも失われず、血で贖われた魂1つも《贖い主》の御手からひったくられることはないからである。キリストは、地においても天においても、栄光の一粒たりとも失われることはない。信仰のための主の民の熱心な戦いは主に誉れを帰すであろう。彼らの忍耐強い苦しみは主を賛美するであろう。天は彼らにとってより甘い安息となり、彼らとともにエドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来る者にとって、より輝かしい栄光の場となる。このお方は、酒ぶねを踏み、その敵どもを征服した後で、大いなる力をもって進んで来る[イザ63:1-3]。そのとき、このお方の安息は栄光に富むものとなり、その喜びは完全なものとなる。

 では、ここまでが人間の反抗が及ぼす効果についてである。「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」。

 II. それよりも、はるかに痛ましい主題が、今から私たちの注意を占めなくてはならない。すなわち、《この反抗が、反抗する者たちに及ぼす結果》である。そして、ここで私たちは非常な厳粛さとともに、一二の点について詳しく語りたいと思う。人々がキリストの犠牲のみわざによる救いのご計画につまずくとき、何に彼らはつまずくのだろうか? その答えは、いささか幅広いものとならざるをえないが、それは、人がその最良の友に対してよこしまな反抗を行なう理由をことごとく包含するものとは到底なりえない。

 ある人々はキリスト・イエスのご人格につまずく。イエスが善人であることは、彼らも認める。だが彼らは、主が御父と同等の、等しく永遠のお方であることを受け入れられない。おゝ、話をお聞きの方々。もしあなたが救われたければ、このことにつまずいてはならない。というのも、神以外の誰があなたを救えるだろうか? また、無限の性質のお方が罪のためのなだめの供え物となることなくして、いかにして神の正義は満足させられることがありえるだろうか? 私の魂は感謝して、キリストの神性という教理を、自らの最も深い慰めとして頼みとする。そして私は、あなたがたの中の誰ひとりこのことを拒絶しないように願う。というのも、これは確実なことだが、それを離れて、良心にとっての平和の真の根拠はないからである。

 ある人々は、キリストのみわざにつまずく。多くの人々は、いかにイエス・キリストが人間の咎のためのなだめの供え物となるのか見てとることができない。そして、残念ながら、彼らが見てとれない理由は、私たちの主のこのことばに存しているのではないかと思う。「あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです」[ヨハ10:26]。私の兄弟たち。私たちは個人的に堕落したのではなく、別の者にあって堕落した。私たちの最初の父祖アダムこそ、最初に私たちを滅ぼした者であって、私たち自身ではなかった。ことによると、私たちがそのようなしかたで堕落したからこそ、私たちの回復が可能にされたのかもしれない。他者にあって堕落したので、そこにはあわれみの抜け穴があった。というのも、主は、ひとりの連帯的なかしらにおいて私たちを扱われた以上、別の連帯的なかしらの下で私たちを正当に扱うことがおできになったからである。そして、このようにして他者にあって転落した私たちは今、他者にあって浮かび上がる。ひとりの人の違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に[ロマ5:18]、ひとりの人の義の行為によって、その方を信じるすべての人のもとに赦しがやって来るのである。代償の教理、または、代理の教理は、人間の歴史の源泉において始まっており、その行路全体を貫いている。私は切に願う。決してこのことにけちをつけてはならない。それを受け入れた私たちにとって、それは芳醇な香油であり慰めである。それは地獄を天国に変えてきた。それを手段として御霊は私たちの性質を更新し、私たちをかつての私たちとは違う者に変えてくださった。そして、今日の私たちは、インマヌエルの代償的犠牲から離れていかなる希望も有していない。おゝ、反対者であるあなたがたが、今日はつまずいているそのことを受け入れるようになればどんなに良いことか。

 ある人々はキリストの教えにつまずく。では、その中の何につまずくのだろうか? 時として、それがあまりにも聖なるものすぎるからである。「キリストは清教徒的すぎます。われわれの楽しみを締め出してしまいます」。しかし、そうではない。キリストは、罪のない楽しみを決して私たちに拒まれない。私たちの喜びを幾倍にもしてくださる。主が私たちに拒まれる物事は、見かけだけしか喜ばしいものではないが、主の命令は本当の至福である。「それでも」、とある人は云うであろう。「キリストの教えは厳しすぎます」。だが、他の人々から私は正反対の非難を聞く。というのも、私たちが無代価の恵みを宣べ伝えるとき、反対者たちは、「あなたは、罪の中にいる人たちを増長させています」、と叫ぶからである。人々の子らを喜ばせる見込みは僅かしかない。というのも、ある人々を満足させることは、別の人々を立腹させるからである。だが実は、どちらの方でも、福音につまずく正当な理由は何もない。というのも、確かにそれは良いわざが置かれるべきところに良いわざを置いている――功績となる物事としてではなく、御霊の実としている――とはいえ、それでもこれは、その力を体験した者が知っている通りに、聖潔に従った福音なのである。

 私たちの見いだすところ、ある人々がキリストの教えに反対するのは、それがあまりにも大きな謙遜を求めるからである。主は自己信頼を打ち壊し、失われている者以外の誰にも救いを差し出さない。「これは、私たちを卑しい者にしすぎます」、とある人は云う。だが私は、この建物の反対側から、福音に対する1つの反対を聞いている。それが人々を高慢にするというのである。というのも、ある人は云うであろう。「よくもあなたは自分が救われていることを確信しているなどと云えるものですね。それは増上慢な云い草です。へりくだった心の者にはふさわしくありません」。愛する方々。ほむべき真理につまずいてはならない。というのも、信仰者たちは確かに救われており、それを知ることができるがしかし、その知識のために、いやまさって謙遜になるからである。確かにあなたはキリストによって謙遜にさせられ、へりくだらされるが、キリストはあなたを、ちょうど良い時に高くしてくださる[Iペテ5:6]。そして、主があなたをその恵みによって高くしてくださるとき、そこに誇りの恐れは全くない。誇りは恵みによって排除されるからである[エペ2:9]。

 さらに私の知っている他の人々は、福音が神秘的すぎるからというので反対する。彼らはそれが理解できないと云う。だが、やはりその一方で、この広間の反対側からは、それがあまりに平易すぎるという反対が聞こえているのである。こうした、単純にキリストを信じるだけで救われるというのは、多くの人々にとっては平易にすぎ、他の人々にとっては難しすぎるのである。愛する方々。どちらの理由であれ、これにけちをつけてはならない。そこに種々の神秘があるからといって何だろうか? あなたは、神がご存知のことをすべて理解し尽くすことを期待できるだろうか? 子どものように教えられやすくなるがいい。そうすれば、福音はあなたにとって甘やかになるであろう。

 私たちの知っているある人々がキリストにつまずくのは、主の民のためである。そして、まことに彼らには、ある程度の弁解の余地がある。彼らはこう云ってきた。「キリストに従う人々を見てみなさい。彼らの不完全さと偽善者ぶりを見てみなさい」、と。しかし、なぜ主人をそのしもべたちによってさばくのか? 私は涙しながら、あなたの非難にどれほどの真実がこもっているかを告白することができるが、ぜひともあなたに願わせてほしい。その責めは私たちに帰して、私たちの《主人》には帰さないでほしい、と。というのも、主の教えには私たちが罪を犯すことを助長するようなものは何1つなく、いかなる者にもまして偽善に対して峻厳なのは私たちの主キリスト・イエスだからである。しかしながら、主の民にこのようにつまずくことは、しばしば別の理由に基づいている。福音を愛する者たちは、一般に非常に貧しく、貧相な様子をしていると云われる。彼らと一緒になれば社会的威信を失うのである。さてそれは真実であり、常にそうあり続けてきたことである。最初の日から今に至るまで、福音が最も盛んであったのは、人々の間の流行や栄誉などが最もかまいつけない場所においてであった。だが私は知っている。もしあなたがたが人間であるなら、このことはあなたにとってごく小さなことでしかない。人間ではない者、人間の猿真似をしている者たちだけが、こうした卑小な事がらに拘泥するのである。あなたは、もしあなたの人間性がしかるべきものであるとしたら、真理に従ってぬかるみの中を裸足で進む方が、威儀をこらした虚偽とともに馬車に乗っているよりもましだと感じるであろう。それに、地上の有力者たちを1つの階級として取り上げると、彼らの社会はそれほど特別に願わしいものだろうか? 富者はそれほど徳の高さで際立っているだろうか? 権力者は、それほど特に善良だろうか? 私には分からない。高貴な例外というものはある。宝冠を戴いていながら、天国でも冠を抱くことになる人々も少しはいる。だが、彼らを1つの階級として取り上げると、人々の間で高貴な人々は、決してそうあってしかるべきほどには人にまさって善良ではない。いかなる地位の人々にもまして重い責任をになっているのは、国王や君主たちである。彼らの意志によって人間の血は水のように流され、彼らの戦争の結果としての飢饉や疫病によって国々は疲弊させられてきた。では、なぜ彼らの恩顧をそれほど尊いものとみなすのか? 私たちは、キリストのしもべたちをその身分の卑しさゆえにあざ笑う人々と形成を逆転させることができる。というのも、神の御前において権力者たちは、不正な指導者であるとき、万人の中で最も卑しい者らとなるからである。さて、もしこれらがあなたの反対だとしたら、私は祈るものである。神があなたに恵みを与えてくださり、あなたが男らしくふるまって、キリストゆえのそしりを喜ばしく忍ぶことができるようになるようにと。

 このようにキリストにつまずくことは、不敬虔な人々にいかなる代価を払わせるだろうか? 答えよう。それは彼らに途方もなく大きな代価を払わせることになる。キリストをつまずきの岩とする人々は、そのことゆえに、現世において非常な失敗者となる。イエスに対する反抗は、多くの人にとってとげのついた棒を蹴る[使26:14]ようなものである。東方の農夫がその雄牛を追って行くとき、それが間違った方向に行くと突き棒で突く。馴れていない雄牛は、突き棒で刺されるたびにその棒を蹴る。その結果、その突き棒のとげをいやまして深々と自分に突き立てることになる。また、もしそれが激しく蹴るとしたら、その突き棒は一段と激しく雄牛に突き刺さり、傷つけることになる。反逆する人間たちもそれと同じである。彼らの種々の迫害は彼ら自身を傷つける。彼らは実は私たちの主を害することはできない。金槌は、「俺様はあの鉄床を砕いてやろう」、と云った。そして鉄床は答えず、金槌が来る日も来る日も叩きつける間、その場所にとどまっていた。毎月毎月、毎年毎年、鉄床は忍耐強くその打撃を受けていた。だがしばらくした後で、その金槌は壊れてしまった。そして、鉄床は、実際にそうは云いはしなかったものの――というのも、それは口を開くにはあまりにも物静かな質だったからだが――、こう云えたことであろう。「私は、これまで何百本もの金槌を壊してきたし、これからも忍耐強く耐え忍ぶことによってもう何百本も壊すであろう」。キリストと、キリストの教会と、キリストの福音もそれと同じである。迫害者は打って、打って、打って、打つかもしれない。真のキリスト者は何も答えず、我慢強く耐え忍ぶ。そして、長い目で見ると、忍耐強く耐えることによって迫害者は打ち砕かれてしまうものである。不敬虔な人々はキリストに反抗するためにいかなる怒りを発させられることか! 彼らの中のある者らは、キリストを放っておくことができない。激怒して、いきりたつ。イエスに関して云えば、人は愛するか憎むしかないというのは正しい。主は、いつまでもあなたの眼中に入らないでいることはない。こういうわけで、反対者たちには内的な争闘がやって来る。私の思い出すひとりの不敬虔な人は、キリストに対して激烈な憎しみをいだいていた。聖書が彼の家の中に持ち込まれたとき、彼はそれを手で掴むと、怒りにまかせて滅茶苦茶に引きちぎった。彼は、娘が寝床についたとき、その目が父のそのような所業のため涙で濡れていたことを知らなかった。そして、翌晩、彼女の頭の下には新約聖書があった。やがて娘が神の家に出席していることを彼が突きとめたとき、そこには非常な脅かしがあった。どれほどの怒号が浴びせられたか私には分からないが、それにもかかわらず教会出席はなされ、父の怒りに辛抱強く耐えることが続いた。「よおし」、と彼は思った。「あれは馬鹿な小娘だ。あれ止まりだろうよ」。だが、たちまちもうひとりの娘が敬神の念をいだき始め、彼の怒髪は天を衝いた。彼は細君に相談を持ちかけ、自分に協力するように云ったが、彼女の震えおののくしかたから、彼女が夫のやり方を好んでいないことが悟られた。しばらくすると彼は、細君もまた、彼の不在中に、その小さい集会所にこっそり出入りしていたこと、娘たちとともに永遠の事がらの価値を感じていたことに気づいた。よろしい。少なくとも彼にはひとりの男の子があった。女どもはいつだって馬鹿なのだ、と彼は云った。だが、息子はもっと分別のあるところを見せ、惑わされないだろうと期待した。父親に似て、この子は決して迷信に陥ることはないではないだろうか。彼はそれを確かめてみようとして息子に質問した。彼を驚かせたことに、少年は男らしくはっきりとこう云った。「はい、父さん。ぼくも姉さんたちと同じように信じてます。そして、できるときにはいつでも神の家に行きますし、行くつもりでいます」。驚くなかれ、彼は自分の家族全員が福音を聞きたがっており、そのほとんどは福音を信じていたことを見いだしたのである。それについて彼が憤激しようと何にもならなかった。だが彼は、ぞっとするほど荒れ狂うのが常であり、残念ながら、それによって寿命を縮めたのではないかと思う。しかし、彼が何をどうしようと事は進み続けた。その家のしもべたちも、集会の人々に加わり、彼の雇い人たちも同じ道を辿った。神はその一家を祝福しようと意図され、敵にそれを防ぐ力は全くなかった。それが彼に多くの怒りと憤りという代価を強いたとしても関係ない。

 あゝ、これが一部の人々に代価を払わせるのは、彼らが死ぬ段になった時である。迫害が今よりもずっと公然たるものであった時代、多くの人々は清教徒について、あるいは、クエーカー教徒たちについて密告する罪を犯していた。そうした密告者たちの死は、多くの場合、ぎょっとするようなものであった。それは、彼らが耐え忍んでいる何か特定の苦痛のためではなく、自分の行なった迫害のことが、いまわの際の記憶に浮かび上がったためであった。そして、彼らの中の何人かは、泣き叫んでは、自分の行なった不正を告白するため、安らぐことができなかった。彼らは善良な人々を、神を礼拝したがゆえに狩り立てて牢獄に投じてきたのである。もしもあなたがたの中の誰かがイエスを信じておらず、自分でもイエスによって救われたくないというなら、私はあなたにお勧めしたい。イエスとその民をそっとしておくがいい。というのも、もしあなたがイエスに反抗するなら、敗者となるのはあなたであって、イエスではないからである。あなたの反抗は全く役に立たない。やすりを噛む蛇のように、自分の牙を折るだけである。あなたは教会を害することも、神のことばを害することもできない。ことによると、あなたの反抗そのものがその歯車の歯の1つであって、それを駆り立てているのかもしれない。もし事が神から出たものだとしたら、あなたがそれに敵対しても無駄である。夫に警告したときの、ハマンの妻のように賢くなるがいい。彼はモルデカイに負けかけていたが、もしこのモルデカイが、ユダヤ民族のひとりであるなら、いかに敢然と彼と戦っても何にならないと彼女は云ったのである[エス6:13]。この警告は正しいものであることが証明され、彼は高さ五十キュビトの柱にかけられることとなった。天の王族の血筋に反抗しても、絶対に役に立たず、それに携わる者たちの破滅は確実になる。

 さて、かりにある人がこう云ったとしよう。「私はイエス・キリストがこの世に来て、咎ある者のために死んだなんてことを信じるつもりはありません。私の《救い主》だと認めもしません。私はその危険を冒します」。よろしい。もしあなたがそうするなら、それはあなた自身が支払う代価である。覚えておくがいい。そうしようというなら、そうするがいい。何年も前のこと、ひとりの船長が政府の御用船の一隻であるテティス号で、浅瀬か、岩礁か、何かそういった、地中海に存在すると云われていた障害物を発見しに派遣された。その船長は古手の船乗りで、科学としての航海術についてはほとんど知らず、規則や、書物や、理論などといったことには、さらに関心がなかった。彼は常に科学的な著作をあざ笑っていた。彼は、問題の場所の近くを航行していたにもかかわらず、その岩礁を見つけられずに戻ってきた。だが、彼の航海士のひとりは、それにもかかわらず、その報告書の中には何かがあると確信していた。そして、少し後になって、彼自身が別の船の一等航海士になったとき、彼はその場所の近くを航海し、それを発見した。それは海軍省の海図に記載され、彼はその発見を行なったことで相当の報償を得た。老船長は、こうした、自分が見つけられなかったものを見つけることのできたいんちき連中を呪って毒づいた。彼はその浅瀬がそこにあると信じようとはしなかった。だが、このことだけは行なうつもりだった。わしは、その岩礁とやらが記載された場所の上をテティス号で乗り越えてみせよう。そして、それがみなたわごとであることを証明してやるわい。もしそうしなかったとしたら、自分のことは嘘つき呼ばわりしてくれて良い、と。それからしばらくして、彼には機会が訪れた。外海へ出て遊弋することになったのである。彼は、海図に記載された例の場所の近くに航海し、自分がその地点を通り越したと考えて、回りに立っている人間たちに向かって快哉を叫んだ。冒涜的な云い回しを口走りながら、わしはあの小癪な若造どもが馬鹿で嘘つきであることを証明してやったわい、と云った。彼が大威張りでそう云い終えるや否や、衝撃が走った。船が岩礁に乗り上げ、ものの数分もしないうちに沈没し出したのである。いともかしこき神の摂理によって、船長以外の乗員は全員脱出することができた。彼は破れかぶれな精神状態になっており、最後にその姿が見えたときには、甲板上で襯衣の袖を翩翻とまつわりつかせ、狂気に陥っているかに思えた。見ての通り、そんな岩礁はないという彼の固い信念は、事実を全く変えはしなかった。彼は自分の強情さのために破滅したのである。世では非常に多くの人々がこう云っている。「おゝ、私はそんなこと信じませんよ。そんなことで、この頭を悩ませたりするものですか」。よろしい。私はあなたに警告はしておいた! あなたには警告がなされていた。覚えておくがいい! 世には、イエス・キリスト、受肉した神による救いの道がある。そして、私たちはそれを受け入れるようあなたに嘆願している。もしあなたがそうしないとしたら、この不信仰の岩礁はあなたの永遠の破滅となるであろう。私は神に祈る。私たちの中のある人々がキリストの前に屈服し、キリストを私たちの王として受け入れるようにと。主はじきに私たちの審き主としてやって来るであろう! おゝ、主を私たちの《仲保者》として礼拝しよう! 主を仰ぎ見るがいい。その十字架についた主を仰ぎ見るがいい。というのも、あなたがたは、じきにその御座に着いた主を仰ぎ見なくてはならないからである。主の御傷を見るがいい! かの贖罪の血潮を眺めるがいい! 主を仰ぎ見て、救いを探すがいい。というのも、あなたがたがいま主を仰ぎ見ることをしようがすまいが、あなたがたはかの日には主を仰ぎ見なくてはならないからである。その日、天と地は揺れ動いてよろめき、喇叭が鳴り響き、死人はよみがえり、その中にあなたもいて、数々の書物が開かれ、永遠の御怒りの宣告が不従順な人々、不信仰な人々に下ることになる。願わくは神が私たちすべてを救い出してくださるように。イエスのゆえに。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――Iペテロ2章


『われらが賛美歌集』からの賛美――118番、2番、961番

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不信者のつまずきの石イエス[了]

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