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《邪疑》氏の裁判と処刑

NO. 297 - 298

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1860年2月5日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於ストランド街、エクセター公会堂


「ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか」。――II列5:12


 《高慢自我》と《邪疑》は、サタンの盟友中の盟友たる二人であり、人々の魂を滅ぼす主犯格の二人である。この敵どもの双方が、たちまちナアマンを攻撃した。《高慢自我》は彼に襲いかかり、最初の一撃をくらわした。そこでナアマンは叫んだ。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに」[II列5:11]。《高慢自我》がその打撃を加えた後で、彼の友であり助力者である《邪疑》が登場し、ナアマンを殴りつけた。それでナアマンは云った。「ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか」。あゝ! このような二匹の小鬼と戦わなくてはならない人は難儀である。――相手は自分自身の高慢な精神と、それと同じくらいよこしまな不信仰の精神――すなわち、疑問を呈すること――邪悪な疑いをいだくこと――私たちの神である主を試みること――なのである。第一のもの、すなわち、私たちの高慢で義人ぶった精神に対して、神はその全砲列を開いておられる。あの十の命令は、十門の巨大な大砲のようなもので、その一門一門が、私たち自身の高慢で、自分を義とする思いに照準を合わせている。聖書は、一切の誇り、すなわち、私たち自身の何らかの努力によって救われようとする望みを助長するようなあらゆることに対して、とことん敵対している。《義人ぶった自我》は、ばらばらに引き裂かれ、その家がごみの山[ダニ3:29]となる運命にある。神が彼を憎むのは、彼が反キリストであり、主イエス・キリストの豊かな贖罪に対抗しようとするからである。《邪疑》について云えば、彼も人々の魂の間に大きな災いをもたらす。そして、たまたま最近の私は彼と非常に頻繁に出会うことがあったため、今朝は、彼をその隠れ家まで追跡し、明るみのもとに引きずり出そうと思う。そして、神の御助けにより、もしその御霊がこの場に臨在しておられるとしたら、完膚無きまでに彼を敗北させ、あなたがたの中の多くの人々を救出したいと考えている。おゝ、いかにおびただしい数の魂が、幾多の疑問を呈しながら地獄へ向かっていったことか。「救われるためには、何をしなければなりませんか」[使16:30]、と問うのではなく、自分には高等すぎる問題についての疑問である。実際、そうした疑問は、ただ単に自分たちのもろもろの罪の中を歩み続ける口実とするためのものでしかなかった。自分たちのよこしまな頭を高くして眠るための枕でしかなかった。彼らが教役者たちに数々の疑問をぶつけ、難解で込み入った問題を持ち出するのは、人間の無知により、自分たちが悪の道を歩き続けるお墨付きを引き出すためである。自らのよこしまなあり方にしがみつき、そのようにして神のあわれみに抵抗できるようにするためである。

 聞いてみるがいい。《邪疑》がナアマンに何と云い、ナアマンがその結果、何と云ったかを。もし私が本日の聖句を正しく理解しているとしたら、それはまさにこういう意味である。「水になど何の効き目があるだろう? そもそも、なぜ私は行ってからだを洗えなどと告げられなくてはならないのか? 私は何度もからだを洗ってきたが、それは全然私のらい病を治しはしなかった。このかさかさの病はそれほど簡単には取り除けないのだ。だが、かりに水に何か薬効作用があるとしても、なぜヨルダンで洗わなくてはならないのか? ただのどぶ川ではないか。なぜ私は、わが国の河川のいずれかに行って洗うことができないのか? 治療効果のある流れならわが国にもある。いずれにせよ、アマナやパルパルの方が清浄で、幅広く、力強い流れをしている。死海に流れ込んでいるヨルダンなどよりもな。私に云わせれば」、と彼は云う。「あれは、せいぜい死んだ川だ。私は帰国してサマリヤへ行き、そこでからだを洗って良いではないだろうか? さんざん苦労してサマリヤから会いにやって来たというのに、彼から聞かされたことと云えば、からだを洗ってきよくなれ、の一言だ。馬鹿げている」、と彼は云う。「それは道理に反している。そんなことはありえない。それゆえ」、と彼は云う。「私は、行って試しはすまい」、と。見ての通り、これは《邪疑》であった。水の中に薬効力があるかないかなど、ナアマンと何の関係があっただろうか? アマナやパルパルとヨルダンの優劣など彼と何の関わりがあっただろうか? 彼が関係する必要のあったことは、ただこの単純な命令だけであった。――「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば……きよくなります」[II列5:10]。彼は従うべきであって、質問すべきではなかった。この命令を実行すべきであって、その理念を究明すべきではなかった。

 さて、《邪疑》は、ナアマンに云ったことを、あなたがたの中の多くの人々にも云ってきた。私は、あなたがたの中のある人々が、今日まさに、この大反逆者をかくまっていることを知っている。私は切に願う。神がその恵みによって、彼を今朝見つけ出してくださり、私たちが彼をあなたの心の中から追い出せるようにと。

 まず最初に私は、この古き《邪疑》氏を見破りたい。彼が見つけ出された後で、私はあなたに向かって彼のことを描写しよう。次回あなたが彼に出会うときには、それと分かるようにさせよう。そして、彼を描写し終えた後で、私たちは彼を引き出して、神の御助けにより処刑しよう。そして、私たちがそうし終えたとき、私はあなたに、彼の子どもたちを皆殺しにするよう申し出よう。というのも、彼らは非常に大家族だからである。ジョン・バニヤンを信じて良ければ、彼らは九人か十人おり、その全員が彼らの老父に生き写しなのである。私が望むのは、私たちがその親同様に彼らの息の根も止めることのできる恵みを有することである。

 I. まず第一に、《この邪疑翁を見破ろう》

 彼は世間ではその名で呼ばれてはいない。彼が引き出されて、反逆者として裁判にかけられたとき、彼は厚かましくも《裁判長》に向かって、自分の名は《邪疑》などではないと云った。「裁判長」、と彼は云った。「私の正式名称は《誠疑》です。《邪疑》ではありません。《邪疑》という名をした者はいるかもしれませんが、私は全くそうした人間ではありません。そして、私は、人が誠実な疑問を持ったからといって、また、自分に持ち出された何らかの真理の根拠について自由に疑問を発したからといって、決してそれが罪にならないことを希望します。というのも、わが主よ。もし私たちが物事をうかつに信用し、人々の証言に基づいて信仰の物事を受け入れるとしたら、じきに非常に馬鹿を見る羽目になるからです。私の名前は《誠疑》です。わが主よ。そして、私は自分が非常に誠実な市民であると思っています」、と。《邪疑》がそうした名前を通称としており、それゆえ、あなたが彼を容易に見破れない以上、私はあなたを連れ出して、彼をその弁舌によって発見できないかどうか見てみなくてはならない。というのも、あなたはその名前によってではなく、そのむなしい話し方によってこそ、この輩が分かるであろうからである。

 さて、ジョン・バニヤンによると、『聖戦』というその寓話において、迎意卿は《精励》という役人をかかえていた。歩き回っては、人々の窓の下で耳をすまし、細大もらさず耳に入れては、反逆者が城内にかくまわれていないかどうか、自分の主人に情報を持っていくのを常としていた。私に《精励》氏の役割を果たさせてほしい。そうすれば、私たちは、一瞬か二瞬、耳を傾けているうちに、《邪疑》氏が語るのを聞くであろう。彼は調子の良い輩で、ほとんど何の主題についてでも語ることができる。私は先日、彼が教理について説教しているのを聞いた。彼は、ひとりのカルヴァン主義の教役者の話を聞いたことがあった。この教役者は、イエスにある真理を語っており、キリスト・イエスをつかむよう熱心に彼に勧告したという。だが、《邪疑》氏はそれをこのように云い表わした。――「さて、もしもそれほど多くの救われることになる人々がいて、救われることのない特定の人数がいるとしたら、それは私には何の違いももたらすことがありえない。私は、成り行きまかせにしていた方が良いだろう。というのも、もし私が救われることになるとしたら、私は救われるのだし、救われることにならないのだとしたら、救われないのだから。それに」、と彼は云った。「不可抗の恵みこそ人々を救うのだ。さて、もし神がその恵みを私の心の中に送るとしたら、私は救われるだろう。そして、もし神がそうしないとしたら、何と、私には何もできない。それゆえ、私は、じっと座っていても、何かをしようと試みても何も変わらないのだ。知っての通り、私はあの教役者がこう云うのを聞いたのだ。信仰と悔い改めは神の賜物だと。よろしい。もしそれらが神の賜物だとしたら、信じて悔い改めよと私に勧告するなど、いかに彼は矛盾していることか。あの男は論理を理解していない。私は信ずるまい。私は悔い改めまい。というのも、あなたには見てとれないだろうか? 私がそのいずれかを行なおうと試みることが道理にかなっていないことが。なぜなら、それらはどちらとも神の賜物だからだ」。このように彼は自分を納得させた。そして、私は、彼が語るのを聞いている間、自分に向かってこう思った。「私はお前を良く知っているぞ、《邪疑》氏。それに、お前の父親も知っている。お前は、あの、古のバニヤンの時代に、邪悪通りで首をくくられた老人の子孫だ。そして、私が願うのはただ、お前もまた首をくくられることだ」。彼は、別の日にはアルミニウス主義の説教者の話を聞きに出かけた。彼は、この説教者が神の普遍的な愛、また、普遍的なあわれみについて語るのを聞いた。そして、この教役者は彼に向かってキリストをつかむよう勧告した。しかし、《邪疑》氏は蜘蛛のようであり、いかなる花からも胆汁を吸い出すことができる。それで、彼は家に帰るとこう云った。――「よろしい。もし神がそれほど無限にあわれみ深いとしたら、私のもろもろの罪は実際ごく些細なことなのだ。こうしたことで騒ぎ立てたり、苦に病んだりする必要などないのだ。ただ今まで通りにしていよう。神は最後には私に辛く当たるまい。むしろ、私が信じていようがいまいが、こうした罪を即座に赦してくれるだろう。それに」、と彼は云った。「神のあわれみは非常に長続きするので、私が死ぬことになるとき、私はただこう云おう。『主よ。私をあわれんでください』。そうすれば、私は、一番ご立派な人と同じように天国に入れるだろう。ならば、あの男が信じて悔い改めよと私に勧告する意味などどこにあるのか。というのも、彼は私に、私が恵みから落ちるだろうと告げたのだ。今すぐに始めて、すぐにやめてしまうよりは、始めない方がいいだろう。では私は、後で恵みから落ちるような危険がより少ないようにしよう」。このようにして彼は自分を納得させた。さて、こうした種類の理屈を聞くときはいつでも、そこに反逆者がいると思って良い。あなたは彼を発見したのだ。それが《邪疑》翁なのである。一刻も早く自分の私室に走って行き、反逆者を見つけたことを主に申し上げるがいい。そして願うがいい。ただちに彼の拘引状を送り、この輩を逮捕してくださいと。彼はあなたの魂を滅ぼせるように最大限のことを行なっているのである。

 時としてこの紳士は、教理的な説教を行なうのではなく、実際的な説教を行なうことがある。先日私は、彼がこのように宣言するのを聞いた。「私は最近、どんな礼拝所にも行きません。というのも、実を云うと、あまりにもたくさんの党派や分派があり、ある種類のキリスト者たちは別の種類のキリスト者たちに難癖をつけています。私は、彼らがこれほど分裂し、これほど偏狭な考え方をしている間は、行って彼らの話を聞いたり、彼らに注意を払ったりするつもりはありません。それに」、と彼は云った。「あのキリスト者たちを見てください。云わせてもらえば、彼らは他の人々と全く変わりありませんよ。彼らの最上の教役者たちだって、尻尾を捕えれば、後の人間たちより全然すぐれていませんし、一般の信仰告白者たちについて云えば、何と、私は執事をしている人間のひとりによって先日、十ポンドも損してしまいましたよ。彼らが後の人間たちよりこれっぽっちもまさっていないことは確実ですよ。ですから、私はキリスト教信仰のことなんか全く考えません。それはみな、とんだ茶番劇の嘘っぱちなのです。なぜそんなものを考えなくてはいけないのです? 私は関わりを持ちたくありませんね」。そこにもやはり反逆者がいる。別のとき、この男は、貧しく、やせこけた、なかば飢えたキリスト者を見いだす。それはほとんど上品さがなく、非常に大きなみじめさのうちにある人である。すると彼はこのように語り出す。「ここにあなたのキリスト者たちがいますよ。何としょげ返った連中でしょう! 何というみじめさでしょう! 私は一生の間こんな一党を見たことありませんよ。何と、もし私が行って彼らの教役者の話を聞くとしたら、私は一箇月で身投げしてしまうでしょう。彼らはあれほどみじめで哀れな者たちなのです。私について云えば、良く望み、良く急ごうと云いますよ。できるうちは陽気に暮らしましょう。そして、いつかはそうした深刻な事がらを考えなくてはならないとしても、それを最後まで押しのけておきましょう」。あなたは、こうした紳士の言葉を一度も聞いたことがないだろうか? あゝ、話をお聞きの方々。あなたがたの中のある人々の心の中には彼がいる。そして、私は単に、あなたがしばしば自分に向かって云ってきたことを描写しているにすぎない。あるいは、たとい私がまだ、《邪疑》翁の正確な講話に打ち当たっていないとしても、それでも私は彼のたまり場のいくつかを突きとめたものと思う。彼はしばしばあなたの扉をとんとん叩き、あなたはこう云うではないだろうか? 「どうぞお入りください、《邪疑》さん。私にはあなたとお話ししたいことが少しあるのですよ。あの教役者が私の良心を少し悩ましていましてね。その傷口に何か膏薬を貼れないか見てみてくださいよ。私が快適に罪の中を歩み続けて、私の人生を買えたり、キリスト者になったりといった面倒くさい必要から解放されるようにね」。時として、この《邪疑》翁は一段と踏み込んで、事の根っこに、彼のいわゆる斧を当てようとすることもある。「何と」、と彼は云う。「この贖罪の教理とか、キリストの血によるこの救いだとかについて、私にはこうとしか云えませんな。合理的な人間は、こんなものを信じることは全くできない、とね。人間が、誰か他の人の義によって救われるどなんて、お話にならないほど馬鹿げてますよ。メソジストにでも信じさせとけばいいんです。私は信じません。理屈も何もありませんよ」。それから、彼は贖罪について次々と疑問を呈し始め、聖礼典についての疑問に進み、測り知れない事がらについての疑問、有効証明についての疑問、全的堕落その他についての疑問を発し始め、そのようにして福音真理と聖書啓示の全体規模を走り抜け、それぞれの所で立ち止まっては、疑問を呈して、それぞれの中に神に従わない弁解、自分の心すべてをキリストに明け渡さずにすむ云い訳、人々の魂を救うために死んだお方を信じずにすむ云い訳を見つけられるようにする。

 しかしながら、この大破壊者については、ここまで行なってきた以上に正確な描写をあなたに示す必要はないと思う。事実、彼の弁舌のすべてをあなたに描写することは全くの不可能であろう。彼が手がけられない主題は何もない。彼はあまりにも舌がよく回り、あまりにも詭弁的な理屈に長けているために、しばしば人を丸めこんでは、より悪い根拠をより良い根拠と信じさせるであろう。また、キリスト者になることなく、自分の心をキリストにささげないことは、単に許されて良いばかりか、褒められてしかるべきことだとさえ想像させるであろう。おゝ! もし私がこの《邪疑》が七尋もの深みに葬られるのを眺められたとしたら、福音を宣べ伝えるのもお安い御用だと感じることであろう。だが、悲しいかな! 私がいかに熱心なときも、私の話を聞く人々はその戒めに従う代わりに、その講話への疑問を提起してきた。また、私が教理を説明し、それをみことばの規則によって言明しようと努めたときも、罪の確信を生み出す代わりに、そここでその正統性や異端性が問われるのを見いだしてきた。いかなる実も結ばれなかった。なぜなら、その種があなたの心に入り、そこであなたの魂の救いに至るような有効な働きを行なうことをあなたがたが許そうとしないからである。あゝ、愚かで心の鈍い人たち。時が矢のように飛び去り、人々が死につつあり、地獄が満たされつつあるときも、いつまでも疑問を呈している人たち。――自分と死との間にはただ一歩の隔たりしかないときも、疑っている人たち。――自分が墓の瀬戸際にあり、自分の魂が今にも要求されようとしているときに、種々の奥義の謎を解き、種々の秘密を解明しようとしている人たち。私は云うが、おゝ、愚かな心の鈍い人たち。だが、あなたは永久にそのようであり続けるであろう。主権的な恵みがあなたの目を開き、この《邪疑》氏の顔のうちに、サタンの子どものしるしと顔立ちを見てとるまではそうである。また、神があなたに恵みを与え、あなたが彼を扉から叩き出し、ただちに追い払い、生きている限り二度と関わりを持たないようにしてくださるまではそうである。

 しかし、あなたは知っているだろうか? 私が今朝このように《邪疑》氏を捜索して巡回していた間、たまたま私はある家の扉の前に立つことがあった。そのかもいの上には血のしるしがついていたが、私を非常に驚かせたことに、その家の内部から、《邪疑》翁に酷似した声が聞こえてきたのである。私は自分の耳が信じられなかったが、私はその扉に私自身の名前を見た。それで私は、そこにあえて入っても良かろうと思った。すると、何と、私は見いだしたのである。この老悪党が私の食卓についているのを。そしてあなたは彼が何と云っていたと思うだろうか? 何と、彼はこのように語っていた。「神はあなたが自分の道を保つと約束してますがね、あなたにはこれほど多くの誘惑があるのです、できやしませんよ。神はあなたの伝道活動を祝福すると約束してますがね、人々の心はこんなにかたくななんです、説教なんかやめちまったほうが得ですよ」。彼は約束という約束に疑問を呈し始め、いかにしてそれらが成就しうるのか尋ねた。また、私に、私自身のキリスト教信仰が生きたものであるかを疑わせ始めていた。「出て行くがいい。私お前とは何の関わりも持ちたくない。もし私がもう一度お前と出会うとしたら、神の御霊によって石を持ち上げ、お前の老いた狂った脳天を叩きつぶすであろう。すぐに立ち去るがいい。そして、私とは二度と関わりを持たないようにするがいい。神の子どもにとって、お前は憎まるべき侵入者なのだ。《全能者》を疑うなど私は何者であろう。いかなる有限者が、《無限者》に向かってその御約束を果たせる力を持っているか尋ねるというのか? 否。私の神よ。

   『われは頼まん、万創(つよ)き御声を、
    その余を信仰 求めざらん』」。

 II. このように《邪疑》氏を見破ったので、続いて《彼を描写する》ことにしよう。《邪疑》氏はしばしば、自分は《人間理性》の子であると自慢する。だが、私はあなたに、彼の血筋に関する秘密を1つか2つ知らせよう。《人間理性》氏は、かつては非常に品位ある人であった。彼は、パラダイスの庭園内に邸宅を構えており、その頃は偉大で、尊敬すべき人物だった。彼は、自分の力を尽くしてその神に仕え、人類のために大きな、また、驚嘆すべき事がらをいくつも発見した。当時の彼には家族があり、全員が彼自身に似て、正しく、善良で、忠実だった。しかし、堕落の後で、この人は再婚し、自分の連れ合いとして《罪》と呼ばれる者をめとった。そして、この《邪疑》翁は堕落の後で生まれたひとりだった。彼は最初の家族には全く属していない。最初の家族は、最後の家族ほど数多くなかった。その頃には、《正しい識別力》という者が生まれた。私は彼がまだ生きていてほしいと願っているし、生きているものと信じている。しかし、第二の家族は非常にどす黒く、また汚れた血統であった。彼らはその父親に似たところはただ1つの点を除いて全くなかった。すなわち、堕落のとき《人間理性》はパラダイスにある邸宅を失い、アダムの残りのしもべたちととともに、自分の高い地位から失墜し、邪道に陥り、下劣なものとなってしまった。彼の子どもたちは、彼らの下劣さにおいて彼に似ているが、その推理力においてはそうではない。彼らはその母親にそっくりで、常に罪をひいきし、「やみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている」[イザ5:20]ほどである。この老紳士は、できるものなら決して自分の母親の名前を口にしない。彼は常に自分が《人間理性》の直系の子孫であると自慢するし、実際それは正しいが、彼は堕落した《人間理性》の子孫であって、栄光に富んだ完璧さのうちにあった頃の《人間理性》の子孫ではない。さて、アダムのあらゆる機能は堕落によって損なわれ、台無しにされた。なくなってはいないが、それらが向かう傾向は、善なるものから邪悪なものへと変えられた。そして今、理性は信頼の置ける案内人ではなくなっている。神の御霊の光を受けていれば、正しい識別ができるが、光も教えも受けていないと、その傾向は人をその反抗において弁解するようなもの、神の誉れを汚すようなもの、また、人類をその主であり《主人》であるお方への高慢な反逆へと奮い立たせようとするものへと向かうのである。

 ならば、理解するがいい。《邪疑》の血筋がここにあることを。人の、邪道に陥った理性は、人のいだく罪への愛と出会い、この2つが手を組んで、こうした邪悪な数々の疑念をもたらすのである。あなたを神に反して語らせるのはあなたの理性ではない。単に、あなたの邪道に陥った理性にほかならない。罪に対するあなたの愛こそ、あなたの理性の目をはっきり覚まさせ、何らかの困難を発見しようとさせるもの、また、それを天の命令に従わなくとも良い口実にさせるものである。自分がサタンによって告げられた作り話を繰り返しているとき、――また、自分は誠実な疑問を発しているのだと云っているとき、――それを信じてはならない。片時も信じてはならない。誠実な疑問は、「と書かれている」、によって満足し、そこで止まる。それに、もしそれに満足しなくとも、聖書の真理は最も決定的な論理によって証明されている。それは、ハデスのいかなる門も決して打ち勝てないような種々の議論で証明されてもいる。すでに多くの卓越した著作が記されており、現代の懐疑主義者たちのあらゆる議論は一千回以上も反駁されている。人が持ち出すことのできる一切の反対意見は、すでに粉砕されており、もしある人が自分の疑問において誠実だとしたら、長いこと不信者であり続けることはできない。あなたの疑問が誠実さからわき上がっていると信じてはならない。むしろ、自分に正直になり、このことを認めるがいい。あなたが福音を愛していないのは、それがあなたにとって困難すぎるからなのだ。――それが、あなたの愛してやまないもろもろの罪を手放し、放棄するように求めるからなのだ。そして、このことゆえに、あなたは福音の真実さに疑問を呈し始めるのだ、と。もし福音がこれほど痛くあなたに臨まず、これほど即刻あなたを扱わないとしたら、あなたもそれを信じるであろう。しかし、それがあなたに自分のもろもろの罪をあきらめさせようとするがゆえに、あなたは何らかの疑念を探しに行き、抗弁に次ぐ抗弁を持ち出しては時間をかせぎ、この世にしがみつくのである。たといあなたが律法の正義をも、福音の真理をも疑っていなくとも、あなたがたは、ただ煩わせたいがだけのために両者に疑念を呈する。だがしかし、あなたはそれが自分の疑念の手の届かないものであると百も承知しているのである。というのも、それは《永遠の神》の永遠の真実だからである。

 このように私は、この老人の血筋を描写してきた。さてそれでは、彼がどこでその教育を受けたかを告げても良いだろうか? 《邪疑》氏は、生まれた後で、あなたがたの中の非常に多くの人々に教えを授けてきた、あの老校長の学校に入れられた。――《世才》氏である。そして、この《世才》氏は、彼にある書物を音読させるのが常であった。『人間の処世訓』と呼ばれる本である。そして、この男が習い覚えたあらゆる論理術は、この《人間の処世訓》という本から出たものであった。――この本を大いに奨励しているのが、地獄の神聖な監督法院である。彼らはそれを非常に喜び、至る所でそれを流布させたがっている。そして、彼らは神の預言者たちの膝すらこのバアルの前にかがめさせ、「人間の教えを、教えとして」[マタ15:9]受け取らせようとする。それゆえ、最初から悪いものであり、本質的に悪徳を事としていたこの教育が、彼の人品骨柄の発展にうってつけのものであったのも不思議はない。そして、彼はますます悪くなり、ついには時として、神の存在や、魂の不滅、聖書の真実性、キリストの神性にさえ、事実、疑問を唱える者として知られるまでとなった。彼は、真実な心をした人にとって愛しいものとなりえるあらゆること、魂をその種々の苦難のただ中にあっても支え、その暗闇のときにも光を与えることのできるあらゆる真理に疑問を呈してきた。

 さて今、もっと彼に肉薄することにしよう。私はあなたに彼の血筋と教育を告げてきたが、ここで彼の人格について告げるものである。もしあなたがこの男に目を留めても、あなたを驚かせるのは彼の語り口だけであり、あなたは彼の話について、こう気づくであろう。すなわち、彼は、キリスト教信仰の事がらに関して、この世の事がらに関して彼が考えることとは非常に異なる様式で語るということである。もしあなたが彼に出会うとき、彼が売り買いをしているとしたら、彼は実に合理的な話し方をする。だが、自分がなぜ回心しないのかという弁解をしたり理由を告げたりする段になると、彼は愚か者のような話し方をする。――そして、実際愚か者である。――彼は、自分がキリスト教信仰について採用しているような理屈に立ってはこの世で行動しようとしない。私はあなたに、彼が以前こう云うのを聞いたことがあると告げなかっただろうか? 神があらかじめ定めているのだから、自分は何もしない、と。さて、彼が自分の語ったことにおいて誠実だったとしたら、あなたは彼がこの世に出ていって、腕組みをしたままこう云うことを期待するであろう。「さて、もし私が金持ちになるはずなら、私は金持ちになるだろう。それで話は終わりだ。また、もし私が金持ちにならないはずなら、私は金持ちにならないだろう。それゆえ、私は働くまい」。否。彼はこの世の事がらに従事しているときは、非常に忙しくしている。だがしかし、キリストの事がらにくちばしを入れるときには、可能な限り怠惰になるのである。この同じ男は、種を蒔くべき畑を持っている場合には、次のことを重々承知している。すなわち、もし神が刈り入れを定めておられるとしたら、そこには刈り入れがあるだろう、と分かっている。――だが、それにもかかわらず、彼は種を蒔く。彼は自分の仕事においては、いかに自由意志を持つ者らの行動が《神の主権》と全く両立しているかを理解できる。自分が外にいるときは、いかに神の聖定が人の自由な行動を全く制限しないかを理解している。だが、自分自身の魂に関する敬虔の事がらになると、彼はそこに素晴らしい困難を見てとるのである。あゝ! 彼がそれを見てとるのは、彼がそれを見てとりたがっているからであり、人は、厄介で不快なことをしたくない思うときには、自分の好むものを何でも見ることができるのである。もしあなたが地獄に行くための云い訳を欲するなら、一千もの云い訳を見いだせるであろう。それは、その愚にも付かなさでは、いずれも違いはない。そして、《邪疑》氏はあなたにそれを、それぞれの特定の状況に応じていくらでもふんだんに供するであろう。彼には、フランス人の心にかなう云い訳があり、英国人の心にかなう云い訳がある。彼には、貧者に小売りするのにまさに適した庶民的な云い訳の在庫があり、富者の好みに適したあらゆる陰影と色合いの洗練された云い訳を数多く有している。彼のような者はいない。もしあなたが滅びたいと思うなら、あなたは論理的にそうできるであろう。もしあなたが三段論法に乗って地獄に行きたければ、彼はあなたを援助するであろう。もしあなたがそこに行きたければ、彼はあなたに最も合理的で快適な輸送機関を与えるであろう。彼の店に行きさえすれば、彼は一瞬もあなたを待たせることなく、帳場越しにあなたの用向きを果たしてはきわめて丁寧にお辞儀をし、あなたが喜びながら向かって行けるようにするであろう。破滅の深淵へと。

 《邪疑》氏は自分の正体をそのように露呈するものである。なぜなら、彼は現世的な事がらには用いないような論理を霊的な事がらに用いるからである。次のことは、あなたが彼を発見するもう1つの方法である。この男は、《無限の神》について語っているときには、常に有限の人間の物差しで神を測る。私たちの理解によっては制限されるべきでも把握されるべきでもない神を問題としているときに彼は、それが尺だの寸だの、あるいは、匁だの貫だのといったことでしかないかのように、何のはばかりもなくその問題に取り組むのである。全能性を彼は忘れる。また、遍在も、全知も、永遠も、――こうした神のすべての属性を彼は放り捨てる。そして、あたかも神がその御手で造った被造物と全く変わりないかのように神に語りかけ、神について語る。あなたは彼が、「そんなことができますかね?」、と云うのを聞いたことはないだろうか? ちょっとでも考えてみれば、彼は、《全能のお方》について語るときに、「できる」という言葉を用いるのが道理ではないと分かるであろう。彼はしばしば云うであろう。「約束されているそんなことが成し遂げられるでしょうか?」 もし彼が立ち止まりさえしたら、彼は思い起こすであろう。真実で忠実な神について、あることがなされうるかどうか疑問を呈するのは、邪悪で冒涜的な疑問を発することであることを。しかし、それでも彼はそうしようとする。彼は神の約束を、まるで詐欺師の殴り書きででもあるかのように扱う。彼は神の諸教理を、まるで荒れ狂う狂人のたわごとででもあるかのようにあしらう。彼は重要な諸真実を、まるで泡のような夢、単なる欺かれた脳味噌の思弁ででもあるかのように取り扱うであろう。奇妙な悪漢で彼はある。天に向かってあえて口を上げては、その冒涜的な疑念を《いと高き方》の存在そのものと御力に対して吐き出すのである。

 また、あなたは別のしるしによっても彼を見分けることができよう。というのも、彼は常にその議論を例外から引き出すからである。彼はひとりのみじめなキリスト者に出会う。――彼は、みじめなキリスト者がひとりいるところには一千人もの幸いなキリスト者がいることを百も承知している。――だが、そのとき彼はこうした千人の幸いな人を背後に押しやってしまう。このひとりのみじめな者こそ、彼がその注意を向けてやまない者なのである。もし彼がひとりの堕落した信仰告白者に出会うと、彼は、一万人ものキリスト者が誘惑のとき廉直に立っていること、この世が攻撃するときもその恐怖の猛風の中で屈さないであろうことを承知している。――だが、否。彼はこうしたすべてを忘れる。彼が考えるのはただひとりの偽善者なのである。あるいは、悪の時に圧倒されてしまった、ひとりの信仰告白者なのである。それから彼はこのような三段論法を組み立てる。――「ひとりのキリスト者が偽善者であるとわかった。それゆえ、偽善者になることは悪いことである以上、私はキリスト者にはなるまい」。さて、何たる議論であろう! だがしかし、これがあなたがたの中のある人々を満足させるのである。あなたがたの中のある人々は、ひとりの人に騙されたことがあるとき、こう云うであろう。「あゝ、よろしい! 私は決してキリスト教信仰を告白などすまい。誰それは信仰告白をした。だのに悪人だ。それゆえ、私はそれと関わりを何も持つまい」。この議論のどこに効力があるだろうか? もし悪いキリスト者たちがいるとしたら、それは、それそのものが、良いキリスト者たちがいると推定すべき根拠である。というのも、もしあなたが悪質の金貨が出回っているのを見るとしたら、あなたは、良質の金貨がいくらかはあることを確信して良いからである。もしそれらがみな悪質だとしたら、私たちは誰ひとりそれを受け取らないであろう。ならば、確信して良いが、キリスト者という名前がなくならずにある限り、世には何人かは通用する貨幣――取引における実株――それをもとにして世界が豊かになるもの――の水準を保っている善良な人々がいるのである。また、かりに彼らが全員悪人だったとしても、それであなたが真実にも正直にもなるべきでない何の理由になるだろうか? たとい教会がことごとく偽善者たちだったとしても、少なくとも私は正直な人間となり、私の神に真実に、また心を尽くして仕えよう。それがしかるべき筋道である。しかし、《邪疑》は例外的なものを取り上げては、まるでそれが規則であるかのように考え、その例外的な事がらから、たといそれらが規則であったとしても論理的ではないだろう推論を引き出す。だが、その推論は、例外に基づいている以上、何の根拠もなく、単に理不尽な、ためにする偽りとして徹底的に崩壊するのである。

 私の主題のこの部分については、もうほんの少しだけしか語るまい。あなたは《邪疑》氏を常に、この事実によって見分けることができるであろう。すなわち、彼はいつでも変わりなく自分の願望からその結論を引き出すのである。ある議論が手近にあり、その結論が私の願っている通りのこととは反対であるとき、私は常に自分の推理が正しい見込みがずっと高いと思う。だが、もしその結論がまさに私の肉的な心がそうあってほしがるだろうようなものであるとしたら、私は云うが、私は自分の論理がどこかで間違っているのではないかと恐れる。というのも、私が自分自身を喜ばせるような結論を引き出す場合には、私は非常に注意深くあるべきであるだからである。とりわけ、それが私の魂に関わる問題であるとしたらそうである。私たちの描く《公正》はその両眼に目隠しをし、一台の天秤を持っている。さて、私たちが他の人々を裁くときにはいつでも、それこそ私たちの正義を割り当てなくてはならないしかたである。そして、私たちが自分自身を裁くときにもそうすべきである。しかし、私の愛する方々。私たちは、自分自身を裁くときには常にその目隠しをちょっと持ち上げて、右目が少し見えるようにしがちなのである。そして、私たち自身に得になる方の皿に余分の重みを何とかして乗せられるようにするのである。誰しも、自分自身の人格を裁くときほど、不公平な裁判官になることはない。私たちは他の人々には非常に峻厳だが、自分自身に対しては非常に手ぬるい。私たちは、自分の敵たちに対しては私たちの剣をよく研いでおくが、自分自身を打つ場合には、それは峰打ちになる。決してあえて深手を負わせることなく、常にちょっとした軟膏を手近に置いておきたがる。常々、ほとんどそれと知ることもなく、私たちは自分自身と非常にしばしば握手してはこう云う。「君も結局それほど悪い奴じゃないさ。君には何か間違った所があると思っていたし、確かにそれはある。だが、それでも君は、大概の人々ほど多くの悪い点をかかえてはいないし、全体として見てみれば、君は非常に尊敬すべき人だよ」。さて、もしそれがあなたの達する結論だとしたら、その論理のどこかに不備があることを疑うがいい。その推理をもう一度よく調べてみるがいい。その総額をもう一度計算してみるがいい。もしそれが、「自分は富んでいる」[黙3:17]、という結果になるとしたら、もう一度計算するがいい。そこには、あなたが下駄を履かせた分の数字があるのである。というのも、もしあなたが未回心の人間だとしたら、正しい結論は、あなたが裸で、貧しくて、みじめだということになるからである。それ以外の結論に導くような算数や論理を信じてはならない。

 III. このように、私が必死に追跡しているこの老敵を描写したので、私は一休みして、私の第三の区分に移りたい。それは彼を引き出して、《処刑する》ことである。

 私はあなたに、ジョン・バニヤンの『聖戦』のひとくだりを示さなくてはならない。というのも、それは、あまりにも素晴らしい示唆に富んでおり、この奇矯な著者に徹底的にふさわしいものだからである。《邪疑》氏は、《人霊》の町を攻撃するためにやって来た、四人の懐疑者たちをかくまっていたことが突きとめられた。彼が引き出されたとき、その訴因は、彼が《人霊》の町の破壊をもくろんでいたこと、彼が法に背き、裏切り者のように、王の敵を四人もかくまったこと、そして、彼が《精励》氏の聞いているところで、《人霊》の中にそのような懐疑者たちが一万人もいれば良いものをという願いを云い表わしたことであった。この老人は、法廷に引き出されたとき、最初に自分の名前を否定し、自分の本名は《誠疑》だと云った。だが、彼が《邪疑》翁であることが証明されたとき、――というのも、迎意卿は悪の状態にあったとき彼を親しく見知っていたからである。――そのき、この老人は「無罪」を申し立て、たちまち自分の弁明を口にし始めた。「答えます」、と《邪疑》は云った。「わたしの家を訪れた者は、外国人だったから歓迎したのですが、人が外国人をもてなすのが、今では人霊において犯罪となったのですか。かれらに食を与えていたというのも事実です。わたしがほどこしをしたからといって、どうして非難されるのでしょう。『かれらが人霊に一万人いたらいい』と申したことの理由をわたしは、今、証言した人たちにも、かれら自身に対しても告げはしませんでした。わたしはかれらが捕えられればいいと思ったのかも知れないではありませんか。だから……私の望んだことは、人霊の為を思ってのことだったかも知れないではありませんか。わたしはまた、将軍たちにとらわれないようにせよとかれらに注意を与えはしましたが、それも王の敵たる者が逃げのびることを望むわけではなくて、だれにせよ人が殺されるのを欲しなかったからかも判らないではありませんか」*1。そのように《邪疑》氏は自分の名に背かず、判決が下るまで疑問を発してやまなかった。死刑が宣告され、執行された。というのも、バニヤンが云うように、彼らは彼を、邪悪通りにある彼の自宅の真向かいで絞首刑に処したからである。あゝ! だが、残念ながら、彼はいま生存しており、なおも生きて歩き回っているのではないかと思う。それゆえ、私は彼をもう一度裁判に引き出したい。そして、何らかの点で彼を告発できないかどうか見てみたいと思う。私たちは、正直な陪審員を選ぶであろう。そして、私にはその宣告がどうなるか分かっている。私たちは彼を処刑するため引き出すであろう。

 兄弟たち。もしあなたが信じる代わりに疑問を発しているなら、また、「救われるためには、何をしなければなりませんか?」、という唯一許される問いを発する代わりに、次から次へと問いを発しているとしたら、まずはぜひとも、この《邪疑》を追い払うようにしてほしい。彼は天の《王》への反逆者だからである。彼はあなたの幸いなど願っておらず、むしろ、あなたの不幸を願っている。それだけではなく、サタンによって遣わされて、あなたが神の命令に従うのを妨げようとしている。彼はあなたを裏切るためにやって来たのである。おゝ! 彼の言葉に耳を傾けてはならない。それが牛酪よりもなめらかでも関係ない。その内実は抜き身の剣だからである[詩55:21]。彼が口にするすべてのことの趣旨は、あなたを神と和解させられないままにしておくためである。彼が語るすべての大目的は、あなたを祝福の中心点から遠くへと遠くへとさまよい出させること、また、あなたに十字架を捨てさせ、あなた自身の心のでっちあげに従わせ、そのようにしてあなたに必然的な破滅をふりかからせることである。おゝ! 私は切に願う。彼を追い払うがいい。なぜなら、彼は、あなたのすべての忠誠を当然受けてしかるべき大いなる《王》に対する裏切り者だからである。彼が欲しているのは、あなたを神の敵とすること、また、神の敵のままにしておくことである。ぜひとも彼を追い出してほしい。彼を吊るし首にするがいい! 彼の息の根をすぐさま止めるがいい。これ以上彼があなたを惑わし、あなたの魂を滅ぼし、あなたに神への不従順を続けさせることを許してはならない。

 それからまた、私があなたに彼を叩き出すよう懇願するのは、彼が偽り者だからである。彼があなたに持ち出しているあらゆる結論は偽りの結論であり、あなたもそれを知っている。あなたが時として人々の中で少しばかり大言壮語したとき、また、口にされた厳しい一言があなたの良心に深く突き入れられたとき、また、あなたが自信満々に何らかの疑いを発し始めたとき、あなたは自分が正直に語っていないことをよく知っているからである。あなたは地獄があると知っている。あなたがそうした考えをしばしば笑い飛ばしていても関係ない。あなたは来たるべき世があると知っている。あなたがそれに論駁しようと関係ない。あなたは神がおられることを意識している。あなた自身、時としてそれを否定するとしても、あなたは重々承知しているはずである。あなたのこうした偽りの推論があなたにもたらすいかなる結論も嘘八百であることを。それが常識をも、あなたの性質の信頼できる正直さをも誹謗するものであることを。では私たちはみなひとりひとり、証人として彼の上に手を置き[レビ24:14]、自分の石を取り上げて彼に石を投げて殺そうではないか。

 私が彼を告発するもう1つの点はこのことである。彼は、あなたを害悪のあふれる世界へと導いてきた。このように疑問を呈する習慣は、しばしば、あなたが聞いたいくつかの説教の切れ味を鈍らせてきた。みことばがあなたの良心に鋭く突き入れられているとき、この《邪疑》氏は一枚の盾を掲げ、その切っ先があなたの心に入るのを妨げてきた。それに加えて、時としてあなたが、彼の人を惑わす論理の影響下にあるときに出かけて行った場所は、あなたの情欲を助長し、あなたの良心をなだめて眠り込ませるものではなかっただろうか? あなたも分かっていよう。もしこうした数々の疑念さえなければ、あなたがあれほどしばしば居酒屋や、賭博場や、こうしたものにさえ劣る付き合いの場所のただ中に見いだされることはなかったはずだと。あなたは、自分を不信心者にしようと試みてきたからこそ、罪にはまり込むことができていたのである。あなたは、信じたならば罪が不快なものになると感じていた。事実、よほど魯鈍な馬鹿でもなければ、信じると告白した後で、自分の不義にとどまり続けることによって、自分の喉笛を切り裂き、自分の魂を滅ぼしはしないであろう。おゝ! 私は切に願う。この悪しき習慣があなたに何をしてきたかを思い起こしてほしい。それはあなたを低めてきた。非常に低めてきた。ハデスの門ほどにも低めてきた。そして、もしあなたがそこに、十分に長くとどまっているとしたら――私はあなたがそうしないように神に祈るものだが――、あなたはハデスの入口の中に入らされてしまうであろう。そして、かの炎の門が閉ざされるときには、いかなる腕もそれを開くことはできず、いかなる疑問も、いかに巧妙な疑念も、あなたに一滴も慰めを与えることはできない。いかなる形而上学の意味不明な一粒も、あなたの焼ける舌を冷やす水一滴のようになることもありえない。あなたを罪に定めた疑問質問は、あなたを悩ませる拷問者となり、火のような思弁をくぐり抜けて運ばれたあなたの頭脳は、新しい種々の困難と新しい神秘とによって永遠に恐怖させられ、驚愕させられるであろう。それらが、永遠永劫に地獄の火焔をつのらせるふいごのようになるであろう。おゝ! この《邪疑》を引き出して、ハマンの立てた絞首台[エス7:9]ほどにも高い絞首台で縛り首にしようではないか。そして、願わくは私たちが決して彼を二度と見ないですむように。

 私は、もう1つだけ告発して、それでこの告訴をしめくくることにしよう。兄弟たち。この男が死ななくてはならないのは、彼が人殺しだからである。おゝ! いかに何百万もの愚か者たちを《邪疑》は地獄送りにしてきたことか! 地獄には多くの門があるが、これは最も広い門の1つであり、最も多くの人々がくぐり抜ける門である。それは、これが体裁の良い門だからである。人々は、何らかの理由、何か自分の後押しをしてくれる論理がなくては破滅に向かいたいとは思わない。それで彼らは自分の右手に嘘をかかえて、粛々とそこへ赴き、論理的に自らの断罪に直面しては、自分を包み込む地獄の火焔について推論するのである。おゝ! 話をお聞きの愛する方々。この《邪疑》とは縁を切ろうではないか。というのも、そうしなければ、彼は私たちを破滅させるからである。彼が他の人々を破滅させてきたのと同じようにである。「主はこう仰せられる」で満足するがいい。あるがままの聖書を受け入れるがいい。こうした疑いの数々をいつまでも上げ続けてはならない。自分とは全く何の関わりもないような、隠された事がらであくせくしてはならない。こうした難解で込み入った事がらを、いつまでもとやかく云い、問題にし続けながら、自分のあわれな魂を恵みのなさゆえに滅ぼしていくようであってはならない。恵みだけがあなたを、必ず来る御怒りから救うことができるのである。「よろしい」、とある人は云うであろう。「ですが、私はもう少しだけ質問したいと思います」。あゝ! だが、私の愛する方々。覚えておくがいい。よこしまな疑問をあげる習慣は次第に悪化するものなのである。そして最後には、神はあなたを、あなた自身のでっちあげたもので満載になさるのである。あなたが信じたいと思う時、そこから一日でもそちらに近づけば、信じられなくなる。――疑問を掲げることが強い惑わしとなってしまい、あなたは嘘を信じるようになる。――単に不信心者になろうと努めていることから、ついにはベリアルの手練手管に通暁した者となってしまう。しかり。あなたは、神罰博士号を獲得し、あざける者の座に着き、罪に定められ、すでに自分の罪の中でかたくなにされ、火のために熟している。今にも焼かれる準備ができている者たちのようにである。願わくは神が、そうした結末にならないようにしてくださるように。だが、そうならないためには、《邪疑》氏がすみやかに引き出され、絞首台に渡されて、二度とあなたの家の中にかくまわれないようにしなくてはならない。

 私はこのようして、寓話の形で語ってきた。もし私が何か滑稽な言葉を差し挟んだとしたら、それはあなたの注意を引き留めるためであった。私はこの主題がすさまじく厳粛であると感じている。また、そのことについて私たち全員が考えることが必要である。そして私は、これがいくらか寓話的な形で包まれているとしても、また、私がこの悪しき習慣を、あたかもあなたの破滅を求める悪人であるかのように表現してきたからといって、あなたがたがその分だけこのことを軽く見るようなことはないと希望している。私のしめくくりの項目は、とりわけ神の民に対して語りかけるものであり、彼らに対して私は、これが非常に興味深いものとなることを希望する。

 IV. 《邪疑》翁は、大家族の父親であり、ジョン・バニヤンはあなたに彼の家族について告げている。バニヤンによると、彼は《無望》嬢なる者と結婚した。彼女は、《暗黒》翁の娘であり、《暗黒》翁の死後、彼女の伯父である《不信》が彼女を引き取って、自分の娘のように育て、彼女を《邪疑》翁に嫁がせたのである。そして彼は、彼女によって何人かの子どもをもうけた。私は彼らの名前をあなたに示そう。なぜなら、今朝は彼らの老父のみならず、彼らに対しても弾丸を放つよう熱心に努めたいからである。彼らの名前は以下の通りである。――《疑惑》、《律法的生活》、《不信仰》、《キリストに対する謬見》、《神の約束軽視》、《肉感》、《感覚的生活》、《利己心》。この全員が、この父親の子どもであった。そして、この全員について《インマヌエル》王の令状が出されていた。彼らを追跡し、逮捕し、ひとり残らず剣にかけよ、と。

 さて、その長男を取り上げよう。そこに《疑惑》がいる。――彼は《邪疑》の子どもではないだろうか? 何と、その父親の面影が彼の顔に見える。あなたも覚えていよう。《疑惑》がある日、その父親とともにサラの天幕を訪れ、サラがこう云ったことを。「九十歳にもなった私に楽しみがあろうか? この乳房が子どもを養うことなどあろうか?」[創18:12参照] ここには《邪疑》がいた。それからサラは笑った。それは、《疑惑》が自分の風刺劇を少し演じて彼女を笑わせたのである。あゝ! 彼女が信じていさえしたら、彼女はより高貴な称賛に達していただろうに。このようなことを彼女について覚えていなくてはならないというのは、彼女の立派な評判をほとんど汚してしまうことである。――彼女は、神の約束が不可能ででもあるかのように笑った女となった。兄弟姉妹。《疑惑》はしばしばあなたの家を訪ねては、あなたに約束を非難させてきた。彼は云ってきた。「どうしてそのようなことがありえるだろうか? お前のような罪人が、これほど弱く、これほど卑しく、これほどつまらないお前が」、と。おゝ、信仰者よ。約束は真実である。神はご自分のことばを保証し、ご自分の契約にご自分の誓いの証印を押してくださった。ある約束を見るとき、決してそれを疑ってはならない。というのも、《疑い》は《邪疑》の子孫であり、彼は生まれたときからのダイアボラス党だからである。しかしながら、私はやや懸念している。私はきょう彼の名前を公示したし、『叫喚追跡』にて彼の人相書きをあなたに示したが、彼はまだ逮捕されないであろう。あるいは、逮捕されても脱獄し、再び自由の身となるのではないかと思う。というのも、この《疑惑》は国中の至る所にいるからである。また、私は彼が、多くの道端の、人気のない引っ込んだ所で、臨終の床についたあわれな婦人を悩ましているのを見いだす。また、金持ちの人がキリストについて考えている多くの大広間で、この厄介な侵入者によって引き留められているのを見いだす。彼はキリストがその人を受け入れるかどうかについて疑いを吹き込むのである。彼はどこにでもいる。――だが、彼を追い出すがいい。彼を恐れさせ、人目を避けさせるがいい。一部の人々がしているように、彼を甘やかしたり、養ったりしてはならない。《疑惑》が《絶望》となり、あなたの慰めを失わせ、永遠にあなたの心に悲しみをもたらすことになるといけない。

 別の子どもは、《神の約束軽視》である。あなたは彼を知っているだろうか? 彼は約束を疑いはしないが、その端を切り取ってしまう。約束のすべてが成就するのではなく、その一部しか成就しないと主張する。さて、《神の約束軽視》に対しては1つの布告が宣言されている。彼を捕えた者には大きな栄誉が与えられるというのである。というのも、彼は名うての悪党であり、その仕業により王費が多く浪費されたからである。それゆえ、彼が見せしめにされることは得策だったのである。そして、バニヤンは云う。「人は彼を捕まえて、まずさらし台につなぎ、それから彼の手を後ろ手に縛り上げ、人霊の町通りを引き回した。そのとき、町中の子供らや下男下僕は彼をむち打つよう命じられた。それから、最後に絞首刑に処した。これは」、と私たちの著者は云う。「非常にきびしい処置と見えるであろうが、人霊の町が、その貨幣である数々の約束の軽視によっていかに大きな損失をこうむることになるかを考えるならば、私はかれの親類縁者がかれと同じように厳しく取り扱われることを望むとしか云えない」*2。おゝ! もしあなたが約束を切り詰めようと試みたことがあるとしたら、ぜひ二度とそうしたことはよしてほしい。そして、その恵みの豊かさすべてと、その十分さすべてとをあるがままに受け取るようにするがいい。それをあなた自身の観念でさばいてはならない。むしろ、神からやって来るものとして受け取るがいい。天の造幣局から出てきた、燦然と輝くものとして受け取るがいい。それを、その取引先に対するその現行価値そのものに受け取るがいい。そうすれば、あなたは確かに、それと価値の等しい成就を得るはずである。神がその摂理と恵みにおいてあなたのためにそう成就してくださるはずである。そらに、私はこのことをあなたに云いたい。この尊い貨幣をあなたが交換すればするほど、あなたはそれを尊ぶようになるであろう。アースキンがこう云う通りである。――

   「汝が経験(こしかた)に 甘く宣言(の)らせよ、
    想起(おも)い得(う)べくば。
    ここにボキムを、そこにベテルを、
    救世主(きみ)は汝が身に 見させ給わん」。

 それからそこには、《キリストに対する謬見》がいる。あなたは彼を知っているだろうか? よろしい。私も、最近は彼を見かけないような気がする。だが、かつて彼と私は激越な戦いを演じた時があり、彼は酷い目に遭ったと思う。というのも、恵みによって私は非常に激しく彼を打つことができたからである。あなたは、この輩が厚かましくも私に何と告げたか知っているだろうか? 彼は云った。「おゝ! キリストはお前のような罪人を決して受け入れないぞ」。そして、私がキリストのもとに行き、キリストが私が受け入れてくださった後でも、彼は云った。「おゝ! キリストはお前を堅く握ってはいないだろうさ」。キリストは、お前がそうさせればお前を握っているだろうが、お前はキリストにそうさせないだろうさ。というのも、お前はキリストが握っていられないような罪人なのだからな。だからキリストはお前を手放すだろうさ、と。彼はしばしば私に、私の《主人》の不変性を、あるいは、その忠実さ、あるいは、その救いの力を疑わせたことがあった。しかし、私個人の最近に関する限り、私は彼を捕まえて、牢屋に入れておくことができている。彼は、肺病で死にかけていると思う。最近その噂をとんと聞かないからである。彼をきれいさっぱり埋葬できればさぞ嬉しいことであろう。そして、もしあなたがたの中のある人々が彼に悩まされているとしたら、彼を閉じ込めるがいい。自由に歩き回らせていてはならない。というのも、《キリストに対する謬見》は、かの穴の中から出てきた最悪の霊どもの1つだからである。何と! キリストを悪く考えるだと。いつくしみそのものであられるお方のことを、無情で不親切な方のように考えるだと。立ち去れ。《キリストに対する謬見》よ。私たちはお前をかくまいはしない。むしろ終身監禁し、そこでお前を飢え死にさせてやろう。

 あなたがたの中のある人々が知っているかもしれない者が二人いる。《律法的生活》と《感覚的生活》である。《律法的生活》は時々キリスト者をつかまえては、福音的な証拠によってではなく、律法的な証拠によって自らを裁かせる。キリスト者がある命令を守っているとき、《律法的生活》は云うであろう。「さあ、今や、お前はお前の行ないによって生きるがいい」。彼は、キリスト者たちが自らの行ないによっては死んでしまうこと、彼らの最上の者でさえ信仰によってしか生きられないことを知っている。それで、あるキリスト者がうっかり足を滑らせ、その命令を守らないことがあると、《律法的生活》が登場し、こう云うのである。「お前は失われた魂だ。というのも、あの命令を守らなかったからだ」、と。彼は次のことを重々承知しているが関係ない。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです」[Iヨハ2:1]。彼は、いかなるキリスト者もかつて行なったことがなく、これから行なうこともないような律法によって自分のいのちを得ようと試みる。というのも、律法は死から出ており、いのちから出てはいないからである。

 それから、《感覚的生活》がいる。彼は、私たちが感じるものに従って私たち自身を裁かせようとする。もし私たちが幸いで敬虔に感じると、「おゝ」、と彼は云う。「今のお前はほむべき心持ちにある。《主人》はお前を受け入れてくださるだろう」。そのうちにあなたは、不幸せで、鈍重で、冷淡で、不活発に感じるようになる。「おゝ」、と《感覚的生活》は云う。「お前は神の子どもではないのだ。さもなければ、このようにはならないだろう」。さて、できるものなら、こうした輩の双方を捕えて、取り除いてしまうがいい。このような輩は地上から放逐するがいい。彼らを生かしておくのはふさわしくない。さあ、あなたがた、キリスト者たち。彼らを十字架につけ、高く釘づけるがいい。彼らはかの古い肉の親族なのだ。肉とともに死なせるがいい。彼らは決してあなたに何の善ももたらないであろう。彼らは福音とは正反対の徹底的な反対者である。彼らを取り除くがいい。というのも、「信仰から出ていないことは、みな罪」[ロマ14:23]だからである。そして、もし私たちが主イエス・キリストを信じていないとしたら、私たちの感情も私たちの努力も決して私たちの魂をいかなる程度においても救うことはできないのである。《律法的生活》と《感覚的生活》は殺さなくてはならない。

 さて今、注意してほしいと思う。なぜなら、ここには、あなたがたの中のある人々にとって、名を上げ、裕福になる絶好の機会があるからである。もしあなたが完全にこの使命を果たすことができるとしたらそうである。《邪疑》翁の子どもたちのひとりは、《肉感》であった。さてジョン・バニヤンが私たちに告げるところ、――そして私は彼が正しいと信じており、少なくとも、このことには彼の権威が伴っており、それは決して少なからぬ権威であるが、――《人霊》の市場にはこのような布告が発せられているのである。すなわち、《肉感》を、その生死を問わず捕らえ、インマヌエル《王》のもとに連れて来る者は誰でも、貴族にされ、毎日《王》の食卓に列する権利が与えられる。それどころか、《人霊》市の財宝の守る役につけられるというのである。見ての通り、そこには堂々たる好機がある。しかし、ジョン・バニヤンとともに、「あなたに野心があるなら、それはいささか不利なことである。多くの者らは彼を発見しようと努力して大いに時間を費やしたが、決して彼を見つけられなかった。彼が今なお表を出歩いているいることは良く知られている。そして、彼はあわれな人々の家々を夜になると出没し、彼らに悲しみと嘆きをもたらすのである」*3。さて、もしあなたに彼を捕まえることができさえしたら、いかにあなたが高く上げられることになるか見てみるがいい。あなたは、あなたの王と日々交わりを持ち、神のあらゆる宝を持って富裕になるのである。よろしい。神はほむべきかな。私たちは1つのことを知っている。すなわち、もし私たちが《肉感》を殺せなくとも、それでも少しは彼を飢えさせることができ、もし彼が表を出歩くことがあるとしても、それは夜のことになるはずである。というのも、私たちは日中、彼をやって来させはしないだろうからである。老いた《肉感》よ。お前は何という害悪をもたらしてきたことか!

   「主をさばくまじ 肉の感覚(はだ)にて
    むしろ頼めや その御恵みに。
    しかめる顔の 摂理あるとも
    かげに微笑む 御顔あり」。

おゝ! キリスト者たち。肉的な見かけであなたの神を識別できるなどという考えを取り除くがいい。摂理によって約束を受け取ってはならない。むしろ、約束によって摂理を受け取るがいい。あなたのいのちによって、いのちの書を読んではならない。むしろ、いのちの書によって、あなたのいのちを読むがいい。《肉感》とは縁を切るがいい。そうすれば、あなたは幸いになり、神と日々交わりを有し、その宝物倉のすべての富はあなたのものとなるのである。

 次に残っている者については、ごく手短に語らなくてはならない。それは、《利己心》と呼ばれている。あゝ、彼は《邪疑》氏の子どもたちの中でも最大の者のひとりである。さて、《利己心》は裁判にかけられて、死罪の宣告を受けたが、彼には町の中によしみを通じている者が多く、彼らは彼をすぐさま縛り首にすることを好まなかった。しかしながら、王の軍隊の中にひとり勇敢な男がいた。一般の兵士で、夜には野で眠り、多くの困難な務めを行なう必要がある者であった。――彼の名前は、《克己》氏であり、群衆の中から出てくると、まさにこの囚人が無罪放免になろうとしているときに、こう云った。「人霊においてこのような悪者が見のがされているなら、わたしは辞職する」。そして彼は、群衆の中から彼を引っ捕らえると、兵士たちに取りかこませておいた。そして彼は殺された。このことゆえに、王はこの一般の兵士を貴族とし、彼は《人霊》市の中で栄誉を与えられた。「確かに」、とバニヤンは云う。「町の中にはそれを好まなかった多くの者もいたし、このことをぶつぶつ云いはしたが、インマヌエル王がそこにいる限り、それほど大いに云い立てはしなかった」*4。おゝ、あなたはこの《利己心》翁を知っているだろうか? あなたが彼を取り除きたければ、《克己》氏の助けを得るしかない。種々の情愛と情欲とを喜んで否定し、右の目をえぐり、右の手を切り落とし、次から次へと楽しみを明け渡す覚悟をするしかない。そうするとき、自我は足で踏みにじられ、イエス・キリストがすべてのすべてとなるであろう。

 もうひとりの子どもがいる。私は彼を最後まで取っておいた。それでこの家族については終わりとなる。――《不信仰》である。「さて」、とバニヤンは云う。「《不信仰》は敏捷な輩であった」。彼はしばしば捕らえられたが、かのよこしまな羊飼いの英雄のように、常に自分の牢獄を破っては、外に出てきた。彼はしばしば禁固されたが、常に脱出し、毎日どこかをうろついている。おゝ、兄弟姉妹。《不信仰》は、きょうも出歩いている。あなたがたの中の誰かを攻撃し、あなたの宝石類をもぎ取ろうとするであろう。私は切に願う。彼をかくまってはならない。むしろ、信仰によって生きるがいい。いかに多くの者が不信仰によって死んだか思い出すがいい。それゆえ、すがりつくがいい。――キリストにすがりつくがいい。

   「信仰の目が よし霞むとも
    なおもつかめよ、主に、すべてかけ、
    なおも御足の もとにひれ伏せ。
    イスラエルの神 汝が力ならん」。

あなたの種々の証拠が暗くなり、あなたの数々の喜びがなくなるとき、それでも十字架を抱きしめるがいい。そして覚えておくがいい。そこで信頼しているうちは決して滅びることがありえないことを。

 そして、あなたがた、あわれな罪人たち。この最後の言葉はあなたのためのものである。あなたの数々の疑念とは縁を切り、あなたの一切の疑念をキリストの十字架のもとで終わらせるがいい。私の《主人》をいま仰ぎ見るがいい。一目であなたは救われるであろう。主を信頼するがいい。そうすれば、あなたは救われる。――いま救われ、永遠に救われる。自分を主に投げかけるがいい。あなた自身の機知や知恵とは縁を切るがいい。主をあなたの知恵とし、あなたの義とし、あなたのすべてとするがいい。そうすれば、主はあなたをお捨てにならないであろう。あわれな魂よ! 主はあなたを受け入れてくださる。あなたがサタンそのひとのようにどす黒くとも関係ない。主はあなたを洗い、きよくしてくださる。あなたをご自分のものとし、不滅の冠をあなたの頭に戴かせてくださる。栄光の衣をあなたに着せてくださる。そして、主がご自分の宝石類を完全なものとする日、あなたは主のものであるであろう。

 


(訳注)

*1 ジョン・バニヤン、『バニヤン著作集IV 聖戦』、(高村信一訳)、山本書店、1969、p.297。[本文に戻る]

*2 前掲書。p.301参照。この通りの文章はバニヤンの『聖戦』の中にはない。スポルジョンは記憶を頼りに語ったか、非常に自由に云い換えながら引用したものと思われる。[本文に戻る]

*3 この通りのバニヤンの文章はない。やはりスポルジョンは記憶から語ったと思われる。[本文に戻る]

*4 前掲書。p. 301-302参照。これも自由な引用。将軍である《克己》を一般の兵士とするなど、バニヤンの記述とは違う点があり、スポルジョンの記憶違いと思われる。[本文に戻る]

 

《邪疑》氏の裁判と処刑[了]

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