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ヤベツの祈り

NO. 994

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私を大いに祝福し……てくださいますように」。――I歴4:10


 私たちは、ヤベツについてほとんど何も知らない。わかっていることはただ、彼が兄弟たちよりも重んじられたこと、また、彼がヤベツと名づけられたのは、彼の母が悲しみのうちに彼を産んだからだということだけである。時として起こることだが、先にこの上もなく悲しい出来事があった場合、後に続く出来事がこの上もなく喜ばしいものとなることがある。荒れ狂う嵐の後には晴れ渡った陽射しが降り注ぐように、涙の夜は喜びの朝に先立つのである。悲しみは先触れであり、喜びは、その先駆けの後にやって来る君主である。クーパーは云っている。――

   「悲しみの道、その道のみぞ
    悲しみのなき 国へ続くは」。

多くの場合、私たちは、涙とともに種を蒔いて初めて、喜び叫びながら刈り取ることができることに気づく[詩126:5]。数々の困難や失望が、私たちの魂を苦悶で絞り上げてきた。だが、私たちに常ならぬ悲しみをしいた企図こそ、私たちが手がけた事業の中でも、最も誉れあるものものとなってきたのである。私たちの悲嘆は、願いによって産み落とされた子どもを、「ベン・オニ」[創35:18]――私の苦しみの子――と呼んだが、後になると私たちの信仰は、それに喜ばしい名をつけることができた。「ベニヤミン」――右手の子――と。もしもあなたが何度落胆の下に置かれても辛抱強くやり抜けるとしたら、神に仕えることによって祝福がやって来ると思ってよい。船がなかなか母港に戻ってこないのは、あふれんばかりの積荷によって、途中で遅れが生じているからである。その船荷が港に着くときには、いやまさってすぐれたものとなっているはずだと思うがいい。兄弟たちよりも重んじられたのは、母親が悲しみのうちにあるときに産まれた子どもであった。ヤベツについて云うと、彼の目当ては実に正鵠を射たものであり、彼の名声は実に響きわたり、彼の名前は実に永く記憶にとどめられているが、この人物は、祈りの人であった。彼が受けた誉れも、それを得るために全力がふりしぼられ、公正に勝ちとられたものでなかったとしたら、手に入れる価値はなかったであろう。彼は、誠心誠意打ち込んだからこそ、高く引き上げられたのである。最高の栄誉とは、神から出た栄誉であり、恵みの賞品であり、その奉仕を認められることである。

 ヤコブがイスラエルという姓で呼ばれたとき、彼がその君たる身分を受けたのは、記憶すべき祈りの夜の後であった。確かにそれは、地上のどこかの皇帝からお世辞で云われた誉れとして授けられるよりも、はるかに彼にとって栄誉あるものであった。最高の名誉とは、人が《いと高き方》との交わりの中で獲得するものである。ヤベツは兄弟たちよりも誉れを与えられた[I歴4:9 <英欽定訳>]と告げられており、彼の祈りがただちに記録されている。さながら、彼が兄弟たちよりも祈り深かったともほのめかしているかのようである。ここには、彼の祈りがいかなる嘆願であったかが告げられている。全体を通じて、これは非常に意義深く、教えに富む祈りである。ここでは、ほんの一節だけしか取り上げる時間がない。――実際、その一節は残り全体を包含しているとも云えよう。「私を大いに祝福し……てくださいますように」! 愛する兄弟姉妹。私はこれをあなたがた自身の祈りとして勧めるものである。これは、あらゆる時期に役に立つ祈りとなる。キリスト者生活の出だしを切るべき祈り、その最後を飾るべき祈り、あなたの喜びにおいても悲しみにおいても決して時宜を得ないことのない祈りである。

 おゝ、イスラエルの神、契約の神なるあなたが、私を大いに祝福してくださいますように! 私の見るところ、この祈りの核心は、この「大いに」[まことに <英欽定訳>]という言葉にあるように思われる。祝福にも多種多様なものがある。ある祝福は、単に名ばかりのものである。それらは私たちの願いを一瞬は満足させるが、私たちの期待を永久に失望させる。目を喜ばせても、味覚を飽かせる。別のものは、単に一時的な祝福である。それらは、使っているうちになくなってしまう。しばらくの間は感覚を楽しませるが、魂のより高い渇望を満たすことはできない。しかし、「私を大いに祝福してくださいますように!」 私は、神の祝福を受ける者が祝福されることを知っている。そのときには、それ自体で良いものが、与え主の善意とともに授けられ、受け手にとって非常に大きな幸運を生み出し、真に「大いなる」祝福とみなされるものとなる。というのも、それはくらべようもない祝福だからである。神の恵みがそれを進め、神の選びがそれを定め、神の寛大さがそれを授けた場合、その贈り物そのものが、まさに神に似たものとなるであろう。祝祷を唱える唇にふさわしいもの、堅固で永続的な誉れを求めるあらゆる人々によってまさに渇望されるにふさわしいものとなるであろう。「あなたが、私を大いに祝福してくださいますように!」 このことをよく考えてみるがいい。そうするとき、あなたは、この云い回しに深遠な意味があるのを見てとるであろう。

 私たちはこれを人間の祝福と比較できよう。「あなたが、私を大いに祝福してくださいますように!」 両親によって祝福されるのは非常に喜ばしいことである。こうした年長の人々は、心からの祝福の言葉を口にし、それを祈りで裏打ちしてくれる。多くの貧しい人が、わが子に受け継がせることのできる唯一の遺産は、自分の祝福しかない。だが、正直で聖いキリスト者である父親の祝福は、息子にとって豊かな宝である。人は、親からの祝福を受けられなかった場合、それを一生の間嘆くべきだと感じてよいであろう。私たちはそれを受けたいと思う。私たちの霊的な親の祝福は慰めとなる。私たちは、聖職者の特効など信じてはいないが、私たちをキリストに導く手段となった人々、神の事がらを私たちに口ずから教えてくれた人々の情愛の中で生きたいと思う。そして、貧しい人々からの祝福の何と非常に貴重であることか! ヨブかそれを甘やかなこととして大切にしまっておいたのも不思議ではない。「私について聞いた耳は、私を賞賛し……た」[ヨブ29:11]。もしあなたが、やもめやみなしごを救い出すなら、その人たちの感謝は祝福によってあなたに返されるであろう。そして、それは決してつまらない報いではない。しかし、愛する方々。結局のところ、――親たち、親戚たち、聖徒たち、そして感謝する人たちが祝福ということおいて行なえる一切のことは、私たちが有したいと切望することにはほど遠いものである。おゝ、主よ。私たちは同胞たちからの祝福、彼らの心から出た祝福を得たいと思いますが、ですが、おゝ、「あなたが、私を大いに祝福してくださいますように!」 あなたは私を、権威をもって祝福することがおできになるからです。彼らの祝福は口先だけかもしれませんが、あなたの祝福には効力があります。彼らはしばしば自分にはできないことを望み、自分の自由にならないことを与えたいと思うでしょうが、あなたのみこころは全能です。あなたは一言で世界を創造なさいました。おゝ、そのような全能が今あなたの祝福を私に語ってくれれば何とよいことでしょう! 他の祝福も私たちにちょっとした励ましを与えてくれるかもしれませんが、いのちはあなたの恩寵のうちにあります[詩30:5]。他の祝福は、あなたの祝福にくらべれば、ただのお題目でしかありません。というのも、あなたの祝福は「朽ちることも汚れることも……ない資産」[Iペテ1:4]の、また、「揺り動かされない御国」[ヘブ12:28]の所有権となるからです。それゆえ、別の箇所でダビデがこう語ったのも当然である。「あなたの祝福によって、あなたのしもべの家はとこしえに祝福されるのです」[IIサム7:29]。ことによると、この箇所で、ヤベツは神の祝福を人間たちの祝福と比較対照していたのかもしれない。人々は、あなたが成功しているとき、あなたを祝福するものである。彼らは、人が商売で繁盛していると、その人をたたえるであろう。成功ほど成功するものはない。ある人が繁栄しているときほど、一般大衆から認められることはない。悲しいかな! 彼らは人々の行動を聖所の秤で量ることをせず、全く別の物差しを用いる。あなたの周囲の人々は、あなたが富み栄えていれば、あなたを褒めそやすが、あなたが逆境に苦しむ時には、ヨブの慰め手たちのように、あなたをこきおろす。ことによると、彼らの祝福の一部の特徴はあなたを喜ばせるかもしれない。なぜなら、あなたは、自分がそうした祝福に当然値すると感じているからである。人はあなたの愛国心ゆえにあなたを褒める。あなたは愛国者であった。人はあなたの気前よさのゆえにあなたを褒める。あなたも自分が自己犠牲的であったことを知っている。よろしい。だが、結局において、人間の評決に何の値打ちがあるだろうか? 裁判において、法廷に立っている警官の評決や、裁判所内に座っている傍聴人たちの評決などには何の意味もない。被告人がひしひしと感じとるように、少しでも重要な唯一のものは陪審の評決であり、裁判官の判決である。そのように、私たちが何を行なおうと、他の人々が褒めようと、とがめようと、私たちには何にもならない。彼らの祝福には大した価値がない。しかし、「あなたが、私を祝福してくださいますように」。そして、こう云ってくださいますように。「よくやった。良い忠実なしもべだ」[マタ25:21]。あなたの恵みによって、私の心がささげることのできた、ささやかな奉仕をあなたがお褒めになること。それこそ私を大いに祝福することです。

 また人々は時として、見え見えのお追従によって祝福されることがある。ある者らは常に、寓話の中の狐のように、鴉を持ち上げることによって乾酪を手に入れたいと願っている。あなたの羽衣のように美しいものは見たことがなく、あなたの声のように甘い声はどこにもありません、と。彼らが心にかけているのは、あなたのことでは全然なく、自分があなたによって得られるものである。おべんちゃらを云う者の種は尽きることがない。それを受ける者の方では、自分はおべっかを使われてなどいないと普通考えるものだが。人は、人々が他の者たちにはおべっかを云っているのだと思うかもしれないが、それが自分の上に浴びせかけられるときには、それはみな率直な、飾らないものであると思い、得々としてそれを受け入れる。多少は大げさかもしれないが、結局において、まさに真に迫ることなのだ、と。私たちは、他の人々が自分を褒めそやす言葉をあまり割り引いて考えようとはしない。だが、賢明な者であれば、自分をとがめる人々をこそ暖かく迎え、自分をたたえる人々には距離を置いて接するであろう。というのも、面と向かって私たちをとがめる人々は私たちによって利益を得ることはないからである。だが、私たちを褒めそやす人、朝早く起き出して来て、大げさな褒め言葉を用いる人々のことは、疑ってかかってよい。そうした疑いが見当違いなものであることはめったにないであろう。彼らが私たちを褒めるかげには、うわべに見える理由のほかに何か隠れた動機があるのである。青年よ。あなたは、神から尊ばれているような地位についているだろうか? お追従を云う人々に用心するがいい。あるいは、巨額の財産を手に入れているだろうか? 富を得ているだろうか? 蜂蜜のあるところには蝿がつきものである。おべっかに用心するがいい。若い婦人よ。あなたは美しい容貌をしているだろうか? あなたの回りには、下心を持ち、ことによると、悪い了見を隠しながら、あなたの美しさをたたえる者らがいるであろう。へつらう人々に用心するがいい。舌に蜜を乗せている人々を避けるがいい。その舌には蝮の毒があるからである。ソロモンの警告をよく考えるがいい。「くちびるをもってへつらう者とは交わるな」[箴20:19 <英欽定訳>]。神に叫ぶがいい。「どうか私の魂に吐き気を漏らさせるような、こうした空しい追従の一切から私を救い出してください」。そのようにして、あなたはより一層熱心に祈ることであろう。「あなたが、私を大いに祝福してくださいますように!」 私にはあなたの祝福をいただかせてください。それは心にもない美辞麗句を口にしたり、約束を下回るものしか与えなかったりすることがないからです。ならば、もしあなたが、このヤベツの祈りを人々からやって来る祝福と比較するなら、あなたはそこにより大きな力を見てとるのである。

 しかし、それを別の面に照らして、ヤベツが懇願した祝福を、一時的でつかの間の祝福と比較することもできよう。私たちには多くの賜物が神のあわれみによって与えられており、私たちはそれに感謝してしかるべきである。だが、私たちはそれらを重んじすぎてはならない。感謝とともにそれらを受けるのはよいが、それらを自分の偶像としてはならない。そうしたものを有しているとき、私たちにはこう叫ぶ必要がある。「あなたが、私を大いに祝福してくださいますように。そして、こうした、より劣る祝福を真の祝福としてくださいますように」。また、そうしたものを有していない場合、私たちは一層の激しさをこめて叫ぶべきである。「おゝ、私たちが信仰に富む者となりますように。そして、たといこうした外的な恵みによって祝福されることがないとしても、霊的には祝福されますように。そのとき私たちは本当に祝福されることでしょう」。

 こうしたあわれみのいくつかを吟味して、一言か二言述べてみよう。

 人間の心が第一に渇望するのは富である。それを得たいという願いは万人共通のものであって、ほとんど生まれつきの本能であるとさえ云える。いかに多くの人々が、富を所有しさえしたら、自分は大いに祝福されるのだと考えてきたことか! だが、幸福が人の所有する巨万の富に存していないことは、ごまんと証明されている。その数限りない実例はあなたがたのよく知るところであって、私が何1つ引き合いに出さなくとも、富が決して真に大いなる祝福でないことはわかるであろう。富は祝福であるような見かけはしているが、実態はそれにはるかに及ばない。こういうわけで、いみじくもこう云われているのである。すなわち、私たちは人がいかに多くを有しているかを見るとき、彼をうらやむが、いかに僅かな楽しみしか得ていないかを見ることができたならば、彼を憐れむことであろう、と。だれよりも安楽な環境を有している人々の中には、だれよりも暗鬱な心をした人々がいる。望みうる限りのものをすべて手に入れた人々は、たといその望みがまともなものであったとしても、自分の有するものによって、不満へと陥らされるものである。自分がそれ以上のものを持てないからである。

   「かくて欲深(よくぶか) 富(ふ)しても飢えて、
    家産(こがね)気に病み、なおも渇仰(かつ)えて、
    苛立ち、おのれを 貧(まず)しと信ず」。

見るつもりになりさえすれば、だれの目にも明らかなことだが、富は決して悲しみを追い払い、常夏の喜びを湧き上がらせる、主立った善ではない。あまりにもしばしば富貴はその持ち主を欺く。珍味佳肴が食卓に並んでも食欲がわかず、歌手や楽団が指図を待ち受けていても、何の旋律も聞きたくならない。好きなだけ休暇を取ることができても、気晴らしはその魅力を全く失っている。あるいは、その人が若いうちから、相続によって巨額の富を得て、快楽を追求するとしても、やがて娯楽は労働よりもうんざりするものとなり、遊興は単調な骨折り仕事よりも厭わしいものとなる。あなたがたは、富がいかに翼をつけるか知っている。木にとまっている鳥のように、それは飛び去る。このような、かつては、「たましいよ。さあ、安心せよ」*[ルカ12:19]、と囁くかに思われた豊かな資産は、病や意気消沈するときには、貧弱な慰め手であることを露呈する。死が臨むとき、富はその別離をなおさら痛切なものとする。なぜなら、人よりも多くのものを後に残し、多くのものを失わなくてはならないからである。私たちは、富を得ているとしたら、こう云ってよいであろう。「わが神よ。こうしたもみがらによって私を遠ざけないでください。私が決して、あなたの摂理によって与えられた金銀や家財、土地や資本を神とすることがないようにしてください。私は切に願います。私を真に大きく祝福してください。こうした世俗的な所有物は、それとともにあなたの恵みを有していない限り、私の破滅のもととなるでしょう」。また、もしあなたが富を有していないとしたら――ことによると、あなたがたの中のほとんどの人々は決して富を有することがないかもしれないが――、こう云うがいい。「父よ。あなたは、私がこうした外的で見かけだけの善を持つことを禁じられました。あなたの愛で私を豊かにし、あなたの恵みという黄金を私に与え、私を大いに祝福してください。他の人々には、その望むものを割り当ててください。ですが私には、あなたが私の受ける分を分け与えてください。私の魂は、あなたの日ごとのみこころを待ちます。どうか、あなたが私を真に大いに祝福してください。そうすれば私は満足です」。

 私たちのあわれな人間性が好んで渇望し、熱心に追求する、もう1つのつかの間の祝福は、名声である。この点で私たちは、兄弟たちよりも高い栄誉を得たがり、自分のあらゆる競走相手を上回りたいと願う。名を上げたいとか、自分の活動範囲の中で少しでも注目されたい、と願うことは、私たち全員にとって自然なことと思われ、できるものなら私たちは、その範囲を広げたいと願う。しかし、ここでも、富の場合と同じく、明らかに最大の名声は、決してそれに釣り合うだけの最大の満足をもたらすものではない。人々は、評判や栄誉を求める際に、そうする過程では、ある程度の喜びを感じるものである。だが、その目的を達したときには、必ずしも同じ喜びを持っていられるとは限らない。最も有名な人々の中には、人類の中で最もみじめな人々がいる。もしあなたに栄誉と高名があるとしたら、それを受けるがいい。だが、この祈りを発することである。「わが神よ。あなたが私を真に大きく祝福してください。というのも、たとい私の名前が万人の口の端に上っているとしても、もしあなたがそれを御口から吐き出されるとしたら、何の得になるでしょう? 私の汝が大理石の上に刻まれていたとしても、それが《小羊のいのちの書》に書かれていなかったとしたら、何になるでしょう? こうした祝福は、単に見かけ上の祝福、がらんどうの祝福、私をなぶる祝福でしかありません。あなたの祝福をお与えください。そのとき、あなたから出た誉れは、私を大いに祝福することでしょう」。たといあなたが、たまたま無名の人として生きてきて、一度もあなたの同胞の間で誉れを受けるべき者の中に列したことがなかったとしても、あなたの走るべき道をよく走り、あなたの務めを誠実に果たすことで満足するがいい。名声に欠けていることは、最も嘆かわしい悪ではない。朝は地面を白くしている雪のように、日が上って暑くなると消え去ってしまうような名声を得ることの方がずっと悪い。死人にとって、人々の評判など何になろうか? 真に大いなる祝福を得るがいい。

 賢明な人々が願い、他の2つよりも正当に求めてよいであろう、一時的な祝福がもう1つある。――健康の祝福である。健康は、いかにありがたく思っても足りない恵みである。このような恩恵を粗末に扱うのは気違いじみた愚行である。健康は、いかに称賛しても決して誇張したことにはならない。健康なからだを有している人は、いかなる財産を有する病弱な人よりも、無限に祝福されている。だが、たとい私に健康があり、私の骨々がしっかり組み合わされ、私の筋肉がちゃんと張り巡らされているとしても、また、たとい私が何の痛みやしこりも覚えずに起床して、きびきびと仕事に向かうことができ、夜にはばったり寝床に身を横たえて安眠できるとしても、それでも、おゝ、自分の力を誇らないようにせよ! 一瞬にして、それは私から失われるかもしれない。ほんの数週間もしないうちに、強壮な男性が骸骨になってしまうかもしれない。肺病がとりつき、頬は蒼白になり、死の翳りを帯びるかもしれない。強壮な人はその力を誇ってはならない。主は、「馬の力を喜ばず、歩兵を好まない」[詩147:10]。そして私たちも、こうしたことに関して自慢しないようにしよう。健康に恵まれている人はこう云うがいい。「わが神よ。私を真に大きく祝福してください。私に健康な魂をお与えください。私の霊的な病をいやしてください。いやしを給う主よ[出15:26]、来てください。そして、私の心に生来巣くっているらい病を取り除いてください。天的な意味で私を健康にし、私が汚れた者とともにわきへ押しやられず、あなたの聖徒たちの会衆の間に立てるようにしてください。私の肉体的健康を祝して私のものとし、私がそれを正しく用い、持てる力をあなたへの奉仕とあたたのご栄光のために費やせるようにしてください。さもなければ、いかに健康に恵まれていても、私は真に大きく祝福されたことにはならないでしょう」。愛する方々。あなたがたの中のある人々は、健康という大きな宝を有してはいない。大儀な昼と夜があなたに割り当てられている。あなたの骨は、天候の移り変わりをあなたに告げる暦となる。あなたには、哀れみの念をかき立てるにふさわしいものが大いにある。しかし私は、あなたが真に大いなる祝福を得てほしいと祈りたい。そして、私はそれがいなるものかわかっている。私は、先日このようなことを私に告げた姉妹に心から同情できる。「私は、病気だっときには、神様を本当に身近に感じ、確信に満ち、主への喜びであふれていました。だのに残念なことに、今はそれが失われてしまっているのです。もし、神様との交わりをもう一度新たに得られるとしたら、また病気になりたいと云いたいほどです」。私はしばしば、自分の病室を感謝の念とともに振り返ってきた。確かに私が、他のどこにもまさって、倍以上も恵みにおいて成長したのは、痛みの床の上であった。それは、本来そうあるべきではない。私たちの喜ばしいあわれみの数々こそ、私たちの魂にとって大きな肥料たるべきである。だが、少なからぬ場合に、私たちの悲嘆は、私たちの喜びにまして健康に良いものなのである。私たちの中のある者らにとっては、剪定刀が最上なのである。よろしい。結局において、あなたがいかなる苦しみ、弱さ、病質、苦痛、苦悶に遭わなくてはならないにせよ、願わくは、それが天来の臨在を伴ったものとなるように。そして、この軽い患難があなたのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらし[IIコリ4:17]、あなたが真に大いに祝福されるように。

 私は、もう1つだけ一時的なあわれみについて述べることにしよう。それは非常に尊いものである。――すなわち、家庭という祝福である。私は、いかなる者も、これを尊びすぎたり、過大に評価しすぎたりできないと思う。炉辺があり、「家庭」という言葉の回りに愛しい身内の者たちが――妻が、子どもたちが、父が、兄弟が、姉妹が――集まるというのは、何という祝福であることか! 左様。いかなる言語の歌であれ、「母」にささげられた歌ほど音楽に満ちたものはない。私たちはドイツ語の「父祖の国」という言葉について大いに聞かされている。――その響きは好もしい。しかし、「父祖」という言葉がそのかなめである。「国」など無意味である。望むらくは、私たちの中の多くの者らには、こうした身内が多くあることであろう。だが私たちは、じきに裂かれるような絆によって魂を慰めるだけで満足しないようにしよう。それを越えて、真に大いなる祝福がやって来るように願おうではないか。わが神よ。私は地上の父ゆえにあなたに感謝します。ですが、おゝ、あなたこそ私の御父となってください。そのとき私は真に大いに祝福されるでしょう。わが神よ。私は母の愛ゆえにあなたに感謝します。ですが、母が慰めるように私の魂をあなたが慰めてください。そのとき私は真に大いに祝福されるでしょう。《救い主》よ。私は結婚の契りゆえにあなたに感謝します。ですが、あなたは私の魂の花婿であられます。私は兄弟の絆ゆえにあなたに感謝します。ですが、あなたが私の苦しみを分け合う兄弟[箴17:17]となり、私の骨の骨、私の肉の肉となってください。あなたが私にくださった家庭を私は尊び、それゆえにあなたに感謝します。ですが、私は主の家に永遠に住みたいのです。私の足がどこを旅していようと、かの住まいがたくさんあるという御父の家[ヨハ14:2]から、決して踏み迷うことのない子どもとなりたいのです。あなたは、このようにして真に大いに祝福されることができる。もしあなたが、《全能の》御父の庇護のもとに住所を定められていないとしたら、家庭の祝福、そしてその甘やかで心安い慰めのすべてといえども、ヤベツが自分のために願い求めた祝福に届きはしない。しかし、私が語りかけている、この場の人々の中には、親類縁者から切り離された人々がいるだろうか? 私も知る通り、あなたがたの中のある人々は、人生の野営地に幾多の墓を残してきた。そこには、あなたの心の一部も埋葬されており、あなたに残された心の方は、今も同じ数だけの傷口から血を流し続けている。あゝ、よろしい! 主が大いにあなたを祝福してくださるように! やもめよ。あなたの夫はあなたを造った者である[イザ54:5]。みなしごよ。主はこう云っておられる。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」[ヨハ14:18]。おゝ、主があなたの身内のすべてを埋め合わせるお方であることを見いだすとき、あなたは真に大いに祝福されるであろう! ことによると、私は、こうした一時的な祝福を言及することに時間をかけすぎたかもしれない。それで、この聖句を別の光に照らさせてほしい。私は、私たちが人間的な祝福や一時的な祝福を得ているのは、私たちの心が喜びで満たされるためだと信じている。だが、それらは、私たちの心を世俗性で汚したり、私たちの注意を私たちの永遠の至福に属する物事から散らしたりすべきではない。

 では先に進んで、第三に、架空の祝福について語ってみよう。世の中にはそうしたものがある。願わくは神がそれらから私たちを救い出してくださるように。「あなたが、私を大いに祝福してくださいますように!」 パリサイ人を取り上げてみるがいい。彼は主の家に立ち、自分には主からの祝福があると考えていた。それは彼を非常に大胆にし、気取った自己満足とともにこう語った。「神よ。私はほかの人々のよう……ではないことを、感謝します」[ルカ18:11]。彼には祝福があったし、実際、自分が当然それを受けてしかるべきだと思っていた。彼は、週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一を納め、自分の用いたはっかや、クミンについてまで、一文一銭すら残さずささげていた。彼は、自分が何もかも行なっていると思っていた。彼の祝福は、静かで穏やかな良心であり、善良で、安楽な人であるという祝福であった。彼は、地域住民の鏡であった。だれもが彼のような生き方をしていないことは遺憾千万であった。そうであったとしたら、警察などいらなかったであろう。ピラトはその衛兵を解雇し、ヘロデはその兵士たちを解雇することができたであろう。彼は、まさに地上に生を受けたことのある者の中でも、最も卓越した人間のひとりであった。彼は、自分を市民としている町に光彩を添えていた! 左様。だが、彼は実際には祝福されていなかった。これはみな、彼の度を越したうぬぼれでしかなかった。彼は、ただの法螺吹きでしかなく、彼が自分の上に降り注いでいると空想していた祝福は、全く降りてきていなかった。呪われていると彼が考えていた、あわれな取税人は、彼よりも義と認められて家に帰った[ルカ18:14]。祝福は、自分がそれを得ていると考えていた者の上には降り注いでいなかった。おゝ、私たちはみなひとりひとり、この叱責のとげを感じて、こう祈ろうではないか。「大いなる神よ。私たちが、自分では持ってもいない義を自分に帰すことからお守りください。私たちが、自分自身の襤褸にくるまりながら、婚礼の礼服を着ているなどと空想することからお守りください。私を大いに祝福してください。真の義を有させてください。あなたに受け入れられる、真のふさわしさ、すなわち、イエス・キリストを信ずる信仰から出たふさわしさを持たせてください」。

 この架空の祝福の別の形が見られる人々は、自分を義としているなどと思われれば、憤然とするであろう。しかしながら、それと彼らの迷妄は五十歩百歩である。私は彼らがこう歌っているのが聞こえる。――

   「われ信ず、かくわれ信ず、
    イェスのわがため 死に給いしを。
    木の上(え)に血潮 流しまつるは、
    罪よりわれを 解放(と)くためなるを」。

あなたはそれを信じていると云う。よろしい。だが、それがいかにしてわかるだろうか? いかなる権威に立って、あなたはそれほど確信していられるのか? だれがあなたにそう告げたのか? 「おゝ、私はそう信じているのです」。しかり。だが、私たちは自分が何を信じているかに注意を払わなくてはならない。あなたは、自分がイエスの血の恩恵に特別にあずかっているという明確な証拠を有しているだろうか? あなたは、キリストがあなたを罪から解き放ってくださったと信ずべき、霊的な理由を示せるだろうか? 残念ながら、ある人々は何の根拠もない希望を有しているのではないかと思う。それは、錨爪のない錨のようなもので、――何もつかんでおらず、何にもひっかかっていない。彼らは自分は救われていると云い、救われていると断固主張し、それを疑うのは意地悪だと思う。だがしかし、彼らは自分の確信を裏づけるいかなる理由も有していない。ケハテの子らが契約の箱をかつぎ、彼らの手がそれに触るとき、彼らは正しく行なっていた。だが、ウザがそれに触ったとき、彼は死んだ[IIサム6:7]。ある人々には、全き確信を持つ資格がある。だが別の人々がそれについて語ることは死となる。増上慢と完全な確信とは大違いである。完全な確信は筋が通っている。それは堅固な根拠の上に立っている。増上慢は、何もかも当然だとみなし、厚顔にも、自分に何の権利もないものをわがものだと公言する。ぜひ願いたい。自分は救われているのだ、などと増上慢にならないよう用心するがいい。もしあなたが、心からイエスに信頼しているというなら、そのときあなたは救われている。だが、もしあなたが単に、「私はイエスに信頼します」、と口先で云っているだけだとしたら、それはあなたを救わない。もしあなたの心が新しくされているとしたら、もしあなたがかつては愛していた物事を憎んでおり、かつては憎んでいた物事を愛しているなら、またもしあなたが真に悔い改めているなら、もしあなたの内側で心が徹底的に変えられているなら、もしあなたが新しく生まれているなら、そのときあなたには喜ぶべき理由がある。だが、もし何も生きた変化がなく、内側に敬虔さが何もなく、神への愛が何もなく、祈りが全くなく、聖霊のみわざが何もないとしたら、あなたがいくら、「私は救われています」、と云っても、それはあなたの勝手な申し立てであり、あなたを欺きはしても、救うことはないであろう。私たちはこう祈るべきである。「おゝ、あなたが私を大いに祝福してくださいますように。真の信仰と、真の救いと、信仰の本質であるイエスに対する信頼とで祝福してくださいますように。決して、軽々しく信ずるようなうぬぼれを与えられませんように。神よ。私たちを架空の祝福から守りたまえ!」 私は、こういうことを云う人々に出会ったことがある。「私は自分が救われていると信じています。なぜなら、私はそう夢に見たからです」。あるいは、「なぜなら私は自分にぴったりあてはまる聖句を与えられたからです。これこれの善良な人が、その説教の中でこれこれのことを云ったからです」。あるいは、「私は泣き出し、興奮し、それまで一度も感じたことがないようなことを感じたからです」。あゝ! だが、試練に耐え抜けるのはただ1つ、このことだけである。「あなたは、他のあらゆることへの信頼を捨てて、ただイエス・キリストの完成したみわざにだけより頼んでいるだろうか? また、あなたは、キリストにあって神と和解させられるため、キリストのもとに来るだろうか?」 もしあなたがそうしないというなら、あなたの夢も、幻も、空想も、みな夢や幻や空想でしかなく、あなたが最も必要とするときに、何の役にも立たない。主があなたを真に大いに祝福してくださるよう祈るがいい。というのも、あなたのすべての歩みや言葉の中に見られる驚くべき内実には、大きな欠落があるからである。

 あまりにも残念なことに、救われている者――現世においても永遠においても救われている者――でさえ、こうした警告を必要としており、この祈りを祈るべき十分な理由がある。それは、彼らが霊的祝福だと考えているいくつかのことと、真に大いなる祝福である他のこととの区別をつけられるようになるためである。どういう意味か説明させてほしい。あなたが祈ったことに対して、思い通りの答えが得られることは、祝福であると云い切れるだろうか? 私は、どれほど熱心な祈りをするときも、一言必ずこういう制限をつけるのを好むものである。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」[マタ26:39]。私は、単にそうすべきであるというだけでなく、そうすることを好んでいる。さもないと私は、受け取ると危険であろうものを願い求めかねないからである。神はそれを怒って私にお与えになるかもしれず、私はその賜物にほとんど甘やかさを見いだせず、それによって引き起こされた嘆きによって、激しい苦痛を見いだすことになるかもしれない。あなたも覚えている通り、古のイスラエルは肉を求め、神は彼らにうずらをお与えになった。だが、その肉が彼らの口中にあるうちに、神の怒りが彼らに下った[民11:33]。そうしたければ肉を求めるがいい。だが、常にこう云い表わすがいい。「主よ。もしそれが本当の祝福でないとしたら、私にお与えにならないでください」。「私を大いに祝福してくださいますように」。あまり気が進まないが、昔ある善良な婦人の息子が病気になったときの話を繰り返させてほしい。――その小さな子はほとんど死の瀬戸際まで来ていた。――そこで彼女は、その子のいのち乞いをしてくださいと清教徒である教役者に懇願した。彼は実際非常に熱心に祈りはしたが、こう云い添えた。「もしもみこころでしたら、この子をお救いください」。この婦人は云った。「そんなことは、がまんできません。ぜがひでも、この子が生きるように祈って祈ってください。『もし』だの『ただし』だの、口にしないでください」。「婦人よ」、と教役者は云った。「もしかすると、あなたはこの日のことを悔やむことになるかもしれませんぞ。あなたが、神のみこころに反して、あなたの意志を押しつけようとしたこの日のことを」。それから二十年後に、彼女はタイバーンの絞首台の下で気絶して、運び出された。そこでは、悪党となった息子が死刑になったのである。彼女はわが子が成人するのを見るまで生き長らえはしたが、彼女にとっては、その子が死んでいた方が無限によかったであろう。神のみこころに事をゆだねていた方が無限に賢明であったであろう。自信を持ちすぎてはならない。祈りへの答えだとあなたが考えることが、天来の愛の証拠である保証はない。あなたがこう云って、神を求めるべき余地はまだまだ残っている。「あなたが、私を大いに祝福してくださいますように!」 そのように、時として、霊の大きな高揚や、心の爽快感は、たといそれがキリスト教的な喜びであってさえ、必ずしも祝福とは限らない。私たちはそうしたものを喜ぶし、おゝ、時として、この場所で祈祷会を開いているとき、火が燃えさかり、私たちの魂は明々と輝いたことがある。私たちは、そうしたときには、いかにこう歌えるかと感じた。――

   「わが喜べる たましいは
    かく心根(こころね)に とどまりて
    座してみずから 歌いおらん
    永久(とわ)にぞ続く 幸いを」。

それが祝福である限り、私たちはそのために感謝する。だが、私は私の楽しみ喜びだけが神の恵みの主な現われであるとか、それらが神の祝福の主立ったしるしであるかのように、そうした時期を限定したいとは思わない。ことによると、霊において砕かれ、いま主の前にはいつくばらされるほうが、より大きな祝福かもしれない。あなたが最高の喜びを願い、キリストとともに山の上にいることを祈るとき、こうしたことも同じくらい祝福であることを思い出すがいい。しかり。屈辱の谷の中に至らされ、徹底的に打ち倒され、苦悶の中からこう叫ばざるをえなくなるのは、実際に大きな祝福なのである。「主よ。助けてください。私は滅びそうです」*[マタ8:25]、と。

   「もし今日、神の われらを祝し、
    罪赦さるを 感じさすとも、
    明日はわれらを悩まさせ、
    内なる疾病(やまい) 感じさすらむ
    すべてはわれらに
    おのれ憎ませ、主を愛さすがため」。

このように私たちの種々の経験は、私たちにとって大いなる祝福でありえるが、私たちが常に喜んでいるとしたら、私たちはモアブのようになってしまったであろう。葡萄酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともない者となったであろう[エレ48:11]。何の変化も受けない者たちはうまく行かない。彼らは神を恐れない。愛する方々。時として私たちは、常に落ちついていて冷静で、決して思い乱れることのない人々を、うらやましく思ったことがないだろうか? よろしい。確かに一部のキリスト者たちの、むらのない気分には見習われるべき価値がある。そして、神の御霊からやって来る、あの穏やかな平静さ、揺らぐことない確信について云えば、それは非常に喜ばしい境地である。だが私は、だれかの境遇が私たちよりも平穏で、嵐や風にさらされることが少ないからといって、必ずしも常にそれをうらやましく思うべきかどうかはわからない。平安がないのに、「平安だ、平安だ」、と云う危険があり[エレ6:14]、良心の無感覚さから来る平静さもある。世には自分の魂をあざむいている間抜けたちがいる。「われわれは全然不安を覚えない」、と彼らは云うが、それは彼らがほとんど心を探らないからである。彼らが何も心配しないのは、自分をかき乱すような企てや務めをほとんど有していないからである。あるいは、彼らが何の痛みも感じないのは、何のいのちもないからである。びっこを引き、片輪のまま天国へ行く方が、自信たっぷりに行進しながら地獄へ堕ちていくよりもましである。「あなたが、私を大いに祝福してくださいますように!」 わが神よ。あなたが真に「私を大いに祝福してくださる」限り、私はいかなる人の賜物や恵みをもうらやみません。ましてや、その内的な気分や外的な状況をうらやむようなことはしません。私は、あなたが私を慰めてくださらなければ、慰められたくありません。私の平和なるキリスト以外の平和、キリストのいけにえという甘やかな香りから出た安息以外の安息をほしくはありません。キリストがすべてのすべてとならなくてはなりません。キリスト以外のものが私にとって意味のあるものとなってはなりません。おゝ、私たちが常に、祝福の現われ方について判断するのは自分のなすべきことではないと感じられたら、どんなによいことか。自分のほしがるもの――架空の祝福や、うわっつらだけの見せかけの祝福――ではなく、真に大いなる祝福を与えることは神にゆだねなくてはならない。そう常に感じられたら何とよいことか!

 それと等しく、私たちの働きや奉仕についても、私は、私たちの祈りが常にこうであるべきだと思う。「あなたが、私を真に祝福してくださいますように!」 <英欽定訳> 一部の善良の人々の働きを見るのは嘆かわしいことである。それをさばくのは私たちのなすべきことではないが、それは、いかにもっともらしく見えながら、いかに真実味に欠けていることか! まさに考えるだに衝撃的なことに、ある人々は、ほんの二晩か三晩の集会によって1つの教会を建て上げようとしているかに見える。彼らは新聞の片隅にこう報じるであろう。四十三人が罪を確信し、四十六人が義と認められ、時には三十八人が聖化された、と。私は、そこで成し遂げられたものとして、こうした素晴らしい統計値のほかに、何を彼らが示せるのか見当もつかない。私は、会衆が迅速に寄り集まり、突如として大人数が教会に加えられるのを見てきた。では、彼らはどうなっただろうか? 現在そうした教会はどこにあるだろうか? キリスト教界の中でも、最も荒涼たる砂漠は、一部の信仰復興運動家がまきちらした極上のこやしによって肥やされた土地にほかならない。全教会が、何かを求めて性急に努力することでその力を使い果たし、後には何も残らなかったように見受けられる。彼らは、その木造の家を建て、草を積み上げ、天にも届くかに見える尖塔をわらでこしらえた。だが、そこに火花が1つ落ちるや、すべては煙を噴いて消失してしまったのである。そして、次に働きにやって来た人――かの偉大な建築家の後釜――は、何か善を施せるようになる前に、そうした灰燼の掃除をしなくてはならない。神に奉仕するあらゆる者の祈りは、「あなたが、私を真に祝福してくださいますように!」であるべきである。こつこつと働くがいい。こつこつと。もし私が、一生の間、一棟しか組積工事の建物を建てることがないとしても、もしそれが金や、銀や、宝石であるとしたら、それは人が大いになすべきことである。そのような貴重な材料であれば、人目につかない小さな片隅を建てることであっても、価値ある奉仕である。それは、大きな評判をとることはないであろうが、永続するであろう。その点が肝心である。それは永続するのである。「私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください」[詩90:17]。もし私たちが、確かなものとされた教会の中の建築家でないとしたら、そうしようと試みてもほとんど全く役に立たない。神が確かなものとなさるものは立つが、神が確かなものとなさることなく人間が建てるものは無に帰すに決まっている。「あなたが、私を真に祝福してくださいますように!」 日曜学校の教師よ。これをあなたの祈りとするがいい。小冊子配布者よ。地域説教者よ。あなたが何をしている人であろうと、愛する兄弟姉妹よ。あなたの奉仕がいかなる形のものであろうと、主に願うがいい。あなたが、にせの漆喰を使う、あの漆喰建築家のひとりとなることがないように。彼らの使う漆喰は、何度か霜と天候が繰り返されだけで、ぼろぼろに崩れてしまう。たとい大聖堂を建てることはできなくとも、少なくとも神が永遠に積み上げておられる、星々よりも長く続く、素晴らしい宮の一部を建てるようにするがいい。

 この説教を閉じる前に、もう1つだけ述べておくべきことがある。神の恵みの祝福は、真に大いなる祝福であって、それを私たちは正しい熱心さで追い求めるべきである。こうした目印によって私たちはそうした祝福を知ることができる。真に大いなる祝福とは、刺し貫かれた御手から出て来る祝福であり、カルバリの血に染まった木から出て来て、《救い主》の傷ついたわき腹から流れ出している祝福である。――あなたが赦され、受け入れられ、霊的に生かされるという祝福である。そのパンは、まことの食物、その血はまことの飲み物である[ヨハ6:55]。――あなたがキリストと1つとされていること、また、そこから生ずるあらゆること、――これらが真に大いなる祝福である。魂における御霊のみわざの結果やって来る祝福はみな、真に大いなる祝福である。それはあなたをへりくだらせ、あなたを裸にし、あなたを殺すが、真に大いなる祝福である。この砕土機は何度も何度もあなたの魂をならし、あなたの心そのものに深々と鋤が食い込む。あなたは不具にされ傷つけられ、死んだものとして放置される。それでも神の御霊がそれをなさるなら、それは真に大いなる祝福である。もし御霊が罪について、義について、審きについてあなたを確信させてくださるなら、あなたが今までキリストのもとに至らされたことがなかったにしても、それは真に大いなる祝福である。御霊がなさることはみな、受け入れるがいい。疑わしく思ってはならない。御霊がそのほむべき働きをあなたの魂の中でお続けになるよう祈るがいい。あなたを神へと導くものはみな、同じように、真に大いなる祝福である。富はそうできないであろう。あなたと神との間には黄金の壁があるかもしれない。健康はそうしないであろう。あなたの骨々の力や髄は、あなたをあなたの神から引き離しておくかもしれない。しかし、あなたを神に近寄せるものは何であれ、真に大いなる祝福である。あなたを引き起こすものが十字架だとしたらどうだろうか? だが、もしそれがあなたを神へと引き上げるとしたら、それは真に大いなる祝福となろう。永遠に達するもの、来たるべき世への備えをさせるもの、かの川を越えて私たちが持って行けるもの、かの大水の彼方の野で開花することになる聖い喜び、永遠に真理の雰囲気となるべき、きよく曇りない兄弟愛、――こうした類の、太い矢印を上につけたもの――不変の目印を帯びたもの――はみな、真に大いなる祝福である。そして、私をして神の栄光を現わさせる助けとなるものはみな、真に大いなる祝福である。私が病気にかかった場合、私が神を賛美するのを助けるものは真に大いなる祝福である。私が貧しくて、富んでいるよりも貧乏の中の方でより良く神に奉仕できるとしたら、それは真に大いなる祝福である。私が軽蔑されていて、もしそれがキリストのためであって、その日には私が喜び、喜び踊るとしたら、――それは真に大いなる祝福である[マタ5:12]。しかり。私の信仰は偽装を払いのけ、覆面をその麗しい額からひったくり、イエスのゆえに様々な試練に遭うときは、それをこの上もない喜びと思い[ヤコ1:2]、主が約束なさった報いであると思う。「あなたが、私を真に祝福してくださいますように!」

 さて、私は3つの言葉であなたがたを送り出そう。「探るがいい」。その祝福が真に大いなる祝福かどうか見てとるがいい。それらが神から来たもの、神の恵みのしるし、神の救いに至るご目的の保証であることがわかるまで、満足してはならない。「用心するがいい」。――これが次の言葉である。あなたが何を有していようと、それをこの秤で量り、それが真に大いなる祝福かどうか確かめるがいい。そして、あなたを愛に富ませ、あらゆる良いわざとことばとに豊かにするような恵みを、自分に加えるがいい[IIテサ2:17]。そして最後に、「祈るがいい」。この祈りが、あなたのあらゆる祈りと混じり合うように祈るがいい。そして、神が何を授け、何を差し止めようと、あなたが真に大いに祝福されるようにするがいい。あなたには、喜びの時が訪れているだろうか? おゝ、キリストがあなたの喜びを円熟したものとし、あなたが地上的な祝福に酔いしれるあまり、主との親密な歩みからそらされないようにしてくださるように! 悲しみの夜には、苦悩の種がやはりあなたを酔わせ、酩酊させることがないように、主があなたを真に大いに祝福してくださるように祈るがいい。あなたか自分の患難によって、主に苦々しい思いをいだくことがないように。祝福を求めて祈るがいい。それを有するとき、あなたがあらゆる至福の点から見ても豊かになり、それを欠くとき、あなたが、いかに家産に満ち満ちていても、貧しく欠乏した者となるような祝福を祈り求めるがいい。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください」[出33:15]。しかし、「あなたが、私を大いに祝福してくださいますように!」

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ヤベツの祈り[了]

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