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御民の身代わりイエス

NO. 1223

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「罪に定めようとするのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」。――ロマ8:34


 道理をわきまわえた人の心をも乱すことがある、最もすさまじい恐慌は、《万民の審判者》[ヘブ12:23]によって罪に定められることに対する恐れである。いま神から罪に定められているとしたら、いかに空恐ろしいことであろう! 最後の大いなる日に神から罪に定められるとしたら、いかに恐ろしいことであろう! かの壁に手で書かれた文字によって罪に定められたとき、ベルシャツァルの腰の関節がゆるんだ[ダニ5:6]のも不思議はない。彼は、はかりで量られて、目方の足りないことがわかったとされたのである[ダニ5:27]。有罪とされた囚人の良心は、小さな地獄にたとえられて良い。この小法廷において、司法が彼の過去の人生のゆえに彼に宣告を下すときがそうである。私の知る限り、この世の何によりもすさまじい苦悩は、自分が罪に定められるのではないかという疑念のため信仰者の思いの中に引き起こされる苦悩である。私たちは艱難を恐れはしないが、断罪を恐怖する。人々から不正に有罪宣告を受けることを恥とはしないが、神から罪に定められると考えただけでも、モーセのように「恐れて、震える」[ヘブ12:21]。かの大いなる神の審きの座で咎ある者と判明するかもしれないという、ごく僅かな可能性でさえ、私たちにとっては非常な恐怖をいだかせるため、それが取り除かれるまで私たちは安息を得られない。パウロがオネシポロのために、愛と感謝に満ちた祈りをささげたときには、この上もない恵みを彼のため求めたのである。「かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように」[IIテモ1:18]。だが、ありとあらゆる悪の中でも断罪が最も致命的なものであるとはいえ、使徒パウロは、その信仰の聖なる熱情をもって、あえて、「罪に定めようとするのはだれですか」、と尋ねている。彼は地と地獄と天に挑戦している。イエス・キリストの血と義に対する信頼から発した、この正当な大胆さによって彼は、かの三重に聖なる神のこの上もない栄光と、その御座とを見上げて云うのである。天すらその御前ではきよくなく[ヨブ25:5]、その御使いたちにさえ誤りを認められる[ヨブ4:18]というお方の前で、大胆不敵にも云うのである。「罪に定めようとするのはだれですか?」、と。

 いかにしてパウロが、――繊細で、覚醒した良心を有していた彼が、――これほど完全に、一切の断罪の恐れから解放されていたのだろうか? 確かにそれは決して罪の大小によってではなかった。罪の悪について語ったことのある、いかなる著述家の中でも、誰にもまして心からそれを痛烈に非難し、あるいは、誰よりも心底から真摯にそれを嘆き悲しんでいたのは、この使徒だったからである。彼は、それを極度に罪深いものと断言している[ロマ7:13]。どこを探しても決して彼は罪を弁解したり、軽くみなしたりしていない。罪についても、その種々の結果についても軽減しはしない。歯に衣着せずに罪から来る報酬について、また、不義の結果として何が続くかについて語っている。彼は、そむきの罪を些細なことととすることで生ずる偽りの平安を求めはしなかった。事実、そうしたまやかしの避け所[イザ28:17]を破壊してやまかった。話をお聞きの愛する方々。あなたも確信して良いが、今もなお、もろもろの罪を小さなもののように見せかけようとすることによっては、決して十分な根拠をもって断罪の恐れから自由になることはできない。それが道ではない。罪の重みを感じて魂を押しつぶされそうになっているほうが、増上慢や心のかたくなさによってその重荷を取り除くよりもはるかにましである。あなたのもろもろの罪は言語道断のものであり、それによって断罪されずにすむには、かの大いなる罪のいけにえによってそれらがきよめ落とされるしかない。

 また、使徒が自分の恐れを鎮めたのは、彼自らが感じたり行なったりしたことに、何らかの信頼を置いていたからではなかった。この箇所を一通り読めば、彼自身についてはいささかも言及されていないことに気づくであろう。もし彼が、何者も自分を罪に定めることはできないと確信しているとしたら、それは、彼が祈ってきたからでも、悔い改めてきたからでも、異邦人の使徒であったからでも、多くの鞭打ちを受け、キリストのために大きな苦しみを忍んできたからでもない。彼は、こうしたことのいずれかから平安を引き出しているとは全くほのめかしていない。むしろ、イエスを信ずる真の信仰者らしい謙遜な霊において、自分の《救い主》のみわざの上に、わが身の安全の希望を基づかせている。罪に定められはしないと喜ぶ彼の根拠はみな、彼のほむべき《身代わり》の死と、復活と、権威と、嘆願に存している。彼は自分から全く目を離している。そこには罪に定められるべき一千もの理由が見えたであろう。そうではなく、彼が罪に定められることを不可能にしておられるイエスに目を注ぐ。そして、歓喜あふれる確信をもって、この挑戦の声を上げるのである。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか?」[33節] また、人々にも、御使いたちにも、悪鬼どもにも、しかり、かの大いなる《審き主》ご自身にも、あえてこう要求している。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか?」

 さて、思いの弱る状態にあるキリスト者たちが、数々の疑惑に悩まされ、思い煩いに苦しめられたあげくに、断罪の冷たい影にその霊を凍らされるように感じることが決してまれなではない以上、私はそのような人々に語りかけたいと思う。いとも良き御霊が彼らの心を慰めてくださるように期待したい。

 愛する神の子どもよ。罪に定められる恐れの下で生きていてはならない。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]、とあるからである。また神は、決してやって来もしないことをあなたが恐れることを望まれないからである。もしあなたがキリスト者でないとしたら、愚図愚図せずに、キリスト・イエスをつかむことによって断罪から逃れるがいい。だが、もし本当に主イエスを信じているとしたら、あなたは断罪の下にはおらず、現世においても来世においても決して罪に定められることはない。あなたを助けるために、キリストに関する次のような尊い真理の数々によって、あなたの記憶を新たにさせてほしい。信仰者が主の前で潔白にされていると示す真理である。願わくは聖霊がこれらをあなたの魂に当てはめ、あなたに安らぎを与えてくださるように。

 I. まず第一に、信仰者であるあなたが罪に定められることがありえないのは、《キリストが死なれた》からである。信仰者には、キリストという身代わりがおられる。そして、この身代わりの上に、信仰者の罪は置かれたのである。主イエスはご自身の民の代わりに罪とされた[IIコリ5:21]。「彼は多くの人の罪を負った」[イザ53:12 <英欽定訳>]。さて、私たちの主イエスは、その死によって私たちの罪の刑罰を受け、天来の正義に償いをつけられた。ならば、このことが私たちにもたらす慰めに注目するがいい。もし主イエスが私たちに代わって罪に定められたとしたら、いかにして私たちが罪に定められることがありえるだろうか? 正義が天国で生き長らえ、あわれみが地上で統治を続ける限り、キリストにおいて罪に定められた魂が、自らにおいても罪に定められるなどということはありえない。もしも刑罰がその身代わりに割り当てられたとしたら、その罰が二度も執行されるのは、あわれみとも正義とも矛盾することである。キリストの死は、イエスを信ずるあらゆる者にとって、すべてを満ち足らわす信頼の基盤である。その人は確実に知っているのである。自分の罪が取り除かれたこと、また、自分の不義が覆われたことを。あなたの目でこの事実をしかと見据えるがいい。あなたには、あなたをかばって天来の御怒りを忍ばれた身代わりがおられ、あなたは罪に定められる何の恐れも知らなくて良いのである。

   「エホバは鞭を 振り上げぬ――
    《キリストよ》、そは 汝れを打ちたり!
    汝れは神より 酷(いた)く打たれて、
    ただ一打ちも 我れには残らず」。

 愛する兄弟たち。どなたが死なれたかに注目するがいい。それがあなたの助けとなるからである。神の御子キリストが死なれたのである。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのである[Iペテ3:18]。キリストの《神格》を否定する人々は、贖罪を拒否する点で首尾一貫している。罪の代償としてのなだめの供え物という教理を正しく主張したければ、キリストが神であられたと主張するしかない。たといひとりの人が別の人のために苦しみを受けることがありえたとしても、ひとりの人の苦しみは、万の万倍もの人々のためには役に立たなかったに違いない。ひとりの無辜の人の死に、大群衆のそむきの罪を取り去るような、いかなる効力がありえただろうか? 否。だが、私たちのもろもろの罪を背負って木に上ったお方が、万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神[ロマ9:5]であられたがために、また、その御足をかの木に釘付けにされたお方が、あの、初めに神とともにあり、神であった《ことば》[ヨハ1:1]と同じ方にほかならなかったがために、また、その頭を垂れて死なれたこの方が、いのちと不滅[IIテモ1:10]であられるキリストにほかならなかったがために、――その死のうちには、ご自分が死んでくださったあらゆる者たちのもろもろの罪を取り去る効力があったのである。私の《贖い主》について考え、この方が神ご自身であったことを思い起こすとき、私はこう感じる。もしこの方が私の性質を取って死なれたとしたら、実際、私の罪は消え失せているのだ、と。私はそれに安んずることができる。無限にして全能なるお方が私のもろもろの罪の償いをささげた以上、その贖罪が十分なものかどうか問いただす必要などないと確信できる。というのも、その威力に限界があるなどと誰がほのめかすだろうか? イエスが行ない、苦しまれたことは、いかに緊要な必要にも応ずるに違いない。私のもろもろの罪が現実以上に大きなものであったとしても、主の血潮はそれを雪よりも白くすることができるであろう。もし受肉した神が私の代わりに死なれたとしたら、私のもろもろの不義はきよめられているのである。

 さらに、どなたが死なれたかを思い起こして、この方について別の見方をしてみるがいい。それはキリストであった。その意味を解釈してみれば、「油注がれた者」である。私たちを救うためにやって来たお方は、遣わされもせずに、また、任命されもせずにやって来られたのではない。主はその御父のみこころによってやって来て、こう云われたのである。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします」[詩40:7-8; ヘブ10:7]。主は御父の権能によってやって来られた。「神は御子を、私たちの罪のためのなだめの供え物として公にお示しになったからです」*[ロマ3:25; Iヨハ4:10参照]。主は御父の油注ぎとともにやって来て、云われた。「わたしの上に主の御霊がおられる」[ルカ4:18]。主は、神から遣わされたメシヤであった。キリスト者は、自分に代わってキリストが死なれるのを見るとき、罪に定められる恐れをいだく必要は全くない。なぜなら、神ご自身がキリストを任命して死なせたのであり、もし神が代償の計画を整え、その身代わりを任命してくださったとしたら、その代償によるみわざを拒否なさることはありえないからである。たとい私たちの主の栄光に富むご人格について、先に述べたようなことが云えなかったとしても、それでも、もし神の主権と知恵がキリストのようなお方を選んで私たちの罪を負わせたとしたら、私たちは神の選択を満足して受け取り、主を満足させたものによって安らぎ、満ち足りていて良いであろう。

 さらに、信仰者よ。罪があなたを罪に定めることがありえないのは、キリストが死なれたからである。主が十字架に至るはるか以前から受けられた様々な苦しみは、疑いもなく代償的なものであったが、それでも罪ゆえの罰の実質は死であった。そしてイエスは、死なれたときにこそ、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、永遠の義をもたらされたのである[ダニ9:24]。律法は、自らの極刑宣告、すなわち死罪を越えて一歩も進むことはできなかった。それが、かの園で云い渡された悲惨な刑罰であった。――「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」[創2:17]。キリストは肉体的に死なれた。それに伴うあらゆる恥辱と苦痛とともに、また、その内的な死――それこそ、この刑の最も苦い部分であった。――とともに、そこには御父の御顔が失われること、また、名状しがたい恐怖が伴っていた。主は墓に下り、三日三晩その墓場の中で本当に死んで眠っておられた。ここに私たちの喜びがある。私たちの主は極刑を受けて、血には血を、いのちにはいのちを与えられた。当然に支払うべきものをみな支払われた。というのも、ご自分のいのちを支払われたからである。主は私たちに代わってご自分をお与えになった。そして十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた[Iペテ2:24]。それは、その死が私たちのもろもろの罪の死となるためであった。「キリストこそ、死んでくださった方なのです」[ロマ8:34 <英欽定訳>]。

 私はこうした事がらについて、ただの美辞麗句として語っているのではない。率直簡明な教理だけを告げているのである。願わくは神の御霊がこうした真理をあなたの魂に当てはめてくださり、あなたがこのことを見てとるように。すなわち、キリストにある者たちが罪に定められることは決してない、と。

 愛する方々。確実きわまりないこととして、キリストの死には、主の上に置かれたもろもろの罪を取り除く効力があったに違いない。キリストが無駄死にしたなどと考えることはできない。――つまり、冒涜なしに、そう考えることはできない。そのような考えをいだくほど見下げ果てた者になりたいとは思わない。主は、神によって多くの人の罪を負うべく任命された。そして、神ご自身であられたにもかかわらず《世》に来ては、仕える者の姿を取り[ピリ2:7]、そうした罪を負われた。悲しみにおいてばかりか、死そのものにおいても罪を負われた。では、主がその目的において敗北したり、失望したりすることはありえない。キリストの死が意図したことは、その一点一画すら挫折することはないであろう。イエスは、ご自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足するであろう[イザ53:13]。主が、死ぬことによって行なおうとされたことは、成し遂げられるに違いなく、いかなる程度や意味においても、主が地に流した血潮が無駄になることはない。ならば、もしイエスがあなたのために死なれたのならば、この確実な議論が成り立つ。すなわち、主が無駄死にしなかった以上、あなたが滅びることはない。主は苦しみを受けられたので、あなたは苦しみを受けない。主が罪に定められたので、あなたは罪に定められない。主はあなたに代わって死なれた。そしていま主はあなたにこう約束しておられるのである。。――「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」[ヨハ14:19]、と。

 II. 使徒は第二の議論に進む。それを彼は、「むしろ」という言葉で強めている。「キリストこそ、死んでくださった方、いや、むしろ、《よみがえられた》方なのです」 <英欽定訳>。私たちは、この「むしろ」に十分な重みを置いていないと思う。キリストの死は、あらゆる慰めにとって、岩のような土台である。だが私たちは、キリストの復活が使徒によって、その死にもまさる豊かな慰めを生み出すものと考えられていた事実を看過してはならない。――「いや、むしろ、よみがえられた方なのです」。いかにして私たちは、キリストの死よりも、キリストの復活から、より大きな慰めを引き出せるのだろうか? 答えよう。それは、私たちの主の復活が、主の上に置かれたあらゆる罪からの、主の全き解放を明らかに示したからである。ある婦人が借金に圧倒されているとする。いかにすれば彼女はその債務を免ぜられることができるだろうか? ひとりの友人が、彼女に対する大きな愛ゆえに、彼女と結婚する。その結婚式が執り行なわれるや否や、その行為ゆえに、彼女の借金はなくなってしまう。彼女の借金はその夫のものとなり、彼女をめとることによって彼は彼女の一切の負債を引き受けるからである。彼女はそう考えて慰めを得るであろう。だが、そ愛する者が債権者たちの所へ出かけて行き、全額を支払い、その領収書を持って来てくれたなら、いやまして安堵するであろう。最初、彼女はその結婚によって慰められる。それは法的に彼女をその債務から自由にする。だが、夫自身が自分の請け負った債務の一切から免れるとき、いやまして安堵するであろう。私たちの主イエスは、私たちの負債を引き受け、死においてそれを支払われた。そして、復活において、その記録を抹消された。その復活において主は、私たちを責めるものの最後の痕跡を取り除かれたのである。というのも、キリストの復活は、御父が御子の贖罪に満足されたという宣告だからである。私たちの賛美歌作者がこう云い表わしている通りである。――

   「げに主は 真(まさ)に よみがえり、
    かくて正義は つゆも要求(もとめ)ず。
    あわれみ、真実(まこと)は 和合(やわら)ぎぬ、
    かつて反対(あらそ)い 立つれども」。

私たちの魂の抵当かつ保証人なるお方の差し出した返済金が神を満足させなかったとしたら、この方は、墓というその獄屋の中に、今の今まで閉じ込められていたであろう。だが、それが完全に受け入れたがために、この方はその束縛から自由にされ、その民はみなそれによって義と認められるのである。「罪に定めようとするのはだれですか? キリストはよみがえられたのです」。

 さらに注目するがいい。キリストの復活は、私たちが神に受け入れられたことを示した。神は、主を死者の中からよみがえらせたとき、そのことによって、キリストのみわざを受け入れたと証言されたのである。だが、私たちの代表者を受け入れたということは私たちを受け入れたということである。フランス大使がプロシア宮廷から追い払われたとき、それは宣戦が布告されたことを意味したし、その大使が再び受け入れられたときには、平和が再度確立されたのである。イエスが神から受け入れられて死者の中からよみがえらされたとき、イエスを信ずる私たちひとりひとりもまた、神に受け入れられたのである。というのも、イエスに対してなされたことは、事実上、その神秘的からだのあらゆる肢体に対してなされたからである。主とともに私たちは十字架につけられ、主とともに私たちは葬られ、主とともに私たちはよみがえり、主が受け入れられたことにおいて私たちは受け入れられたのである。

 主の復活は、また、このことも示唆していたではないだろうか? 主は、その罰のすべてを受け尽くされ、その死は十分なものであった。かりに一瞬、千八百年以上の歳月が過ぎ去ってもなおも、主が墓の中に眠っていたとしよう。そうした場合でも私たちは、神はキリストの代償的犠牲を受け入れて、究極的には主を死者の中からよみがえらせてくださるのだと信ずることができたかもしれない。だが、私たちには恐れがあるであろう。しかし、今の私たちの目の前には、雨上がりの虹のように慰藉に満ちた1つのしるしが、あかしがあるのである。というのも、イエスはよみがえっておられ、律法がもはや何1つ主から取り立てられないことは明らかだからである。請求を突きつけられていたお方は死んだ。この方の今あるいのちに対して、律法はいかなる告訴もできない。私たちもそれと同じである。かつて律法には、私たちに要求する種々の権利があった。だが私たちはキリスト・イエスにあって新しく造られた者[IIコリ5:17]である。私たちは、キリストの復活のいのちにあずかっている。それで律法は、私たちの新しいいのちから罰金を取り立てることはできない。私たちのうちにある朽ちない種[Iペテ1:23]は罪を犯したことがない。それは神から生まれたものだからである。律法は私たちを罪に定めることができない。私たちはキリストにあって律法に死んでおり、その司法権の埒外にあるからである。

 私はあなたに、このほむべき慰藉を残していきたいと思う。あなたの保証人は、あなたに代わって負債を履行された。そして、御霊において義と宣言された上で[Iテモ3:16]、墓から出て来られた。自分の不信仰によって重荷を背負ってはならない。死んだ行ないで良心を苦しめてはならない。むしろ、キリストの十字架に目を向けて、血による洗いを通して、罪の赦しを再び自覚するようにするがいい。

 III. ここで使徒が強調している第三の点に進まなくてはならない。「《神の右の座に着き》」。やはり念頭に置いておくべきことは、現在のイエスがそうあられるところのものに、主の民はなっている、ということである。彼らは主と1つだからである。主がついておられる状態と立場は、彼ら自身のそれを象徴している。「神の右の座に着き」。これはを意味する。右の座は愛する者のためのものだからである。これは受け入れられていることを意味する。神の右の座に着いている者は、神にとって愛しい者でなくて誰であろう? これは栄誉を意味している。神は、かつてどの御使いに向かって、ご自分の右の座に着く特権を与えられただろうか?[ヘブ1:13] 権力もまた含まれている! いかなる智天使や熾天使も、神の右の座に着いていると云われることはありえない。ではキリストは、――かつて肉体において苦しみを受けたお方は、――愛と、受け入れられることと、栄誉と、権力において神の右の座に着いているのである。ならば、この問答の説得力を見てとるがいい。「罪に定めようとするのはだれですか?」 これは二重のしかたで如実にされるであろう。「私には、これほどの後ろ盾が宮廷にいるというのに、誰が私を罪に定めるというのか? 私を代表してくださるお方が神の間近に座しておられるというのに、いかにして私が罪に定められようか?」 しかし次に、私もこのお方がいる所にいるのである。こう書かれているからである。「神は、私たちを……キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」[エペ2:6]。あなたは、すでに神の右の座に着いている者を罪に定めるなどということが可能と思えるだろうか? 神の右の座は、あまりにも間近で、あまりにも傑出した場所であるため、敵がそこにいる私たちに告発を持ち出すなどということは考えられない。だが、信仰者はその代表者においてそこにいるのである。では、誰があえて彼を非難などできるだろうか? ハマンの責に帰された最悪の犯罪は、彼が女王エステル自身の死を企てたということであった。彼女はそれほどまでに王の心にとって愛しい者だったのである。では、私の敵は、アハシュエロスにとってのエステル以上に神にとって愛しい者たちを断罪したり破滅させたりできるだろうか? 彼らは神の右の座に着いており、イエスといのちを共有し、分かちがたいしかたで結び合わされているのである。かりにあなたが現実に神の右の座に着いているとしよう。その場合、あなたは罪に定められる恐れを少しでも有するだろうか? 否。では、かつてはあなた自身のような罪人たちでありながらも、今は御座の前にいる輝かしい霊たちは、罪に定められる恐怖を少しでもいだいているとあなたは思うだろうか? 「否」、とあなたは云うであろう。「私はそこに行ったなら、完璧な確信を持つでしょう」。しかし、あなたは、あなたの代表者においてそこにいるのである。もしあなたがそう思わないとしたら、私はあなたにこう問いたい。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか?」[ロマ8:35] キリストが分割されたのだろうか?[Iコリ1:13] もしあなたが信仰者だとしたら、あなたはキリストと1つであり、肢体はかしらがいる所にいるに違いない。彼らは、かしらを罪に定めない限り、肢体を罪に定められないではないだろうか? これははっきりしていないだろうか? もしあなたがキリスト・イエスにおいて神の右の座に着いているとしたら、罪に定めようとするのは誰だろうか? 神の御座を永遠に取り巻き、その冠を神の足元に投げ出している、あの白い衣を着た大群衆を罪に定めてみるがいい。それをしてみた上で、私は云うが、キリスト・イエスにある最も卑しい信仰者を告発するがいい。

 IV. 使徒が私たちに示している最後の言葉はこうである。「《私たちのためにとりなしていてくださるのです》」。これは、自分の魂を本当にキリストにゆだねている限り、罪に定められる恐れが決して私たちの脳裡をよぎるべきでない、もう1つの理由である。というのも、もしイエスが私たちのためにとりなしていてくださるとしたら、必ずや私たちが決して罪に定められないようにとりなしてくださるに違いないからである。主はご自分のとりなしを細々とした点にだけ向けて、大きな点を顧みないようなことはなさらないであろう。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」[ヨハ17:24]。このことばには、彼らがその一切の罪を赦されることも含まれている。というのも、もし彼らのもろもろの罪が赦されないとしたら、彼らはそこに行けないだろうからである。確信しておくがいい。嘆願する《救い主》は、ご自分の民の無罪放免を強固にされる、と。

 私たちの主のとりなしが力あるものに違いないことを思うがいい。キリストの願いが無駄になることなど考えられない。主は、決して遠くに離れて立つ、卑しい嘆願者ではない。呻いたり、溜息をつきながら、分不相応な願いをする者ではない。むしろ、ご自分の民の名前を帯びた宝石のきらめく胸当てをつけ、ご自身の血潮を、無限に満足させる贖罪として神の贖いのふたのもとへと携えつつ、異論の余地ない権威をもって嘆願しておられるのである。もし土地から叫んでいるアベルの血[創4:10]が天で聞き届けられ、復讐をもたらしたとしたら、幕の内側で語るキリストの血[ヘブ12:24]は、はるかにいやまして、その民の赦罪と救いを確保するはずである。イエスの嘆願に異論を唱えることはできず、却下することはできない。主はこう嘆願される。――「わたしは、その男の代わりに苦しみました」。神の無限の正義がこの嘆願を拒否できるだろうか? 「おゝ、神よ。あなたのみこころによって、わたしはこのわたしの民の身代わりとなって自分を捨てました。あなたはわたしが代わりとなったこの者たちの罪を取り去ってくださらないのですか?」 これは有効な嘆願ではないだろうか? 神の契約がその味方をしており、神の約束がその味方をしており、神の栄誉がそこにはかかっている。それで、イエスが嘆願なさるとき、そこでは重みを持つのは単に主のご人格の威厳や、それと同じくらい重みのある、神がそのひとり子に対していだいておられる愛だけではない。主の主張は圧倒的であり、主のとりなしは全能なのである。

 いかにキリスト者は安全であろう! イエスがいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるのである![ヘブ7:25] 私は主の愛しい御手に自分をゆだねているだろうか? ならば、決して主を信頼しないことによって主の名誉を汚してはなるまい。私は本当に主が死んで、よみがって、御父の右の座に着いて、私のために嘆願しておられるお方であると信頼しているだろうか? ほんの些細な疑念にすらふけることが許されるだろうか? ならば、御父よ。この大いなる侮辱を赦し給え。そして、あなたのしもべを助けて、より大きな信仰の確信によって、キリスト・イエスにあって喜ばせ給え。そして、「こういうわけで、今は、罪に定められることは決してありません」*[ロマ8:1]、と云わせ給え。行くがいい。あなたがた、キリストを愛する人たち。そして、キリストを頼んで安らぎ、この甘やかな教理の香りを心にいだくがいい。だが、おゝ、あなたがた、キリストに信頼していない人たち。あなたは現在、罪に定められている。あなたがたは、神の御子を信じなかったので、すでに罪に定められている[ヨハ3:18]。そして、あなたはやがて罪に定められる。というのも、来たるべきその日、かのすさまじい日には、不敬虔な者たちがエホバの御怒りの火の中で刈り株のようになる[イザ47:14]からである。急ぎ来たりつつあるその時、主は公正を測りなわとし、正義をおもりとし、まやかしの避け所を一掃される[イザ28:17]。来るがいい。あわれな魂よ。来て、十字架につけられたお方を信頼するがいい。そうすれば、あなたは生きるであろう。そして、私たちとともに、何者もあなたを罪に定められないことを喜ぶであろう。

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説教前に読まれた聖書箇所――イザヤ53章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 329番、404番、299番

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御民の身代わりイエス[了]

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