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慰めの宣告

NO. 221

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1856年9月21日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ストランド街、エクセター公会堂


「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる」。――イザ40:1


 何と甘やかな称号であろう、「わたしの民」とは! 何と励まされる啓示であろう、「あなたがたの神」とは! いかに多くの意味がこの2つの言葉で暗示されていることか。「わたしの民」! ここには、際立って格別なことがある。全世界は神のものである。天も、もろもろの天の天も主のものであり[申10:14]、主は人の子らの間で王であられる。しかし主は、ある特定の数の人々について、「わたしの民」と云われる。ご自分が選び、ご自分のものとして買い取られた者たちについて主は、他の者らについては仰せにならないことを仰せになる。数々の国民、部族が単なる国々として見過ごしにされる中で、彼らについては、主は、「わたしの民」、と云われる。この言葉の中には、所有権の観念があり、私たちが神の所有物であることを教えている。ある特別のしかたにおいて、「主の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である」[申32:9]。地の国民はみな主のものである。主は島々を細かいちりのように取り上げなさる「イザ40:15」。全世界は主の意のままになる。それでも、主の民、主に選ばれ、愛された民は、より特別に主の持ち物なのである。というのも、主は彼らのために、他の者らにまして多くのことを行なわれたからである。主は彼らをご自分の血をもって買い取られた[使20:28]。ご自分に近寄せられた。ご自分の偉大な心を彼らの上におかけになった。永遠の愛をもって愛された[エレ31:3]。それは大水も消すことのできない愛「雅8:7」、時がいくら経巡ろうとひとかけらも減ずることのない愛である。「わたしの民」! おゝ、話をお聞きの方々。あなたは、神が自分のことを「わたしの民」と仰せになっていると信ずる人々の中に、信仰によって入っているだろうか? あなたは今晩、天を見上げてこう云えるだろうか? 「私の主、私の神。あなたは私のものです。なぜなら、かの甘やかな関係によって、私にはあなたを御父とお呼びする権利が与えられているからです。あなたは私のものです。それは、かの神聖な交わりにおいて、あなたが私に、世には現わさないようなしかたでご自分を現わしてくださるからです[ヨハ14:22]」。愛する方々。あなたは自分の心に手を当てて、そこにあなたの救いの契約書があるのを見いだせるだろうか? あなたの権利が尊い血で書き記されているのが読めるだろうか? 謙遜な信仰によってイエスの衣をつかみ、「私のキリスト」と云えるだろうか? そうできるとしたら、神はあなたについて、「わたしの民」と云っておられるのである。というのも、もし神があなたの神であり、キリストがあなたのキリストであられるとしたら、主は特別な、独特のいつくしみをあなたに対していだいており、あなたは主の選びの対象であり、あなたは最後には、その愛する御子によって受け入れられるからである。いかに神はご自分の民を大切にしておられることであろう。よく聞くがいい。神が「わたしの民」と呼ばれる人々について、神はいかに気遣っておられることか。神は彼らのいのちばかりでなく、彼らの慰めをも気遣っておられる。神は、「力づけよ。力づけよ。わたしの民を」、と仰せになってはいない。御使いに向かって、「わたしの民を守護せよ」、と仰せになってはいない。もろもろの天に向かって、「マナを降らせてわたしの民を養え」、と仰せになってはいない。こうしたすべてのこと、またそれ以上のことを、神の優しい心遣いによって、彼らは確実に受けることができる。だがこの場合、神は、単に私たちが種々の恩恵にあずかるのみならず、あり余るほど豊かな者となることを気遣っておられる証拠として、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」、と仰せになっておられる。神は、ただ私たちが神の生きた民、神にいのちを支えられている民となるだけでなく、神の幸いな民となることも望んでおられる。神は御民が食事を与えられることを好むが、それだけでなく、彼らに「よくこされたぶどう酒」[イザ25:6]を与え、彼らの心を喜ばせることを好んでおられる。神は単に彼らのパンを与えるだけでなく、蜜をもお与えになる。乳を与えるだけでなく、葡萄酒と乳[イザ55:1]を、また彼らの心が願いうる、あらゆる甘やかなものをお与えになる。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」。これは、御民の小さな事がらにさえ心を配りたいという、御父の熱望する心である。「慰めよ。慰めよ」。――あの涙をためた目をした者を。「慰めよ。慰めよ」。――あそこにいる、痛む心をしたわたしの子を。「慰めよ」。――あのあわれな嘆く者を。「慰めよ。慰めよ」。――わたしの民を。そうあなたがたの神は仰せられる。

 さて、今晩私たちが注意したいのは、この命令がだれに語りかけられているかである。第二に、その理由である。そして第三に、それを実行するための手段である。

 I. では第一に、《この命令はだれに対して語られているだろうか?》 愛する方々。知っての通り、聖霊は偉大な《慰め主》であり、聖徒たちの心が真に元気づけられるとしたら、御霊だけしか彼らを慰めることはできない。だが御霊は、媒介となる手段を用いることによって、苦悩の中にある子どもたちを救い出し、彼らの心を絶望から引き上げてくださる。では、この命令はだれに対して語られているだろうか? 私の信ずるところ、これは御使いたち人々に対して語りかけられている。

 まず最初に、御使いたちに対して、この命令は語りかけられていると私は信ずる。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」。あなたはしばしば、悪魔のほのめかしについて語る。私はしばしば、あなたがアポルオンによって攻撃され、ベエルゼブブとの激しい格闘をしているからというので、嘆いているのを聞いている。あなたは彼があなたに繰り出してきた激しい猛攻に抵抗するのに難儀を感じている。そして常に彼のことを語っている。だが、この件には、もう1つ別の面もあることを思い起こさせてほしい。というのも、もし悪い霊たちが私たちを襲撃するとしたら、疑いもなく良い霊たちは私たちを守っているからであり、もしサタンに私たちを打ち倒すことができるとしたら、確かに神は、私たちのために、御使いたちに命じて、すべての道で私たちを守るようにされ、彼らは、その手で私たちを支え、私たちの足が石に打ち当たることのないようにするに違いない[詩91:11-12]。私の堅く信ずるところ、御使いたちはしばしば神に用いられて、神の民の心に慰めに満ちた思いを投げ入れているのである。私たちは、横たわったり、起き上がったりするとき、ふと甘やかな思いを覚えることがたびたびある。それが、直接に聖霊から出たものだなどとはまず云えないが、それでも美しく、平穏で、麗しく、汚れなく、慰められる思いである。私たちはそれを、御使いたちの奉仕によるものだと受け取りたい。御使いたちは近づいて来てイエスに仕えた[マタ4:11]。そして、彼らが私たちにも仕えていることを私は疑わない。私たちの中に、霊の存在を十分に信じている者はほとんどいない。私は、ミルトンのこの云い回しを好んでいる。「われらが眠る時も、目覚めている時も、幾百万の霊的被造物らはこの地上を歩き回っているのだ」[『失楽園』 4.677]。そしてもし私たちの精神が開かれているとしたら、もし私たちの耳が集中しているとしたら、私たちはあるゆる瞬間に空中を飛び回る霊たちとの交わりを保っていられるであろう。聖徒たちの臨終の床の回りには、御使いたちが空を舞っている。キリストのために苦闘するあらゆる戦士のかたわらには、御使いたちが立っている。戦いの日に、私たちは空中に彼らの軍馬のいななきを聞く。聞けよ! いかに軽やかに彼らは、神の選民を助けるため乗りつけて来ることか。正義と真理のための苦しい争闘の中で、民が打ち倒されんばかりになるとき、どこかの御使いが囁くのである。「勇気を出しなさい。兄弟。勇気を出しなさい。できるものなら、私もあなたのそばに立ちたいのです。肩と肩を合わせて並び立ち、この戦闘を戦いたいのです。だが私にはできません。これは人間たちにまかされています。ですから、兄弟。勇気を出しなさい。御使いたちがあなたを見守っているのですから!」 夕まぐれに私たちは、幸福を祈る願いからこう云う。「愛しい坊や、安らかにおやすみ! 良き御使いたちがお前を守るように。彼らがその翼をお前の上に広げ、お前の寝床のそばに立ってくれるように!」 しかし、これはただの願いを越えた現実である。あなたがたは、こう書かれているのを知らないだろうか? 「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張る」*。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」[詩34:7; ヘブ1:14]。ならば、この命令は御使いたちに送られているのである。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」。実にしばしば、輝く翼をした熾天使は、はばたきながら地上に来て、意気消沈しただれかの心を慰めている。実にしばしば智天使は、しばしの間、その力強い歌を歌うのをやめて、古にガブリエルがそうしたように、愛の使いとして降ってきては、苦闘しつつある多くの人の心を元気づけ、神とその真理のために争闘している人々のかたわらに立っている。あなたがた、御使いたち。あなたがた、輝かしい霊たちよ。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」。

 しかし地上では、このことは、より格別に、主に仕える教役者たちに語りかけられている。主はご自分の教役者たちを、諸教会の御使いと呼んでおられる[黙1:20]。むろん今の彼らは、まだまだ御使いに似た者となるべき余地がふんだんにありはするが。教役者たちは、神の民を慰めなくてはならない。しかしながら、彼らは、昔ながらの真理の諸教理を宣べ伝えない限り、そうすることはできないに違いない。彼らが恵みと、恵みに満ちた教理を説教する以外に、いかにして主の家族の思いを慰められるのか、私には見当もつかない。もしも私が、神の子どもたちも堕落し去ることがありえるだの、贖われた者たちも失われることがありえるだの、有効に召された者も破滅へ滑り落ちてしまうことがありえるだのと教える、しまりのない神学を信奉しているとしたら、――実際、いかにしてこの命令を実行できるものか知りたいと思う。私は云うであろう。「兄弟たち。神はあなたを慰めるように私に告げておられる。さて、これが私の説教しなくてはならないことである。あなたは、その中からなけなしの慰めを得なくてはならない。実のところ私には大して見つけられないからである」、と。私がしばしば驚きの念に打たれるのは、いかにしてアルミニウス主義者は自分を慰めることができるのか、どこで彼は自分の心を暖める火をともせるのか、ということである! 彼にはいかなる教理があるだろうか? 彼は、きょうは自分が神の子どもだと信じている。そして、明日には悪魔の子どもとなると信じるように教えられているのである。彼が云うところ、彼は今は契約のうちにあるが、その契約はあまりにも不確かなもので、《いつ》倒壊するかわからず、彼はその瓦礫の下敷きになって死ぬかもしれないというのである。彼はイエスの血によって自分が贖われたことを知っているが、それだけでは十分ではないと教えられている。それと同時に、何らかの良い思い、良い行動がなくてはならない。あるいは、確かに、何らかの良い恵み、自分自身の何らかの信仰がなくてはならない。彼が受けている指導によると、自分が立つも倒れるも、自分で自分を神に近くいさせられるかどうか次第だと信じなくてはならない。人が神の近くにい続けられるのは、神ご自身が甘やかに引き寄せる力によってのみであることを、だれも彼に思い起こさせてくれないのである。ならば、どこから慰めを調達できるのか、私には皆目わからない。幸いなことに、私はそのような福音を宣べ伝えなくともよい。私には、クリュソストモスの昔ながらの福音を宣べ伝えさせてほしい。アウグスティヌスの昔ながらの福音を、そして何にもまして、創始者であられるイエス・キリストの昔ながらの福音を宣べ伝えさせてほしい。というのも、そこに私は、神の子どもを慰めるべきものを見いだせるからである。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」。責め、勧め、また招くことは私たちの義務である[IIテモ4:2]。だが、慰めることも等しく私たちの義務である。教役者は、御霊なる神に、自分が慰め手として御霊の影響力に満たされるように願い、安息日の朝講壇に上るときには、自分のあわれな、一週間のあいだ働きづめで、労苦し、心労と心痛にあえいできた信徒たちが、こう云えるようになることを願うべきである。「さア、私たちの教役者がいらっしゃったぞ。先生の口には、良いものが満たされているに違いない。その唇を開けばすぐに、神のことばからの、大いなる、栄光に富む約束を何か発してくれるだろう。先生は自分についてはほとんど何も仰らないが、すこやかな、昔ながらのいくつもの真理を、さわやかな油注ぎとともに告げてくれるに違いない。そして私たちは、晴れ渡った思いで家路につくだろう」。おゝ! あなたがた、労苦の子らよ。あなたがたの中のある人々は、これを理解している。くたくたに疲れ切った足で、あなたがたは神の家に来る。だが、おゝ! いかに喜ばしくあなたがたはそこで歌うことか。また、いかに甘やかにあなたの歌は、あなたの心と調和することか! また、みことばを聞いたとき、あなたは家路につきながらこう云う。「一週間の毎日が日曜だったなら、何と良いことか! おゝ! 座って神のことばを常に聞いていられるとしたら! おゝ! 座って、このような慰めを常に飲んでいられるとしたら! そうしたら私は脂肪と髄[詩63:5]に満ち足りるであろうに!」 しかし、時としてあなたがやって来ると、そこには、まさに慰めが必要とされているときに、あなたへの鞭打ちがあることがある。あるいは、かさかさに乾いた、ガチガチの形而上学的な主題、あなたの魂にとって何の栄養も含んでいないものを与えられ、半ば飢えながら家路につくことがある。あなたは、てんこもりの美文による見事な講話を聞かされ、人々は云う。「おゝ! 何という雄弁でしょう! ホールやチャーマズでさえ、これほど美しい名調子では決して語りませんでした。何と素晴らしいお話だったことでしょう!」 しかし、悲しいかな! 悲しいかな! 皿だの、陶磁器だの、食卓刀だの、食器だの、あざやかなダマスク織りの食卓敷布だの、花瓶だのが何だろうか?――食物はどこにあるのか? そこには何もない。あなたは飾り細工を得て、感謝すべきである、あなたの教役者に敬意を払うべきである、たとい彼らがあなたに、あなたに必要な糧を差し止めていたとしても! しかし、神の子どもはそのようなものを好まないであろう。その人は云う。「私はこうしたしろものには飽き飽きだ。こんな美辞麗句などなくなってしまえ。そうしたければ、平易で無骨なサクソン語でかまわないから、福音を聞かせてくれ! それをどう切り分けようと勝手にしていいから、ぜひとも、食べていのちを養えるものをくれ!」 その言葉遣いはごつごつしており、その様式は素朴かもしれないが、天の世継ぎは云うであろう。「あゝ、ここには、『慰めよ。わたしの民を』、がある。それこそ私が求めていたものだ。その様式は、人間的に云えば、さほど私の趣味ではないが、それは私の魂を養ってくれた。それで私には十分だ」。

 しかし、愛する方々。あなたの教役者たちを支えることを、あなた自身の義務を履行しているという云い訳にしてはならない。多くの人々はそうしている。彼らは、牧会活動の支えのために寄付をしてしまうと、それで十分だと考える。私たちのローマカトリック教徒の友人たちが想像するように、司祭は何もかもを行ない、信徒は何も行なわないのだ、と。だが、それはたいへんな間違いである。神が、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」、と仰せになったとき、神はご自身の民の全員が互いに慰め合うように語られたのである。そして、この場の、主を知り、その恵みを味わい知ったことのある人々の中で、自分の兄弟を慰めることのできない者がいるだろうか? そこに私の強い友人がいる。山の上で、死に給う愛という饗宴に着いている。その人は陶酔し、無我夢中になっている。その魂は、高貴な人の車[雅6:12]のようである。それは、その《主人》の前にあって燃えている。おゝ! 私の兄弟よ。行って、あなたの受ける分を七人か八人に分けるがいい。地上にどんな災いがあるのか、あなたは知らないのだから[伝11:2]。あなたが幸いなときには、他の人は悲しんでいるに違いないことを思い出すがいい。あなたの杯があふれるときには、あふれ出た滴を受けとめる空の杯を見つけ出すがいい。あなたの魂が喜びに満ちているときには、できるものなら、行って嘆く者を見いだし、あなたの歌を聞かせてやるがいい。あるいは、その人のそばに座って、あなたがどれほど喜んでいるかを告げるがいい。ことによると、あなたの甘やかな励ましの言葉によって、その人のあわれな心が暖められるかもしれない。しかし、あなたは弱いだろうか? あなた自身が悲しんでいるだろうか? ならば、かの大いなる《慰め主》なるお方のもとに行き、あなたの苦悩を和らげてくださるよう願い、その後で、出て行っては他の人々を慰めるがいい。いかなる者にもまして、他の人々を慰めることにたけているのは、一度は慰めのなかった人々である。もし私が今みなしごであり、助け手を必要としているとしたら、私は、若い頃にみなしごであった人を探して、私に同情してもらおうとするであろう。私が家なしの貧乏人だったとしたら、私は、物心つく前から富に埋まって暮らしていたような人のもとには行くまい。むしろ私と同じように、真夜中に裸足で冷たい舗道を歩いていた人を探し出すであろう。一文無しで、貧しくて、町から町へと乞食をしながら歩いていた人、そして、神の摂理によって栄達した人を探したいと思う。そのような人なら、私に同情する心があるだろうと信じられるからである。行くがいい。あわれな、試みられている人よ。風雨にさらされた魂よ。できるものなら行って、あなたとともに、まさに沖に出ているあなたの仲間に声をかけ、元気を出せと云ってやるがいい。死の陰の谷にいる人よ。歌うがいい。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」[詩23:4]、と。そうするとき、はるか後方にいる兄弟のだれかが、その歌を聞きつけて、勇気を奮い起こすかもしれない。

   「偉大(おい)なる生涯 われらに想起(しら)せん。
    われらは人生を 高尚(けだか)くなしえ、
    去りて背後(うしろ)に 残しうべし、と。
    時の砂上に 刻みし足跡(あと)を。

    その足跡(あと)を見て もしや他の人々(もの)
    人生(よ)の荒れ騒ぐ 波路 航(ゆ)きつつ、
    寂しく船も 難破(うちはて)てなお、
    こころもたげて はげまし受けなん」。

行くがいい。そして、何らかの善を見いだしたときには、他の人々に伝えることによって、それを永続させるがいい。あなたの足が岩の上にあるときには、他の人々に、いかに彼らの足をそこに置くべきかを示してやるがいい。あなたが喜んでいるときには、他の人々に、いかにあなたが喜ばされたかを告げ、あなたを元気づけたのと同じ強壮剤が、彼らをも同じように元気づけるかもしれないと告げるがいい。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」。

 さて、このことを私たちはなぜもう少し余計に楽しまないのだろうか? 私の信ずるところ、1つの理由は、私たちが――私たちのほとんどの者らが――私たちの《主人》の足跡をたどるには高慢すぎるからである。私たちは主とともに、「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためです」*[マタ20:28]、と云うことを好まない。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」、は高尚な勧告ではあるが、確かに上流社会の薄っぺらな同情を意図していたことは決してありえない。――自家用の四輪馬車に乗っていられる淑女が、病んでいる友人の見舞いに訪問したときに、自分の訪問状を取り次ぎの召使いに渡しておくようなものではない。むしろ、私がこの義務を徹底的に説くとしたら、また、彼女に、「わたしの民」とは、神の群れの最も貧しい者たち――最も弱く、最も卑しい者たち――をも含んでいるのだと告げるとしたら、彼女は私を無作法で、野卑で、上品な社会の礼法をわきまえない若僧だと考えるであろう。貧民を慰めるですって!――なぜわたくしがそのようなことをしなくてはならないのです? 「下層階級は、上流階級からあまりにも多くを期待しすぎています。わたくしは、彼らに腰を屈めて品位を落とすつもりはありませんわ」。信仰を告白する多くのキリスト者たちは、こうした種類の感情を有している。そうした人々は舌足らずな口調で、「不憫ですこと。本当にお可哀想ですわ。お気の毒だと思いますわ」、と云いさえすれば十分だと思っている! しかし、天の世継ぎは、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」、と読む。ひとりの貧乏人が町通りにいる。あなたの玄関先に、ひとかけらのパンを乞いにやってきたばかりの男である。そして、彼の口ぶりからあなたは、神の恵みの何がしかが、彼の心の中にあるのを見てとれる。ならば、彼を慰めてやるがいい。別の者が、その裏路地の、キーキー鳴る階段の上の部屋に住んでいる。あなたは一度もそこに上がったことはない。そこに行くのを恐れているかもしれない。だが、そこに神の子どもがいるのを聞いたなら、尻込みしてはならない。神の金剛石はしばしば、襤褸切れや襤褸くずの山の中、町はずれにある、赤貧洗うがごとき陋屋に見いだされるのである。では、彼らを求めて行くがいい。神の子どものことを聞いたなら、いつでも行ってその人を見つけ出すがいい。というのも、この、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」、という命令は、決して私たちの高慢によってわきへやられてよいものではないからである。何と、人は、自分の教会や会堂に行き、自分の会衆席に座っても、隣の人と話すことも考えようとしないことがある。ある人々は、七年間も1つの会堂に通っていながら、隣の座席保有者の名前すら知らないものである。それが正しいことだろうか? 多くの人は聖餐台を囲んで座っても、互いに語り合おうともしない。しかし、それは私が理解しているような聖餐式のやり方ではない。それは福音のやり方でもない。私がごく若く、教会に加わった者の中でも最年少だったとき、私は、だれもが自分の云っていることを信じているのだと考えていた。そして私は、教役者が兄弟と云うのを聞いたとき、私は彼の兄弟に違いないと思った。というのも、私は教会への加入を許されたからである。あるとき私は、会衆席でひとりの紳士の隣に座った。そして、私たちはパンと葡萄酒を一緒に受け取った。彼は私を「兄弟」と呼んだ。それで、私は彼が本気でそう云ったのだと思い、後でそれに基づいて行動した。私は、その頃住んでいたケンブリッジの町にひとりも友人がいなかったので、ある日、外出したときに、この同じ紳士を見かけて、内心こう思った。「よろしい。さあ、彼は私を兄弟と呼んだ。彼が私よりもずっと金持ちであることはわかっている。だが、そんなことはかまうものか。近づいて行って彼に話しかけることにしよう」。それで私は彼に近づいて、「お元気ですか、兄弟」、と云った。「失礼ながら、あなたと知り合う栄に浴したことはないと思いますが」、というのが彼の答えであった。私は云った。「ぼくは先週の安息日、聖餐台であなたの隣に座っていたのです。そして、あなたはぼくに杯を渡してくれるとき、ぼくを『兄弟』と呼んでくれました。そして、ぼくはあなたが本気でそう云われたと思ったのです」。「さてさて」、と彼は云った。「近頃のご時勢で、小さなことをも誠実に信ずる人に出会うのは、めったにないことですな」。そして、私たちはそれ以来、最も近しく、最も親しい腹心の友となった。それはまさに、私が彼の言葉を額面通りに、本気で云ったものと受け取ったのを彼が見てとったからであった。しかし、最近は、信仰告白が見せかけとなり、ごまかしとなってしまっている。人々は、兄弟同士であるかのように一緒に教会に座っている。教役者はあなたがたを兄弟たちと呼ぶ。だが彼はあなたに語りかけようとしないか、あなたを兄弟だと認めようとはしない。疑いもなく彼の信徒たちは彼の兄弟たちである。だが、そのときそれは、非常に神秘的なしかたでそうなのであって、それを理解するためには、ドイツの神学書を何か読まなくてはならないであろう。その人は、「あなたの非常に親愛な兄弟」あるいは「あなたの非常に親愛な姉妹」であるが、あなたが苦悩のうちにある場合、彼らのところに行って、彼らがあなたを助けてくれるかどうか見てみるがいい。私はそのようなキリスト教信仰を信じはしない。私が人々に望みたいのは、彼らが兄弟同士であると告白すること、また、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」が、キリスト教会のあらゆる会員にあてはまるのだと信じること、そして、自分たちがみな、それを自分の能力の限度一杯まで実行すべきなのだと信ずることである。

 II. 第二に、《何がこの命令の理由だろうか?》 なぜ神は、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」、と仰せになっているのだろうか?

 第一の理由は、神は、ご自分の民が幸福そうにしているのをごらんになることを愛されるからである。ローマカトリック教の考えによると、神は、人間が自分を鞭打ち、何哩も裸足で歩き、自分の肉体を苦しめるのをお喜びになるらしい。私は、そのようなことをしている人を見たら、こう云うに違いない。「あわれな魂。彼に一足の靴を与えるがいい。その鞭を彼から取り上げるがいい。私は、彼がそうするのを見ていられない」。そして私は、神が私よりも無限に慈悲深いと信ずるので、人間の背中から血が流れ落ちるのを見たり、その足に水ぶくれができるのを見たりすることに、神が喜びを感ずるとは考えられない。あるとき海岸にいた私は、潮がやって来るとき、ほとんど霧のように思えるもやもやしたものを見た。そして、あれは何かと漁師に尋ねた。漁師が告げるところ、あそこには何の霧もなく、私が見ているものは、小海老が夢中で踊っているのだという。小海老が喜びのあまり痙攣したように揺れ動いていたのである。私は内心こう考えた。「神は、ああした生き物を幸いにして、私をみじめになさったなどということがあるだろうか? 不幸になることが、キリスト教的だなどということがありえるだろうか?」 否。真のキリスト教信仰は、全世界と調和している。それは太陽や月や星々と調和している。そして太陽は輝き、星々はまたたく。それは全世界と調和している。世界はその中に花々があり、飛び跳ねる山々があり、喜び歌う鳥たちがいる。その中には喜びがある。それで私は、キリスト教信仰の中にも喜びがあるよう意図されているのだと信ずる。また、神の被造世界の中でみじめなしかめ面をしているのは、非キリスト教的なことだと主張する。そうせざるをえないこともある。罪に圧倒されたときなどはそうである。だが、幸福は非常な美徳である。「さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでにあなたの行ないを喜んでおられる」[伝9:7]。これは、飲み食いのことというよりも、喜ばしい顔つきで暮らすこと、また神の愛を信じつつ神の御前を歩むこと、そして神の恵みを喜ぶことを意味している。

 さらに、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」。なぜなら、慰めのないキリスト者たちは、しばしばキリスト教信仰の誉れを汚しているからである。今晩この場に、何とも悲しげな顔つきをしながらやって来た人を見てみるがいい。昨日、彼は新しい召使いを雇い入れた。そして、彼女が台所に降りていったとき、彼女はその同僚の召使いにこう云った。「ご主人様って信心深い方じゃない?」 「ああ、確かにそうだよ」。「そうじゃないかと思った。だって、とってもみじめそうな顔つきをしてるんだもの」。さて、これはキリスト教信仰にとって恥さらしである。あるキリスト者が、患難によって弱り果ててしまうときには常に、――その人が神の恵みを求めた上で、自分の海なす困難と男らしく戦わないという場合、――その人が自分の御父に、邪悪な日に耐え抜けるための大きく、重い慰めを願い求めない場合、――私たちはそうした人々がキリスト教の気高く、力強く、高貴な原理に泥を塗っていると云ってよい。そうした原理は、いかに深刻な患難の折にも、人を支えるのにうってつけなものだからである。人を種々の困難よりも高く持ち上げることができるというのは福音の自慢である。「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。……しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」[ハバ3:17-18]。しかし、キリスト者が悲しみに沈み、みじめになるときには、彼のもとに走っていくがいい。兄弟よ。彼の目の涙をぬぐい、元気を出すよう彼に告げるがいい。あるいは、少なくとも、彼が悲しんでいるなら、この世にはそれを見させないようにするがいい。もし彼が断食するなら、自分の頭に油を塗り、顔を洗うようにさせるがいい。それは、彼が断食していることが、人には見られないためである[マタ6:17-18]。その人の衣が常に白く、その人の頭が油を欠かないようにするがいい。その人を幸福にさせるがいい。というのも、そのようにして、その人はキリスト教信仰に面目を施すからである。

 また、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」。なぜなら、慰めのない状態にあるキリスト者は、神のために大した奉仕ができないからである。あるあわれな人が、その心を打ち砕かれている場合、その嘆き苦しむ霊とともに、その人をこの演壇の上に来させてみるがいい。すると、おゝ! 何という力の欠けが、その人のうちにはあるであろう! その人は自分の全時間を吐息や呻きのために用いたがり、御民のために費やす時間は全く持たない。私たちは、心の打ち砕かれた教役者たちを見たことがある。彼らは、困難のうちにあって、痛ましく嘆き悲しんでいた。すると、神の真理を自分で思う通りには宣言できないことに気づいた。思いは、自らが幸福であるときにこそ刻苦勉励できるのである。人は、天国と全く正しい関係にいられるとき、またそれを感じているときには、何物にも傷つけられない。神は自分の神なのだと云えるとき、その人は夜も日もついで働くことができ、ほとんど疲れを覚えない。しかし、その人の慰め、その人の喜びが取り去られてしまうと、一日の労苦によってその人の神経は悩まされ、その人の思いのすべてが散り散りになってしまう。ならば、神の民を慰めるがいい。なぜなら、痛んだ葦はほとんど何の調べも奏でることがなく、くすぶる燈心はほとんど火をともさないからである。「慰めよ。慰めよ」、聖徒たちを。というのも、彼らは、その思いがひとたび慰められたならば、十倍も多く働くであろうからである。

 さらに、「慰めよ」、神の民を。なぜなら、あなたがたは彼らを愛していると告白しているからである。あなたは、今晩、松葉杖をつきながら、よたよた家まで歩いていく、そのあわれで、年老いた、ちんばの人を、あなたの姉妹と呼んでいる。あなたは、彼女が今晩、夕食もとらずに寝床に入ることを知っているだろうか? きょう彼女が食事を味わったのは一度きりで、それは乾いたパンであった。あなたはそれを知っているだろうか? だのに、彼女はあなたの姉妹なのだろうか? あなたの心に語らせるがいい。あなたは、自分の姉妹が一日に一度、乾いたパンを食べただけで、他には何も食べないのを許しておくだろうか? 否。親類としての彼女に対する愛からあなたは、行って彼女を慰めるであろう。そこには、別の貧しい兄弟がいる。自宅へ帰る途中のあなたを追い越していく彼は、肉体的な事がらで貧しいわけではないが、魂において貧しく、霊において苦悩している。いま、別の誰かがしたようなことをしてはならない。――その人は、この老人と口をきくと気が滅入ってくるといって、歩調を早めたのである。否。ただ彼のところへ行って、こう云うがいい。「兄弟。私は、あなたが涙の谷にいると聞きました。よろしい。こう書かれていますよ。涙の谷を過ぎる者は、そこを泉のわく所とし、初めの雨もまたそこを祝福でおおう[詩84:6]、と」。その人と一緒に歩くがいい。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」、と書かれているからである。「いいえ、先生」、とあなたは云うであろう。「私は今晩、二三人の非常にいい連中と一緒に帰るつもりです。そして、今晩はともに楽しく過ごし、愉快にやろうと思います」。しかり。だが、もし彼らが喜んでいるとしたら、あなたは彼らを慰めることはできない。だから、行って、できるものなら、だれか心の打ち砕かれた人を探すがいい。だれか、あわれで、悲しく、嘆いている人を探して、こう云うがいい。「主は遠くから、あなたに現われておられたのですよ。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した』。神のあわれみは尽きていません。それゆえ、私たちは滅び失せないのです[エレ31:3; 哀3:22]」、と。行って、その人を元気づけるがいい。何と! あなたの近くには、死によって家長が最近取り除かれた家族が1つもないだろうか? 親族と死別した友人がひとりもいないだろうか? 近所の町通りには、だれひとり貧しい人、苦悩する人、意気消沈した人々がいないだろうか? もしいないとしたら、この聖書箇所は、聖書からちぎりとって良いであろう。無用の長物だからである。だが、あなたの近くには必ずやそうした人がいると確信している私は、あなたに命ずる。《全能の神》の御名において、行って、困窮した者、苦悩した者、貧しい者を探し出し、食べ物を渡してやるがいい。

 III. 最後のこととして、神は決してその子どもたちに義務を与えておいて、《それを行なう手段》を与えずにおくことはなさらない。わらも与えずに煉瓦を作るようお命じになることは決してない。それで、神が私たちに神の民を慰めるようにお告げになるとき、私たちは、彼らを慰めることのできる多くの手段があるものと確信してよい。こうした事がらを示唆だけさせてほしい。永遠の福音の中にあって、聖徒たちをしばしば慰めるものとなる事がらである。何と、神の子どもよ! あなたは、痛みを覚える心を慰めようとしても、その話題に窮するというのか。ならば、聞くがいい。行って、昔の時代の古い事がらを話してやるがいい。嘆く者の耳に、選びの恵みと、贖いのあわれみと、死に給う愛とを囁くがいい。悩んでいる人を見いだしたときには、かの契約のことを話してやるがいい。すべてが備えられ[IIサム23:5]、署名され、証印を押され、批准された、かの契約のことを。主がかつて何をなされたか話してやるがいい。いかに主がラハブを切り刻み、竜を刺し殺したかを[イザ51:9]。神がその民を扱われた、驚くべき物語を話してやるがいい。葦の海を2つに分けた神は、苦しみという深い海の中にも、御民のための大路を作ることがおできになる、と。燃えても燃えつきることのない芝の中に現われたお方は、艱難の炉の中にいる者をも支えるであろう、と。神が、ご自分の選ばれた民のためになされた、驚異に満ちた事がらを話してやるがいい。確かに、そこにはその人を慰めるに十分なことがある。神は、さながら金細工師がるつぼを見守るように、その炉を見つめているのだと話してやるがいい。

   「さらば試練(なやみ)の 汝が日々は
    すべて天にて 定められたり。
    主がその日数(ひかず) 十とさるれば
    汝はたえて 十一 持つまじ」。

もしそれでも足りなければ、その人が現在与えられている種々のあわれみについて話してやるがいい。その人が、たとい多くを失ったにせよ、多くが残されていることを告げるがいい。「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない」*[ロマ8:1]ことを告げるがいい。今やその人は御父の愛する方において受け入れられていることを告げ、今やその人が子とされていること、その人の立場が安泰であることを告げるがいい。その人に、イエスが上におられること、胸当てをつけておられるか、ご自分の御国の進展のために嘆願しておられることを告げるがいい。大地の支柱が揺れ動いても、神が私たちの隠れ家であられることを告げるがいい。嘆く者に、永遠の神は衰えることも、疲れることもないことを告げるがいい。現在の事実をもって、その人を十分に励ますがいい。

 しかし、もしこれでも足りなければ、未来について話してやるがいい。真珠の門と黄金の通りを有する天があることを囁くがいい。こう告げるがいい。

   「今しばしの 日輪(ひ)巡り経なば、
    美(うま)しカナンの 地にぞ至らん」。

そして、それゆえ、その人は自分の悲しみを忍んでよいのだと告げるがいい。キリストがやって来られること、主のしるしが天にあり、主の来臨が近いこと、主がすぐにも公正をもって地を審き、義をもって御民をさばくために現われようとしておられること[詩98:9]を告げるがいい。そして、もしそれでも足りなければ、生きて、死なれた神についてのすべてを告げるがいい。その人をカルバリのもとに連れて行き、その血を流す両手と、わき腹と、両足を描き出すがいい。茨の冠をかぶった、悲しみの《王》について告げ、わざわいと血にまみれた、この強大な《君主》について告げ、なぶるために着せられた緋の衣をまとい、それが悲しみの帝国の紫衣であったことを告げるがいい。この方ご自身が私たちのもろもろの罪を、十字架においてご自身のからだに負われたことを告げるがいい。そして、もし私が告げたことでも足りないとしたら、あなたの聖書のもとに行き、その頁を読み、あなたの膝をかがめて、導きを求め、それからその人に、何か偉大な、また尊い約束を告げるがいい。そして、そのようにして、あなたの使命を成し遂げ、神の民のひとりを慰めるがいい。

 私は一部の人々にはほんの僅かな言葉しか語ることができない。悲しいことに、何の慰めも欲していないと思われる人々である。そうした人々は、慰められる前に、別の何かを欲している。この場で話を聞いている方々の一部は、神の民ではない。そうした人々は、一度もキリストを信じたことがなく、隠れ家を求めてキリストのもとへ逃れていったこともない。さて私は手短に、また平易に、救いの道を告げよう。罪人よ! あなたが神の御前では咎ある者であることを知るがいい。神は正しくあられること、あなたをあなたのもろもろの罪ゆえに罰するであろうことを知るがいい。では聞くがいい。あなたが逃れることのできる道は1つしかない。それはこうである。キリストがあなたの身代わりにならなくてはならない。あなたが死ななくてはならないか、キリストがそうした罪のゆえに死ななくてはならないか、どちらかである。唯一の隠れ場は、イエス・キリストを信ずる信仰である。それによってあなたは、キリストが本当に現実にあなたのためにその血を流してくださったことを確信するであろう。そして、もしあなたが、キリストはあなたのために死なれたのだと信ずることができるとしたら、私は知っている。それによってあなたは罪を憎み、キリストを求め、永久にキリストを愛し、キリストに仕えるようにされるであろう、と。願わくは神が私たちすべてを祝福し、私たちのもろもろの罪を赦し、私たちの魂を受け入れてくださるように。キリストのゆえに!

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慰めの宣告[了]

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