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偉大な至高者

NO. 367

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1856年9月28日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ストランド街、エクセター公会堂


「栄光を私たちの神に帰せよ」。――申32:3


 私たちの神はただひとりの神である。神は、無限のエホバ以外の何者でもあられない。この方は、むかしご自分の民に語りかけ、ご自分を啓示するのに、かの驚異に満ちた、云いしれようのない御名を用いられた。――エホバという御名を! だがしかし、神は唯一の神ではあるが、私たちが聖書の中で教えられるところ、この上もなく栄光に富む3つの位格における唯一の神であられる。私たちは、《神格》の統一性を正しく信じており、その点ではユニテリアン派[一神論者]であるものの、ひとりの神のうちに三位格があると信じており、このようにして三位一体説を信奉する一神論者なのである。私たちは御父が神であると信じ、御父に栄光を帰す。というのも、私たちの信ずるところ、御父は世界を造り、そこに支柱を据え、宇宙を形作り、宇宙空間で星辰を動かしておられるからである。私たちは、果てしない夜の素晴らしい深みを見上げ、星々の船団が無人の海原を航海しつつあるのを見てとっては、神がその船長であられると信ずる。さらに先を見つめ、科学の助けを得て無限の虚空を発見するときには、神がそこに住んでおられると信じ、神こそは世に存在するもの、生きとし生けるものすべての、無限の《創造主》であり保持者であられると信ずる。私たちはこのお方、世界の《創造主》であり《保護者》であられるお方に栄光を帰す。それと等しく私たちは、イエス・キリストを信ずる。かつて人として受肉され、いまもまことの神よりのまことの神であられるお方を信ずる。私たちが考えるところ、私たちの贖いのみわざは、創造のみわざと同じくらい神的なみわざである。私たちの考えるところ、キリストが行なわれた数々の奇蹟は、キリストが神にほかならなかったことを、あり余るほどの証拠によって、ある程度まで示すものである。私たちは、キリストがご自分の力によって、墓からよみがえるのを見る。キリストが神の右の座に着き、私たちのためにとりなしておられるのを見てとる。私たちは喜びをもってキリストの再臨を期待している。そのうえ、最後の審判の日を待ち望んでいる。そのとき、キリストは国々を審く大いなる裁判を行なわれる。こうした理由によって私たちは、この方を信じ、さらにすぐれた契約の保証[ヘブ7:22]なるイエス・キリストに栄光を帰す。また聖霊について私たちは、回心のみわざが、贖いや創造のみわざにすら匹敵する偉大なみわざであると信じて、御霊が永遠の神であられると信ずる。私たちは、聖書の中で語られる御霊が、到底ただの影響力であるとか、《神性》から新たに発散されたものなどとは語れないお方であることを見てとる。むしろ御霊は、御父また御子と同じほどに、まことの神よりのまことの神である位格であられると信ずる。私たちは、聖アタナシオスの信仰信条に厳粛に同意する。すなわち、確かに三人の神がいるのではなく、ただひとりの神がおられるとはいえ、永遠のエホバの統一せる輝かしい《三位一体》には3つの位格がおられ、この方々は宇宙の歓呼と、御使いたちの賛歌と、私たちが栄光を帰して唱和する賛美とを受けるべきである、と。それで、私たちの神は、御父、御子、聖霊として理解されるべきである! 唯一の神を私たちはあがめる。――そして、このモーセの言葉は、ユダヤ人の神と同じように、キリスト者の神にもあてはまる。――「栄光を私たちの神に帰せよ」。

 私はこの聖句を、第一に、1つの警告として用いたい。第二に1つの命令として用いようと思う。そのそれぞれについては手短に語るつもりである。というのも、私の体力が早々と尽きかかっているのを感じているからである。だが私は、神が私たちの心に何らかの印象を及ぼしてくださると信頼したい。

 I. まず最初に、私はこれを《警告》として用いよう。

 私たちの信ずるところ、「栄光を私たちの神に帰せよ」、とモーセが云った以上、それによって彼は、私たちが他の何者にも栄光を帰すべきではないと示唆しているのである。もし栄光が神に帰されるべきだとしたら、神のいかなる被造物であれ、いかに微々たる部分でさえも、栄光というこの重大な属性の栄誉にあずかることがあってはならない。さて、おびただしい数の人々は、この真理に違背し、この警告を必要としている。それゆえ私は、もしそうした者たちのだれかがこの場にいるとしたら、こう警告しなくてはならない。

 まず最初に、自分の救いをこれっぽっちでも司祭たちや教皇、あるいは、いかなる教会の高位聖職者にでもより頼んでいる人は、この偉大な命令――「栄光を私たちの神に帰せよ」――を破っている。もし私が聖人の前に膝まずくとしたら、もし私が被造物を礼拝するとしたら、もし私が神と人との間の《仲保者》として任命された唯一のお方を除くいかなる者のとりなしをも求めるとしたら、私は、その分だけ神の栄光を下落させているのである。ある人々は、そうは考えない。彼らの考えによると、《処女マリヤ》に対して、あるいは、何らかの聖人たちに対して何らかの影響力を用いれば、こうした存在たちを説得し、神に嘆願してもらうことができるのである。否。彼らは、何らかの代理大使を用いることこそ節操あることだと考えているのである。それは、自分のことを、おのれの請願を携えて神のもとに行けるほど価値ある者とは考えないからであり、キリストのことを、彼らに代わって赴くことのできる、すべてを満ち足らす《仲保者》であるとは考えないからである。人がもしこのような告白をするとしたら、私たちは答えよう。彼らがいかに自分としては謙遜なつもりでいようと、いかに自分としては心から正直に神ご自身をたたえていると考えていようと、彼らは、自分たちが神の栄光に敬意を表してはいないことを知ってしかるべきである、と。聖人の方が神よりもあわれみ深いと考えることによって、私は、神のあわれみを下落させるのである。ご自分の御子よりも聖人の方が神に大きな影響力を及ぼせると想像することによって私は、神の心が何らかの手づるを用いない限り私の叫びを受け入れないような不寛容なものだと思っているのである。それは、どう控えめに云っても、神のあわれみの無限性を多少とも侮辱することであり、神の恵みの慈悲深さから決して小さくない部分を取り去ることである。神には《仲保者》がひとりおられる。人間がそれを必要としているからである。キリストはすべてを満ち足らわせる。あなたは、あなたと神との間にひとりの仲介者を必要としているが、あなたとキリストとの間にはひとりも必要ではない。あなたは、ありのままのあなたで、おのれのすべての不潔さと、すべての罪をかかえたまま、キリストのもとに行くことができる。というのも、キリストが来られたのは、今のようなあなたから、あなたを救い、あなたをご自分のための民とし、ご自分への賛美を現わさせるためだからである。ならば、他の者らの前に額ずき、彼らにあなたのためのとりなしを願うことによって、キリストの恵みの栄光を減じさせてはならない。私は、珍無類の小話を1つ覚えている。それは、聖人たちのとりなしという考えがいかに愚かしいものかを如実に示すものである。あなたがたの中には、前にもこの話を聞いたことがある人がいるであろうが、多くの人々は聞いたことがないであろう。それでもう一度それをあなたに告げたいと思う。ある善良な英国人農夫がいた。彼の地主はアイルランドに住んでいた。ところが、ある日突然、土地管理人が彼の地代を途方もなくはねあげたために、このあわれな農夫はどうやりくりしても支払いに窮してしまった。彼の暮らしは、全く立ち行かなくなった。それゆえ彼は、土地管理人に地代を平均的な水準に下げてもらえないかと申し入れた。何度申し入れをしても梨のつぶてだったので、彼は破産寸前に追い込まれた。彼は、自分の地主につてがあると思われる他の人々にも当たってみたが、全く何の甲斐もなく、依然としてしいたげられるままであった。それで彼は、最後の手段としてアイルランドに渡り、自分の農地の貸し主である地主のもとを訪ねた。そして地主の前に案内されると、これまでの事情を説明した。かつて自分は、自分にとっても地主にとっても公正と思われた地代で農地を借りたこと、その上で自分は生活を立ててきたこと、だが、やぶから棒に土地管理人がわけもなく地代を値上げしたこと、それでほとんど破産しそうになったことを説明した。「なあ君」、と地主は云った。「なぜ、もっと早くここに来なかったんだい? 私は、自分のせいで、だれをも破滅させたいとは思っていないよ。地代の方は、君が公正と思う額に下げさせるとも」。「でも」、と男は云った。「おらは、あなた様の土地管理人に話したです。おらは、あなた様のような紳士のところに行って、さしでお話するなんて大それたことはできなかったですよ」。「おゝ」、と地主は云った。「とんでもない。いつだって遠慮なく来ておくれよ」。しかし、その農夫が去る前に、地主は彼を連れて、ある会堂を見せに行った。そこにはありとあらゆる種類の聖画があった。農夫はいささかぎょっとさせられ、これが何を意味しているのかと尋ねた。「なあに」、と地主は云った。「これは司祭や聖人たちなのさ。私は、彼らに私の祈りをささげるのだ。すると、彼らが私の代わりにイエス・キリストにとりなしてくれるという寸法なのさ」。農夫は笑い出した。地主はなぜ笑うのかと尋ねた。男は云った。「おら、こりゃあたいそうな商売の種になるなと思ったです。これは、おらがしたことと瓜二つじゃねえですか。おらは、あなた様の土地管理人のとこに行き、あなた様のご友人がたのとこに行きましたが、あなた様のところに来るまで、にっちもさっちも行きませんでした。それと同じく、あなた様は、こうした、あなた様が聖人だと仰るご立派なご婦人がた、紳士がたのところをお訪ねになるんでしょう。ですが、あなた様は絶対に、この方々からは大したもんを受け取れねえと思いますだ。主ご自身のところに行って、あなた様の願い事をじかにお知らせしなきゃなんねえです。そうしさえすりゃあ、あなた様も、うまくやってのける見込みがしこたまありますだ」。これは、無類に英国的な例証のしかたであるが、神にとりなすために聖人たちのもとに行くという考えを私が屑籠に叩き込むには、これで十分であった。聖人たちを礼拝するとか、自分の救いを人間の手にまかせるとかいう事実は、――また、どこかのだれかが、私のもろもろの罪を赦すことができるなどと考えることは、――私の魂にとって、憎んでも余りある憎悪すべきことであり、いかにおぞましく思っても余りある嫌悪すべきことである。私たちは、「栄光を私たちの神に帰」すべきである。――神に、神だけに、帰すべきである。

 しかしながら、おそらくこの件について私がここまで述べてきたことには、あなたがた全員が同意するであろうし、この矢はあなたがたではない人々の胸に突き立つものであろう。それゆえ、こう指摘させてほしい。プロテスタント諸国には、今なお、非常に強い聖職者崇拝の傾向がある、と。私たちは聖像に額ずいたり、礼拝したりすることはないし、自分の魂を司祭の手にゆだねると公言することもないが、それでも――こう云うのは残念なことだが――ほとんどの会衆は、自分たちの教役者に栄光を帰すという過ちから免れていない。もし魂が回心すると、いかに私たちは、その人の手柄には驚異的なものがあるという考えに飛びつきがちなことか。また、もし聖徒たちが養われ、脂肪と髄に満ち足らされると[詩63:5]、いかに私たちは、この説教者には、こうした素晴らしいことを行なえるものがつきまとっているのだと思いみなしがちなことか。そして、もし葡萄畑の一部にでも信仰復興が起こると、教派を問わず、人々の心は、その栄光と賛美の一部をただの人間的な代行者にあっさり帰してしまいがちなのである。おゝ、愛する方々。確かに正しいものの見方をしている教役者はだれでもこうした考え方を軽蔑するに違いないと思う。私たちは、キリストに代わってあなたがたに仕えるしもべでしかない。私たちはあなたに、神の助けによって、私たちが神の真理と信ずることを語っている。だが、私たちにはいかなる栄誉も、いかなる栄光も帰してはならない。ひとりでも魂が救われるとしたら、それは最初から最後まで神のみわざである。もしあなたの魂が養われるとしたら、《主人》に感謝するがいい。しもべには、それなりに敬意を払い、謝意を表わすべきだが、何にもまして、ご自身のしもべたちの口にみことばを置いてくださるお方、またそれをあなたの心に適用してくださるお方に感謝するがいい。「おゝ、聖職者崇拝などぶっ倒せ!」 私自身でさえ、ぶっ倒されなくてはならない。「ぶっ倒せ!」 私は叫ぶ。たとい私自身がサムソンのように大屋根の下敷きになろうとも、自分から倒れて、ぺしゃんこになるであろう。それで、かのサタンの巨大神殿を引き倒す、あるいはその煉瓦を一個でも取り除くことに貢献できるとしたら十分満足である。用心するがいい。愛する方々。あなたがいかなる人にも、その人の主君にこそ帰すべき栄誉を帰さないように。「栄光を私たちの神に帰せよ」。

 また、自由を重んずるわが国には、国王や権力者に栄光を帰したがる傾向もまた見られる。私たちは、ほとんどが民主主義者であると公言している。私たちは、普通は、寄り集まれば民主的な話し方をしている。だが、結局のところ、骨の髄まで民主的だという英国人は大していない。どこかの殿様とすれ違ったりすると、いかに私たちは彼を、高みから降りてきたどこかの御使いででもあるかのように見上げることか。いかに私たちは、称号を帯びている人の意見に唯々諾々と従うことか。そして、彼が何と言明しようと、私たちは真実を彼に告げる正直さをほとんど有していない。なぜなら、彼の名には、「公爵」だの「卿」だのがくっついているからである。左様。愛する方々。世の中で私たちは、めったに人を人格で判断することがない。私たちは人を身分によって判断する。貧しく正直な人が町通りを歩いている。――あなたがたはその人を見に群がるだろうか? 偽りの誓いを立てるような人が王冠を戴いている。――すると、あなたがたはその人のもとに押し寄せては拍手喝采するではないだろうか? あなたがたは身分によって判断しているのであって、人格によって判断してはいない。願わくは、私たちがみな、いかに人を判断すべきかわきまえることができるように。私たちの目に見えるところによってではなく、私たちの耳によって聞くところによってではなく、人の人格の正しさによって判断できるように。おゝ、女王を敬うがいい。神はそのみことばの中でそう云っておられる。権威にはしかるべき敬意を払うがいい。だが、もし少しでも彼らが道に外れるとしたら、あなたの膝は神に――神だけに――かがめられなくてはならないことを思い出すがいい。もし少しでも間違ったことがあるとしたら、たといそこに王君の名前がついていようと、神こそがあなたの《主人》であり、あなたの《王》であり、「王の王、主の主」[Iテモ6:15]であられることを思い出すがいい。皇帝や王侯に栄光を帰してはならない。――「栄光を私たちの神に帰せよ」。そして、神だけに帰せよ。

 主人たちに雇われている者たちの場合、自らの主人をしかるべく敬うのは当然であり、正しいことである。だが、その主人が間違ったことを命ずる場合、あなたには厳粛に警告させてほしい。あなたがなすべきでないものまで主人に与えてはならない。あなたの主人が、安息日を破らなくてはならない、とあなたに命ずる。するとあなたは、彼があなたの《主人》だからというのでそうする。だがあなたがたは、この命令を破ったのである。「栄光を私たちの神に帰せよ」、と書かれているからである。あなたは、自分の勤め先で過ちを犯したい気持ちにかられる。自分は、そうするように命令されているのだ。あなたは気持ちがぐらつく。一瞬ためらう。自分は神に従うべきだろうか、人に従うべきだろうか? ついに、あなたは云う。「私の主人がそう云ったのだ。私は主人に従わなくてはならない。さもないと勤め先を失うだろう」。だが覚えておくがいい。そのように云うとき、あなたは神に栄光を帰さなかったのである。むしろこう云うがいい。――「すべての正しいことにおいて、私はみなのしもべとなります。だが誤ったことにおいては、私は屈しません。私は神の権利と、神の命令のために固く立ちます。人は、正直で正しいことをするよう命ずるときには、私の主人となってもかまいません。だが、もし少しでもそこからそれるとしたら、私は、天の《主人》の命令を破りません。神は彼らにまして私の《主人》なのです。――私は神のもとに堅く立ち、揺るぎません」。いかに多くの若い青年たちが、彼らに影響力を振るう人々によって正道からそれるよう誘惑されていることか! いかに多くの若い婦人たちが、彼女に影響力を及ぼすだれかから与えられた何らかの命令によって清廉な道からそらされてきたことか。用心して、だれにもあなたの良心を支配させないようにするがいい。あなたには、最後の審判の日に何の云い訳もないことを覚えておくがいい。人から間違ったことをするように命令されたからといって、あなたの咎は決して軽くならない。神はあなたにこう答えるであろう。――「わたしは、わたしに、そしてわたしだけに栄光を帰すようあなたに告げた。そして、あなたが神に従うよりも人に従った以上、あなたは私の命令を破ったのだ」。「栄光を私たちの神に帰せよ」。この警告を受け取り、それを信じ、それをあなたの日常生活の中で、また大小を問わずあなたのふるまいの中で受け入れるがいい。

 この聖句は、いくつかの哲学的な信条にも関係している。この件について、ここでは軽く示唆するだけにとどめておこう。一部の人々は、神に栄光を帰す代わりに、自然法則に、また宇宙を統治していると彼らが信ずるところの何らかの力や影響力に栄光を帰している。彼らは高みを見上げる。彼らの目は、神秘的に天空を歩む驚異に満ちた天体を見てとる。彼らは望遠鏡を取り上げては、遠方をのぞき込み、さらに大きな驚異に満ちた天体を見てとる。そのいくつかは火でできており、他のものは彼らにも理解できない構造体である。そこで彼らは云う。「何と途轍もない法則が、宇宙を統治していることだろう!」 そしてあなたがたは、彼らの著述の中で、彼らがすべてを法則に帰し、何1つ神に帰していないことを見てとるであろう。さて、こうしたすべては間違ったことである。神を抜きにした法則は無である。神が法則に力を与えているのであり、たとい神が物質宇宙の統治においては法則に沿って活動しておられるとしても、諸世界を動かし、それらをしかるべき場所に保っているのは神の力なのである。神なき法則は無効である。神に栄光を帰さないいかなる哲学も拒絶するがいい。というのも、その根っこには虫が巣くっており、その心臓は癌を病んでおり、それはやがて破滅するからである。「栄光を私たちの神に」帰すものが、それだけが、立ち続けるのである。

 II. ここまでは警告である。さて、《命令》に移ろう。「栄光を私たちの神に帰せよ」。

 この命令は、罪人が初めて神の前における自分の立場について真剣に考察し始めるときにやって来る。愛する方々。あなたは決して天国についても地獄についても、この瞬間まで考えたことがなかった。あるとしても、あなたにとって不快な、何の気なしの思いのでしかなかった。あなたは今、神の家にいて、ひょっとすると、あなた自身の立場を考える気持ちになっているかもしれない。覚えておくがいい。あなたは、2つの広漠たる海に挟まれた、狭き地峡に立っているのである。――

   「ほんの数刻、一瞬の間にて
    汝れは彼方の 天に入るか、
    地獄の中に 閉ざされん」。

私はあなたが、「どうすれば私は救われるのだろうか?」、と自問しているものと希望する。そこで私は切に願う。ぜひとも、この問いの初めから、これをあなたの導きとするがいい。――「栄光を私たちの神に帰せよ」。このことで私が意味しているのは、あなたが自分のもろもろの罪を見るときには、神の正しさに栄光を帰せよ、ということである。ある人々のように、次のようなことを云ってはならない。「確かに私は神に背いてきた。だが、それでも、十中八九、神は私を罰さないであろう」。神の正義を柳のようなものだと思ってはならない。満足させられなくとも簡単に曲げられ、人を正当化するようなもの、また、罪を贖うことなしに赦せるようなものだと考えてはならない。このことを、疑う余地ない真理として覚えておくがいい。私たちの神は、その正義において非常な栄光に富んでおられる。神の聖なることばによって厳粛に保証するが、神は正しくあられ、イエス・キリストによって咎を拭われない限り、いかなる咎人をも無罪放免にすることはない。もしあなたがほんの1つでも罪を犯したことがあるとしたら、神はそのためにあなたを罰するであろう。もしあなたがほんの一時間でも罪を犯したことがあるとしたら、あなたがいかに悔い改め、いかに善行を積もうとも、イエス・キリストの血がその罪を取り除かない限り、その一時間によってあなたの魂は断罪を受けるであろう。覚えておくがいい。神は、その不快感を表わしもせずに罪を見過ごすことはなく、あなたの肩かキリストの肩に、その鞭は振り下ろされなくてはならない。というのも、それはどこかに下ろされなくてはならないからである。神はあらゆる罪を懲らしめなくてはならない。神はあらゆる犯罪を罰さなくてはならない。そして、キリストがあなたに代わって苦しんだのだとあなたが確信しない限り――彼が非常に偉大なお方であることを覚えておくがいい。――、神の御怒りのすべてが――神の怒りの雨のあらゆる滴が――あなたのあわれなで無防備な頭上に降り注ぎ、神の恐ろしい呪いの一言一言があなたの内なる腹わたに深々と沈み込まざるをえないのである。神は非常に栄光に富む神であられる。神は、地上にちっぽけな王たちとは似ても似つかない。彼らは罰することもなしに罪を大目に見ることがある。だが神は、峻厳に正しく、あらゆる違反者に対して厳格であられる。神は云われる。「私はあなたの罪ゆえにあなたを罰する」。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」[エゼ18:4]。ならば、救われるということを考え出したときには、このことから始めるがいい。

 これに続いて、すでにこの悲しくも厳粛な思想を確信している罪人に語りかけよう。「栄光を私たちの神に帰せよ」。――すなわち、神のあわれみに栄光を帰せよ、と。愛する方々。あなたは、自分に咎があることを意識している。良心はあなたの魂にその働きを及ぼした。あなたは、もし神が正しくあられるなら、あなたを罰さなくてはならない、と確信している。神があなたの数々の不義に関するその御怒りを表わすこともなしに、それらを大目に見ることはできないと痛感している。ひょっとすると、咎の意識に打たれてあなたは、「私の罪は赦されるには大きすぎる」、と叫ぶかもしれない。やめよ! やめよ! イエス・キリストの血をそれらの上に振りかけるがいい。そうすれば、私のいのちにかけて、私の魂にかけて云うが、それらが大きすぎることはない。あなたの罪を偉大なものと考えるのではなく、あなたの神を偉大なお方とするがいい。覚えておくがいい。もし悔悟者として神のもとに来る際に、あなたが神のあわれみを小さなものだと考えているとしたら、あなたは神を辱めているのである。もしあなたが、本当のところキリストの血にはあなたの最暗黒の罪を洗い流すほどの力はない、と思っているとしたら、あなたは、そうする限りにおいて、栄光に富むキリストの贖罪を辱めているのである。疑いを覚えるときは常に、あなたは神からその誉れを騙し取っているのである。神がこう云われたことを覚えておくがいい。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。来るがいい。あわれな罪人よ。そして、神のあわれみに栄光を帰すがいい。神が両腕を大きく開いておられることを信ずるがいい。神の愛が深いことを、神の恵みが広いことを、神があなたの最も下劣な罪をも取り去り、あなたをあなたの緋のような咎からも洗いきよめることができると信ずるがいい。「栄光を私たちの神に帰せよ」。あなたがた、キリストを欲していながら、どこで探せばよいかわからないでいる、求める魂よ。神の栄光に富むあわれみを確信するがいい。

 さらに、キリスト者に訴えさせてほしい。「栄光を私たちの神に帰せよ」。

 あなたは悩みの中にある。愛する、同労の方々。あなたは自分の旅路の厳しさに倦み疲れている。あなたは、自分の貧しさにとらわれてしまっている。困難がいや増し加わり、重くなるばかりのあなたにとって、まさに今は暗い夜である。あなたには自分のしるしが見えない。あなたは、火をともすべき何の甘やかな約束もない。あなたのあわれな意気消沈した心を元気づけるべき、励ましの言葉は何もない。だが来るがいい。ここにあなたのための聖句がある。――「栄光を私たちの神に帰せよ」。あなたの困難がいかに大きなものであれ、神がそれよりもさらに大きなお方であることを思い出すがいい。たといその闇が非常に深くとも、思い出すがいい。山は夜であれ、昼間と同じくらい堅固に立っている。また、雲が神の御座を取り巻くときも、それは決して御座の基部を揺るがさない。

   「大地(ち)のごと堅く 御約束(みちかい)は立ち、
    主はよく守らん
    御手にぞ汝れが ゆだねしものを、
    かの来たるべき 決着(すえ)の時まで」。

決して、あなたの試練が神にとって大きすぎると考えてはならない。それを主のもとに携えて行き、主に投げかけるがいい。それらすべてについて主に信頼するがいい。主の永遠の両肩は、アトラスのごとく世界の重量にも耐え、いまだかつて決してぐらついたことはなく、今後も決してぐらつきはしない。あなたの困難の一切合切を主の戸口の前に投げ出して来るがいい。――主はあなたを楽にしてくださる。あなたの悲しみの束のすべてを取り、主の足元に投げ出すがいい。主はそれらをみな遠くにやってしまわれる。そして、悪魔があなたを誘惑し、神にはあなたを助けることなどできないと信じさせようとするときには、自分は神をもっとすぐれたお方であると信じている、と云ってやるがいい。《全能者》に栄光を帰し、このお方が自分を、自分のあらゆる悲しみから解き放つに十分なほど偉大であると信ずるがいい。ことによると、まさに今、あなたは祈りに携わっているかもしれない。あなたは何週間も何箇月も、御座のもとで苦悶してきた。あなたはそこでほとんどうまい具合に行かなかった。よろしい。あなたが購いのふたのもとに行くときには、これを携えて行くがいい。「栄光を私たちの神に帰せよ」。私たちがしばしば神からほとんど何も受け取れないのは、私たちが神を小さな神だと考えているからである。時として私たちは、神にごく僅かなことしか願わない。それゆえ僅かしか受け取らないのである。神が偉大なお方であると祈りの中で信じている者、また神が偉大なお方であるかのように神に願う者は、多くのあわれみを神から受け取るに違いない。小さな信仰は小さな答えを受けるが、大きな信仰は神の大きさを信じて、こう云う。

   「いまわれ《王》の 御前に行きて
    大(お)いなる嘆願(ねがい) ささげまつらん。
    そは御恵みと 御力はかく
    すぐる願いを ささげ得ざれば」。

このように、祈りにおいて栄光を神に帰すがいい。あなたは百を願っているだろうか? 千を願うがいい。千を願っただろうか? 万を願うがいい。おゝ! 私は切に願う。決して信仰の出し惜しみをしてはならない。願いの出し惜しみをしてはならない。神は云われた。「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう」[詩81:10]。あのイスラエルの王を思い出すがいい。預言者が彼のもとに来て、弓矢を渡した。そして、「その弓で矢を射なさい」、と云った。それで彼は一度か二度射たが、それでやめてしまった。そこで預言者は云った。「あなたは何度も何度も射るべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、全滅されたことだろう」[II列13:15-19参照]。神もそれと全く同じである。神は、私たちに信仰を与えるとき、私たちの手に弓矢を握らせてくださる。おゝ、一度か二度打つのではなく、何度も何度も打つがいい。そうすれば、あなたはあなたの罪を打って、それを滅ぼすことであろう。祈りの長い弓を取り、できる限り遠くまであなたの矢を放つがいい。小さなことは何1つ願ってはならない。ちっぽけな嘆願をするとき、あなたは神がちっぽけな与え主だと思っているのである。大きく願えば、神は大きく与えてくださる。「栄光を私たちの神に帰せよ」。しかし私は、あなたがきょう、義務に携わっていてほしいと希望する。あなたには《摂理》によって義務が突きつけられている。それからあなたは逃げることができない。あなたはヨナのように、ニネベに行く代わりにタルシシュに行きたい気がしている。というのも、あなたは、自分の力が決して、あなたの受け持ちとして降りかかってきた巨大な労苦には持ちこたえられないだろうと恐れているからである。やめよ! タルシシュへの運賃を払ってはならない。さもないと、暴風があなたを追ってくるであろう。こう信ずるがいい。――

   「汝れ弱くとも、
    御力あらば
    すべてのことを 成し遂げうべし」。

そして、信じつつ前進するがいい。前進するがいい。何があろうとやめてはならない。もし神がアルプスを真っ二つに割るよう私を召されるとしたら、神は私に信仰を与えてくださるはずである。私は神が私にそうする力を与えてくださると信ずる。もし神が、ヨシュアの場合のように、あなたを召して、太陽をその道半ばで止め、その黄金のくつわをつかみ、その駿馬に、その疾走する競争を中断するように命じさせるとしたら、あなたはそれを行なうのに十分な力を得るであろう。「栄光を私たちの神に帰せよ」。もしルターのようにヴァチカンをもものともせず、嵐をもおかして進まなくてはならないとしたら、もし神があなたにその働きを望まれたとしたら、神はあなたにそこで耐え抜く恵みをお与えになるであろう。そして、もしあなたの試練が迫害という試練だとしたら、もしあなたがたが火刑柱へと召されるとしたら、あなたがたは、自分が大胆に行進し、それを抱きしめるかどうか恐れる必要はない。というのも、あなたを死ぬようお召しになるお方は、死ぬための恵みをもあなたに与え、燃える恵みを与えてくださり、あなたがたがぞっとするほどの苦悶と恐ろしい苦痛の最中でも耐え忍べるようにしてくださるからである。「栄光を私たちの神に帰せよ」。しかり。栄光は、被造物の弱さの最中で、いやまして偉大なものとなるのである。

 そして今、しめくくりにあたって、私が今晩あなたの注意を促したい点が1つある。私がどこへ行こうと、ほとんどもれなく聞かされる不満だが、昔の時代は今よりも良かったという。教会は非常に間違った立場にある。これは、いかなる所でもキリスト者たちが口にしている厳粛な確信である。どこでもいいから行ってみるがいい。あなたは、1つの告白、1つの陰鬱な、嘆かわしい呻きを聞くであろう。すなわち、教会は冷たく、いのちがない。死んではいないが、ラオデキヤ的である、と。――そして私の信ずるところ、ラオデキヤは、現在の教会を表わす、どんぴしゃりの象徴である。私たちは熱くもなければ冷たくもない[黙3:15]。そしてキリストは私たちを怒っておられる。熱心はどこにあるだろうか?――ホイットフィールドの熱心は? あゝ、滅び行く罪人たちのために泣いている人々はどこにいるだろうか? 魂のために、あたかもそれがいのちか死で一杯になっているかのように泣いている教役者たちはどこにいるだろうか? いま、バクスターたちはどこにいるだろうか? 講壇の階段を上るときに、自分の立場の非常な厳粛さを感じるあまり膝が震えるという人々、滅び行く罪人たちの運命を知り、彼らを火からつかみ取りたいと切望するがために、頬を涙で光らせているという人々はどこにいるだろうか? いま、あなたのロウランド・ヒルたちはどこにいるだろうか? 一般庶民に達するために、身を低めては庶民の言葉にまで下りてくる人々はどこにいるだろうか? 左様。そして、あなたの中の、祈りに励む男たち、祈りに励む女たちはどこにいるだろうか。彼らは大勢いる。――だが、本気で祈っているかのように一心に祈る人々はどこにいるだろうか? 左様。天は知っている。まさに今、教会は、いてはならない場所にある。しかし、おゝ! キリスト者たち。絶望のうちに座り込んでいてはならない。神が私たちを見放したと思ってはならない。「栄光を私たちの神に帰せよ」。まさに最悪の時期に、神は私たちを再び奮い立たせることがおできになる。アリウスの時代、世界がキリストの神性を信じない方向へ進んでしまったとき、神はアタナシオスを与えてくださった。彼は大胆かつ厳格な言葉遣いで、アリウス派を潰走させ、神の権利を擁護した。世界がペラギウス主義に片寄ってしまったとき、神はアウグスティヌスを見いだされた。彼は恵みの言葉を発しては、かの過誤の罠から世を救い出した。教会がむかつくような迷妄に陥ってしまったとき、ひとりの修道僧が世界を揺るがした。――かのルターが真理を宣言した。そして、種々の教理が純粋さを必要としていたとき、かのカルヴァンが沸き立つ噴火口に塩を投げ入れ、それを静めては澄みわたらせ、いかに身分の低い者にでも見てとれるようにした。そして、後代になって、英国国教会が、また英国にある諸教会が、非常に低く沈みこんだとき、すべての人は、神がご自分の教会を見放されたのだと云った。だがオックスフォード大学に六人の若者たちがいた。彼らがいかにしてそこへ来たのか、またいかにして回心したのかは神だけがご存じである。この六人――ウェスレーとホイットフィールドがその中にいた――が、世界をその暗く長いまどろみから再び目覚めさせた。そして、私たちがまたもや堕落したとき、神はホイットフィールドの後継者たちを見いだされた。――ロメーンたち、トップレディたち、ジョン・ニュートンたち、ロウランド・ヒルたち――クリスマス・エヴァンズのごとき人々、ジョン・ベリッジのごとき人々である。こうした人々が出てきては、主の軍旗を掲げ、主の真理を支えた。そして今、よく聞くがいい。神はどこかにその人を得ておられる。左様。どこかにその人々を得ておられる。やがて彼らは現われるであろう。この時代には、いつか大きな動揺があるであろう。人々は、これから教会をもう一度動かしにやって来るであろう。私たちは永遠に眠ってはいない。永遠にじっと横たわったままにはならない。私はそう信ずる。この国中に信仰復興が起こるであろう。私たちの父祖たちが見たこともないような信仰復興があるであろう。来たるべき時代には天がそれを与え、その召しを聞き、雨を送るであろう。地が義の花を咲かせ、天が露をしたたらせるであろう。その時のために私たちは心から祈る。その時を私たちは熱心に待つ。「栄光を私たちの神に帰せよ」。

 私たち自身の教会と信徒のために、ほんの一言を語って、さらばと云おう。愛する方々。私たちは、私でさえ、自分たちの力が全く足りないのではないかと恐れるような、1つの事業に携わろうとしている。しばしば私は夜、寝床の中で休むことができず、寝返りを繰り返しながら、この信徒たち全員はどうなるのだろうかと悶々とすることがあった。私の教会にどのような建物を与えればよいのか。私の会衆をどこに集めるべきだろうか。そして、ほんの昨夜も私は、不信仰にも、そんな場所を建てることは決してできない、と考えた。しかし、あゝ! 常に「栄光を私たちの神に帰せよ」。大きな事がらを試みようではないか。そのとき私たちは、大事をなせるであろう。それをやってみよう。神が私たちとともにおられるならば、私たちはこれからそれを行なえるであろう。もし私が、派手派手しい美辞麗句で説教したいと思っていたとしたら、そうしたことも、とっくにできていたかもしれない。だが私は、普通の人が語るようなしかたでしか語りたくないと思っていた。私はしばしば礼儀正しさからすると、衝撃的な話し方をする。これからもそうするであろう。私はしばしば、他の人々が非難するようなことを行なう。これからも、神の御助けがある限りは、それよりひどいことをするであろう。もし私がそうすることで魂を獲得できさえするとしたら、私はいかなる意見にもひるむつもりはない。もしも天国の世継ぎたちが地獄からひったくられるとしたら、私は、この世のいかなる手段によってであれ、そうしたことを喜ぶであろう。よろしい。ならば、たとい私の回りには今後も貧しい人たちしかいないとしても、私は神に信頼し、神の貧者たちに信頼し、神の教会に信頼するであろう。そして、それらがこれから、神の御名があがめられるようになる、1つの幕屋(タバナクル)を建てるのだと信じよう。このことを心に銘記するがいい。そして、もしあなたがこれは神のわざであると考えるとしたら、信仰と活力によってこれに取りかかるがいい。「栄光を私たちの神に帰せよ」。おゝ! あなたがた、私の神を憎む者たち。おゝ、あなたがた、神を蔑む者たち。来たるべき日には――それは、明日かもしれない。――あなたがたも私の神に栄光を帰すであろう。というのも、あなたがたは、神の偉大な足があなたの腰を押さえつけるのを感じ、神の偉大な剣があなたを真っ二つに切り裂くのを感じるであろうからである。神の偉大な御怒りは完全にあなたを滅ぼし、神の偉大な地獄は永遠にあなたの陰惨な家となるであろう。願わくは神が、そうならないようにし、私たちすべてを救ってくださるように。イエスのゆえに。アーメン。

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偉大な至高者[了]

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