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殺された罪

NO. 337

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1860年7月29日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「ちょうどその時、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て、言った。『さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう。』彼がヤエルのところに来ると、そこに、シセラは倒れて死んでおり、そのこめかみには鉄のくいが刺さっていた」。――士4:22


 たとい種々の異なる暴君の下で世界が嘗めた苦しみをことごとく物語に書き記すことができたとしても、それを読み切れるような人間はいないであろう。私が言及するような残虐行為を犯してきた専制君主たち自身でさえ、自らの犠牲者たちが耐え忍んできた苦悶の記述をじっくり腰を据えて読めるほど冷酷ではないと思う。私は多くの土地を通り抜ける中で圧倒されてきた。古の時代の貧者たちは、彼らを虐げる富裕な王や貴族たちによって、いかに身の毛もよだつような苦しみを受けてきたことか。ほとんどいかなる町に入っても、拷問台か、暗い地下牢か、親指締め具か、口にするには恐ろしすぎる非道な機械や器具が示されるのである。――そうしたものを考えたり見たりするだけで血も凍る思いになる。まことに、おゝ、大地よ。お前は傷跡を残されてきた。お前の背中には深い畔が数多く刻みこまれてきた。お前の血管からはおびただしい量の血がどくどくと迸り出てきた。そしてお前の息子たち、お前の娘たちは極度の苦悶を耐え忍ばなくてはならなかった! しかし、おゝ! 私の兄弟たち。私は、全く真剣にこう宣言するものである。人間に負わされてきたいかなる苦悶も決して比肩できないほどひどいものは、人間が自ら身に受けることになった暴虐――罪の暴虐である、と。罪がこの大地にもたらしてきた数々の疫病は、地上のあらゆる暴君を合わせたものよりも多い。それが人々の肉体と魂にもたらしてきた苦痛と悲惨のはなはだしさは、いかに冷酷で極悪非道な拷問人の精緻な発明よりも大きい。罪は世界の大《専制君主》である。この蛇こそは、地の住民に巧妙に巻きついては、めりめりと折り砕いているものにほかならない。それは、神によって救い出される人々のほか誰も脱出できないような暴虐である。否。そうした人々でさえ、ぎりぎりで救われるような暴虐である。そして、そうした人々が救われたときには、後ろを振り返り、かつての自分たちを押さえつけていたすさまじい奴隷状態を思い出さざるをえなかった。その苦よもぎと苦味[哀3:19]を思い出した。そして、それを思い出しては、魂に大きな苦悶を感じてきた。この章で私たちが前にしているのは、イスラエル人がひとりの非常に邪悪で強大な王――カナンの王ヤビン――によって攻められている姿である。それが、ぼんやりと表象しているのは、また、きわめておぼろげな形で描いているのは、罪が全人類に対して行使している抑圧の光景である。――私たち自身のもろもろの不義が絶え間なく私たちにもたらしている抑圧の姿である。

 私が今晩できるものならあなたに対して描き出したいのは、1つの偉大な歴史における3つの幕――私たちの主題を例示している3つの異なる絵画――である。私たちは、――私たちの中の多くの者らは、――こうした3つすべてを経験していると思いたい。そして、私がそれらを壁に描き出している間に、それらを眺めながら、この場にいる多くの人々はこう云えるだろうと思う。「私も、かつてはこの状態にあった」、と。そして最後の絵に至るとき、望むらくは私たちは、自分の手を打ち鳴らし、こう感じて喜びたいと思う。最後のものもまた自分たちの場合であり、自分たちは、私がしめくくりに描写するような人と同じ苦境にある、と。

 私が第一にあなたに向かって描き出したいのは、罪人が自分の奴隷状態の中で落ち着かなくなり、自分の抑圧者たちに対する反乱について考え出している姿である。第二に、罪人が自分のもろもろの罪を背走させ、その絶滅を求めている姿である。そして第三にあなたの前に持ち出したいのは、開かれた扉が描かれた注目すべき絵画であり、私はそこに立って、叫ぶであろう。自分のもろもろの罪のいのちを求めている人々に対して、――「さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう。そこに倒れています。――死んでいます。それを殺した鎚とくいを握っていたのは、女の手ではありません。女の子孫の手――人なるキリスト・イエスの御手なのです」。

 I. まず第一に描き出したいと思うのは、《自分のもろもろの罪というくびきの下で落ち着かなくなり、自分を抑圧するものに対する反乱を計画しつつある罪人》の姿である。

 人は、奴隷に生まれつくときには、かつて自由だった者が奴隷になった場合ほど飽き飽きするものではないと云われる。ことによると、私たちが飼っている鳥や動物たちの場合にも、同じことが見いだせるかもしれない。もしそれらが一度も空中をあちこち飛び回ったり、木々を渡り歩りたりすることを知らなかったとしたら、それはらは籠の中で幸せにしている。だがもし、いったん世の中を見てとり、清浄な空気の中に浮かんだ後で、終身奴隷となる罰を受けると、その満足ははるかに少なくないであろう。これが人間の場合である。――人は奴隷として生まれる。揺りかごの中の子どもは罪の下に生まれており、長ずるにつれて手に枷がはめられるが、それを帯びていることがほとんど分からない。習慣は第二の天性という。そして確かに、私たちの受け継いだ悪しき性質によって、罪のふるまいは、本来そうあるよりも奴隷的ではなかのように思わされるに違いない。否。ある人々は自分たちの束縛に慣れきっているあまり、真の自由について何も考えることなしに生きていながら、自分は自由だと考えている。否。彼らは自由の名を手に取っては、自らを自由人とも、自由思想家とも、自由行為者とも自称する。だがその間、彼らはサタンの奴隷であって、聞く耳さえあれば自分の鎖がガチヤガチャいう音が聞こえるはずなのである。神の御霊が心の中においでになるまでは、――天性の不可思議さよ、――私たちは自分の鎖に繋がれたまま満足して生きている。私たちは自分の地下牢の中を行き来しては、自分が囚われの身などではないと考える。私たちは、自分の奴隷監督から追い立てられているのに、自由だと想像している。だが、ひとたび神の御霊が私たちの中にお入りになり、――ひとたびいのちのと自由の言葉が私たちの耳の中で響き、――ひとたびエホバなるイエスがお語りになるや、私たちは自分たちの状態に満足できなくなる。今や鎖は私たちを苛立たせ、今や枷は小さすぎるように感じられる。今や私たちは以前よりも広く歩くことを切望しており、いつまでも罪深い情欲に拘束されていることに我慢がならなくなる。私たちは、より良い何かを切望し始める。それが何かは分からないが関係ない。今やその人は、かつてはあれほど卓越してすぐれたものと考えたものに、欠点を見つけ始める。以前は蜜で満たされていたように思われた杯が、今や、苦味の痕跡を有していることに気づく。かつてはあれほど甘美で口に合っていたものは、その風味の良さを失ってしまっており、その人は自分に向かってこう云う。「あゝ、この豚の食べる豆かすよりも立派な食事をしたいものだ。これは、私にふさわしい食事ではない」。その人は自分の内側に新しいいのち、また、天来の性質を神がともし始めていることを知らない。だが、このことだけは分かる。自分が、かつてのようには満足できないということである。彼は束縛された獅子が森林や荒野をうろつき回りたがるように苛立ち、檻にからだをこすりつける。彼にはそれが耐えられない。そして今や、私は云うが、その人は行動を始める。彼の最初の行動は、イスラエル人たちの行動である。彼は主に叫び求めることを始める。ことによると、それは、私たちが通常の会話で用いるような意味での祈りではないかもしれない。彼は多くの言葉を寄り合わせることができない。それは吐息である。――何のためか自分でも分からない吐息である。何かを求めての呻きである。――その何かを彼は見たことも感じたこともなく、何とも云い表わしようもないが、それが存在していることは何となく分かるのである。「おゝ、神よ」、と彼は云う。「私を救い出してください! おゝ、神よ。私は、自分がしかるべきあり方をしていないのを感じます。私は、自分がそうありたいと思うあり方をしていません。私は自分に満足していません」。そして、もしこのこの祈りが現実には、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]という形を取らないとしても、それでも、その意味は全く同じである。というのも、彼はこう云っているように思われるからである。「主よ。私はこれが何か分かりません。――これがあわれみか、恵みか、それが何という名前か分かりません。ですが、私は何かを欲しています。私は奴隷です。それを全く感じます。おゝ、自由になれたら何と良いことでしょう! おゝ、解放されたら何と良いことでしょう!」 その人は今や、見ての通り、以前見ていたよりも高いものを探し求めている。この祈りの後に来るのが行動である。「さあ」、とその人は云う。「忙しく活動し始めなくては」。そして、もし神の御霊が真に彼を取り扱っておられるとしたら、彼は祈りでは満足しない。自分にできることはまことに少なくはあっても、少なくとも何かはできると感じ始める。酩酊を彼は捨てる。その敵を一撃でちりの中に打ち倒す。それから彼の呪いや悪態がある。――彼はその敵にも打ち勝とうと努める。だが、彼がまるで予期してもいないときに呪詛が出てくる。ことによると、それによって彼は何週間も葛藤するかもしれないが、とうとうそれも克服される。そらから彼の商売上の習慣が来る。――それらが自分の良心を傷つけていると彼は感じる。ここに、やすりですり落とすべき別の鎖がある。――もぎ取るべき別の鋲がある。彼は精を出し、懸命に努力し、なおも常に神に叫び求め続ける。そして、とうとう彼は自由になる。その敵も打ち負かされる。彼はバラクのようである。主が彼を助けておられる。そして、彼のもろもろの敵は彼の前で逃げて行く。おゝ、私の兄弟たち。私はいま経験から語っている。何という闘争を私の若い心は罪と繰り広げたことか! 聖霊なる神が最初に私を生かしてくださったとき、私は、自分の魂が思い切ってまとえるあの強い武具のことをほとんど知らなかった。私は、自分のもろもろの罪を取り除き、永遠の海に溺れさせた尊い血についてほとんど全く知らなかった。しかし、このことだけは知っていた。私は、それまでの私であり続けることはできない、もっとましもな者にならない限り安心して安んじることはできない、――自分が感じているよりも何かしらきよくならなくてはならない、と。そして、おゝ、いかに私の霊は度重なる呻きをもって神に叫んだことであろう。――これは何の誇張でもない。――口に出すこともできない呻きをもって! そして、おゝ! いかに私は、自分のあわれで暗愚なしかたで、まずこの罪を、それから別の罪を打ち負かそうと求めたことか。そのように、神の力によって、いかに私は、自分を襲撃する敵どもに対する戦闘を行なったことか。そして、神は感謝すべきかな。そこには成功が全くないわけではなかった。確かになおもその戦闘が敗北とならなかったのは、罪の《克服者》であり、ご自分の民の《解放者》であるお方がやって来て、敵軍を逃走させてくださったからではあるが。今晩、この場にいる何人かはまさにそうした立場にいるではないだろうか? 彼らはまだシオンの山に来てはいないが、荒野でアマレク人と戦っている。彼らは注ぎかけの血[ヘブ12:24]に近づいてはいないが、どうにかこうにか――自分がいかなる状態にあるか分かってはいなくとも――ある恐れに対して山を越えて戦っている。それに打ち勝とうとしている。彼らはこの格闘をやめることができない。時には、結局打ち破られるのではないかと恐れる。おゝ、私の兄弟姉妹たち。私は主がそこまであなたのために行なってくださったことを見いだして喜んでいる。私たちが罪に対して戦いを始めるとき、それは、天来のいのちの最初の目印の1つである。

 ならば、兄弟たち。勇気を出すがいい! すぐに別の絵画が描かれることになり、それはあなたの姿でもあるであろう。あなたが、あなたを愛してくださったお方によって、圧倒的な勝利者[ロマ8:37]となる姿である。しかし、たぶんこれはこの場にいるすべての人々の姿ではないだろう。あなたがたの中のある人々は、自分は奴隷ではないと云い、それゆえ、自由にされることを願っていない。しかし、方々。私はあなたに云うが、もし、悪魔があなたに行なわせているようなことを何らかの地上的な権力者があなたに命ずることができたとしたら、あなたは自分のことをこの世で最も抑圧された存在だと思うであろう。もし、あなたが夜に出かけて真夜中まで何時間も過ごさなくてはならない、そして、何らかの、あなたの脳味噌を呆けさせるような、薄汚れた毒物を飲まなくてはならない、そして、あなたが車で運ばれなくてはならないようにすべきであるなどという法律が議会を通過して、それを執行する権力があるとしたら、あなたは云うであろう。「何とひどい暴政だ! そんなふうに、強制的に人々の魂とからだを滅ぼそうとするなど」、と。だがしかし、あなたはそれを自ら故意に行なっている。そして、休息のほむべき一日については、――七日のうち私たちが休まなくてはならない一日については、――もしあなたがその日に自分の店を開き、商売に従事しなくてはならないという条例が可決されたとしたら、あなたは云うであろう。「これは実に不幸な国だ。このような暴君に支配されなくてはならないなんて」、と。あなたは、自分はそのようなことをしないと宣言するであろう。だがしかし、悪魔はあなたをそうさせており、あなたは行って、まるで日曜日に仕事することで自分の天国を獲得できるかのように、貪婪に自分の鎧戸を開くのである。人は何たる奴隷になりながら、自分を自由だと考えていることか! 私の見てきたある人が、自分を病気にし、からだをむしばませるような快楽を――自分の目を血走らせ、自分のからだを熱っぽくさせるものを――追い求めるために働く度合、金銭を費やす度合は、一千もの国会制定法が強いて彼をそうさせた場合をもはるかに越えていた。悪魔は実際、その臣下に対して残虐な暴君である。だが、彼は、彼らが進んで従おうとしている暴君なのである。彼は、彼らの上に自分の鎖を鋲止めし、彼らが自分の自由意志から出かけているのだと考えている間、ずっとにたにた笑っているのである。彼らの笑いが最も苦々しい涙に変わるとき、いかに彼らがあのすさまじい日に迷夢を覚まさせられるかを考えつつ、そうしているのである。その日、地獄の火は彼らの迷妄を焼き尽くし、かの穴の火焔は彼らの目から真実を隠していた暗闇を消散させる。では、ここまでが第一の絵画である。――不満足を感じて、自分のもろもろの罪と戦おうとしている罪人である。

 II. さて今、私たちには第二の絵画がある。――《自分自身のもろもろの罪と戦いに出て来た罪人は、相当の程度まで、神の恵みによって、それらを克服する》。だが、彼はこれがなされたとき、それで十分ではないと感じる。外的な道徳は魂を救わないと感じる。バラクのように、彼はシセラを打ち破る。だが、彼が裸足で逃げ出すのを見るだけでは満足せず、彼の死体を自分の目の前に見ることを欲する。「否」、と彼は云う。「敗北させるだけでは十分ではない。破滅させなくてはならない。種々の悪習慣を取り除くだけでは不十分だ。罪への傾向を克服しなくてはならない。この罪やあの罪を闘争させるだけでは十分ではない。私は腐敗の根を足で踏みにじらなくてはならない。罪そのものが殺されなくてはならない」。注意するがいい。話をお聞きの愛する方々。根本的な働きでないものは、御霊のみわざではない。もしあなたが単に自分のもろもろの罪を征服するだけで、それらを殺さないまま満足しているとしたら、嘘ではない。それはただの道徳の働き――表面的な働き――であって、聖霊のみわざではない。

 方々。あなたの敵どもを追い出すだけで安んじてはならない。さもないと、それらは再びあなたのもとに戻って来るであろう。羊の皮を着るだけで満足してはならない。あなたの狼的な性質が取り去られ、羊の性質を分け与えられるまで安心してはならない。杯や皿の外側をきよめるだけでは足りない。それを割って、新しい器が与えられなくてはならない。墓を白く塗るだけで満足してはならない。納骨室を空にして、死が統治していたところで、いのちが統治しなくてはならない。この危険な時代に、他のいかなる間違いよりもよく見受けられるのは、外的な事がらを内的な事がらと取り違え、外側のしるしを内側の恵みと取り違え、道徳という彩色した模造品を霊性の堅固な宝石類と取り違えることである。立て、バラクよ! 立て、アビノアムの子よ! あなたは、自分の酩酊というシセラを敗走させた。自分のもろもろの罪という軍勢を総崩れにさせた。だが、それで十分ではない。シセラは九百両の戦車を二倍にして、あなたのもとに舞い戻るであろう。そしてあなたは打ち負かされることになるであろう。満足して安んずるのは、あなたの敵の血が地面を汚してからにするがいい。彼が粉砕され、死んで、殺されてからにするがいい。おゝ、罪人よ。私は切に願う。恵みがあなたの心の中で統治するまで、また、罪が全く鎮圧されるまで、決して満足してはならない。実際、これこそ更新されたあらゆる魂が切望すること、切望せずにはいられないことである。このすべてが成し遂げられない限り、満足して安んじようとしないことである。私たちの中のある者らは、いったんは自分のもろもろの罪を殺したいと考えたことがある。私たちは、それらを死に至らせたいと思ったし、それらを悔悟の大水の下に溺れさせようと思った。また、あるときには、自分のもろもろの罪を飢えさせようと思った。誘惑から遠ざかっていよう、そして、自分のもろもろの情欲に迎合したりしないようにしよう、そうすれば、それらは死ぬだろうと思った。また、私たちの中のある者らも思い出すことができるであろう。私たちが自分のもろもろの情欲に猿ぐつわを噛ませたときのこと、また、それらの両腕を縛り上げ、両足を晒し台の足枷に挟み、それで自分は解放されるだろうと考えたときのことを。しかし、おゝ、兄弟たち。私たちの行なう罪の殺し方はみな十分ではなかった。私たちはこの怪物がまだ生きていて、自分のえじきを求めて飽くことを知らずにいることに気づいた。私たちは彼の手下どもを敗走させたかもしれない。だが、この怪物は今なお私たちの征服者なのである。私たちは、自分の種々の習慣を潰走させたかもしれない。だが、罪の性質はなおも私たちの中にあり、私たちはそれを克服できなかった。なおも私たちは日ごとに呻き叫んだ。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか?」[ロマ7:21] これは、私たちが今日に至るまでも耳に馴染んでいる叫びである。そして、今後私たちがこの叫びを口にしなくなるのは、私たちが自分のもろもろの罪について、「それらはなくなった」、と云えるようになるときしかない。罪の性質そのものについて、絶滅したと云えるようになるときしかない。自分が、最初のアダムが彼の《造り主》の御手から出てきたときと全く同じくらいきよく聖なる者となったと云えるときしかない。

 よろしい。疑いもなく、この場にいる一部の人々は、バラクのようにシセラを追跡しているが、気が挫けているはずである。あなたは云っている。「私の罪は決して赦されるはずがない。それはあまりにも大きすぎる。私の手を逃れるに違いない。そして、たといそれが敗走させられたとしても、決して打ち負かされないだろう。私のような大罪人は、常に変わらず札付きの罪人で、極悪の罪人であり続けるに違いない。私は罪の中に生まれ、罪の中で育ってきた。三つ子の魂百までだ。私のように曲がりくねった樫の木を、誰が真っ直ぐにできようか? クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができようか? もしできたら、悪に慣れた私でも、善を行なうことができるだろう[エレ13:23]」。あなたは、川が山を上ることでもない限り、自分が神のもとに走り行き、義とされることなどありえないと考え始める。あなたは戦いに疲れており、今にも武器を投げ出して死のうとしている。しかし、そうはできない。あなたは後戻りして、かつてのあなたのような酔いどれや、悪態つきになることがあってはならない。そして、内なる罪を克服することについて絶望しながら死んではならない。また、こう考えてはならない。「おゝ、私が乗り出した戦いは私の手に終えない。私はいずれ敵の手にかかって斃れるだろう」、と。

 III. ここへ来るがいい。私はあなたを第三の絵画へと連れて行こう。私はきょう、1つの《戸口》の所に立っているが、それは天幕の口ではなく、1つの《墓》の口である。そして、ここに立ちながら私は、罪人に云いたいと思う。自分のもろもろの罪がいかにすれば殺せるのか切に知りたがっている罪人に対して、その人の腐敗が殺されるしかたを告げたいと思う。「さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう。そして、あなたが中に入ったなら、《あなたは見ることでしょう。あなたのもろもろの罪が死んで横たわり、そのこめかみにくいが突き刺さっている姿を》」。

 罪人よ。あなたが恐れおののいていた罪は赦されている。あなたは泣いてきた。神の御前で激しく泣き、自分をキリストに、キリストだけに投げ出してきた。《永遠の神》なるお方の御名によって私はあなたに保証する。あなたの罪はみな赦されている、と。神の記憶の書[マラ3:16]から、それらは拭い去られた。それらは、昨年の空をゆっくりと流れて行っては、地上にその俄雨をしたたらせてきた雲のように、きれいさっぱりなくなっている。あなたのもろもろの罪はなくなっている。1つ残らずなくなっている。あなたが泣いてきた罪、あなたに多くの涙をしぼらせてきた罪はなくなっており、赦されている。

 さらに、――あなたは、自分の罪が今どこにあるか尋ねるだろうか? 私はあなたの罪がなくなっており、二度と思い起こされないとあなたに告げる。このくいは、あなたの罪の手に打ち込まれているのではなく、そのこめかみに打ち込まれているのである。たといあなたが二千年も生きるとしても、もしあなたがキリスト・イエスを信じているとしたら、いかなる罪も再びあなたの責めに帰されることはありえないであろう。あなたには、罪を疚しく思うことは全く残っていない。「東が西から遠く離れているように」[詩103:12]、神はあなたのそむきの罪をあなたから遠く離される。神は語り、こう云われた。――「しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」[マタ9:2]。そして、それはなされた。誰もこの判決を取り消すことはできない。神はあなたのもろもろの罪を海の深みに投げ込み、それらは決して二度と見いだされることがありえない。否。罪人よ。さらにあなたの平安と慰めを深めることとして、あなたのもろもろの罪は単に赦されて、二度とよみがえらないほど殺されたというだけでなく、なくなってしまっているのである。それらの死骸は、モーセのからだのように、決して見つからない所へ連れ去られてしまっている。それ以上に、それは存在しなくなっている。また、おゝ、神の子どもよ。実に罪の影すらも残ってはいない。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」[ロマ8:33]。――いわんや、その訴えを誰が証明できようか。いかなる《癒し主》がその舌をしきりに動かしては、非難できようか?――いわんや、いかなる証人が立ち上がって罪に定めようとするだろうか? 神があなたを義と認めてくださったのである。おゝ、罪人よ! もしあなたが信ずるならば、また、もしあなたがそのように義と認められているならば、あなたは、これまで一度も罪を犯したことがないのと同じくらい神の御前で受け入れられているのである。たといあなたの生涯に非の打ち所がなく、あなたの人生行路が完璧なまで聖なるものであったとしても、あなたの信仰がキリストの十字架に据えられているとしたら、あなたが《天来の》正義の目において今晩のあなた以上にきよらかな者となることはない。あなたの一切の罪の脳味噌を貫いて、この鎚はキリストの恵みというくいを打ち込んだのである。《救い主》の心臓を刺し貫いたあの槍は、あなたの不義の心臓を刺し貫いた。主が埋葬された墓は、あなたの一切の罪の墓場であった。そして、主の復活は、光と、言葉に尽くせない喜びとへの、あなたの霊の復活であった。「さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう」。これは、すでに遠い昔にそれを見たことのある神の子どもにとってさえ、清新にさせられる光景である。また、罪について熟考することは、私たちにとって常に厳粛なことであろう。それは常に恐ろしい壮観であるに違いない。というのも敵は、死んでいる時でさえ、ぞっとするような姿をしているからである。ゴリヤテの首は、切り落とされているとき私たちを微笑ませはするものの、やはりまだ、気味の悪い怪物の頭部であり、彼は殺されているときでさえ一個の怪物である。私たちが罪を喜びとするようなことは決してあってはならない。だが、キリスト者にとって、喜びの主題となるのは、自分のもろもろの罪がイエスの血に溺れている姿が見えるときである。

   「果てなき海に 投げ込まれ
    茫漠(つきざ)る淵に 失なわる」。

私の魂は、私の若い日々を振り返り、自らの以前のそむきの罪を思い出す。――悲しみの涙を一滴こぼす。だが、魂は十字架を仰ぎ見て、そうした罪がみな赦されているのを見ては、感謝の涙をぽろぽろこぼす。私の目は、成人してからの日々を眺めやり、悲しみとともに、無数の作為の罪、不作為の罪に注目する。だが、その目は、この上もなく有頂天な微笑みとともに明るく輝く。砂のような私の罪の上にイエスの血が膨れ上がり、それらを全く覆い尽くして全く見えなくなるのを目にするからである。おゝ! 神の子どもよ。さあ、あなたの捜している人を見るがいい。ここに、あなたの前で彼は殺されて斃れている。さあ、あなたのもろもろの罪が永遠に死んでいるのを見るがいい。それらを恐れてはならない。それらのために泣くがいい。来たるべき日々にはそれらを避けるがいい。また、それらが殺されていることを思い出すがいい。あなたのもろもろの罪を打ち負かされた敵として眺め、常にそれらを主の十字架に釘づけられているものとみなすがいい。――十字架につける、このお方は、

   「凱歌(かちうた)うたえり、よみがえりの日に」。

しかし、私にはあなたがこう云うのが聞こえる。「よろしい。私は、自分の罪がそのようにして打ち負かされたこと、また、その天でそれが征服され、死んだことを信じるだけの信仰は持っています。でずか、おゝ、先生。私の中にあるこの罪のからだについては、――私はそれを殺せません。それを打ち負かせないのです」。さて、私たちが天来のいのちを生き始めるとき、私たちの信ずるところ、私たちは私たちの古いアダムを完全に取り除いてしまう。私には分かっているが、あなたがたの中のほとんどの人々は、最初にこの巡礼に取りかかったとき、このような観念をいだいていた。自分が恵みを受け取るや否や、堕落性は放逐されるだろう、と。――兄弟たち。それはその通りだっただろうか? 私は、一部の説教者たちが、2つの性質という理論をあざけり笑うのを聞いたことがある。私はそれに反論しなかった。というのも、おそらく、私がそうしようとしても彼らは私の云うことが分からなかっただろうからである。だが私は、ただ1つのことだけは知っている。――ひとりのキリスト者の中に2つの性質があるという理論は、私にとっては決して理論ではない。日々、自らを証明している1つの真実である。私はラルフ・アースキンとは違い、こう云うことはできない。

   「善にも悪にも 傾きて
    悪魔でありつ 聖徒でもあり」。

だが、それは真理ではなくとも、それに非常に近いところにある。真理の脇座敷にいる。そして私は、一方では罪が内側で滅びつつあるのを見ることができるが、もう一方で、私の魂が罪に対して携わらなくてはならない格闘を、また、結果として起こらざるをえない日ごとの戦いと戦闘を見ずにいることはできない。恵みの方が強い原理であり、それが最後には勝利するに違いないことは分かっている。だが、時として、古い人が一時的に上手を取るときがある。――イシュマエルが優勢になり、イサクが地に投げ倒されるのである。イサクに約束があり、イシュマエルが追い出されるに違いないことは分かっているが関係ない。よろしい。神の子どもよ。もしあなたが、あなたの罪というシセラがなおもあなたから逃走しつつあるのを眺めなくてはならないとしたら、――元気を出すがいい。それは、神の民全員の経験なのである。さらに、多くの人々は、このように感じたことがないと云ったが、私の愛する兄弟たち。彼らは実はそう感じたのである。ただ、それを感じてきた私たちと、同じ言葉遣いをしていなかっただけなのである。ひとりか二人の善良な兄弟たちが、完全な状態を信じていることは私も承知している。だが、彼らの信じている完全はみな、私が説教している完全そのものであることを私は悟っている。それはキリストにある完全である。だが、彼らは自分自身にある完全を信じてはいない。私も、いずれかのキリスト者が、自分自身の心を丸一日でも読むならば、自分は堕落性の高まりから、また、罪を欲する心の高まりから全く自由にされているのだ、などという観念にふけることになるとは信じない。もしそのような人がいるとしたら、私にはこうとしか云えない。「兄弟。私は、あなたと立場が入れ替わりたいと思いますよ。というのも、私は日ごとに戦いと戦闘に明け暮れる巡り合わせで、その帰趨がどちらに傾くか、また、戦いの決着がどうつくか、何とも云えないように思われる時もあるのですから」。実際、それを知るには信仰によるしかないであろう。というのも、見えるところによれば、逆の見解に至るように思われるからである。よろしい。元気を出すがいい。キリスト者よ。あなたが個人的に知る通り、古い人はあなたの中で殺されていないが、それでも私はあなたに思い出してほしいのである。あなたがキリストのうちにうる以上、古い人は十字架につけられていることを。「あなたの古い人がキリストとともに十字架につけられた……ことを、私たちは知っています」*[ロマ6:6]。そして、知るがいい。やがて来たるべき日に、御使いたちが扉を大きく開くと、あなたがた、シセラを追いかけるバラクのように、自分の敵を追跡してあえいでいる人たちは、ありがたい御霊がこう云うのを聞くことになるのである。「さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう」。そして、そこに、あなたの古い、生まれながらの情欲の数々が斃れているのである。そして、それらの父親である、古きサタンそのひとは、鎖で雁字搦めに縛られて、火の池に投げ込まれるのである。そのとき、あなたはまことに主に向かって歌うであろう。「おゝ! 主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められた。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ」*[出15:21; 詩98:1]。そのときまで、兄弟たち。あなたのもろもろの罪を追撃するがいい。大きな罪も小さな罪も、容赦してはならない。そして、願わくは神があなたを助けて勇敢に戦わせ、その御助けによってそれらに全く打ち勝てるようにしてくださるように。

 あなたがた、あわれな罪人たち。先に私が、自分の罪を殺すことも、自分の救いを達成することもできないと云い聞かせた人たち。あなたは、自分で自分を救い出すことはできない。あなたの《主人》に信頼するがいい。あなたの魂をその御手にゆだねるがいい。このお方は、それを守り、保ち、防護する力も、意欲もお持ちである。そして、よく聞くがいい。もし今晩あなたが自分について全くなすすべがなくとも、キリストに全く自分を明け渡すならば、今晩あなたは救われるのである。私の《主人》が今晩私に網を最初に一揺すりしただけで何匹かの魚を与えてくださるとしたらどうだろうか? また、何人かのあわれな罪人が自分の内側でこう云うことになるとしたらどうだろうか?――

   「われはイェスへと 行かん。よし我が
    罪 山のごと 高まるも。
    われは御殿(みとの)を 知りて入らん、
    よし何者の われを阻むも」。

来るがいい。罪人よ、来るがいい! 否。自分には行けないとあなたは云うだろうか? 「私の罪が、私の罪が!」 来るがいい。そうすれば、私はあなたに見せるであろう。あなたのもろもろの罪がキリストの十字架に釘づけられている姿を。「ですが、私には行けません」、とある人は云う。「私の心はあまりにもかたくななのです」。来るがいい。私はあなたに示すであろう。あなたのかたくなな心が天来の血を浴びて分解している姿を。「おゝ! ですが」、とあなたはなおも云う。「どうしても私には行けません」。来るがいい。そうすれば、私はあなたに示すであろう。あなたのそうした恐れが、永遠に眠り込まされ、キリストに寄り頼むあなたの魂が二度と決して恐れる必要がないことを。というのも、あなたは時間の中で主のものであり、いのちと死において主のものであり、至福の永遠において主のものだからである。

 願わくは主がその祝福をいま加えてくださるように。イエスのゆえに。アーメン。

殺された罪[了]


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