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不屈の王

NO. 949

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1870年9月4日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押えて、『あなたは何をされるのか。』と言う者もいない」。――ダニ4:34、35


 いまだかつてネブカデネザルを預言者扱いしたり、彼の言葉を霊感されたものと信じたりした人はいない。私たちの前にあるのは、単に霊感されていない人間が、最も尋常ならざる体験をくぐり抜けた後で発した言明にすぎない。かつての彼は、人間たちの中で最も偉大で、最も高慢な者であったが、突如その理性を失い、草を食らう雄牛の状態にまで身を落とした。そして元通りにされた後で彼は、公然と《いと高き方》の御手を認めたのである。私が彼の言葉を本日の聖句として取り上げたのは、ひとえに、たまたまそれが、聖書の他の箇所で、聖霊によって明確に言明されている崇高な諸教理を、最も正確かつ力強く言明しているためにほかならない。これは、患難という摂理によって神が人々をお取り扱いになるとき、神がいかに多くのご自分に関する偉大な真理を彼らに見てとらせることがおできになるか、また、いかに彼らに自らの確信を、神の御霊が口述したのと全く同一のしかたで云い表わさせることがおできになるかを示す、常ならぬ事例である。神のご性格の中には、霊的でない人間でさえ見てとらざるをえない部分がいくつかある。そして、ある特定の苦しみや屈辱の過程を経た後のその人は、神の御霊が神のご性格について行なっておられる証しに、自らの証言をつけ加えることを余儀なくされるのである。ここでネブカデネザルが口にしている言葉は、一言残らず、無謬の真理を宣告するために神から遣わされた人々の、霊感された言葉によって疑いもなく裏づけることができ、支持することができる。それゆえ私たちは、本日の聖句が単にネブカデネザルの言明である――それは私たちも認めよう――という反論に答える必要はない。むしろ私たちは、先へ進むにつれて、このバビロンのへりくだらされた君主がここで語ったことが、最も正しく、正確であること、また聖書の他の箇所の証言に完全に沿ったものであることとを示すであろう。

 あなたの思いをこの聖句の綿密な考察に導く前に、一言だけ云っておかなくてはならないことがある。あなたがたの中の多くの人々は、ごく当然のこととして、この礼拝中になされた聖書朗読や、賛美歌や、説教が、昨日新聞各紙で報じられた政治的大事件*1に関連づけられたものだと考えるであろう。だが、どうかそうした勘ぐりが事実無根であることを知ってほしい。というのも、本日の聖句は昨日の朝には決定されていたからである。その時には、いかなる報道も私のもとには届いておらず、この礼拝はその事件が起こらなかったとしても全く変わらなかったであろう。それで、人によっては、この聖書箇所の選択に、神の御霊の導きを示す、驚くほど示唆に富むものがあるとみなすかもしれないが、私の側で意図的にそのように言及したと考えてはならない。

 さて私たちがまず第一に考察したいのは、この聖句の教理的な教えである。第二に私たちは、その実際的な教えを学ぶであろう。そして第三に私たちは、こうした主題を熟考した後で、いかなる精神をいだくことがふさわしいかを明らかに示したい。

 I. まず第一に、この聖句に目を向けて、ここで私たちに示されている《教理的な教え》を考察しよう。

 ここではっきりと言明されているのは、神の永遠の自存性である。「私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた」。もしこの言葉の確証が必要であれば、『黙示録』におけるヨハネの言葉を私はあなたに参照させるであろう。その4章9節10節で彼は、生き物と二十四人の長老が栄光と誉れと感謝を、「永遠に生きておられる、御座に着いている方に」ささげていると述べている。それよりもさらに良いこととして、私たち自身の《贖い主》の証言を聞こう。ヨハネの福音書5章26節で主は、「父がご自分のうちにいのちを持っておられる」、と宣言しておられる。私の兄弟たち。あなたに確認させるため聖書箇所を山ほど呼び集める必要はないであろう。というのも、神の永遠の自存性は聖書の至る所で教えられており、まことの神にのみ属する、かの御名、「わたしはある」[出3:14]そのものに含意されているからである。ここで注意したいのは、これが、「わたしはあった」、ではなかったことである。その場合、何らかの程度において、あるいは何らかの点において、神は存在をやめていたことが含意されていたことになるであろう。また、それは、「わたしはあることになろう」、でもなかった。その場合、神は今はまだ、やがてあるところのものにはなっていなかったことがほのめかされているであろう。むしろ神は、《わたしはある》、唯一の存在、存在の根源、不変のもの、永遠の《お方》であられる。「私たちは」、とひとりの尊ぶべき清教徒が述べている。「あるものよりは、ないものの方を多く持っている」。だが、「ある」ということは神の大権である。神だけがこう仰せになることができる。「わたしが神である。ほかにはいない」[イザ45:22]。神は宣言しておられる。「まことに、わたしは誓って言う。『わたしは永遠に生きる』」[申32:40]。神こそ唯一、何物からも派生したことのない、自存かつ自立の《存在》であられる。私たちは確実に知ろうではないか。私たちの礼拝する主なる神は、必然的に、またご自身の性質からして存在している唯一の《存在》である、と。他のいかなる存在も神の主権の意志なしには存在することがありえなかったし、その意志が支えなかったとしたら存在し続けることはできなかった。神はいのちの唯一の光であり、他のすべては神の光箭の反映である。神は存在せずにはいられなかったが、他のいかなる知性体も、そのような必然性を有してはいなかった。未来のすべてにわたり神は存在しておられるに違いないが、他の霊たちが存続し続ける必然性は神の意志1つにかかっており、物事の性質自体にはない。かつては被造物が1つもない時があった。被造物は、陶器師のろくろから器が出てくるように神から出てきた。それらはみなその存続を神に負っている。それは、小川がその存続を源である泉に負っているのと変わらない。そして、もしそれが神の意志であれば、被造物はみな海の上の泡のように溶け去るであろう。マタイ25:46、「この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです」、のような箇所に含意されている霊の不滅性は、その存続期間が永遠である霊たちを造ろうという神ご自身の決意の結果である。そして、確かに神は、ご自身の授けた不滅性という資性を引き込めはしないが、それでも永遠に存在する理由は物事の中にはなく、完全に神ご自身の中にある。というのも、本質的に、「神は……ただひとり死のない方」[Iテモ6:16]だからである。

   「主のみぞ……造りて こぼつ方なる」。

存在するあらゆるものは、物質的なものであれ知的なものであれ、もし神がそうお定めになっていたとしたら、日光のようにはかないもの、雲間にかかる虹のようにたちまち消え失せるものとなっていたであろう。もしもいま何かが必然的に存在しているとしたら、その必然性は神から発したものであり、なおも天来の聖定という必然性に依存しているのである。

 神は自立している。――そうである唯一の存在である。私たちは、からだの日ごとの消耗から回復するため食物を見いださなくてはならない。光や、熱や、無数の外的な媒介に依存しており、何にもまして第一に、私たちに対して働いている天来の御力に依存している。しかし、《わたしはある》お方は自立しており、すべてに満ち足りておられる。

   「主の御座つくは ひとに頼らず
    何人はばかる こともなし」。

神は、世を造る前も今と同じように栄光に富んでおられた。日や月や星々がいきなり存在するようになる前にも、今と同じようにそのあらゆる属性において偉大で、ほむべき、神聖なお方であられた。そして、もし人が自分の書き物を消すように、あるいは、陶器師が自分の作った器を壊すように神がそれらすべてを拭い去ったとしても、神は何ら欠けることなく至高の、永遠にほむべき神であられるであろう。神の存在の中の何物も、他者から派生してはおらず、存在する万物は神から派生している。あなたがた、丘々や山々よ。あなたがた、海や星々よ。あなたがた、人間や御使いよ。あなたがた、もろもろの天よ。あなたがた、天の天よ。あなたがたは、あなたを作ったお方に何物も施してはおらず、むしろあなたがたはみな、あなたの《創造主》から流れてくる存在によって立っているのである。

 神は、この点においても常に生きておられる。すなわち、神はいかなる種類の変化もこうむることがあられない。神の被造物はみな、その成り立ちからして、多少なりとも変異をこうむらざるをえない。それらすべてについてこう宣言されている。「これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません」[詩102:26-27]。私たちの人生は種々の変化から成り立っている。幼児期からすぐに私たちは青年期に達し、青年期からいきなり成人になり、成人期になると、徐々に老年になっていく。私たちの変化は、私たちの日々と同じくらい多い。「被造物」は、私たちの場合、実際に「虚無に服した」[ロマ8:20]。羽毛よりも軽く、野の花よりもはかなく、草のように移ろいやすく、流星のようにつかのまで、まりのようにあちこちへ放り投げられ、火花のように消される。――「主よ。人とは何者なのでしょう?」[詩144:3] 定められた時に、私たち全員に訪れるのは、霊がからだから切り離されるという大いなる究極の変化である。その後、分割された人間性が再び結合されるというもう1つの変化が続く。だが、神にはそうした、あるいはその他のいかなる変化もない。神は宣言されなかっただろうか? 「神であるわたしは変わることがない」*[マラ3:6]、と。神は本質的に、また常に純粋な《霊》であり、その結果、いかなる移り変わりも移り行く影もない[ヤコ1:17]。いかなる被造物についても、そのようなことは云えない。不変性は神だけの属性である。造られたものたちは、かつたは新しかったが今は古くなっており、やがてさらに古くなるであろう。だが主には何の時もなく、永遠の中に住んでおられる。《永遠者》にはいかなる始まりの瞬間もない。年齢の計算を開始すべき点がない。太古より神は《年を経た方》[ダニ7:9]であられた。「とこしえからとこしえまであなたは神です」[詩90:2]。あなたの精神を、その能力がすり切れるほど遠い永遠の昔へと引きこもらせても、そこにはエホバおひとりがその栄光に満ち満ちておられるのが見いだされる。それから、同じ思念を、想像力の限界も越えたはるか遠い未来へと駆け抜けさせてみても、そこにも《永遠者》が全く変わることなく、何の変化もせずにおられるのが見られる。神は変化を引き起こし、変化をもたらすが、ご自分は常に同じままであられる。兄弟たち。このような言葉で神を礼拝しようではないか。――

   「汝が御座は 永世(とこよ)に立ちぬ、
    大海(みなも)、星々、造(あれ)し前より。
    汝れ常に 生きおる神なり、
    よし国々の すべて死すとも。

    永遠は その歳月(とせ)すべてと
    御前(おんまえ)に 立ちてあるなり
    汝れには何も 古くは見えず
    大いなる神よ! つゆ新しからじ。

    人生(ひとのよ)は 景色にまどい
    埒もなき 心労(つらみ)に悩む、
    されど汝が 永久(とわ)の思いは進み行き
    汝が計らいぞ 乱されぬ」。

神が永遠に生きておられることは、神の本質的かつ必然的な自存と、その独立と、その変わることなき性質との結果ばかりでなく、このことの結果でもある。すなわち、神を傷つけたり、危害を加えたり、滅ぼしたりすることができると考えられるような力は、一切ない。もし私たちがきわめて冒涜的な思いを傾けて、主が傷を受けうると想像したとしても、それでも、その御座の上におられる主に届くほどの弓や矢がどこにあるだろうか? いかなる投げ槍がエホバの円盾を突き通せるだろうか? 地のあらゆる国々が神に向かって逆らい立ち、怒り狂ったとしても、いかにして彼らは神の御座に達することがあるだろうか? 彼らは神の足台すら揺さぶることはできない。たとい天の御使いすべてがこの《偉大な王》に反逆し、彼らの数ある騎兵大隊が陸続と進発して《いと高き方》の王宮を包囲しても、神がそうお望みになるだけで、彼らは秋の木の葉のように枯れしなびるか、祭壇の上の脂肪のように焼き尽くされるであろう。暗黒の鎖によって残しておかれ、神の権威に反抗した者どもは永遠に神の御怒りの記念となるであろう。いかなる者も神に触れることはできない。神は常に生きておられる神である。生ける神を喜びとする私たちは、神の前に額ずき、へりくだりつつ神を礼拝しようではないか。神の中に生き、動き、また存在している者として[使17:28]。

 本日の聖句の中で私たちが次に見いだすのは、ネブカデネザルが神の永遠の支配権を主張していることである。彼は云う。「その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く」。私たちの仕える神は単に存在しているだけでなく、統治しておられる。他のいかなる立場にもまして神にふさわしいのは、ご自分の全被造物に対して無制限の主権を振るうお方という立場にほかならない。「天と地を造られた方、いと高き神は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める」*[創14:19; 詩103:19]。ダビデがこう云ったように、私たちも云う。「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です」[I歴29:11]。「主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる」[詩29:10]。主は当然すべての支配者であられるが、だれが主を支配しているなどと云うだろうか? 主は人の有限な理性によってさばかれるべきお方ではない。主は私たちの知りえない大きなことをされるからである[ヨブ37:5]。人の傲岸不遜は驚くばかりである。被造物が《創造主》を批判しようなどとするのである。主の人格は異議を唱えられたり、疑いをさしはさまれたりすべきものではない。私たちの高慢の果てしない傲慢さだけが、いとも聖なる神をあえて侮辱しようとするであろう。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」[詩46:10]、がそうした狂気に対する十分な答えである。主のお立場は御座の上にあり、私たちの立場は従うことにある。治めるのは主であり、私たちは仕える。みこころのままに行なうのは主であり、私たちは反問することなくそのみこころろを自分の絶えざる喜びとする。ならば、宇宙の中で神が現実に統治しておられることを覚えておくがいい。。決して考えてはならない。神は無限に偉大ではあるが、今はその偉大さを――無限に統治することのできる偉大さを――振るっておらず、今のところは単なる出来事の傍観者である、などとは。そうではない。主は今も支配しておられる。確かにある意味で私たちは、「御国を来たらせ給え」、と祈るが、別の意味でこう云うのである。「国と力と御栄えは限りなく汝のものなり」、と。宇宙の王座は空位ではなく、その王権は棚上げにされてはいない。神は王位の所有権を単に有しているだけでなく、現実に《王》であられる。統治権はその肩の上にあり、統御の手綱はその御手の中にある。いま現在でさえ神は人の子らに語っておられる。「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない」[申32:39]。あなたのまさに目の前で、神はご自分のことばを果たされる(ルカ1:51、52)。種々の事件はつむじ風の中の埃のように滅茶苦茶に舞っているように見えるが、そうではない。《全能者》の支配はすべての物事の上に、いついかなる時も及ぼされている。常に遍在せる、目に見えない、万物の主に栄光があるように。

 この天来の御国は、かつては高慢だったバビロンの君主にとって、永遠の王国であることが非常にはっきりと見てとれた。《永遠に生きるお方》の統治は、他の諸王国に不可能なほど「代々限りなく」進展する。いかに強大な王も、権力を相続しては、すぐに自分の王笏を後継者に明け渡すものである。主には、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもない。前任者だの後継者だのといった言葉は主には無関係である。他の君主権は、その権力が抑えられていない間は立っているが、時勢が悪くなると、より強大な権力によって叩きつぶされる。だが神にまさって強大な権力はない。しかり。世には神から発していない権力は1つもない。というのも、「神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを」[詩62:11]。こういうわけで、神の君主権は抑えられることがありえず、永遠のものたらざるをえない。幾多の王朝は世継ぎを欠いたがゆえに過ぎ去り、廃れてきたが、常に生きておられる神はご自分の後を継ぎ、ご自分の御名を永久に伝えることを誰にもお求めにならない。内部の腐敗はしばしば、森の木々のように高く立ち、嵐にもびくともしなかった諸帝国を枯らしてきた。その木は、芯では腐っていたのであり、じきに腐敗によって弱められ、ぐらついては倒れてしまった。だが無限に聖なる神には、その政務の執行において何の不正も、過ちも、偏愛も、悪い動機もない。万事が、しみ1つない聖さ、非難されることのない正義、変わることなき忠実さ、汚れのない真実、驚くばかりのあわれみ、そして満ちあふれる愛と合致して整えられている。その御国のあらゆる要素は、根本的に正しいがゆえに、この上もなく保守的なものである。《全知なるお方》の政務室にはいかなる悪いパン種もなく、天の審きの座にはいかなる腐敗もない。こういうわけで、「その王座は義によって堅く据えられ」ている[箴25:5]。神の御座が聖いため、私たちはそれが決して動かされることがありえないことを喜ぶのである。

 ここで、しばし立ち止まるがいい。話をお聞きの愛する方々。そして、あなたの魂の目に物事のこうした眺めを見つめさせるがいい。神は最初の日から統治しておられた。日々が過ぎ去ったときも統治しておられるであろう。神は至る所で統治しておられる。パロが、「エホバとはいったい何者か。私が従わなければならないというのは」*[出5:2]、と云ったときも、ミリヤムがタンバリンを手に取り、「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められた」[出15:20]、と云ったときと同じように統治しておられた。律法学者とパリサイ人、ユダヤ人とローマ人が、神のひとり子を十字架に釘づけにしたときも、御使いたちの一団が勝ち誇って、「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる」[詩24:7]、と叫んだときと同じように統治しておられた。地球上をいかなる災厄が吹き荒れる最中にあっても、平穏な黄金の日々の中にあるのと同じように統治しておられる。その王座は決して空位にならず、その王笏は決してわきに置かれることはない。エホバは常に《王》であり、永久とこしえに《王》であられる。おゝ、幸いなことよ。このような王座を仰ぐことのできる臣民は! おゝ、幸いなことよ。このような《王》を自分の御父としていられる子どもたちは! あなたは、王である祭司[Iペテ2:9]として、自分の王権と祭司性が安泰であると感じていることができる。というのも、この不屈の《王》がその御座にゆるぎなく着いておられるからである。あなたの君主は一度もその剣を、優越せる敵に明け渡したことはない。あなたが別の指導者を探し求める必要はない。その愛する御子というお方において、神は私たちの金の燭台の間を歩み、その右の御手に私たちの星々を持っておられる[黙2:1]。神はイスラエルを守り、まどろむこともなく、眠ることもない[詩121:4]。

 しかし、私たちは先を急がなくてはならない。神の御前でへりくだらされたネブカデネザルは、第三に、人間のむなしさについて異様な言葉遣いを用いている。「地に住むものはみな、無きものとみなされる」。これはネブカデネザルだが、彼の言葉はイザヤによって確証されている。「見よ。国々は、手おけの一しずく」[イザ40:15]。かいば桶に流し出された後の手桶に残っている目立たない水滴か、井戸から汲み上げた後に手桶からしたたる水滴のように、わざわざ注目する価値もない、取るに足らないものである。また、「はかりの上のごみのようにみなされる」。はかりの上に落ちてきたちりが、全く何の影響もそのはかりに及ぼせないようなものである。「見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる」。群島という群島を、考慮する価値もない、つまらぬものとして取り上げなさる。この、わが三王国をも神は「細かいちりのよう」にみなしておられる。オーストラリアという広大な島も、太平洋に散らばる宝石のような島々も、南洋の国々も、これらをみな神は子どもたちがその玩具を持ち上げるように取り上げなさる。「すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる」[イザ40:17]。それで、もしネブカデネザルが相当のことを云っているとしても、御霊に霊感されたイザヤは、はるかに越えたことを語っている。一方は国々を「無きもの」と呼んでおり、もう一方は「むなしく」[無きもの以下で <英欽定訳>]、「形もないもの」としている。あなたはこの箇所をイザヤ書40章15節と17節に見いだすであろう。さて、この言葉の一言一言に込められた力に注目するがいい。「地に住むものはみな」、その一部の者たちだけでなく、その貧しい者たちだけでなく、富者も、王者も、賢者も、哲学者も、祭司も、すべて合わせて、「無きものとみなされる」のである。諸国の民をことごとく一同に会させたとしたら、それはなんという集団になることであろう! その大会衆の上を通り過ぎるだけでも、鷲の翼が必要であろう。その全員をおさめることのできるような平原がどこに見つかるだろうか? それでも、この聖句によると、そのすべてが「無きものとみなされる」。

 さて、彼らが自分自身でもそれと同じであることに注目するがいい。というのも、ここに集められた私たち全員に関して確かに云えるように、私たちが存在していなかった時があった――そのとき私たちはまぎれもなく「無きもの」であった。この今の瞬間にも、もし神がお望みになれば、私たちは存在しなくなり、ほんの一歩で無きものに還ってしまうであろう。私たちは自分自身では無きものであり、単に神がそうあらせることをお選びになった通りのものであり、その時が来たなら、それもごく僅かな間にやって来るであろうが、この世に関する限り、私たちは無きものとなってしまう。人々の子らの間に私たちが残すものといえば、どこかの共同墓地か郊外の教会墓地にある小さな盛り土でしかない。というのも、私たちは日の下で行なわれている何らかのことに全くあずからなくなるからである。私の兄弟たち。大洪水以前の何百万もの人々全員が、いま何の役に立っているだろうか? ニムロデヤ、シシャクや、セナケリブや、クロスの軍勢はどうなっているだろうか? あの無数の人々の世界はどうなったのだろうか? ネブカデネザルの進軍に従った人々や、クロスに唯々として従っていた人々、クセルクセスの前を行軍していた人々は? アレクサンドロスの主権を認めていた世代の人々、あるいはカエサルたちの鷲印の軍標に従い、それを崇拝せんばかりであった軍団たちは? 悲しいかな! 私たちの祖先たちでさえ、彼らはどこにいるだろうか? 私たちの息子たちは、私たちが死ななくてはならないことを私たちに前もって警告してくれている。彼らは私たちを葬るために生まれたのではないだろうか? そのように人間の世代は、森の木の葉のように代々続いていく。では、人とはその盛んなときにあってさえ、「全くむなしいもの」[詩39:5]でなくて何だろうか?

 国々は神とくらべれば無きに等しい。零の文字をいくら寄せ集めても、それが何にもならないのと同じように、人々をいくら加えていっても、その想像される力や知恵がいかほどのものであっても、彼らはみな神とくらべれば無きものとされる。神は1つの単一体である。すべてのすべてを表わし、すべてを包含しておられる。そして、残りのすべては、神という単位元によって意味あるものとされない限り、無価値な零文字の寄せ集めでしかない。ここで、あなたに思い起こさせたいのは、神から霊的に教えられているあらゆる人は、自らも経験的に、自分が無であることを感じさせられている、ということである。その人の内なる目が、ヨブのそれのように主を見つめるとき、その人は自分をさげすみ[ヨブ42:6]、地に縮こまり、自分を《いと高き方》と対比させたり比較するなど、一秒たりともできないのを感じる。

   「大いなる神 汝はいかに無限なるか!
    われらはいかに 価値なき虫けらなるか!」

これこそ、自らを知り、自分の神を知るあらゆる人の口から自然に飛び出してくる一節である。霊的な意味において、私たちのむなしさは非常に明々白々である。私たちは自分の選びにおいて何者でもなかった。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」*[ヨハ15:16]。「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと」[ロマ9:11]。「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」[ロマ9:16]。私たちは自分の贖いにおいて何者でもなかった。私たちはイエスがお支払いになった代価に何1つ寄与しなかった。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった」[イザ63:3]。私たちは自分の新生において何者でもなかった。霊的に死んだ者が、自分を生かそうとしておられる神を助けることなどできるだろうか? 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」[ヨハ6:63]。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」[エペ2:10]。私たちは、天国に行き着くとき、こう告白することを私たちの崇敬の一部とするであろう。すなわち、私たちは無きもの以下であり、形もないものであるのに、神はすべてのすべてであられるのである。それゆえ、私たちは自分の冠を神の足元に投げ出し、神にあらゆる賛美を永遠にささげるであろう。

 「地に住むものはみな、無きものとみなされる」。これは素晴らしい表現であり、あなたや私はこれを、あるいはこの聖句のいかなる部分をも説き明かそうとは思わない。むしろ私は、この聖句と同じ意味の言葉を例証のために繰り返すであろう。私の前には非常に深い淵がある。だれにそれが測りえようか? 私は知識もなく云い分を述べて、摂理を暗くする[ヨブ38:2]つもりはない。ある農夫の地所に、蟻の巣があった場合、かりに農夫の土地が千エーカーだとすると、その蟻の巣はそれなりの部分を占めるであろう。千エーカーの土地にくらべれば、ごく小さな部分でしかないにせよ、厳密に云えば無きに等しいとは云えないであろう。だが、全世界は神にくらべれば無きに等しいと云えるのである。この丸い地球は、神の広大な被造世界にとって、ごく取るに足らない部分しか占めておらず、望遠鏡によって私たちに明らかに示されている部分にとってさえそうである。そして、私たちにはこう信ずべき理由がある。すなわち、望遠鏡で私たちに見えるあらゆるものは――たといそれが本当に幾多の世界を含んでいて、それぞれに住人がいたとしても――、この広大な宇宙にくらべれば、ロンドン全市とくらべた場合の針の先のようなものである、と。たといそうだとしても、またあなたの精神が神の全被造世界を包み込むことができたとしても、それでも、それは、そのすべてをお造りになった神ご自身とくらべれば、手桶の一しずくのようなものでしかないであろう。神は、その何万何億倍も大きなものを、御力をほんの僅か用いるだけでお造りになることができるのである。ならば、この世界は、蟻の巣が千エーカーの地所に対して占めているほどの割合も、主に対して占めてはいないのである。さて、もしその農夫がその土壌を耕したいと思った場合、自分のしようとしていることの中に蟻の巣が含まれているとは、まず気がつかないだろうと思われる。まず間違いなく彼は、それをひっくり返し、破壊するであろう。これは蟻の取るに足らなさと、蟻たちにくらべた場合の人の大きさを証明している。だが、そこに農夫側の忘れっぽさか見落としが含まれていた以上、その蟻たちにも、忘れられるべき大きさくらいはあるのである。だが国々には、それほどの大きさすらない。もしもその農夫が自分のすべての計画を整えて、自分の行なうことを全く乱すことなく、あらゆる野鳥、蟻、虫けらが自分の取り決めの中で配慮されるような手筈を整えることが可能であったとしたら、彼はその蟻たちにくらべていかに偉大な者となるであろう! そして、これこそまさに主について云えることである。主はあらゆることを整えて、明らかに何の雑作もなしに、その摂理による統治があらゆる利害を含んでいるようにし、何者にも不正を行なわず、すべてに対して正義をもたらすようにしておられる。人々は神の道においてはあまりにもちっぽけなので、ただひとりの人にさえ不正義を犯す必要を神は全くお認めにならないのである。そして神は決してただ1つの被造物さえ、不必要な痛みを全く味わうことがないようにしておられる。ここに神の偉大さがある。その偉大さは、手もなく、あらゆる小ささを含むことができる。神の知恵の栄光は、その御力の威光と同じくらい驚嘆すべきもので、神の愛と恵みの輝きは、その主権の恐ろしさと同じくらい驚くばかりである。神はお望みのことがおできになる。というのも、何者も神を差し押さえることはできないからである。だが神は、決していかなるしかたであれ、不正なこと、聖くないこと、あわれみ深くないことを行なうことをお望みにはならず、いかなるしかたであれ、ご自身の比類なきご性格の完全さと矛盾したことをお望みにはならない。ここで私たちは立ち止まり、礼拝しようではないか。少なくとも私はそうせざるをえない。というのも、私の魂の目は、太陽を見つめていたかのように痛んでいるからである。

 さて私たちは次の言葉に目を向けよう。それは、主権的に働いている天来の御力を明らかにしている。「彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう」。天界の軍勢についてこのことを理解するのはたやすい。というのも、神のみこころが天でなされていることを私たちは知っているからである。私たちは、それと同じようなしかたでみこころが地でもなされることを敬虔に祈っている。御使いたちは、天の神に従順であることを自らの天国であると思っている。「天の軍勢」という言葉には、かつてはその一団とともに数えられていた堕落した御使いたちも含まれている。彼らはその反逆ゆえに天から放逐されている。悪霊たちは不承不承ながらも、不可避的に神のみこころを果たしている。「主は望むところをことごとく行なわれる。天で、地で、海で、またすべての淵で」[詩135:6]。この聖句で神のみこころが行なわれていると記されているとき、私たちが見てとるのは、それがある程度までは義人たちの間でそう云えるということである。彼らの新しくされた心は神の栄光を求めている。だが真実はさらに深く進む。というのも、そのみこころは、不正をする者たちにおいても、神を知らない人々によっても成し遂げられるからである。しかり、その意志が神に逆らう決意をしている者たちにおいても、なおも、私たちには知られていない何らかのしかたで、神のみこころはやはり達成されているのである(箴19:21; 使4:27、28)。私は、ある人が棒切れを何本か取り上げて、自分の思い通りに配列することなら理解できる。また、そこに何か取り立ててすぐれた手腕があるとも思わない。だが、天来の栄光の奇蹟はこのことに存しているのである。――すなわち、神は人々を自由な行為者とし、彼らに意志を授け、精神の法則に従わせる以外には、決してその意志に干渉なさらない。神は彼らを絶対に自由にしておき、彼らが思い通りに行なうようにされる。そこで彼らは、例外なしに、われもわれもと神のみこころに反することを行なおうとする。だがしかし、天には途方もなく壮麗な戦略があり、神のみ思いには途方もない力があるため、いかなることがあろうと、必ず神のみこころはなされるのである。一部の人々の考えによると、私たちは、詩篇115篇のダビデとともに、神がその望むところをことごとく行なわれる[115:3]と信ずるとき、自由な意志行為を否定しており、必然的に道徳的責任をも否定しているのだという。否。むしろ私たちはこう宣言したい。そのように考えたがる人は、このように述べた人の、あの古の揚げ足取りな精神にかぶれているのだ、と。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう」[ロマ9:19]。そして私たちの唯一の答えはパウロの答えである。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか」[ロマ9:20]。あなたにこれが理解できるだろうか? というのも、私には理解できないからである。いかにして人は、自由な行為者であり、責任ある行為者であって、それゆえに、その罪は彼自らが故意に犯した罪であって、彼の責任であり、決して神の責任ではないのに、しかし、それと同時に、神の目的が成就され、神のみこころは悪鬼どもや腐敗した人間たちによってさえ成し遂げられるのだろうか?――私にはこれが理解できない。何のためらいもなく私はこのことを信じ、そうすることを喜ぶものだが、決してこのことを理解できるようになると希望してはいない。私は自分が決して理解することを見込めない神を礼拝する。もし私が神を私の手のひらでつかめるとしたら、私はそれを私の神とは呼べない。また、もし、子どもが自分の習字帳を読めるように神のお取扱いを理解できるとしたら、私は神を礼拝できないであろう。だが、神がこれほど無限なお方であるため私はここに真理を見いだし、そこに真理を見いだし、多種多様な真理を見いだすのである。そして、たとい私がそれを1つの体系にまとめあげることができないとしても、私はそれが全く私にとって明瞭であることを知っている。そして私は、自分の知らないことを神が知っておられることに満足する。きょうの私の務めは崇拝し、従うことである。やがて私は、主がよしと見られたときに、より多くを知って、より崇拝するようになるであろう。私の堅く信ずるところ、天と地と地獄にあるすべてのものは、長い目で見たとき、天来の計画の部分部分であることが見てとれるであろう。だが、神は決して罪の作者でも共犯者でもないし、罪を憎み、不正に復讐するお方以外の何者でもあられない。罪の責任は人にある。完全に人にある。だがしかし、神にふさわしく、また神秘的な、神の存在にも似た、何らかの不思議な支配力によって、神の至高の意志が成し遂げられるのである。この2つの真理が、1つの節、使2:23において、いかに現実問題として、また私たちの主の十字架刑に関して結び合わされているかに注目するがいい。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました」。さて、自分には理解できないからといってこの真理を否定するのは、非常に多くの重要な知識から自分を閉め出すことである。兄弟たち。もし神があらゆる場所で支配しておられないとしたら、神がそうしておられない所では何かが支配しているのであって、そうするとき神は、場所によっては至高者でなくなってしまうのである。もし神がみこころ通りに行なえないとしたら、だれか別の者がそうしているのであり、その分だけ、その別の者は神にとって競敵となるのである。私は決して人の自由意志行為を否定したり、その責任を軽減したりするものではないが、決して人間の自由意志に全能性を帯びさせようとは思わない。というのも、これは人間を一種の神とすることであり、偶像礼拝は忌みきらうべきことだからである。さらに、いずれかの場所で偶然を認めたが最後、あらゆる場所で偶然を認めたことになるのである。というのも、あらゆる出来事は関連し合っており、互いに反応を引き起こし合うからである。摂理の歯車の歯が一本でも乱されたり、悪魔に、あるいは神から離れた人の自由意志に引き渡されたりしたら、それは仕組みの全体をだいなしにするであろう。私は、罪そのものでさえ摂理の支配を、すなわち、全世界の《審き主》の何者にもまさる支配を免れていると信じようと思わない。摂理なしには、私たちは不幸な存在だったであろう。天来の御力の普遍性なしには摂理は不完全であろうし、いくつかの点で私たちは、こうした理屈によると、天来の支配をも越えたものと考えられる諸悪に対して無防備のままさらされていることになるであろう。だが私たちにとって幸いなことに、このことは真実なのである。「彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう」。

 さて今、私たちはこの聖句の第五の部分を考察しよう。――「御手を差し押えて、『あなたは何をされるのか。』と言う者もいない」。私がここから学ぶところ、神の決定は抵抗不可能なもの、弾劾できないものである。何人かの注解者の告げるところ、この原語には、子どもが何らかの禁じられた行為をやめるように、その手をぴしゃりと打つことがほのめかされているという。いかなる者も主をそのようにあしらうことはできない。何者も主を妨げたり、立ち止まらせたりすることはできない。主には、みこころのことを行なう力がある。イザヤもそのように云う。「ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、『何を作るのか。』とか、『あなたの作った物には、手がついていない。』などと言うであろうか」[イザ45:9]。ならば、人は神の決定に逆らうには無力である。通常、人は神のご計画を知らない。自分では知っているものと、ぶざまにも思い込んでいようと関係ない。しばしば、その表向きの計画に反対することによって、人は、自らの意図に反して、神の隠れたご計画を成就してしまう。たとい人が神の計画を知っていたとしても、また、自分の全力を 傾けてそれに逆らおうとしても、それでも、もみがらが風に逆らえないのと同じように、また、蝋が火に逆らえないのと同じように、人は《いと高き方》の絶対的な意志と主権的なみこころに逆らって少しでも思いを通すことはできない。ただ、ここに私たちの慰めがあるが、神にこうした力があることが正しいのは、神が常にその力をこの上もなく厳正にお用いになるからである。神はいかなる不正なこと、狭量なこと、不親切なこと、神にふさわしくないことも行なおうと意志することがおできにならない。神は、私たちが法に縛られているようには、いかなる法にも縛られてはいないが、神ご自身が神にとっての法なのである。「あなたは〜しなくてはならない」や、「あなたは〜してはならない」が私にも、あなたにもあるが、だれが神に対して、「あなたは、これこれのことをしなくてはならない」、などと云うだろうか? だれが、「あなたは、これこれのことをしてはならない」、などと云うだろうか? だれが《王の王》に対して立法者になるだろうか? 神は愛であられる。聖であられる。望むままを行ない、聖なることを望まれる。正義を望まれる。真理を望まれる。そして、いかにしてこれが正しいことなのか? いかにしてそれが愛に満ちたことのなのか? いかにしてそれが賢明なことなのか? という一千もの疑念が持ち出されようとも、答えはこの1つで十分である。――

   「神こそおのれの 解説者(かたりて)にして
    それを明らに なし給う」。

おゝ、人々の子らよ。《無限者》の謎を解くことは私の務めではない。彼がご自分の考えを明らかになさるであろう。私は彼の弁護人となるほどでしゃばりではない。彼がご自分の身の証しを立てるであろう。私は神のご性格を正当化するよう召されてはいない。「全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか」[創18:25]。太陽の明るさを示すために蝋燭を差し上げるとは何という愚かさであろう! だが、それにもまして、聖きわまりないエホバを弁護しようと試みることのいかに愚かなことであろう! もし神があなたと云い争うおつもりがあるなら、神にご自分の思っていることを云っていただこう。あなたは神の雷鳴を聞くだけでも、いかに震えることか! 神の稲妻が諸天を燃え上がらせるとき、いかにあなたがたは肝をつぶすことか! ならば、できるものなら立ち上がって神を詰問するがいい。もしあなたが嵐の海にいて、あなたの船のあらゆる肋材がきしんでいるとき、帆柱が折れるとき、水夫たちが酔いどれのようによろめき歩くとき、頭上には恐ろしい暴風雨があり、その嵐の中に神の雷のような神の御声があり、あなたの回り中で風の唸っているとき、そのときには、あなたもけちをつけるのをやめて、自分の悩みの中で神に叫び求めるであろう。ならば、この日、そうした場合にするように行なうがいい。というのも、あなたがたは同じように神の御手の中にあるからである(詩99:1、5; 100:3、4)。

 このようにして私は、この聖句の教理を云い表わそうとしてきた。

 II. さて、ごく手短に、その《実際的な教え》を考察しよう。

 思うにその第一の教訓は、このことである。神と1つであることはいかに賢明なことか! 私は、この聖句の威光を前にして書斎でひれ伏していたとき、自分の魂の内側にこう感じた。「おゝ、いかに私は、この無限に強く、栄光に富み、聖なる神と完全に1つになることを切に願うことであろう。いかに私は神の敵になろうとすることなどできようか?」 そのとき私は、もし私がそれ以前から、神の前に服従させられ、屈していなかったとしたら、いま屈しているに違いないと感じた。私は、あなたがたの中の誰か、神のみこころを行なっていない人が、あなたの希望なき反逆を放棄することを望む。神はあなたにみもとに来るよう招いておられる。神は離れよとあなたに命ずることもおできになったはずである。その無限の主権によって、神はキリスト・イエスを人々の《救い主》として任命しておられる。来て、その《救い主》を信仰によって受け入れるがいい。

 これは神と1つになっている人々にとって、何と励まされることであろう! 神が私たちの側におられるとしたら、だれが私たちに敵対できるだろうか? 「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」[詩46:7]。私たちは、次のような信仰を有する婦人と同じような思いをしているべきである。彼女は地震があったときに、非常に幸せそうに見えた。他の誰もが恐れていた。――家々は倒壊し、塔は揺さぶられていたが、彼女は微笑んでいた。そして人々がその理由を尋ねたとき、彼女はこう答えた。「私は、私の神様が地面を揺らすことのできるお方だということが嬉しいんです。私は神様がそうできると信じていましたが、今それを見ているんですもの」。喜ぶがいい。あなたが信頼を置いているお方は、何事も不可能ではなく、ご自分の目的を成し遂げることがおできになるし、そうなさるのである。私の心は、たとい神にそうする力がなく、それがみな私のものであったとしても、神にそれを差し出したいと考えている。私は、たとい私に取り除けたとしても、すべての権威を 神の御手に残しておくであろう。「大いなる神、至高(たか)く統べん。汝れに似たるもののなければ」。「主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ」[詩97:1]。

 この思想は、聖なるすべての働き人にとって何と喜ばしいことか! あなたや私は、神とそのキリストとの側の軍に入隊しているのであり、私たちに敵対する勢力は非常に強そうに見えるが、無敵の《王》はまもなく彼らを潰走させるに違いない。ローマカトリック教も、偶像礼拝も、不信心も、こうしたすべては強大なものに見える。また、陶器師のもとからやって来たばかりの甕もそのように見える。――子どもなら、それが石だと思うであろう。だが主イエスがそれを鉄の杖で打つとき、その破片がいかに飛び散るか見るがいい! このことを主はまもなく行なうであろう。主はその恐ろしい御腕の力をあげて、その鉄の杖を振り下ろすであろう。そのとき、イエスにある真理[エペ4:21]は世に行き渡るに違いなく、行き渡るのが見られるであろう。

 このことは、あなたがた、苦しんでいる人たちをもいかに助けることであろう! もし神がすべてを行ない、何事も神から離れて起こらず、人の邪悪さや冷酷ささえもなお神によって支配されているしたら、あなたは喜んで服従できるであろう。いかにあなたは愛想よく、また快い笑顔とともに、あなたを打つ御手に口づけできることか! 夫が天国に行ってしまった。神が彼を取られたのである。財産がなくなってしまった。神がそれを許されたのである。泥棒に入られた。あなたは云う。よろしい。第二原因についてはあまりに考えまい、偉大な第一原因に目を注ごう、と。棒で犬を叩けば、犬は棒に噛みつくが、もし犬が賢ければ、その棒を用いているあなたに目を向けるであろう。その患難の第二原因に目を注いではならない。偉大な第一原因に目を注ぐがいい。それらすべての中におられるのは、あなたの神、あなたの父なる神、《無限に善なるお方》なのである。あなたはどちらが地でなされることを願うのか? あなたの心か、神のみこころか。あなたが賢ければ、こう云うであろう。「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」[ルカ22:42]。ならば、摂理の道を受け入れるがいい。神がそれらを定めておられる以上、感謝に満ちた賛美とともにそれらを受け入れるがいい。神に対する真のいけにえは、私たちがこう云えるときにこそある。「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望もう」*[ヨブ13:15]。私たちは、神の御手から良いものを受けてきたので、神をほめたたえてきた。――異教徒や取税人でさえそうしたことはしたであろう。だが、もし私たちが悪を受けても、なおも神をほめたたえるとしたら、これこそ恵みであり、これこそ神の聖霊のみわざである。もし私たちが神の打ち砕くような鞭打ちの前にあっても額ずくことができ、もし御手によって私たちを砕くことが神に誉れをもたらすのであれば満足であると感じていられるとしたら、それこそ真の信仰である。私たちに十分な信仰を与えてください。おゝ、主よ。私たちの忠誠において決して欠けることなく、むしろあなたの忠実なしもべとして苦しみの苦い結末をも受けることができるように。おゝ、このように神に服する思いが持てるとしたらどんなに良いことか! ある人々は神の主権の教理に反対するが、残念ながらそれは彼らが反抗的で、へりくだらされていない精神をしているからではないかと思う。神に従順であることを感じている人々は、どれほど神をほめたたえても十分ではなく、どれほど絶対的な権威を神に明け渡しても十分ではない。家の中で、父親が規則や規定に縛られることを願うのは、反抗的な子どもだけしかいない。しかり。私の御父は正しいことを行なうに違いない。そのみこころのままをなしていただこう。

 III. これらすべてを黙想すべき《正しい精神》はいかなるものだろうか?

 最初に、謙遜な崇敬である。私たちは十分に礼拝してはいない。私の兄弟たち。私たちの公の集会においてすら、私たちは十分な礼拝を得ていない。おゝ、《王》を礼拝せよ! 今あなたの頭を垂れるがいい。――むしろ、あなたの霊を垂れて、永遠に生きておられるお方をあがめるがいい。あなたの思念やあなたの感情、それらは祭壇の上でささげられる雄牛や雄山羊にまさっている。神はそれを受け入れてくださるであろう。この上もなくへりくだった畏敬の念とともに神を礼拝するがいい。あなたは無きものであり、神はすべてのすべてだからである。

 次に、あなたの心を、何の疑問もさしはさまない黙従の思いに服させるがいい。神がそれをお望みなのである! 私はそれを行なうか、それを耐え忍ぶかである。神があなたを助けて、完璧な忍従のうちに生かさせてくださるように。

 その次には、畏敬の込もった愛の精神を発揮するがいい。私はこの神の前で震えているだろうか? ならば、私は、神を神として愛することができるよう、より多くの恵みを求めなくてはならない。私の思いが、神をその光輝においておとしめ、神からその栄光を奪い去っているときに神を愛するのではなく、神を絶対的な主権者としてさえ愛することである。というのも、私が見るに、主権はイエス・キリスト――私の盾であり、神の《油注がれたお方》――を通して振るわれているからである。私の神であり《王》であるお方を愛するようにしよう。そして、その御座近くにはべり、《無限の威光》の光を仰ぎ見ることを許されて喜ぶ廷臣となろう。

 最後に、私たちの霊を深い喜びに満ちたものとしよう。私の信ずるところ、年期を積んだキリスト者にとって、これほど深い喜びの海を含んでいる教理は他にない。主は王である! 主は永遠に王であられる! 何と、ならば、すべては良くなる。神から離れ去るとき、あなたは平安から離れ去るのである。魂が神に没入し、すべてが神のうちにあるのを感じるとき、魂は静かな楽しみと、川のような平安と、言葉に尽くすことのできない喜びを感じる。今朝その楽しみを求めようと努めるがいい。愛する方々。そして、それから行って、それをあなたの賛美の歌において表現するがいい。もしあなたが、あなたがたの中の誰でも、本日の午後ひとりきりになるとしたら、また礼拝に参加しないとしたら、あなたの神をほめたたえ、あがめることだけは確実に行なうがいい。あなたの心を賛美の中で高く上げるがいい。というのも、「感謝のいけにえをささげる人は、神をあがめる」*[詩50:23]からである。

 願わくは主が私たちすべてを、イエス・キリストを信ずる信仰によって、この常にほむべき、また常に生き給う神との調和へと至らせてくださるように。そして、この神に、賛美と栄光が永遠にあるように。アーメン。 

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*1 (訳注)1870年9月2日、フランス皇帝ナポレオン三世は、普仏戦争開戦後二箇月を経ずしてセダンでプロイセン軍の捕虜となり降伏、退位した。[本文に戻る]

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不屈の王[了]

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