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選びは決して求める魂を落胆させない

NO. 553

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1864年2月7日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」。――出33:19


 神は造り主であり、創造主であり、万物の支え主であるため、その御手のわざすべてを思い通りにする権利を持っておられる。「形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか」[ロマ9:20-21]。神の絶対的な至上権と無制限の主権とは、その全能性から、また神が万物の源であり支えであるという事実から、自ずと生じている。さらに、たといそうでなくとも、神のご性格の無比の卓越性からして、神には絶対的な支配権を有する権利がある。最高の者こそ支配者となるべきである。完璧な知恵を有するために過つことのありえないお方、――完璧に聖くあられるために過つことをしようしないお方、――最高に正しくあられるために不正を行なえないお方、――本質的に愛であられるために、いつくしみの原則に従って行動せざるをえないお方、このお方こそ、支配者となるに最もふさわしいお方である。被造物が自らを支配するなどと云わないでほしい。それは、いかなる混沌であったことか! 造られた存在すべてが共和国を作り、自らを管理し、取り締まる構想などについて語らないでほしい。いかなる被造物を寄せ集め、いかにその知恵と善意を結集しても、――実際、いかにそれが愚かさや邪悪さと結びついていなかったとしても、――私は云う。こうしたすべては――いかに烈々たる想像力を尽くして、いかに卓越した知識と判断力と愛が彼らに備わっているものと思い描くとしても――この偉大な神とは比べものにならない。この神は、その御名が聖であり、その本質が愛であり、あらゆる力をお持ちで、ただひとり、知恵ありとされるべきお方なのである。このお方が最高統治者とならなくてはならない。このお方は他のあらゆる存在よりも無限にすぐれているからである。たといこのお方が現実には統治していなかったとしても、すべての賢人たちに投票させてみれば、満場一致で主なるエホバが宇宙の絶対君主に選出されるであろう。また、たといこのお方がいまだ王の《王》、主の《主》ではなく、みこころのままに天の軍勢やこの下界の住民たちに対して事を行なっていなかったとしても、このお方をその御座に持ち上げることこそ知恵の道であったろう。人間たちが罪を犯して以来、この主権を発揮することには、さらにいやまさる理由、あるいはむしろ、さらに広い目的があるようになった。被造物は、被造物としては《創造主》に対して、ある程度の要求ができると思われるであろう。少なくとも被造物は、創造主が意図的に、また横暴なしかたで自分たちを苦痛に遭わせないことを期待してよいであろう。恣意的に、また何の理由も必要もなしに、自分たちの存在がみじめなものとされはしないと期待してよいであろう。私は、主を裁こうなどというつもりはないが、もし主がある被造物を造った上で、被造物としてのそれを、みじめな状態に追い込んだとしたら、それは主のいつくしみとは全く相容れないと考えざるをえない。何の罪もないところにはいかなる罰もあるべきではないとすることこそ、正義の要求と思われる。しかし人間は、被造物としての権利をすべて失っている。人はそうした権利を有していたとしても、罪を犯したことで失ってしまった。私たちの最初の両親は罪を犯した。それで、彼らの子らである私たちは、自分の領主であり主権者であるお方に対する大逆罪のゆえに今の境遇にあるのである。正義の神が、素のままの私たちに対して向けなくてはならないのは、怒りと立腹でしかありえない。もし神が私たちに、私たちの当然受けてしかるべきものを与えるとしたら、私たちはもはや地上で祈り続けることも、あわれみの大気を呼吸することもなくなるであろう。今や被造物は、その《創造主》の前では、このお方に対するいかなる要求についても沈黙しなくてはならない。自らの権利としては、何も創造主に要求できない。もし主があわれみを示そうと望まれるならば、主はそうなさるであろう。だが、もし主がそれを差し止めるならば、だれが主の責任を問えるだろうか? そうした傲慢な問いかけすべてに対しては、「自分のものを自分の思うようにしてはいけないのか」、と云う返答こそふさわしいものである。というのも、罪を犯して法廷から出て行った人間は、《いと高き方》の宣告について上訴する権利を全く持っていないからである。今や人間は死刑囚となった犯罪人の立場にあり、それが有する唯一の権利は処刑場に引き出され、自らの罪に対する正当な報いを当然受けることしかない。ならば、純然たる被造物全体に対して神が振るう主権については、いかなる意見の相違がありえたにせよ、反逆者たちの上に振るわれる神の主権について異なる意見をいだく者、また、今後いだこうとする者は、反逆の霊を有する者たちでしかないであろう。こうした反逆者たちは、自ら罪を犯して永遠の滅びに陥り、自分たちの背いた《創造主》の愛はもちろん、あわれみを要求する権利すら失っているのである。

 しかしながら、神が主権者であるという教理に私たちが全員同意するかしないかは、神にとっては全く大した問題ではない。神はそうあられるからである。De jure[その権利によって]神はそうあるべきである。De facto[事実からして]神はそうあられる。それは事実である。この点については、単に目を開いて、神がその恵みを施す際に主権者として行動しておられることを見てとるだけでよい。私たちの《救い主》は、このことに関する実例を引用しようと思われたとき、このように語られた。預言者エリヤの時代、イスラエルにもやもめはたくさんいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされた[ルカ4:25-26]。ここには選びがあった! エリヤが遣わされているのは、イスラエル人のやもめ女を養い、養われるためではない。国境外の、偶像を拝む貧しい女のもとに、この預言者が居合わせるという祝福は恵み深くも授けられた。さらに私たちの《救い主》は云っておられる。「預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました」[ルカ4:27]。――イスラエル人では全くない、リモンの神殿で身をかがめていた男である。分け隔てをする恵みがいかに奇妙な対象を見いだしているか見るがいい! 私たちの《救い主》はこの2つの例しかあげていない。それで主の目的には十分かなっていたからである。だが、そのような事例は何千も記されている。人間と、堕落した御使いたちを眺めてみるがいい。一体なぜ堕落した御使いたちは永劫の火焔へと断罪され、かの大いなる日まで暗闇の中に鎖でつながれたままになっているのだろうか? 御使いたちには何の《救い主》もいない。サタンのためには、尊い血が一切流されたことがない。明けの明星は堕落し、永遠に堕落し、決して再び希望をいだくことはない。こうした、人よりも高貴な霊たちには、全く何のあわれみも施されない。だが御使いたちよりも低いものとされた人間は、天来の救拯の対象となるべく選ばれている。ここには何と大いなる深みがあることか! これは、神の主権という大権が最も巧みに、また最も争う余地なく振るわれた例である。また、地上の国々を眺めてみるがいい。なぜこの福音は今日、私たち英国人たちに向かって宣べ伝えられているのだろうか? 私たちは、他の国々と全く同じくらい悪事を犯してきた。――全く同じくらい政治的罪を犯してきたとさえ云える。私たちは、英国に関わるものといえば何であれ常にひいき目で見がちである。だが、わが国の歴史を公平に読んでみれば、私たちの国旗の恥となる、深刻で重大な過失を過去に発見し、現在も認めることができる。たとい最近の日本における蛮行や、ニュージーランドおよびケープ州における私たちの度重なる絶滅戦争については軽微な犯罪として見過ごすとしても、支那における阿片取引についてほのめかすだけでも英国諸島のあらゆる住民は赤面すべきである。だが私たちには福音が恵み深くも送られていて、私たちほどそれを享受している国民はほとんどいない。確かにプロシアやオランダもみことばを聞いているし、スウェーデンやデンマークはその真理による慰めを受けているが、彼らの蝋燭はほの暗い光しか放っていない。それは、あわれな、ちらちら明滅するともしびで、彼らの暗闇を活気づけているものだが、私たち自身の愛する国では、部分的にはわが国の宗教的自由という事実により、だがしかし、いやまさって恵み深くも先の信仰復興により、福音の太陽がまばゆいばかりに輝いており、人々は真昼の光の中で喜んでいる。これはなぜだろうか? なぜ日本人には何の恵みもないのだろうか? なぜ中央アフリカの住民には何の福音も宣べ伝えられていないのだろうか? なぜサンティアゴの大聖堂では神の真理が現わされておらず、その代わりに間抜け者や、人をかつぐ者らの双方に恥辱を加えるような無言劇や愚劣さがあり、かの現代のトフェテに恐ろしい炎を吹き上げさせる、間接的な原因となったのだろうか? なぜ今日のローマは、獣の座である代わりに、イエス・キリストの御座となっていないのだろうか? 私には告げることができない。しかし確かに、神の主権は多くの人種を見過ごしにし、アングロサクソン部族を選定しては、彼らが以前のユダヤ人のように天来の真理の保管者となり、大いなる恵みの寵児となるようにされたに違いない。

 私たちはこれ以上、民族の選びについて語る必要はない。というのも、この原則は個々人において明瞭に実施されているからである。私の兄弟たち。あなたがたは、あの金持ちの取税人のうちに何か見えるだろうか? 自宅の金庫に、しぼり取った成果を溜め込んでいるこの取税人は、いちじく桑の木によじ登り、背が低くとも《救い主》の姿を見ようとしている。――この男のうちに、何か見えるだろうか? 栄光の主が、そのいちじく桑の木の下で立ち止まり、こう云われた理由が見てとれるだろうか? 「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」[ルカ19:5]。あなたは、向こうにいる、五人も夫を持ったことのあるふしだらな女、今は夫でもない男と同棲している女が、なぜ《救い主》にサマリヤを通過する旅を余儀なくさせ、いのちの水について彼女に告げさせたのか、その理由を私に代わって見つけられるだろうか? あなたに何か見てとれるとしても、私にはわからない。あの血に飢えたパリサイ人を眺めるがいい。男も女も牢に投じて、彼らの血を流す権威を帯びてダマスコへ向かいつつあるあの男を。昼日中の熱も彼をとどめることはできない。彼の心は宗教的激情によって、真昼の日差しを放つ太陽よりも熱くなっているからである。しかし、見よ。彼は道の途中で阻止される。ある輝きが彼の回りを照らす。イエスが天から優しい叱責の言葉をお語りになる。そしてタルソのパウロは、神の使徒パウロとなる。なぜか? なにゆえか? 私たちには、こう答える以外にあるだろうか? 「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」[マタ11:26]。『ジョン・ニュートンの伝記』を読むがいい。彼は悪漢という悪漢の中でも最悪の者になり果ててはいなかっただろうか? ジョン・バニヤンの生涯に目を向けてみるがいい。彼自身の告白によると、それは最低のごろつきの生き方だったという。では、教えてほしい。あなたはこの無頼漢たちのどちらかにでも、主が彼らを選んで最も卓越した十字架の伝令官とした理由を何か見つけられるだろうか? まともな分別をした人ならだれしも、ニュートンやバニヤンのうちに、《いと高き方》の関心を奪うようなものがあったなどと主張しはしないであろう。それは主権であった。主権以外の何物でもなかった。愛する方々。あなた自身の場合を取り上げてみるがいい。それは、あなたにとって何にもまして説得力があることであろう。もしあなたが少しでも自分自身の心を知っているとしたら、もしあなたが自分自身の性格を正しく評価しているとしたら、もしあなたが《いと高き方》の御前における自分の立場を真剣に考えたことがあったとしたら、神は永遠の愛によって自分を愛してくださったのだ、それゆえ、いつくしみの絆で自分を引いてくださったのだ[エレ31:3; ホセ11:4]、と思い巡らすとき、たちまちこう叫ばざるをえなくなるであろう。「私にではなく、主よ、私にではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」*[詩115:1]。兄弟たち! 全世界は神の主権を示す例で満ちている。というのも、あらゆる回心において、神の絶対的なご支配を示す光が幾筋か人類に射し込んでいるからである。

 ある罪人が自分の魂の問題について思い悩むとき、その人が主として専ら考えるべきことは、この主題ではない。人が御怒りを逃れ、天国に達したいと願うとき、その人が最初に――最後に――半ばで思うべきことは、キリストの十字架である。目覚めさせられた罪人として私は、神の隠された目的よりも、神の明かされた命令の方に、はるかにずっと関わりがある。もしある人が、「あなたはすべての人に悔い改めを命じていますが[使17:30]、私はまだ悔い改めるつもりはありません。自分が永遠のいのちに選ばれているかどうかわからないのですから」、など云うとしたら、それは全く筋の通らない話であるばかりか、この上もなくよこしまなことである。それが筋の通らないものであることは、ちょっと考えればすぐにわかるであろう。私は、パンがそれ自体で私のからだを養いはしないことを知っている。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」[マタ4:4]からである。それゆえ、パンが私のからだを養うかどうかは、神の定めにかかっている。もし神がそう意図されなければ、それは私を窒息させ、私のいのちの支えとなるどころか、私の死の原因となることさえありえるからである。ならば私は、そのパンが私を養うものとなるよう神がお定めになっているかどうかわからないからといって、空腹になっても両手をかくしに突っ込んだまま立ち尽くし、ご馳走が山盛りの食卓に手を伸ばして食べることを拒否するだろうか? その場合、私は痴愚か狂人であろう。たとい正気だったとしても、そうした口実で飢えていくなら、自殺者として葬られて当然至極であろう。私は、来年私の畑に収穫が実るかどうか絶対の確信はない。麦が生えて熟すことを神が定めておられない限り、いかに農作業に励もうと無駄骨折りであろう。地面には虫がおり、大気には霜があり、空には鳥がいて、風の中には白渋病がある。――これらはみな、私の麦を全滅させ、私が自分の畦溝に蒔くなけなしの穀粒すべてを失ってしまうことがありえる。ならば私は、来年収穫があるように神が定めておられるかどうかわからないからといって、自分の畑を永遠に休閑地にしておくだろうか? それでもし私が破産するとしたら、――もし私が自分の小作料を払えなくなるとしたら、――もし茨とあざみが生い茂るとしたら、――そしてもし私が、あげくの果てに地主から小作地を追い出されたとしたら、人々は、「自業自得だ!」、としか云わないであろう。――なぜなら、私は愚かにも、自分の知っている義務を果たす代わりに、神の隠された目的を何にもまして考えるべきこととしたからである。私の具合が悪くなり、病気になったとする。医者が薬を持って私のところにやって来る。私は、彼の薬が自分を癒すかどうかはっきりとはわからない。それは、他の非常に多くの人々を癒してきた。だがもし私が死ぬことを神が定めておられるとしたら、いくら薬を飲もうが、全く飲むまいが、私は死ぬことになる。私の腕が壊疽にかかっているとする。だが私はそれを切断させはしない。なぜなら、神が私を壊疽で死ぬように定めておられるかどうかわからないからである。そのようなことを云うのは、気が狂った痴愚者か、支離滅裂な狂人以外のだれであろう? こうした形で事を表に出せば、あなたがたはみな、「だれもそんなふうに云う人はいません。馬鹿らしすぎます」、と答えるであろう。もちろん、だれもそのようなことは云わない。そして事実、神の事がらにおいてさえ、実はだれひとりそのようなしかたで議論する者はいない。人は、「私はキリストを信じようとは思いません。自分が選ばれていないのではないかと思うからです」、と云いはするかもしれない。だが、こうした理屈はあまりにも愚劣で、あまりにも馬鹿げているため、完全に惚けてしまった人でもない限り、自分のこうした理屈を信じるほどの大馬鹿者がいるとは信じられない。むしろ、はるかにありがちな真相は、こうだと思う。すなわち、それは、良心を麻痺させようとする邪悪で、ひねこびたしかたなのである。人は、まずい云い訳でもないよりはましだとか、愚かしい議論でも、ぐうの音も出ないまま困惑させられるよりはましだと考えてそうするのであろう。

 しかし、人々が年がら年中この点を云い立て、おびただしい数の人々が、主イエス・キリストを信じない理由として常にこのことをあげる――「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」[ロマ9:16]のだからと語る――ため、私は今朝、こうした人々と、彼ら自身の土俵に上って語り合ってみようと思う。そして、聖霊の御助けによって、努めてこう示したいと思う。神の主権という教理は、いかなる者をも落胆させるどころか、正しく考えられるなら、イエス・キリストを信じようとする魂を落胆させる、いかなるものをも全く含んではいない、と。

 その話に移る前に、少しの間、この教理を誤り伝える非常にありがちなやり方に対して答えさせてほしい。また、この教理が実はいかなるものであるか、明確な観念をいだいた上で話をするのも良いであろう。私たちの反対者たちは、このような仮定を行なう。かりに、ある父親が、自分の恣意的な意志によって、自分の子どもたちのうち何人かを極度にみじめな状態に追いやり、残りの子どもたちをこの上もなく幸福にしてやるとしたら、それは良いことだとか正しいことだとか云えるだろうか? これは残忍で憎むべきことではないだろうか? 私は答える。もちろん、その通りである。それは、極度に忌まわしいことであり、《全世界をさばくお方》[創18:25]がそのような行動をとるなどと考えることは決して、決してあってはならない。しかし、その事例は、いま考察している事例を述べたものでは全然なく、その2つは光と闇ほどにも違う。罪深い人間は今、愛されて当然の、あるいは無垢の子どもの立場にはないし、神は愛想のいい親の地位にあるわけでもない。私たちは、それよりも格段に的をついた例を想定しよう。実際、それは想定でも何でもなく、実態を正確に説明したものにほかならない。何人かの犯罪人が、この上もなく極悪の、憎むべき犯罪を犯したかどで、正当にも死刑を宣告されている。彼らが死を免れるとすれば、国王が自分に授けられている大権を振るって彼らに無条件赦免を与えた場合しかない。もしも国王が、自分ひとりにしかわからない、何らかの善かつ十分な理由によって、そのうち数名を赦すことを選び、残りは処刑されるままにしておくとしたら、そこに何か残酷なこと、不正なことがあるだろうか? もしも、何らかの賢明な手段によって、正義の目的がより良く果たされ、――その赦された者らを助命する方が、断罪するよりも正義にかない――、それと同時に、何名かを罰することが立法者の正義に栄誉を帰すことになるとしたら、だれがそれを非難しようなどとするだろうか? だれもいまい。あえて云うが、そのようなことをするのは、国家と国王の敵どもだけである。それと同じようにして、私たちはこう尋ねてよいであろう。「神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません」。「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです」[ロマ9:14、22]。一体だれが、こうしたあわれみと厳しさの入り混じった天の配剤を論難したり、神が「あわれもうと思う者をあわれむ」からといって、永遠の神を無法者にしたりするだろうか? そこで今から私たちは、本来の主題に進むことにし、その回りにひしめいていると思われている恐るべきことから、この真理を解放するように努めたい。

 I. まず、こう主張することから始めよう。それは私たちが絶対に正しいと確信していることだが、《この教理は、他のいかなる聖書的真理から引き出される慰めをも妨げない》

 この教理は、一見峻厳に思われるかもしれないが、啓示された他の真理から正当に引き出される慰藉を妨げるものではない。救いは主だけのものであるとし、主はあわれもうと思う者をあわれむという私たちの教理は、自由意志説を奉ずる人々によると、神のいつくしみから引き出されうる慰めを人から取り上げるものであるという。神はいつくしみ深く、そのご性質において無限にいつくしみ深くあられる。神は愛である。ひとりも死ぬことを望まず、むしろ、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしはだれが死ぬのも喜ばない。かえって、わたしに立ち返り、生きることを喜ぶ」*[エゼ33:11; 18:32]。こうした人々は、この点について、非常に適切にもこう主張している。神はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にある[詩145:9]。主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである[詩103:8]。私に請け合わせてほしいが、私たちは決してこうした点について争うものではない。私たちも、こうした同じ事実を喜ぶものだからである。あなたがたの中のある人々は、私の声をこの十年ずっと聞いてきた。あなたに私は問うが、果たしてあなたは、私が一度でも神の大いなるいつくしみという教理と少しでも矛盾するような言葉を語るのを聞いたことがあるだろうか? 間違ってそのように解釈した人はいるかもしれないが、そのような教えは一度も私の口を通ったことはない。また私は、神の普遍的な慈愛――《いと高き方》の心からあふれ流れる無限のいつくしみ――を何度となく主張してはいないだろうか? もしだれかが、「神は愛です」[Iヨハ4:16]という偉大な聖句を主題として説教できるとしたら私は、それがだれであろうと、また、いかなる人であろうと、同じ雄弁さで説教することはできなくとも、その人が自分の主題を解き明かす際の果断さ、暖かさ、喜び、真剣さ、平易さに、ひけを取りはしないであろう。神の主権と神のいつくしみとの間には、いささかの摩擦もない。神は主権者であっても、常にいつくしみと愛によって行動なさることは絶対に確かである。確かに神はみこころの通りに行なわれるが、しかし、きわめて確実なことに、神は常に、この上もなく大きな物の見方において、いつくしみ深く恵み深いことを行なおうと思われる。もし悲しみの子らが神のいつくしみから何らかの慰めを引き出すとしたら、選びの教理は決して彼らの足を引っ張りはしない。ただ注意すべきは、この教理が両刃の剣であって、神のいつくしみにつけこもうとする偽りの信頼をずたずたに切り刻むということである。そうした偽りの信頼によって、非常に多くの魂が地獄に送り込まれている。私たちは、死に行く人々が、このような子守歌を歌いながら底知れぬ所へと落ち込んでいくのを聞いてきた。「そうです、先生。私は罪人です。ですが神はあわれみ深いお方です。神はいつくしみ深いお方です」。あゝ! 愛する方々。そうした人は思い出すがいい。神はいつくしみ深いばかりでなく、正しいお方であり、御子イエス・キリストの大いなる贖罪によらない限り決して咎ある者を容赦することはない。選びの教理は、この上もなくほむべき正直なしかたでやって来ては、一撃で、この偽りの、無根拠な信頼――契約によらない神のあわれみに対する信頼――の首根っこをへし折るものである。罪人よ。あなたは、キリストから離れては、神のいつくしみに頼るべき何の権利もない。《霊感された書》のどこを探しても、イエス・キリストを信じようとしない人に、希望の影すら差し出しているような言葉はない。そうした者について、それはこう云う。「信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。そうした、約束されてもいない天の恩顧というあわれな信頼に頼っているあなたについて、それはこう宣言している。「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とは義なるイエス・キリストです」*[Iコリ3:11]。もしあなたから偽りの隠れ家を奪うことが悪であるとしたら、選びの教理は確かにそれを行なう。だが、神の豊かないつくしみと、無制限の愛とをより広く眺める見方から正当に引き出すことのできる慰めを、選びは一粒たりとも減じさせない。

 また、神が祈りを聞いてくださるとの約束は、多くの慰めを悩める良心に与えてくれる。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」[マタ7:7-8]。もしあなたがイエス・キリストの御名によって何かを神に願うなら、あなたはそれを受けるであろう[ヨハ16:23]。さて、ある人々の想像によると、彼らは、自分が神に選ばれた民かどうかわからないのだから、祈ってはならないのだという。もしあなたが、そのように愚かしい推論に立って祈るのを拒否するとしたら痛い目に遭わざるをえない。だが、私たちの厳粛な確信に注意するがいい。これは神から保証されていることだが、神の主権には、この偉大な真理を妨げるものは何1つ含まれていない。すなわち、イエス・キリストを通して、慎ましい祈りをささげることによって、天来の恵みを切望している、あらゆる真摯に求める魂は、見つけ出す者となるのである。この場にはアルミニウス主義者の兄弟がいて、この講壇に立って、人を喜ばせるこの真理を宣べ伝えたくてうずうずしているかもしれない。神は、ヤコブの子らに「むなしくわたしを尋ね求めよ」とは云わなかったのだ[イザ45:19]、と。私たちは、その教理を説教する完全な自由をその人に与えるばかりでなく、その真理の宣言において、その人に行ける限りにおいて――ことによると、もう少し先まで――その人に同意するものである。私たちは、個人的な選びと、祈りの力強い効力との間に、何の矛盾も感じとれない。感じとれるという者たちは、それをどう調和させればよいか頭を悩ますがいい。私たちにとって驚きなのは、いかにして人はその一方を信ずることなしにもう一方を信じられるのか、ということである。私は、主なる神が、ご自分のいつくしむ者をいつくしみ、ご自分のあわれむ者をあわれむことを堅く信じなくてはならない。だが私は、それと同じくらい確かに、純粋な祈りのあるところ、どこにおいても、神がそれを与えてくださったのだと知っている。求める者がいるところ、どこにおいても、神がまずその人を求めさせてくださったのである。ということは、もし神がある人を求めさせ、祈らせてくださるとしたら、すぐさまそこには天来の選びの証拠があるのである。また、いかなる者も、捜せば見つけるということは、真実な事実なのである。

 また、非常に大きな慰めを引き出せると考えられているもの、また、それが自然であるのは、福音の無代価の招きである。「あゝ」、とある人は叫ぶであろう。「《救い主》がこう叫ばれたことは、何と甘やかなことでしょう。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』[マタ11:28]。このような言葉を読むのは、何と嬉しいことでしょう。『ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え』[イザ55:1]。先生。私の心はこう書かれているのを見いだすとき励まされます。『いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい』[黙22:17]。しかし、先生。私は選びの教理のせいで、行くことをしないのです」。話をお聞きの愛する方々。私は好きで辛辣なことを云うのではないが、自分の確信を云い表わさなくてはならない。それは、あなたが全くしようと思わっていないことをしないですませるための、空しい云い訳にすぎない、と。なぜなら、きわめて普遍的な形の招きをすること、否、万人を対象とした招きをすることは、神の選びと完璧に調和しているからである。知っての通り、私がこの場で説教してきた招きは、ジョン・ウェスレー氏の口から出てきたいかなる招きにも負けないくらい自由な招きであった。アルミニウス派の創設者ファン・アーミンその人でさえ、最低最悪の卑劣漢に向かってイエスのもとに来たれと云う私よりも誠実に訴えたことはありえない。では私は、そこには矛盾するものがあると内心感じていただろうか? 否。全くそうしたものはない。なぜなら私は、すべての水のほとりに種を蒔く[イザ32:20]ことが自分の義務であると知っており、あのたとえ話の種蒔く人のように、土の薄い岩地にも、良い土地と同じように種を蒔くべきであると知っているからである。私の知るところ、選びは福音の普遍的な召命を狭めるものでなはく、有効召命に効果を及ぼすだけである。有効召命は特定的なものであり、特定的なものでなくてはならない。そうした有効召命は、決して私の働きではない。それは神の御霊からやって来るものとわかっている。私の務めは普遍的な召命を告げることである。聖霊は、その適用を、選ばれた者に対して行なわれるであろう。おゝ、話をお聞きの愛する方々。神の招きは、あなたがたの中のあらゆる人に向けられた誠実な招きである。神はあなたを招いておられる。たとえ話の言葉を借りれば、神はあなたにこう語りかけておられる。「何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。雄牛も太った家畜もほふられました」*[マタ22:4]。否。神はご自分に仕える教役者たちにこう云っておられる。「街道や垣根のところに出かけて行って……無理にでも人々を連れて来なさい」[ルカ14:23]。神は、だれがやって来るかを予知しており、すべての世に先立って、だれがその宴会を味わうことになるか定めておられたが、その招きは可能な限り最も広い範囲に及ぶものであって、それは真実かつ誠実なものなのである。そして、もしあなたがそれを受け入れるなら、あなたはそれがその通りであることを見いだすであろう。

 さらに、もし私たちが少しでも福音を理解しているとしたら、福音はごく小さく煎じ詰めることができる。それはこうである。――「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31]。あるいは、キリストのことばを借りれば、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。この約束が福音である。さて、他の何が偽りであったとしても、福音は真実である。いかなる教理が神から出たものであろうとなかろうと、福音は確かに神から出ている。主権の恵みという教理は、福音に反するものではなく、完璧にそれと調和している。神は、だれにも数えきれぬほどの民[黙7:9]を持っておられ、彼らを永遠のいのちに定めておられる。「御子を信じる者はさばかれない」[ヨハ3:18]。この世に生を受けた者、あるいはこれから受ける者がイエス・キリストを信ずるとしたら、その人には永遠のいのちがあるのである。選びがあろうとなかろうと、もしあなたがこの千歳の岩の上に安らいでいるとしたら、あなたは救われている。もしあなたが、咎ある罪人として、キリストの義を受け取るなら、――もしどす黒く、汚れ果て、不潔きわまりないままのあなたが、血で満たされたその泉へと身を洗いに来るなら、主権があろうとなかろうと、安心するがいい。あなたは必ず来る御怒りから贖い出されている。おゝ、私の愛する方々。あなたが、「私は選びということがあるので、キリストを信じようとは思いません」、と云うなら、私はただヨブがその妻に云ったことしか云えない。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている」[ヨブ2:10]。一体全体いかにしてあなたは、神があなたに2つのことを啓示しておられ、その2つのことを自分が一致させられないからといって――いかにしてあなたは、そのどちらかが偽りだなどと非難したりするのだろうか? もし私が神を信じているとしたら、私は自分に理解できることを信ずべきであるばかりか、自分に理解できないことをも信ずるべきである。またもし、自分のたなごころを指すように了解でき、要約できるような啓示があるとしたら、確かにそれは神から来たものではないと確信すべきである。しかし、もしそれが自分にとって格段に深遠すぎる深みを有しているとしたら、――私に解くことのできない結び目――私には解決できない神秘――があるとしたら、私はそれをこの大いなる信頼とともに受け入れる。なぜなら、それは今や私に、私の信仰が泳ぎ回れる余地を与えるからである。そして私の魂は、神の知恵という大海に身を浸して、こう祈るのである。「信じます。不信仰な私をお助けください」[マコ9:24]。

 このことは何度も何度も云わせてほしい。この件については、いかなる疑いもあってはならない。すなわち、もし福音から引き出せる何らかの慰めがあるとしたら、――もし天来の真理の無代価の招きや、普遍的な命令から流れ出ている甘やかな慰藉が何かあるとしたら、――あなたは、たといこの神の主権という教理を奉じていても、それらすべてを受け取り、享受することができるのである。それは、あなたが神の主権という教理を奉じておらず、何かもっと広い体系を受け入れている場合に全く劣りはしない。そう云うと、ある声が聞こえるような気がする。「先生。私に持てる唯一の慰めは、キリストの尊い血にある無限の価値のうちにあるのです。おゝ、先生。私にとって途方もなく甘やかに思われるのは、キリストでも罪を洗いきよめられないほどどす黒い罪人はひとりもなく、その贖罪による功績の効き目がないほど年をとった罪人はいないということです。――どんな身分、どんな状態にある者でも、主の血によってすべての罪をきよめられないような者はひとりもいないのだ、という。さあ、先生。もしそれが真実だとしたら、いかにして選びの教理が正しいことなどありえるでしょう?」 愛する方々。あなたは自分の心の中では知っているはずである。この2つのことは全く対立し合うものではない、と。というのも、選びの教理は何と云っているだろうか? それによると、神は、いまだかつて生を受けた中でも最大の罪人たちの中の何人かを選んで、お救いになられたし、まだかつて犯された中でも最も不潔な罪のいくつかをきよめてこられたし、それを今も行なっておられ、世の終わりまで行なわれるのである。ならば、この2つのことはぴたりと一致している。そして私は、あえてこう云おう。もしも、ある人が心の底から、「あの例外とされた罪のほかに、赦されることのできない罪は1つもない」、と云うとしたら、――もしもその人が、「人はどんな罪も……赦していただけます」[マタ12:31]、と大胆に宣言するとしたら、――もしもその人が、いま自分の魂はキリストのもとに来て、永遠のいのちをつかみたいのです、と力強く真剣に訴えるとしたら、――その人は自分の聖書に立ち戻り、神の主権を教えているあらゆる聖句、また天来の選びを認めているあらゆる箇所を読むことができよう。そして、その人はこうしたあらゆる聖句が自分を真っ向から見据えて、こう云っているように感じるであろう。「よくやりました。私たちの霊とあなたの霊は全く同じです。私たちには何の葛藤もありません。私たちは、同じ神から出た2つの偉大な真理です。同じように聖霊の啓示なのです」。しかし、この点については、ここまでにしておこう。罪人よ。もしも聖書の何らかの箇所から――神の何らかの約束から――何らかの招きから――何らかの開かれたあわれみの扉から――真実に、また正当に得られる慰めが何かあるとしたら、あなたはそれを自分のものとしてよい。選びの教理は、神の真理があなたに与えることのできる慰藉の一粒子たりともあなたから奪うことはないからである。

 II. しかし今、私たちはもう1つの点をしばし取り上げるであろう。私たちの二番目の項目は、《この教理は罪人たちに健全きわまりない効果を及ぼす》ということである。この人々は2つの種別に分けられるであろう。目覚めさせられている者たちと、かたくなで、度しがたい者たちである。

 目覚めさせられている罪人にとって、分け隔てをする恵みというこの教理は、ことによると、十字架の教理に次いで、慰めの間に祝福が充満しきった教理かもしれない。第一のこととして、選びの教理は、聖霊によって適用されるとき、肉の努力のすべてを永遠に打ち殺す。アルミニウス主義に立つ説教の目当ては、人々の意欲をかき立て、彼らを奮い立たせ、彼らにできることを行なわせることにある。だが、福音説教の真の目当てと目標は、人々に自分自身の力は何もないと感じさせ、彼らを神の御座の足元に死んだように横たわらせることである。神の下にあって私たちが求めるのは、人々に、自分たちのあらゆる力は、救うに力強い[イザ63:1]《強いお方》のうちになくてはならないと感じさせることである。もし私がある人に、たとい自分が何をしようと自分で自分を救うことはできないと確信させることができるとしたら、――もし私がその人に、自分の祈りも涙も、神の御霊を離れては決して自分を救うことはできないと示すことができるとしたら、――もし私がその人に上から新しく生まれなくてはならないことを確信させられるとしたら、――もし私がその人を導いて、肉から生まれたすべての者は肉であり、御霊から生まれた者だけが霊である[ヨハ3:6]と悟らせるとしたら、兄弟たち! すでに戦いの帰趨はあらかた決したも同然である。「わたしは殺し、また生かす」[申32:39]、と神は云われる。「だれかが殺されるとき、事は半分なったも同然である」。「わたしは傷つけ、またいやす。だれかが傷つけられるとき、彼の救いが始まるのである」。何と! 私は罪人に、自分の行ないによって永遠のいのちを勤勉に求めさせるべきだというのだろうか? ならば実は私は地獄の大使ではなかろうか。私はその人に、あなたの内側には良いものがあります、それを発達させ、磨き、教育し、完成に至らせれば、それであなたは救われます、などと教えるべきだろうか? ならば私は、律法の卑しい部分を説く教師であり、キリストの福音の教師ではない。私たちは、人の祈りや、悔い改めや、へりくだりを救いの道として述べるべきだろうか? だとしたら、キリストの義など今すぐ放棄しようではないか。両者は決して並び立たないからである! もし私が、《贖い主》の御腕を指し示す代わりに肉の活動を奮い起こすとしたら、私は害毒をもたらす者である! しかし、もし人々を選ぶ主権という強力な大槌が、人間のわざや、功績や、行ないや、意欲といったすべての脳を叩きつぶす一方で、その死んだ屍の上に、この言葉を宣告するならば、――「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」[ロマ9:16]、と云うとしたら、――そのとき、信仰が働くまでの踏み石としてなされうる、最善のことが罪人に対してなされるのである。人が自己に嫌気が差し、肉に助けを求めることから全く解放されるとき、その人には希望がある。このことを神の主権の教理は聖霊の力によって行なうのである。

 また、この教理は、真に目覚めさせられている罪人に、最大の希望を与える。いかにしてそうなるかは知っての通りである。私たちはみな、死罪に定められた囚人である。神は主権者として、みこころのままに赦免を与える権利を有しておられる。さて、かりに私たちの中の多くの者が、みな有罪とされて死刑囚監房に閉じ込められていると想像してみてほしい。そうした殺人者の中のひとりは、内心こう云うであろう。「俺には、釈放される見込みが何もねえことはわかってる。俺は金持ちじゃねえ。ジョージ・タウンリーみてえな金持ちの親戚がいたなら、気違いってことで釈放されるかもしれないが、俺あ最低の貧乏人だ。俺には教育もねえ。だれかみてえに教育がありさえすりゃあ、ちったあ目をかけてもらえるかもしれねえが。俺には身分もなけりゃ地位もねえ。何の取り柄も、引きもねえ。だから、俺が命拾いする方に選ばれるなんて見込みはありえねえ」。しかり。もしも現在のわが国の当局を相手として考えなくてはならないとしたら、貧乏な人間が恩赦を期待できる見込みは非常に少ないであろう。しかし、神が偉大な主権者であられるとき、事は異なる。その場合、私たちはこう論ずるからである。「私はここにいる。私の救いは、全く神のみこころ次第である。私には見込みがあるだろうか?」 私たちは、これまで神が救ってこられた人々を列記してみる。すると、神が救われるのは、貧しい者、文盲の者、よこしまな者、不敬虔な者、そして最低最悪の人間、下劣な者、蔑まれている者であることに気づく。よろしい。私たちは何と云うだろうか? 「ならば、なぜ神が私を選ばないことがありえようか? なぜ私を救わないことがあろうか? もし私が自分自身のうちに何か自分が救われるべき理由を探さなくてはならないとしたら、決して何の理由も見いだせず、その結果決して何の希望もないであろう。しかし、もし私の救われるべき理由が、唯一、私を救おうと神が望まれることだけだとしたら、あゝ! ならば、私にも希望がある。私は、恵み深い《王》に近づくであろう。王が命ずるままにするであろう。王の愛する御子に信頼するであろう。そして私は救われるであろう」。それで、この教理は最低最悪の人間に希望の扉を開くのである。また、これが落胆させる唯一の人々はパリサイ人である。「神よ。私はほかの人々……のようではないことを、感謝します」[ルカ18:11]、と云う人々――次のように云う高慢で、高ぶった霊たちである。「否! もし私が自分のうちにある何らかの長所のゆえに救われるのでないとしたら、地獄に落ちた方がましだ!」 彼らは地獄に落ちるだけでなく、地獄の底に思いきり叩きつけられるであろう。

 さらに、愛する方々。あなたは見てとらないだろうか? いかに選びの教理は力という点において罪人を慰めることか。罪人はこう苦情を云う。「私には信ずる力が何もありません。何の種類の霊的な力もないのです」。選びは身をかがめてその人の耳に囁く。――「しかし、もし神があなたを救おうと望まれるとしたら、神はあなたにその力を与え、そのいのちを与え、その恵みを与えてくださる。それゆえ、神がその力や能力を、あなたと同じくらい弱い他の人々に与えてこられた以上、なぜあなたにも与えないことがあるだろうか? 勇気を持つがいい。キリストの十字架を眺めて、生きるがいい」。そして、おゝ! 何という感謝の念、何というの興奮をこの教理は人間の心の中に引き起こすことであろう。「何と」、とその人は云う。「私が救われたのは、ただ神が私を救おうと望まれたがためである。私がそれに値していたからではなく、神が、その愛に満ちた心によって、私を救おうと望まれたためである。ならば、私は神を愛するようにしよう。神のために生きるようにしよう。神のために財を費やし、また私自身をさえ使い尽くそう」。そのような人は高慢になることができない。つまり、この教理と一貫したしかたでは、高慢になれない。その人は、神の足元に謙遜にひれ伏す。他の人々は、自分が何物であるかを誇り、いかに自分が永遠のいのちを自分自身の善良さによってかちとったかを誇るかもしれない。だが私にはできない。もし神が私を放っておかれたとしたら、私は他の人々とともに地獄にいたはずである。そして、もし私が天国に行くとしたら、私は、自分をそこに連れていった恵みの前に自分の冠を投げ出すに違いない。そのような人は、他の人々に親切になるであろう。自分の意見を持ちはするが、それを無作法に振り回したり、辛辣に教えたりはしない。なぜなら、その人はこう云うからである。「もし私に光があり、他の人々にないとしたら、私の光は神によって与えられたのだ。それゆえ、私がそのことを鼻にかける理由は何もない。私はその光を広めようとはするが、怒りや毒舌によってそうしはすまい。というのも、なぜ私は目の見えない人々を非難すべきだろうか? もし神が私の盲目の目を開いてくださらなかったとしたら、私にものを見ることができただろうか?」 聖霊がお用いになるとき、この教理はあらゆる美徳をはぐくみ、あらゆる悪徳を殺す。高慢は踏みにじられる。キリストにある神のあわれみに対する謙遜な、また信じて疑わない確信を、この教理は、愛されている子どもとしていだく。

 私の時間は尽きてしまった。だが私は、度しがたい罪人に及ぼされる、この福音の効果について一言語っておきたかった。私はただこのことだけを云っておこう。私は、その効果がいかなるものであるべきかを知っている。あなたは何と云うだろうか? あなたがた、悔い改めない決心を固めており、神のことなどどうでもいいと思っている人たち。何と、あなたは、いつでも好きな日に神に立ち返ることができると信じている。神があわれみ深く、あなたを救ってくださるからである。それゆえ、あなたは、可能な限り気持ちよくこの世を歩き回り、すべては自分次第なのだ、五時[マタ20:6]ちょうどになったら天国に行くことにしようと考えている。あゝ! 方々。あなたの場合そうではない。自分がどこにいるか見るがいい。あなたは、私の手元を蛾がひらひら飛んでいるのが見えるだろうか! それがあるものと想像するがいい。私のこの指は、それを一瞬のうちに潰すことができる。それが生きるかどうかは、私がそれを潰すことを選ぶか、見逃すことを選ぶかに絶対的にかかっている。これこそ、現在の瞬間におけるあなたの立場にほかならない。神は今あなたを地獄に落とすことができる。否。こう云わせてほしい。「あなたの立場はそれよりも悪い」、と。現在、海事裁判所には、殺人と海賊行為の廉で七名ほどの人間が刑を宣告されている。わかりきったことだが、彼らの命は女王陛下のお心にかかっている。もし女王陛下が彼らを赦すことを選ぶなら、そうすることができる。選ばないとしたら、破滅の日の朝が来たとき、絞首台の閂が引き抜かれ、彼らは永遠へと送り込まれる。罪人よ。それがあなたの立場である。あなたはすでに罪に定められている。この世は1つの巨大な死刑囚監房であって、処刑日の朝まであなたを監禁しているのである。もしあなたが赦されるようなことがあるとしたら、神がそれを行なわなくてはならない。あなたは脱走することによって、神から逃れることはできない。あなた自身の行動によって神を買収することはできない。あなたは絶対的に神の御手の中にあり、もし神があなたを今あなたがいる所に、今のあなたのまま放置しするとしたら、あなたの永遠の破滅は、あなたが存在しているのと同じくらい確実である。さて、これはある種の身震いをあなたに生じさせないだろうか? 生じさせないかもしれない。それはあなたを怒らせる。よろしい。たといそうだとしても、それで私は怯えはしない。なぜなら、あなたがたの中には、怒らない限り全く箸にも棒にもかからない人々がいるからである。私の信ずるところ、ある人が真理に対して怒りを発するのは、決して悪いしるしではない。それは、真理が痛い所をついたことを示している。もし矢が私の肉体に突き刺さったとしたら、私はその矢を好きにはなるまい。それで、もしあなたがこの真理に反抗してジタバタするとしても、それは私を恐怖させはしない。私は、何らかの傷が生じたものと希望するであろう。もしこの真理によって怒らされたあなたが考えさせられるとしたら、それは、あなたがたの中のある人々に対して、この世で最もすぐれたことを行なったことになるであろう。私を恐ろしくさせるのは、あなたの強情な考え方ではない。あなたが続けている、全く考えなしの生き方である。もしあなたに、こうした事がらを考察し、それに反抗するだけの分別があるとしたら、私はあなたについて、かすかな希望を少しは持てる。しかし、悲しいかな! あなたがたの中の多くの人々は、まだ十分には語っていない。あなたは云う。「ええ、ええ。それはみな真理ですとも」。あなたはそれを受け入れる。だが、そのとき、それはあなたに何の効果も及ぼしていない。福音は、大理石の板に垂らされた油のように、だらりとぬめり落ち、何の効果ももたらさない。

 もしあなたが、少しでも正しい心をしているとしたら、あなたは自分がいかなる状態にあるかを見てとり始めるであろう。そして、次にあなたを驚愕させることに、このように思い巡らすであろう。「そうなのか? 私は絶対的に神の御手の中にあるのか? 神はみこころのままに私を救うことも地獄に落とすこともできるのか? ならば、私は神に叫ぼう。『おゝ、神よ。お救いください。必ず来る御怒りから――永遠の苦悶から――あなたの御前から追放されることから、私をお救いください。おゝ、神よ! 私がどうすることをお望みなのですか? おゝ! あなたの恩顧を見いだし、生きるために、あなたは私に何をすることをお求めなのですか?』」 そのとき答えがあなたのもとにやって来る。――「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31]。というのも、「人の子を信じる者はみな、永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:15 <英欽定訳>]からである。

 おゝ、願わくは神が、この天来の教理をあなたのために祝福してくださるように。これまで私がこの教理を説教したとき回心が起こらなかったことはないし、これからも決して起こらないことはないと私は信ずる。今この瞬間に神は、その真理によって、あなたの心をイエスに惹きつけさせるか、恐れさせてイエスのもとに追い立てなさるであろう。願わくはあなたが、おとりによって引き寄せられる鳥のように引き寄せられるか、鷹に狩られた鳩が岩の裂け目に逃げ込むように追い立てられるかするように。ただ、あなたが甘やかに来させられるように。願わくは私の主が、心から私の欲することをかなえてくださるように。おゝ、神が私に、私の報酬としてあなたがたの魂を与えてくださるように。そして、神に代々限りなく栄光があらんことを。アーメン。

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選びは決して求める魂を落胆させない[了]

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