万病に効く妙薬
NO. 284
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---- 1856年11月9日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂「万軍の神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます」。――詩80:7
これは、詩篇作者がこの詩篇でささげている唯一の祈りであるように思われる。さながら、これだけで、彼が嘆いていたよろずの災いを取り除くのに十分であるかのようである。彼は隣人らの争いや敵のあざけりのことで嘆息し[6節]、みごとな葡萄の木の無惨な状態を嘆き悲しみ[16節]、破れた石垣や、これを食い荒らし、これを食べる野の獣について不平を云ってはいるが[12-13節]、こうした悪のことを、《いと高き方》に向かって事細かに嘆願してはいない。むしろ自分のあらゆる願いを1つの祈りにまとめ、それを何度となく反復している。――「万軍の神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます」。その理由は明らかである。彼は、あらゆる災厄のもとが1つの源泉にあるとしていた。「神、主よ。いつまで、……怒りを燃やしておられるのでしょう」[4節]。そして今、彼は1つの泉によって清新にされることを求めているのである。あなたの御顔がもはや渋面とならないようにし、私たちに微笑みかけるようにしてください。そうすれば、すべては良くなります、と。このことは、キリスト教会にとってこの上もない教訓である。「困難、試練、逆境の中にあるときには、まず第一に、他の何にもまして、もっぱら、あなた自身の内なる信仰の復興を求め、あなた自身の心の内なる神の臨在を求めるがいい。そうするときあなたは、それ以外に祈り求めるべきことはほとんどない。他の何があなたにふりかかろうと、それはあなたのためになり、あなたの行く道にたちはだかるように見えるすべては、実はあなたを前に進める順風であり、あなたの願う港へとあなたを軽々と運んでくれるのである。ただ一心に神を求め、自分が再び神のもとに返れるように、また神があなたに御顔の光を与えてくださることを求めるがいい。そのとき、あなたは救われるであろう」。
さて今朝の説教は、特に私自身の教会に語りかけるものとなるであろう。私は、私たちの中に真のキリスト教信仰がなくてはならないこと、また、あらゆる冷淡さや無関心から息を吹き返すことが絶対に必要であることを語るであろう。他にも、私たちが神に願ってよいおびただしい数の事がらはある。だが、なかんずく、このことを私たちの主たる祈願としようではないか。「主よ。復興(いか)しめ給え。主よ。復興(いか)しめ給え!」 私たちは今しがた、それを歌で口にした。これからは私に、記憶を呼びさますことで、あなたがたの純真な心を奮い立たさせてほしい[IIペテ3:1]。そして、あなたがこれを密室の祈りの中でも口に出し、あなたの魂の日ごとの熱望となるようにさせてほしい。愛する方々。私はこう感じている。神は、いかなる反対にもかかわらず、私たちが、「私たちを愛してくださった方によって……圧倒的な勝利者となる」[ロマ8:37]ようにしてくださる、と。もしも私たちが、自分に対して、また神に対して真実であるならばそうである。しかし、たとい万事が順調に進み、私たちの頭上を常に太陽が照らしているとしても、私たち自身に敬虔さが欠けているとしたら、私たちは決して生き生きと成長することはないであろう。単にキリスト教信仰の見せかけを保つばかりで、聖霊の力そのものが私たちの真中で現わされていなければ、そうであろう。
私が今朝あなたに強く云いたいのは、まず第一に、信仰復興のもたらす恩恵である。見ればわかるように、そのいくつかはこの詩篇で示唆されている。第二に、信仰復興の手段である。――「万軍の神よ。私たちをもとに返してください」*。そして第三に、私はあなたに、そうした手段を用いて、こうした恩恵を獲得できるように勧告したい。
I. 《信仰復興が世にあるいずれの教会にもたらす恩恵》も、永続的な祝福となるであろう。私が云っているのは、数年前に非常に流行したような、偽りで、まがいものの類の信仰復興ではない。それは決して、人々を発作的な敬虔さに至らせ、分別のある存在から、自分が理解もしていない何らかの信仰について、狂人のようにしゃべりまくることしかできない者へと変えてしまうような宗教的興奮のことではない。私はそのようなものを、真にまことの信仰復興だとは思わない。真の信仰復興には、敬虔な思いによる非常な熱気と熱情が伴ってはいるものの、いのちだけでなく知識があり、力だけでなく悟りがある。純粋であると考えられる信仰復興とは、米国のエドワーズ学長や、わが国のホイットフィールドのような人々を介してもたらされたようなものである。彼らは、無代価の福音を完全無欠な形で説教した。そうした信仰復興を私は純粋なものと考えるものであり、そうした信仰復興こそ――もう一度云うが――、天の下のいかなる教会にも恩恵となるものであろう。いかに健全な教会といえども、改善の余地がないような教会はない。むしろ数多くの教会は、あまりにも低く沈み込んでしまっており、霊的に死にたくなければ、「主よ。復興(いか)しめ給え」、と叫ぶべき大きな必要がある。
キリスト者たちが信仰復興を経験することによる祝福として、最初に注意したいのは、罪人たちの救いである。神が教会の上にその御霊を、通常よりも大きな度合で注ぎ出してくださるとき、そこには常に魂の救いが伴う。そして、おゝ、魂が救われるということは、重大な事がらである。一部の人々はあざ笑い、魂の救いなど何でもないと考えるが、愛する方々。あなたは魂の価値を大いに知っていると思う。あなたは、たった1つの魂でも死から救い出す手段となれるとしたら、自分のいのちを投げ出してもかまわないと思うであろう。魂を救うことは、もしもある人がひとたび滅び行く罪人たちへの愛、自分のほむべき《主人》への愛を得たならば、その人のすべてを飲み尽くすような情熱となるであろう。その情熱にかられてその人は、ほとんどわれを忘れて、他の人々を救おうとするようになるであろう。その人は、焼き焦がされることも火も恐れない勇敢な消防士のようになる。真の人間ならだれしも心にかける、あわれな犠牲者を救おうとするその人は、燃える炎の中からそうした人をつかみとらなくてはならないし、つかみとるであろう。いかなる代価、代償を払うことになろと関係ない。おゝ、たった今あげた、かのホイットフィールドのような人の熱心さよ! 彼はその説教の1つでこう云っている。「わが神よ、私は日々、魂の救いを思って呻いています。時として私は、ロンドンの街路を走るあらゆる貸し馬車の上に立ってでも、神のことばを宣べ伝えられると思うことがある。昼も夜も、そのため絶え間なく筆を走らせ、説教する労苦に励んでいてさえ十分ではない。私は千人に分身したいと思う。そのようにして、私のほむべき《贖い主》のこの福音を、千の舌によって宣べ伝えられたらどれほどよいことか」。あゝ、あなたの見かけるあまりにも多くのキリスト者は、罪人たちが救われることなど全く意に介していない。教役者は説教するかもしれないが、その結果にどれだけ心を留めているだろうか? 彼は、お上品な会衆と、静かな聴衆がいさえすれば十分なのである。愛する方々。私たちは、魂が救われることもなく諸集会を行なっていくほど低い状態には決して沈んでならないと思う。私は、私の神に何度も祈ってきたし、その祈りを繰り返したいと思う。すなわち、もはや私が神のために魂を救えなくなり、神の選民を家へ集めることがなくなるようなときには、神が私をご自分のもとへ取り去ってくださるように。私が神の葡萄畑の、何の役にも立たない場所ふさぎとして立ち、もはや生み出すべき収穫が何もないのを見るばかりとなるようなことがないように、と。私は、教会の諸集会において、あなたの喜ばしい目を見てきた。夜な夜な罪人たちは私に、主が彼らのためにいかなることをしてくださったかを告げてくれた。私は、酔いどれや、冒涜者や、ありとあらゆる種類の無頓着な人々が、心底から神に立ち返り、新しい人生を送るようになるときに、いかなる喜びをあなたが覚えるか目にしてきた。さて、よく聞くがいい。もしこうした事がらを続けたいと思うのであれば、また、何にもまして、こうした事がらを何倍にもしたいとしたら、私たちは、私たちの中で信仰復興を有さなくてはならない。そのために私たちはこう叫ばなくてはならないし、叫ぶものである。「おゝ、主よ。私たちの神よ。あなたの農園をお訪ねになり、あなたの力ある御霊を私たちの上に再び注ぎ出してください」、と。
教会における信仰復興のもう1つの影響は、通常、真の愛と心の一致とが、その真中で増進することである。もしも英国中で最も怠惰な教会がどこかわかるとしたら、最もいがみあいの多い教会がどこかもわかったことになるであろう。最近それはことわざにさえなっている。人は、人々がぐっすり寝込んでいるときには、「教会のようにぐっすり眠っている」、という。――あたかも、存在するものの中で、教会こそ最もぐっすり寝入っているものであるかのように! 悲しいかな、このことわざには大きな真実が含まれている。商売のため設立された商店の中にいるすべての者が目を大きく開いているというのに、――富をかき集めることを目的としている会社が常に油断なく警戒しているというのに、――諸教会は、その大部分が、善を施すための手段を怠り、自分たちの《主人》の御国を前進させる聖なる機会を無駄に費やしているように見受けられるのである。そして、この理由によって私たちの中の多くの者らは分裂しているのである。そこには嫉妬があり、心の疼きがあり、魂の苛立ちがあり、互いに相争うことがある。活発な教会とは、一致した教会であろう。まどろんでいる教会は、必ずやいがみあっている教会であろう。もしある教役者がある教会の傷をいやしたいと願うのであれば、また、その教会員たちを心の一致に至らせたいとしたら、その人は神に向かって、自分たち全員の手を満たすに足るだけのものを与えてくださるよう願うがいい。そして、彼らの手が、その《主人》の働きで満たされるとき、また彼らの口が《主人》への賛美で一杯になるとき、彼らは互いに食い合うための時間、自分の口を中傷や非難で満たすための時間が全くなくなるであろう。おゝ、もし神が私たちに信仰復興を与えてくださるとしたら、私たちは完璧に心を1つにするであろう。神はほむべきかな。私たちは、大方は心を1つにしている。だが、おゝ、私たちの心がひとりの人の心のようにより堅く結び合わされることになれば、どれほどよいことか。――私たちが、生ける神の軍隊の一翼を担う私たちが、ひとりとして互いへの怒りや悪意を持たなくなり、むしろ――私たち全員がそうであると信じたいが――キリスト・イエスにある兄弟姉妹として、名実ともにそのような生き方ができたらどれほどよいことか。おゝ、キリストが私たちに、すべてを信じ、すべてを期待し、すべての人の重荷を負う精神を与えてくださるとしたらどれほどよいことか。そのとき私たちは、小さな事がらや、判断や意見の違いは見過ごしにし、切れない三つ撚りの糸[伝4:12]で結び合わされるであろう。信仰復興は、教会の一致のために必要だと思う。
また信仰復興が必要なのは、真理の敵の口がふさがれるためである。彼らは私たちに逆らってその口を大きく開いていないだろうか? 私たちに対して横柄に語っていないだろうか?――左様。そして、私たちに対してばかりでなく、私たちが宣べ伝える真理と、私たちが誉れを帰す神に対して横柄な口をきいていないだろうか? いかに彼らの口をふさげばよいだろうか? 彼らに返答することによってだろうか? 否。私たちは、自分を弁護するために口にするいかなる一言をも、不潔な笑いぐさであると考える。もし私たちのふるまいが好印象を与えるに足るほど高潔なものでないとしたら、それを褒める言葉を、私たちは一言も口にはすまい。しかし、私たちの敵対者たちの口を閉ざすことのできる道はこうである。私たちの中に信仰復興を求めることである。何と! 彼らが私たちの伝道活動を悪しざまにののしっているというのか? より多くの魂が救われるとしたら、それに彼らは毒づくことができるだろうか? 左様。そうしたければ、そうするがいい。彼らは諸教理の悪口を云うだろうか? そうするがいい。だが、私たちの生き方は聖いものとしよう。そして、彼らが私たちの諸教理は人を罪に導くものだと云おうとするとき、嘘をつかざるをえないようにしよう。私たちは、熱心な者、この上もなく聖い者、神に似た者、キリストに似た者となり、彼らが何と云おうと、彼ら自身の良心が彼らにこう告げるようにさせよう。「お前は、あの人の悪口を云うとき、偽りを口にしているのだ」、と。これが清教徒たちの栄光であった。彼らの宣べ伝えた諸教理は、彼らを非難にさらさせるようなものであった。大胆に云えば、私はその清教徒たちの教理を宣べ伝えてきたのであり、さらに大胆に云えば、私の講話の中で最も激しく反対されてきた部分は、古の父祖たちからの、あるいは何名かの清教徒たちからの引用であることが何度となくあった。私はしばしば、そうした部分が糾弾されるのを見るとき微笑んで、こう云ったものである。「さて、先生。あなたが糾弾したのはチャーノク、あるいはバニヤン、あるいはハウ、あるいはドッドリジなのですよ」。――あるいはそれは、そのときたまたま私が引用した、他のいずれかの神の聖徒たちであった。糾弾という言葉があてはまるのは彼らであって、それゆえ、それほど私は大した影響を受けなかった。彼らは在世中に非難を浴びせかけられたが、いかにしてその中傷者たちに答えただろうか? 非難されることのない、聖い生き方によってである。彼らは、エノクのように神とともに歩んだ。そして、自分たちについてこの世が何と云おうと、自分たちの家族を最も厳格に敬虔なものとして保ち、彼ら自身、世にあって最も厳密に高潔な者であり続けた。それで、彼らの敵については、「彼らは良いわざについて語った」、と云われたが、この清教徒たちについては、「彼らは良いわざを行なった」、と云われたのである。そして、一方ではアルミニウス主義者たちが――というのも、当時の彼らはそうだったからである。――罪の中で生きていたのに、カルヴァン主義者と呼ばれ、笑い者にされていた人は義に生き、罪を助長するものと云われていた教理は、後では、聖さを助長するものであることがわかったのである。私たちはこの世に挑戦したい。最初の瞬間から今に至るまで、無代価の恵みの諸教理を信奉してきた人々にまさって聖い人々を見つけられるものなら、見つけてみせるがいい、と。彼らはあらゆる歴史の中で――彼らの敵によってすら――認められきた。この上もなく敬虔で、神を恐れ、自分を特に神のことばの朗読と、神の律法の実践とにささげてきた、と。また、自分では、自分が信仰のみにより、キリストの血を通して義と認められた、と云っていたが、この人々ほど、敬虔さのあらゆる実践において、大きな誉れを神に帰そうと求めてきた人々はいなかった。彼らは、「良いわざに熱心なキリストご自身の民」*[テト2:14]であった。彼らの信仰に私たちはならい、彼らの愛を見習おうではないか。私たちは、この場所に信仰復興が起こることを求めよう。そのようにして、私たちの敵の口を、完全には閉ざされなくとも、私たちに毒づくとき彼らの良心が彼らに反対するくらいには、閉ざさせよう。私たちは、彼らの罪人呼ばわりを沈黙させるのに、いかなる卓越した返答も必要ない。私たちの弁明をするのに、いかなる博学な論説を提出する必要もない。私は、私の友人たちが行なってくれているすべてのことに感謝する。だが、それが生じさせている真の効果については大して感謝しはしない。私たちは正しい生き方を続けよう。正しいわざを続けよう。正しい説教をし続け、今までよりも良く私たちの神に仕えよう。そうすれば、たとい地獄が吠えたけり、地が激動で鳴り轟こうとも、私たち自身の霊は怯えすくむことはなく、《いと高き方》ご自身が、私たちをそうした猛威から守ってくださる。では私たちが信仰復興を必要とするのは、こうした3つの理由からであり、そのそれぞれがそれ自体で大きなものである。
だが何にもまして、もし私たちが神の栄光を押し進めようと願うならば、信仰復興が必要である。キリスト者生活の適正な目的は神の栄光である。教会が作られたのは、神の栄光を現わすためである。だが、神の御名に栄光をもたらすのは、息を吹き返した教会だけである。あなたは、諸教会のすべてが神に誉れを与えていると思うだろうか? 私は否と云いたい。その中のいくつかは御名に泥を塗っている。――その誤った諸教理のゆえにでも、その儀式に何らかの欠陥があるためでもなく、彼らのキリスト教信仰にいのちの欠けがあるためである。祈祷会がある。教役者を除くと出席者は六名である。これが、神に対するあなたがたの敬意を表わすことだろうか? それが、キリスト教に誉れを帰すことだろうか? こうした人々の家に行って、ひとりきりになったときの彼らがいかなる生活をしているか見てみるがいい。神の前で彼らがいかに歩んでいるかに注目するがいい。彼らの聖所に行き、彼らの賛美歌を聞くと、そこには音楽の美しさがあるが、信徒たちのいのちはどこにあるだろうか? 説教を聞くがいい。それは入念で、洗練された、完全な、雄弁術の傑作である。しかし、自問してみるがいい。「奇蹟でも起これば別だが、あんなもので魂が救われるだろうか? 人々を奮い立たせて敬虔さに向かわせるに適したものが何かあっただろうか? それは彼らの耳を喜ばせた。ことによると、ある程度は彼らに教えを与えたかもしれない。だが、彼らの心を教えるものが何かあっただろうか?」 あゝ、こうした説教者が数多くいることは神がご存じである。彼らの学識や彼らの美辞麗句にもかかわらず、彼らは福音を、その単純なかたちで宣べ伝えておらず、彼らは私たちの父なる神に近づいていない。もし私たちが教会によって神に誉れを与えたければ、私たちには暖かい教会、燃える教会、それがいだく真理を愛する教会、それを生活において実践している教会がなくてはならない。おゝ、神が私たちに高みからいのちを与えてくださるならどれほどよいことか。そうすれば私たちは、「生きているとされているが、実は死んでいる」[黙3:1]と云われた古の教会のようにはならずにすむであろう。こうした事がらが、信仰復興のもたらす恩恵のいくつかである。
II. 《信仰復興をもたらす手段は何だろうか?》 それには2つある。1つは、「万軍の神よ。私たちをもとに返してください」、であり、もう1つは、「御顔を照り輝かせてください」、である。この双方がなければ、いかなる信仰復興もありえない。愛する方々。ここで私に、この最初の手段をあなたにあてはめるため、あなたがたひとりひとりの属する種別ごとに語りかけさせてほしい。
「万軍の神よ。私たちをもとに返してください」。あなたがたの教役者は、主なるその神に対して、ずっと徹底的に立ち返る必要を感じている。神の御助けがあるなら、彼の祈りはこうなるであろう。願わくは、自分が今まで以上に恐れなく、忠実な者となるように。自分が口にすることについて、あなたがたの中のだれかが何と云うだろうかなどとは一瞬たりとも考えず、むしろ、神である自分の《主人》が自分について何と仰せになるかだけを考えるように。――自分がこうした決意とともに講壇に立てるように。――真理に関する限り、あなたがたの意見など、あなたがたがみな石ころででもあるかのように頓着することなく、ただこのように決意を固めているように。――主なる神が自分に云われることは何でも、その損得にかかわらず、語らなくてはならない、と。そして自分は、自分の《主人》にこう願いたいと思う。自分が、今まで以上に、こうした祈り心を持ちつつここにやって来ることができるように。何を説教するにせよ、それが自分の魂の中で燃えさかるものであるように。また、あなたがた全員が、たとい自分ではそれを真実であると思わなくとも、少なくともこの人はそれを信じているのだ、魂の奥底から信じているのだ、とわかるほどになるように、と。そして私は神に求めるであろう。自分があなたに説教するとき、自分の言葉には強大な天来の力が伴うように、と。私は、この働きにおいて、いかなる能力を持っているふりもすっぱりやめにする。私は、自分が何か魂を救えるものや、話の魅力によってひとりひとりを引き寄せることのできるものを何か有しているなどという考えを、これっぽっちもいだかない。もしあなたが私の説教によって益を受けることがあるとしたら、それは神のみわざであり、神のみわざでしかないのだと感じる。そして私は神に祈る。私が自分自身の弱さをより多く教えられるように、と。私の敵たちが私を悪く云う点において、私は、彼らの云うことを信じるかもしれない。が、それでもこう叫ぶであろう。
「われ弱くとも 御力あらば
すべてのことを 成し遂げうべし」。あなたがたも、そうしたことを私のために願ってくれるだろうか? 私がいやまさって神のもとに立ち返り、あなたがたの霊的健康が押し進められるようにと。
しかし、あなたがたの中のある人々は教会の中で奉仕している働き人である。大勢の人々がキリスト教のための活動に携わっている。《日曜学校》において、小冊子の配布において、村々で、またこの巨大な都でみことばを宣べ伝えることにおいて――あなたがたの中の多くの方々は神に仕えて苦闘している。さて、私があなたがたに願い、勧告したいのはこのことである。「主よ。私たちをもとに返してください」。愛する同労の方々。あなたは、あなたのすべての労苦において、もっと神の御霊を必要としている。残念ながら私たちは、御霊を忘れすぎているのではないかと思う。私たちは、今よりも格段に御霊のことを思い起こす必要がある。《日曜学校》の教師たち。自分の学級に出席するときには、神の栄光をより高めたいとの真摯な願いをもって、神の御力に全くより頼みつつ、そうできるように神に叫び求めるがいい。あなたの生徒たちをそこに集めては、家に帰すだけという、決まり切った機械的なやり方で満足していてはならない。むしろ叫ぶがいい。「主よ。自分の生徒の魂のために教師が感ずべき苦悶を私たちにお与えください」、と。自分が深い感情をもって日曜学校へ行けるように願うがいい。子どもたちの心について覚える、愛の心痛とともに行けるように、また、あなたが彼らに教えるとき、涙をためた目と、あなたが彼らの救いと死からの解放の手段となれるようという、天の前における呻きをもって教えられるように願うがいい。また、あなたがた、他の道において神に仕えている人たち。私は切に願う。これまでのように、それを行なうだけで満足してはならない。あなたは、あなたの同輩たちからそれなりの承認を得るに足るだけは上手にやってきたかもしれない。それを、主の前であるかのように、より良く行なうがいい。私がより良くと云っているのは、決して外見上のかたちについてではなく、それに伴う内的な恵みについてより良くということである。おゝ! 神に求めるがいい。あなたのわざが純粋な動機から出た、さらに単純なもの、キリストを信ずる信仰を伴うもの、一層堅く主により頼みつつなされるもの、より良く行なえるようにとのずっと熱心な祈りを伴ったものとなるように。「私たちをもとに返してください」、は、イエスのために何事かを行なっている人すべての叫びであると望みたい。
あなたがたの中の別の人々は、とりなし手である。そして、ここで私は、この場所にいる主を愛するすべての人々を含んでいるものと思いたい。おゝ! ある教会の力のいかに大きな部分が、こうしたとりなし手たちにかかっていることか! 私はほとんど、とりなし手たちさえいれば、働き人などなくとも、より良く行なえるだろうと云うところであった。いかなる教会であれ、それがしかるべく成長するためには、神にとりなす人々が必要である。――神に申し立て、神を説き伏せるすべを知っている人々が必要である。愛する方々。私は、この点においてもあなたがたを奮い立たせなくてはならない。もしあなたが、この場所で、あるいは他のいずれの場所ででも、魂の救いということについて、大いなる事がらがなされるのを見たければ、あなたは今までしてきた以上の熱心さをもってとりなさなくてはならない。私は、私たちの祈祷会が常に満員であることについて神に感謝するものである。だが、あなたがたの中には、私が願うほど頻繁には顔を見せない人々がいる。あなたがたの中の一部の商売人たちは、最後の半時間になってようやくやって来るのが習慣になっており、私はあなたの顔を見ては、祈るように求める。六箇月もの間、私はあなたがたの中のある人々の顔を全く見ていない。他の人々の中には、私の知る限り、あなたと同じくらい多忙でありながら、どうにかして必ずこの場にやって来る人々もいる。なぜあなたがそうできないのだろうか? もしあなたが祈りを愛していないとしたら、祈りを愛するようになるまで来ないでほしいと思う。しかし私は神に願う。神があなたの思いのあり方を変えてくださり、あなたの魂がずっと徹底的に主の教会とともにあるようになり、あなたがずっと徹底的に主への奉仕に献身するようになるように、と。私たちの祈祷会は、多くの出席者を数え、満員となっている。だが、まだまだ出席者が増える余地はあり、私たちの間からは、「勇士として主の手助けに来」る[士5:23]人々が出るであろう。実際、私たちにはより多くの祈りが必要である。あなたがたの自宅における祈りは、確かに、過去三週間のあいだ、それまで以上に熱心なものであったに違いない。その祈りを、一層熱心なものとするがいい。祈りによってこそ、私たちは神により頼まなくてはならない。祈りによってこそ、神は私たちを強めてくださる。私は切に願う。愛する方々。神と格闘するがいい。私は互いに対する、また神の真理に対するあなたがたの愛を知っている。密室においても、公にも、神と格闘するがいい。神がなおも天の窓を開き、あふれるばかりの祝福[マラ3:10]を私たちに注ぎ出してくださるように。祈りによるとりなしについても、私たちはもとに返ることがなくてはならない。
さらに、あなたがたの中にいる、イエスとの交わりを持つことに慣れているすべての人々もまた、もとに返ることが必要である。あなたがたの中には、この聖く天的な習慣をほとんど破ったことがない人々がいる。あなたの朝明けは祈りによって聖別され、あなたの夕まぐれは賛美の声によって閉じられる。あなたは、あなたの日ごとの務めにおいてイエスとともに歩んてせきた。あなたは真のエノクであり、ヨハネである。あなたは、あなたの主の御胸に自分の頭をもたせてきた。しかし、あゝ! あなたがたの中のある人々は、最近、交わりがとどこおっていることに気づいていないだろうか? あなたに語りかける代わりに、私たち自身について個人的に語ってみよう。私たちは、自分でも、イエスとの交わりが薄くなっていないだろうか? 主に対する私たちの祈りはまばらになっていないだろうか? 主の啓示は、私たちにとって前よりも輝いていないではないだろうか? 自分の心にインマヌエルをいだきもせずに生きることで満足してこなかっただろうか? 私たちの中のある者らは、最後に自分の糧を交わりの蜜に浸してから、どのくらいになるだろうか? おゝ! 愛する方々。切に願わせてほしい。神に向かって、「私たちをもとに返してください」、と叫び求めるがいい。交わりなしで生きることは、決して私たちのためにならない。私たちは、イエスとの不断にして毎時の交わり抜きに生きることはできないし、してはならないし、しようとも思わない。私はこの件であなたを奮い立たせたいと思う。神に求めるがいい。あなたが立ち返り、あなたの目の中でイエスの麗しさを経験し、主の御目の中におけるあなたの麗しさをより一層知ることができるように。
そして、もうひとたび、愛する方々。「私たちをもとに返してください」、はあなたがた全員の祈りでなくてはならない。単に信仰的なあなたの労苦においてのみならず、あなたの日常生活においてもそうである。おゝ! いかに私は、あなたがたひとりひとりについて呻いていることか。特に、キリストにあって私たちが生んだ者たちについてそうである。神が私を手段として、世の暗闇から驚くべき光の中[Iペテ2:9]に引き入れてくださった者らについてそうである。私は願っている。あなたの生活が、あなたの信仰告白にとって誉れとなるように、と。おゝ! 私の愛する方々。信仰を告白するあなたがたのうち、だれひとり、神と人とに対して偽り者であると見いだされるようなことがないように。多くの人々は、バプテスマを受けていながら、それは迷妄の水の中に沈められたのである。ある人々は聖礼典の葡萄酒を唇の間に押し込めながら、自分たちの集う教会にとって不名誉であり恥辱となっている。ある人々はこの場で私たちとともに賛美歌を歌いながら、よその場所に行ってはサタンの歌を唄うことができる。左様。あなたがたの中に、私にはつきとめられず、執事たちにもつきとめられず、教会員同士でもつきめられはしないが、自分の良心から、お前は教会の一員としてふさわしくない、と告げられている人々がいないだろうか? あなたは私たちの仲間の中にもぐり込み、私たちを欺き、私たちの中の癌のようになっている。願わくは神があなたを赦し、あなたの心を変えてくださるように。神があなたをご自分へと立ち返らせてくださるように! そして、おゝ、私の兄弟たち。私たちはみな、大本ではしっかりしていると希望しているものの、それでも、いかに大きな向上と改善の余地があることか! あなたの家庭はいかに営まれているだろうか? あなたの子どもたちには、私たちが願えるほどの真実で熱心な祈り深さがあるだろうか? あなたの仕事はいかに営まれているだろうか? あなたは商売上のごまかしに全く手を染めていないだろうか? 他の人々が普通に行なっている習慣から離れて、こう云うことができるだろうか? 「たといあらゆる人が間違ったことをしているとしても、私がそうしなくてはならない理由にはならない。――私は正しく事を行なわなくてはならないし、そう行なうであろう」。あなたは語り方を知っているだろうか? あなたは天の国訛りを身につけているだろうか? あなたは、あらゆる愚かさや、あらゆる不潔な会話を避け、世にあってイエス・キリストのかたちを身に帯びようと努めているだろうか? 私があなたに尋ねているのは決して、「汝」だの「われ」だのを用いたり、型にはまった、これみよがしな謙遜さを示しているかどうかではない。あなたの言葉遣いを神のことばによって取り締まるすべを知っているかどうかである。私は、ある程度まで、あなたがたはみなそれを知っていると信頼しているが、私たちが望むほどではないであろう。ならば、あなたがた、キリスト者たちは叫ぶがいい。「神よ。私たちをもとに返してください」、と。私は切に願う。たといあなたが、他に何も罪を犯していなくとも、これによっていかに神に不名誉が帰されるかを覚えておくがいい。何と! あなたはキリストに、また私たちの告白する諸教理に恥辱をもたらそうというのだろうか? それらは、私たちがつまずきの種を与えるまでもなく、すでに十分に悪口を云われている。人々が私たちをののしることのできる本物の口実を与えるまでもなく、いやと云うほどの嘘偽りがでっちあげられている。おゝ! キリスト・イエスにある私の兄弟姉妹たち。もしそれが役に立つと思うなら、私は膝まずき、命をかけてもあなたがたに乞い願うであろう。どうかイエスに近く歩んでほしいと。私はまことに聖霊に祈るものである。御霊があらゆる場所において、あなたの上にとどまり、あなたの生活が「キリストの福音にふさわし」い[ピリ1:27]ものとなり、大小を問わず、あらゆる行為において、またあらゆる種類のあらゆる言葉において、高き所からの影響があり、あなたを正しく形づくり、正しく保ち、すべてのことにおいて、ますますあなたが敬虔の模範となり、イエス・キリストのかたちを映し出せるようにしてくださるように。
愛する方々。もう一度それぞれの人に向かって個人的に語ることにするが、私たちは――私たちの中の多くの者らは――いま自分の願う状態にあるだろうか? 私たちは自分の手を胸に当てて、こう云えるだろうか? 「おゝ、主よ。私は霊的な事がらにおいて、ちょうど私が願っているところにいます」、と。否、私たちの中のひとりとして、そう云える者はいないと思う。今の私たちは、この会衆席で死ぬことになるとしたら、自分の願うべき状態にあるだろうか? さあ先週一週間のあいだの私たちは、自分の全生涯における典型となってほしいような生き方をしてきただろうか? そうではないと思う。兄弟たち。あなたの証拠はどうだろうか?――あなたは天国を望んで輝いているだろうか? あなたの心はどうだろうか?――それは全くイエスに据えられているだろうか? あなたの信仰はどうだろうか?――それは神だけを深く思い巡らしているだろうか? あなたの魂は病んでいるだろうか、健康だろうか? あなたは花を開かせ、実を結んでいるだろうか? それとも、乾いた、不毛の土地のような感じだろうか? あなたがたの中には、祈りにおいて自分がひどく冷淡で、物憂く感じられるあまり、祈りが重荷となっている人がいないだろうか? あなたの種々の試練についてはどうだろうか? それは、以前のいかなるときにそうであったよりも、ずっとひどくあなたの心を引き裂いてはいないだろうか? それはあなたが、いかに自分の重荷を主に投げかけるべきかを忘れてしまっているからである。あなたの日常生活についてはどうだろうか? あなたには、それについて、完全には自分の願えるだけのものになっていないがために嘆くべき原因がないだろうか? あゝ! 愛する方々。後退することを小さなこととみなしてはならない。かつてよりも熱心でなくなることを大した問題ではないと考えてはならない。あゝ! 衰えが始まるのは悲しいことである。しかしあなたがたの中のいかに多くがそうなり始めていることか! いま私たちの祈りをこうささげようではないか。――
「主よ。復興(いか)しめ給え、復興(いか)しめ給え。
われらが助け 汝れのみにあり」。私は切に願う。私たちの父なる神の、また私たちの兄弟イエス・キリストの御名によって切に乞い願う。ぜひとも、あなた自身の心を探り、自分自身を吟味し、このような祈りをささげるがいい。「主よ。私が正しくあるところでは、あらゆる反対や争闘に抗して、正しくあり続けさせてください。ですが、私が間違っているところでは、主よ。私たちを正しくしてください。イエスのゆえに」。私たちは、自分の胸の中に信仰復興を有したければ、このように神のもとに立ち返らなくてはならない。聖ならざる生き方をするあらゆる人、あらゆる冷淡な心、神に全く献身していないあらゆる人は、私たちが信仰復興を有する妨げとなっている。いったん私たちが自分の魂のすべてを完全に主に立ち返らせたならば、そのときには――そのときこそ初めて――神は私たちをして《贖い主》の魂の苦しみを見させ、こう云わせてくださるであろう。「神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように」*[詩67:6-7]、と。
信仰復興のもう1つの手段は尊いものである。――「御顔を照り輝かせてください」。あゝ! 愛する方々。私たちは神に願えるであろう。私たちがみな献身する者となり、みな神のしもべとなり、みな祈り深い者となり、みな自分の望む通りの者となれるように、と。だが、この第二の祈りがかなえられない限り、それは決して実現しないであろう。そして、たといこれなしにそれが実現したとしても、どこにその祝福があるだろうか? 神が御顔をその教会に照り輝かせてくださることこそ、教会を生き生きと栄えさせるものなのである。あなたはこう思っているだろうか? もし私たちの仲間に、国中で最も富裕でもっと賢い人々が一千人加えられたならば、私たちは神の御顔の光などなくとも、その分だけ真に生き生きと成長するだろうと思うだろうか? あゝ! 否。愛する方々。私たちの神がともにおられるなら、私たちはそうした人々がいなくともやって行けるが、神がおられなくては、そうした人々は私たちにとって呪いとなるであろう。あなたは、私たちの人数が増加するのは、たとい恵みが増し加わらなくとも祝福だと想像するだろうか? 否、そうではない。それは、乗り込む人数に見合うだけの糧食を搭載することもなしに、端艇に人を詰め込み、沈ませることである。人数が増えれば増えるほど、私たちには恵みが必要である。まさにこれこそ、私たちが日々必要とすることである。「御顔を照り輝かせてください」。おゝ! この祈りの家には、神の御顔が照り輝いたことが何度もあった。私はそうした時期を思い返すことができる。私たちが全員、教役者からほんの子どもに至るまで、泣いたときのことを。1つの説教によって何十人もの回心者を数えた時期もあった。私たちがかつて語っていた祝福はどこにあるだろうか? 私たちがかつてこの家で有していた喜びはどこにあるだろうか? 兄弟たち。そのすべてが失せ去ってはいない。多くの人々が今なお主を知るように導かれている。だが、おゝ! 私はもう一度見たい。最初にあのさわやかな驟雨が天から下ってきたあの時期を。あなたは一度も聞いたことがないだろうか? ホイットフィールドの説教の1つでは、一度に二千人もの人々が救われたのである。彼は偉大な人物であった。だが神は、偉大な者と同じく小さな者をも用いて同じ効果を生み出すことがおできになる。では、なぜこの場所で、私たちの夢にも思わないほどの魂が救われてならないわけがあるだろうか? 左様。なぜそうあってならないだろうか? 答えよう。もし神が御顔を照り輝かせてくださるなら、そうあってならない理由は何1つない。神の御顔の輝きさえあればよい。人の顔は渋面を浮かべ、その心は悪意で真っ黒になっているかもしれないが、主なる私たちの神が輝くのなら、それで十分である。
「もし主の御腕 あらわれて
御国を堅く 立たす神
御民のわざを 守らるば
誰(た)ぞよく御手を 押さええん」。主のいつくしみ深き御手こそ、私たちに必要なものである。この特定の地域には、ここ何年もの間なかったほどの規模で、神の御手が現わされるべき機会があると私は本当に思っている。確かに、もし神が何かをなさるとしたら、その冠はそのみかしらが戴かなくてはならない。神のみかしらだけが戴かなくてはならない。私たちはか弱い民である。私たちに何ができるだろう? しかし、もし神が何かをなさるなら、神はその冠と宝冠とを全くご自分のものとなさるであろう。おゝ、神がそうしてくださるように! おゝ、神がご自分に誉れを与えてくださるように! おゝ、神が私たちをもとに返し、私たちが神に立ち返り、神の御顔が照り輝くように! 神の子どもたち。このことの意味をつぶさに語る必要はあるまい。あなたは神の御顔の照り輝きがいかなることを意味するか知っている。それが、知識の明確な光、慰めの暖かな光、あなたの魂の暗闇に注ぎ込まれるいのちの光、あなたを山から下りてきたときのモーセのように見せることになる、誉れある光――人々が恐れてあなたを見つめなくなるほどにまばゆい光――であることをあなたは知っている。「御顔を照り輝かせてください」。愛する方々。私たちはこれを私たちの祈りとすべきではないだろうか? この場にいる、信仰の兄弟たちの中に、きょうのこの日、帰宅してから声を上げて神に、「御顔を照り輝かせてください」、と叫ばないような人がいるだろうか? 暗雲は私たちの上を覆っていた。だが私たちに必要なのは、太陽が出てくることだけである。そうすれば、それが雲を一掃するであろう。様々に恐ろしいことが起こったが、もし神が――私たちの神が――現われてくださるとしたら、それが何だろうか? 「御顔を照り輝かせてください」。愛する方々。私たちの神が、この私たちの祈りを聞いてくださるまで、休みなく神に祈り求めようではないか。「万軍の神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます」。
III. さて今、あなたがたすべてを――この場の《救い主》を愛するすべての人々を――奮い立たせて、この信仰復興を求めるようにさせてほしい。ことによると、あなたがたの中のある人々は今、自分の心の中でこう決意しているかもしれない。自分は、自分の家に着くなり、すぐさま自分の神のまえにひれ伏して、神がその教会を祝福してくださるように叫び求めよう、と。おゝ! ぜひそうするように私は切に願う。私たちは説教を聞いている間は決意するが、説教が終わるとなかなか実行に移さないのが常である。あなたは、神の家を出てきたときには、しばしばこう云ったことがある。「私は牧師先生の命ぜられたことを実行しよう。そして大いに祈りをささげよう」。あなたは家に帰り着くや否やそうしようと考えていたが、そうしなかった。そしてそのことは惨めな結果に終わってしまった。――意図されたことを成し遂げなかった。しかし今回は、私は切に願う。断固たる決意を固めてほしい。「さあ私はもっと神に献身しよう。もっと神に誉れを帰すようにしよう」、と内心で云う代わりに、さっさとその決心の結果を示すがいい。あなたがたは、人間が力の限りを尽くして考えたり、目標としたりするいかなることにもまして、神の力によって多くのことを行なうことができる。決意は非常にしばしば良心を一時的になだめてしまい、実は何の益にもならないことがよくある。あなたは自分はそれをすると云い、それゆえ、良心はその命令に対する不従順ということであなたを非難しはしないが、あなたがたは結局それを行なわず、その効果は薄れてしまう。今あなたが固めている聖く敬虔な決心が、今の瞬間に、祈りに変わるようにするがいい。「私はそうしよう。祈りをささげよう。主よ。私にそうさせてください。主よ。私にそれを行なう恵みを与えてください」、と云う代わりに。1つの祈りは、一千もの決意に等しい価値がある。神に祈るがいい。あなたが、十字架の兵士として、決してあなたの頭上に翻っている旗印に泥を塗ることがないようにと。主に願うがいい。あなたがエフライムの人々のように戦いの日に退却する[詩78:9]ことなく、いかなる天候においても堅く立ち、古のヤコブのように、「昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて」[創31:40]もそうできるように、と。――そして、これほどの召しによって上に召してくださった神に仕えることができるようにと。ことによると、あなたがたの中の他の人々は、信仰復興の必要などない、自分の心は十分に善良だと考えているかもしれない。そのような考えをいだいている人はほとんどいないものと希望したい。しかし、もしあなたがそう考えているとしたら、話を聞いている方々。私はあなたに警告する。あなたは自分が正しいと信じている。そのことによって、自分が間違っていることを証明しているのである。内心で、「自分は富んでいる、豊かになった」、と云う者は、「貧しくて、裸の者で、哀れである」*[黙3:17]ことを知るがいい。自分には何の信仰復興も必要ないと云う者は、自分が何を云っているかわかっていないのである。愛する方々。あなたは、神の民の中で最高の人々と目されている方々でさえ、この言葉を自分のものとする必要があるのを見いだすであろう。また、自分の心の中で万事がうまく行っていると思い描いている人々は、しばしば、平安と繁栄へと向かいつつある彼らを、潮のような悪の底流が、実は自分の行きたくもないところへと連れ去りつつあることにほとんど気づいていないのである。
おゝ! 愛する方々。私が与えたばかりの忠言を実行に移すがいい。私の話が弱々しかったことはわかっている。今の私にはこれが精一杯であり、私はただ、記憶を呼びさまさせて、あなたを奮い立たせたにすぎない。だが私の願いが、私の言葉と同じくらい弱々しいと考えてはならない。あなたがたに対する私の懸念が、私の話によって表わされているとか、表現されうるものだと想像してはならない。求めるがいい。私は切に願う。神に求めるがいい。あなたがたひとりひとりが、兄弟姉妹の全員が、あなたがたを自分の魂のように愛する者のこの単純な勧告によって祝福されるようにと。神が私の証人である。愛する方々。神のために私は生きたいと求めている。神のご栄光のほか、いかなる動機も、私は一切この世に有していない。それゆえ、私はあなたに命じ、あなたに勧告する。あなたも同じ神を愛しており、同じキリストに仕えたいと求めていると知っているのでそうする。いま、この危急の折にあって、いかに小さな冒涜の口実も敵に与えてはならない。おゝ! キリストの愛の心[ピリ1:8]をもって私はあなたに懇願したい。木の上にかかってくださった主のゆえに、また、今は、あなたの贖いのためにご自身がささげられた血まみれのいけにえによって天に高く上げられたお方のゆえに、あなたがたを保っている神の永遠の愛によって、私はキリスト・イエスにあるあなたの兄弟として、またあなたの牧師たる者として勧告し、懇願し、切望する。いかなることにおいても、反対者たちによって動かされてはならない。「《救い主》のために、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、喜びなさい。喜びおどりなさい」*[マタ5:11-12]。しかし、こう願うがいい。あなたの生活と生き方が、あなたの主である《主人》であるお方にとって誉れとなるように、と。何事においても、私たちの聖なる御国の前進を敵にそしらせる種を与えてはならない。あらゆることにおいて、あなたの行く道が「あけぼのの光のよう」であり、「いよいよ輝きを増して真昼となる」ように[箴4:18]。
しかし、おゝ! あなたがた、この場に来て、自分の判断では真理の正しさを認めていながら、一度も自分の心でその力を感じたことがなく、自分の生活にその影響力を感じたことがない人たち。あなたのために私たちは嘆息し、呻くものである。あなたのためにこそ私は、この場にいる聖徒たちを祈りへと奮い立たせてきたのである。おゝ、いかにあなたがたの中の多くの人々は自分の良心と心を何度となく刺されてきたことか。あなたがたは泣いたことがあった。左様。泣きに泣いたがために、自分でも、「私たちが泣いたほど泣いた者は今までなかった」、と思うほどであった! しかし、あなたがたは再び後戻りしてしまった。いかに厳粛な警告を聞いた後でも、カルバリのいかなる求愛の後でも、あなたがたは再び自分のもろもろの罪に戻って行った。罪人よ! 自分についてほとんど頓着しないあなたは、私たちがいかにあなたのことを思っているか聞いてほしい。いかに私たちがあなたの魂のために大きな呻きを上げているか、あなたはほとんど知らない。方々! あなたはあなたの魂が何でもないと考えている。だが、朝も昼も夜も、私たちはあなたが軽蔑している、その尊い不滅のものについて呻いているのである。あなたは、自分の魂を失うことも、滅びることも、あるいは罪に定められることも大したことはないと考えている。あなたは、あなたのために泣いている私たちを馬鹿だと思っているだろうか? あなたの魂についてこれほど懸念している私たちは、それについてほとんど懸念していないあなたには、正気を失っていると考えられるだろうか? ここには神の民がいる。彼らはあなたの魂を求めて叫んでいるのである。あなたを救おうとして神とともに労苦しているのである。あなたは自分でもそれをそれほど小さなものと考えているのだろうか? それで、つまらぬ快楽のために自分の魂を空しく費したり、限られた希望の範囲を越えて自分の魂の安寧を先延ばししたりするというのだろうか? おゝ! 罪人よ。罪人よ。もし自分を愛しているというなら、私は切に願う。立ち止まって考えるがいい。神の民が愛しているものには、何がしかの価値があるに違いない、と。私たちが手に入れようと労苦し、苦闘しているものには、何がしかの価値があるに違いない、と。イエスが支払われたような、値踏みもできない贖いの代価に値するとみなされたものには、天国の目するところ掛け値なしの価値があるに違いない、と。私は切に願う。どうか立ち止まってほしい。――あなたの魂の価値について考えてほしい。もしそれが失われたら、いかにぞっとするほど恐ろしいことか考えるがいい。永遠の果てしなさを考えるがいい。あなた自身のはかなさを考えるがいい。あなた自身の罪について、また、あなたが当然受けるべき報いについて思い起こすがいい。願わくは神があなたに、あなたのよこしまな道を捨てて、神に立ち返って生きることのできる恵みを与えてくださるように。というのも、神は「決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者が悔い改めて、生きることを喜ぶ」*からである。それゆえ、神は云われる。「悔い改めよ。立ち返れ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」*[エゼ33:11]。
そして今、おゝ、万軍の神よ。あなたの御座にささげる私たちの熱烈な訴えを聞いてください。「私たちをもとに返してください」。私たちの通り道を、あなたの御目の導きによって照らし、私たちの心をあなたの御顔の微笑みで励ましてください。おゝ、諸軍の神よ。あなたの戦闘の教会の、全連隊と全兵員とを完璧な心にし、あなたへの軍務においてわき目もふらぬ者としてくださるように。大いなる恵みが、あなたのすべての子どもたちの上にとどまりますように。大いなる恐れが、すべての民の上に降りますように。多くの不承不承な心が主に立ち返りますように。今が、あなたの御前から来る回復の時[使3:19]となりますように。あなたご自身の御名に、あらゆる栄光がありますように。「あなたは輝かしく、えじきの山々にまさって威厳があります」[詩76:4]。
---- 万病に効く妙薬[了]
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