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いのちの水

NO. 770

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「女はイエスに言った。『先生。……その水を私に下さい』」。――ヨハ4:15


 あなたも思い出すであろうように、私たちの《救い主》は、生ける水についてサマリヤの女に話をしておられた。主は、彼女の注意を引くために、彼女の仕事と務めに即した1つの比喩を用いられた。水は何にもまして彼女の念頭にあることであった。それでイエスはこの元素をご自分の恵み深い目的のために聖別された。私には、井戸の口に腰を下ろした主の真剣な御顔が見えるように思える。また、女の驚きに満ちた顔にも注目される。主は、彼女がこれまで一度も語りかけられたことがないようなしかたで、人が二度と渇かなくなる水について語られた。最初、この女はあれこれと疑問をあげた。彼女の性質の懐疑的な部分が先に立ち、揚げ足を取ったり、あら探しをしたり、議論したりした。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです」、云々と[ヨハ4:11]。あなたは彼女のうちに、不信心者のあらゆる要素を見てとれないだろうか? しかし、彼女は確かなお方に扱われており、すぐに疑問をあげる段階から懇願する段階へと移った。それで今度はこう叫んでいる。「先生。……その水を私に下さい」。残念ながら、彼女はまだ非常に無知であると思う。彼女は自分が何を願っているかさえ理解していなかった。それは、この聖句の次の言葉から明らかである。「私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように」。彼女は、霊的な話に物質的な意味を持たせている。彼女は唇をしめらせる水のことを考えていたが、キリストが語っておられたのは、心に触れる――心だけに触れる――生ける水、主ご自身の恵みと愛のことであった。ただし彼女の目は暗かったが、彼女の顔は正しい方を向いていた。そして何よりも良いことに、イエスがそこにおられた。主こそ盲人を手引きし、彼らの知らない道へと導くことができるお方であった。彼女については何の心配もないであろう。あなたは彼女のことは放っておき、あなた自身のことを考えて良い。

 私が今この場で話をしている人々の中には、この女のような無知とは手を切った方々、彼女がしたような疑問をあげる段階を通り越した方々がいるであろう。あなたは自分がいかなる者で、今どこにいるかを誰よりも良く知っている。だが、救いの恵みにあずかりたいと欲しているはずである。あなたは、あれこれ困難をあげることはやめている。そうした無駄に重箱の隅をつつくような、細かい区別立てはもう十分してしまった。自分が救われる可能性について疑念をほのめかしたり、キリストが《救い主》であるかどうかについて疑問を呈したりするばかりでは何にもならないと感じている。それであなたは、懐疑的な態度を離れて、別の線に沿って事を試そうとしている。あなたは今や、願い求める点に達している。それは、道の終点ではなく、一番目か二番目の停止点であろう。私はあなたがここまで達したことを喜んでいる。もしも手に入れるべき恵みがあるとしたら、あなたはこう云っている。「おゝ、それが手に入るならどんなに良いことか!」 もし赦しと平安と永遠のいのちがあるとしたら、あなたはイエス・キリストがそれについて云っておられることをみな信じており、それを自分のものにしたいと願っている。あなたは溺れる者が板切れをもつかもうとするように手を伸ばしている。あなたの願望は目覚めている。あなたの分別はもはやまどろんではいない。あなたは無関心と強情とは訣別しており、今やイエス・キリストによる救いを獲得したいと切に願っている。

 そうしたあなたにこそ、私は今晩、語りかけたいと思う。それで、第一に私は、この聖句を取り上げ、それを用いてあなたの願いをさらに強くかき立てることにしたい。この聖句で語られている水について描写するのである。第二に私は、あなたの心を安心させるため、あなたがこの水を獲得できる見込みについて、いくつか指摘したいと思う。それから私たちはしめくくりとして、あなたに促すであろう。この家から帰って行く前に、ぜひともこの祈りを天に申し立ててほしい、と。「主よ。その水を私に下さい。その水を今晩、私に下さい!」

 I. まず最初に私は、《あなたの願いをかき立てるために、この聖句で語られている水について描写したい》と思う。

 水は自然界において不可欠の元素である。さて私たちは霊的な世界について語ることがあるが、それを描写する際には、自然界から取られた類比を用いざるをえない。そして、精神的、霊的な世界における神の恵みは、まさに自然界における水と同じようなものなのである。あなたは人として水を必要としている。水がなくてはならない。場合によっては、水を摂取することが緊急に必要となる。飲まなくては死ぬのである。あなたは人として恵みを必要としている。からだのためではなく、魂のために必要としている。そして、あなたが恵みを得ることは緊急に必要である。さもなければ、あなたの魂は、まず現世では苦痛を受け、死においては自責の激痛にとらわれ、その後は、満たされない必要に対する永遠の渇きがあなたにとって第二の死となるであろう。

 神の恵みは少なくとも8つの意味において水に似ている。しかし、心配しないでほしい。あなたを飽き飽きさせるつもりはないので、安心してもらいたい。私はあなたをかちとりたいのであって、飽き飽きさせては私の目的が果たせないからである。私は8つの点について引き比べ、それぞれについて、ほんの少し注釈しては、急いで次に進んでいくことにしよう。

 1. 最初に、水は渇きを取り除くが、神の恵みもそうである。水を飲む人はのどの渇きがなくなり、その肉体的必要が取り除かれる。心に神の恵みを受ける人は、自分の性質が必要としているものを得て、その苦痛に満ちた切望がやむ。人は生まれながらに愚かなため、自分の性質が何を欲しているかが分からないが、何かを欲していることは感じる。目覚めさせられた人は自分に向かってこのように語る。「私は欲している。――何を欲しているかは分からない。――だが私は何かを欲していることが分かる。この世では与えることのできない何かを。自分の内側には見つからない何かを。私の同胞では私に授けることのできない何かを。何かを私は欲している。おゝ、わが神よ。それは何ですか? それが何であるか教えてください!」 愛する方々。もしあなたがそのような状態にあるとしたら、私たちの主イエス・キリストの福音こそあなたのためのものである。その中で主は、あなたの欲しているものが何であるかをあなたに告げているばかりでなく、それをあなたに差し出しておられるからである。主はあなたに、あなたが主の愛を必要としていることをお告げになる。もし主の恵みがあなたの心に注ぎ出され、あなたの罪が赦され、あなたが主の子どもとされ、キリストによって受け入れられるとしたら、あなたの魂はこう云うであろう。「もう私は自分が欲していたものを得ている。これ以上欲することはない。私は悠然として、こう云うことができる。神はほむべきかな、私は欲していたものを得た、と。この世が決して満たせなかった、ずきずきする空虚さは、今やあふれるほどに満たされている。また私の魂は、何を本当に欲しているかも知らないまま常に欲していたものを、いま得ている。私は今や完璧に満足して落ちついていることができる!」 人が、「私は満足だ」、と云えるとしたら大したことだが、キリストを信ずる純粋な信仰者はそう云うことができるのである。「あなたは私の一生を良いもので満たされます。私の若さは、わしのように、新しくなります」[詩103:5参照]。イエスを信じる信仰者たちは、満足という真珠をその胸につけている。イエスは私たちから不安な精神を取り去り、安らぎを下さった。イエスは心にとって最適の扉であり、私たちのそば近くにおられるとき、この世の冷気も熱気も閉め出し、私たちに甘やかな慰めを与えてくださる。おゝ、熱望をいだく人よ。あなたは何かを求めて駆け回っている。だが、何が自分の不滅の霊を満足させることのできるかを分かっていない。十字架に向かうがいい。その足元には魂を満足させる楽しみの泉が湧き出しており、身をかがめて飲みさえするなら、あなたの熱望はやみ、もはや何も欲さなくなるであろう。心と頭と良心の奥深くから発している切望を満足させるものが、イエスの傷口から湧き出ている泉にはある。信仰は銀の杯である。それをこの湧きあふれる流れに浸して飲むがいい。おゝ、聖霊よ。その杯を私のあわれな、渇ききった兄弟の口につけ給え!

 2. 二番目に、水はいのちを保つものでもある。何の水もない荒野では、唇はひび割れ、肌はかさつき、舌は燃え木のようになり、口は炉のようになる。そして倦み疲れた旅人は水を飲まない限り死ななくてはならない。おゝ、そこで一口でも水を飲めたならどんなに良いことか! 袋一杯の金剛石をもってしても、そこでは細口瓶すら買えないであろう! いのちの一飲みは値もつけることができない。また、はるか沖合いの塩気に満ちた海においては、

   「水また水ぞ、いずこにもある、
    されど、一滴(しずく)も 飲むをえじ」。

海員は、回りの海水で自分を満足させようとしても良いが、それは遅かれ早かれ自分に死を招くだろうと感じる。純粋で清浄で清新な飲み水を少しも得られない限りそうである。諸天よ。あわれんでしたたらせよ。あるいは、どこかの親切な船よ。この難破者らを発見せよ。人の魂にとっての神の恵みもそれと同じである。世の中に、神の恵み以外に魂を救えるものは何1つない。あなたの良いわざは、塩水が水夫の飲み物となれないのと同じくらい、あなたを救うことができない。種々の儀式は、荒野の熱砂が倦み疲れた旅人の渇きをいやせないのと同じくらい、あなたの心を平安で満たすことも、それにいのちを与えることもできない。神があなたを、あの、打たれた《岩》から流れる永遠のいのちの川へと導いてくださらなくてはならない。あなたはイエス・キリストを通して恵みを得なくてはならない。さもなければ、希望があなたに近づくことは決してなく、むしろ絶望の真夜中があなたの永遠の相続地となり、そこでは失われた霊たちが、果てしなき死の中で尽きることなき生を送っている自らについて嘆き叫んでいるのである。おゝ、魂よ。もしお前が神の恵みを得るとしたら、お前は決して死なないのだ! あなたはこれを信じるだろうか? もし神のその恵みがあなたの魂に流れ込んでくるとしたら、あなたは永遠のいのちを有するのである。この不死の原理は墓をもものともせず、死の顎そのものの中にあってもあなたを歌わせる。この水を飲む者は、キリストにあって永遠に生きるからである。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」[ヨハ11:26]。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」[ヨハ11:25]。ならば、神の恵みは、渇きをいやすのと同じく、いのちを保つのである。あなたは、それが真実であることを見いだしているだろうか? というのも、愛する方々。私は、自分の話をあなたに聞かせておきながら、あなたを一揺すりか二揺すりしないでおくことはできないからである。たといあなたがこの説教を忘れてしまうとしても、それは私が、これを覚えておくようあなたに迫らなかったためではない。

 3. 第三のこととして、水は汚れをきよめるものである。からだが汚れたときには、水の流れのところに行って洗いきよめるだけで良い。ある土地を越え行きつつある間、あわれな旅人は幾度となく小川のもとに赴く。それは自分の顔が映るほど澄み切った川で、彼は何度も自分の顔を洗い、水浴しては、全くつややかに晴れ晴れと出発する。あたかも悲しみを楽しみに取り替え、嘆きの代わりに喜びの油を受けたかのようである。さて、咎ある罪人は――そして、私たちはみな生まれながらにそのような者だが――、いかに汚れ果てていようと、この永遠の恵みの川に身をかがめて洗いさえすればきよくなる。この流れは、他の何をもってしても取り除くことのできないしみを取り去ることができる。生来の私たちの罪ははなはだしい深紅に染まっており、大西洋を赤く染めても洗い落とすことはできない。だが、このいのちの水にはそれができる。それは冒涜と情欲の汚点を取り去る。窃盗と殺人の汚染を取り除く。ありとあらゆるしかたの罪が、十字架のもとに来てイエスに信頼すれば赦されることになる。世界の偉大な《贖い主》を信じる者は誰でも、自分が犯してきたあらゆる罪状に対する余すところなき完全な赦罪を見いだすのである。おゝ、試してみるがいい。あなたがた、暗黒の中でも最暗黒の人たち。もしあなたがこの場にいるとしたら! あなたがた、罪の極限まで行き着いてしまった人たち。あなたの咎ある魂をこの泉に投げ入れ、あなたが幼子のように汚れなき、きよらかな肌になり、しみ1つない者となって浮き上がってこないか見てみるがいい。このように汚れを取り除くものこそ、十字架から流れる神の恵みである。十字架でイエスは私たちに代わって、私たちのもろもろのそむきの罪ゆえに、私たちが受けて当然であった御怒りを受けてくださったのである。

   「カルバリの驚嘆(わざ) 辿り見よ、
    義の 恵みにて現わるを。
    その緋の流れ 見て告げよ、
    かくわが罪は 洗われぬ」。

愛する方。あなたは信仰によってそう云えるだろうか? あなたは罪を赦されるため、神の愛する御子の血に頼っているだろうか?

 4. さらに水は、ものを柔らかくするものとして非常によく知られている。あるものは水の中に入れられると、たちまちその固さを失い、やんわりとした柔軟なものになる。神の恵みというこの水は、私が切にあなたに勧めたいものだが、驚くほどの軟化力を有している。鉄石も、石臼も、左様、臼の下石[ヨブ41:24]も、北からの鉄や青銅[エレ15:12]も、この泉に浸されたとき溶かされてきた。いかにかたくなな心も、キリスト・イエスにおいて明らかにされた神の愛の力の前には屈してきた。私は、あなたがたの中のひとりがこう叫んでいるような気がする。「それは私にとって良い知らせです。キリストが私を赦すことがおできになることは分かりました。ですが、私はしかるべきほどに私の罪を感じられません。私は非常にうなじのこわい罪人で、非常にかたくなで、非常にねじくれています。私は、自分で願うほどに自分の必要を感じられないのです」。魂よ。もし神の恵みがあなたの心の上に流れ来るとしたら、それはその石を、不思議な変容によって、たちまち肉に変えるであろう。いかなる強情さであれ、神の恵みに打ち負かされないものはない。これは説教者にとって何と幸いなことであろう。彼は自分の話を聞く者たちに柔らかな心を与えなくとも良いのである。御しやすい心をした者たちを見つけることから始める必要さえないのである。このことを思い起こすのは彼にとって何という喜びであろう。彼の宣べ伝えている福音は、不思議を行なうことができるもの、モーセの杖にもまさる不思議を行なうことができるものなのである。というのも、福音によって私たちが岩をすら打つとき、悔悟の流れが吹き出し、それどころか、その岩のような魂そのものが罪意識のもとで溶解していくのである。おゝ、タルソのサウロのごとき者が今この流れによって洗われればどんなに良いことか! その人はもはや神の教会の敵になろうとはせず、どこかの貧しい弟子を見つけ出しては、救われるには何をしなくてはなりませんかと尋ねるであろう。これは心を柔らかくする水である。願わくは主がそれを、この場の、まだかたくなな心を残しているあらゆる人々に与えてくださるように。私はあなたのために今以上に優しい感情をいだけるというなら、喜んでその水に新たに入るであろう。愛する方。あなたは自分を不憫だとは全く思わないのだろうか?

 5. 第五のこととして、この水には、地上の水と同じように、火を消す性質がある。あらゆる最新の発明にもかかわらず、結局のところ水ほど消火力のあるものはない。消防車のもとに一目散に走って行き、水流を吹き出させる。それにまさることがありえるだろうか? しかし、人間の心の中には数々の火炎が燃え盛っている。深層にある、地獄の深みから焚付けられている火山性の炎、その激越な火焔は内なる人の内部で吠え猛り、そのうちに罪の溶岩流となって噴出し、その人の日常生活をドロドロと覆い尽くしてしまう。――これらは、天的な水以外の何物によっても消されるものではない。おゝ、情欲は何たる火であろう! いかに多くの人がそれによって焼き尽くされてきたことか! それは火が刈り株をむさぼり食らうように人をむさぼり食らっている。しかし、神の恵みがやって来るとき、いかにすみやかにその火は火力を弱められ、永遠に消し止められさえすることか! また魂の中には他の火も燃えている。――ねたみと悪意の憤り、怒りと汚れた欲望という炎――いかにこれらは、神の恵みがやって来るまで荒れ狂い、赤々と燃え輝くことか! 私の知るところ、多くの人々は、これこれの罪なしには自分はとてもやって行けないと感じている。「おゝ」、とその人は云う。「私は、あれなしでは生きていけません。あれは私にしみついた習慣になってしまいました。それで、どうしても私はあれをせずにはいられないのです」。あゝ! だが、あなたは新しい人にされる。全く新しい人となるため、たとい自分の古い自我に出会うことがあっても、そのみじめなものを避けようとするか、死に物狂いでそれと格闘しようとするようになる。その卑しいしろものを心底から憎悪しているからである。あなたに云わせてほしい。あなたは、生きている限り、二度とあなたの古い自我とねんごろになることはないであろう。あなたは自分のその古い自我を憎むであろうし、それを殺すことが日々の願いとなるであろう。あなたは、それの手足に釘を打ち込み、イエスの十字架につけようとするであろう。そして、日々それを殺し、それを、その様々な情欲や欲望とともに[ガラ5:24]死に至らしめようとするであろう。おゝ、罪の火焔を消火する神の強大な恵みよ! おゝ、罪人よ。地獄の炎そのものでさえ、この神の恵みによって消されるのである。救われた魂に関する限りはそうである。この泉で洗われている魂にとって、神がそれを罰することのできる地獄はどこにもない。いかにして神は、赦罪を受けた罪人を罰することができるだろうか? いかにして、キリスト・イエスにある者がその火炎の中に投げ入れられることがありえるだろうか?

   「いかな断罪(さばき)も もはや恐れじ、
    正義は打てり、わが《保証人》(みうけ)をば」。

「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」[ロマ8:33]。キリストを自分の身代わりとしている人は、地獄のあらゆる恐れが届かないところにいる。その人はそのすさまじい深淵を見下ろして、自分のために燃え盛っている炭火はそこにないと感じることができる。そして、誰が滅びることになるとしても、自分はキリスト・イエスのうちにある以上、決して死ぬことはありえないと感じられる。愛する方。あなたの魂の中の火炎は、この素晴らしい敵手に出会っているだろうか? 恵みの消防車はその大水をあなたの魂に打ちつけているだろうか? 良心に答えさせるがいい。そして、それにあなたの耳を傾けるがいい。

 6. 六番目の性質は、普通の水には見いだされないものである。それは、それが泉を作り出す水だということである。いのちの水が落ちかかるところどこにでも、それは新しい泉を生じさせる。その泉はたちまちブクブクと湧き出し始める。それは、こういう意味である。もし神の恵みがある人の心の中に入るならば、それは不滅の原理となり、《救い主》が云っておられるように、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」[ヨハ7:38]。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」[ヨハ4:14]。水たまりと、水の湧く泉には何という違いがあることか! アルプスを越えていく際に人はしばしば息を切らし、のどの渇きを覚えるが、その甘やかな安息となるのは、水の湧く泉のかたわらに腰を下ろし、顔と足を洗うこと、あるいは全身で水浴することである。あなたは足が痛くなるほど歩き通しだったかもしれない。――あなたは腰を下ろして足を洗う。もしあなたの見いだしたものが水たまりだったとしたら、あなたはその底をかき乱し、それはすぐに濁り水になってしまうであろう。だが、それが水の湧く泉だったとき、あなたは腰を下ろして洗って、洗って、また洗うことができる。また、たとい底にある砂をかき乱したとしても、その濁りは一瞬にして流れ去る。なぜなら、水は間断なく清新に清新に湧き出しており、それゆえ、常に清浄だからである。キリスト者のうちにある神の恵みもそれと同じである。それは決して平板なもの、鈍重なもの、死んだものとなることがない。そして日ごとに汚染されようとも、日ごとに私たちの足が洗われようとも、汚れはしない。なぜなら、それは生ける泉であり、ダビデの歌うところ、彼が自分の主なる神のうちに見いだして喜んでいたという、かの「新しい泉」から生じているからである。もしあなたの内側に泉がないとしたら、キリスト者の役割を演ずることは非常に困難なことである。人が、いのちもなしに年々歳々、信仰告白を保っていかなくてはならないということ、何と、それは奴隷のわざに違いない。あなたは、私がこの場に来て席に着くのは、あるいは他のいずれかの礼拝所に行ってそこに立つのは、自分ではほとんど気乗りがしていないにもかかわらず、そうすることが体裁の良いことだからにすぎないと思うだろうか? そうだとしたら、今すぐ奴隷になった方がましである! まことに卑しむべきは、自分のキリスト教信仰においてさえ、暴君の農奴となっている人である。逆に、ある人が神の家にやって来るのは、そこにいることが好きで好きでたまらないためであり、賛美歌を歌うのは歌わずにはいられないためであり、神の民に結びつくのは「類は友を呼ぶ」ためであり、彼らの間にいるのが嬉しくてたまらないためであるとしたら、――何と、そこには確かに何かがあるに違いない。真実さと真摯さの香る何かがあるに違いない。自分の魂に敬虔さの大きな深みがない人は、キリスト教信仰によって奴隷になっているのである。犬のような生き方をしながら、食卓から落ちるパンくずさえ自分の分け前としては受けていないのである。よく聞くがいい。兄弟たち。この泉なしに説教するのは、それなしに説教を聞くよりも難しいことである。なぜなら、もし自分のうちに泉を有していないとしたら、こちらの死人の数々の書物をひっかき回したり、あちらの死人の蓄えを探したりして、何とか主題を見つけようとし続けることはできるかもしれないが、すぐに枯渇してしまうからである。だが、もし聖霊なる神があなたの内なる泉であるとしたら、あなたは尊い真理に満たされ続け、神があなたの口に言葉を与えてくださる限り、それを注ぎ出すことができ、枯渇することはないであろう。生ける水がキリスト者のうちで泉となるのは、何という祝福であろう! 形式尊重という、よどんだ沼の1つとなり、偽善の悪臭を立ち上らせるのは何という呪いであろう。愛する方。あなたはどこにいるだろうか。私はもう一度この手をあなたにかけなくてはならない。この件においてあなたは、神の御前でいかなる者だろうか?

 7. 第七に、これは実を生み出す水である。雨が降らないとしたら、いかなる実が木になるだろうか? いかなる草が牧草地に茂るだろうか? いかなる収穫が田畑に実るだろうか? 水なしではすべてが不毛になり、たとい実がなっても、十分な量の水がなければ、それは何と貧弱なものとなることか! 六月に田舎に行ったとき私は何度か大雨に遭ったが、それがいかなる益を及ぼしているかを考えずにはいられなかった。そこには丸々と太りたがっている小麦があり、そこに降った雨によって、その中身が詰まり、穂には実が入ったのである。もちろんその雨がなくとも小麦は実ったかもしれない。だが、干魃が解消したときの方が、穂にはずっとぎっしりとした穀粒が入るものである。そのように、兄弟たち。私たちは恵みが少ししかないときも、少々は実を生み出すことができる。だが、恵みをより多く有しているとしたら、その実はいかに丸々と充実したものとなることか! 私たちの実はいかに豊かで、肥えた、また熟れたものとなることか! 実を生み出すこの水をより多く有するとき、神に対する私たちの奉仕はいかに向上し、全きものとなることか! 神の恵みなしに神に仕えることはできない。神に真の賛美をささげ、真の祈りをささげ、受け入れられる何かをささげたければ、最初に神からその恵みのための雨を与えられ、恵みの上にさらに恵みを受ける[ヨハ1:16]のでなくてはならない。「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」[マタ7:20]。おゝ、実のないいちじくの木が、恵みによって、良い実をならせる木に変えられたとしたらどんなに良いことか!

 8. そして、この点に関する最後のこととして、それは天に上っていく水である。あなたも知る通り、水には自らの水準まで上るという、静水力学の一法則がある。つい先頃まで私は、そうした事がらは知れ渡っていると思っていた。そのとき私は、一部切通しになっている路を行く馬車に乗っていた。そして、ある樋が路の上に差し渡されて、一方の畑からもう一方の畑へと水が流されていた。それは、道行く人の上にばらばらと降り懸かり、路の真中をぬかるみにしていた。さて、その小さな水流に路の下を通らせ、管を通して再び湧き上がらせることは簡単にできたはずである。だが、私が思うに、その樋が作られたとき、それを作った人々には、水がその水源の高さまで上ろうとするものであることが知られていなかったのである。さて、神の恵みは、その源泉まで高々と上ろうとするものである。もしあなたや私の内側にある恵みが、私たちから生じていたとしたら、それは決して私たち以上には高く上らないであろう。もしあなたの有する恵みが、あなたに洗礼が施されたときに祭司から与えられたものだとしたら、それは決してその祭司以上には高く上らないであろう。だが、もしあなたに、天から下ってきた、神の真の恵みがあるとしたら、それはあなたを、その源泉たる新しいエルサレムの高みへと連れて行くであろう。神の御座の高みには、天来のあわれみを生じさせている永遠の泉がある。神の主権の足元には、1つの泉が湧き出ている。水晶のように清澄で、しみ1つないほどきよい泉であり、それが地上に流れ落ち、十字架の道沿いに滔々と下っている。そして、それはその源泉と同じくらい高く上るであろう。自らの源である、かの御座へと再び上っていき、自らの水準にまで高まり、その水面にあなたを浮かべるであろう。もし、神の恵みによって、あなたがイエスの死に給う愛の流れにさらわれていくとしたら、それはあなたを自らの水源へと連れて行き、神のおられる所にあなたもいることになるであろう。あなたは、神から来た、天来の水源から来た恵みを味わされ、感じさせられ、それに飽和させられているため、あなたもまた天来の相続地を永遠に得るであろう。川々が海に下るのは、元々は海から出て来たからである。太陽が海に口づけし、それを雲として自分のもとに上らせ、それが雨となって降ってきたのではなかっただろうか? そのように、私たちのうちにあるあらゆる恵みの川は、それが発した元々の海、かの、底もなく果てしもない永遠の愛という海へと流れ込んでいくのである。なぜなら、それこそそれらすべての永遠の源泉であり、水源だからである。苦しみの雲々はイエスの心からわき起こり、あわれな罪人たちのためのあわれみの雨となって地上に帰って行く。愛する方。あなたは、自分の魂そのものの内側で、このことについて何か知っているだろうか?

 さて、私は、イエス・キリストにおいて啓示された神の恵みについて語ってきた。私が望むことはただ1つ、この場にいる誰かがこのように云うことである。「私もそれで洗われたいです! それで私の渇きをいやされたいです! 私の魂にそれが満ちあふれてほしいです! その精力によって私も天国まで上げられたいです!」 おゝ! ならば、魂よ。私はあなたにそうした願いがあることを喜ぶ。それを祈りに変えて、その祈りをこの聖句とするがいい。「その水を私に下さい!」

 II. さて今、ごくごく手短に私たちは第二の点を取り上げるであろう。すなわち、《あなたの心を励ますために、あなたがこの生ける水を手に入れる見込みについていくつかの考察をする》ことである。

 私は今、あなたが本当にそれを欲していると思うことにする。もしあなたが、「先生。その水を私に下さい」、と云うとしたら、あなたはそれを得るであろう。そして私は、なぜあなたにそれが得られると考えているかを告げることにしよう。――それは、第一のこととして、普通の人が他の人に水を拒むなどということは考えられないからである。かりに私が井戸のそばに立っているとして、あなたが私に近づき、「先生。その水を私に下さい」、と云った場合、私は、「好きなだけいくらでもどうぞ」、と云うであろう。水を与えないような者がいるだろうか? これは、あらゆる賜物の中でも最もありふれたものである。水がはるかに貴重なものとされている東方においてさえ、そうである。《救い主》は、これを最もありふれた恩恵の行為として言及しておられる。「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません」[マタ10:42]。一杯の水をも人に拒むような者がどこにいるだろうか? ならば、注意するがいい。本日の聖句によると、救いに至る恵みを与えることは、この大いなる《贖い主》にとって、水を与えるようなものでしかないのである! 恵みを受けるということは、あなたにとっては値もつけられないほど貴重な恩恵である。だがイエスにとってそれを与えることは喜びなのである。あなたが水を与えるなら、あなたの手元にある水はやや少なくなる。だがキリストが恵みをお与えになるなら、その恵みは全く少なくならない。主はその崇敬すべきご人格に宿る、無尽蔵に豊かな恵みを変わることなく有しておられる。太陽がいくら輝いていてもその明るさが減らないように、また、大海原がいかに雲から吸い上げられても常に満ち満ちているように、イエスも常に変わらず、赦しを給うあわれみと、救いに至らせる力とに、豊かに満ちておられる。私は云うが、イエス・キリストにとって恵み深くあられることは、あなたや私が水を分け与える程度に気前良くなるのと同じくらい主のご本性にかなったことなのである。あわれな困窮しきった魂を祝福することはイエスにとって何の苦労でも、何の損失でも、何の負担でもない。そのあらゆる苦痛と代価を主はとうの昔に支払っておられ、今や咎ある者を救うことは、主がご自分の激しい苦しみ[イザ53:11]のあとに見るべき報酬なのである。さて、もしこの場で神の恵みが黄金にたとえられたとしたら、その比喩はその価値を表現するのにうってつけであったろう。だが、あなたは云ったであろう。「誰が黄金を他人に与えたりするでしょうか?」 しかし、ここでそれは水にたとえられているのである。水を人は惜しみなく与える。そして、私たちの主イエスは決してご自分にそれを求める者を拒絶することはなさらない。ならば、もし普通の人が水を与える以上、――また、キリストがその恵みを水にたとえられた以上、主があなたに、「先生。その水を私に下さい!」、と云わせた上で、それなしにあなたを去られることがあるなどとは決して私は信じない。愛する方。主イエスがしみったれていて、不親切であるなどと考えるほど不信仰になってはならない。むしろ、その生ける水を求めるがいい。そうすれば、それはあなたに与えられるであろう。

 さらに、あなたが水を誰かに拒むとしても、確かにのどが渇いた人には拒まないに違いない。もしその人が息切れしているのを見、熱い汗がその額からしたたり落ちているのを見るとしたら、また、その人がほとんどまともな口をきくこともできず、ただ、「旦那。ほんの一杯、水をいただけたら、心底ありがたく思いやす」、とあえぎながら云うとしたら、何と、あなたは走って行って、その水晶のようにきらめくものを持って来ては、彼が飲み干すのを見て非常な喜びを感じるであろう。そうではないだろうか? そうに違いないと思う。さて、もしあなたが渇いた魂だとしたら、キリストがあなたにいのちの水をお与えになるのは確実だと思う。主はそれを求める者すべてにお与えになる。主は誰をも拒まないからである。だが、あなたにはそれをたちどころにお与えになるであろう。というのも、主はこう約束されなかっただろうか? 「悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする」[イザ41:17-18]。「おゝ」、とある人は云うであろう。「何と私は救われたくてたまらないことでしょう! 何と私はキリストを得たいと切に願っていることでしょう!」 ならば、あなたは主を得ることができる。イエス・キリストはこれまで一度も渇ける罪人を拒んだことがなく、一度もご自分の財産を貧しい者に与え、ご自分の着物を裸の者に与え、ご自分の薬を病人に与えることを拒んだことがないからである。主はそうした者を祝福するためにわざわざやって来られた。私は云うが、あなたが真剣に、「主よ。私にその水を下さい」、と祈るとしたら、あなたがその祝福をいただく見込みは十二分にある。否、それは確実である。

 もう1つ、あなたへの慰めを示す理由がある。すなわち、――確かに、この水はふんだんにあるに違いない。使徒ヨハネは「いのちの水の川」を見たと語っているからである[黙22:1]。さて、深く、幅の広い川の流れがあるときに、誰もそこから汲み出すことを心配しはしない。誰が自分ののどの渇きによってテムズ川を涸らしたり、ドナウ川を飲み干したりするのではないかなどと恐れるだろうか? そればかりでなく、ジョン・バニヤンが私たちに思い起こさせているように、川は誰が飲んでも自由なものである。その水源は私有のものかもしれない。多くの川は公園か私有地に端を発している。だが川そのものは公共のものである。それが相当の水量に達するや否や、それは公道となり、万人のための給水路となる。それは自由であり、好きなように流れていく。川には一種の主権がある。あなたは川に向かって直線で流れろと命ずることも、幾何学の法則に沿うよう命令することもできない。川には川自身の愛しい意志がある。もし川がある町のそばを通ることを選び、別の町には近づかないとしたら、誰がそれを阻もうとしても、川は思い通りにするではないだろうか? しかし、その川筋と行く先については主権を有するものの、それが公共の用途に供されることについては、川は自由である。牛の群れは飲み水を飲みにやって来るし、やせこけた野良犬でさえその川の水辺に近づくとき拒まれはしない。もしその犬が真夏の盛りに、川水をぴちゃぴちゃ舐めて、その熱い舌を冷したいと思うなら、誰がそれに駄目だなどと云うだろうか? そして、あなたがた、あわれな罪人たち。あなたは神の恵みがあなたに自由に与えられることを見いだすであろう。というのも、それは十分にあるからである。それは川岸まで満ち満ちている。否。川岸を越えてあふれ出している。恵みは氾濫している。あらゆる人がやって来たとしても不足など決してありえないほどに氾濫している。幾万の人々がやって来ようと、イエスのうちにはその全員の必要に答えるに十分なだけの恵みがなおも見いだされる。というのも、主は、ご自分が連れて来る者たちに、キリスト・イエスにあって食べるものを供することがおできになるからである。神の恵みはその選びにおいて主権的であり、その向かう先において差別するが、それでもあらゆる渇いた者――その永遠の豊かさにあずかりたいと切望する者――が誰でも自由に受けることができる。また、やはり私は別の考えによっても慰められる。すなわち、この川は目的からして渇いた者たちのためのものなのである。確かに、もしもあわれみが、自分の罪と悲惨のゆえにそれを欲している者たちのためのものでないとしたら、一体全体何のためにあるのか私には見当もつかない。罪人以外のいかなる者たちのために、キリストは贖いを成し遂げることなどありえただろうか? この愛する《医者》が天国からわざわざやって来て癒そうとした者たちが、健康で、何の薬も必要としていない人々だったなどいうことはありえない。主がその大いなる穀物倉を開いたのが、自分自身の収穫を得ている国々のためだったなどということはありそうもない。私たちのヨセフが小麦を貯蔵しておいたのは、飢えて滅びつつある者たちのためであったに違いない。おゝ、あなたがた、困窮する人たち。来て、迎(い)れられるがいい。というのも、この泉が開かれているのは、特にあなたのためだからである。あなたのような人々が来て飲むためだからである。愛する方。私たちの招きは、あなたに何の力も及ぼさないだろうか? おゝ、聖霊よ。あなたの御力で人々を、きょう喜んで来る者となさせ給え!

 また、やはり、主を求めているあなたは確実にその恵みを見いだすだろうと私が感じているのは、これまで一度も拒まれた者がいないからである。ひとりの親愛なる兄弟――私の信ずるところ、今もこの場にいるであろう人――が私に告げてくれたところ、彼が回心したのは、その少年時代に耳にした、とある説教の一言二言のおかげだったという。それは、村の共有緑地に置かれた丸太の上に立って説教していた名も知らぬ人の言葉であった。この兄弟は、それまで全くどこにも福音を聞きに出かけたことがなかった。――だが、たまたま村の中をぶらついていて、その人物がこう云うのを聞いたのである。すなわち、いまだかつていかなる魂であれ、イエス・キリストを真摯に求めた後で、早晩平安の状態に導き入れられなかった者はいない、と。そして私にも、あなたがた全員に云わせてほしい。――それが誰かの心の中にしみ通り、いつの日か慰めをもたらさないとも限らない。――あなたは永遠に達したとき、決して次のように云うことはないであろう。自分は主を求めたのに、主は自分に耳を傾けてくれなかった、と。私は、このことを母から聞いて、非常な慰めを与えられたときのことを覚えている。母はこう云ったのである。わたくしは、世の中で悪い言葉をたくさん聞いてきましたが、「俺様はイエス・キリストによって真剣に神を求めてきたのに、それでも神に拒まれたのだ」、などと云うほどの悪人にはひとりも出会ったことがありません、と。これを聞いたとき私は、自分はそう云うようになるだろうと思った。というのも、私は自分が主を求めてきたと確信していたのに、それでもまだ慰めとなる答えを得ていなかったからである。しかし、私がそれを云うことは一度もなかった。それを口にする理由が全くなくなったからである。そのような絶望の状態に追いやられることがありえる前に、私は主を仰ぎ見て、光を受けたのである。そして、私はあなたについてもそうなるだろうと確信している。「その水を私に下さい」、と云った者のうち、拒絶された者は決していないし、あなたがその最初の者となることもないであろう。

 この点のしめくくりとして、救いに至らせるそのあわれみを分け与えることは、イエス・キリストの栄光である。それゆえ、キリストがそれを差し押さえることなどないと確信するがいい。ひとりのあわれな罪人に対してご自分のあわれみを拒否することは、決してキリストを栄光に富ませることにはなりえない。求める罪人の面前でご自分の扉をぴしゃりと閉めても、それは主にとって何の得にもなりえない。血を流し給う《小羊》が、血を流しつつあるあわれな心に対してあわれみ深くあることをやめるなどということは不可能である。この偉大な《医者》の御名を栄光に富むものにしうるあらゆることにかけて、罪人たちのためにその魂がこうむったあらゆる激痛にかけて、主があなたを拒むことはないと私は確信している。何と、医者は、より多くの者を治せば治すほど、その声名が高くなる。《救い主》は、より多くの者を救えば救うほど、その誉れが高くなる。イエス・キリストは、多くの者を祝福すればするほど、その賛美はいや高いものとなり、その血によって洗われた、幾万もの罪人たちから上げられる、かの大いなる「ハレルヤ!」の叫びは高くなるであろう。ならば、来るがいい。求めつつある罪人よ。いま来るがいい。そして、謙遜な信仰によって、この《仲保者》のいけにえに信頼するがいい。あなたの目を拭うがいい。しっかりするがいい。心を大胆にするがいい。主はあなたをお呼びになっている[マコ10:49]。主の食卓には余地がある。扉は開かれている。主の心には余地がある。主はご自分に安んじる者たちのために死なれたのである。もしあなたがキリストを得たいと願っているとしたら、キリストはあなたを得たいと願っておられる。もしあなたがその祝宴に行きたいと切望しているとしたら、主はあなたが祝宴を欲しているのと同じくらい、客たちを欲しておられる。ただ主に信頼するがいい! 願わくは神があなたを助け、その御霊によって神に信頼させてくださるように。そうすれば、あなたは生きるであろう。

 III. 最後のことはこうである。今晩この家を離れる前に、私はあなたに促したい。――いくら私が促しても、聖霊なる神がそれをご自分のものとしてくださらない限り、何の役にも立たないであろうが――《あなたもこの聖句の祈りを祈るように促したい》

 願望は袋の中の種のようなものだが、祈りはそれを耕地に蒔くことである。願望は瓶の中の水のようなものだが、祈りはそれを飲むことである。さて、私があなたに勧めたいのは本日の聖句の祈りである。――「先生。……その水を私に下さい」。ならば、あなたの祈りはキリストに誉れを与えることから始めるがいい。キリストのことは、「先生」、と呼ぶのではなく、「主よ」、と呼ぶがいい。この女は、その敬意が許す限りにおいて、最高の称号を主に与えた。彼女はキリストがそれ以外のいかなる立場にあるかも知らなかったが、「先生」、と呼んだ。さて、あなたはイエスを、「主よ」、と呼ぶがいい。あなたは、キリストから誉れを奪うとしたら、あわれみを得ないだろうからである。キリストのことは、神のひとり子であり、罪人たちのために苦しんでおられるお方であると考えるがいい。キリストを「主」と呼びかけるがいい。あなたにそれができるだろうか? もしあなたがキリストの神性を拒絶するとしたら、あなたは自らをキリストの御国から閉め出しているのである。キリストは、《救い主》としてと同じく、主また神としても認められなくてはならない。「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「私は長いことキリストを主と呼んできました。私はキリストが神であると知っています。その永遠の御力と《神格》を思って喜んでいます。私は自分の持っているすべてをもって主に誉れを帰したいと思います」。よろしい。ならば、あなたは良い出だしを切っている。だが恵みがあなたをさらに進ませてくださるように。

 さて次のこととして、もしあなたがこの祈りを正しくささげたければ、自分には何も受ける資格がないことを認め、そう告白するがいい。これは、「先生。その水を私に売ってください」、ではなく、「先生。その水を私に下さい」、である。それが賜物であることを告白するがいい。あなたは、それ以外のしかたでは決してそれを手に入れることがない。あなたの功徳を売り込むことなど捨て去るがいい。あなたの祈り、あなたの涙、あなたの切迫感に信を置くことなど捨て去るがいい。あわれみは、ただで与えられるものでなくてはならない。さもなければ、決してそれは手に入らない。「先生。それを私に下さい。私に下さい。その水を私に下さい。おゝ、主よ。恵みを私に下さい。でなければ、私は死んでしまいます。あなたの無代価のあわれみとして私に下さい。あなたは罪人のかしらをも救うと約束されたのですから。主よ。私は誇ることをやめました。自分が他の人々のようではないことを感謝するパリサイ人の祈りをやめました。私は空手で来ています。裸で、貧しく、みじめな者として来ています。私に下さい。代金になるようなものは何も持っていません。おゝ! 私に下さい。金を払わないで、代価を払わないで、あなたの救いをいただかせて下さい」。愛する方。あなたの高慢はこれに反抗するだろうか? 賢くなるがいい。私はあなたに願う。あなたの首を恵みのくびきの下に服させるがいい。

 また、それをあなたの個人的な祈りとするよう注意するがいい。――「主よ。それを私に下さい」。とりあえず、隣人のことは放っておくがいい。彼らのことは、あなたが救われてから気にかけるがいい。あなたの救いが確保されたなら、彼らの救いの心配をするがいい。だが今は、まずあなた自身を扱わなくてはならない。あなたの子どもたち? 左様。彼らのために祈るがいい。あなたの親戚たち? しかり。彼らのことも考えるがいい。しかし、同時に今はあなた自身のこと、あなたひとりのことこそ問題である。この会衆全体のことを考えてはならない。今はあなた自身の魂について個人的に考えて、「主よ。その水を私に下さい」、と云うがいい。メアリー。私が云っているのはあなたのことである。トマス。君のことである。ジョン。あなたのことである。この祈りがあなた自身の唇から、まぎれもなくあなた自身のものとして発されるようにするがいい。今この家の中に座っている、あるいは立っている所で、そっとこのように嘆願するがいい。――「主よ。あなたの恵みを私に、この私に下さい」。

   「目をとめ給え、恵みの父よ、
    われの心に 罪は満てども
    汝れはわれをば 呪うべくれど
    汝があわれみを 照らさせ給え、
      この我れにさえ。

   「目をとめ給え、優しき救主(きみ)よ!
    汝れを愛させ すがらせ給え
    われは慕えり 汝がいつくしみ。
    来たりしときに 召させ給え
      この我れさえも」。

もう一言云う。この祈りは現在形でささげてほしいと思う。――「明日、その水を私に下さい」、ではなく、「今晩、それを私に下さい。主よ。いま私の魂をお救いください」、と。ほとんどの人々の中で最悪なのは、こういう人である。彼らは救われたいとは思っている。だが、それは彼らが死ぬときでなくてはならない。あなたは一生の間ずっと悪魔に仕えておき、それから最後になって悪魔から自分の魂をくすねようというのである! 何と卑しく、みじめな考えであろう! もし神が神であれば、神に仕えるがいい。いま仕えるがいい。そして、願わくは主が、ただ――私たちの願うように――死のときのみならず、生きている間から私たちをご自分のものとしてくださるように。「その水を私に下さい」。でも、私は次の水曜日には出かける用事があるんです。それは恰好悪いですよ! 「わかりました」、とひとりの若い婦人が、ある信仰復興集会で云った。彼女は大いに心を動かされていた。「ですが、私は明日、舞踏会に行くことになっているんです」。それで、良いことはみな、それを理由に後回しにされてしまった。だが、彼女はその舞踏会の席上でばったり倒れて死んでしまったのである! 願わくは、この場ではそうした類の先延ばしが決してなされないように。ずるずる先に延ばすうちに私たちが永遠に至るようなことになってはいけない。そこでは、いかなる恩赦令も下ることがないのである。

 私たちが今キリストを有することができるように。私たちは生きて明日の太陽を見ることがないかもしれない。今夕、すでに太陽はほとんど没してしまったが、それでも、とっぷり暮れるより先に、私たちの人生の方が終わりを告げないとも限らない。私たちはいかに死の側近くに立っていながら、死について僅かしか考えないことか! 時として私たちは、自分の墓の瀬戸際に立っていながら、いくらでも寿命があるかのように戯れたり笑ったりしている! あなたは――あなたがたの中のほとんどの人々は――死を忘れている。共同墓地が町はずれにあるとしても、それを忘れ去るべきではない。葬儀馬車は空恐ろしいほど定期的に行き来しており、鳴り渡る教会の鐘は錆ついておらず、『土は土へ、ちりはちりへ、灰は灰へと還る』との言葉は、私たちの中のある者らの耳に馴染んでやまないからである。じきに、あなたの死ぬ番がやって来るであろう。あなたもまた、足を床の中に入れ、あなたの父の神と出会わなくてはならない。願わくはあなたが、神と正しい関係にある者となっていられるように。私はこうした言葉が特に誰と関係しているかほとんど分からない。だが、愛する方。それはあなたに関係しているかもしれない。見ればあなたがたの中には喪服を着ている方々がいる。あなたは他の人のことを嘆きながら墓場へと赴かなくてはならなかった。だがその喪服は、じきに他の人々があなたのために着ることになるであろう。今はあなたのことを知っている場所は、永遠にあなたのことなど知らなくなるであろう。おゝ! いのちのはかなさにかけて、《主人》の間近な到来にかけて、あるいは、死の確かさにかけて、私はあなたに願う。この祈りをそっとささげてほしい。『主よ。あなたの恵みを私に下さい』、と。主があなたを助け、そう祈らせてくださるように。アーメン。

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いのちの水[了]

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