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取り除かれた石の心

NO. 456

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1862年5月25日、木曜日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」――エゼ36:26


 人間の堕落は、徹底的かつ全体的であった。ある種の物事は、それが荒廃した後になっても、修繕可能かもしれない。だが人類というこの古い家は、あまりにも完全に朽ち衰えているため、その土台に達するまでも解体されて、新しい家を建てなくてはならない。単なる改善を試みても、失敗することは必定である。人間性は、引き裂かれ、腐り果てた古着のようなものである。それに新しい布きれで継ぎを当てようとしても、その裂け目を一層ひどいものにしてしまうにすぎない。人間性は、東洋人の用いる古い皮袋のようなものである。その中に新しい葡萄酒を入れる者は、その皮袋が張り裂け、自分の葡萄酒を失うことになるであろう[マタ9:16-17]。繕った古いはきもの[ヨシ9:5]は、ギブオン人たちには十分良いものだったかもしれないが、私たちは、あまりにも徹底的に着古されているため、新しくされなくてはならない。さもなければ、ごみの山に投げ捨てられてしまう。そのようなことが可能であるとは不思議中の不思議である。たとい木がその枝を失っても、新しい枝が生ずるかもしれない。たといあなたが樹皮に切りつけて、自分の名前の文字を刻み込むとしても、時が立つうちにその樹皮は自らの傷を癒して、その刻み跡は消え去るかもしれない。しかし、いかにすればその木に新しい心を与えることができようか? 誰がそれに新しい樹液を注ぎ込むことができようか? いかなる可能性によって、その内的構造を変化させることができるだろうか? その中核が死によって打たれたとしたら、天来のものならざるいかなる力がそれをいのちに回復させることができるだろうか? たといある人が骨を折ったとしても、骨折した部分はすぐに癒す液体を送り出し、その人の内側に若さがある限り、その骨は以前のような強さへとやがて回復される。しかし、もしある人の心が腐っていたとしたら、いかにしてその人は治されることができようか? もしその心が腐敗した潰瘍であったとしたら、また、もしその人の枢要部が腐っていたとしたら、いかなる人間的な外科手術、いかに驚くべき医薬が、これほど根本的な欠陥に触れることができようか? 私たちの賛美歌がこう云うのも当然である。

   「天(あま)つ力に あらずして
    硬き心を よく征(おさ)めん?
    永遠(とわ)の御霊よ 汝れなるぞ
    心 新たに 形成(つく)らんは。
    死のかげ遠く 追い払い
    罪人(ひと)に生きよと 命ぜんは!
    天の光も 生くる光箭(や)も
    ただ汝れのみぞ 与えうる」。

しかし、こうしたことが神を離れては不可能だろう一方で、神がそのことを行ないうることは確実である。おゝ、いかに《主人》は不可能事を引き受けることをお喜びになることか! 他の者らが行なえることを行なうのは、人間に似たようなことでしかなかった。だが、被造世界には不可能なことを成し遂げることは、創造主の威光を強大に、また、気高く証明することである。神は、異様なことを手がけるのを喜ばれる。暗闇から光を引き出し、混乱から秩序を引き出し、死者にいのちを送り込み、らい病を癒し、恵みと、あわれみと、知恵と、平和の驚異を作り出すこと、――こうしたことこそ、私は云うが、神が行なうのを喜ばれることである。それで、このことは私たちには不可能だが、神には可能なのである。それだけでなく、私たちにとって不可能であるということが、神には好ましく思われ、より一層それを手がけたいと思わせるのである。そのようにして、ご自分の偉大な御名の栄光を現わすためである。

 神のことばによると、人の心は生まれながらに石のようである。だが神は、その恵みによって、この石の心を取り除き、肉の心をお与えになる。この愛の不思議、この恵みの奇蹟こそ、今晩私たちが注意を寄せたいと思うことにほかならない。いま私たちが語ることは、単に他の人々に起こった何かではなく、私たち自身の中に作り出された偉大な驚異であるはずだと思う。私たちは体験的に語り、個人的に聞き、こうした、天来の愛の素晴らしい行為に自分もあずかっているのだと感じるはずだと思う。

 2つのことを今晩は語りたい。第一に、石の心とその危険である。第二に、肉の心とその特権である。

 I. 《石の心とその危険》について、二言三言語ろうと思う。そもそも、なぜ人の心が石にたとえられているのだろうか? 

 1. まず最初に、石のようにそれは冷たいからである。自宅で四六時中、冷たい石を踏んでいたいと思う人はめったにいない。それで私たちは自分の住まいに床を張るのである。また、囚人が味わう辛苦の1つと思われるのは、腰を下ろしたり、横になったりするためのものが、冷たい冷たい石しかない場合である。石も、火の中に突き込めば、一時は熱くすることができる。だが、何と短い間しか、その熱はとどまらないことか。また、いま赤々と輝いていても、何とすみやかにその暖かみを失い、再び生来の冷たさに戻っていくことか。そうしたものが、人の心である。それは、罪に対しては十分に暖かい。えにしだの炭火[詩120:4]のように、自らの情欲に対しては熱くなる。だが、生まれながらの心は、神のみこころのことに対しては氷のように冷たい。あなたは、力強い勧告を受けたり、厳粛な審きを前にすると、一時は心を熱くしたと思うかもしれないが、それはいかにすみやかにその生来の状態に戻ることか! 私たちが耳にしたことのある、ある人は、ある説教の下で大会衆がみな涙しているのを目にして、こう云ったという。「何と素晴らしいことでしょう、これほど多くの人が真理の下で泣いているのが見られるとは!」 だが別の人がこう云い足した。「しかし、それにもまして驚くべきことがありますよ。――それは、説教の終わるや否や、いかにすみやかに彼らが泣くのをやめてしまうかを見ることです。彼らが絶えず常に泣いているべき事がらに関してもそうなのです」。あゝ、愛する方々。いかなる雄弁の暖かさも、人間の石の心を暖めて、イエスへの愛を赤々と燃やさせることは決してできない。しかり。いかに力をこめて懇願しようと、人間の火打石のような心からは、感恩の火花1つ発させることはできない。恵みによって更新されたあなたの心は燃える炉のようであるはずだが、それでもあなたは自分の隣人の心を、天来の熱で暖めることができない。その人は、あなたがそれほどの熱情を示すのを馬鹿だと思うであろう。くるりと向きを変え、自分にはあまりにも些末と思われることをそれほど気に病んでいるあなたを狂人だと思うであろう。あなたの心の中にある暖かさを、その人に伝えることはできない。というのも、その人は、未回心のままでは、それを受けられないからである。人の心は、大理石のように冷えきっている。

 2. また、石のように、それは固い。固い石、特に花崗岩の地層から切り出されたような石を取り上げて、いくら槌で打っても、へこみ1つ生じはしないであろう。人の心は聖書の中で臼の下石にたとえられており[ヨブ41:24]、別の箇所では鋼玉にすらたとえられている[ゼカ7:12 <英欽定訳>]。それは金剛石よりも固い。それは切ることができない。砕くことができない。動かすことができない。私は律法という巨大な槌を見たことがある。それは、ネイスミスの巨大な蒸気槌の十倍も重いものだが、それが人の心の上に落ちるのを見たことがある。だが、その心はこれっぽっちもひしゃげた様子を示さなかった。私たちは、それめがけて百発もの強力な砲撃が加えられるのを見たことがある。律法の大きな砲台が、その十門の巨大な大砲すべてで人の心に砲火を浴びせかけるのを目にしたことがある。だが、人の心は鋼鉄艦の装甲よりも固く、律法の強力な砲撃は人の良心の前にぽとぽと落ちていった。――人は感じなかったし、感じようともしなかった。いかに鋭利な判決があなたの心を切り裂くことができるだろうか? いかに針のような警告があなたの良心に突き刺さるだろうか? 悲しいかな、一切の手段は役に立たない。いかなる議論にも、これほど強固で、これほど徹底して石のようで、固くて、貫通不可能な魂を動かす力はない。今この場にいるあなたがたの中のある人々は、自分の心の固さについて、十分以上の証拠を示してきた。病が降りかかり、死があなたの窓から入り込み、患難があなたに直面してきたが、パロのようにあなたは云ってきた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞かなければならないというのは[出5:2]。私は自分の頭を垂れないし、彼の意志を行ないもすまい。私が私自身の主人なのだ。そして、私の好むことを私のやり方で行なうのだ。私は神に屈しはしない」。おゝ、鉄の岩々、青銅の丘々よ。お前たちは、人間の高慢な心にくらべれば、柔らかなものだ!

 3. また、石は死んでいる。そこには何の感情も見いだせない。それに語りかけて見るがいい。この上もなく悲しい話を物語ってやっても、それは何のあわれみの涙も流さないであろう。この上もなく愉快な物語を告げてやっても、微笑んで喜ぶことはないであろう。それは死んでいる。そこには何の意識もない。針で刺しても血を流さない。グサリと刺しても死なない。すでに死んでいるからである。それに顰め面をさせたり、ぎょっと飛び上がらせたり、何らかの感性のしるしを示させることはできない。さて、人の心は天性の事がらについてはこのようではないが、霊的には、これこそまさにその状態である。それに1つたりとも霊的な情緒を示させることはできない。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいる」*[エペ2:1]。力なく、生気なく、感情を持たず、情緒もない。善に対する、つかの間の情緒なら人々も有している。雨上がりには石板の表面が濡れているのと全く同じである。だが、真の、死活に関わる、善の情緒を彼らは知ることができない。というのも、天からの雨はこの石の内側には届かないからである。メランヒトンは説教するかもしれないが、古きアダムは、彼が生かすには死んだ者でありすぎる。あなたがたは、人々の上に長い眠りがのしかかっている墓場に下っていき、それらを生き返らせようとすることはできる。だが、人間の舌に死者を生き返らせる力はない。人は、いくら巧みに呪文を唱える蛇使いの声も聞こうとしない、耳しいの眼鏡蛇のようである[詩58:4-5]。血涙をしぼって何にもならない。いかなる脅かしも風が吹きすさぶようなものでしかなく、律法を説教しようが、十字架につけられたキリストをさえ説教しようが――こうしたすべては全く無効で、絶望的に水泡と帰してしまう。人の心が生まれながらのままである限りは――死んだ、固い、冷たいままでは――そうである。

 4. こうした3つの形容詞は、1つの完全な描写を十分に示すものであろう。というのも、たといもう2つを加えるとしても、それはある程度まで繰り返しでしかないからである。人の心が石のようであるのは、それが容易には柔らかくならないからである。石をいくら水に漬けておいても、決して軟らかくはならない。ある種の石は、険悪な天候には屈する。特に、ロンドンの煤けた、硫黄性の蒸気の中ではそうである。石によってはぼろぼろに崩れるものもある。だが、人の心という石にはいかなる気候も影響を及ぼさず、いかなる天候も和らげることができない。それが愛という柔らかな陽光であれ、自らに降りかかる審きという激しい暴風であれ、固くなるばかりである。あわれみと愛は同じようにそれをますます固くし、その粒子をますます緊密に癒着させる。また確かに、《全能者》ご自身がそのことばをお語りにならない限り、人の心はいやまして固くなり、固くなり、固くなって、砕かれることを拒む。確か、ある発明によると、火打石を融解させ、その後で、それをある溶液の中に注ぎ出すことができるらしい。その溶液をある種の石灰石につけると、大気の影響に侵されない作用があるという。だが、人の火打石のような心を融解することは、天来の力によらない限り、決してできない。花崗岩は、すりつぶすことも、粉砕することもできるが、神が御手に槌を握られなければ、また、神でさえその両手をお使いにならなければ、人間の花崗岩のような心は、いかにしても云いなりにはならないであろう。ある種の石には筋目があり、ある種の結晶石を巧妙に叩くと、ちょっとした打撃によってさえしばしば割れるものである。だが、決して人の心の内側には、それを征服しようと試みる者の助けとなるような筋目を見いだせない。いかにそれを右から左から、死によって、審きによって、あわれみによって、種々の特権によって、涙によって、懇願によって、脅かしによって打ち叩こうとも、それは割れようとしない。しかり。地獄の火によってさえ、人の心は溶かされない。罪に定められて地獄にいる者らは、自分の苦悶によってますます固くなり、神を憎み、自分が耐えている苦しみのため、いやがうえにも神を冒涜するからである。私は云うが、ただ《全能》そのものだけが、この固い、人の心を柔らかくすることができるのである。

 5. では、人の心は冷たく、死んでおり、固く、柔らかくできない。ならば、また――そして、これは先に述べた考えの敷衍でしかないが――それは完全に無感覚である。種々の印象を受け取ることができない。もう一度思い出すがいい。私は物理的な人間の心について語っているのではない。精神科学を教えているかのようなしかたで語っているのではない。今は、ただ霊的な見地からのみ語っているのである。実際、人々は、みことばの説教の下で、種々の精神的な印象を受け取る。自分の思念を振り払うことができないほど、心乱されることも少なくない。だが、悲しいかな! 彼らの誠実は朝露のようであり、朝早く消え去る朝もやのようであり[ホセ6:4]、夢のように消え去る。しかし、霊的には、人の心に印象をもたらすことができないのは、石を傷つけることができないのと同じである。蝋は証印の印影を浮き上がらせるが、厳格で、屈することをしない石はそうならない。熱く流れる蝋さえあれば、そこに押しつけるどんな形をも浮き出させることができるが、冷たい、冷たい石が相手では、いかにきつく刻印を押しつけても、何の印影も生じず、その表面にあなたの苦労の痕跡は全くとどまらない。生まれながらの人の心もそれと同じである。私の知っているある人々は、そうではないと云う。人間性がけなされるのを聞きたくはない、と彼らは云う。よろしい。愛する方々。もしあなたがこの固い心をしていないとしたら、なぜあなたは救われないのだろうか? 私はギル博士のある逸話を思い出す。まさに正鵠を射ている逸話である。ある人が、会堂の牧師室にいる博士のもとを訪れて、こう云ったという。「ギル博士。あなたは、人間の無能力という教理を説教していましたが、私は仰ることを信じません。私は、人間には悔い改めて信ずることができると信じます。霊的な力がないではないと信じます」。「よろしい」、と博士は云った。「あなたは、悔い改めて、信じておられますかな?」 「いいえ」、と相手は云った。「たいへん結構。ならば、あなたは二重の罪に定められるに値していますな」。そして私も、自分にそんな固い心はないと自慢している人に対して同じことを云おう。――あなたはキリストをつかんでいるだろうか? キリストのもとに来ているだろうか? 来ていないとしたら、あなた自身の心によって罪に定められるがいい。というのも、あなたは神の御前から二重の滅びを受けるに値しているからである。神の御霊の影響力に抵抗し、神の恵みを拒絶したからにはそうである。人間の心のかたくなさについて、これ以上云う必要はない。それは、そのうち肉の心について語る際に、ついでのこととして現われ出るだろうからである。

 しかし今、この固い心がさらされている危険に注意しよう。固い心がさらされているのは、最終的に悔悟しない危険である。もしこうした年月すべての間、天性の過程があなたの心に働きかけていると、また、それを和らげてこなかったとすると、それが最後まで続くだろうと結論すべき理由にならないだろうか? そして、そのときあなたは確実に滅びるであろう。あなたがたの中の多くの人々は、恵みの手段と決して無縁ではない。私はあなたがたの中の、福音が宣べ伝えられるのを幼少の頃から聞いてきた方々に云いたい。あなたは《日曜学校》に通っていた。ことによると、子どもの頃には、懐かしい何々先生の話を聞くのが常だったかもしれない。その話を聞くと、しばしばあなたの目には涙が浮かんだものであった。そして、最近のあなたはこの場に出席しており、何度となくこの会衆とともにいた。そこでは、みことばが岩をさえ溶かし、鋼鉄のように固い心をも悔い改めに流れ出させるに足るように思われた。だがしかし、あなたはなおも以前と変わらないままでいる。理性的に考えれば、あなたは何を期待すべきだろうか? 事実の論理から自然に推測されることは、確かにこのことであるに違いない。すなわち、あなたは今のままのあなたであり続け、種々の手段はあなたには役立たずであり、種々の特権は蓄積された審きとなり、あなたは、時間が尽きて永遠が迫り来るまで祝福されず、救われないままであり続けて、失われた魂を待つ運命へと下っていくであろう。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私はそうは思いませんよ」。そして私もそう望んではいないと云い足そう。だが、私は厳粛にそのことを恐れている。特に、あなたがたの中のある人々についてそうである。あなたがたの中には、福音の下で年老いつつある人々がいる。そして、あなたは私の声に慣れきってしまったため、ほとんどそれを聞きながら眠ることもできかねない。ロウランド・ヒルは鍛冶屋の犬についてこう云った。最初はその犬も、火花を恐れるのが常だったが、後になるとそれに馴染んで、鉄床の下でも横たわって眠れるほどになった、と。そして、あなたがたの中には、鉄床の下でも眠れる人々がいる。神の御怒りの火花が、自分の鼻先を舞っていようと、いかに厳粛な講話の下でも眠っていられる人々がいる。私はあなたの目が閉じていると云いたいのではない。その場合、私はあなたを指させるであろう。むしろ、あなたは心で眠っていると云うのである。あなたの目は説教者を凝視し、あなたの耳はその声を聞いているかもしれないが、あなたの魂はまどろみへと引き渡されているのである。

 さらに別の危険もある。柔らかくされていない心は、ますます固くなっていく。それが有しているかのように思われた、なけなしの感受性は、最後には離れ去る。ことによると、あなたがたの中のある人々は、少年だった頃の自分がどのようであったかを思い起こすことができよう。今このとき、英国美術院には一枚の絵がかけられており、それは健全な教訓を教えている。その中では、ひとりの母親が子どもたちを寝かしつけており、父親は、たまたま彼らが就寝しようとしているところに帰宅してくる。幼い者たちは膝まずいて祈りを唱えている。彼らと、父親がいる部屋の間には帷が一枚あるばかりで、彼は椅子に腰かけている。頬杖をついている彼は、とめどなく涙を流している。なぜかそれを抑えることができない。彼は思い起こしているのである。自分もまた、母の膝の上で祈りを教えられたことを。そして、神をも、神のみこころのことをも忘れて成人してしまってはいたが、そんな自分ではなかった頃のことを思い出しているのである。気をつけるがいい。話をお聞きの愛する方々。あなたがますます悪い者になっていかないように。これはそうなっていくものだからである。私たちは、年々歳々、成熟していくか、腐っていくか、2つに1つである。あなたはどちらだろうか?

 そしてさらに、固い心をしている人は、サタンの玉座である。聞くところ、スコットランドのスクーンには1つの石があるという。古の王たちは、そこで戴冠式をあげるのを常としていた。だが、地獄の老王が戴冠する際に座る石は、固い心である。それが彼のえり抜きの玉座である。彼は地獄で統治しているが、彼は固い心を自分のえり抜きの領地とみなしているのである。

 そしてまた、固い心には、何でも起こりうる。サタンがその上に座り、それを玉座とするとき、その、あざける者の座[詩1:1]からあらゆる悪が流れ出るとしても不思議はない。それに加えて、固い心は、あらゆる媒介的手段を受けつけない。ジョン・バニヤンは、著書『聖戦』の物語の中で、悪魔である老ダイアボラスが、《人霊》の市民たちに鎧兜を支給している姿を描き出しているが[第2章]、その鎧の胸当てこそ固い心なのである。おゝ! それは強靭な胸当てである。時として私たちは、福音を説教するとき、あまり多くの善が施されないことをいぶかしむことがある。だが私は、これほど多くの善が施されていることの方をいぶかしんでいる。人々が神の家で座っているとき、鎖かたびらに深々と自分の顎を埋めているとしたら、矢が彼らの心を突き通さなくとも大して不思議はない。人が傘をかかえているとしたら、雨に濡れなくとも驚くことはない。そのように、恵みの雨が降っているとき、あなたがたの中の多くの人々は固い心という傘を差しているのであって、恵みの露や恵みの雨が、あなたの魂に落ちかからなくとも何の驚きでもない。固い心は、悪魔の親衛隊である。ひとたび彼が人に堅牢な鎧――すなわち、固い心――を着せてしまえば、――「さあ」、と彼は云うであろう。「どこへ行っても良いぞ」。それで彼が彼らを教役者の話を聞きに行かせると、彼らは教役者を小馬鹿にする。彼が彼らに信仰書を読ませると、彼らはその中に嘲りの種になるようなものを見いだす。それから彼が彼らの目を聖書にさえ向けさせても、固い心をした彼らは聖書を読んでも全く安全である。神のことばさえ、固い心は害毒に変え、キリストのご人格や、神ご自身の栄光に富む属性の中にさえ、けちをつけるものを見いだすことができるからである。私は、この非常に痛ましい主題にこれ以上長くとどまりはすまい。だが、もしあなたが、自分の心が固いことに気づいているとしたら、願わくはあなたの祈りが神に立ち上るように。「主よ。私の心を溶かしてください。天来の血に浴さない限り、この火打石を取り去ることはできません。ですが、それを行なってください。主よ。そしてあなたが賛美をお受けとりください」、と。

 II. 第二に、そして手短に、《肉の心とその特権》について語ろう。「わたしは石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」*。多くの人々――今晩この場にいる非常に多くの人々――の中で、本日の聖句は成就してきた。それ以外の、まだ石のような心をした人々のために、心を合わせて祈ろうではないか。神がこの奇蹟をそうした人々の内側で行なって、彼の心を肉へと変えてくださるように、と。

 肉の心とはどういうことだろうか? それは、罪ゆえに感じることができる心、――神の矢がぐさりと突き刺さるとき血を流すことのできる心を意味する。福音がその攻撃をかけるとき、降伏できる心、――神のことばの証印が押し当てられるとき、印影が生じうる心を意味する。暖かい心を意味する。――いのちは暖かいからである。――考えることのできる心、憧れることのできる心、愛することのできる心、――すべてを一言で云えば、――肉の心とは、神が新生した者に与えられる新しい心とゆるがない霊[詩51:10]を意味する。しかし、この肉の心はどこに存しているのだろうか? その柔らかさは何に存しているのだろうか? よろしい。その柔らかさは、3つのことに存している。そこには、良心の柔らかさがある。自分の石の心を失った人々は、罪を恐れる。罪の前でさえ、彼らは罪を恐れる。悪の影がその通り道を横切ってさえ、彼らは恐れおののく。誘惑だけで彼らには十分であり、彼らは蛇から逃げるように誘惑から逃げ去る。それとふざけたり、それをもてあそんだりはしない。騙し討ちに合うといけないからである。彼らの良心は、悪が近づいただけで恐怖に襲われ、逃げ去っていく。そして罪のうちにあるとき、――というのも、柔らかな心でさえ罪を犯すからだが、――それは落ち着きを失う。茨の詰まった枕の上で人が安眠を求めても当然得られないように、柔らかな良心は人が罪を犯しているときに平安を得られない。そして、それから、罪の後に、――ここに激痛がやって来る。――肉の心は、その中心そのものまで傷つけられたかのように血を流す。それは、自分が道を踏み外してしまったことで、自らを憎み、厭い、嫌悪する。あゝ、石の心よ。お前は罪を楽しみとともに考えることができる。罪の中で暮らしても、それについて無頓着にしていられる。そして罪の後で、それを甘やかな食物のように舌の下で転がしながら、こう云うことができる。「誰が私の主人だというのか? 私は誰をも頓着しない。私の良心は私を非難しはしない」。しかし、柔らかな、砕かれた心はそうではない。罪の前で、罪の中で、そして、罪の後で、それはずきずき痛み、神に叫び声を上げる。また、罪の中と同じく、義務においても、新しい心は柔らかい。固い心は神の戒めについて全く頓着しない。肉の心はあらゆるおきてに従順でありたいと願う。「ただ私の《主人》のみこころだけを教えてください。そうすれば、それを行ないます」。肉の心は、戒めが省かれたと感じるとき、あるいは、命令が破られたと感じるとき、神の御前で悲しみ嘆く。おゝ! 肉の心の中には、祈りにおいて締まりがなかったり、安息日を楽しまなかったり、自分の心をしかるべきほど神への賛美にささげなかったりすると、自分を赦せない者たちがいる。こうした、石の心が軽くあしらい、蔑むような義務の数々を、肉の心は尊び、重んずる。もし肉の心が思い通りにできたとしたら、それは決して罪を犯さないであろう。天におられるその御父と同じように完全になるであろう。そして、神の命令を守るであろう。それを破ることによっても省くことによっても損なわないであろう。愛する方々。あなたはこのような肉の心を有しているだろうか?

 また、私の信ずるところ、肉の心が柔らかいのは、単に罪と義務に関してのみならず、苦しみについてもそうである。石の心は、神が冒涜されるのを聞いても笑い飛ばすことができる。だが私たちは、肉の心を有するとき、神の栄誉が汚されるのを聞くと慄然とする。石の心は、その同胞たちが滅びるのを平然と眺め、彼らの破滅を馬鹿にすることができる。だが、肉の心は他者を優しく思いやる。「その憐みは改心(すくい)を求め、火より燃えさし奪(と)らんとす」。肉の心は、他の人々が底知れぬ所へ下っていくのをひったくることができさえするなら、その心血をもささげようとする。というのも、その胸が熱くなり、その魂は、広い道[マタ7:13]を滅びへと向かいつつある同胞の罪人たちへと心動かすからである。あなたは、おゝ、あなたはこのような肉の心を有しているだろうか?

 別の見地からすると、肉の心の柔らかさには、3つのあり方がある! それは良心において柔らかい。石の心は、大きな害悪についても、云わば、糠に釘である。だが、肉の心は罪について考えただけでも悔い改める。汚らわしい想像にふけり、情欲に満ちた思念を喜ばせ、少しの間さえもそれがとどまるのを許しただけで、肉の心を十分に悲しませ、神の御前で痛みとともに引き裂かれるに足ることなのである。石の心は、それが大きな不義を行なったときには、こう云う。「おゝ、何でもないさ、何でもないさ! 何だからといって私は神の律法などを恐れなくてはならないのか?」 しかし、肉の心はそうではない。大いなる罪は肉の心にとっては小さな事だが、小さな罪も肉の心には大きなものである。――もし小さな罪などというものがあればだが。石の心の中にある良心は麻痺している[Iテモ4:2]。だが、肉の心の中にある良心はすれておらず、非常に敏感である。傷つきやすい植物のように、それはちょっと触れただけでもその葉を丸めてしまう。それは悪の存在に耐えられない。それは繊細な肺病患者のようであって、あらゆる風を感じ、あらゆる大気の変化に影響される。願わくは神が私たちに、そのようにほむべき柔らかな良心を与えてくださるように。それからまた、肉の心は神のみこころについて柔らかい。私の《迎意卿》[バニヤン『聖戦』]は、非常な怒鳴り屋であって、彼を押さえつけて神のみこころに服させるのは並大抵のことではない。たとい、ある人の良心を神の味方にしても、その人の意志を得られなければ、戦いは半ばしか決していない。この古い格言――

   「意志に反してうなずける
    人の意見はなおも変わらじ」――

は、他のあらゆることに関してと同様、このことに関しても当てはまる。おゝ! あなたがたの中のある人々は正しいことを知っているが、間違ったことを行なおうとする。あなたは何が悪であるか知っているが、それを追い求めようとする。さて、肉の心が与えられるとき、意志は柳のようにたわめられ、天のあらゆる息吹の中で箱柳の葉のように震え、神の御霊のあらゆるそよぎの中で行李柳のように頭を垂れる。生まれながらの意志は断固として、強情であり、根元からもぎ取らなくてはならない。だが、更新された意志は穏やかで、従順であり、天来の影響力を感じ、それに甘やかに屈する。この絵姿の仕上げの一筆として、この柔らかい心の中には情緒の柔らかさがある。固い心は神を愛さないが、更新された心は愛する。固い心は利己的で、冷たく、鈍感である。「なぜ私が罪のため泣かなくてはならないのか? なぜ私が主を愛さなくてはならないのか? なぜ私が私の心をキリストにささげなくてはならないのか?」 だが肉の心はこう云う。――

   「汝れ知る、われの 汝(な)をいと愛すを
    されど、おゝ! われ 飛翔(まう)を求めん
    罪と苦悩(なやみ)の 現(うつ)し世はなれ
    さらに汝れをば 愛さんがため」。

おゝ、願わくは神が私たちに情緒の柔らかさを与えてくださり、私たちが心を尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛せるようになるように。

 さて、この更新された心の特権は次のようなことである。「ここにぞ御霊 宿りまし/ここにぞイエス 安らげり」。柔らかな心は今あらゆる霊的な祝福を受ける用意ができている。それは、あらゆる天的な果実を実らせ、神の誉れと賛美を現わすにふさわしいものとなっている。おゝ! もし私たちが説教する相手が柔らかい心のほか何者もいなかったとしたら、私たちの牧会活動はいかに祝福されたものとなることであろう。いかに幸いな成功であろう! いかなる地上での種蒔きであろう! いかなる天での収穫であろう! 私たちは実際、祈るものである。私たちの牧会活動がよりしばしば、死から出て死に至らせる香りではなく、いのちから出ていのちに至らせる香り[IIコリ2:16]となるだけのためでも、神がこの変化を作り出してくださるように、と。柔らかな心は罪に対する最上の防御であると同時に、天国のための最良の備えである。柔らかい心は、悪に対して油断しない最上の手段であると同時に、天からすぐにも下って来られる主イエス・キリストの来臨に対して私たちを備えさせる最上の手段でもある。

 さて、私の声も嗄れてきた。そして、私が長々と語れば、あなたの心の中で、私の話は聞こえなくなるに違いない。誰かの説教が長すぎるということに対しては、多くの文句が寄せられている。とはいえ、それが私の説教について云えるとは、私はほとんど思っていないが。それで、手短に語ってしめくくることにしよう。ただ私たちはこの問いかけを突き入れなくてはならない。――神は石の心を取り除き、肉の心をあなたに与えてくださっただろうか。愛する方々。あなたはあなた自身の心を変えることができない。あなたの外的な行ないによってそれは変わらない。あなたがいくら皮袋の外側をこすっても、どぶ水を葡萄酒に変えることはできないであろう。いくらあなたの角灯の外面を磨いても、蝋燭が中で燃えているのでない限りそこからは何の光も生じないであろう。園丁は酸い林檎の木の刈り込みをするかもしれないが、世界のいかなる刈り込みをしようと、それを本杏にすることはできない。そのように、あなたが世界中のあらゆる徳行に身を入れても、あなたの心は変わらないであろう。あなたの銀貨をいくら研磨しても、それは黄金には変わらないであろう。あなたの心もそれ自身の性質を変化させないであろう。ならば、何がなされるべきだろうか? キリストこそ、大いなる心の変え手である。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」*[使16:31 <英欽定訳>]。聖霊は信仰を与えてくださり、それから信仰を通して性質が更新される。罪人よ。あなたは何と云うだろうか? あなたはキリストがあなたをお救いになれると信じるだろうか? おゝ、ならば、主があなたをお救いになると信頼するがいい。そして、もしあなたがそれをするなら、あなたは救われる。あなたの性質は更新され、今晩始まる聖化の働きは、それが完成されるときまで続くことになり、あなたは、御使いの翼に運ばれて天国に行き、「召しに服すを喜びて」、至福と聖潔に入っては、白い衣を着た聖徒たちとともに贖われ、イエス・キリストの義によってしみ1つない者となるであろう。

取り除かれた石の心[了]

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