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四重の宝

NO. 991

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1871年4月27日、木曜夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、『誇る者は主にあって誇れ。』と書かれているとおりになるためです」。――Iコリ1:30、31


 旧約聖書のある箇所には、「塩は制限なし」という云い回しが記されている[エズ7:22]。いかなる疑いもなく、イエスの御名と、ご人格と、みわざとは、真の福音の伝道活動すべてにとって塩であり、味わいであり、どれほどあっても足りるものではない。悲しいかな! あまたの伝道活動においては、この饗宴の第一の妙味、この魂を満ち足らす教理すべての精髄が、ことのほか欠如している。私たちは、キリストを制限なしに宣べ伝えてかまわない。キリストを誉めそやせば誉めそやすほどよい。十字架につけられたキリストを宣べ伝えすぎて罪を犯すことはありえない。古代の戒律には、「あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない」、とある[レビ2:13]。では今の世の聖所では、こうしたしきたりを立てるがいい。「あなたの説教と話には、いつでもイエス・キリストの御名を混ぜ合わせ、常に救拯の計画のアルファでありオメガであるお方をあがめるよう努めなければならない」、と。使徒は、この書簡の第1章で、コリント人たちに向かって、彼らの分派その他の深刻な過ちについて語りかけようとしていた。だが彼は、そうした不快な主題だけに限定して語ることはできなかった。これ以上ないほど自然なしかたで、彼の心は山なす分派を跳び越えて、自分の主であり《主人》であるお方のところへ向かっていった。群がり立つ分派によって彼は、御民すべてを1つに結び合わせるお方のことを思い出さずにはいられず、人間たちの愚かさによって彼は、神の知恵たる無謬のキリストの間近へ駆り立てられずにはいられなかった。確かにパウロは、コリントにいた、この古代のプリマス・ブレズレンに向かって、多くの峻厳なことを書かなくてはならなかった。だが、それでも彼は、あらゆる苦々しさを防ごうとして、主イエスへの愛、またそのご人格とみわざへの賞賛という甘美な愛の墨に、いかに甘やかに自分の筆を浸していたことか! 愛する方々。もし私たちが説教しなくてはならないとしたら、十字架につけられたキリストを説教しようではないか。また、もし私人であるとしたら、自分の家庭生活や、あらゆる会話において、主の御名が香油のように注ぎ出されるようにしようではないか。あなたの人生を、キリストがあなたのうちで生きているものとするがいい。願わくはあなたが、その足を油の中に浸すと云われたアシェルのように[申33:24]、自分の主の御霊の油注ぎを受け、どこに足を下ろそうと恵みの影響を残していくことができるように。香りのよい南風は、陽光に輝く国を通り抜けてきたなごりを帯びている。願わくは、あなたの人生のごく平凡な曲がり角や流れさえも、あなたがイエスと交わりを有してきた証拠を帯びたものとなるように。

 今晩私たちが前にしている聖句は、ことのほか包括的なものであって、ここに含まれている意味は、今の時に精神が把握できるもの、舌が語れるものを無限に越えたことである。これを注意深く考察するにあたって、まず注目したいのは、私たちがキリスト・イエスのうちにあるという事実を、使徒がここで、主にのみ帰している、ということである。彼は主張しているのである。私たちがキリスト者として存在しているのは、キリストにある神の愛と恵みに関係しているのだ、と。「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」。それで私たちは、第一のこととして、私たちの霊的存在について語るであろう。次いでパウロは、私たちの霊的な富について書き進める。これを彼は4つの項目に要約している。知恵、義、聖め、贖いである。だが、実は、1つの項目のもとに要約していると云ってよい。彼は、神によってキリストが、私たちにとって、これら4つのことすべてになられたと宣言しているからである。また、その後、この章の結びに、私たちの誇りがどこに向かうべきかを告げているからである。――それは、私たちの霊的存在と天的な富の源泉へと向かうべきである。「誇る者は主にあって誇れ」。

 I. では、神が私たちを手がけられたところから始めよう。――《私たちの霊的存在》である。

 「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」。翻訳者によってこの箇所は様々に訳されている。「神の」 <英欽定訳> という言葉を、翻訳者たちは適切にも、「神によって」とすべきだと考えている。すなわち、「私たちは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」*。あなたは今日、キリストに結び合わされているだろうか?――あなたは、キリストを土台とし、かつ冠石とする建物の中の1つの石だろうか?――キリストをかしらとする、かの神秘的なからだの一肢体だろうか? ならば、あなたは自分の力でそこに達したのではない。その壁のいかなる石も、その場所へ自分から飛び込んだのではない。あなたは、父なる神によって、キリストと結び合わされたのである。神ご自身の目的、無限のエホバの目的によって、この恵みへと定められたのである。この方こそ、大地の始まりから[箴8:23]あなたを選んでおられた。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選(んだ)……のです」[ヨハ15:16]。あなたをキリストに結び合わせた第一原因は、神のご目的にある。神は、世界の基の置かれる前から[エペ1:4]、キリスト・イエスのうちにあってあなたに恵みを与えてくださった。また、神のご目的と同じように、神の御力もまた、あなたとキリストと結び合わせたものとされるべきである。神は、あなたをキリストの中に導き入れてくださった。あなたは赤の他人だったのに、神はあなたを引き寄せてくださった。あなたは敵だったのに、神はあなたを和解させてくださった。あなたは、まず最初に神の御霊があなたに現われ、あなたの必要をあなたに示し、あなたの必要としていたあわれみを求めてあなたに叫ばせるよう導かれなかったとしたら、決してあわれみを求めてキリストのもとに来るようなことがなかったはずである。神の聖定ばかりでなく、神のお働きを通しても、今日、あなたはキリスト・イエスのうちにあるのである。私の兄弟たち。この当たり前すぎるほど当たり前の真理について考えることは、あなたの魂に善を施すであろう。あなたが回心した時からは、多くの歳月が経っているかもしれない。だが、自分が新しく生まれた日がいかにほむべき日であったかを忘れてはならない。あなたを闇の中から驚くべき光の中に[Iペテ2:9]至らせた、あの強大な力に栄光を帰すのをやめてはならない。あなたは、自分で自分を回心させたのではない。そうだったとしたら、あなたは今なお回心させられる必要があるであろう。あなたの新生は、人の意欲によってではなく、血や生まれによってでもない[ヨハ1:13]。そのようなものだったとしたら、あなたに云うが、そんなものは早めに投げ捨てるに越したことはない。真の新生は、神のみこころから出て、聖霊のお働きによってなされたものでしかない。「神の恵みによって、私は今の私になりました」[Iコリ15:10]。神は、「私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」[Iペテ1:3]。「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です」[IIコリ5:5]。「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」。神のお働きと、みこころと、ご目的によって、あなたは今日、キリストのからだの器官であり、イエスと1つになっているのである。ならば、すべての栄光を主にのみささげるがいい。

 しかし、この聖句を[英欽定訳に従って]その通りに読み、ここでは、私たちの霊的いのちの源泉が暗示されているのではなく、そのいのちの栄誉が暗示されていたとしてみよう。「あなたがたは、キリスト・イエスのうちにあって、神のものです」 <英欽定訳>、と。キリストのうちにあって、あなたがたは神のものなのである。俗悪な今の地上のものでも、サタンのものでも、律法の束縛のものでも、悪の諸勢力のものでもなく、神のものなのである。神の農作物、神の民、神の子ら、神の愛される者たちなのである。子どもたちよ。「あなたがたは神の者であり、全世界は悪い者の支配下にある」*[Iヨハ5:19]。あなたの上には神の光が輝いており、あなたのもとには神のいのちが来ており、あなたのうちには神の愛が現わされており、あなたにおいて神の栄光はやがて完全に明らかにされるであろう。「神のものである」とは、何という栄誉であろう! ある人々は、「この人たちは、王家に連なる方々です」、と云われるのを大したことだと考える。また、他の人々は、自分たちが皇帝の宮廷の一員であると指さされるとき、いやまして鼻高々としている。だが、あなたは神の家族の者であり、ただひとり死のない方[Iテモ6:16]の子孫なのである。「彼らは、わたしのものとなる。――主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる」*[マラ3:17]。「主の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である」[申32:9]。あなたがたは、神のものである。キリスト・イエスのうちにいる、あなたがたひとりひとりがそうである。あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものである[Iコリ3:23]。《創造主》が、《保持者》が、《崇高者》が、《不可視者》が、《無限者》が、《永遠者》が、あなたをご自分のものと主張しておられる。あなたは神に関係しており、神にあずかっている。そして、このことにより最高に高く掲げ上げられている。なぜなら、あなたはキリストのうちにいるからである。

 さて、ここで、あなたにはキリスト者生活の栄誉が示されている。――それは、神に発したものであるというだけでなく、神のものなのである。

 しかし、キリスト者生活の真髄に注目するがいい。「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」。あなたは、キリスト・イエスのうちにいない限り、主の前で何のいのちも有していない。キリストを離れたら、あなたは葡萄の木から切り離された枝のようなものである。――死んでいて、枯れており、役に立たず、見苦しく、腐っている。人々はそうした枝を寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまう[ヨハ15:6]。戦場は、身の毛もよだつような光景の場所に違いない。そこには、どこを見ても、腕や、足や、肢体の各部分が、元々ついていた体からちぎれ飛び、ぞっとするような滅茶苦茶さでばらまかれているのである! 一度はこの上もなく役に立っていた、こうした肢体は、今や切断されて、無用のものとなっている。だれでも、それらが死んでいることはわかる。というのも、生命維持に不可欠な部位から切り離されたそれらは、生きていられないからである。それと全く同じく、もしあなたや私が、私たちのいのちに満ちたかしら、キリストから分断されることがありえるとしたら、死が――霊的な死が――避けられない結果であるに違いない。私たちのいのちは、私たちの主との結合に依存している。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」[ヨハ14:19]。キリストから離れている私たちは死のうちにとどまるが、キリストのうちにあるとき私たちは生きて、神のものである。私たちが霊的なものとしてあること、また、私たちが霊的に高められたものとしてあるという事実は、どちらともこのこと――私たちがキリストのうちにあるということ――にかかっている。愛するキリスト者たち。私は、あなたがキリストのうちにあって、神のものであるとわかっていることについて、お祝いを申し述べることができる。だが、私は、この会衆全体に向かって広くそう云うことはできない。むしろ、1つの深刻な問いかけを発し、私の話を聞いている方々ひとりひとりに尋ねなくてはならない。あなたがたはみな、キリスト・イエスのうちにあるだろうか? 使徒はあなたに向かってこう書けただろうか? 云えただろうか? 「あなたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」、と。あなたは、「キリスト・イエスのうちに」あなたを入れるという、神のみわざを受けたことがあるだろうか? あなたは今、神によってキリスト・イエスのうちにあるだろうか? あなたが何もかもキリスト・イエスに依存し、彼のうちにおり、彼もあなたのうちにおられるほどにそうだろうか? 自分のうちに彼のいのちがあり、自分のいのちがキリストとともに神のうちに隠されてある[コロ3:3]と感ずるほどに、そうだろうか? 話をお聞きの愛する方々。この世に、キリストと結び合わされていることほどの喜びはない。私たちはそれを感じれば感じるほど、幸いになる。私たちの環境がどうあれ関係ない。しかし、もしあなたがキリストから離れているとしたら、あなたには何の望みもない。キリストが来られないところに喜びは来ない。《救い主》がいなければ、生においても死においても、平安は全くない。おゝ、話をお聞きの愛する方々。覚えておくがいい。あなたは間もなく死ぬであろう。その最後の瞬間にあなたは、どこに、どこに、慰めを見いだそうというのだろうか? あなたの魂は、もうじき未知の航路を通って飛んで行き、燃える審きの御座に直面しなくてはならない。そのときあなたは何をしようというのか? そこには、あなたを導く愛の御手も、あなたを覆うキリストの義もないのである。だがキリストの比類なき衣をまとう人は、こう云えるであろう。――

   「われ大胆(なお)く立たん かの大いなる日に
    そは誰(た)ぞ われを 責めうべき?
    汝が血潮にて われ解放(とか)れるに
    罪の膨大(すさま)じ 呪い、恥より」。

 しかし、《救い主》を全く有していない人は、生まれなかった方がよかったのである[マコ14:21]。その人が最初に光を見た日は呪われており、何の祝福も受けていない[エレ20:14]。ノアの箱舟は閉ざされたが、洪水が来る直前までは開かれていた。キリストは契約の箱舟であり、その扉はまだ閉ざされてはいない。しかしながら、だからといって来るのを遅らせてはならない。というのも、水嵩が増して洪水となり、雨が降ってくるとき、その扉を叩く者たちにはこう云われるからである。「もはや遅い! もはや遅い! あなたがたは、もう入ることはできない」、と。

 愛する信仰者たち。あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのである。あなたがたはみな、キリスト者としてあること自体、「私たちの主イエス・キリストの父なる神」に帰さなくてはならない。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」[Iペテ1:3]。

 II. さて、私たちの主題の第二の部分に目を転じ、《私たちの霊的な富》について考察しよう。キリスト・イエスは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられた。ここには4つの事がらがある。――ただし、一言云っておくと、原語のギリシヤ語では、第二のことと第三のことの間に独特の連結的なつなぎの言葉があるが、それ以外のものにはない。知恵は独立しており、贖いもそうであるが、義と聖めは特別につながっている。あたかも、それらが常に相伴っており、常に結びついたものとして考えられるべきであると教えているかのようである。――これは現代神学に対する1つの警告である。それは、あまりにもしばしば、神が結び合わせたもの[マタ19:6]を分割している。

 まず最初に、第一の祝福を取り上げ、今このとき、この祝福にあずかる者となれるよう願うことにしよう。イエス・キリストは、私たちにとって、神の知恵となられた。あなたも気づくように、この章を読むと、使徒はここまで何か別の知恵について語ってきており、相当それを手荒に扱っていた。それは、キリストの十字架に対抗して自らを押し立てる知恵であって、使徒は決してそれをお手柔らかに扱ってはいない。この世の中には常に、自分自身の思索を行使し、文化の助けを得るなら、結果的に知恵が自分たちのもとにやって来ると考える人々がいたし、今もいる。すなわち、彼らは天来の真理を、自分自身の思想や、他の人々の思想から生ずる補助的な光によって知ろうと期待したのである。彼らの思い描くところ、知恵は人間精神から生ずるのであり、上から教えられる必要などないのであろう。パウロの時代、ある者らは、沈思黙考し、自分ひとりで黙想し、それから他者と議論し、対話し、会話することを常に行なっていた。こうした人々は、その時代の哲学者たちであった。彼らは人間を通して知恵を探しており、あわれなアダムの子の浅薄な頭脳の中でそれを見いだせるものと思っていた。彼らは、自分自身を賢いと信ずるあまり、謙遜なふりをして自らを「ソフォイ」すなわち賢者とは呼ばず、「フィロソフォイ」すなわち知恵を愛する者と自称してはいたが、それにもかかわらず、内心では、自分たちのことを、教えを受けた者たちの最先端にいると考え、人類の残りの者らを啓発されていない、無知な者らとみなしていた。彼らは、1つの宝を見いだし、それを自分たちだけのものとしていて、実質上、同胞たちには、こう云っていた。「お前たちは、ほとんど例外なく、絶望的に無知な者たちなのだ」、と。さて使徒は、自分自身の頭脳を指さす代わりに、あるいはソクラテスやソロンの彫像を指さす代わりに、キリストが、私たちにとって、神の知恵となられた、と云う。私たちは、もはや人間の精神から湧き出した思想に知恵を探しはせず、キリストご自身のもとへ行く。人間のものたる文化によって知恵が私たちのもとにやって来るなどとは期待せず、私たちの《主人》の足下に座り、彼を神ご自身からの知恵と受け入れることによって、賢い者とされるのを期待する。さて、使徒の時代とほとんど同じことが、現在でも起こっている。世の中のある人々によると、福音は――単純素朴な福音は――ジョン・バニヤンやホイットフィールドやウェスレーや他の者らによって宣べ伝えられたような福音は――、多くの人々にとっては、また彼らが生きていた暗愚な時代にとっては良いものであった。――人類の膨大な部分は、それによって助けられ、より良い者とされるであろう。だが、この極度に聡明な世紀の学者先生たちによると、より進歩的な神学が――今時かくもあまねく嘲られている《福音主義》よりもずっと進歩したものが――求められているのである。知性の人々、深遠な思想の紳士たちが、私たちの父祖たちには知られていなかった諸教理を私たちに教えている。私たちは、天来の真理に関する自分の知識を改善し続けるべきであり、ついにはペテロやパウロや、他の古の教義家たちをはるか後方に引き離すべきなのだ。私たちがどれほど賢くなれるか、だれが知ろう、と。兄弟たち。私たちの思いはこうしたことを蛇蝎のように嫌う。私たちは、進歩や深遠な思想についての、こうした勿体ぶった物云いを憎むものである。私たちは、あの古の説教者たちが知っていたのと同じくらいキリストについて知ることができさえすれば、それで十分だと思う。私たちが恐れるのは、人間の考えによっていやまさる光に到達する代わりに、古代や現代の律法学者たちの思弁や黙想が、また、知識人や折衷主義者の発見が、暗闇を悪化させ、世界にあった光の何がしかを消してしまったのではないか、ということである。またもや、このことばが成就したのである。「それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか」[Iコリ1:19-20]。私には、キリストがお語りになったことを信ずる方が、自分の最も深遠な思索が発見したものを信ずるよりも、ずっと大きな知恵と思われる。そして、私がある主題について長い間考え、それを徹底的に熟考し、他のだれよりもその件について精通していると考えたとしても、それでもキリストのただ1つのことばの方が、私の思索や沈思黙考のすべてを合わせたよりも大きな知恵を有しているのである。私は決して自分自身に知恵を求めようとは思わないし、自分が真理の創造者であるとか、真理の啓示者であると思い描きはしない。むしろ、常に彼のもとに――私の主、私の教師、私のすべてのもとに――行くであろう。そして、最も洗練された文化、最高の教育の成果は、主の足下に座ることによって見いだされ、最も深遠な瞑想の結果もまた、あの良い《羊飼い》が私を導いて行かれる、いこいの水のほとりの、緑の牧場[詩23:1-2]に伏すことによって得られると信ずるであろう。兄弟たち。キリストが、私たちにとって、神の知恵となられたと読むとき、私たちは知恵がいかなるものであるかを思い出そう。私が思うに、知恵とは、知識を正しく用いることである。知ることと賢いこととは違う。多くの人々は非常に物知りだが、自分の知っていることによって、その分ずっと愚か者になっている。この世の中の愚か者という愚か者の中でも、物知りの愚か者ほどはなはだしい愚か者はいない。しかし、知識をいかに正しく用いるかを知ることこそ、知恵を有するということである。さて、キリストを自分の知恵としている人は、3つの点において賢い。キリストの教えは、その人を思索において賢くし、心において賢くするであろう。あなたが神について、罪について、生について、死について、永遠について、予定について、人間の責任について知りたいと思うことすべてを、キリストは個人的にか、神のことばにおけるその御霊によって、あなたに教えてくださっている。あなたが自分で見つけ出すいかなることも、啓示を離れ、啓示を越えたいかなることも、愚であるが、キリストが教えておられることはことごとく知恵である。そして、主が教えておられるその知恵は、もしあなたが主のみこころにかなった教えられやすい精神で学ぶなら、あなたにとって無味乾燥な、死んだ教理にはならず、霊となりいのちとなるであろう。そして主の教えによってあなたは、知識だけでなく知恵を授けられるであろう。私たちは常に、十字架の根元にひれ伏す学者となろうではないか。決して Schola crucis[十字架の学舎]以外のいかなる学校にも行かないようにしようではないか。というのも、十字架に学ぶ者たちは、知恵のお気に入りだからである。コーパスクリスティ[Corpus Christi。ケンブリッジまたはオックスフォードにある一学寮で、キリストのからだという意味]をこそ、私たちが勉学に励む学寮としようではないか。イエスを知り、その復活の力を知ること[ピリ3:10]、これこそ知恵である。

 しかし、私たちの主の訓育によって益を得ることに加えて、キリスト者は自分の《主人》の模範を通して知恵を学ぶ。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか」[詩119:9]。いかにして私は行動において賢くなることができるだろうか? 世故は云う。「この方便を採用し、あの方便を採用するがいい」。そして、この時代のおびただしい数の人々は、今の時の世故に導かれている。だが、世故は見せかけの知恵であって、愚のきわみである。覚えておくがいい。いつでも、いかなる状況にあっても、イエスがそうした状況にあった場合、イエスが行動しただろうように行動することこそ、最も賢いことである。主は決して日和見をしなかった。流行でも個人的利益でもなく、原則が主を導いていた。あなたは、キリストにならっているとしたら、決して愚か者になることはない。あなたを愚か者というのは愚か者たちだけである。だが、だれが愚か者から賢いと尊重されたがるだろうか? しかし、時としてこう云われることがある。「キリストが行われただろうように行なうとしたら、今の私に困難や損失がふりかかることになる」、と。それは事実である。だが、現世でキリストのために何かを失った者は、だれひとり失敗者としてとどまりはしない。というのも、その人は現世ではその十倍を受け、後の世では永遠のいのちを受けるからである[マコ10:30参照]。最も賢い行動は、必ずしも最も金銭的に収益が上がるわけではない。時には貧しくなること、左様、自分のいのちを失うことの方が賢明なことがある。この上もない知恵――にせものの知恵でも、現世的な知恵でもないもの――は、あなたがキリストの模範にならうことによって現わされる。それがあなたを牢獄か死へ導くとしても関係ない。キリストの教えと、キリストの模範は、双方合わせて、上からの知恵[ヤコ3:17]をあなたに伝えるであろう。

 何にもまして、あなたが《贖い主》の臨在を有しているなら、主は、私たちにとって、非常に尋常ならざる意味において神の知恵となられるであろう。イエスが今なおご自身の民とともにおられることは、決して忘れても、疑ってもならない。《いと高き方》の幕屋の最も秘められた場所にいかに入るかを知っている者たちは、今もイエスが贖罪蓋のところにおられるのを見いだす。主はゆりの花の間で群れを飼っておられ[雅2:16; 6:3]、ゆりの花を知っている者たちは、どこで主を見いだせるかを知っている。そして、主とともに生き、主の霊をとらえている者たちは、主の着物が没薬、アロエ、肉桂の香りを放っているように[詩45:8]、その着物から良い香りを立ちのぼらせるであろう。こうした人々は、ある者らからは狂っていると思われ、別の者らは彼らを狂信的な熱狂主義者呼ばわりするであろう。だが、こうした人々こそ、人類の中で最も賢い者らである。おゝ、幸いなことよ。地上にいる間から天国の門口の近くで生き、この世での巡礼の間ずっと骨折り仕事をしている間も、キリスト・イエスにおいて、天の所で[エペ2:6]、愛する方の足下に座している人々は! これこそ賢くなるということである。キリストの教えと、キリストの模範と、何にもましてキリストのご臨在を自分のものとすることである。願わくはそのようにして、いかに貧しい者も、主イエスが自分にとって神の知恵となっておられることを見いだせるように。

 ここでいったん立ち止まるがいい。私たちの中のいかなる人も、愚かな考え方をしないようにしよう。イエスとその福音を受け入れたならば、自分は、現在の世の非常に賢い人々とともにいるとき、恥じ入るべき理由があるなどと考えないようにしよう。あなたの主を侮辱する鉄面皮の哲学と対決するときには、大胆な面構えをしているがいい。聖書を信じない人よりも、あなたの方がずっとよく物を知っているのである。恥じ入ってはならない。にせの知恵によって不信者があなたを笑い飛ばしたり、説き伏せようとしたりするとしても関係ない。キリストを知っていない者は、人類の創世や世界の形成について素晴らしい理論を開陳するとしても、また、立て板に水の弁舌の持ち主であったとしても、単に教育を受けた愚か者、学問のある白痴にすぎず、自分の灯心草ろうそくの方が神ご自身の太陽よりも明るいと考えているのである。「あゝ! でも彼は大学を出ているし、学位を持っているし、人々に尊敬されているのです。彼は、だれにも理解できないような書物を何冊も書いているのですから」。だが、「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている」[詩14:1; 53:1]。そして私は、彼がギリシヤの賢人ソロン並みの人物であったとしても、一向に意に介さない。もし彼が神はいないと云っているとしたら、彼は愚か者なのである。ならば、恥じ入ってはならない。もしあなたが彼とともにいることになっても、そこに愚か者がいるからといって、あなたが恥じ入る側になってはならない。うぬぼれは避けるべきであり、忌み嫌われるべきものである。だが、これはうぬぼれではなく、人が勇敢にならなくてはならない場合に奮い起こすべき聖なる勇気である。キリストを知ることこそ、あらゆる哲学の中で最善のものであり、あらゆる科学の中で最高のものである。御使いたちも、このことを知りたいと切望している[Iペテ1:12]。だが私は、御使いたちが、人々の間でかくも尊ばれている諸科学などを少しでも重んじているかどうかわからない。もしあなたがキリストを知っているとしたら、あなたは、いかなる人々とともにいようと、決して恥ずかしく思ったり、当惑したりするのを恐れる必要はない。たといあなたが皇帝たちの元老院に立つか、哲学者たちの議会の真ん中に立つかするとしたとしても、あなたが彼らに向かって、人間の肉体をまとって神がやって来られたこと、人類を愛して、彼らを贖うために生き、そして死んだことだけ告げたとしたら、あなたは彼らに、理性で発見できることを越えた、大いなる神秘と深遠な秘密を告げたのである。ならば、この誇り高ぶった時代の知的高慢のさ中にあっても、恥ずかしく思ってはならない。

 それと同時に、もう1つの悪をあなたに思い起こさせてほしい。あなたの知恵を、何か他のよりどころで完成させようとしてはならない。自分はキリストの近くにとどまっていることによって、最高にして最も真実な知恵を有しているということで満足しているがいい。私は、あなたが衒学者の前で脅えることを願っていないのと同じく、彼を羨望することも、キリスト・イエスにある知恵を、人間から出た知恵で補おうとすることも願ってはいない。あなたがたはどこまで道理がわからないのか。イエスで始まったあなたがたが、ドイツの新解釈主義者によって、あるいはフランスの機知によって、あるいはピュージー主義の夢想家によってしめくくるというのか。キリストのことばをあなたの導き手として受け入れながら、行って、どこかの聖職会議の教令をつけ加えたり、どこかの教会の典例法規や、どこかの協議会の覚書や、他の、人間頭脳と堕落した空想力からひねり出されたものをつけ加えるというのだろうか? そのようなことは決してあってはならない! この黄金の武具だけを身にまとい、出て行って陽光のもとできらめきを発するがいい。そうすれば、御使いたちでさえ、あなたの輝きを見て驚嘆するであろう。「イエス・キリストは、あなたがたにとって、神の知恵となりました」*。

 さて、そろそろ先へ進んで、次の祝福を眺めてみるべきであろう。キリストは、私たちにとって、神のとなられた。これは私たちの大きな欠けであった。というのも、生まれながらに私たちは不義であり、今のこの時に至るまで、同じ状態にあるからである。神に受け入れられるためには、私たちは義とならなくてはならない。だが、自分の力では、また功績によっては、確かに義とはなれない。私たちの義はみな、不潔な着物のようで[イザ64:6]、私たちはかの偉大な《王》の前に立つことができない。だが、こう云ってくださるお方がひとりおられる。「彼のよごれた服を脱がせよ」[ゼカ3:4]、と。そして、この同じ《解放者》、すなわち、主イエス・キリストが、私たちにとって神の義となられたのである。あなたも知るように、私たちは普通このことを二重のみわざとして語る。主の血は、すべての咎から私たちをきよめる[Iヨハ1:7]。それによって、赦免が信仰者には授けられる。キリストを見上げる者は、すべての罪を赦される。――完璧にそうされる。それから、そのきよめ――私たちが赦免と呼ぶもの――に加えて、キリストの義を着せられること、まとわされることがある。――つまり、信仰による義認がある。転嫁される義の教理は、私には神のことばにおいて堅く確立されていると思われる。それでも私は時々、「転嫁される」という言葉に少し強調が置かれすぎていて、「義」という言葉があまりよく強調されていないのを聞くような気がする。確かに私は、義が私たちに転嫁されていると知ってはいるものの、それでも私の信ずるところ、私たちが転嫁によって義である、というだけでは、真理が云い尽くされていないからである。そのことは真実である。この上もなく真実である。だが、それを越えて真実なことがある。キリストの義は私に転嫁されているだけでなく、現実に私のものなのである。というのも、キリストが私のものだからである。イエスを信ずる者は、イエス・キリストを自分自身のキリストとして有している。私たちは単に転嫁されて義となっているだけでなく、私たちの代理者の義が法的に、現実に、真に私たちの義となっている。私はいま性質について語っているのではない。――それは、聖化と関係したことである。――私が語っているのは、神の前における評価である。神は私たちをキリストのうちにあって義と判断しておられ、神は誤った判断を下されない。転嫁は法的な絵空事でも、愛による間違いでもない。私たちは義なのである。嘘ではない。神の転嫁は、人間的な転嫁のようなものではない。人間的な転嫁は、あるものを実際とは違ったものにする。だが私たちは、キリストのうちにあって現実に義とされている。なぜなら、私たちはキリストと1つになっているからである。あなたは、キリストのからだには不義の器官が1つでもあると考えているのだろうか? 決してそのようなことはありえない! あなたはキリストの神秘的なからだが、聖ならざる石を含んで築き上げられると考えているのだろうか? キリストは、死をもたらす実を結ぶような枝をつけた葡萄の木なのだろうか? この件で私たちは、キリストがそうあられる通りの者としてあるのである。キリストの塩は、粉のかたまり全体に味をつけている。この神秘的なからだにおいては、あらゆる器官が神の前で義とされている。なぜなら、生けるかしらに結びついているからである。ここでは、現実の義が、私たちの主イエス・キリストの義によって、私たちに与えられているのである。主は、私たちにとって、神の義となられた。このことを考えるがいい。おゝ、信仰者よ。――あなたは今晩、神の前で義なのである。あなたは自分自身としては罪に定められて当然の罪人ではあるが、神はあなたを罪に定めておられないし、今後も決して罪に定められることはない。というのも、神の正義の御目の前で、あなたは完璧な義をまとっているからである。あなたの罪は、あなたの上にのしかかってはいない。それは、古のアザゼルのためのやぎ[レビ16:8]の頭の上に置かれている。あなたのすべての不義は、《十字架につけられた救い主》の頭に下るようにされた。この方があなたのそむきの罪を、ご自分のからだにおいて、十字架の上で背負ってくださった。あなたの罪は今どこにあるだろうか? あなたはこの問いを恐れなく発することができる。というのも、それらは消滅しているからである。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」[詩103:12]。「神は私たちのすべての罪を海の深みに投げ入れてくださった」*[ミカ7:19]。神の御名に栄光あれ。信仰者を責めるものとして存在する罪は1つもない。こう書かれてはいないだろうか? 「彼は、そむきをやめさせ、罪を終わらせ[これよりも強い表現がありえようか?]、永遠の義をもたらした」*[ダニ9:24]。そして、キリスト者よ。このことは今晩あなたについて真実なのである。あなたが天国にいるときにそうであるのと同じくらい、今晩も真実なのである。あなたは今晩、あなたがかの栄光の国にいるであろうときほど聖められてはいないが、かの国に行ったときになりうるのと同じくらい義となってはいるのである。神の御前において、あなたは、かの火の混じった硝子の海のほとりに立つであろうとき[黙15:2]と同じくらい、「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:6 <英欽定訳>]た者となっている。あなたは神の愛する者、また神にとって愛しい、義とされた者であって、今晩でさえあなたはこう云えるのである。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか」[ロマ8:32-33]。あなたは、あなたの《救い主》を目にし、そのありのままの姿を見たがゆえに彼に似た者となる[Iヨハ3:2]ときでさえ、これよりも大きく勝ち誇った声を上げることはできない。信仰によってこの義は、今この瞬間にあなたのものとなっており、これからも全く何の変化もなしにあなたのものであり続ける。あなたの霊が打ちひしがれたときも、あなたの喜びがあふれているときと同じようにあなたのものである。あなたが受け入れられているのは、あなた自身のうちに何かがあるためではなく、あなたがあなたの義なる主のうちに立っているからである。

 少し前に私は、本日の聖句にある次の祝福が、この祝福と密接につながっていると指摘した。その事実について多くを語る必要はないが、ただこのことに注意するがいい。義と聖めは常に相伴わなくてはならず、これらは2つの異なるものではあっても――さもなければ2つの異なる言葉ではなかったであろう――、それでもこれらは、この上もなく尋常ならざるしかたで互いに混じり合っているのである。それゆえにこそ、ギリシヤ語ではこの二語が1つの密接な言葉で結び合わされているのである。私たちの聖めはことごとくキリストのうちにある。すなわち、私たちはキリストのうちにあるからこそ、聖めの根拠を有している。聖めとは、取り分けられることに存している。古の律法のもとにあって、ある物が聖められるとは、それが神への奉仕のために聖別されることであった。私たちがキリスト・イエスにあって聖められたとは、私たちが天来の御霊によって主ご自身の特別の民として永遠に取り分けられたということである。選びは聖めの基盤である。さらに、私たちを聖める力が私たちのもとにやって来るのは、全く、私たちがキリストと結び合わされているがためである。真理によって私たちを聖めてくださる聖霊は、私たちがイエスに結び合わされているがために、私たちのうちにおいてお働きになるのである。私たちのうちにおいて聖くなるのは、新しいいのちである。古い性質は決して聖なるものと変わることはない。肉の心が神と和解させられることはなく、実際、それを和解させることはできない。古い人は病院に送られて癒されるのではなく、十字架に送られて磔殺される。それは変質されて、改善されるのではなく、死んで埋葬される運命にある。キリスト者生活の発端に置かれているバプテスマという儀式は、このことを示すためのものである。すなわち、液状の墓所に浸されることによって、私たちが、死と埋葬を通してこそ、復活の力によっていのちに移されていることを示すのである。もしだれかがキリストのうちにあるなら、その人は古い創造物が修繕されたのではない。新しく造られた者なのである。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」[IIコリ5:17]。さて、この新しいいのちが大いなる、真の聖めの素材であればこそ、また、それが私たちのもとに来たのが私たちとキリストとの一体性のためであればこそ、イエス・キリストは、私たちにとって、私たちを聖める力となりいのちとなっておられるのである。また、愛する方々。あなたの心をして、もう1つの意味をつけ加えさせるがいい。イエスを常に、あなたの聖化の動機とするがいい。一部の信仰告白者たちが、赦免と義認のためだけにしかキリストを仰ぎ見ず、聖められたいと願うときには、モーセのもとに走り去って行くというのは奇妙ではないだろうか? 例えば、あなたは人がこうした教理を説くのを聞くであろう。「キリスト者は聖くなるべきである。なぜなら、聖くなければ、恵みから落ち、滅びてしまうからである」。こうしたすべてのうちには、古の律法的な鞭の鋭い音が聞こえないだろうか? これは、私たちの先祖がだれひとり負いきれなかった契約のくびき[使15:10]でなくて何であろう? これは、神の子らの自由ではなく、エジプトの隷属である。キリストはそうは語っておられないし、その福音もそうは語っていない。そうした類の動機によって自分を聖くしようと考えてはならない。これらは神の子どもにとって正しい動機ではない。ならば、いかにして私たちは、神の子どもを聖潔に促すべきだろうか? それは、このようにすることによってではないだろうか? 「あなたは神の子どもである。あなたの御父であられる方にふさわしい歩みをするがいい」、と。あなたに対する神の愛は決してやむことがない。神は決してあなたを打ち捨てることがありえない。神は真実であり、決して変わることがない。それゆえ、その返礼に神を愛するがいい。これこそ、自由の女の子[ガラ4:31]にふさわしい動機であり、これこそ、その心を動かすものである。女奴隷の子[ガラ4:23]は鞭で追い使われるが、自由の女の子は愛の綱で引かれる。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」[IIコリ5:]。地獄への恐れではなく、キリストの愛である。神が私たちを打ち捨てはしないかという恐れではない。――神にそのようなことはできないからである。むしろ、私たちが、主にあって、永遠の救いをもって救われているという喜びである。それが私たちをしめつけ、全心全霊をもって永遠に主にしがみつかせるのである。確信しておくがいい。もし福音から引き出された動機が罪を殺さないとしたら、律法から引き出された動機が罪を殺すことは決してない。もしあなたがカルバリできよめられることができないとしたら、確かにシナイできよめられることはありえない。もし「裂かれし脇より 流(なが)る水と血」があなたを清くするのに十分でないとしたら、雄牛あるいはやぎの血[ヘブ10:4]――つまり、ユダヤ教律法からの議論や、あなた自身の努力によって救われようとする望み――は決して罪を打ち捨てるのに十分なだけ強い動機を与えはしない。あなたが聖くなろうという理由は、キリストのうちに見いだされるようにするがいい。というのもキリストは、あなたにとって、神の聖めとなられたからである! これは私が常に気づいてきたことであり、はっきり証言できることだが、私は、現在のためにも未来のためにも、私の主に全く頼るようになればなるほど、自分自身のむなしさ、無価値さを身にしみて感じるようになり、私の救い全体をキリスト・イエスにある神の恵みに完全に基づかせれば基づかせるほど、自分の日常生活の歩みに細心の注意を払うようになる。私がいつも経験することだが、自分の義を誇る思いはたちまち罪深い行動に至らせる。だが、それとは逆に、まさに救いの確信に導き、キリストにある神の真実さに心を安らがせるような信仰は、魂を清める。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」[Iヨハ3:3]。《救い主》イエスは、私たちを私たちの罪から救い、私たちにとって、神の「聖め」となられた。

 さて、この聖句に記載された私たちの莫大な富の最後の項目は、「贖い」である。ある人は云う。「これは最初に来るべきである。なぜなら、贖いは私たちが享受する最初の祝福に違いないからである」、と。左様。だが、それは最後のものでもある。それがアルファの祝福であることは認めよう。――だが、それはオメガの祝福でもあるのである。あなたは、まだ完全には贖われていない。あなたは代価をもって[Iコリ7:23]贖われた。――というのも、十字架の上であなたを贖われたお方は、あなたの身代金を一銭たりとも払い残さなかったからである。だが、あなたはまだ力をもって贖われてはいない。ある程度まで、あなたは天来の力によって自由にされている。あなたは、あなたの罪というエジプトから連れ出されており、あなたの腐敗という苦渋の隷属から解放され、紅海を通って導かれ、天のマナによって養われる者となっている。だが、あなたはまだ、力をもって完全に贖われてはいない。あなたはまだ、古い鎖の切れ端を叩き落とされておらず、まもなく解放されるはずの奴隷性をまだまとわりつかせている。あなたは、「子にしていただくこと、すなわち、からだの贖われることを待ち望んで」*[ロマ8:23]いる。あなたは、自分が贖われていることを喜びながら、眠りにつくであろう。だが、あなたは、死んだときでさえ、完全な贖いを受けはしないであろう。それは――その完全な贖いは――いつ来るのだろうか? 主イエスの再臨のとき以外にない。というのも、主が号令とともに天から下って来られるとき[Iテサ4:16]、その聖徒たちのからだ、墓所という牢獄に長年横たわっていたそのからだは、輝かしい贖いによって死の力から贖われるからである。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ……ることを」[ヨブ19:25]。聖徒たちのからだは、敵の国から帰ってくる。そして彼らのからだと、魂と、霊――キリストが買い取られた、彼らの完全な人間性――は、敵の支配から完全に自由になる。そのとき、贖いは完成されるであろう。思い出すがいい。天にいる聖徒たちが、私たちと別に全うされはしないということを[ヘブ11:40]。すなわち、彼らは私たちが彼らのもとに行き着くまで待っており、選ばれた者たちの残り全員がそろい、時が満ちたときにこそ、死者のからだはよみがえるであろう。そして、そのときこそ、からだと魂において完成されて、贖いの年が完全にやって来るのである[イザ63:4参照]。「頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」[ルカ21:28]。ならば、キリストが私の贖いであられること、ここにこそ私の喜びがあるのである。私の魂は隷属から自由にされているが、私のあわれな、また大いに苦しめられているからだは、死の鎖を感じている。苦痛に弱められている私のからだは、十中八九は死の剣の一撃の前に倒れ伏すであろう。主がすぐにやって来られない限り、この肉体は虫のえじきとなり、塵と混じり合う運命にあるであろう。だが、おゝ、わがからだよ。お前は贖われており、力ある朽ちないものによみがえるのだ[Iコリ15:42]。お前は、これから何の労苦もなく主をあがめるようになる。何の痛みもなく主に日夜その神殿で仕えるようになる。お前ですら、おゝ、わが疲れはてたからだよ。お前ですら、主ご自身のように栄光に富むものとされる。お前はよみがえり、主のご臨在の輝きの中で生きるのだ。

 ならば、おゝ、キリスト者よ。あなたがおよそ欲しうるすべてのものは、キリストのうちにあるのである。あなたは、イエスが満たせないような必要を何1つ考えつけないであろう。「知恵、義、聖め、贖い」を、あなたはみな主のうちに有している。ある人はここで一本花を摘む。ある人は、あそこで別の花を摘む。ある人はさらに遠くに行って、別の花を引き抜く。またある人は、さらにずっと遠くに行って四番目の花を摘む。だが私たちは、キリストを自分のものとするとき、花束を手にしているのである。私たちは、あらゆる甘やかな花を一挙に得ているのである。

   「人と神との 麗しきもの
    愛する主にて みな輝けり
    汝れは燦(きらめ)き 甘く美(うつく)し
    世の目 天使の 知らざるほどに」

しかし、私たちは、この心そそる主題にとどまっていることはできない。確かに私は、現在のような苦痛の中にあっても、喜んで何時間も語っていたいと思うが。そこで、しめくくりとして最後の点を述べなくてはならない。それは、ほんの一言だけである。

 さて、兄弟たち。これまでのところであなたは、私たちがキリスト者としての存在そのものを、またキリスト者として有しているすべてのものを、神からイエス・キリストによって得ていることがわかったであろう。ならば、私たちの栄光すべてをキリストにささげようではないか。私たちの主イエス以外の何者かを誇りとするなど、何という狂気であろう! 自分の肉――たかだか虫のえさにすぎない物――を自慢する者らの、何という愚かさであろう! 自分の知恵を誇りとする者らの、何という馬鹿さ加減であろう! 人の誇りとする知恵は、薄皮一枚をかぶった愚かしさでしかない。自分の富に鼻高々としている者らの、何という愚かさであろう! 黄金を大したものだと考えられる者は貧しい人間に違いない。一片の汚物を宝とみなすような者は、実際、乞食であるに違いない。キリストを知る者たちは、常に物事を正しい価値判断によって評価する。もしだれかが何かを誇るとしたら――そして私の思うところ、私たちが何かを誇るのは自然なことである。私たちすべての頭脳には誇りたがる感覚が織り込まれているのである。――、主にあって誇るようにしよう。そして、ここには広大な範囲と、広漠たる操船余地がある。では、あらゆる帆布を張り伸ばし、上檣に駆け登り、いかに激しい波風も好きなだけとらえるがいい。ここには、風下側の海岸に激突したり、岩礁に乗り上げたり、流砂の上に漂い流される恐れは何1つない! おゝ、人よ。おゝ、御使いたちよ。おゝ、智天使よ。おゝ、熾天使よ。イエス・キリストにあって誇るがいい! 知恵と、義と、聖めと、贖いは主である。それゆえ、あなたがたは誇りに誇り、さらに誇ってよい! 決して誇張することにはならない。主の価値を超えることも、その十分の一に達することもできない。真理を超えて行くことは決してできず、主の着物のふさを超えて達することすらできない。神の栄光の輝きは、全御使いの立琴をもってしても、そのご栄光の半分も響きわたらせることができないほどである。キリストの神聖さは、贖われた者らの無数の群れによる一大楽団が、永遠に、永劫に、その音楽を轟かせ続けても、決してその御名の威光にも、そのみわざの栄光にも達することができないほどである。「力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。御名の栄光を、主に帰せよ」[詩29:1-2]。時間と空間は、歌声をあげる大きな口となるがいい。無限は、その波涛をうねらせるがいい。造られたあらゆる物は、生きている者であり、かつ死んだことのあるお方[黙1:18]をたたえて、その声を上げるがいい。だが、おゝ、わが魂よ。お前が自らの存在を二重の意味において負っているお方にこそ、あらゆる祝福の源であられるお方にこそ、お前の賛美をもっぱらささげるがいい。お前の知性の敬意を、お前の知恵であられるお方にささげるがいい。お前の良心と廉直を愛する心をもって、お前を義としておられるお方をあがめるがいい。お前の魂のささげ物を、お前を聖めてくださるお方にささげるがいい。お前の聖められた性質をして、自らを絶えず聖別させるがいい。そして、お前を贖われたお方に、決して絶えることのない賛美をささげるがいい。私は、本日の聖句の高みまで上りたいと願っているが、私の翼はだらりと垂れ下がっている。私は鷲のように上り、この太陽の完全な輝きに直面することができない。私は雲雀のようにほんの少し上っては、自分の歌を唄い、それから自分の巣に戻ることしかできない。願わくは神があなたに、あなたの個人的な経験によって、主イエスをその満ち満ちた豊かさにおいて知ることができるようにしてくださるように。

 おゝ、あなたがた、キリストが何の知恵にもなっていない人々。何とあなたは愚かなことか! おゝ、あなたがた、キリストが何の義にもなっていない人々。あなたは罪に定められた罪人である! おゝ、あなたがた、キリストが何の聖めにもなっていない人々。神の御怒りの火はあなたを焼き尽くすであろう! おゝ、あなたがた、キリストが何の贖いにもなっていない人々。あなたは絶望的な隷属に囚われた奴隷である! 神があなたを解放してくださるように! 願わくはあなたが、今しもイエスにあなたの信頼をかけるように導かれるように。

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四重の宝[了]

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《説教前に読まれた聖書箇所――第一コリント1章》


スポルジョン氏は、その健康の回復のために、主の民の祈りを真剣に求めるものである。氏は今、8週間もの間、苦痛を感じつつ床で伏せっており、現在のところ回復のきざしはほとんど見られていない。


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