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神との交わり

NO. 409

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1861年9月15日、日曜朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。――Iヨハ1:3


 神との交わりは、堕落する前の人間が持っていた最も豊かな特権の1つであった。主なる神は園を歩き、人がその友と話をするようにアダムと話された。神に喜んで服従し、従順である限りにおいて、アダムは地の最も良い物を食べていた。そして、アダムの魂があずかっていた滋味豊かな饗宴と「よくこされたぶどう酒」[イザ25:6]の中でも、真っ先に挙げなくてはならない最上の部分は、アダムが、自分の《父》であり《友》であられる神と不断の交わりを持っていたという事実にほかならない。だが罪によって人は、エデンから追放されたように、神のもとからも追放された。またそれ以来、私たちの顔は《いと高き方》からそむけられ、神の御顔は私たちからそむけられた。――私たちは神を憎み、神は日々、私たちに対して怒っておられる。さてキリストが世においでになったのは、この人間が失った家伝の遺産を取り戻すためであった。主の驚くべき犠牲の一大目標は、人間が、堕落前のアダムにあって占めていた立場に等しい、否、その立場にいやまさる立場に私たちをつけることにあった。そして主は、人間が失っていた数多くの祝福をすでにキリスト者たちに回復してくださった際に、他の特権とともにこの祝福――すなわち、神との交わり――をも回復してくださった。すでに神の恵みによって信仰を受け、尊い血によって洗われている者たちは、私たちの主イエス・キリストを通して神との平和を持っている[ロマ5:1]。「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族」[エペ2:19]であり、いま自分の立っているこの恵みに大胆に近づくことができる[ロマ5:2 <英欽定訳>]。だから、御国の中にあり、第二のアダムがもたらしてくださった経綸の下にある者たちは、自分たちの最初の契約的かしらが犯した罪と不従順によって失われた、この交わりを満ち満ちた形で回復されているのである。ヨハネは、キリストが肉体をもって地上におられたとき、キリストと豊かに交わる特権を味わった幾人かの人々のひとりであった。キリストの供をするえり抜きの弟子であり、その中でも、ひときわ格別な厚遇にあずかった側近中の側近であった。受肉した御子の公生涯の間、ヨハネはこの《贖い主》と最も親しく接することのできた、恵まれた三人のひとりであった。ヨハネは、キリストの変貌した御姿を目の当たりにし、死んだ少女がよみがえらさせるのを目撃し、ゲツセマネの園で主とともにおり、主がその死後に槍を突き刺され、抜き破られた心臓から血と水が流れ出したときでさえ、みそばにとどまっていた。キリストが肉体をもって地上におられたとき、最も間近で、最も親しく、最も近しくキリストと交わりを持っていた。そして、自分の頭をキリストの御胸にもたせかけていたのと同じように、自分のあらゆる考えと、自分の思いのあらゆる情緒とを、その主であり《主人》であるお方の御心の愛と天来の愛情に投げかけていた。だがキリストは地上を去られた。もはやその御声を聞き、その御姿を目にし、そのみからだに手で触れることはできなくなった。それでもヨハネは、主との交わりを失わなかった。もはや肉において知ることはなかったが、肉で知るよりもずっと高貴な形で知ることができていた。また、ヨハネと主の交わりは、かつて主とともに歩み、言葉を交わし、あの最後の晩餐でともに飲み食いする特権にあずかったときと比べて、いささかも非現実的なもの、親しみに欠けたもの、索漠としたもの、地上的なものになることはなかった。ヨハネはこう言う。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」――でしたではなく――今も同じように続いている「交わりです」。

 さて、私たちの主イエスを信じる信仰をともにする兄弟姉妹の方々。私は今朝、私たちの中の多くの者がこう言えるものと信じたい。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。使徒ヨハネには、「まことに」 <英欽定訳> と言う必要があったのだろうか。――あたかも、誰かからこの事実を疑われるか否定されるかしたかのようである。時として私たちも、ヨハネと同じように厳粛に確言すべき場合がある。一部の分離派教徒たちは、自分たちの教会政治形態を、キリスト教信仰にとって必須の要件に持ち上げ、私たちに向かってこう言う。このような形態に従っていないあなたがたが、キリストとの交わりを持っているはずなどありえませんと。この種の人々は、私たちが神のお定めになった教役者制度を拒絶せず、最近ひねり出されたような組織体系、すなわち、誰もが同等の立場で兄弟を教え合うという形式を採用していないというだけの理由で、神との交わりは私たちの持っているものではなく、このような分派や一派だけのものだというのである。私たちは、そのような人々からきわめて辛辣な言葉を受けてきたため、自分の立場を確認するよう仕向けられることがあった。だが、心を深く探った後でも、そのような人々に対してこう言えるであろう。「兄弟たち。教会の戒規や組織の点で正しいのがあなたがたであるか私たちであるかに関わりなく、私たちはこう保証することができます。『まことに、私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです』と」。すると多くの場合、教義至上主義者は、――すなわち、キリストのご人格よりもキリストの教えの方が大事だと考え、そのような思い込みに加えて、自分ひとりが正しく、他の人々が間違っているに違いないと思い上がっている人は、――なぜそのような思い上がりをいだいているかというと、私たちが、その人の教えの目立った部分のすべてに必ずしも同意できないか、あるいは、逆に、その人の律法的な種々の言明について意見を同じくできないためだが、――こう言うのである。「おゝ、あの人たちときたら! 世には、あの手の人たちがごまんといますが、神との交わりを持っていることなどありえません。なぜなら、われわれと同じようには『シボレテ』と言えず、われわれの教えている教義と一点一画に至るまで完全に同意見ではないからです。それゆえ、主はあの人たちとともにはいないのです」。あゝ、だが私たちはこの人々に、こう言えるであろう。「兄弟たち。そのような教理的な論議は、正否の《大裁断者》に喜んでおまかせします。私たちは聖書について自分なりの意見を形作っています。神の御前、すなわち、《いと高き方》の御前と同じように、私たちはこう言えるものと思っています。私たちは、『神のご計画の全体』[使20:27]を、余すところなく知らせてきたのだと。しかし、その真偽はいかにあれ、私たちはあなたがたに抗議します。『まことに』、そうです。『まことに、私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです』と」。すると、もしかすると体験主義者は、――すなわち、自分自身の特定の形の経験を不相応に重要視する人は、――大きく反対の声を上げ、この教役者は自分と同じ程度には人間の堕落性を経験していませんと言うかもしれない。私たちが、霊的な罪の確信に関する、その人お気に入りの、だが不健全な基準を目立って強調していないというだけの理由で、全く私たちがなっていないと切り捨てるかもしれない。よろしい。私たちはその人にこう言えるであろう。「私たちは、自分の知っていることを宣べ伝えています。私たちは、自分の見てきたことを証ししています。そして、たとい真理のあらゆる高さ、深さ、長さ、広さにまだ達していないとしても、それでも成長したいと希望しています。ですが、あなたに疑われようとも、このようにはっきり断言できるのです。『まことに、私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです』と」。

 これにより、そのまま直ちに本日の聖句に至ることになる。あなたも感じとるであろうが、この聖句そのものから、一個の静かな省察によってもたらされている、きわめて厳粛な確言がうかがえる。「まことに、私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」<英欽定訳>。それから第二に、この聖句の前半には、一個のきわめて愛情に満ちた願いと、そこからもたらされている、しかるべき行動がある。私たちが願うのは、あなたがたも私たちと同じ交わりを持つようになること、それゆえ、「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝える」ことである。

 I. まず第一に、心を静め、しんと沈黙する中で、この件について互いに語り合おう。そして自分が本当に《御父および御子イエス・キリストとの交わり》を持っているかどうかを見きわめよう。

 さて兄弟たち。私たちは《御父》との交わりを持ってきた。いずれかの人と交わりを持つためには、心の協和がなくてはならない。「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」[アモ3:3]。交わりがあるためには最低限、ある程度まで好みが同じでなくてはならない。同じような望み、同じような願いがなくてはならず、同じような目当てを共有し、同じような目的を果たそうとする意図で霊が1つになっていなくてはならない。さて今朝私たちは、一番目のこととして、こう明言できるだろうと思える。私たちは、神の永遠のご目的において、神との甘やかな協和を感じている。この神の《書》を読むと、神がキリストをその《教会》の《かしら》として定められたこと、ご自分のために「誰にも数えきれないほどの数の人々」[黙7:9参照]を選んでおられることが分かる。みことばで啓示されているところ、神は、分け隔てをし、差別する恵みの神であられることが分かる。「自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」[ロマ9:15]お方であられること、多くの子たちを栄光に導き、「その愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光がほめたたえられる」[エペ1:6]ようにしておられることが分かる。兄弟たち。あなたや私は、心を探られる神の御前においても、自分は神のご目的に全く異存はないと言えるではないだろうか。それどころか私たちは、神のご目的を愛し、喜び、神の聖定に満足している。たとい、神の天来の意図が書き記されている巻物を変更するようなことが自分にできるとしても、変更しようとは思わない。神がお定めになったことは何であれ正しいと感じる。また、神が御民を永遠のいのちへと定め、他のあらゆる民にまして愛しておられる事実について言えば、それこそ私たちの知る中でも最も豊かな富の1つである。選びの教理は神の子どもにとって甘やかな強壮剤である。私はこう叫ぶことができる。「私の父よ。あなたは《王》であられます。この世の取るに足りない者や見下されている者を選び、有るものをない者のようになさいました[Iコリ1:27]。そして、このことにおいて私はあなたと交わりを持つことができます。というのも、こう叫べるからです。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした』[マタ11:25-26]」。

 やはりまた私たちは、そもそもこの目的が形作られた目当てにおいても神と交わりを持つことができる。その目当てとは、神ご自身の栄光である。あゝ、《いと高き方》の行ないは、ご自分の威光を明らかに現わし、ご自分の《神格》に栄光が帰されるようにするものである。おゝ、兄弟たち。私たちはこの目的において神に共感しないだろうか。おゝ、御手によって造られたすべての物よ、主に栄光を帰せよ、主に栄光を帰せよ! 私たちの霊が最も広げられ、最も燃やされるときに感じる最高に強い願望は、すべてにおいて神があがめられることである。心を読める神はご存知である。私たちがはいつくばらされ、地のちりのようにさせられたときも、こう言っていたことを。「それでも私は、あなたが高められ、あなたがなおも王であられ、天の軍勢の間で、また、この下界の民の間で、みこころのままに事を行なわれることを慰めとしています」。あなたは、神ご自身が願われるのと同じくらい、神のご栄光を願い求めていないだろうか。神は人間のあらゆる誇りを傷つけ、エホバが神であること、「ほかには神はないこと」[申4:35]を世に知らしめようとしておられる。あなたも同じように願い、日々こう祈っているではないだろうか。「日の上る所から沈む所まで、神があがめられますように。造られたすべての物によって主がほめたたえられますように。息のあるものがみな主の御名をほめたたえ、あがめますように」と。ならば、このことにおいて――神の目的において、また、そのご目的の目当てにおいて――私たちは「御父との交わり」を持っている。

 そしてまた、私たちはその目的を実行に移すご計画において御父と交わりを持っているではないだろうか。「定めの時が来た」とき、「神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」[ガラ4:4-5]。神は唯一無二の土台を据え、その土台についてこう仰せになった。「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできない」[Iコリ3:11]。「家を建てる者たちの見捨てた石」を選び、それを「礎の石」とされた。私たちは言えるではないだろうか。これは主のなさったことであり、「私たちの目には、不思議なことである」と[マタ21:42参照]。このお方は、神にとっては「選ばれた石、尊い礎石」であるように、「より頼んでいるあなたがたには尊いもの」[Iペテ2:6-7]である。その計画全体を最初から最後まで眺めるとき、あなたは賛意を表わすではないだろうか。ご目的のために立案できただろう枠組みの中でも、最も賢く、最も恵み深く、最も栄光に富む枠組みだという印象を受けないだろうか。そして、予定におけるその水源から、栄光という大海へ向かう滔々たる流れを越えて見渡すとき、その無比の水路すべてについてこう言うではないだろうか。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれました。そして、選んだ上で私たちに栄光を与え、最後にはご自分のもとに至らせてくださいます」[Iペテ1:3、エペ1:4参照]。しかり。この天来の枠組みの中には、私たちが改めたいと思う一言たりともなく、私たちが変えたいと思う一文章たりともない。もし神がそれを良いとお認めになるなら、確かに私たちにとって良いものであるに違いなく、もし神がそれを天来の働きを行なう計画としてお選びになったとしたら、私たちは神の選択をあがめ、その企図を計画し、実行に移された知恵と愛との双方を崇拝する。

 だがしかし、私たちはこう言い足せると思う。私たちは、その計画の最も顕著な特徴において神との交わりを持っているのだと。あなたは、救いの道全体を通じて、神の正義とあわれみが、どちらも全くその光輝を減じさせないような形で明らかに示されているのを見てきた。罪人を赦すみわざには神の恵みが見られるが、身代わりの上で罪に報いるみわざには神の聖さが見られる。あなたは神の真実さが、2つの道で働くのを見てきた。脅かしにおけるその真実――決して罰すべき者を目こぼししない事実――と、約束におけるその真実――「咎とそむきと罪を見過ごされる」[民14:18]事実――である。救いという《天来の》ご計画全体を通じて、《いと高き方》のご属性は、その1つたりとも傷つけられてはいない。かつては極悪人だった罪人らが、天の喜びにあずかり、賛美を歌う姿を見るときでさえ御使いたちは歌うのである。「聖なる! 聖なる! 聖なる! 安息日の主なる神」と。そして兄弟たち。あなたや私も同じ点で神との交わりを持っていると感じるではないだろうか。あなたは、自分が救われるためとあらば、神に不正を働いてほしいと思うだろうか。否、あなたはこう言うだろうと思う。「決して! 決して! この私のためであってさえ、決して神が不正を働くことなどあってはなりません」。自分が神のお気に入りになるためとあらば、神が他の人々への愛に欠けた者になってほしいと思うだろうか。否! そして、そのようなことを示すしるしは寸分たりともない。あなたは神がその脅かしを撤回するのを望まないであろう。その場合、神がその約束をお忘れになるのを恐れなくてはならなくなるからである。私は確信している。イエス・キリストの御顔に明らかに現わされている神のご性格を仰ぎ見るとき、あなたの魂は言い知れない喜ばしい崇敬の念に満たされる。そして、こう歌えるであろう。「神よ。あなたは大いなる方。あなたの恵みはとこしえまで」。また、ダビデの言葉を借りてこう言えるであろう。「私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう!」[詩101:1]  ということは、目的において、その目的の目当てにおいて、その目的を成し遂げるための計画において、そしてその計画の特徴において、キリストを信じる者たちは御父と交わりを持っている、すなわち、甘やかに協和しているのである。

 しかし、もう一歩先に進もう。私たちは神の愛の対象において、きわめて神聖で尊い御父との交わりを持っている。二人の人が同じ物事を愛しているときには、その愛情が二人の絆となる。二人は互いに愛し合っているかもしれないが、摂理の中でその家庭内に子どもたちが与えられるとき、その子どもたちは両親を結びつける別の絆となる。父母は、双方が自分の心を幼い子らに注いでいるとき、互いの心がさらに充実した形で相手にささげられるのを感じる。さて、父なる神と私たちの魂との間には1つの絆がある。というのも神は、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」[マタ3:17]と仰せになったではないだろうか。そしてあなたや私も、こう言い足せるではないだろうか。「そうです。主は私たちの愛する《救い主》、私たちはこの方を喜びます」。また、「彼を砕いて、痛めることは父のみこころであった」*[イザ53:10]と書かれていないだろうか。そして私たちは、主の御傷と、主の苦悶と、主の死を見つめることに、天来の喜びと満足を覚えてきたと感じているではないだろうか。また御父は、御子イエスに栄光を与えようと決意しておられるではないだろうか。そして、私たちの心を最も喜ばせる思いは、私たちが、この地上で主の栄光を現わす助けを行なえるということ、また天においてさえ、御使いや主権や力に対して、主の恵みの高さと深さを告げることによって、主の栄光を広められるということではないだろうか。御父は御子を愛しておられるだろうか。――私たちも御子を愛している。有限の存在であるため、御父と同じ無限の程度によってではないが、それでも真摯に愛している。御父がイエスを愛すのと同じように真摯に私たちもイエスを愛している。――

   「われはまことに 下司ならん、
    もしも主を汝れ 愛さずば。
    《救主》(きみ)を愛さず おるよりは
    この身の絶えて 果てなばや!」

ということは、この点においても私たちは御父と交わりを持っているのである。御父も私たちも、ともに御子を愛しているからである。御父は聖徒たちを愛しておられるだろうか。――私たちも聖徒たちを愛している。御父は、「彼らの血は彼の目に尊ばれる」*[詩72:14]と宣言しておられるだろうか。聖徒たちを背負い、にない、その関心の対象としておられるだろうか。「わたしはわたしの民を楽しむ」[イザ65:19参照]と語り、「民はわたしの格別な宝である」、「わたし自身のもの」であると語っておられるだろうか。わが魂よ、お前も、どれほど大きな疑いや恐れに襲われるときにも、こう言えるではないだろうか。――「私は、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」[Iヨハ3:14参照]。お前はこう断言できるではないだろうか。「地の威厳ある者たちはみな私の喜びであり、この人々の住むところに私は住みたい。この人々の死ぬところで私は死にたい。永久永遠にこの人々の相続地を私の相続地とし、この人々の神を私の神としよう」。この点においても私たちは御父と交わりを持っている。

 しかし、兄弟たち。知っての通り、「交わり」という言葉は、単に心の協和を意味するだけでなく、その協和をもう少し先に進め、会話、すなわち、互いに意志を疎通させることをも暗示している。願わくは、聖霊によって私たちが、自分の経験によって厳密に検証されていない言葉など決して語らないように! だが、私たちはこれまで《神聖なる御父》と会話を交わしてきていると言えると思う。私たちはどのような折にも御父を見たことはないし、その姿かたちを目にしたことはない。モーセのように岩の裂け目に入れられ、目に見えないエホバの通り過ぎた後でそのうしろを見てとる特権は与えられなかった。だがしかし、私たちはこのお方に語りかけてきた。「アバ、父」と申し上げてきた。私たちの心底から発するこの称号で敬意を表してきた。「天にいます私たちの父よ」と。自分を欺いていたはずなどないような形で、このお方に近づくことをしてきた。私たちはこの方を見いだし、キリストの尊い血を通してこの方の足元にまで行った。その御前で自分の最も心にかけている一部始終を打ち明け、思う存分に論陣を張ってきた。また、ただ私たちだけが語っていたわけでもない。というのも、この方はその御霊によってご自分の愛を私たちの心の中に注いでくださったからである。私たちが子としてくださる霊を感じている間、その一方で神は、優しい御父の愛に満ちたいつくしみを示してくださった。私たちは感じてきた。何も音は聞こえなかったが、知ってきた。何も天使的な使いから証しされはしなかったが、この方の御霊が、本当に私たちの霊とともに、私たちが神から生まれた者であることを証ししてくださったことを。私たちは――もはや遠くにいるのではない――このお方から抱きしめられた。「キリストの血によって近い者とされた」[エペ2:13]。私の兄弟姉妹。あなたがたひとりひとりは、次のように言えるものと思う。――確かに、それをもっと力強く言いたいと願いはするだろうが、――「私は、これらすべての事がらにおいて、御父との交わりを持っています。というのも、私は御父と会話を交わしてきましたし、御父は私に語りかけておられるからです」。あなたは、この賛美歌の言葉に唱和できるであろう。――

   「もしも御父の 愛に、われ
    子たるものとて あずからば、
    くだせ、御霊を 鳩のごと、
    とどまらせ給え、わが心(たま)に」。

 さらに、御父との交わりというこの点のしめくくりとして、私たちは《全知なる方》のみもとに赴き、私たちは神と次の点で交わりを持ってきたと言えると思う。すなわち、神の幸福である物事そのものが私たちの幸福であったという点である。神の《聖なるご本性》にとって喜びであるものは、私たちにとって喜びであった。「では、それは何なのです?」とあなたは言うであろう。何と、兄弟たち。神は聖さと、いつくしみと、あわれみと、恵みを喜んでおられるではないだろうか。そして、それは私たちの喜びでもないだろうか。確かに私たちを最も惨めにするものは、私たちの罪であったに違いない。私たちは、たといどれほど苦しもうとも、もしそれで天に昇ろうとする自分を縛りつけ、妨げている罪を取り除けるとあれば、不平を漏らしはしない。聖潔は私たちの楽しみであり、きよさは私たちの喜びである。そして、神が完全であるように完全になることができ、私たちの父なる神が不義に似た一切のものから自由であるように私たちも罪から自由になれるとしたら、私たちは天国にいるはずである。というのも、それが私たちの幸福だからである。神がきよさと義に見いだされるのと同じ幸福を私たちもきよさと義に見いだすのである。

 そしてもし《三位一体》のそれぞれの位格と交わりをお持ちになることが御父の幸福だとしたら、――もしも御父が御子をお喜びになるとしたら、そのように私たちも御子に喜びを感じている。それも、赤の他人に告げるならとても信じてもらえず、この世の子らの耳に語るなら狂人と思われるような喜びをである。イェスよ、あなたは私たちの魂の太陽であり、私たちの飲む川の流れであり、私たちの食するパンであり、私たちの呼吸する大気です。私たちのいのちの基盤であり、その頂点です。私たちの存在の支柱であり、大黒柱であり、柱であり、美であり、喜びです! あなたがおられさえするなら、他に何も求めません。あなたはすべてのすべてであり、あなたがおられなければ私たちは惨めさに陥り、破滅するからです。ということは、私たちは御父と交わりを持っているのである。御父の幸福となっている物事が、私たちの幸福であることはまぎれもなく確かだからである。

 やはりまた、御父の携わっておられる務めは私たちの携わる務めでもある。私はあなたがた全員のことを指しているのではない。御父はご自分の選んだ者たちをご存知である。私たちは全世界を支える御父の務めに加わることはできない。日の出とともに光の大渦を送り出したり、千の丘の家畜らを養ったり、息のあるもののために食物といのちを与えたりすることもできない。しかし、御父のように私たちにも行なえることがある。御父はすべての人々に善を施しておられ、私たちも善を施すことができる。御父は御子イエスを証ししておられ、私たちも証しを行なうことができる。御子に栄光が帰されるように、「父は今に至るまで働いておられ」[ヨハ5:17]、私たちも働いている。おゝ、《永遠の働き手》よ! 魂を救うのはあなたのみわざであり、私たちはあなたの協力者です。私たちは神の畑、神の建物である[Iコリ3:9参照]。神は真理の種をお蒔きになり、私たちも真理の種を蒔く。神のおことばは慰めを語り、私たちの言葉も、御霊なる神がともにおられるときには、憂き者を慰める。私たちは、「私たちにとっては、生きることはキリスト」*[ピリ1:21]と言えるものと思いたい。そして、それは神の生きがいでもないだろうか。私たちは何にもましてキリストの栄光を現わすことを願っており、それは御父のみこころでもある。イエス・キリストがこのように祈られた通りである。「あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」[ヨハ17:1]。兄弟たち。私たちが永遠の神と同じ足場に立っていることが見てとれるではないだろうか。私たちが手を上げるときには、神も永遠の御腕を上げられる。私たちが語るときには、神も語り、同じことをお語りになる。私たちがキリストの栄光を目指すときには、神もその栄光をお目指しになり、さまよっている羊を家に連れ帰り、放蕩息子たちを呼び戻したいと私たちが願うときには、神も同じことを願っておられる。だから、その点において私たちはこう言えるのである。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。

 2. さてここで、いささか手短に宣言し、確言することに移らなくてはならないのは、私たちが御父と同じく御子とも交わりを持っているという事実である。その両方の面において私たちは、話すことを始めるか、字を覚え始めた幼子に似ている。兄弟たち。私たちはまだ到達してはいない。確かに御父との交わりを持っていると言いはしても、持ちたいと思っている程度と比べればそれが何と僅かなことか! この交わりはエゼキエル書にある川のようで、初めは足首までしかないが、後に膝まで達し、それから腰に、やがては泳げるほどになる[エゼ47:3-5参照]。だが、神はほむべきかな、それが足首までのものでしかなくとも、私たちは交わりを持っており、僅かしかなくとも、その僅かは、より大きな交わりに育つ種であり、来たるべきより大きな喜びの確実な担保なのである。よろしい。いま私たちは主イエス・キリストとの交わりを持っている。私たちは次のように言えると思う。というのも、私たちの心がキリストに結びついているからである。――この真理について語ることはできなくとも、この真理について涙することはできると思う。――

   「イェス、われ愛さん、汝が麗しき名を、
    わが耳に、そは 妙なる調べ」。

私たちは時として、このように歌わなくてはならないであろう。――

   「こは わが切に知らんと欲し、
    しばしば不安をかき立てしこと。
    われ主を愛すか さにあらざるか、
    われ主のものなるか、さにあらざるか」。

しかし、結局において私たちは戻って来て、こう答えることができると思う。「はい。主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」*[ヨハ21:17]。少なくとも、あなたがおられなければ私が決して幸福になれないとは不思議なことです。あなた以外のどこにも平安を見いだせないとは異様なことです。もし私があなたを愛していないとしたら、このようにあなたを願い求めるようなことがあるでしょうか。あなたが去られるとき、これほど嘆きと悲しみを感じるようなことがあるでしょうか。もしも私がまだ盲目だとしたら、あなたがおられないとき、これほどの闇を感じるでしょうか。あなたの光の明滅を見たことも、あなたの麗しさの僅かな光箭をも見たことがなかったとしたら、あなたがともにおられるときこれほど明るく感じるでしょうか。兄弟たち。サタンは好き勝手なことを語り、私たちの感覚はこの言明と矛盾しているように思われるかもしれないが、それでも私たちの魂はひたすら主に従っている。私たちにとって主は私たちの救いすべてであり、私たちの願望すべてである。ということは、私たちはキリストとの交わりを持っているのである。主の御心が私たちに据えられており、私たちの心が主と堅く結ばれているからである。

 さらに私たちは、主の苦しみにおいて、ごく小さな程度、主との交わりを持っている。私たちはまだ「罪と戦って、血を流すまで抵抗したことが」ない[ヘブ12:4]。だが、主の十字架を背負い、主の非難を身に受けてはきた。次のように言える者も何人かはいるであろう。――

   「イェスよ、われ我が 十字架を取り
    すべてを捨てて 従い来たりぬ」。

また、私たちの中の他の者たちは、それほどつらい人生行路を歩んではいないが、それにもかかわらず自分の内側に十字架を感じてきた。――というのも、私たちの内側にある新しい霊は、私たちがかつて愛していた一切の物事と戦わなくてはならないからである。そこには戦争があり戦闘があり、外側からばかりでなく、内側からもはるかに苛烈な争闘が生じている。だが、そのせいでずっと多くの悲しみを身に受けようとも、それでも私たちは主に従うであろう。というのも、私たちのために非難を身に受けてくださったキリストのための非難を身に受けることを自分の富と見なしているからである。私の兄弟姉妹たち。キリストに従う者であると告白しているあなたがたは、キリストの御名を認めることを恥ずかしくは感じないだろうと思う。私は戦いの日にあなたがたの背を向けないものと希望する。背を向けるようなら、あなたの交わりが御子イエス・キリストとの交わりかどうか疑問に感じてしかるべきだが、もしも主に覚えられているために辱めをも非難をも甘んじて受けるのであれば、この点であなたは主の死にならう者、主の苦しみにあずかる者となっているのである。時々思うのだが、主の杯を飲み、主のバプテスマを受けることができるとしたら、その苦さを味わうだけの価値はあるのではなかろうか。私たちがあの血の汗を流し尽くすほどまでゲツセマネの苦しみを経ることはありえないが、それでも私たちは、自分なりのゲツセマネをくぐり抜けてきた。私たちがカルバリの上で死ぬことはありえないが、私たちは主とともに十字架につけられ、世界は私たちに対して十字架につけられ、私たちも世界に対して十字架につけられてきた[ガラ6:14参照]。私たちはアリマタヤのヨセフの墓に入ることはできないが、それでもキリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちもよみがえって、いのちにあって新しい歩みをするためである[ロマ6:4参照]。そして私は望むのである。主がよみがえり、高き所に上られた以上、確かに私たちのからだは今なお地上にありはしても、私たちは地上のものを思わず、天にあるものを求めているのだと[コロ3:2]。また、主がよみがえらされ、御父の右の座につけられた以上、私たちは次の箇所の意味を知っているものと望みたい。「神は私たちをキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」*[エペ2:4-6]。そして、主がやがて来て王となられる以上、私たちもその事実について何ほどかを知っているものと思いたい。というのも、主によって私たちは、私たちの神のために王国とされ、祭司とされ、主とともに永遠に治めるからである[黙5:10]。飼い葉桶から十字架に至り、十字架から千年期に至るまで、キリスト者の経験の中には、一個のほむべき交わりがあるべきである。私たちはキリストをその無名で小さな状態において知っているに違いない。――私たちの心の中に赤子のキリストがおられるからである。私たちはキリストをその荒野における誘惑において知っているに違いない。――私たち自身もあらゆる点で誘惑されつつあるからである。私たちはキリストをその冒涜や中傷において知っているに違いない。――私たち自身も人からベエルゼブブとも、あらゆるもののかす[Iコリ4:13]とも見なされているからである。私たちはキリストをその受難において、その苦悶において、その死において知っているに違いない。そして、「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」[Iコリ15:57]。私たちはキリストをその勝利において、その高き所に上げられることにおいて、その神の右への着座において、その生ける者と死ねる者を審くための来臨において知るであろう。というのも、私たちも私たちの主イエス・キリストを通して御使いたちを裁くことになるからである[Iコリ6:3]。このような点で私たちは、ごく乏しい程度において、御子イエス・キリストとの交わりを持っているものと私は望んでいる。

 しかし私たちの交わりは、実際的な形をも帯びている。地上におられた際のキリストがいだいていたのと同じ願望と切望が今の私たちの中にもあるのである。おゝ! 私たちは心からキリストと同じこの言葉を発したことがある。「わたしが必ず自分の父の仕事に携わっていることを、ご存じなかったのですか」[ルカ2:49 <英欽定訳>]。そして、自分の願うすべてのわざを行なえなかったときも、自分が用いられるべき道に何か乗り越えがたい障害物があるように思われたときも、それにもかかわらず私たちはこう言ってきた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物、またわたしの飲み物です」*[ヨハ4:34]。そして、《主人》に仕える中で疲れを覚えるどのようなときにも、それでも十分自分を励ますものを覚えているため、主とともにこう言うことができた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」[ヨハ4:32]。「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」[ヨハ2:17]。そして時には、神に仕え、神のために苦しむことさえ思って、こう言ってきた。「わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう」[ルカ12:50]。というのも、私たちはその過越の食事をすることを大いに望んでいたからである[ルカ22:15]。それは、私たちも自分の粗末な働きについて、「完了した」[ヨハ19:30]と言って、自分の霊を永遠の御手に渡せるようになるためである。おゝ! あなたは、あわれなエルサレムを見下ろしてお泣きになったキリストとともに泣いたことが一度もないだろうか。ロンドンの様々な悪徳のために一度も目に涙を浮かべたことがないだろうか。かたくなな心をした魂、ことによると、あなた自身の家族の中にいるそうした人々を思って泣いたことが一度もないだろうか。主のように叫んだことが一度もないだろうか。「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」[マタ23:37]。おゝ! 私は望んでいる。私たちが、自己本位からではなく、自分が本当に感じている思いを越えることなしに、他の人々をその不面目とその堕落から引き出すことをあえぎ求めてきたと。それは、もしも自分をささげることができ、もしも自分の犠牲によって魂が救われるならば、「彼は他人を救ったが、自分は救えない」[マタ27:42]と喜んで言われたいと感じるほどであった。ならば、この点でも私たちはキリストとの交わりを持ってきたのである。

 だがしかし、さらに交わりには、先に述べたように会話が欠かせない。おゝ! あなたがた、エルサレムの娘たちよ。私たちは主と会話を交わしてきたではないだろうか。私たちがソロモン王を迎えに出かけた幸いな日、そのみかしらに、「ご自分の婚礼の日、心の喜びの日のために、母上からかぶらせてもらった冠を」[雅3:11]かぶらせた日のことを告げるがいい。その日、王は私たちをご自分の戦車に乗せてくださった。その床には銀が敷きつめられ、その側面にはエルサレムの娘たちへの愛が縁取られていた。そして私たちは、契約の安全な守りの中で、王者らしい華やかさに包まれて、王の隣に座して進んでいった。王は、その王宮にお入りになると、こう仰せになった。「太った家畜をほふるがいい。しかり。大いに食べ、大いに飲むがいい。愛する者よ!」 それで私たちは、王の甘い葡萄酒を心ゆくまで飲み、王が愛する者のために蓄えておられた甘美な果実を心ゆくまで食べて、このように言うまでとなった。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださる」[雅2:5-6]。兄弟たち。私たちは、喜びあふれるあまり、このからだから抜け出して主に飛びつき、抱きしめたことがあった。少なくとも、そのように自分では思ったことがあった。それも、この世には何の慰めも見いだせなかったとき、将来の見込みが全く立ち枯れてしまったとき、健康を害していたとき、この世の太陽が消えてしまったときにである。そのとき、すべてのすべてであられる主は御姿を現わし、その御顔の光で私たちを照らしてくださった。

 あなたは、そのような愛が流れ込んでくる経験を多少とも味わってきたものと私は思いたい。そのときあなたは御使いの食物を口にし、自分の経験という頭陀袋の中に入っている干からびたパンや、かぴの生えたパンの皮を忘れ、あなたのほむべき天来の《主人》とともに新しい葡萄酒を飲んだ。あなたは、もはやガラガラ音を立てる戦車で旅するのではなく、あなたの魂は、すみやかに進む高貴な人の車のようになった[雅6:12]。愛する方の後を飛んでいるあなたは、舌では決して告げられず、唇では決して言い表わせない神聖な歓喜の中でわれを忘れていた。しかり。「まことに、私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。

 第二の項目のためにはほんの数分しか残っていないが、それは一回の講和全体を用いて語られて良いだろう内容である。

 II. 第二に、そこには《一個の愛情に満ちた願望があり、しかるべき努力をもたらしていた》。この愛情に満ちた願望は、他の人々も私たちと交わりを持ってほしいという願いである。先に蜜を見つけた私たちは、自分たちだけでそれを食することができない。すでに主がいつくしみ深い方であることを味わっている[Iペテ2:3]ために、新しく生まれた者が最初に感じる本能の1つは、出て行ってこう叫びたいという衝動である。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」[イザ55:1]。私たちは、他の人々が、私たちの罪は別として、あらゆる点で私たちと交わりを持つようになってほしいと願う。というのも、使徒ともにこう言えるからである。「私が神に願うことは、あなたがたがみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです!」*[使26:29参照] しかし、この罪の鎖は、誰も負わないでほしいと思う。兄弟たち。私たちは、私たちの父なる神に対して私たちが得ている平和において、神の御座に近づける特権において、神の約束の真実さに対していだいている信頼において、神から御姿を現わしていただけるとき経験するあふれるような喜びにおいて、あなたが私たちと交わりを持ってほしいと思う! あなたが私たちと同じ希望を持ち、私たちと同じ喜びをもって死と墓を待ち望み、主と同じかたちに変えられ、ありのままの主を目にすることを期待してほしいと思う! あなたが私と同じ信仰を持ち、さらにその信仰を増してほしい。――望んでいる事がらを保証され、目に見えないものを確信させられてほしいと思う![ヘブ11:1] あなたが、力ある祈りにおいて私たちと交わりを持ち、自分の重荷を主にゆだねるとはどういうことか知ってほしいと思う。――《救い主》の功績に訴えることによって、高き所からあらゆる祝福を引き出すとはどういうことか知ってほしいと思う! すべてを一言で表現すれば、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、すべての幸いで、高貴で、神聖で、永遠に続くことにおいて、あなたが私たちの経験にあずかり、私たちとの交わりを持つようになることである!

 そして、この願望によって神の子どもたちはしかるべき努力を用いるように仕向けられる。だが、どのような努力だろうか。自分が見たもの、聞いたものを他の人々に告げることである。さて、私は今朝その手段を用いようと思う。というのも、もしかすると、言葉による例証よりも事実による例証の方が良いかもしれないと思うからである。私は今ここで、御父との交わり、御子イエス・キリストとの交わりを全く持ったことのない多くの人々に話しかけているのではないだろうか。神と話をすることは、あなたにとって何も意味していない。あなたは、キリストに語りかけ、キリストから語りかけていただく経験など夢にも考えたことがない。あゝ! もしもその甘やかさを知っているとしたら、その経験を得るまで決して決して満足しないであろう。決してやむことのない渇きをもって渇き求め、このベツレヘムの門にある井戸の水[IIサム23:15]を飲むまで渇き続けるであろう。よろしい。では魂よ。そうした事がらにおいて、あなたが私たちと交わりを持つようになるために、私が聞いたこと、知ったこと、見たことを告げさせてほしい。というのも、それこそ、この聖句によって語るよう命じられていることだからである。――私はキリストが人を喜んで赦そうとしておられる――そして赦すことのおできになる――お方であることを知ってきたし、見てきた。おゝ! 私は初めてキリストのみもとに行ったときのことを決して忘れまい。咎に重くのしかかられ、罪に黒く染まり、五年間にわたる罪の確信に打ちひしがれ、恐れは絶望となり、疑いは凝り固まってどのような光が刺し貫くものとも思われなかった! 私はキリストのみもとに行き、キリストからはねつけられるものと思っていた。キリストは厳しく、赦しをしぶるお方だと思っていた。しかし、私がキリストを見上げ、一目眺めただけで、――涙に濡れた目で、十字架につけられた《救い主》を一瞥しただけで、その瞬間、あっというまにその重荷は転がり去り、罪責は消え失せ、心の平安が絶望に取って代わり、私は、「われ赦されぬ、われ赦されぬ」と歌うことができた! 私の罪は多かったが、キリストはそのすべてを取り除かれた。その罪の中には、はなはだ悪質なものがあった。それを人間の耳に告げたいとは思わない。だが、それも瞬時に消え去った。どのような功徳のおかげでもなく、無代価で、キリストご自身のあふれるほど豊かなあわれみの恵みにより、主キリスト・イエスのうちにある恵みの富に従って消え失せた。さて、私たちは、自分の見たこと、聞いたことを本当に証言している。それは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためである。というのも、「まことに、私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わり」だからである。今なおキリストは喜んであなたを受け入れようとしておられる。あなたを赦すことがおできになる。罪責にのしかかられ、災厄に満ちているあなたに、この全き赦免をお与えになる! 愚図愚図していてはならない! 「この低地のどこででもためらっていてはならない」[創19:17参照]。重い心をしているからといって、みもとに行くのを遠慮していてはならない! キリストは両腕を広げて立っており、いつでも赦そうと心を開いており、喜んで受け入れようとしておられる。否、走り寄ってくださる。そのお姿が見えるような気がする。あなたがまだ遠くにいるうちに、キリストは走り寄って、あなたを迎え入れてくださる。あなたを抱きかかえ、口づけし、こう仰せになる。「このぼろを脱がせ、一番良い着物を着せなさい。足に靴を履かせ、手に指輪をはめさせなさい。それから食べて祝おうではないか。死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見つかったのだから」[ルカ15:20-24参照]。

 しかし私はさらに証言しよう。魂よ。ひとたびあなたがキリストを信じ、自分の赦免を受けたならば、あなたはキリストが喜んであなたの魂を罪から遠ざけようとしておられることに気づくであろう。かつて私は、たといキリストから赦していただいたとしても、悪い習慣や肉の欲望と手を切るのは不可能だろうと思っていた。また、私の知っている大勢の人々は、かつて口汚い悪態をつく癖があり、自分の口から冒涜的な悪罵をすすぎ落とすことは決してできないと言っていた。この人々は酔いどれでもあり、酒の力には絶対に勝てないだろうと言っていた。だが私たちは見てきたし、証言してきた。人がキリストを信じるとき、キリストは心を変え、性質を新しくし、以前愛していたものを憎ませ、かつて蔑んでいたものを愛するようにしてくださる。私たちはそれを見てきたし、証言する。おゝ、酔いどれの人よ。キリストはあなたを素面にすることがおできになる! 不貞の人よ。キリストはあなたを貞節な人にすることがおできになる! キリストの御腕が抑えることのできない肉欲は1つもなく、キリストが追い出すことのおできにならない大罪は1つもない。キリストは、その戒めの道を、あなたが喜びをもって走れるようにしてくださる。あなたは右にも左にもそれないであろう。

 「ですが」と別の人は言うであろう。「たといキリストがしばらく支えてくれたとしても、私は決して持ちこたえることはできないでしょう」。私は、自分の見たこと、聞いたことを本当にあなたに伝えよう。主の御名はほむべきかな。私は恵みにおいてまだ若い者だが、主は私に対してこれまで真実であられた。その子どもは信じた。そして、いま証言している。神は真実であられ、一度として私をお見捨てになったことも、置き去りにしたこともなく、ここまで私を保ってくださったと。私は今朝、自分の髪の毛が半白であれば良いのにとなかば願っている。そうすれば、この「私の見たこと、聞いたこと」に対するこの証言を力強いものにできるだろうからである。今もよく覚えているが、私がある説教の中で、神は真実な神であられると私が伝えているとき、講壇で後ろに座っていた愛すべき私の老祖父が前に進み出てこう言った。「孫はそう告げることができるが、わしはそれを証言できますぞ。わしはいま七十歳になりますが、今までずっと神は真実であられ、まことであられたのであります」。

   「主の民 老いても 受くるべし
    主権(かしこ)く永久(とわ)なる 主の愛を。
    かしらを白髪(しらが) 飾るとも
    子羊のごと 抱き運ばれん」。

私たちが、あなたに対してそう証言するのは、あなたがたが私たちと交わりを持つためである。というのも、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わり」だからである。

 もう一言だけ言いたいと思う。たとい私が二度と説教することなく、たといこれがこの世で最後に語る講話だったとしても、この一言を最後の証言としたい。キリスト教信仰には、私が夢にも思わなかったほどの喜びがある。私が仕えてきた神は良い《主人》である。そして、私が神から授かったのはほむべき信仰であり、次のように言えるほど祝福された望みを生み出すものである。

   「我れは捨てまじ、わが身の幸(さち)を
    世の富 ほまれを いかに受くとも」。

そして、たとい私が犬のように死ななくてはならず、来世が何もなかったとしても、それでも私は王侯や皇帝になるよりは、キリスト者になることを好み、この世で最も卑しい教役者になることを好むであろう。というのも、私は確信しているからである。キリストのうちにある楽しみは、しかり、キリストの御顔を垣間見るときに味わう喜びは、この淫婦の世に見いだせるあらゆる称賛をも、この世で最も明るく輝かしい日々に与えられるあらゆる楽しみをも、はるかに越えたものであると。やはり私が確認しているのは、最後までキリストが、今まで私に対して接してこられた通りのお方であるだろうということである。そしてキリストは、ご自分が良い働きを始めたところでは、それを行ない続けてくださる。しかり。罪人たち。キリストの十字架は、私たちがそのために死んでも悔いのない希望である。――キリストの十字架によって私たちは、恐れなく墓に下ることができ、ヨルダンの膨れ上がる流れに飲み込まれても害を受けず、肉体的な苦痛や神経性の苦悩にひしがれるときでさえ、楽しみをもって運ばれていくことができる。私は言うが、キリストの中には、薄気味の悪い死が突きつけるどれほど陰惨な恐怖に対しても人を勝利させることができるもの、墓を闇でおしつぶすどれほど暗い嵐の中でも人を喜ばせることができるものがある。主に信頼するがいい。信頼するがいい。というのも、私たちの証言は、また主のすべての民の証言は、主が信頼するに値するお方だと告げているからである。「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を」[詩27:14]。

神との交わり[了]

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