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罪の償い

NO. 561

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1864年某月、夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「あなたは、彼のいのちを罪のためのいけにえとする」。――イザ53:10 <英欽定訳>


 ユダヤ人も異邦人も、罪のためのいけにえとは何であるかを、よく承知していた。異邦人たちには、いけにえをささげる習慣があった。しかしながら、ユダヤ人たちの方が、はるかに明瞭な観念を有していた。では、罪のためのいけにえとは、何を意味していただろうか? 疑いもなく、それをささげる者は、血の注ぎ出しなくして罪の赦しがないことを当然認めていたに違いない[ヘブ9:22]。咎を自覚し、赦しを切望していたがために、彼はいけにえを携えて来て、その血を祭壇の基部に注ぎ出したのである。――彼は確信していた。いけにえがなければ、決して贖罪はなく、贖罪がなければ、赦しは決してない、と。また、ささげられるべき犠牲動物は、いかなる場合であれ、傷のないものであった。それには何の欠陥もないように、細心の注意が払われた。というのも、罪のためのいけにえには、それ自体は罪がないものでなくてはならない、という観念が、常に結びついていたからである。それは、しみや、しわや、そのようなものの何1つないものであって初めて、ささげ手の立場に代わる完全な犠牲動物であると考えられたのである。それが確認された上で、犠牲動物が選ばれ、ささげ手は自分の手を、その罪のためのいけにえの上に置いた。――そして、これこそ実際、このやりとり全体の真髄であった。――犠牲動物の上に自分の手を置きながら、彼は自分の罪を告白し、ささげ手から犠牲動物への罪の移転が、少なくとも型としては行なわれた。いわば彼は、罪を自分自身の肩の上から降ろし、今からほふられようとしているその小羊、あるいは雄牛、あるいは雄山羊の肩の上に置いたのである。そして、その罪のためのいけにえを完成させるために、祭司は短刀を抜き、その犠牲動物を殺す。それは完全に火の上で焼き尽くさなくてはならない。私は云うが、これが常に罪のためのいけにえの観念、完璧な犠牲動物の観念であった。自らは何の違反も犯していないものが違反者の立場を取る、ということ。違反者の罪が犠牲動物へと移される、ということ。そして、なされた罪について、犠牲動物の形を通して償いがなされる、ということである。

 さて、イエス・キリストは、神によって罪のためのいけにえとされた。そして、おゝ、今晩の私たちが、ユダヤ人が象徴として行なっていたことを現実に行なえるとしたら、どんなに良いことか! 願わくは私たちが、キリスト・イエスの頭の上に私たちの手を置くことができるように。咎ある人々の代わりに、十字架上でささげられているキリストの姿を見るときに、自分のもろもろの罪がキリストに移し換えられたことを知りえるように。そして、信仰の喜悦のうちに、こう叫べるように。「大いなる神よ。私はきよい。イエスの血によって私はきよい」、と。

 I. さて、キリストが罪のためのいけにえであるという教理を解き明かすに当たり、私たちはまず、1つの大きな公理を規定することから始めたいと思う。すなわち、《罪は罰に値し、罰を要求する》ということである。

 一部の神学者たちは、このことに異議を唱える。あなたも気づいていると思うが、贖罪には数多くの理論があり、それぞれ新たな贖罪説ごとに、それぞれ新たな罪の理論がある。ある人々によると、罪そのものには、それが罰されるべき何の理由もなく、神は社会全体のために違反行為を罰されるのだという。これが、いわゆる統治説である。良い秩序を保つために違反者が罰されることは必要だが、罪そのものには刑罰を絶対に要求するようなものはないというのである。さて、私たちは手始めにこうした意見すべてに反対し、こう主張するものである。私たちは神からこう確証されていると信ずる。すなわち、罪は本質的に、また、それ自体として、神の正しい怒りを要求し、御怒りに値し、その御怒りは罰という形で表わされるべきである、と。これを立証するために、良心に訴えさせてほしい。――私は、長年の罪にふけり続けた生活のために、これ以上ないほど堕落してしまった人の良心に語りかけはしない。だが、目覚めさせられた罪人、聖霊の影響下にある罪人の良心に訴えさせてほしい。そして、兄弟たち。私たちが正気にあると云えるのは、聖霊が本当に私たちを正気に返らせてくださった後ではないだろうか? 私たちひとりひとりについても、あの放蕩息子と同じことが云えるではないだろうか?――彼は「我に返った」、と[ルカ15:17]。私たちは、聖霊が私たちに光を与え始めるまで、我を失っているではないだろうか? よろしい。この人に尋ねてみるがいい。いまこそ本当に正気になったこの人に、果たして罪が罰に値すると信ずるかどうかを。そして、その人の答えは、即座の、素早い、きっぱりした、揺るがないものであろう。――「値します」、と彼は云うであろう。「ええ、まぎれもなく。そして、驚きなのは、私が罰を受けていないということなのです。何と、先生。私が地獄から逃れ出ていることは、私にとって驚異です。そして、ウェスレーの賛美歌がしばしば私の口に上るのです。――

   『告げよ。罪人らに告げよ。
    われは 確かに地獄を出たり』」。

「ええ、先生」、とそうした罪人は云う。「私は、もし神がいま私を打って、何の希望も、あわれみを差し出されることもなく、地獄のどん底に落とされるとしても、自分が当然受けてしかるべきものを受けるにすぎないと感じます。また、もし私が自分のもろもろの罪のために罰されなかったり、自分の罪が他人において罰される何らかの計画を見いださなかったとしたら、私は、いかにして神が正しくありえるのか、理解できないと感じます。いかにして全世界をさばくお方が、違反行為を罰さずにいるなどということがありえるでしょう?」 人間に何らかの生得観念があるかどうかは議論の分かれるところだが、確かにこの観念は、他のいかなる観念にも劣らず早くから私たちの内側にある。すなわち、美徳は報いに値し、罪は罰に値する、ということである。私は、あえてこう主張することさえできると思う。たといあなたが最も堕落した人種のもとに行くとしても、それでも、少なくともそのことの痕跡はある程度見いだすであろう、と。――それを伝統と呼ぶのが良いだろうか。――それとも、それは、人の内側で決して完全には覆い隠されることのなかった自然の光の一部なのだろうか? 人は苦みを甘み、甘みを苦みとし、やみを光、光をやみとするかもしれない[イザ5:20]。だが、この観念は、犬がその主人のかかとについていくように人につき従う。すなわち、美徳は報いられるべきであり、罪は罰されなくてはならないのである。そうしたければ、この声を押さえつけることもできるが、時としてあなたはそれを聞くであろう。そして、恐ろしく、断固たる声音で、それはあなたの耳の中でこう云うであろう。「しかり。人よ。神はあなたを罰さなくてはならない。全世界をさばくお方は、あなたが処罰を免れることを許すことはおできにならない」。これに、もう1つのことを加えるがいい。すなわち、神は、罪そのものに対するご自分の腹立ちを絶対的に宣言しておられる。エレミヤ書44章4節にある箇所で神は、罪をはっきり、「わたしの憎むこの忌みきらうべきこと」と呼んでおられる。さらにまた、申命記25章16節で神は、罪を忌みきらわれるとしておられる。そのご性格によって神は、公明正大なことをご自分の被造物たちに対して行ないたいという願いを有しておられるに違いない。「全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか」[創18:25]。彼らのうちに報いに値するものがあれば、確実に神は彼らからそうした報いを奪うことはないと安心してよい。また、逆に神は、違反を犯した者たちに対しても正しいことを行なうであろう。そして、もし彼らが罰に値するとしたら、義であり聖い神のご性質とご性格に従って罰が下されるであろう。そして私の考えるところ、聖書の中の何にもまして明らかなのは、罪がそれ自体で神にとってはあまりにも憎むべきものであるため、神はご自分の途方もない力の限りを尽くし、勢い込めて罪を叩き潰さざるをえず、叩き潰すであろうということ、また、《いと高き方》にそむくのが邪悪で、苦いことであると違反者に思い知らさせずにはおかないということである。用心するがいい。あなたがた、この件において神を忘れている人たち。さもないと、神があなたを引き裂き、救い出す者もいないということになろう[詩50:22]。罪は罰されなくてはならない。

 これとは違い、罪は共同体のためにのみ罰されるべきであるとする観念には不正義が伴っている。もし私が他の人々のために断罪されるべきだとしたら、私はそれに異議を唱える。しかり。もし私が罰されるべきだとしたら、いずれにせよ、それは私自身の罪ゆえだと《正義》は云う。だが、もしも私が永遠に神の御前から打ち捨てられるべき理由が、神の律法の尊厳を保ちたいという統治上の小細工でしかないとしたら、私はそのどこが正義あるか理解できない。もし私が地獄に叩き込まれる理由が、単に神の聖さのはなはだしさを他の人々に教えるためでしかないというのであれば、私はそこには何の正義もないと云うものである。だが、もし私の罪が本質的に、それ自体として神の御怒りに値し、この事実の結果、私が破滅へと送り込まれるとしたら、私は口を閉ざし、何も云うまい。私は沈黙する。良心が私の口を縛ってしまう。しかし、もし私が地獄に送り込まれるのが、道徳的統治機構の一環としてでしかないとか、私が苦悶に送り込まれるのが、他人に善の感覚を感銘づけるためであるとか云われるとしたら、私は、人に道を説く説教者の役目を別の人に譲り渡し、人から説教されるのを無上の喜びとする人々のひとりとならせてくれ、と云いたい。なぜなら、私はなぜ自分が犠牲者に選ばれなくてはならないか、いかなる正義の理由も見てとれないからである。実際、人々は、福音の単純さを捨てて、エホバをもっと親切なお方にしようとすると、奇妙なことに、神を不正で不親切な者としてしまうのである。罪人よ。神は決して、ご自分の統治を保つためだけのためにあなたを罰したり、他人に善を施すためにあなたを罰することはない。もしあなたが滅ぼされるとしたら、それはあなたが、いのちを得るために神のところに行こうとしなかったためである[ヨハ5:40]。あなたが神に反逆しようとしたためである。罪が、のっぴきならない必要により、正義という神の属性を、いわばたきつけて、復讐へと燃え上がらせ、あなたを神の御前から永遠に追放させたためである。罪は罰されなくてはならない。

 罪は罰を要求するというこの教理を逆にしてみれば、この教理の正しさが証明されるであろう。というのも、罪が罰されずにすむと教えるのは、この上もなく不道徳的で、危険で、放縦の歯止めを外すことだからである。おゝ、方々。それは事実に反している。見るがいい! おゝ、もしあなたの目が、いま執行されている神の恐ろしい正義を今晩見ることができるとしたら、もしこの耳がそれを聞けさえしたら、もしあなたがたが一瞬でも、

   「陰鬱(くら)き呻き、虚ろな嘆き、
    責苦(くる)しめらるる 幽鬼の悲鳴」

に愕然とさせられることがありえたとしたら、あなたはたちまち察知するであろう。神は罪を罰しておられる、と! そして、もし罪が罰されるに値しないとしたら、かの焦熱地獄は怪物的な規模の不正義でなくて何だろうか? もしこの者たちが罰されているのが、彼ら自身が受けて当然の罰ではない何かのためだとしたら、それは、あらゆる誠実なもの、正しいものを無限に蹂躙することではないだろうか? 行ってこのことを地獄で説教してみるがいい。あなたは永遠に燃える火を消し、良心を食ううじ虫は尽きるであろう。地獄にいる者たちに告げるがいい。あなたがたは、自分の罪ゆえに罰されているのではないのだ、と。あなたは彼らの罰の針そのものを取り去ってしまうであろう。それから地上にやって来て、ヨナと同じく――だがヨナとは異なる使信を携えて――大きな町の公道や街道、街路や大通りに出て行くがいい。そして、宣べ伝えるがいい。罪は、それ自身に本来そなわる悪や卑しさのゆえに罰されるのではないのだ、と。しかし、もし自分の預言を信じてもらえるものと期待しているとしたら、社会の安寧のため、わが国の監獄の数を増やし、流刑地となる土地を新たにいくつも探すがいい。というのも、もしも何か悪漢たちを増殖させる教理があるとしたら、まさにこの教えこそそれにほかならないからである。罪が罰されることはないと云えば、統治のたがを外すことになるであろう。あなたは私たちの公共の福利の門そのものを根こぎにしてしまったのである。あなたは、別のガザに対する別のサムソンとなったのである。そして私たちはその日を悔やむことになるであろう。しかし、方々。私はわざわざそのことを証明するには及ぶまい。このことは、あらゆる人の良心に、また私たちひとりひとりの良心に、明確に書き記されている。罪は罰されなくてはならない、と。ここで、あなたや私を今晩、板挟みにしているのは、このことである。私たちは罪を犯した。私たちはみな羊のようにさまよい[イザ53:6]、それゆえに罰されなくてはならない。罪がいけにえなしに赦されるなどということは、絶対に不可能である。たとい天が落下しようと、神は正しくなくてはならない。たとい地が移り行き、あらゆる被造物が失われるとしても、神の正義は立たなくてはならない。神の正義に異議が唱えられることなど万が一にもありえない。このことは私たちの思いの中に完全に据えておこう。

 あなたは、まるで初めてでもあるかのように、こう告げられる必要はないであろう。神は、その無限のあわれみによって、正義が満足させられるとともに、あわれみも勝利を得ることができる道を編み出された。御父のひとり子イエス・キリストが、ご自分の上に人のかたちをお取りになり、ご自分の民全員の受けるべき罰と同等のものを神の正義に対しておささげになり、受け入れられたのである。

 II. さて、あなたに注意してほしい第二の件は、このことである。《罪人たちのための身代わりが供され、受け入れられたのは、恵みの行為にほかならない》

 ある人が、私の代わりのだれかから金銭的負債の支払いを受けるというのは、何の恵みの行為でもない。私がある人に二十ポンドの借金をしている場合、その人にとっては、その二十ポンドがきちんと支払われさえすれば、だれが支払おうと全く問題ではない。知っての通り、債務が履行されさえすれば、人は合法的に、また即座に、その領収書と債務消滅証書を自分の債権者に要求できるであろう。その債務を履行したのが、本人でなく別人であっても、何の問題もない。だが、金銭上の問題はそれで済んでも、刑法上の問題はそれでは済まない。もしある人が禁固刑を云い渡されたとしたら、当人の身代わりを立法者に受け入れさせるよう強いるような法律や、司法は何1つない。もしも主権を有する国王が、犯罪者本人に代わって別の人間が刑に服すことを許すとしたら、それは国王自身があえてした行為であり、行ないである。国王は、自分の自己裁量だけに従って、その身代わりを受け入れるか入れないかを決するのである。そして、もし受け入れるとしたら、それは恵みの行為である。神の場合、たとい神がその絶対的なみこころという無限の主権によって、「わたしは何の身代わりも認めない。人間はみな自分で自分の罰を受けるがいい。罪を犯した者はその者が死ぬのだ」、と仰せになっていたとしても、いかなる者もそれに異議を唱えることはできなかったであろう。恵みこそ、そして恵みだけが、神のみ思いをして、こう云わせるに至らせたのである。「私は身代わりを受け入れよう。代償による罰があってよいものとしよう。それで私の復讐は納得し、私のあわれみは満足するものとしよう」。

 さて、愛する方々。この神の恵みを、さらに一層大きなものとしているのが、神は単に身代わりの原理をお許しになっただけでなく、キリストのような身代わりを供してくださった、ということである。――キリストというお方において、神はご自分を明け渡してくださった。いのちの君が死ぬことになった。栄光の王が、人間たちから軽蔑され、拒絶されることになった。御使いたちの主が、しもべらのしもべとなられた。かの《年を経た方》[ダニ7:9]が一手幅ほどの幼子となられた。その隔たりについて考えてみるがいい。

   「栄光(ほまれ)満つ 高き御座から
    災厄(まが)のきわまる 深き十字架へ」

このように、キリストがご自分を賜物とされたことの中に輝いている、無比の愛を思い悟るがいい。しかし、御父こそ、御子を与えておられるお方にほかならない。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」[ヨハ3:16]。富を与えて自分は貧しくなるというのは大したことである。だが、自分の子どもを与えるというのは、それをも越えたことである。愛国者の母親が息子を自分の胸からもぎ離し、こう叫ぶとする。「お行きなさい。わが長子よ。お国のための戦いに行って戦いなさい。お国の旗が盤石のものとなるまで。祖国の家庭の団欒が確固たるものになるまで」。それは大したことである。というのも、彼女はわが子の無惨な死体が血まみれになった光景を予期できるというのに、自分の子どもよりも、自分の国の方をずっと愛しているからである。これこそ、まさに英雄行為である。だが神はご自分の御子――ご自分のひとり子――を惜しむことなく、私たち全員のため、遠慮なく引き渡してくださった。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」[ロマ5:8]。私は懇願する。キリストといういけにえを、単なる神の側の復讐の行為とみなしてはならない。決して想像してはならない。おゝ! キリストが死なれたのは、私たちに対する御父の機嫌を取るためであったなどとは決して考えてはならない。おゝ、否。愛する方々。イエスの死は、御父の側の圧倒的で無限の愛によってもたらされたのである。そしてイエスの心を傷つけたあらゆる打撃、イエスに悲しみを引き起こしたあらゆる苦しみ、イエスを引き裂いたあらゆる激痛は、御父の喜びのみならず愛について語っており、今やその御頭を飾っている永遠の勝利について語っているのである。

 しかしながら、これに次のことも加えよう。身代わりとして死なれたことによってイエス・キリストは、約束されたあらゆる特権に対する正当な権利を与えられ、ご自分の民の契約のかしらとして、神のあわれみを要求できる者とされているが、だからといって、私たちが神から受ける何らかの賜物が、少しでも神からの賜物でなくなるわけではない。キリストは死なれたが、なおも、私たちが受け取っているあらゆるものは、完全に、神の大いなる愛のみ心から恵み深くも流れ出たものとしてやって来るのである。キリストが買い取られたのだから、自分には何事かを要求する権利があるのだ、などと決して考えてはならない。要求などという言葉を少しでも使うとしたら、当然支払うべきものとしてではなく[ロマ4:4]、やはり恵みとして受け取っていることを理解するような、謙遜で、物柔らかな意味でのみ用いるがいい。こうした代償のやりとりすべては、またキリストが第二のアダム[Iコリ15:45]となられたことは、純然たる、まぎれもない、無代価の、主権による恵みの問題とみなすがいい。そして、ぜひ願いたいことだが、ここには正義があったのだ、正義しかなかったのだ、などという身の毛もよだつような考えには決してふけらないでほしい。むしろ、贖いのいけにえという救いの大いなる計画を編み出し、成し遂げられた、この神の愛と慈悲とをほめたたえるがいい。

 III. しかし今、もう一歩先へ進んで、できる限り手短に語ることにしたい。主がこの代償の原理を確立されたのは、ひとりの身代わりを供し、彼を通して私たちに恵み深くも無数のあわれみを授けてくださったからであるが、私たちが注目したいと思うのは、《イエスは、身代わりとなるのに最もうってつけのお方であり、そのみわざは、贖罪となるのに最もうってつけのものである》ということである。

 ここで、自分の信仰とすべき確固たる土台を欲しているあらゆる罪人は、私が今からできるだけ平易に云い表わそうとしている単純な真理に耳を傾けるがいい。あなたにも理解できると思うが、神は罪を罰さなくてはならない。神は罪ゆえにあなたを罰さなくてはならない。さもなければ、だれか他の者があなたの代わりに罰せられなくてはならない。イエス・キリストこそは、ご自分を信じた者、ご自分を信じている者、ご自分をこれから信ずることになる者の全員に代わって、その代理として罰されたお方である。主は、ご自分を信ずる者たちのために、彼らの立場を取って行なわれたその代償によって、完全な贖いを成し遂げてくださった。さて、私たちは、キリストこそ身代わりとなるのにうってつけのお方であったと云うものである。というのも、いかなる種類の仲保者が必要とされていたかを考えてみるがいい。何にもまして確実に、その仲保者は、自分自身の負債をかかえていない者でなくてはならない。もしキリストがいささかでも生まれながらに律法の下にあったとしたら、もしもキリストが、私たちの行なう義務であるところのものを自分でも行なうべき義務を負っていたとしたら、明らかに彼は自分だけのためにしか生きることはできなかったであろう。そして、もしキリストがご自分の罪を何か1つでも有していたとしたら、彼は自分だけのためにしか死ぬことはできなかったであろう。そのように行ない、そのように罰を受ける責務が、神の義と復讐にとって、当然彼がなすべきことであったろうからには、そうである。しかし、キリストの側には、従順であるべきいかなる生来の必要もなかった。いわんや死に至るまでの従順など必要はなかった。一体、天の諸栄光の最中におられる神聖な主が、その御父に何かを負っていたなどと云おうとする者がだれかいるだろうか? キリストがあの呪われた木に釘づけられ、苦しみ、血を流し、死んでから、墓に叩き込まれることが、神聖な御父の当然なすべきことであったなどと、だれが云うだろうか? いかなる者も、そのようなことは云えないであろう。主は、ご自分としては完璧に自由であられる。それゆえ、主は他人の保証人になれるのである。民兵隊に引っ張られた者は、やはり引っ張られた別の人間の身代わりになることはできない。なぜなら、彼自身、自分個人が果たすべき務めを負っているいるからである。私は、もし逃れたければ、また身代わりの者を獲得したければ、自分は引っ張られてない人、それゆえ、免除されている人を見つけなくてはならない。イエス・キリストはそのような方であられる。キリストは完璧に軍務から免除されており、それゆえ、私たちの代わりにそれを引き受けることを志願できる。キリストこそは、当を得たお方である。

 また、やはり求められていたのは、私たちと同じ性質のお方である。イエス・キリストはそのような方であられる。このために主は人となられたのである。その母の本質から生まれた、まことの人、私たちのいかなる者とも変わらないような人となられたのである。主に手で触れて、主が血肉であられないかを見てみるがいい。主を眺めて、主が肉体においてと同様、魂においても人でないかどうか注目するがいい。主は空腹になる。のどが渇く。恐れる。泣く。喜ぶ。愛する。死ぬ。あらゆる点で私たちに似たものとされ、人であり、正確に人の立場に立っており、真のアダム――最初のアダムと同じくらい真実のアダム、最初のアダムと全く同じ立場に立っている者――として、主は私たちの身代わりとなるのにふわさしいお方である。

 しかし注目するがいい。(見るがいい。あなたの引っかけ鈎をこのことに投げられないかどうかを)。主の神聖なご人格の尊厳は、主を、身代わりとなるに最もふさわしいお方とした。ただの人であれば、せいぜい別の人の身代わりにしかなれなかったであろう。たといその人を、好き勝手に叩き潰し、その人の生涯の中で、肉の受け継いでいるあらゆる苦痛を感じさせようとも、その人は、ひとりの人が苦しんだであろうところのものしか苦しむことができない。あえて云うが、その人は、そのときでさえ、不敬虔な人々が当然受けてしかるべき永遠の悲惨と同等のものを苦しんだことにはなりえなかったであろう。そして、もしその人がただの人でしかなかったとしたら、その人は正確に同じものを苦しまなくてはならない。人格に違いがあるとき、刑罰には違いがあることがありうる。だが、もし人格が同じであれば、刑罰は正確に厳密に、程度においても質においても同じでなくてはならない。しかし、神の御子の威厳、そのご性質の威厳は、この問題全体を一変させてしまう。神が頭を垂れ、苦しみを受け、人間のかたちを取って死につつあるとき、それはあらゆる呻きとあらゆる苦痛に異様な効力をこめることとなり、彼の苦痛が永遠である必要はなくなる。あるいは、彼が第二の死を経る必要はなくなる。思い出すがいい。金銭問題において、あなたは同等の物を与えなくてはならないが、刑法上の正義の問題において、そのようなものは要求されないのである。このようにして、このお方の尊厳は、その代償に特別の力を加え、ひとりの、血を流し給う《救い主》は、何百万もの罪深い人々の贖いをなすことができる。私たちの救いの《創始者》[ヘブ2:10]は大群衆を栄光へと至らせることがおできになるのである。

 そこには、もう1つ満たさなくてはならない条件がある。個人的な務めからそれほど自由であり、それほど真実に私たちと同じ性質でありながら、それほど人格において高くあられるこのお方は、神から受け入れられ、任命されなくてはならない。本日の聖句はこのことに完全な解決を与えて、こう云っている。「彼は、彼のいのちを罪のためのいけにえとする」*。キリストは、《いと高き方》からのお墨付きもなしに、自分で自分を罪のためのいけにえとしたのではない。神がキリストをそうされたのである。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」[イザ53:6]。天の主権的な聖定によってこそキリストは、その民のための大いなる身代わりとされたのである。だれでも、この職務は自分で得るのではない[ヘブ5:4]。神の御子でさえ、召されもせずに、身をかがめてこの重荷を負ったのではない。御子は、選びにおける契約のかしらとして選ばれたのである。天来の聖定において、ご自分の民を代表するように定められたのである。父なる神が、ご自分が任命したいけにえを拒むことなどありえない。善良な老アブラハムは云った。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」[創22:8]。神はこの《救い主》においてそうされた。そして神が供されるものを、神は受け入れざるをえず、受け入れてくださる。

 私は今晩、この教理を私の願う通りに力強く扱うことができたらと思う。あわれな、おののける罪人よ。しばし目を上げるがいい。あなたは、そこにこのお方が見えるだろうか?――神が立てられたこの方が見えるだろうか? あなたはこの方が、しかるべき血肉において、あの木に縛りつけられているのが見えるだろうか? 見るがいい。あの残酷な鉄釘が、いかにこの方の繊細な御手に打ち込まれているかを! 注目するがいい。あの荒削りの釘が、いかにこの方の御足から血をほとばしらせているかを! 見るがいい。熱が、いかにこの方の舌を乾き切らせ、その全身を陶片のように干からびさせているかを! 聞くがいい。肉体の苦しみ以上の苦しみであった、この方の霊の叫びを。――「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]。これは、神のひとり子以外の何者でもない。これは、世界をお造りになったお方である。御父の本質の完全な現われ、エホバの栄光の輝きである![ヘブ1:3] 人よ、あなたはどう考えるのか? ここには神を満足させるだけのものがないだろうか? まことにそれは神を満足させている。そこには、あなたを満足させるだけのものがないだろうか? あなたの良心は、このことの上に安らげないだろうか? 《正義》がこれ以上のものを求められるだろうか? あなたは今キリストにあなたの魂をまかせられないだろうか? さあ今、方々。あなたは今、十字架の足元にはいつくばり、あなたの魂の永遠の運命を、この刺し貫かれたナザレのイエスの御手にかけようとは思わないだろうか? もしあなたがそう思うとしたら、神はこの方を、あなたの罪のためのいけにえとしておられるのである。だが、もしあなたがそう思わないとしたら、用心するがいい。あなたが自分の《救い主》として受け入れようと思わなかったこの方は、あなたの《審き主》となり、こう云われるであろう。「のろわれた者。わたしから離れて、地獄の永遠の火にはいれ!」*[マタ25:41]

 IV. ここで私たちが指摘したい第四の点に移ろう。――《キリストのみわざ、また、そのみわざの効果は、いま完全なものとなっている》

 キリストは私たちのための身代わりとなられる。私たちは、いかにキリストがそのような者となるにふさわしい、うってつけのお方であるかを見てきた。私たちが示唆したように、そのご人格の尊厳によって、主が苦しまれた痛みは、罪ゆえの私たち自身の苦しみに等しい、すぐれた十分な物であった。しかし、いま浮かび上がるのは、この喜ばしい真理である。すなわち、キリストのみわざは完了しているのである。キリストは完全な贖いを成し遂げられたので、決して二度と再び苦しむ必要はない。もはや血の汗も、もはや心の激痛も、もはや苦味と暗黒も、死に至るまでのこの上ない悲しみも必要とされてはいない。

   「成し遂げられぬ、大いなる取引(わざ)」

この刑罰の死を告げる鐘は、この《救い主》の今際の際のことばに鳴り響いている。「完了した」[ヨハ19:30]。あなたは、その証拠を求めるだろうか? イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことを思い出すがいい。もし主がその罰の苦しみを受けるみわざを完成させていなかったとしたら、主は今に至るまで墓の中に放置されていたであろう。私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰は実質のないものになるのである。あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのである[Iコリ15:14、17]。しかし、キリストはよみがえられた。神の執達吏が、主を「縄目の恥」から解放した。勘定の支払いが終わり、神の大いなる王座裁判所は、囚人を解放せよとの収監令状を下達したからである。それだけではない。キリストは高みへと昇られた。あなたは主が、償われてもいない罪の赤いしみを衣につけたままそこへ戻られたなどと思うだろうか? あなたは主が安息に入り、成し遂げられたみわざの報いへと入られたと思っているだろうか? 何と、何も行なわずに御父の右の座に着いて冠を戴いたり、御父のみこころを果たしもしないというのに、自分の敵が足台にされるまで休んでいるというのだろうか? 馬鹿げている! ありえない! 主が、御使いたちの歓呼に包まれつつ、華々しい偉容とともに昇天し、御父の尽きざる微笑みを受けることになったことこそ、このみわざが完成している確実な証拠である。

 これが完成しているというのは、愛する兄弟たち。単にそれ自体だけではなく、その効果においてもしかりである。すなわち、今や、キリストを信ずるあらゆる魂には、完全な赦しがあるのである。あなたが何も行なわなくとも、あなたの赦しにとってキリストの贖いは十分なものなのである。この贖いは、ちまちまと補う必要が全くない。キリストは天秤の片方にどさりと重みを載せたので、それがゆらゆらと揺らいでいるというようなことない。あなたのもろもろの罪は、その重量がいかなるものであれ、キリストの贖いの途方もない重みによって、その圧力を完全に無視しているのである。主はその刑罰よりも重く、あなたのあらゆる罪の二倍ものものを与えてくださった。完全にして、無制限の赦しが今やイエスの御名において提示され、天の下のすべての造られたもの[コロ1:23]に宣言されている。それは、過去の罪、現在の罪、将来の罪、数々の冒涜や殺人、酩酊や売春、天下のありとあらゆる罪のための赦しである。イエス・キリストが昇天し、高く上げられたのは、悔い改めと罪の赦しを与えることができるようになるためであった[使5:31]。あなたがたは、司祭に一シリングを払う必要など何もない。赦しに効力を与えるためにバプテスマの水など必要ない。あなたの意欲だの、行ないだの、生き方だの、苦しみだのは、決してこの務めを完全なものとするために要求されてはいない。その血は、この泉を完全に満たしており、あなたはただそこで身を洗いきよめさえすれば、あなたのもろもろの罪は永遠に消え失せるのである。

 義認もまた完成している。あなたは、その違いを知っているであろう。赦しは私たちの汚れを取り除くが、それでは私たちは裸のままである。義認は私たちに王服を着せてくれる。今やあなたの襤褸服は全く必要ない。キリストの成し遂げられたみわざを完成するためには、あなたのものは糸くず一本すら必要ない。父なる神が罪のためのいけにえとして受け入れておられるお方は、取り分けられている人々を永遠に全うされたのである[ヘブ10:14]。あなたがたは、キリストにあって完全である。あなたのいかなる涙も、いかなる悔悟も、いかなる個人的抑制も、しかり、いかなる善行も、あなたを完成させ、完全なものとするためには必要とされていない。これをそのまま受け取るがいい。おゝ、方々。あなたが、これをそのまま受け取る恵みを有せるように。これは福音において、あなたに値なしに差し出されているからである。「御子を信じる者はさばかれない」[ヨハ3:18]。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]。キリストに信頼するがいい。無条件にキリストに頼るがいい。そうすれば、キリストがなされたすべてのことがあなたを覆い、キリストが苦しまれたすべてのことがあなたをきよめるであろう。

 また、覚えておくがいい。受け入れも完了している。そこに御父の御腕があり、ここに今晩のあなた、どす黒い罪人がいる。私はあなたのことを知らない。だが、あなたは宿なしかもしれない。あるいは、それより先に進んで、恥ずべきことに酩酊を加えているかもしれない。あなたは最低の悪徳に至ってしまった。盗みを働いてきたかもしれない。この場所に、いかなる種類の人が足を踏み入れているか、だれに分かろう? しかし、《永遠の御父》の腕は、そのままのあなたをいつでも救おうとしている。なぜなら、キリストの偉大なみわざが、神の前で必要とされるすべてのことを成し遂げてしまったので、最悪の罪すら受け入れることができるからである。いかにして御父が、放蕩息子を抱擁することなどできるだろうか? 何と、豚の餌箱のもとからやって来たばかりではないか! 彼を見るがいい。彼の襤褸服を見るがいい。それが何と穢らしいことか! そんなものには長火箸でだって触れたくはない! そいつを炉端にやって、汚れを焼いてしまえ。そいつを風呂に入れさせて、洗え! そんな唇は口づけされる資格がない。そんな汚れた唇が、栄光に富む御父の聖なる頬に触れることは許されない! あゝ! だが、そうではない。まだ家までは遠かったのに、あの父親は彼を見つけた。――襤褸服も、貧しさも、罪も、汚れも、何もかもを見た。――そして、彼はその子がきれいになるまで待ってなどいず、走り寄って、そのままの彼を抱き、口づけした[ルカ15:20]。なぜこのようなことができたのだろうか? 何と、このたとえ話では語られていない。それは贖いの主題を指し示すための話ではなかったからである。だが、このことがそれを説明している。神が罪人を受け入れるとき、神は実は単にキリストを受け入れておられるにすぎない。神は罪人の目の中をのぞき込み、そこにご自分の愛する御子のかたちを見てとり、それで彼を抱きしめてくださるのである。私たちは、ひとりの善良な婦人のことを聞いたことがあるが、それと同じである。彼女は、貧しい水夫が彼女の扉にやって来ると常に、それがだれであろうと常に暖かくもてなすのだった。なぜなら、彼女はこう云ったからである。「私は、愛する息子を見ているように思うのです。息子はこの何年もの間、家を離れて音信不通ですが、私は船乗りさんを見るといつでも息子のことを考えて、息子のために、その見知らぬ人を親切にもてなすのです」。そのように、私の神は、赦しを切望し、受け入れられることを願っている罪人を見るときには、彼のうちにご自分の御子を見るように思い、御子のために彼を受け入れてくださるのである。私たちがこの場所で、お上品な、敬虔な人々のために福音を宣べ伝えていると想像してはならない。しかり。私たちはここで罪人たちのための福音を宣べ伝えている。先日私はある人からこう告げられた。彼は、人が完全になることによって救われるのだと信じているという。私たちが罪を犯すとき、私たちはたちまち神のあわれみから落ちてしまうというのである。さて、それが本当だとしたら、それは、取り立てて大騒ぎするようなものではないであろう。御使いたちが、それについて、「いと高き所に、栄光が、神にあるように」[ルカ2:14]、と歌うほどのものではないと私は思う。どんな馬鹿でも、神が完璧な人なら受け入れるだろうことは知っている。しかし、これは驚異すべきことなのである。このことのために、天と地がこの《仲保者》を賛美して鳴り轟くかのようなのである。イエス・キリストは不敬虔な者のために死なれた。イエス・キリストは彼らの義のためにでも、彼らの善行のためにでもなく、彼らの罪のためにご自分をお捨てになったのだ、と。主は、たとい永遠に眺めていたとしても、私たちのうちに、主が忍ばれたほど大きな苦しみに値する何物も見ることはできなかったであろう。だが主はそれを慈愛のゆえに、愛ゆえに行なわれた。

 さて今、主の御名において――おゝ、私がそれを主の御声とともに、主の愛とともに、主の熱情とともに行なうことができたとしたら、どんなに良いことか。――、私は、主をつかむよう切に願う。あなたがいかなる者であれ、私はあなたをこの招きから除外しないであろう。あなたは自分の罪を積み上げて、それが天を怒らせるように思っているだろうか? あなたの罪は雲に達するほどだろうか? それでも、来て、迎(い)れられるがいい。というのも、神は罪のためのいけにえを供しておられるからである。人はあなたを村八分にしただろうか? さあ、あわれな婦人よ。かの、うら悲しい川面は、飛び込んでけりをつけよとあなたを誘うように思えるだろうか? 神はあなたを追い払っていない。おゝ、あなたがた、自分のからだに罪の影響をひしひしと感じている人たち。あなたは自分自身を忌みきらい、生まれてこなければよかったとさえ思っている。――ことによると、あなたはジョン・バニヤンのようにこう云っているかもしれない。「おゝ、私は蛙か、ひきがえるか、蛇であった方がよかったのに。なまじ人間でなどあったがために、このような罪に陥り、これほど汚らわしい者になり果てるとは!」 勇気を出すがいい。罪人よ。勇気を出すがいい。「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」[イザ55:7]。この使信を疑ってはならない。神はそれをあなたに送っておられる。それを退けてはならない。それを退けるなら、あなた自身のいのちを退けることになるであろう。主の叱責によって、立ち返るがいい! あなたに語りかけているのは、愛に満ちた声であり、もしそれが愛によって胸をつまらせていなければ、より良く、より力をこめて語れるかもしれない。私はあなたに懇願する。罪人よ。イエスのもとに来るがい! もしあなたが罪に定められるとしたら、それは招きがなされなかったためではない。――もしあなたが滅びるとしたら、それはあなたに対する熱心な訴えがなされなかったためではない。私はあなたに告げる。人よ。あなた自身のものは何1つ必要とされていない。そのすべては、罪のためのいけにえの中に見いだされる。あなたがそれを見いだす必要はないからである。あなた自身の功績は全く必要とされない。キリストのうちに十分な功績がある。ニューカースルに石炭を持っていく馬鹿はいない、という古いことわざがないだろうか? キリストのもとには、何も持っていってはならない。ありのままのあなたで行くがいい。――今のままのあなたで。否。この建物を出るまで待っていてはならない。願わくは主が、今あなたにイエスを信じることができるようにしてくださるように。今イエスを自分のための、完全で、完成された救いとして受け入れることができるようにしてくださるように。あなたが、あるとあらゆる人間の中で、最も無法な、最も見下げ果てた、最も望みない人間だとしても関係ない。神が罪のためのいけにえを供されたのは、罪人たちのためでなくて何だろうか? 何の必要もなかったとしたら、それを供したいと思われたはずがない。あなたには大きな必要がある。こう云って良ければ、あなたに強いられたがために、神は罪のためのいけにえを供さざるをえなかったのである。あなたのもろもろの罪がキリストの御手を十字架に釘づけたのである。あなたのもろもろの罪が主の心臓を刺し貫いたのである。そして、主の心臓が刺し貫かれたのは無駄ではなく、主の御手はいたずらに釘づけられたのではない。キリストはあなたをご自分のものとされる。罪人よ。キリストはあなたをご自分のものとされる。この場には、何人か神に選ばれた人々がいる。そしてキリストはあなたをご自分のものとされる。あなたはキリストに逆らって立ちはしない。全能の愛があなたを自分のものとする。主は、あなたが自分の誓ったことを行なわないようにさせる決意を固めておられる。あなたが地獄と結んだ盟約は、今晩反古にされ、あなたが死と結んだ契約は無効にされる。奪われた物が勇士から取り戻されることはない。法の定めるとりこたちは助け出される[イザ49:24]。主は、なおもあなたを海の深みから引き上げることがおできになる。おゝ! あなたは何たる負債を恵みに対して負うことであろう! 今晩、その恵みに対する負債者となるがいい。イエスを信頼するという単純な行為により、この負債で首が回らないようになるがいい。そうすれば、あなたは救われる。

 祈るがいい。あなたがた、祈るすべを知っている人たち。この指針が神の御手にあって力あるものとなるように。そして、あなたがた、今まで一度も祈ったことがない人たち。願わくは神があなたを助けてくださり、今あなたを祈らせてくださるように。願わくは神が今、神を求めない者に見いだされるように[ロマ10:20]。そして、神が栄光を、世々にわたって受けるように。アーメン。

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罪の償い[了]

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