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「何とかして、幾人かでも救うためです」

NO. 1170

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1874年4月26日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「それは、何とかして、幾人かでも救うためです」。――Iコリ9:22


 使徒は非常に大まかな云い方で、人々を救うことについて語っている。私たちの間にいる、一部のきわめて正統的な兄弟たちは、たちまちこう云い出すであろう。「お前が人々を救うだと? 人間にどうしてそのようなことができよう? 何と不正確きわまりない云い回しだ。救いは最初から最後まで主のものではないだろうか? パウロよ。よくもお前が、幾人かでも救うなどと語れたものだな」、と。だが、これと非常によく似た口ぶりで、ペテロはこう云っている。「この曲がった時代から自分自身を救いなさい」[使2:40 <英欽定訳>]。実際、どちらかといえば、こちらの云い回しの方が、より大胆であるとさえ云えるかもしれない。そして、もしペテロがいま生きていたとしたら、呼びつけられて、申し開きをしなくてはならなかったであろう。パウロは、テモテへの手紙の中でこう云っている。「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります」[Iテモ4:16]。これもまた、目の前の批評家のことなどまるで恐れていなかった人物が、世間一般の意味で用いた言葉遣いの一例にほかならない。使徒は、自分の力でだれかを救えるなどとほのめかそうとしていたのではないし、彼の意図がそこにあったなどとはだれも考えなかった。彼は、厳密な云い回しを用いなかったのである。なぜなら、彼の宛先の人々は、心の広さと知識を合わせ持っており、彼の揚げ足を取ろうとしてはいなかったからである。彼が手紙を書いていた人々は、決して1つ1つの説教にあらゆる信条が含まれていなければ満足しなかったり、あらゆる真理を紋切り型に言明するよう要求したりする人々ではなかった。救いが神だけのものであり、聖霊のみわざであるという教理は、パウロにとっていのちにもまさってかけがえのない真理であり、それまでに何度となく宣言してきたものであった。それゆえ彼には、何も誤解される恐れがなかったのである。私たちの証言もまた、この点にかけては長年にわたって明確であった。それゆえ私たちは、あえて使徒と同じくらい正確に不正確になってみよう。そして、魂を救い、魂を獲得することについて、日常会話の流儀にのっとって語ってみよう。

 ここで用いられている云い回しは、媒介的手段を非常に強調しており、それが、いつもながらの聖書の語り口である。今のところ、媒介的手段の力を誇張し、《主人》の代わりに人間を眺めてしまう危険は、さほど大きくない。危険なのは、それとは逆の方向にあると思われる。すなわち、組織化された教会と、現在認められている牧会活動との双方を軽視するという習慣である。最近しきりに聞かされるところ、いくつかの信仰復興には、特定の人物が全く携わっておらず、伝道者も教役者も全然関与していなかったという。そして、それが長所だと思われている。だが実際それは全く長所ではない。残念ながら、多くの有望な始まりがあっというまに崩れ去ってしまったのは、忠実で聖なる教役者たちが軽蔑され、通常の媒介的手段が侮辱されてきたからではないかと思う。人々がそうした口のきき方をするのは、それで神に栄誉が帰されると考えるためだが、実は全く見当違いである。神は今なお、ご自分が選ばれた教役者たちを認め、祝福し、彼らによって栄誉を帰されておられるからである。そして、彼らによって今なお働いておられる神は、彼らを見下したようなしかたで語ることをお許しにならないのである。

 今朝の主題はこうである。神は、ご自分の民によって魂を救うのであって、それゆえ、彼らのうちに、何とかして幾人かでも救いたいという聖なる切望を吹き込まれる。神は、お望みになれば、迫害者サウロを召したのと全く同様に、卓越した栄光の中から御声を聞かせることによって、ご自分の選民を召し出すことがおできになる。あるいは、御使いたちを任命して世界を縦横に飛び回らせ、あわれみの使信を携えて行かせることがおできになる。だが、その測り知れない知恵によって神は、人間によって人間をご自分のもとに連れて来させようとお望みになった。贖いは完成しており、御霊の力は十二分に与えられている。魂が救われるため人間に必要なのは、信ずるように導かれることだけである。そして、救いのこの部分こそ、聖霊により、人間たちの宣教活動を通して成し遂げられるのである。自分も生き返らされた者たちが、干からびた骨々[エゼ37:4]に預言すべく遣わされているのである。この天来の手はずが実行に移されるために、主は純粋な信仰者たち全員の心に、救霊の情熱を植えつけられた。これは、人によって強弱の差はあっても、あらゆるキリスト者の人格において目立った特徴たるべきである。私はこの聖なる本能について語ることとし、それを次のように扱いたいと思う。第一に、なぜそれが私たちの中に植えつけられているのか? 第二に、それはいかなる働きを行なうか? 第三に、なぜそれが、さほど大きく現わされていないのか? そして第四に、それを燃え立たせ、より実際的な効果を生み出させるにはどうすればよいか?

 I. 《他の人々を救いたいというこの情熱が、救われた者たちの胸に植えつけられているのはなぜか?》 理由はいくつか考えられるが、特に3つあると思う。すなわち、神の栄光のためであり、教会のためであり、個々人の益のためである。

 それが植えつけられているのは、第一に、神の栄光のためである。この壮大な目的を成し遂げるために用いられるのが卑しい媒介であることによって、神の栄光は大いに高められる。カンタン・マサイスが、ある見事な格子蓋を作り上げたとき、それは格段に傑出した工芸品となった。なぜなら、それを製作していた間、彼は本来の工具を取り上げられいたからである。たしか彼は、金槌のほか、ほとんど何も持たずにその素晴らしい金属細工を行なったのだと思う。さて、世にある神の恵みのみわざを眺めるとき、神の栄光を格段に現わすこととして思い起こされるのは、神がそれを成し遂げる際に、それ自体ではみわざを押し進めるどころか妨げとなるような道具をお用いになったということである。人間は、いかなる者であれ神を助けることはできない。神が私たちを用いるのは事実だが、私たちを用いるよりも用いない方が、ずっと手っ取り早く事を行なえたであろう。神は、力あることばを直接発することによって、今なら道具の弱さのために何箇月も何年もかかることを、一瞬のうちに行なうことがおできになるであろう。だが神は、いかにすればご自分の御名の栄光を現わせるかを最もよくご存じである。神は、他の人々を救いたいという切望を私たちの魂に吹き入れ、私たちを用いることによって、ご自分に栄光が帰されるようにしておられるのである。私たちは、神が心に植えつけられたこの情熱のほか、そのような働きにほとんど全く適していないが、それは関係ない。神は、恵み深くも私たちの弱点すらお用いになる。私たちの弱さそのものすら、ご自分の恵みの栄光を例示するものとし、私たちの最も貧しい説教をも祝福し、私たちの最も弱々しい努力をも成功させ、私たちのふと漏らした言葉からさえ成果が生ずるのを見せてくださる。主は、私たちの弱々しさをご自分の力の媒体とすることによって、ご自分の栄光を現わされる。そして、この目的のために神は、私たちをして自分の力のはるかに及ばない働きを熱望させ、私たちの心をして「幾人かでも救う」ことを切望させなさるのである。

 また、さらに神に栄光を帰すのは、神が私たちのように罪深い人間たちを取り上げ、ご自分の性質にあずからせてくださるということである。神はこのことを行なうために、ご自分の情け深いあわれみの心を私たちに共有させ、ご自分のあふれ出る愛に交わらせてくださる。神は私たちの胸の中に、ご自分の胸中で赤々と燃えているのと同じ愛の火をともしてくださる。私たちなりの小さなしかたで、私たちは放蕩息子たちを見下ろし、彼らが非常に遠く離れているのを見てとり、彼らに同情し、喜んで彼らの首を抱きかかえ、彼らに口づけしたいと思う。しかしながら、主は聖いしかたで人々を愛しており、彼らの聖化を願い、そうした手段によって彼らの救いを願われる。そして私たちは、同胞の人々の回心によって彼らの益を願うとき、神とともなる歩みをしているのである。あらゆる真の博愛主義者は、主イエスの引き写しである。というのも、これは主の無限にすぐれたご性質にあてはめるには低俗すぎる用語ではあるが、それでも、まことに神の御子は、すべての博愛主義者の中でも最も偉大な博愛主義者であられるからである。さて、神がその比類なき御力によって、私たちの心のように冷たい心の中に、他者の救いのために燃える情熱を生み出すというのは、神が精神世界においても全能の力を振るっておられるという際立った証拠である。罪深い人間たちを変えて、聖潔が増し加わるのを慕い求めさせること、かたくなな意志を変じて従順さが広まるのを熱心に求めさせること、また、さまよいがちな心を《贖い主》の永久の王国確立のために真剣にならせること、これは、神の恵みの壮大な離れわざである。非の打ち所ない御使いが、神の使信を伝えるために空を切って進むとしたら、それは全く単純なことである。だが、キリストへの敵意に燃えて激怒するタルソのサウロが、人々の魂をイエスにかちとるために生き、死んでいくこと、これは神の恵みの忘れがたい例証である。

 このようにして主は、かの《大敵》、かの空中の権威を持つ《支配者》を圧する大いなる栄光を獲得しておられる。というのも、主はサタンに対して、こう云うことがおできになるからである。「わたしはお前を敗北させた。それもミカエルの剣によってではなく、人間たちの舌によってだ。わたしはお前を征服した。おゝ、敵よ。それも雷電によってではなく、わたしの卑しいしもべたちの熱心な言葉と祈りと涙によってだ。おゝ、わが敵対者よ。わたしがお前に立ち向かわせたのは、わたしが魂への愛を吹き込んだ、弱々しい人間たちだった。この者たちがお前から、お前の領土の属州を次々ともぎ取ってきたのだ。この者たちが奴隷となっていた者の枷を断ち割り、お前が虜囚を閉じ込めていた牢獄の扉を打ち開いたのだ」。この真理を何にもまして華々しく示すのは、主がサタンの軍隊の頭目たちをとらえて、ご自分の軍勢の士官たちに変貌させるときにほかならない! そのとき敵は、かつての友の家の中で打たれるのである。サタンはペテロを麦のようにふるいにかけることを願ったが[ルカ22:31]、ペテロはその返礼としてペンテコステの日にサタンをふるいにかけた。サタンはペテロにその《主人》を否定させたが、立ち直ったペテロは、自分の主をいやがうえにも愛するようになっており、いやがうえにも自分の《主人》の御名と福音を熱心に宣べ伝えた。この仇敵の憤激はわが身に跳ね返る。愛が勝利をおさめ、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれる[ロマ5:20]。聖徒たちを迫害したサウロについて云えば、彼は異邦人へのキリストの使徒となり、この良き使命のために他のだれよりも多く働く者とならなかっただろうか?[Iコリ15:10] 愛する方々。十字架の究極的な勝利は、それが達成されるしかたのゆえに、さらに賞賛されるべきものとなるであろう。神は悪に打ち勝つが、それは決して政治権力の助けや君主たちの武力によってでも、主教や教皇たちの威信によってでも、華麗なる彼らの全軍隊によってでもなく、むしろ燃える心と、明々と照り輝く魂と、涙する目と、祈りの格闘をするため屈められた膝とによって打ち勝たれるのである。これらが神の砲兵隊であり、このような武器を用いることによって、神はその仇敵どもを挫折させるだけでなく、彼らに対する勝利を得られるのである。弱い者によって強大な者を、単純な者によって賢い者を、あるものをないものによって打ち破られるのである。

 次に、魂の救いを求める情熱は、教会のために植えつけられている。それは、一千ものしかたでそう云えるが、私に言及できるのは、そのごく僅かでしかない。第一に、疑いもなく魂を獲得しようとする情熱は、教会の精力を健康なしかたで押し広げるに違いない。私の見いだしてきたところ、外部の人々のことを気遣わない教会は、すみやかに不一致と争いに苦しむようになる。この共同体の中では、一定量の水流がわき上がりつつあり、それを正しい道筋に解放してやらないと、間違った方向に働き出すか、すべてを破裂させ、無限の損害をもたらすのである。人々の精神はいやでも働き、彼らの舌はいやでも動くものである。それらは、良い目的のために用いられていないと、確実に害を及ぼす。教会を何にもまして完全に一致させるのは、《贖い主》の大目標を成し遂げるために、そのすべての勢力を駆り出すことである。使われないままのタラントは確実に錆びていき、こうした類の錆は、平和にとって致命的な毒であり、教会の心臓に食い入る猛悪な刺激物である。それゆえ私たちは、何とかして幾人かでも救おうとするであろう。さもないと、何か別のことによって私たちの心に不和が生ずるからである。

 救霊のためのこの情熱は、単に教会の力を用いるだけでなく、引き出しもする。それは教会の潜在的な精力を目覚めさせ、教会の最も気高い機能を呼び起こす。目の前にこれほど神聖な賞品がある以上、教会は競走のためにその腰に帯をしめ、その目を主にひたと据え、目標を目指して一心に走る。これまでも多くの平凡な人が、高貴な探求に完全に没頭することによって、偉大な人へと変えられてきた。では、人々を地獄に至る路から引き戻すことほど高貴なことがありえるだろうか? ことによると、ものも云えずに引かれていく家畜たちのように生き、死んでいるこうした下劣な魂の中にも、至高の目的を目指す英雄的な熱心で燃え立たされ、隠されていた才能を発達させられれば、大いに燃え輝くような威光に達する人々がいるかもしれない。幸いなことよ、栄誉ある務めを得て、それを栄誉あるしかたで成就する人は。見よ。神はその教会に、世界を征服し、炎の中から燃えさしを取り出し、神の羊と子羊たちを養う務めを与えられた。そしてこれこそ教会を訓練し、大胆不敵な行動と高貴な魂へ至らせることなのである。

 愛する兄弟たち。魂に対するこの共通の情熱こそ、私たちをともに結びつけるものにほかならない。私が、愛する兄弟や同労者たちに対して清新な絆をしばしば感じるのは、私が器となって罪の確信に至らせたひとりの罪人を、彼らのひとりが慰め、《救い主》へと導いたと知るときである。このようにして、私たちはその回心者を共同で所有しているのである。時として私は、神の祝福によって、自分で自分の聴衆を救いへ至らせることもあるが、その聴衆は、まず向こう側にいる友人によってこの場に導かれたのであって、私たちはその喜びをともにするのである。奉仕と成功における交わりは、聖徒たちを1つに結び合わせ、互いに愛をいだかせ合うための最上の担保の1つである。

 そしてさらに、新しい回心者たちは、教会に加入する際、媒介的手段によって加入させられるという事実によって、たやすく教会に溶け込むことができる。これと非常によく似ているのが、私たちの家族関係である。もし神が私たちを、ばらばらの男女として創造し、地上のどこかに振り落としては、勝手にだれかの家にもぐり込み、その家族に結びつくようになさったとしたら、おそらく私たちが歓迎されるまでは長い間さまよわなくてはならないであろう。だが今の私たちは、私たちを見て喜び、「こんにちは、ようこそ、赤ちゃん!」、と歌ってくれる人々のもとに赤子としてやって来る。私たちはたちまち家族の一部分となる。なぜなら、私たちには両親があり、兄弟姉妹があり、こうしたことによって、私たちが家庭に入り込むことには何の文句も出ず、私たちを受け入れることには何の困難もないようにされているからである。教会の中もそれと同じである。もし神がその御霊によってひとりひとりを回心させ、何の媒介的手段もお用いにならなかったとしたら、個々人はばらばらの砂粒のようなものとなり、1つに結び合わされて築き上げられることは難しかったであろう。いわんや、1つのからだに形成されることなどはるかに困難であったろう。だが、今の私たちは教会の中に誕生する。牧師や他のひとりひとりは、こうした回心者を、自分たちを媒介的手段として生まれた、自分自身の子どもたちであるとみなし、主にあって愛する。また、教会は、彼らが回心させられた共通の奉仕にあずかっていたので、「この人たちは私たちに属している。この人たちは私たちへの報酬なのだ」、と感じる。そしてそのようにして彼らは、暖かくキリスト教会の家族に迎え入れられるのである。これは決して小さな利点ではない。というのも、生命の根源において、また聖なる共感と交わりによって1つにされていることは、教会の喜びであると同時に力であるからである。私たちの中には、私たちが主にあって愛する霊の父たちがおり、私たちがその幸福に深い関心を持つ霊の子どもたちがおり、私たちが助けを差し出してきたか助けを受けてきた、心からの交わりを持たずにはいられない兄弟姉妹たちがいる。母国を守りたいという共通の願いが全連隊を1つの軍隊に結び合わせるのと同じように、魂を救いたいという共通の願いが、あらゆる真の信仰者たちを互いに血族とするのである。

 しかし、この情熱は何にもまして、それを有する個々人の益となる。今朝の私は、人が他の人々の回心のために労することによって、いかに途方もない恩恵をもたらされるかを、いま割り当てられた短い時間の間に総括しようとは思わない。だが、あえてこのことだけは主張しておこう。神の教会内のいかなる人も、もし幾人かでも救おうと労していないとしたら、健康な状態にあるとは云えない。病苦によって働けなくなっている人々は、キリストの家庭の秩序の中でそれなりの役割を果たしている。だが、そうした例外を除き、働かない者は食べるべきでなく、他者を潤さない者は自分も潤されない。また他人の魂について気遣わない者は、自分自身の魂が危険な状態のままでいて当然である。

 他の人々の回心を切望することによって、私たちは神に似た者となる。私たちは人々の幸福を願っているだろうか? 神はそう願っておられる。私たちは喜んで彼らを炎の中からつかみ取りたいと思うだろうか? 神は日々この恵みの行為を果たしておられる。私たちは、死んでいく者の死に何の喜びも感じないと云えるだろうか? エホバは、それを誓いとともに宣言された。私たちは罪人たちのために泣いているだろうか? エホバの御子は彼らのために泣かなかっただろうか? 私たちは彼らの回心のために身をささげているだろうか? 主は彼らが生きるために死なれなかっただろうか? あなたがたは、この情熱があなたの霊の中で赤々と燃えるとき、神に似た者とされているのである。

 これは、人々に対するあなたの愛の発露であるのと同じく、神に対するあなたの愛の発露でもある。《創造主》を愛するがゆえに、私たちはその堕落した被造物をあわれみ、その御手のわざに対する情け深い愛を感ずる。もし私たちが神を愛しているとしたら、私たちは神が感ずるように、審きは異常な働きであると感じる。また、神が創造なさった者たちが永遠に打ち捨てられることに耐えられない。神を愛することによって私たちは、あらゆる人が同じように神を愛していないことを悲しく思わされる。世界が悪い者の支配下にあること[Iヨハ5:19]、自らの《創造主》と敵対していること、自らをただひとり祝福できるお方と戦っていることにいらだたされる。おゝ、愛する方々。あなたは、他の人々の魂を愛していない限り、主を全く愛していないのである。

 他の人々をキリストに導こうとするとき私たちは、自分の古びた感情が一新され、初めの愛がよみがえらされることによっても、善を施される。私は、ある求道者が罪を悔悟しているのを見るとき、その人が感じているのと同じことを自分も感じていたときのことを思い起こす。そして、その求道者が初めて、「私はイエスを信じます」、と云うのを聞くとき、私自身の魂の誕生日のことを思い起こす。イエス・キリストが私のうちに住むために来られたがために、私の心の鐘がその最も嬉しげな鐘声を響かせたあの日のことを思い起こす。魂を獲得する働きは心を絶えず生き生きとさせ、暖かな若さを私たちのものとして保つ。これは愛が衰えるのを防ぐ、強力な活性剤である。

 もしも懐疑主義の冷気が自分に忍びよりつつあるのを感じ、福音の力を疑い出しているとしたら、行って貧者や無知な人々の間で働くか、苦悩のうちにある魂を慰めるがいい。彼らが信ずることによって喜びと平安を得るときの顔の輝きを見れば、あなたの懐疑主義は風に吹き飛ばされるもみがらのように失せ去るであろう。結果を見るときには、原因を信ぜざるをえない。目の前に証拠があるときには、信じないではいられない。イエスのために働くことによって、私たちは信仰を強く保たれ、主を熱心に愛する者でいられるのである。

 この聖なる本能は、人のあらゆる精神機能を引き出しはしないだろうか? 名演奏家があらゆる弦から音楽を引き出すように、1つの強烈な情熱は、しばしば全人を活動させるものである。もし私たちが他の人々を愛するならば、私たちはパウロのように、彼らをひきつけるのに賢くなり、彼らを説得するのに賢くなり、彼らを確信させるのに賢くなり、彼らを励ますのに賢くなるであろう。私たちは使われないまま錆びついていた手段の用い方を学ぶであろう。人々を救いたいという強い願いから泥が落とされなかったなら、地中に隠されていたはずのタラントを、自分のうちに発見するであろう。

 そして私がここでつけ加えたいのは、結局、魂への愛は、それに従うあらゆる人に、この下界における最高の喜びをもたらすということである。それは何だろうか? 自分が他の人々の霊の親とされたと知る喜びである。私は何度となくこの小川を十二分に味わってきたが、それは地上における天国である。自分が救われているという喜びには一抹の利己主義があるが、自分の努力によって同胞の人々が救われたと知るのは、純粋で、非利己的で、天的な喜びをもたらす。その喜びをいかに深々と飲み干しても、私たちの霊は全く害を受けない。兄弟たち。善を施したいという天来の欲求に身をゆだね、取りつかれ、食い尽くされるがいい。そうすれば最上の結果が生ずるに違いない。今からは、このことをあなたの目当てとするがいい。「それは、何とかして、幾人かでも救うためです」。

 II. 《この情熱はいかなる働きを行なうだろうか?》 それは人それぞれで、また、いかなる時期にあるかによって異なる。最初それは、穏やかな不安によって姿を現わす。人は、救われた瞬間から、自分の妻、自分の子ども、自分の最も愛する親族について気がかりになり始める。そしてこの不安によってその人は、すぐさま彼らのため祈るように導かれる。新しく開かれた目は、《義の太陽》[マラ4:2]の甘やかな光を楽しむようになるや否や、振り返っては、かつて暗闇の中で自分の仲間だった者たちに愛情のこもった眼差しを注ぐ。そして天を見上げては、涙の祈りとともに、彼らも目が見えるようになることを願い求める。空腹だった者たちは、無代価の恵みによる饗宴で最初の一口を頬ばりながらも、うめき声を上げて云う。「おゝ、私のあわれな飢えた子どもたちが、私と一緒にこの場にいて、《救い主》の愛によって養われることができたならどんなによいことか」。同情は、新しく生まれた性質にとって自然なことである。一般の人間性によって私たちは、苦しむ人々を可哀想に思うが、そのように、一新された人間性によって私たちは、罪深い人々を可哀想に思う。私は云うが、このことは新しいいのちのまさに黎明期において起こる。それが天的な巡礼路をさらに進むと、この情熱は、他の人々の回心についての知らせが耳に入ったときに現われる強い喜びによって示される。私はしばしば、教会総会において、また宣教集会において、何人かの新しく回心した人々が、あるいは帰国した宣教師たちが、あるいは成功している教役者たちが、救いに至らせる恵みの不思議さを詳しく報告しているとき、心からの聖い喜びが聴衆の間に広がっていくのを見てきた。多くの貧しい少女たちは、《救い主》のためにほとんど何もすることができないが、それにもかかわらず、罪人たちがイエスに導かれたと聞いたときにその頬を流れ落ちる喜びの涙によって、もし行なう力さえあれば、彼女たちが何をしたいと望んでいるかを示してきた。これは、個人的にはほとんど何もできない人々が、最も用いられる人々の喜びにあずかる――しかり、イエスご自身との交わりを有する――ことのできる1つのしかたである。

 魂を獲得したいという神聖な本能は、福音の伝播のための個人的な努力、犠牲、祈り、また苦悶によっても姿を現わす。今でもよく覚えているが、最初に主を知ったときの私は、いかに他の人々のために何かを行なうまでは落ち着かないものを感じたことか。私は、自分に集会で話す力があるなどとは知らなかったし、信仰的な主題について会話することにも非常に臆病であった。それゆえ私は、色々な人に宛てて救いの道を記した短い覚書を書いては、そのような手紙を、出来合いの小冊子とともに郵便受けに投函するか、家々の扉の下から滑り込ませるか、地面に落としておくことをしていた。そうしながら、これを読む人が自分の罪について目覚めさせられ、必ず来る御怒りから逃れるように動かされるように祈っていた。私の心は、何のはけ口も見つけられなかったとしたら、破裂してしまっていたであろう。私の願うのは、あらゆる信仰告白者たちがその最初の熱心を保ち続け、イエスのために大きなことと同じく小さなことをも熱心に行なっていることである。というのも、小さな活動も、より大きな分野に働きかける活動と同じくらい効果的なものとなることがしばしばあるからである。私が最近教会に加入した若い人々全員に望むのは、自分の能力と立場にふさわしい何らかのしかたで善を施そうと努め、何とかして、幾人かでも救おうとすることである。説教の達さないところにいる人々を、ほんの一言が祝福することはよくある。個人的な一通の手紙の方が、印刷された本にまさって多くを行なうこともありえる。

 私たちは、年を重ねるにつれ、また、よりふさわしさを増すにつれて、教会のもっと公的な活動にあずかるようになる。私たちは、田舎家での祈祷会に集う数人の人々の前で、イエスのために話をするようになる。あるいは、《日曜学校》に積極的に協力するようになるか、小冊子の配布地域の1つを受け持つようになる。最終的に主は私たちを、数百人あるいは数千人の前でご自分の御国の進展のために申し立てる務めにお召しになることもあり、そのようにして、私たちの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる[ヨブ8:7]かもしれない。

 だが1つの点においては、他の人々の救いを求める熱心は、それを有するいかなる人々の中にも見受けられる。すなわち、他の人々を益するためには、彼らの状態や能力に自分を合わせるということである。この点をパウロによって注目するがいい。彼は、何とかして、幾人かでも救うためなら、すべての人に、すべてのものとなった[Iコリ9:22]。彼はユダヤ人にはユダヤ人のようになった。彼らに出会うときには、彼らの種々の儀式をののしったりせず、それらの霊的意味を明らかにしようと努めた。彼はユダヤ教に反対する説教をしたりせず、その種々の型を成就したお方としてのイエスを彼らに示した。異教徒に出会うときには、神々の悪口を云ったりせず、真の神とその御子による救いを教えた。彼は、ただ1つの説教だけを持ち歩き、それをいかなる場所でも語るようなことはせず、自分の話を聴衆に合わせて変えるようにしていた。アレオパゴスで、パウロが哲学者たちの議会を相手に行なった演説は、何と素晴らしいものであったことか。それは、最初から最後まで丁重きわまりないものであり、現行の翻訳がこの資質をいくらか損なっていることは非常に残念である。というのも、それは原典では際立って著しい特徴だからである。使徒はまず、「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております」、と云って始めている[使17:22]。彼は、英欽定訳のように、「迷信的すぎる」、と云ったのではない。それは、のっけから彼らを必要もなく怒らせることになったであろう。引き続いて彼はこう云っている。「そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」。彼は、「あなたがたが無知にも拝んでいるものを、教えましょう」、とは云わなかった。彼のように聡明な人物が、そのような表現を用いるはずがなかった。彼らは、思慮の深い人々、洗練された知性の人々の集まりであった。そして彼は、彼らをかちとろうとして、彼らに向かって丁重に福音を宣言したのである。彼の側における最も明敏なこと、それはあの祭壇に刻まれた銘に言及することであった[使17:23]。また、それと等しく明敏だったのは、彼ら自身の詩人たちから引用することであった[使17:28]。もし彼がユダヤ人に語りかけていたとしたら、ギリシヤ詩人から引用することも、異教徒の祭壇に言及することもしなかったであろう。彼は、自分の聴衆に対していだいていた強い愛により、彼らの注意をつかむために、彼自身の特有の癖を溶け込ませることを教えられていたのである。同じようにして私たちも、自分を捨てて他者の利を図り、他者が私たちに従うことを要求するかわりに、本質的でない事がらすべてにおいて快く自分を彼らに従わせる。彼らがイエスの主張を好意的に考察するようにするためである。よく聞くがいい。原則についてパウロほど厳格だった者は決していなかった。自分の立場を譲らないことが必要な事がらにおいて、彼は岩のように確固不抜だったが、単に個人的で外的な事がらにおいては、すべての人の奴隷となった[Iコリ9:19]。適応は彼の強みであった。愛する方々。もしあなたが子どもたちに話をしなくてはならないとしたら、子どもとなるがいい。子どもたちに大人であることを期待してはならない。彼らのように考え、彼らのように感じ、真理を彼らの言葉にするがいい。あなたの心が彼らの子どもらしさに共感しない限り、決してあなたは彼らの心に達することはできない。もしあなたが年老いた人々を慰めなくてはならないとしたら、彼らの弱さに共鳴するがいい。まるで彼らがまだ体力旺盛な時期にあるかのように語りかけてはならない。あらゆる年代の人々について研究するがいい。そして、そうした人々と同じようになるがいい。それは、彼らがあなたと同じ信仰者になるよう導くためである。あなたは、教育のある人々の間で働くよう召されているだろうか? ならば、えりぬきのすぐれた言葉を用い、銀のかごに盛り合わせた金のりんご[箴25:11]を提示するがいい。あなたは目に一丁字もない人々の間で働いているだろうか? ならば、あなたの言葉を突き棒のようにするがいい。彼らの母語を語り、徹底的に素朴な言葉遣いをして、あなたの云っていることを理解させるがいい。ちんぷんかんぷんな言葉で語りかけて何になるだろう? あなたは奇妙な偏見を持った人々の間に振り当てられているだろうか? 彼らと無用の軋轢を起こすのではなく、ありのままの彼らを受け入れるがいい。あなたは理解力のごく乏しい人の回心を求めているだろうか? その人に深遠な奥義を負わせてはならない。むしろ明々白々な、はっきりとした言葉で、単純素朴な人間が天国に至る道を示してやるがいい。あなたは悲しい気分をした友に話をしようとしているだろうか? あなた自身の抑鬱のことを告げ、彼の悲嘆に共鳴し、そのようにして彼を、あなたが引き上げられたように引き上げるがいい。良いサマリヤ人のように、傷ついた人が横たわっている所へ行くがいい。彼があなたのもとにやって来るのを期待してはならない。真に魂を獲得したいという情熱は、私たちの人間らしさの多くの面を明らかにし、その1つ1つを天来の真理の光の反射板として用いる。いかなる人の心にも1つは扉がある。私たちはそれを見いだし、正しい鍵を使ってそこに入らなくてはならない。その鍵は、神のことばのどこかで発見できるはずである。すべての人を同じしかたで、あるいは同じ議論で扱うべきではない。何とかして、幾人かでも救うべきである以上、魂を獲得するためには賢くならなくてはならない。上からの知恵によって賢くならなくてはならない。私たちは彼らが征服されてキリストのものとされることを願うが、いかなる戦士も常に同じ戦略を用いることはない。ある人には野外決戦が、別の人には攻囲戦が、第三の人には伏兵が、第四の人には長期戦が必要とされる。海上にあっては、敵船を沈没させるための大きな衝角があり、海中の水雷があり、砲艦があり、汽動駆逐艦がある。ある船は大砲1つで大破するが、別の船には片舷斉射が必要となり、第三の船は喫水線部を撃破しなくてはならず、第四の船は岸まで追い込まなくてはならない。それと全く同じように、私たちは自分を適応させ、私たちに預けられた神聖な戦力を、真剣な考察と厳粛な判断のもとに、絶えず主の導きと力に期待しつつ用いなくてはならない。真の力はみな主の御手の中にあり、私たちは自分を完全に天来の《働き手》のまにまに用いていただき、彼がみこころのままに私たちの中に志を立てさせ、事を行なうようにするのでなくてはならない。そのようにして、何とかして幾人かでも救えるようにならなくてはならない。

 III. 《この情熱は、なぜキリスト者たちの間でさほど目立っていないのだろうか?》 説教者がこの問いに答える必要はない。聴衆ひとりひとりが自分でそうできるであろう。なぜ私たちは滅び行く人々の魂をもっと気の毒に思わないのだろうか? それは、私たちにごく僅かな恵みしかないということではないだろうか? 私たちは小人のようなキリスト者で、小さな信仰、小さな愛、神の栄光に対する小さな気遣いしか有していない。それゆえ、滅び行く罪人たちにも小さな関心しか寄せないのである。私たちは、富んだ者にも、乏しいものが何もない者にもなれるのに、信仰に欠けているがために、霊的に裸で、貧しく、哀れな者なのである[黙3:17]。それこそ事の真相であり、あらゆる害毒の源泉である。だがもし私たちが具体的な詳細を示さなくてはならないとしたら、人々が他者の魂について無頓着なのは、彼らが福音の諸教理の一面的な見解に陥り、恵みの諸教理を、怠惰さがのうのうと寝そべる長椅子としているためとは思われないだろうか? 「神がご自分の民を救われるさ」、と彼らは云う。しかり。だが、神ご自身の民はそのように語りはしない。彼らはカインのように、「私は、自分の弟の番人なのでしょうか」、と云いはしない[創4:11]。疑いもなく主はご自身の選民がしかるべき時期に召されるようにされるが、主はこのことを、みことばの宣教あるいは教えによってなされるのである。予定は決して不活動の正当な理由にはならない。人々は、他の事がらにおいては予定をそのように考えないのに、なぜ信仰の事がらにおいてはそう考えるのだろうか? 主が私たちを富ませてくださらなければ、私たちが仕事で行なうあらゆる努力はむなしい。だが私たちは決して、「私のふところには神のみこころ通りのポンドが入ってくるだろう。だから働く必要も商売する必要もないのだ」、などと云いはしない。否。人々がその宿命論をとっておくのは、霊的な事がらにおいて自分をごまかすためである。彼らは、他のすべての事がらにおいては、予定で精神を麻痺させられるほど間抜けではない。だが、ここでは、怠惰さが自己弁解を求めているがために、この神聖な真理を濫用して、あえて自分たちの良心をたばかろうとするのである。

 一部の信仰告白者たちの場合、全くの世俗性に妨げられて、他の人々の回心を求めようとしない。彼らは、救霊を心にかけるには利得を好みすぎ、御国の種を蒔くには自分の農場のことで忙しすぎ、罪人の眼前に十字架を掲げ上げるには自分の店のことで手一杯でありすぎ、失われた人々の救いに心を遣うにはこの世の心遣いに振り回されすぎている。貪欲は、まさに多くの人々の魂を食い尽くしている。そうした人々は、自分の霊的健康を損なってはいないにせよ、手に余るほどの仕事を手がけているというのに、さらに多くの仕事をしようと躍起になっている。祈祷会はないがしろにされ、日曜学校の学級は放棄され、貧者や無知な人々の間での奉仕は全くなされない。それもこれもみな、彼らがこの世とその心遣いで夢中になりすぎているためである。この時代は、その方向にことのほか誘惑されており、人々の魂を実際的なしかたで愛することができるようになるには、強固な敬神の思いが必要である。

 一部の人々の場合、残念ながら、冷淡さの原因は信仰の足りなさにあるのではないかと思う。彼らは、神が自分たちの努力を祝福してくださるとは信じていない。それゆえ何の努力もしない。彼らは、用いられる者になろうとして失敗した遠い昔のことを今もまざまざと覚えており、過去の失敗をして現在いやまして努力すべき理由としたり、失われた時の埋め合わせをしたりするかわりに、主のための労苦は無駄だとして放棄し、もはや何も試みようとしないのである。多くの教会員にとって、恐らくこの情熱の欠如の理由は、彼らが安逸さを愛し、不精にむしばまれていることである。彼らは云う。「たましいよ。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ[ルカ12:19]。なぜ他人のことで悩むことなどあるのか?」 「この群衆を解散させてください」、と弟子たちは云った[ルカ9:12]。彼らは群衆のことで心を煩わされたくなかった。確かに人々は非常に飢え疲れていたし、彼らがぐったりしていくのを見るのは痛ましいことである。だが、彼らを救済するよりは、彼らの必要を忘れ去る方がたやすかった。ロンドンは滅びつつある。何百万もの人々がその罪の中で死につつある。世界は悪い者の支配下にある。それで怠惰は、忘れっぽさをおのれの助けとして呼び出し、問題のすべてを無視させようとしている。こうした人々は、居心地悪い思いをさせられたくないのである。キリストの栄光のために大いに財を費やすことも、自分自身を使い尽くすことも願い下げなのである。

 すべての真相は、キリスト者の大部分が、神と共感していないこと、またキリストとの交わりのうちにないことにある。これは悪ではないだろうか? おゝ、死に行く人々のために一度も泣いたことのない目よ。お前たちは麗しさをまとった《王》を見ると期待しているのか? おゝ、底知れぬ所へ下りつつある人々を案じて一度も痛めたことのない心よ。お前たちは《主人》がやって来られる喜びに躍り上がりたいと望んでいるのか? おゝ、イエスのために一度も語ったことのない口よ。いかにしてお前たちは、最後の大いなる日の心探る問いかけに答えようというのか? 私は切にあなたがたに願う。キリスト者たる人たち。もしあなたが自分の周囲の人々の回心について冷淡になっているとしたら、その隠れた理由を探し求めるがいい。あなたの敬神の念の根にいかなる虫が食い入っているのか見いだすがいい。そして、キリストの御名によって、そこから解放されることを求めるがいい。

 IV. 《この情熱をより十分に呼び覚ますにはどうすればよいか?》 それを呼び覚ますには、まず、私たちがより高いいのちを得るしかない。人は良い者になればなるほど、良い行ないをするようになる。恵みにおいて強くなればなるほど、幾人かを救うことにおいて強くなる。私は、人が自分の水準を越えるほど高い行ないをしようとすることが正しいとは思わない。その人が、まず上がらなくてはならない。そうすれば、その人から出てくるものはみな高く上がるであろう。もし神への愛があなたの魂の中で赤々と燃えるなら、それは他の人々に対するあなたの関心において姿を現わすようになるに違いない。木を良くすれば、実も良くなる。肺病患者の頬にさす赤みのような、浮かんでは消える消耗性の熱心へと自分を鼓舞することで、より真剣な生き方を始めようとしても何にもならない。内側のいのちが永久的に強められなくてはならない。そうするとき、心の脈動も、全人的な動きも、より勢いのあるものとなるであろう。より多くの恵みこそ、私たちの最大の必要である。

 このことを認めた上で、罪人たちの回心を私たちの心にかけさせるための大きな助けとなるのは、私たちが彼らのみじめさと堕落について十分に認識することである。人は、この町の貧困と、不潔と、悪徳をその目で見た後では、いかに異なる感情をいだくことであろう。私が願うのは、あなたがた、ロンドンの大通り以外のいかなる地域も見たことがないお上品な人々の何人かが、狭い裏道に通ずる下町をそぞろ歩きすることである。私はあなたが、ヴィクトリア女王が決して見たこともないような路地に、また、緑など全く見えない裏通りに向かってほしいと思う。淑女の方々。あなたがいかに美しい装飾品を自宅に置いていようと、――また紳士の方々。あなたがいかに手巾と財布を貯め込んでいようと、――あなたが出会うことになる悲惨な者たちの間では、それをすっかり空にしたくなるであろう。ある種の光景は、間近で見てこそ、私たちの心に血を流させ、私たちの霊をかき乱すのである。それらをあなたが見たとき、あなたは罪深い者に対する正しい感情を覚え始めるであろう。私たちは冬の間、暖炉のそばで快適にしていると、それほど寒い天気ではないだろうと考える。だが、もし私たちが外に出て、貧者がその襤褸の中で身震いしているのを見ると、あるいは彼らがその空っぽの火床の上で縮こまっているのを見ると、自分の想像していた以上に冷気が忌まわしいものであると考え始めるのである。私たちはこの礼拝所に来ている。そして、みことばを聞いている間は、それを聞いていない人々の貧しさを忘れている。左様。まさに今この瞬間にも、ロンドン中のごてごて飾り立てた安酒場や、居酒屋の扉の回りには、何千もの人々が、幸いな午後一時がやって来るのを待って立っているのである。そのとき彼らは、心から焦がれ求める陽気な一飲みができるからである。いまバッカス神を待ち受けている諸集会は、数千人単位で数えられる。こうした人々は、安息日の今までの時間、何をしていたのだろうか? 日曜日の新聞を読むか、寝床で横になっていたか、襯衣の袖をまくり上げては自分の小さな庭園をぶらつくかしていたのである。それこそ、私たちの回りにいて、私たちの扉のそばにいる何十万もの人々の時間の使い方なのである。私たちは、彼らをこの祈りの家に連れて来るために最善の努力をしてきただろうか? 私たちのそば近くに住む何十万もの人々は、生まれてこのかた一度も福音を聞いたことがなく、それが宣べ伝えられている場所に入ることなど一度も考えたことがない。もちろん、もし彼らがカルカッタで暮らしていたとしたら、私たちも彼らについて考えていたであろう。だが彼らがロンドンの私たちの近くで暮らしている場合、私たちは彼らのことを無視してよいだろうか? 私たち全員にとってなされうる最上のことの1つは、一週間、市中宣教師たちとともに、この町の最悪の地区にある家々を回って歩くことであろう。そうすれば私たちは見るべきことをこの目で見ることができるであろう。そのとき、罪と貧困はあからさまになり、その厳然たる現実の中に浮かび上がるであろう。あなたの同国人たち、女から生まれ、あなたと同じ血肉を有する人々が、あなたの愛する《救い主》を日ごとにないがしろにしつつ生きているのである。自分たちの不滅の魂を危険にさらしつつ生きているのである。このことを悟りさえすれば、これはあなたを刺激し、何とかして、幾人かでも救わせようとするであろう。

 兄弟たち。未来の刑罰が永遠であるという教理の証明とされる議論の中でも、私が見てとった最強の議論は、しばしばそれを反証するために用いられる議論である。彼らは云う。「もしも未来の刑罰が永遠であることが真実だとしたら、どうしてそれを信ずる信仰者たちはその寝床の中で休んだり、その食事を食べたりできるのか、私たちには見当もつかない。というのも、それほど恐ろしいことが真実だとしたら彼らは、他の人々がこの果てしない悲惨さに落ち込んでいくのを救い出そうとする、いやまさる努力へとかき立てられるはずである」、と。確かにその通りである。預言者によって語られたかのようにその通りである。だが、それこそ私がこの教理を信ずる1つの理由なのである。なぜなら、ここには少なくとも、私たちを同情へと動かし、行動へとかき立てる傾向があるからである。もし、他の見解の主唱者が喜んで私に教えようとする教理が、私をしてより罪を軽視させ、自分の同胞たちの断罪についてより気楽に感じさせるようなものだとしたら、私はそんな教理を欲さない。というのも、私は今でさえあまりにも無頓着であり、これ以上無頓着になることには怖気を振るうからである。もしも、自分の聴衆の魂の滅びについて耐えざる悲しみを感ずべき、最も恐ろしい議論をもってすら、私が自分で望むほど鋭敏な者になれないとしたら、結局、彼らが罪に定められようが救われようが、自分が考えていたほど大きな影響はないのだ、などと嬉しがらせる油を自分の魂に注いだ場合、私はいかなる者となってしまうだろうか? あゝ、愛する方々。あなたは、こう考えることに耐えられるだろうか? あなたの回り中には、もう数年もすると神の恐ろしい御怒りを受け、永遠に御前から追放される人々がいるのである。もしあなたが地獄とその恐怖を実感できさえすれば、あなたは何とかして幾人かでも救おうという思いをかき立てられるに違いない。

 他の多くの事がらも私たちを動かすことはできるが、この最後のことは確実にそうするはずである。神の恵みに対して負っている、私たち自身の厳粛な義務を感ずることは、私たちの全精力を呼び覚ますであろう。もし私たちが自分で告白している通りの者だとすれば、私たちは神の御子の心血によって贖われ、救われた者たちである。私たちはこのことのゆえに、キリストに対して何らかの負い目があるではないだろうか? 私たちは、主の王冠に多くの宝石を見いだしもしないまま、安閑としていてよいだろうか? 私たちは、これほど無数の人々が主について無知であるか、主に敵対しているというのに、満足していることができるだろうか? もしあなたがたが主を愛しているというなら、主のために何をしようというのだろうか? あなたの愛の証拠を主に示すがいい。そして、あなたが与えることのできる最上の証拠は、あなた自身の個人的な聖潔と、主の贖われた民を集め入れようとする不屈の努力である。兄弟よ。姉妹よ。イエスのために何かを行なうがいい。口先だけであってはならない。それを行なうがいい。言葉は葉っぱだが、行動は実である。イエスのために何かを行なうがいい。きょう、イエスのために何かを行なうがいい! 日が沈まないうちに、だれかひとりの人の回心につながるような活動を何か1つ思いつくがいい。その努力の目標は、あなたの子どもでも、従僕でも、兄弟でも、友人でもよい。――だが、その努力をきょう行なうがいい。それをきょう行なったならば、明日も行なうがいい。毎日行なうがいい。そして、それをある1つのやり方で行なうとともに、別のやり方でも行なうがいい。あなたの喜びによって人の心を奪い、あなたの悲しみによって人を目覚めさせ、あなたの希望によって人を魅了するがいい。あなたの変化に富む気分の助けにより、異なる方面から罪人を攻撃するがいい。あなたの種々に異なる環境は、あなたを種々に異なる人々と接触させてくれるであろう。常に目を覚ましているがいい。回転砲架の上に載った大砲のように、いかなる方向にいる人々にも向かい合うがいい。そして、幾人かでも福音の力によって傷つき倒すようにするがいい。何とかして、幾人かでも救うがいい。願わくは神がそうさせてくださるように。そして、おゝ、今朝、キリスト・イエスを単純に信ずることによって、幾人かでも救われることになるように。というのも、それこそ救いの道だからである。イエスは、ご自分に対する単純な信頼があるところなら、どこにおいても罪を取り除いてくださる。願わくは求道者の方々が、今その信頼を働かせ、永遠に生きるように。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――イザヤ6章; Iコリント9章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 176番、353番、358番

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「何とかして、幾人かでも救うためです」[了]
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