HOME | TOP | 目次

罪人たちの友

NO. 458

----

----

1862年6月29日、日曜朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「彼はそむいた人たちとともに数えられた。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」。――イザ53:12 <英欽定訳>


 1つのぼんやりとした観念が世に広まっている。キリストの受難の恩恵は、ただ善人だけのためのものだというのである。一部の教役者たちの説教、また、ある信仰告白者たちの話を聞くと、よく教えを受けていない人々は、次のように思い込まされてしまうであろう。キリストが世に来られたのは、義人を救うためであり、敬虔な者を悔い改めに召すためであり、病んでいない者をいやすためだったのだ、と。ほとんどの罪人は、覚醒されると、良心に1つのすさまじい恐れをいだく。キリストは自分のような者を祝福するために来られたはずがない。むしろ、キリストがその血潮の功績と、その受難の効力とを授けようとされたのは、キリストに自薦できるような良いわざか感情を有している人々に違いない、と。だが、愛する方々。あなたは、片目でも開けているなら、明確に見てとるはずである。そうした想定が、聖書の教え全体といかにちぐはぐなものであるかを。その計画そのものを考察してみるがいい。それは救いと窮乏に関する計画であった。罪人たちを祝福するためのものであった。もし人々が失われていないとしたら、なぜ救いが必要だっただろうか? また、滅びた者たち以外の誰のために救いが必要だったろうか? この計画は恵みに基づいていたが、もしそれが、まるで無価値な者らのためのものでなかったとしたら、いかにして「恵み」でありえただろうか? もしあなたが罪を犯したことのない者たち、常に従順であった者たちを相手にしなくてはならないとしたら、どこに恵みの必要があるだろうか? ならば、義の道を踏み進むがいい。功績もそれなりに働かせるがいい。しかし、この契約全体が恵みの契約である以上、また、事の全体において、恵みが義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるべく定められている以上[ロマ5:21]、この計画そのものからして明らかなように、これが対象としているのは罪人たちであって、義人ではない。さらに、このみわざそのものについて考えるがいい。キリストのみわざは、完璧な義をもたらす働きであった。誰に対してだと思うだろうか? 義を有する人々に対してだろうか? それは余計なお世話であったろう。なぜ主は、すでに紫の衣や細布を着ている人々のため織物を織らなくてはならなかっただろうか? さらに主は、ご自分の血を流さなくてはならなかった。誰のための主の血だっただろうか? 何ゆえにあの園の苦しみがなくてはならなかったのか? 何ゆえに十字架上でのあの叫びがなくてはならなかったのか? 完璧な者のためだろうか? 確かにそうではない。愛する方々。そのような者らに、いかなる贖罪の必要があっただろうか? まことに、兄弟たち。イエス・キリストが十字架の上で罪ゆえに血を流された事実は、それ自体、主が罪人たちを救うために世に来られたことを物語るものである。それから、このみわざ全体における神の目的を眺めてみるがいい。それはご自分の栄光を現わすためであった。だが、しみのない魂を洗い、功績によって天国に入れたはずの者たちを恵みによって永遠の栄光へと導くことによって、いかにして神はそのご栄光を現わせただろうか? その計画と企図の双方が、人間性の偉大さをちりの中に打ち伏させ、神を高く上げ、その愛とあわれみをほめたたえることを目指していた以上、必然的にそこでは、まるで無価値な、受けるに値しない罪人たちを扱うためにやって来たことが暗示されているのである。さもなければ、その目的と目当ては決して実現されなかったであろう。救いは、その腕前を発揮するための原材料として罪人を必要とする。きよめを給う尊い血潮は、そのきよめる力を見せつけるために、不潔な罪人を必要とする。キリストの贖罪は、その働きを示すために、取り去るべき咎を必要とする。では、滑稽なこととは――馬鹿げたこととは――神にふさわしくないこととは、神の栄光の器となるべき罪人たちもなしに、救いの計画を――キリストの贖罪ほど途方もないみわざを――思い描くこと、また、神のご栄光を現わすというような素晴らしい目的を思い描くことである。罪人が神の恵みにあずかればこそ、神の栄光の器となるからである。一瞬でも思いを馳せれば、この計画全体が罪人たちのために立てられていることは分かる。「イエス・キリストは不敬虔な者のために死なれた」*[ロマ5:6]のである。実際、愛する方々。私たちは、こうしたことを明確に見据えるのでない限り、イエスをその栄光において見てとることができない。羊飼いが最も愛に満ちて見えるのはいつだろうか? 自分の群れの真中にいて、緑の牧場で彼らを養い、彼らを流れの静かな川のほとりへと導いていく羊飼いは、麗しい一幅の絵である。だが、もし私が心で喜びに躍り上がりたければ、その羊飼いが自分の迷子の羊を追い求めて山々を巡っている姿を見なくてはならない。大喜びでその羊をかついで連れ帰ってくる姿を見なくてはならない。友だちや近所の人たちを呼び集め、いなくなった羊を見つけましたから一緒に喜んでください、と云う際の陽気な歌声を聞かなくてはならない。私たちの神は、いつ最も愛に満ちた優しい父親に見えるだろうか? まことに神は、ご自分の財産を子らに分けておられるとき美しく見える。だが、私にとって、いかなるときにもまして神がその父性をまばゆく輝かせておられると思われるのは、あの放蕩息子に走り寄り、抱きかかえて、口づけし、こう泣いているときである。――「わたしの息子は、死んでいたのが生き返ったのだ」*[ルカ15:24]。実際、キリストのいくつかの職務にとって、罪人の存在は絶対に欠かせないものである。さもなければ、決してその意味を見てとることができないであろう。主は祭司であられる。民のもろもろの罪のためということ以外に、祭司の必要があるだろうか? 何と、あえて云うが、世に罪がなく、イエスが罪人たちを救うために来られたのでなかったとしたら、キリストの祭司性など茶番でしかなく、キリストのいけにえなど噴飯物である。兄弟たち。主は失われた者以外にとって、いかにして《救い主》となるだろうか? 病人以外の者にとって、いかにして医者となるだろうか? 罪に噛まれた者を救うためでなければ、いかにして青銅の蛇のようになるだろうか? あるいは、そむく者たちの罪を負うためでなければ、いかにしてアザゼルのための山羊[レビ16:8]となるだろうか?

 本日の聖句は、その三重の特質によって、イエスと罪人たちの間に存在する親密な関わりを示している。というのも、そのどの文章も、もし罪人がいなければ、また、もしキリストが罪人との関わりを持たれたのでなければ、何の意味もないからである。この1つの点をこそ今朝の私は詳しく解き明かしたいと思う。そして、願わくは神がそれを、多くの罪人たちの悩める良心にとって祝福としてくださるように。「彼はそむいた人たちとともに数えられた。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」。それは徹頭徹尾、そむいた者たちのためなのである。自分には何の罪もないと考えている義人の集団を連れて来ても、この聖句の真価は理解できないであろう。事実、これは彼らに何の意味も持ちえない。

 I. まず最初に、第一の文章を取り上げることにしよう。罪人にとって、すなわち、咎ゆえに悩みと恐れを感じている罪人にとって、こう考えることには大きな慰めがあるであろう。《キリストは罪人たちの名簿に書き入れられた》のである。「彼はそむいた人たちとともに数えられた」。

 これを私たちはいかなる意味に取るべきだろうか? 「彼はそむいた人たちとともに数えられた」。

 主が彼らとともに数えられたのは、まず、ローマ帝国の人口調査においてであった。全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た[ルカ2:1]。そこで、身重になっている、ヨセフのいいなずけの妻マリヤはベツレヘムへと旅しなくてはなくてはならなかった。それは、そこでキリストがお生まれになるため、また、自らのもろもろの罪ゆえにローマのくびきの下に服していた、そむいた者らとともに数えられるためであった。

 幾年かが過ぎ去り、この、幼少の頃にそむく者らとともに数えられたその子、また、肉を取り除くことを表わす割礼において、そむきの罪のしるしを受けたその子は、成人し、世に出てから、世間の評判という巻物においてそむく者らとともに数えられた。世間の噂に、「ナザレのイエスは、どんな性格をした者なのか?」、と聞いてみるがいい。すると世評は、口をきわめて主を罵り、言葉に窮するほどなのである。「この――」と彼らは云うことがあった。そして私たちの翻訳者たちは、そこに「奴」という言葉を挿入している。それは、原典ではそこが省略されているからである。思うに福音書記者たちは、まず間違いなくキリスト・イエスに浴びせかけられていた言葉を書くことを好まなかったのであろう。世評は、その嘘つきの舌によって、主が酔っ払いの大酒飲みだと云った。それは、主がその時代の禁欲主義に従おうとしなかったからである。主は、人々の中で成人してからこのかた、他の人々と同じようにしか飲み食いしようとされなかった。主は禁欲主義の模範を示すためにではなく、慎み深さの模範を示すために来られたのである。それで主は、やって来ては食べたり飲んだりした。すると彼らはたちまち云った。「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み」[マタ11:19]。彼らは主を気違いと呼んだ。主の燃える熱情や、主の、権力者の邪悪さに対する厳格でひるむことない叱責は、主が悪魔につかれているとの非難をもたらした。「お前は悪霊につかれて気が狂っている」*、と彼らは云った[ヨハ10:20]。彼らは主人をベルゼブルと呼んだ![マタ10:25] 酔いどれでさえ主を歌の種にし、極悪人も主を自分たちより悪人だと考えた。主は、世間の風評によれば、そむく者たちとともに数えられていたからである。

 しかし、事をさらに強烈なものとしているのは、「彼が法廷において、そむく者たちとともに数えられた」、ということである。ユダヤ教の宗教裁判所サンヘドリンは、主について、「神を冒涜している」、と云った。そして彼らは主の頬をなぐりつけた[マタ26:67]。あなたは、神の威光に逆らい、ユダヤ教会の安泰を脅かす者たちの中に、十字架につけられたナザレのイエスなる名が書き記されているのを見てとるであろう。民事裁判所もまた同様に主張した。ピラトはその手を水で洗い、「私はこの人には罪を認めません」[ヨハ19:6]、と云うかもしれないが、それでも、激昂した民衆のすさまじい叫喚に駆り立てられて、「これはユダヤ人の王イエスである」[マタ27:37]と書かされ、その国の最高法に背いた犯罪者として死ぬよう主を引き渡すのである。ユダヤ人の領主であったヘロデもその判決を確証した。このようにして、同時に二本の洋筆によってイエス・キリストは、そむく者たちの間の扇動者として書き留められたのである。

 それから、全ユダヤ民族が主をそむく者たちとともに数えた。否。彼らは主を、ただの強盗や、暴動をひき起こした人殺しよりも忌まわしい、そむく者として退けた。バラバがキリストと競い合わされると、彼らは云うのである。「この人ではない。バラバだ」[ヨハ18:40]。見るがいい。兄弟たち。主がそむく者たちとともに数えられたのは決して作り話ではない。見よ。主はそむく者たちの受ける鞭打ちを受けている! 主は鞭打ち刑のための柱に縛りつけられ、その背中を傷つけられ、痛めつけられている。鋤が深い畝を幾筋も刻みつけ、血が川のように流れる。主はそむく者たちとともに数えられている。というのも、重罪犯人の十字架を負っているからである。主は、自らの絞首台の重みに体を折りながら、町通りに出て来られる。その材木を主は、生肉のはじけた血みどろの肩で運ばなくてはならない。主は滅びの場所へと進んでいく。カルバリへと辿り着く。――「どくろ」という場である[マタ27:33]。――そして、そこで十字架の上に掲げられ、中空で、あたかも地が主を拒否し、天が主に隠れ家を拒んだかのように、恥ずべき十字架の死を忍ばれ、このようにしてそむく者たちとともに数えられる。しかし、そこに誰か抗議する者がいるだろうか? いかなる目も哀れと思わないのだろうか? 誰ひとり主に罪はないと宣言しないのだろうか? 誰ひとりいない。彼らはみな沈黙している! 沈黙、そう私は云っただろうか? それよりも悪い! 全地が挙手して主の死に賛成する。それは満場一致で可決される。ユダヤ人もローマ人も、奴隷も自由人も、みなそこにいる。彼らは舌を突き出す。野次り立てる。笑いどよめく。「彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから」[詩22:8]、と叫ぶ。主の御名は、全宇宙の犯罪者一覧に記入される。というのも、主は人々から蔑まれ、退けられたからである。万人によって主は、あらゆるもののかすとみなされ、不幸に落とされる。しかし、天が邪魔しないだろうか? おゝ、神よ。御座の上におられるお方よ。あなたは罪を犯さない人が苦しめられるのをお許しになるのですか? この方は木にしっかり釘づけられ、苦悶の中から、「わたしは渇く」[ヨハ19:28]、と叫んでいます。あなたは、この人がそむく者たちとともに数えられるのを許されるのですか? それは正当になされているのですか? その通りである。天がそれを確証する。主は、自分自身の罪は全くなかったが、ご自分の民の罪をその両肩に負っておられた。そして神は――《永遠の審き主》は――、ご自分もまた主を、そむく者たちの中に加わっているものと考えていることをお示しになる。というのも、神はその御顔を覆われるからである。そして《永遠の御父》は、ご自分の隠れ家に赴かれる。キリストは御父の御顔の微笑みも、一瞥も見ることができない。そして、言語を絶する苦悶の中からこう叫ぶ。《贖い主》の魂が何を意図していたか決して云い尽くせないこのことばを。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」[マタ27:46] 天からの唯一の答えはこうである。「わたしは、そむく者を見捨てなくてはならない。お前は彼らとともに数えられている。それゆえ、わたしはお前を見捨てなくてはならないのだ」。しかし、破滅がきわまることはないに決まっているであろう? 主は、死ぬ前に下ろされるに決まっているであろう? 死は罪ゆえの呪いである。それは、そむく者たち以外の何者にも決してやって来ない。罪を犯さない者が死ぬのは不可能である。死なない者が消滅するのと同じくらい不可能である。ならば、確かに主は、その御子を最後の瞬間に解放されるであろう。炉の中で御子を試した後で、外へ取り出されるであろう? 否、そうではない。御子は死にまで従い、実に十字架の死にまでも従わなくてはならない[ピリ2:8]。キリストは地の部分においても、天の部分においても、地獄の部分においても、いかなる抗議もせずに死なれる。そむく者たちとともに数えられたお方は、そむく者の茨の冠をかぶり、そむく者の墓に葬られる。「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが」[イザ53:9]。これは驚異的なことである。兄弟たち。驚異的なことである! 一体誰が、ひとりの御使いが悪霊たちとともに数えられることなど聞いたことがあるだろうか? しかし、これはそれより驚異的なことなのである。ここでは神の御子が、人の子らとともに数えられているのではなく(それさえも、恵み深いことだったであろうが)、そむく者たちとともに数えられているのである。きよさを求めて苦闘している信仰深い者たちとともに数えられているのではなく、誘惑をはねつけ、罪に抵抗する者たちとともに数えられているのではなく、卓越した学位を取り、信仰において大いに大胆な者たちとともに数えられているのではない。――それすら驚異的なへりくだりであっただろうが、ここにはこう書かれているのである。「彼はそむいた人たちとともに数えられた」。

 私はここで一瞬立ち止まり、あなたにもう少しこの件をじっくり考えさせなくてはならない。これは異様にして不可思議なことであり、無言のうちに通り過ぎるべきことではない。あなたは、なぜキリストがそむく者たちとともに数えられたと思うだろうか? 第一にそれは、主がそれだけ彼らの弁護者としてふさわしい者となるからに違いない。私の信ずるところ、法律上の語法によると、民事事件において、弁護人は自分のことを、自分が弁護している人物の味方であり仲間であるとみなす。あなたは、弁護士が絶えず「私たち」という言葉を用いるのを聞く。彼は、裁判官によって、彼が弁護人を務めている人物を代理しているものとみなされる。一部の司法訴訟において、被告側でも裁判官側でも、弁護士と依頼人は完璧に同一視されており、法的見地からしても彼らを別々に切り離された者と眺めることはできない。さてキリストは、罪人が被告席に引き出されるときには、ご自分もそこに出廷なさる。喇叭が鳴り響き、大いなる法廷が開かれる。さあ、来るがいい。あなたがた、罪人たち。審きの場に出て裁判を受けるがいい。そこに立っているひとの両手には穴が開いている。そのひとは、そむく者たちとともに数えられている。その裁判を進めよう。その告発は何だろうか? それには、そのひとが立って答える。そのひとは、自分の脇腹と、両手と、両足を指し示し、自分が代理している罪人たちを非難できるものがあるなら出してみよと《裁判官》に向かって挑戦する。そのひとは自分の血潮を申し立て、彼らとともに数えられ、彼らに関与している者として、堂々たる論陣を張る。それにより《裁判官》はこう宣告する。「この者らを去らせよ。底知れぬ所に下っていくことから、彼らを解放せよ。というのも、彼らに頭立つこの者が身代金を見いだしたからである」。しかし、キリストがそむく者たちとともに数えられたことには、別の理由がある。すなわち、主が彼らと弁じられるようになるためである。かりに、わが国の古い監獄に収監されている何人かの囚人と、彼らに善を施したいと願っているひとりの人がいるとする。もしも彼らが、犯罪者一覧にこの人が名を載せない限り認めないと考えたとしよう。よろしい。こうした囚人たちに対する揺るがぬ愛ゆえに、彼はそれに同意する。そして、彼が中に入って彼らと語ろうとするとき、ことによると、彼らは、彼がすかした偉ぶった態度でやって来るのだろうと考えているかもしれない。だが彼は云う。「さて、まず一言、あなたがたに云わせてください。私はあなたがたのご同類のひとりなのですよ」。「ああ」、と彼らは云うであろう。「けどよ、あんたは何も悪いことしてねえだろ?」 「それには、お答えしようとは思いません」、と彼は云う。「ですが、犯罪者一覧をめくってもらえば、そこに私の名前が見つかりますよ。私は、あなたがたの間に犯罪者として記載されているのです」。おゝ、いかに彼らが今やその心を開くことか! 彼らはその目を最初は驚愕して開き、それからその心を開いて云うであろう。「あんたは、俺たちみてえなもんになったっつうのかよ? なら、俺たちもあんたと話をしようじゃねえか」。そこで彼は彼らと弁じ始める。罪人よ。このことが分かるだろうか? キリストはご自分を、可能な限りあなたと同じ水準に近づけておられる。主があなたと同じくらい罪深くなることはできない。主は神であり、完璧な人だからである。だが主は、ご自分の御名をその一覧の中に書き入れ、その名簿が読み上げられるときには、主の御名があなたの名前とともに読み上げられるようにしておられるのである。おゝ、いかに主は滅びた状態にあるあなたに近づいて来られることか!

 それから主がこうされるのは、罪人たちが、主に心引き寄せられるのを感じるようになるためである。何と、あなたは私が富む者となるために、私のように貧しくなられるというのですか? イェスよ、神の御子よ。あなたは、私を見つけ出すために、失われた者たちの間に数えられることをお許しになるというのですか? おゝ、ならば、私の魂は開け放たれて、心からあなたをお迎えします。お入りください。愛に満ちた《救い主》よ。私のもとに宿り、もはや永遠にどこにも行かないでください。覚醒された罪人たちの内側には、キリストを恐れる傾向がある。だが、私たちとともに数えられ、私たちと同じ名簿に載せられている人を誰が恐れるだろうか? 確かに、今や私たちは大胆に主のもとに行き、自分の咎を告白できよう。私たちとともに数えられているお方が私たちを断罪することはできない。その名が私たちとともに同じ起訴状の中に記載されているお方は、断罪するためにではなく、赦罪を与えるために来られるのである。呪うためではなく、祝福するために来られるのである。

 また、キリストがそむく者たちの名簿に記載されたのは、私たちが聖徒たちの赤い名簿に記入されるためである。キリストは聖くあられ、聖い者たちの間に記されておられた。私たちは咎があり、咎ある者の間で数えられていた。主は御子の御名を向こうの一覧から、この暗黒の起訴状の中に移し変え、私たちの名前はこの汚れた不潔な起訴状から取り去られ、あの美しく栄光に富む名簿へと書き入れられた。というのも、キリストとその民の間では1つの移し換えがなされるからである。私たちが有しているすべては、罪も何もかもキリストのもとへ行き、キリストが有しているすべては、私たちのもとに来るのである。主の義や、主の血、そして主に属するすべては私たちに属しているのである。

 話をお聞きの愛する方々。この点を離れる前に、あなたにこう尋ねておきたい。このことは、信仰によってあなたのものとなっているだろうか? 覚えておくがいい。信仰がここで求められているのである。他の何物でもない。「彼はそむいた人たちとともに数えられた」。おゝ、魂よ。あなたの心はこう云えるだろうか? 「ならば、主が私とともに数えられた以上、また、私の名前が書かれているあの恐ろしい名簿の中に主がその御名を記入された以上、私は主を信じよう。主に私を救う能力があり、また、それを望んでおられるということを。そして私は自分の魂を主の御手にゆだねよう」、と。生ける神によって私はあなたに懇願する。人よ。このことを行なうがいい。そうすれば、あなたの魂は救われる。おゝ、栄光に包まれた、いと高き御座から身を低め、汚辱のきわみたる十字架にまで下られたお方にかけて、あなたの魂をその方にゆだねるがいい。主があなたに求めておられるのは、それだけである。そして、このことを主はあなたに与えられるのである。ほむべき《主人》よ。あなたがこの場に立って、こう仰せになることができたとしたらどんなに良いことか。「不義に満ちた罪人たち。わたしは、あなたとともに立った。神は、あたかもわたしがあなたの罪を犯したかのようにみなし、あたかもわたしがそむく者であるかのように罰された。わたしを信頼するがいい。あなたの魂を、わたしの完璧な義の上に投げかけるがいい。わたしの、きよめる血潮で洗うがいい。そうすれば、わたしはあなたを健やかにし、あなたを傷のない者として御父の御前に立たせるであろう」。

 II. 次のこととして私たちが教えられるのは、キリストが「《多くの人の罪を負われた》」ということである。

 ここで真昼のように明らかなことは、キリストが罪人たちを扱われたということである。あなたはキリストが、何の過ちも行なわなかった者たちのために死んだと云うだろうか? ここで、そうは述べられていない。私は云うが、これは万人にとって明らかである。キリストは、何の罪もない者たちの罪を負うことはできなかった。罪深く、咎ある者たちのもろもろの罪を負うことしかできなかった。ならば、手短に、だが非常に平易に、あの古い古い物語を語らせてほしい。人は罪の重荷をその両肩に背負って立っていた。その重さのあまり、地獄のどん底よりも下へと押しつぶされかねないほどであった。だがキリスト・イエスが世にやって来られ、ご自分の民のいた地位と、立場と、場所に立たれた。そして、この聖句の表現豊かな言葉によると、彼らの罪を負われた。――つまり、彼らのもろもろの罪は本当に、法的虚構においてではなく本当に彼らから主へと移し換えられた。あなたも知る通り、人は自分の背中の上にないものを背負うことはできない。ある物が現実にそこにない限り、それを負うことは不可能である。「負う」という言葉は、重みを暗示しており、重みは確かな現実を指し示すものである。キリストは、罪をそのあらゆる実質と、邪悪さと、断罪とにおいて、真実ご自分の両肩に負われた。ならば、このことを悟るがいい。そうすれば、あなたはこの主題の真髄をつかんだことになる。キリストは本当に、文字通り、また真実に、主を信ずる者たち全員に属するもろもろの罪を引き取り、そうした罪は現実に、また真実きわまりなく、主の罪となっているのである。(それは、主がそれらを犯したということでも、主がそれらに関係したり、あずかったりしていたということでもない。それらは単に、主が先に同意しておられた、また、主が世に来られた目的たる転嫁を通してのみ、主の罪なのである)。そして、主の民全員のもろもろの罪は、キリストの双肩の上に置かれたのである。

 それから注意するがいい。主がそれらを負われたのと同じように、他の聖句が私たちに告げるところ、主はそれらを運び去られた。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」[ヨハ1:29]。主の頭の上に置かれた罪は、アザゼルのための山羊[レビ16:8]が持ち去って、去って、去って行ってしまった。どこへ? 忘却の荒野へである。たとい捜されても、それが見いだされることはない。《永遠の神》がそれを目にすることは、もはやない。それはなくなってしまった。というのも、神は不義を片づけ、罪を終わらされたからである。そして、罪が終わったからには、それ以上それについて何が云えるだろうか? キリストは私たちの負債を取り上げたが、ほどなくそれを支払い終えられた。ならば、その負債はどこにあるだろうか? 今や何の負債もない。神の書には、神の選ばれた者たちを訴えるべきものは何も記されていない。イエスが死なれたからである。もしキリストがその負債を支払われたとしたら、そこには何の負債も記載されていない。それはなくなっている。私はその債務履行を喜ぶことができる。私は、そもそも自分がそのような立場に陥ってしまったことを嘆くことはできるが、その負債そのものはなくなっている。「わたしはまた、その国の不義を一日のうちに取り除く」[ゼカ3:9]。「わたしは、彼らの罪を罪の真中に投げ入れる」[ミカ7:19参照]。また、「わたしは、かすみのようにあなたの罪を、あなたの不義を雲のように取り去ろう」*[イザ44:22]。さて、先週の間はやや雲が多かったが、それは今どこにあるだろうか? それは雨に変わってしまった。なくなってしまった。いかに力強い翼をした御使いも、そうしたかすみを二度と見つけることはできない。そのようなものはない。それはなくなっている。信仰者たちの罪もそれと同じである。それは黒く、厚く、濃密な雲であった。暴風雨に満ちていた。稲妻と雷鳴で膨れていた。だが、それはなくなってしまっている。その雨粒はキリストの上に下り、その雷鳴と稲妻はその憤怒を主の上に注ぎ出した。そして、その雲は消え去っている。というのも、キリストがそれを取り去られたからである。「彼は多くの人の罪を負い、それを永遠に運び去られた」。

 それからまた、愛する方々。あなたは別のことも理解しなくてはならない。すなわち、もしそうだとしたら、もしキリストが本当にご自分の民のもろもろの罪を負い、それらを運び去られたとしたら、――また、物は同時に2つの場所にあることができない以上、イエスが死んでくださった人々の上には、今やいかなる罪も留まっていない。「では、その人々とは誰ですか」、とあなたは云うであろう。何と、イエスに信頼するすべての人々である。この広大な世界の中で、キリストを信頼するありとあらゆる人は、自分の罪がキリストに負わされた以上、いかなる罪も自分のもとにはないと知ることができる。おゝ、私はこの尊い教理を真実喜んでいる! もしも今晩、どうにか私のあわれな、どもりがちの舌が解き放たれ、罪が文字通りに移し換えられ、ことごとく残っていないのを見てとれるとしたら、どんなに良いことか! 私は、キリストが与えてくださったこのほむべき解放と救出を思い巡らすとき、この瞬間の自分の魂の楽しみ喜びを到底表現することができない。私はただ、やはりケントとともにこう歌うことしかできない。――

   「血で贖われし 神の子ら、
    シオンの神に 歌あげよ。――
    解き放たれば 断罪(さばき)より、
    勝利(かち)たる恵み 歌えやともに」。

さて、あなたはこれが罪人たちのためのものに違いないことが見てとれないだろうか? 見よ。あなたがた、どす黒い人たち。あなたがた、不潔な人たち。あなたがた、失われた人たち。あなたがた、滅びた人たち。これは罪人たちのためのものなのである。見ての通り、これは、感覚を有する罪人たちのためのものだったとは云っていない。否、否。罪人たちのためのものであった。これは、「彼は覚醒されたそむいた人たちとともに数えられた」、とは云っていない。否、これは「そむいた人たち」である。これは、主が柔らかな心をした罪人たちの罪を負われたとは云っていない。否。そうではなく、「彼は多くの人の罪を負」われたのである。これこそ、本日の聖句の中に私が見いだせる唯一の記述である。イエス・キリストは、罪人を救うために世に来られた[Iテモ1:15]。そして、もし私が真実に、また、まことに、この日、自分が罪人であると知っているとしたら、私はキリストを信頼して良いのである。また、キリストを信頼しつつ、こう知って良いのである。天に神がおられるのと同じくらい確実に、イエス・キリストは私のもろもろの罪を取り去り、それをことごとく運び去られたのだ、と。さて、私が知りたいのは、果たしてあなたは、今朝、この信仰の行為によってこのことを得ているかということである。「おゝ」、とある人は云うであろう。「私は罪人ですが、でも――」。よろしい。でも、何だろうか? もしあなたが罪人だとしたら、あなたは今朝キリストに信頼するよう命令されているのである。「おゝ、ですが――」。私は、何の「ですが」も聞きたくない。「でも」は、ことごとく禁ずる。あなたは罪人だろうか? しかりか否か、云うがいい。もし「否」と云うなら、私はあなたに何も云うことはない。イエス・キリストは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのである[ルカ5:32]。もしあなたが罪人なら、あなたにこそ、この救いのみことばは送られているのである。「ですが、あっしは泥棒をしてきたんすよ!」 泥棒は罪人だと思うが? 「でも、私は酔いどれなんですよ!」 酔いどれは罪人である。「しかし、私は汚れ果てた生き方をしてきたんです!」 ならば、あなたは罪人である。「ですが、私はとてもかたくなな心をしてるんです!」 よろしい。かたくなな心をしているのは、この世で最悪の罪の1つである。「でも、私は不信仰なんです!」 よろしい。これまた罪である。あなたは罪人の一覧表に含まれており、私は云うが、キリストはそのような者たちをこそ見つめているのである。私たちがすでに考察した2つの文章は、それを決定的に証明している。主は、救いのためにやって来られたとき、あなたのような者を見つめておられた。「彼はそむいた人たちとともに数えられた」からであり、「彼は」――多くの人の美徳でも、多くの人の功績でも、多くの人の善行でもなく――「多くの人の罪を負」われたからである。それで、もしあなたが何らかの罪を有しているなら、ここに罪を負ってくださるお方キリストがおられる。また、もしあなたが罪人だとしたら、ここにあなたともに数えられたキリストがおられる。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「ですが、信仰とは何でしょうか? 私はすぐに知りたいのです」。罪人よ。信仰とはイエスを信ずること、また、いまイエスに信頼することである。救いに至る信仰は、この詩句を歌うことができる。

   「ありのままの我にて 魂の染み濁(くろ)くあるまま
    いかな汚れも わが手で除かんとはせず
    ただ汝が血 汚れをばみな よくきよめんがゆえ
    おゝ、神の子羊よ われは行かん」。

感覚を有する罪人としてでも、悔い改めつつある罪人としてでもない、罪人としての私たちのためにこそ、イエスは死なれたのである。罪人としての罪人たちをこそ、イエス・キリストは選んで、贖い、召されたのである。事実、彼らのために、また、彼らのためだけに、イエス・キリストは世に来られたのである。

 III. 本日の三番目の文章が私たちに告げるところ、《イエスは罪人たちのためにとりなしをしてくださる》。「そむいた人たちのためにとりなしをする」。

 主はご自分の聖徒たちのために祈ってくださるが、愛する方々。覚えておくがいい。生まれながらに彼らはそむく者たちであり、それ以上の何者でもないのである。

 本日の聖句は何と云っているだろうか? 主はそむく者たちのためにとりないをなさる! 今朝この場にはそむく者がいる。その人々は何年も何年も福音を聞いてきた。また、それが忠実に説教されるのを聞いてきてもいる。そして、今ではごま塩頭になりつつある。だが頭は白くなっているのに、その心はどす黒い。その人は、老いた、かたくなな心の無頼漢であり、恵みが妨げない限り、次第次第に――だが、その話をする必要はないであろう。私には何が聞こえてくるだろうか? 正義の足音がゆっくりと、だが着実に近づいてくる。私にはある声が聞こえる。――「見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか」。山番がその斧に手をかける。それは鋭利な刃先をしている。「では」、と彼が云う。「私がこの不毛の木を斧にかけて、切り倒しましょう」。しかし、聞けよ! そむく者たちのためにとりなしをするお方がいる。その方のことばを聞くがいい。聞くがいい。「どうか、もうしばし、勘弁してやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください」[ルカ13:7-9]。あなたは、その木に何があるため彼が嘆願しているか分からない。また、主があなたのために嘆願する理由などあなたの中には全くないが、それでも主はそうされる。きょうのこの朝、ことによると、主はこう叫んでいるかもしれない。「もうしばし彼を勘弁してやってください。彼にもう一度福音を聞かせてください。もう一度彼に懇願を聞かせてください。おゝ! もう一度、彼を病気にかからせてください。それで彼の良心が感銘を受けるかもしれません。わたしの全力を尽くして彼のかたくなな心を扱わせてください。もしかすると、彼も従う思いになるかもしれません」。おゝ、罪人よ。神をほめたたえるがいい。イエス・キリストは、そのようにしてあなたのために嘆願しておられるのである。

 しかし、そのようにした上で、主は彼らの赦しのために嘆願しておられる。彼らは主を十字架に釘づけにしていた。この悪漢どもは鉄釘で主の御手を刺し貫いていた。だが、彼らが主をその木に固定している間でさえ、主のことばを聞くがいい。――「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」[ルカ23:34]。おゝ、私は先週、ひとりの兄弟と話をした。その心は、何物にも打ち勝つ愛によって触れられていた。彼はかつては非常な冒涜者であった。だが、彼が悪態をついていたときでさえイエス・キリストは彼を愛しておられたという事実について語り合っているとき、それがいかに彼の心を打ち砕いたか私には見てとれた。そして、それは私の心をも打ち砕いた。キリストが私を愛しておられた間にも、私が主に反抗できたこと、また、主が私に善を施すため私の立場に身を置いておられた間も私が主を蔑んでいられたことを思って、そうなったのである。おゝ! これこそ人の心を打ち砕けるものである。キリストがその魂の底からひたすら私を愛しておられる間も、私が主を蔑み、主と何の関わりも持とうとしていなかったと考えることがそれである。そこにいるひとりの人は、呪いを吐き、悪態をつき、冒涜していた。だが、彼が呪っていた当のお方は、「父よ。彼をお赦しください。彼は、何をしているのか自分でわからないのです」、と叫んでおられたのである。おゝ、罪人よ。このことがあなたの心を打ち砕き、あなたを《救い主》へと引き寄せてほしいと思う。

 主はそこで終わることもなさらなかった。次に主は、ご自分がとりなしている者たちが救われ、彼らに新しいいのちが与えられるように祈られる。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません」[ヨハ14:16-17]。聖霊によって生かされているあらゆる魂は、主がそむく者たちのために行なっておられるとりなしの結果として、そのように生かされているのである。主の祈りがそのいのちを引き下ろし、死んでいた罪人たちは生きるようになる。彼らが生きるとき、主は彼らのために祈りをやめはしない。というのも、主のとりなしによって、彼らは保たれるからである。彼らは誘惑や試みを受けるが、主が何と云われるか聞くがいい。「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」[ルカ22:31-32]。しかり。兄弟たち。愛する方々。そして、これこそなぜ私たちが罪に定められないかという理由である。というのも、私たちの使徒はこう云い表わしているからである。――「罪に定めようとするのはだれですか?」 そして、彼はその答えをこう示している。「キリストは、死なれ、いや、よみがえられて、いつも私たちのためにとりなしていてくださるのです」*[ロマ8:34]。あたかも、そのとりなしが、たちまち地獄の代言人を窒息させ、私たちを断罪から救出するかのようであった。またさらに、私たちが栄光に至ることは、キリストがそむく者たちのために嘆願しておられる結果である。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。……わたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」[ヨハ17:24]。

 世で語られている非常に多くの説教の中には、福音がまるで含まれていない。特に、罪人たちに向かって、「家に帰って祈りなさい。家に帰って祈りなさい」、と告げることを趣旨とした説教はそうである。これは非常に良い助言ではあるが、福音ではない。その罪人は私たちにこう答えるかもしれない。「いかにして私が、今のままの私で神の御前になど行けましょう。私はお話にならない卑劣漢なのです。もし私が神の御前に立ったりしたら、神は私を追い出されることでしょう」。見るがいい。イエス・キリストがそむく者たちのためとりなしておられる姿を。世のことわざによると、自分で自分を弁護する訴訟の本人は馬鹿者であるという。確かに天国においても事情は変わらない。しかし、キリストがやって来られ、この《不思議な助言者》[イザ9:6]なるお方が訴訟事件を引き受けられると、今や敵対者は震え上がる。というのも彼は、この事件が、ご自分の民の弁護者なるお方の手に置かれるのを見るや否や、自分が敗訴すること、また、罪人が自由の身となることが分かるからである。それで、罪人よ。もし主があなたのために弁論されるとしたら、あなたは安全である。「あゝ」、とあなたは云うであろう。「ですが、もし主が、何と申し立てるべきかと私にお尋ねになるとしたら、私には主にお告げできることが何もないのです」。知っての通り、弁護士は監房に行き、囚人に語りかけるものである。――「さあ、私に事の次第を話してください。あなたに有利になるように私は何を申し立てることができますか?」 犯罪人は答えるであろう。「そうだな。これこれこういうことがあるし、これこれのこともあるよ」。そして、ことによると、彼らはこう云えるかもしれません。「何と、先生。私はこの件全体について、生まれたばかりの赤子も同然に無罪なんです。私は現場にいなかった証明だってできますし、あれやこれやのことができますよ」。非常に結構。その弁護人は、先へ進むための足がかりを得て、自信をもって法廷でその事件を弁論するというものである。しかし、いま私はあなたがこう云うのが聞こえる。「あゝ、私は、主イエス・キリストに、弁論すべきものを告げることができません。というのも、私には何も抗弁するものがないからです。事実は私が有罪であり、それも徹底的に有罪だということなのです。そして、私は罰を受けるに値していますし、罰されなくてはならないのです。私には抗弁すべきものが何もありません」。さて、私たちのほむべき《弁護者》は何と仰せになるだろうか? 「おゝ」、と主は云われる。「だが、わたしは自分のうちにその抗弁を持っているのだよ」。そして、主はこの法廷で立ち上がり、告訴状が読み上げられると、その告訴状にこう書き込まれる。――「わたしがとりなし、かつ、ともに数えられている罪人の名において、赦罪と赦免を申し立てる。すでに刑を負いたるによりて」。「いかにしてか?」、と《裁判官》が云う。すると主は、ご自分の御手の釘跡を示し、ご自分の脇腹をむき出しにして云われる。「わたしが、この罪人に代わって刑を受けたのです。わたしは、この罪人の受ける刑によって罰されました。それゆえ、私は主張します。わたしの受難と、わたしの苦難との報いとして、この罪人が自由にされることを」。あなたは、キリストが尊い弁論者であることが見てとれないだろうか? なぜなら、主は私たちの弁護人として出廷し、それだけでなく、私たちのための抗弁を見つけることがおできになるからである。「あゝ!」、とあなたが云うのが聞こえる。「ですが、私には、そんな弁護者を手に入れる手だてが何もありません。それがあれば良いとは思いますが、私は主に差し上げられるものが何もないのです。もし主が私に手数料をお求めになっても、私には何もありません。私はキリストの愛に値していません。私はなぜ主が私の訴訟を取り上げるのか分かりません。もし主が取り上げてくださるなら、私は救われるでしょうが、私には主がそうされるとは思えないのです。私には主に支払える見込みがないのですから」。「しかり」、と主は云われる。「だが、わたしは、あなたの訴訟を無料で、進んで、喜んで取り上げることにしよう。そして、あなたのためにとりなしてあげよう。あなたがそれに値するからではなく、あなたがそれを必要としているという理由から。あながそむく者ではないからではなく、そむく者であるがゆえにこそ」。罪人よ。キリストがあなたをご覧にならないだろうとあなたに思われる当のその事がらこそ、まさに主があなたをご覧になる理由なのである。あなたは病に満ちている。「あゝ!」、とあなたは云う。「医者は絶対にこんな腕を診てはくれないだろう」。だが、その潰瘍が悪臭を放っていればこそ、彼は立ち止まって云うのである。「私がそれを治してあげよう」。あなたの資格は、あなたに資格がないことであり、主が決してあなたをご覧にならない理由であるとあなたに思えることこそ、確かに、主があなたをご覧になると主張できる唯一の理由なのである。あなたは無である。全く失われている。あなたには何の功績もない。主イエス・キリストがそむく者たちのために有力な、受け入れられる、絶え間ないとりなしをしておられない限り、あなたは無なのである。

 残念ながらしめくくらざるをえない。だが、もう二言三言は語らなくてはならない。あなたがたの中のある人々は、罪を犯すことを非常に軽く考えている。どうか道理をわきまえて、この件をよくよく考え直してほしい。神が罪人を救うということ、神の御子ご自身が罪人たちとともに数えられ、罰を受けて死ななくてはならないということ、それは決して軽い事がらではない。さもなければ、彼らは救われることができないのである。汚れたものに触れてはならない。それを憎むがいい。もし罪が聖なるキリストにとって致命的なものであるしたら、それはあなたにとって憎むべきものであるに違いない。おゝ! それに目もくれず、忌み嫌うがいい。あのエジプト人たちが、自分の目の前で血に変わった川の水を忌み嫌ったように忌み嫌うがいい。

 キリストをほとんど重んじていない人々に対しては、こう云いたい。あなたは罪が何を意味しているか分かっている。私も、あなたが罪を過大に評価しすぎることがありえるとは思わない。だが、どうかキリストを過小評価しないでほしい。あなたがたの中の、自分がキリストにとって何の資格も有してないと思っている人たちに、私はこのしめくくりの言葉を云いたい。私は切に願うが、次のような、汚らわしく、律法的で、魂を滅ぼす観念を取り除くがいい。すなわち、キリストは、あなたがキリストのもとに行く前に、あなたが何らかの備えをする、あるいは、あなたの内に何らかの備えがあることを欲しておられる、などという観念である。あなたは、いま主のもとに行ってかまわない。否、それ以上である。あなたは、いま主のもとに、ありのままのあなたで行くように命令されている。そして、あなたがたの間のあらゆる老若男女に対して、私はこの福音をイエス・キリストの御名によって宣べ伝える。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。いま――その座席に座ったまま――その通路に立ったまま――その桟敷席でぎゅう詰めになったまま――主を信頼するがいい。――いま信頼するがいい。神はあなたに命令しておられる。「命令とは、あなたがたが神の遣わされたイエス・キリストを信ずることです」[Iヨハ3:23参照]。ペテロが語ったように、私も云う。「悔い改めて、それぞれ神に立ち返りなさい」*[使3:19]。また、パウロがあのピリピ人の看守に云ったように、私も云う。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。もしあなたがそうしないとしたら、そのことがあなたを罪に定めることになる。あなたの罪ではなく、あなたの不信仰がそうする。というのも、信じない者はすでにさばかれているからである[ヨハ3:18]。何と、なぜそうした者は罪に定められるのか? それは、彼らが信じないからである。それが告発である。それが罪に定める犯罪であり、呪いなのである。「よろしい」、とある人は云うであろう。「ならば、もし神が私にキリストを信頼せよと命令しているのなら、確かに私にはそうすべき何の理由もないが、そうすることにしよう」。あゝ! 魂よ。ならば、そうするがいい。あなたにそれができるだろうか? いまキリストを信頼できるだろうか? それは全幅の信頼だろうか? あなたは自分の種々の感情によりかかっているだろうか? そうした感情を投げ捨てるがいい。あなたは、自分がしようと意図していることに多少はより頼んでいるだろうか? それを打ち捨てるがいい。あなたは主に完全に信頼しているだろうか? あなたはこう云えるだろうか? 「主のほむべき御傷、主の流れ出る血潮、主の完璧な義、これらに私はより頼みます。主に完全により頼みます」。あなたは、そう云うことを半ば恐れているだろうか? それは、あまりにも大胆なことだと考えているだろうか? ならば、それを行なうがいい。大胆なことをこの場合は行なうがいい! 云うがいい。「主よ。私はあなたに信頼します。そして、たといあなたが私を打ち捨てるとしても、それでも私はあなたに信頼するでしょう。私はあなたをほめたたえます。あなたは私を救うことがおできになり、私を救ってくださるからです」。あなたはそう云えるだろうか? 私は云うが、あなたは主を信じているだろうか? ならば、あなたは救われている。あなたが救済可能な状態になくとも、あなたは救われている。部分的にではなく、完全に救われている。あなたの罪の一部ではなく、すべてが拭い去られている。その一覧表を眺めてみるがいい。すると、それらすべての下には、こう書かれている。「イエス・キリストの血はすべての罪から私たちをきよめます」*[Iヨハ1:7]。しかし、ある人がこう云うのが聞こえる。「それが本当だとしたら、話がうますぎます!」 魂よ。あなたは、キリストについて小さな事がらを考えることによって失われようというのだろうか? 「あゝ!」、と別の人は云うであろう。「それは単純すぎます。もしこれが福音だとしたら、町通りの浮浪者という浮浪者がキリストを信じて救われるでしょう」。そして、もしそうなるとしたら、神に栄光があるように! 私としては、私は決して大罪人たちが救われることを恐れてはいない。私はあらゆる遊女に救われてほしいと思う。あらゆる女郎買いと姦通者に救われてほしいと思う。私は、もし彼らがキリストを信じたとしたら、彼らがその罪の中を歩み続けようとするのではないかと恐れはしない。おゝ! しかり。キリストを信ずる信仰が、彼らの性質を変えるであろう。そして、あなたの性質をも変えるであろう。というのも、救いとはこういうことだからである。性質が変えられ、キリストにあって新しく造られた者となり、聖なる者とされることである。さあ、魂よ。あなたは主を信頼しようとするだろうか? 私は、あなたがたがみな、この場にぎゅう詰めになった後で、この祝福を受けずに外に出て行ってほしくはない。あなたがたの中のある人々は、ヘンデル祭に行ったことがあるであろう。だが、もしあなたがキリストを信頼するなら、ここには格段にすぐれた音楽があるのである。というのも、あなたは、天国の鐘が鳴り響き、御使いたちが、贖われた兄弟としてのあなたのことで喜ぶ際のそのあらゆる音楽が鳴り渡るのを聞くことになるからである。あなたがたの中の多くの人々は、あの大博覧会を見に上京したことがあるであろう。だが、ここにはそれよりずっと大きな驚異があるのである。もしあなたが、今朝この場所に来たときには生まれながらの状態にあり、出て行くときには恵みの状態にあることになるとしたら、そして、ほんのしばらくすれば、その後で栄光の状態に達するとしたらそうである! あなたがたの中のある人々は、あの大きな農業品評会を見に出かけたことがあるであろう。だが、ここにあるのは、英国の牧野で栽培されたいかなるものにもまして見応えのあるものである。ここには、あなたの魂のための食物がある。ここには、人が食べるならば、永遠に生きることになるものがある。そして、ここでそれがあなたに差し出されているのである。これ以上に平易なものはありえない。キリストを信頼するなら、あなたは救われるのである。表の町通りには、噴水式の水飲み場が1つある。そこに行くとき、もしあなたの喉が渇いているとしたら、行って飲むがいい。警官があなたを追い払うようなことはないであろう。誰もこう叫びはしないであろう。「あなたが飲んではいけません。繻子織りの着物を着ていないではありませんか」。「あなたが飲んではいけません。綿麻織の上着を着ているではありませんか」。否、否。行って飲むがいい。そして、あなたがその柄杓を握って、それを唇に当てたとき、たといそこに1つの疑いが起こっても、――「私は、私の喉の渇きを十分に感じていないのではないか」、と思っても、――、感じていようがいまいが、一飲みするがいい。そのように、私はあなたに云いたい。イエス・キリストは、大きな水飲み場のように、街角で、あらゆる渇ける魂に向かって、来て飲むように招いておられる。あなたが立ち止まって、こう云う必要はない。「私は十分に喉が渇いているだろうか? 私は十分に黒く汚れているだろうか?」 あなたは、自分がどう思っていようが、それを必要としているのである。ありのままのあなたで来るがいい。今のままのあなたで来るがいい。ふさわしさなど、みな律法主義である。救いへの備えなど偽りである。キリストを受け入れる準備をするなどというのは、みな間違った道を行くことである。あなたは、自分を良くしていると思いながら、悪化させているにすぎない。あなたは帳面に墨の染みを作ってしまい、小刀を取り出してそれを削り取ろうとしたため、十倍もひどい状態にしてしまった学童に似ている。その染みは、そのままにしておくがいい。ありのままのあなたで来るがいい。もしあなたが地獄から出てきた、この上もなくどす黒い魂だとしても、キリストに信頼するがいい。すると、その信頼の行為があなたをきれいにするのである。これは単純なことに思われるが、しかし、あなたにそうさせるのはこの世で最も困難なことである。困難すぎて、この世で説教を行なったことのある説教者が総がかりになっても、ただのひとりにもキリストを信じさせることはできないほどである。たとい最大限に平易に云い表わし、あなたに説きつけたとしても、あなたは外に出て行って、「本当だとしたら、話がうますぎる」、とか何とか云って、それを蔑むだけであろう。それが単純すぎるからである。福音は、キリストと同じく、人々から蔑まれ、拒否される。なぜなら、そこには、見とれるような姿もなく、輝きもなく、彼らが慕うような見ばえもないからである[イザ53:2]。おゝ! 願わくは聖霊がこのことをあなたの心に銘記させてくださるように。願わくは御霊が、主の戦いの日に[詩110:3]、あなたを喜んで求めさせてくださるように。私が望んでいるのは、御霊がすでにそうしておられ、私たちが家路につく前に、みなが声を合わせてこの1つの詩句を歌い、それから散会することである。――

   「咎あり、弱く、甲斐なき虫けら、
    われは優しき 御手に身を投ぐ。
    主こそわが身の 力にして義、
    わがイエスにて わがすべて」。

----

罪人たちの友[了]

---

HOME | TOP | 目次