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人の罪に対する神の防壁

NO. 220

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1856年11月16日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「あなたがたは、わたしを恐れないのか。――主の御告げ。――それとも、わたしの前でおののかないのか。わたしは砂を、海の境とした。越えられない永遠の境界として。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。ところが、この民には、かたくなで、逆らう心があり、彼らは、そむいて去って行った」。――エレ5:22、23


 創造と摂理の中で如実に示されている神の威光は、私たちの心を崇敬と驚異のうちに奮い立たせ、それを全く溶かし去っては、神のご命令に喜んで服するものとするべきである。その御手のわざのうちに、これほどはっきりと現わされたエホバの《全能の》御力は、その被造物たる私たちをして、いやでもその御名を恐れさせ、その御座の前に、謙遜な畏敬の念とともにひれ伏させるべきである。いかに荒れ狂う海といえども、それが全く神の命に服していることを知るとき、――また神が、「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない」、と仰せになると、大海もあえて浸食しようとはせず、「その高ぶる波をとどめる」*ことを知るとき[ヨブ38:11]、――また神が、「その歩の下で自然もゆらぐ」嵐に手綱をかけ、その猛々しい暴風にくつわを噛ませることを知るとき、――神は恐れられるべきお方である。――まことに、神こそ、私たちが地べたのちりの中にはいつくばって伏し拝んで何の不面目にもならない神であられる。この「大きく、広く広がる海」[詩104:25]の上で神が行なっておられる驚異的なみわざ――波浪を右へ左へ揺り動かしながら、定められた方路の中にそれらを保つこと――を思い巡らせば、私たちは最も敬虔な情緒を引き出され、敬意で満たされる――とさえ云えそうな気がする。おゝ、主なる神よ。あなたは大いなる方です。あなたは大いなる方、大いに賛美されるべき方。あなたがお造りになった世界と、その中にあるすべての物は、あなたの栄光を語り告げています! 私は、何の畏怖も感じないほど無感覚な心だの、神の全能の御力のしるしをそこそこに眺めておきながら、人間の服従がいかに至当であるかをいささかも感じずに目を背けられるほど鈍重で悟りに欠けた人間精神など、ほとんど思い描くことができない。そうした印象は、あらゆる胸の内側にひとりでに生じてくるものと思われるし、そうでないとしても、理性が自らの役目を果たしさえすれば、ゆっくりとではあっても、おのずとあらゆる精神がそうした確信をいだくはずである。あなたの目で星々を眺めてみるがいい。その数は神にしか知られていないが、神はそれらすべてを、名をもって呼ばれる[イザ40:26]。神によって星々は、その天球に整列させられ、神に命ぜられるままに晴朗な宇宙の中を旅している。それらはみな、神のしもべたちであって、大急ぎで勇んで自分たちの主のご命令を果たそうとしている。あなたは、いかに激しい風やあらしが奴隷のように神のみこころに服従しているかを見ている。また、海洋の大いなる脈動が、完全に主に支配されている潮の満ち干によって脈打ち、振動しているのを知っている。こうした神の大いなる事がら、こうした神の驚嘆すべきみわざは、私たちに何の教訓も教えないだろうか? これらは神の栄光を語り告げつつ、私たちの義務をも明らかに示していないだろうか? 詩人たちの著作を読めば、聖なる書の記者も、霊感を受けていない作者もともに、こうした無生物の動作主が、想像上では意識を持っているかのようにとらえ、彼らの誉れある奉仕をより忠実に描き出そうとしている。しかし、もし私たちが理性を有する知的な存在であるからといって、自分たちの正当な《主君》から自分たちの忠誠を差し控えるとしたら、そのとき私たちの数々の特権は呪いとなり、私たちの栄光は恥辱となる。悲しいかな、ならば、往々にして人間は、その確固たる確信によって事を行なう場合よりも、種々の本能から出た衝動によって導かれる場合の方が、賢明なふるまいをするのである。嵐が来たとき、膝をかがめて祈らないような人がどこにいるだろうか? 神が、雷というその深く太い声音で、恐ろしい声を発するのを聞くとき、また、その稲妻の光が、漆黒の闇を引き裂いて飛び交うのを恐ろしげに眺めるとき、神を認めないような者がどこにいるだろうか? 災害や飢饉、悪疫の時期に、人々は宗教へと逃避しがちである。――彼らはパロがこう云ったときのように告白をするであろう。「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ」[出9:27]。だが、彼のように、「雨と雹と雷がやんだ」とき[出9:34]、疫病が取り除かれるとき、そのとき彼らはなお一層罪を犯し、彼らの心はかたくなになる。こういうわけで、彼らの罪は極度に罪深いものとなる。彼らは、自然そのものでさえこの上もなく正しいと教えている諸真理に逆らって罪を犯すからである。たとい書かれた聖書のことばがなかったとしても、私たちが神に従うべきであることは学べるはずである。私たちの愚かな心がこれほどまでに暗愚でなければそうである。こういうわけで、《全能の創造主》に対する不信仰は、第一級の重大犯罪である。もしあなたがたが逆らっている相手が、ちゃちな《主君》であったとしたら、それは許せるものかもしれない。もしそれがあなたがたと同じような人間だとしたら、たとい自分たちが過ちを犯していたとしても、赦されることはたやすいはずだと期待してよいかもしれない。だが、ただおひとり雲と暗闇が取り囲むところで支配しておられる神、全自然を従えている神、その主権の命令が天国においても地獄においても服従されている神を相手にしているからには、これほど驚くほどに偉大な神に対してあなたが罪を犯すのは犯罪である。その恐ろしい性格は、言語を絶している。神の偉大さは、私たちの罪を途方もなく大きなものとする。私の信ずるところ、これは、この預言者がこの聖句で私たちに教えようとしていた教訓の1つである。彼は神の御名によって私たちに問いかけている。あるいはむしろ、神が彼を通して私たちに尋ねておられる。――「あなたがたは、わたしを恐れないのか。――主の御告げ。――それとも、わたしの前でおののかないのか」、と。

 しかし、それは1つの教訓ではあるものの、それがこの聖句の唯一の教訓であるとは思わない。私たちがここから学ぶべきものは他にもある。神はここで、強く強大で荒々しい海の従順と、ご自分の民の反抗的な性格を対比しておられる。神は云われる。「海はわたしに従っている。それは決してその境界を破らない。決してその水路から跳ね上がったりしない。そのあらゆる動きにおいて、わたしに従っている。しかし人間は――あわれでちっぽけな人間は――わたしが蛾のように押しつぶせるだろう人間は――、わたしに服従しようとしない。海は岸から岸に至るまで、何の不服もなくわたしに従い、引き潮となったその大水は、その寝床から引き上げていくとき、一波一波がわたしに玉砂利の声でこう告げている。『おゝ、主よ。私たちはあなたに従います。あなたは私たちの主人ですから』、と。しかしわたしの民は」、と神は仰せになる。「かたなくで、逆らう民だ。彼らはわたしのもとから離れていく」。そして、私の兄弟たち。これは信じがたいことではないだろうか? 全地が神に服従しているのに人間だけがそうしていないのである。深い淵を白髪のようにするという、あの大いなるレビヤタン[ヨブ41:32]でさえ神に罪を犯さず、その行く道はその《全能の主人》の定めによって秩序づけられている。星々、あの驚嘆すべき光の大群は、神の望み通りにたやすく方向づけられる。雲々は、ふらふらと定まりなく動いているように思えても、神をその水先案内としている。「神は雲をご自分の車とします」*[詩104:3]。また、風は、手に負えないほど御しがたく見えても、全く神が望まれる通りに吹いたり、吹くのをやめたりしている。天においても、地においても、――冥界においても、とさえ云えそうな気がするが――、人間に匹敵するほどの不従順は、まずもって全く見いだせない。少なくとも、天においては朗らかな従順があり、地獄においても神への強いられた屈従があるというのに、地上では、人間がそのその下劣な例外をなしている。人は絶えずその《主人》に対してかたくなで、逆らっている。

 だが、さらにこの聖句には別の思想もあり、それについて私は詳しく述べたいと思う。もう一度読んでみよう。「あなたがたは、わたしを恐れないのか。――主の御告げ。――それとも、わたしの前でおののかないのか」。――そして、ここからが肝心な点である。「わたしは砂を、海の境とした。越えられない永遠の境界として。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。ところが、この民には、かたくなで、逆らう心があり、彼らは、そむいて去って行った」。神は云われる。「海は単に従順であるばかりではない。それはただの砂の歯止めによって従順にされているのだ」。堅固無比の岩ではなく、砂や小石のわずかな帯が手もなく乾いた地面を海洋の氾濫から守っているのである。「海はわたしに従う。その唯一の抑えは砂でしかない。だがしかし」、と神は云われる。「わたしの民は、理性に想像のつく限り最強の歯止めを有しているのに、かたくなな、逆らう民であり、わたしの命令、わたしの約束、わたしの愛、わたしのさばき、わたしの摂理、わたしのことばは、彼らが罪に向かうのを到底食い止められない」。

 それが、今朝私たちが詳しく語ろうと思う点である。海は砂の帯によって食い止められるが、私たちは、神のあらゆる歯止めにもかかわらず、一心に神にそむいてやまない

 この聖句の教理は、こうであると思われる。――神は、人間以外のあらゆる被造物であれば、とりたてて超自然的な手段がなくとも従順にすることがおできになる。だが人間の心は、はなはだしく不従順であって、何らかの超自然的な作用によらない限り、神に従順にすることはできないのである。砂という取るに足らない媒体でも、海は食い止められる。通常神が自然において生み出しているもの以上に大きな天来の力の働きなど全く必要ない。だが神は、そのようなしかたでは人をご自分のみこころに服従させることがおできにならない。

 さて、私の兄弟たち。歴史を振り返ってみて、そうでないときがあったかどうか見てみよう。かの《神聖な》精神についてそう云えるとして、人々が罪を犯すのを抑えることほど困難な問題があっただろうか? いかに多くの歯止めを神は人間に課しておられることか! アダムは、きよく聖なる者として、かの園の中にいる。彼には数々の歯止めがある。彼が堕落したような、見下げ果てた、また一見して何の利益もないような罪を犯すことなど、やすやすと妨げるであろうと思われる歯止めである。彼は、かのいのちの木から取って食べなければ、その園全体を永久に持つことになっている。彼の神は彼とともに歩み、彼をご自分の友としてくださる。それどころか、そよ風の吹くころ、彼は御使いたちと、また、御使いたちの《主人》なる主と会話を交わす。だのに彼は、人間が触れてはならないと神が仰せになった聖なる木の実をあえて食べるのである。そのとき彼は死ななくてはならない。私たちであれば、従順には報いを、罪には罰を約束するだけで十分だと考えるであろう。だが、否。そうした抑えは失敗する。人間は、その自由意志のままにされると、その実に触れて、堕落してしまう。人間は、きよい状態にあってさえ、あの広大な海原が抑えられるほどたやすくは抑えられない。その時以来、神がいかなる歯止めを設けてこられたかに注目するがいい。世界は腐敗してしまった。それは全く不義でおおわれている。そこにひとりの預言者がやって来る。エノクが主の到来を預言する。彼は、主が千万の聖徒を引き連れて来て、世をお審きになるであろうと宣言する[ユダ14]。だが、その世界は、それ以前と同じように不敬の、無頓着な歩みを続ける。別の預言者が起こされて、こう叫ぶ。「もうしばらくすると、この地上は洪水に水没するであろう」。人々は罪を犯すのをやめるだろうか? 否。放蕩、犯罪、下劣きわまりない類の不義は、それ以前と同じようにはびこっている。人間は自分の破滅につき進んでいく。大洪水がやって来ては、恵まれた数人をのぞいて、すべてを滅ぼす。この新しい家族は外へ出て行き、世界を人々で満たし出す。今や世界は清浄で聖くなるだろうか? しばし待て、すぐにわかる。こうした人々のうちのひとりが、ある行為を行ない、自らを永遠に呪いとするであろう。そして、彼の息子カナンは後々の歳月、自分の父親の呪いを受け継ぐことになる。それよりさほど遠からぬうちに、あなたはソドムとゴモラが、天から神の降らせた火で滅ぼされるのを見る。しかし、これが何だろうか? 後年、パロとその戦車隊が葦の海で溺れさせられたとしても何だろうか? セナケリブとその全軍が、御使いのかしらによる災厄によって真夜中に全滅させられたとしても何だろうか? この世が神の怒りの葡萄酒によってへべれけになり、酔いどれのように、右へ左へよろよろと千鳥足で歩むとしても何だろうか? 地上が戦争によって傷つき、焼かれるとしても何だろうか? それが洪水で水浸しになるとしても何だろうか? それが飢饉や疫病や種々の病にのしかかられても何だろうか? 地はなおも同じように進み続ける。今の時、世は罪深く、逆らう世であり、神が私たちの時代にみわざを行なわれない限り、人からいかに告げられても、ほとんどそれを信じる者はいない。世は決してきよくも聖なるものにもならないであろう。海は砂によって食い止められる。私たちはこの美しい詩的な事実をあがめる。だが人間は――生来、嵐よりも手に負えず、海原よりも衝動的な人間は――、服従させられることはなく、主の前に頭を垂れることはなく、全地の神に従おうともしないのである。

 「しかし、この事実が何だというのです?」――とあなたは云う。――「私たちはそれが真実であると知っています。それを疑ってはいません」。しばし待つがいい。私はこれから、あなたの心と良心を取り扱うであろう。そして、願わくは聖霊によってそうすることができるように! 私は、神がそうなさるであろうように、あなたがたの心と良心を二分したいと思う。――聖徒たち罪人たちである。

 最初に、あなたがた、聖徒たち。私はあなたに一言云いたい。私はあなたがこのことを、人類全般の歴史の中で歴然としている教理としてではなく、あなた自身の場合において、あり余るほど証明されたこととして眺めてほしいと思う。さあ今、私は今朝あなたに、このことがあなたについて真実でないかどうか尋ねたい。――「海は砂の境によって抑えられている。だが、私は、神にそむくことに心を傾けているこうした民のひとりであり、神のいかなる歯止めも私を罪から遠ざけておくことはできない」。しばしの間、神がご自分の民を罪から遠ざけようとして課しておられる様々な歯止めを振り返ってみよう。それにもかかわらず、不可抗の恵みの力が伴わない限り、それらには何の効果もないのである。

 まず第一に、感謝という歯止めを思い出すがいい。新生した謙遜な心にとっては、非常に強く服従を動機づけるに違いない歯止めである。私の思い描けるいかなるものにもまして、私を服従へと鼓舞すべきもの、それは、自分がこれほど多くのものを神に負っているという思いである。おゝ、天の世継ぎよ! あなたは永遠を振り返り、あなたの名前が麗しいいのちの書に記入されているのを見るがいい。あなたは選びの愛を歌うことができる。あなたは、1つの契約があなたのためにキリストと結ばれたことを信じている。《永遠の御子》が鉄筆をつかみ、選民全員の代表者としてご自分の御名を署名されたとき、あなたの救いが確保されたことを信じている。カルバリにおいて、あなたの罪がことごとく贖われたことを信じている。あなたの魂には、あなたの過去、現在、未来のもろもろの罪がみな、古のアザゼルのためのやぎ[レビ16:21]の上で数えられ、永遠に持ち去られたとの確信がある。あなたは、死も地獄もあなたをあなたの《救い主》の御胸から引き離すことはできないと信じている。しぼむことのないいのちの冠が自分のために用意されていると知っている。あなたの期待に満ちた魂は、しゅろの枝を手に持ち、金の冠を頭に戴き、足の下に黄金の街路を踏みしめ、永遠に幸福になるのを待ち望んでいる。あなたは、自分が天の恩顧を受けている人々のひとりであり、天来の懇請の特別の対象であると信じている。すべてのことが働いてあなたの益になると考えている。しかり。摂理のうちにあるあるゆるものは、あなたを、また、恩顧を受けているあなたの兄弟たちを特別に顧みているのだと確信している。私はあなたに問いたい。おゝ、聖徒よ。これは、あなたを罪から遠ざけておくに足る強い絆ではないだろうか? あなたの心が絶望的に不安定なものでさえなければ、あなたはこれによって罪から抑制されるはずではないだろうか? あなたの罪は極度に罪深いものではないだろうか? なぜなら、それは選びの愛にそむく罪、贖いの平和にそむく罪、すべてにまさるあわれみにそむく罪、比類なき愛情にそむく罪、果てしない恵みにそむく罪、しみ1つない愛にそむく罪だからである。あゝ! 罪がその絶頂に達するのは、それがあえてこのような愛にそむいて罪を犯そうとするときである。おゝ、キリスト者よ! あなたの主であり《主人》であるお方に対するあなたの愛情は、不義に向かうあなたに歯止めをかけるべきである。そして、あなたの心のすさまじい性格を恐ろしいしかたで――今のあなたの心についてさえも――証明するのは(というのも、あなたの心にはなおも悪がとどまっているからだが)、いかなる感謝の絆をもってしても、あなたを不浄さから引き留めておくことができない、ということである。昨日のもろもろの罪が、いま私の記憶に立ち起こってくる。おゝ! それらを振り返るがいい。それらは、あなたが忘恩のきわみを尽くして罪を犯していることを、あなたに告げていないだろうか? おゝ、聖徒よ! あなたは昨日、あなたの《主人》の御名をみだりに唱えなかっただろうか? また、あなたの《主人》の御名だけでなく、あなたの御父の御名をもそうしなかっただろうか? あなたは昨日、不信仰な心をいだかなかっただろうか? あなたは怒りっぽくしていなかっただろうか? 幾重もの恩顧に取り巻かれており、愚痴などこぼしようのない人間であるはずのあなたが、不平不満をぶちまけていなかっただろうか? あなたは、神があなたの一万タラントの借金を赦してくださっているのに、あなたに百円の借りのある隣人に対して怒りを発さなかっただろうか? あゝ、キリスト者よ! あなたはまだ罪から自由にされていないし、あなたの衣を死の黒い流れで洗って聖くするまでは、自由になることはないであろう。そのときあなたは、栄化された、きよく、しみない者として、御座の回りにある御使いたちと全く同じくらい聖くなるであろう。だが、それまでそういうことは起こらない。私はあなたに問う。おゝ、聖徒よ。あなたの罪が、愛とあわれみにそむく罪、契約の約束、契約の誓い、契約の責務、しかり、契約の成就にそむく罪であることを見るとき、あなたの罪は絶望的なものではないだろうか? また、あなたの魂も認めるように、いかに確固たる防壁によっても食い止められない者であることを見るとき、あなた自身は、そむく者、かたくなな者ではないだろうか?

 次に注意してほしいのは、罪人には、こうした罪に対する防壁があるばかりでなく、他にも多くの防壁があるということである。その人には、警告のために神のことば全体が与えられている。その頁を読むことにその人は慣れている。その人がそこに読むのは、もし彼がそうしたおきてを破り、主の戒めを守ることをしなければ、御父は杖をもって、その人のそむきの罪を、鞭をもって、その人の咎を罰するということである[詩89:32]。その人は、神のことばの中で、おびただしい数の模範を前にしている。ダビデという人物が、その罪を犯した後、骨を砕かれて[詩51:8]墓へ下っていくのを見いだす。サムソンという人物が髪の房をそり落とされ、両目をえぐられるのを見いだす。証拠に次ぐ証拠によって、罪には罰があること[民32:23]、心の堕落している者が自分の道に甘んじること[箴14:14]を見いだす。そこには、神の子どもに対する警告が山ほどある。滅んでしまった聖徒という警告ではない。そのような例は聖書に1つもないし、最終的に聖徒はだれひとり滅びないからである。――だが、神ご自身の子どもたちが自分たちのしかるべき行き道を外れて乗り出したとき、彼らがもたらす大きな、ひどい損害について、幾多の警告を有している。だがしかし、おゝ、キリスト者よ。あらゆる警告に反し、あらゆる戒めに反し、あなたはあえて罪を犯す。おゝ! あなたは、逆らう生き物ではないだろうか? あなたは今朝、自分の多くの咎を思ってへりくだってよいではないだろうか?

 また、聖徒は自分自身の経験に反して罪を犯す。その人が自分の過去の人生を振り返るとき、罪は常に自分にとって損失であったことを見いだす。その人は決して何の益も見いださず、常に罪によって損失をこうむってきた。これこれのそむきの罪を思い起こすとき、それは、そのときには甘やかに見えたが、おゝ! そのことによってその人の《主人》はご自分の臨在を差し控え、その御顔をお隠しになった。聖徒は、罪が自分の首の回りに石臼のようにぶらさがっていたとき、また、自分の魂の中ですさまじい呵責の炎が燃えているのを感じ、いかに神に逆らって罪を犯すことが悪く、苦々しいことであるかを思い知ったときのことを思い出せる。だがしかし、聖徒は数々の罪を犯す。さて、未回心の人が罪を犯す場合、その人は自分自身の経験に反して罪を犯すのではない。というのも、罪を極度に罪深いものとするような、真に痛切な経験をしたことがないからである。しかし、おゝ、白髪頭の聖徒よ。あなたは、罪を犯すたびに、その身に復讐を招いているのである。というのも、あなたは、あなたの一生を通じて、罪があなたにとっていかなるものであったかという多くの証明を得てきているからである。あなたは、それについて欺かれてはこなかった。というのも、あなたは、その苦々しさをあなたの五臓六腑で感じてきたからである。あなたがその呪われた一口をすするたびに、あなたはまことに頭が変になっているのである。なぜなら、あなたは経験に逆らって罪を犯すからである。左様。そして、聖徒たちの中でも最も若い者よ。あなたは罪の苦々しさを味わうようにさせられたことがないだろうか? あるはずである。もしあなたが聖徒ならば! では、あなたは、これからも行って、その吐き気を催させる杯に自分の指を浸そうとするだろうか? 再びのその毒入りの酒杯をあなたの唇につけようとするだろうか? しかり。そうするであろう。だが、あなたはそれを自分の経験にもかかわらずそうするがゆえに、それはあなたを泣かせるであろう。自分がこのように愛に満ちた神に逆らう、このように絶望的な反逆者であることに泣かされるであろう。神は、単に砂の防壁のみならず、精錬された鋼鉄の防壁をもってあなたの情欲を抑えようとしておられるのに、あなたの情欲は噴出してくるのである。まことにあなたがたは、かたくなで、逆らう民である。

 さらにまた、神はご自分の子どもたち全員を摂理で守り、彼らを罪から遠ざけようとしておられる。私は、自分が霊的な事がらにおいて有するささやかな経験からでさえも、私が《天来の》摂理によって罪から守られてきたと感ずる多くの事例をあなたに告げることができるであろう。罪の強い手が、しばらくの間私たちの支配権を握るように思われる時期があった。そして私たちは、内側に巣くう何か強い情欲によって引きずられていった。それは私たちが新生する前に手を染めがちな情欲であった。私たちはその情欲に酔いしれた。私たちは思い出す。それが、私たちの不義の時代には、自分にとっていかに愉快なものであったか、いかに私たちがそれによって反逆したかを。そのとき、私たちは突然、断崖絶壁の瀬戸際へと引っ張られ、底を見下ろさせられた。私たちの脳はめまいがし、私たちは立っていられなかった。そして、私たちは覚えていないだろうか? まさにそのとき、いかに何か驚くべき摂理が私たちの道にやって来て、私たちを救ったかを。さもなければ私たちは、礼節の規則を破ったかどで教会から破門されてしまっていたであろう。あゝ! 私たちの中のある者らには、奇妙なことが起こる。あなたがたの中のある人々には、奇妙なことが起こってきた。ただ摂理によってのみ、あなたは、何らかの悲しく厳粛な機会に――あなたが決して後悔なしには振り返ることのできない折に――、あなたの品性の上での疥癬となったであろうような罪から救い出されたのである。そして、あなたの罪の度重なる回数によって、あなたが実際、反抗的な生き物に違いないことを思い起こされるがいい。神があなたを苦しめたにもかかわらず、あなたは罪を犯した。神があなたに懲らしめを与えたにもかかわらず、あなたは罪を犯した。神があなたを炉の中に入れたにもかかわらずそれでも金滓はあなたから分離しなかった。おゝ! いかにあなたの心は腐敗していることか。また、いかにあなたは、今なお、さまよいがちな者であることか。神があなたを取り囲むために、いかなる防壁を与えておられても関係ない!

 それでも、やはりなおも、あなたに思い起こさせてほしい。愛する方々。神の家の種々の儀式はみな、罪を阻むためのものなのである。神は私たちを聖所の礼拝で取り囲んでおられる。私たちは、自分たちの聖なるバプテスマの記憶で取り囲まれている。そして、キリスト教に関連する他のすべては、私たちを罪に寄せつけないためのものである。また、これらの生み出す効果は実に大きい。だが、すべては、日々神から私たちに与えられる、保持の恵みがなくては不十分である。また、私たちはこう考えようではないか。愛する方々。神は私たちに敏感な良心を与えておられる。世俗の人々の良心よりも敏感な良心である。なぜなら、神は私たちには生きた良心を与えるが、世の人々の良心は、しばしば無感覚で死んだものだからである。だがしかし、この生きた良心に逆らって、御霊の度重なる警告に逆らって、戒めに逆らって、約束に逆らって、経験に逆らって、神の誉れに逆らって、神に負っている感謝に逆らって、神の聖徒たちはあえて罪を犯す。そして彼らは、神の前に告白しなくてはならない。自分たちが逆らう者であること、神に対してかたくなであったことを。恥とともに頭を垂れつつ、自分の道を考えるがいい。それから、キリスト者たち。あなたがたの心を、崇敬のこもった愛のうちに高く上げるがいい。神は、あなたがたの足が地獄に急ぎつつあるときに、あなたを抑えてくださった。その保持の恵みがなかったとしたら、あなたは地獄に落ち込んでいたはずである。このあなたの神の寛容、この優しい同情は、日ごとにあなたの歌とならないだろうか?――

   「いのちと、思いと、この存在(み)が続き、
    不滅(とわ)のありさま 保(も)たん限りは」。

あなたは祈らないだろうか? あなたが逆らう者であるとしても、また、あなたが神に対してかたくなであったとしても、神があなたを投げ捨てないようにと。その聖霊をあなたから取り去らないようにと。

 これが聖徒たちに対する言葉である。さてこれから、願わくは御霊が私を助けてくださり、それを努めて罪人たちに対して適用させてくださるように! 罪人よ。私は今朝あなたに厳粛なことを告げなくてはならない。しばしの間、私によくよく注意を向けてほしい。私は、これがあなたの耳に対して私の伝える最後の使信であるかのように語るであろう。私は私の神に願った。私がそのようにあなたに語りかけることができるようにと。おゝ、罪人よ。たとい私があなたの心を獲得できなくとも、少なくとも私があなたの血の責任からは逃れられるようにと。また、たとい私があなたにあなたの罪を確信させられないとしても、いずれにせよ私が、かの日にはあなたを何の弁解もできない者とすることができるようにと。その日、「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれる」[ロマ2:16]。さあ、では罪人よ。第一のこととして、私はあなたに、あなたの咎を考えてみるよう命ずる。あなたは、私が云ってきたことを聞いた。大いなる海原は、神によって服従させられ、その水路の内へと、ただの砂によって抑えつけられている。だがあなたは、あわれむべき虫けら、一日で消え失せる被造物、ひと時しか生きていない蜻蛉の身でありながら、神に反逆しているのである。海は神に従っている。あなたは従っていない。私は切に願う。いかに多くの歯止めを神があなたに課しておられるか考え見るがいい。神は、あなたのもろもろの情欲を砂によってではなく、大槌の手錠で抑えてこられた。だがしかし、あなたは、自分のそむきの罪の激しさによって、あらゆる束縛を破ってきた。ことによると、神はあなたの魂を、あなたの咎の記憶で阻んでこられたかもしれない。あなたは今朝、自分が神を軽蔑する者だと感じている。あるいは、軽蔑する者でないとしたら、あなたはただの聴衆であって、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできない[使8:21]。あなたは、あなたの母の忠言、またあなたの父の強い説諭にまっこうから逆らってきた自分の罪を覚えていないだろうか? 彼らは一度もあなたを阻もうとしなかっただろうか? あなたは一度も、母の涙が自分の後を追ってくるだろうと考えたことがないだろうか? あなたは一度も自分のために父が祈るのを聞いたことがないだろうか? あなたが遊興のために夜更かしをし、寝床につくために深夜帰宅したとき、あなたは一度もあなたの父親の霊があなたの寝床のかたわらにあって、アブシャロムのごとき息子、イシュマエルのごとく逆らう子のために、もうひとたびの祈りをささげている姿を見たことがないだろうか? 子どもよ、あなたが学んだことを考えてみるがいい。母の涙のバプテスマを受け、その中にほとんど没さんばかりになっている者よ。あなたは幼児期に神について何がしかを教えられた。その後あなたは母の膝から出て行き、敬虔な教師の膝元に移り、《日曜学校》で訓練されるか、いずれにせよ聖書を読むことを教わった。あなたは神の脅やかしを知っている。私があなたに、罪人は罪に定められなくてはならないと警告するとき、それは、あなたにとって決して耳新しい話ではない。私があなたに、聖徒たちは星をちりばめた冠を戴くのだと告げるとき、それは、あなたにとって決して初めて聞くことではない。ならば、あなたの咎がいかに大きなものか考えるがいい。あなたは光と知識に背いて罪を犯してきたのである。あなたは暗闇の中で罪を犯しているホットントット族の罪人ではない。高い天の前で、真昼の光の中にある罪人なのである。あなたはわけも知らずに罪を犯してきたのではない。もっと分別があってしかるべきときに、そうしてきたのである。そして、あなたが失われることになったとき、あなたには、その分の余計に滅びを受けるであろう。なぜなら、あなたは自分の義務を知っていながら、それを行なわなかったからである。私は、このことを肝に銘ずるように命ずる。あなたの良心に向かって厳粛に命ずる。これは真実だろうか? 真実でないだろうか? あなたがたの中のある人々には、別の事がらがある。あなたは覚えていないだろうか? ほんのしばらく前に病が蔓延していた頃、あなたは病床に伏せっていた。ある夜のことをあなたは決して忘れないであろう。病があなたを強くつかみ、かの強い人が身をかがめて近づいてきた。あなたは、そのときに見た、断罪された者たちが住む領土の光景を忘れていないではないだろうか? 肉の目で見たのではないが、あなたの良心で見たその光景を。あなたは彼らの悲鳴が聞こえたように思った。自分自身もまもなく彼らのひとりとなるだろうと思った。私には、あなたが見えるような気がする。あなたは顔を壁に向けて、こう叫んだ。「おゝ、神よ。もしあなたが私のいのちを救ってくださるなら、私は自分をあなたにささげます!」 ことによると、それは事故だったかもしれない。あなたは死が非常に身近にあると恐れていた。死の恐怖があなたをつかんでいた。そしてあなたは叫んだ。「おゝ! 神よ。どうか私を無事に家まで帰りつかせてください。そうすれば、私のかがめられた膝と、私の滂沱たる涙が、私の立てている誓いが真実であると証明するでしょう」。しかし、あなたはその誓いを果たしただろうか? 否。あなたは神に対して罪を犯した。あなたの破られた誓いの数々は、あなたに先立って審きのもとに下っている。あなたは、自分の同胞である人々に対して約束しておきながら、それを破ることを小さなことと考えるだろうか? それは、あなたの評価ではそうかもしれない。だが、正直な人間の評価ではそうではない。しかし、あなたの《造り主》に対して約束をして、そうした約束を破ることをあなたは小さなことと考えるだろうか? 《全能の神》に逆らって罪を犯すことは、決して軽い刑罰ではない。もしあなたがこのようなあり方を続けるとしたら、それはあなたの魂を失わせるであろう。方々。また、あなたの魂の血を永遠に失わせるであろう。誓ったことは果たせ。果たさないなら、誓うな[伝5:4-5]。というのも、神は、血に報いる[詩9:12]日に、あなたの上にある誓いを訪れ、あなたの魂を滅ぼされるからである。あなたはこのようにして守られてきた。あなたが異常な解放を得てきたことを思い出すがいい。病はあなたを殺さなかった。折れた骨々はいやされた。あなたは死ななかった。死の顎は持ち上げられ、あなたの上で噛み合わされなかった。なおもあなたは健在である。あなたのいのちは助かった。

 おゝ! 話をお聞きの愛する方々。あなたがたの中のある人々は、最悪である。あなたは定期的にこの会衆席に座ってきた。――神が私の証人であるが、いかに熱心に私は、キリストの全き愛の心をもって、あなたの救いを切望してきたことか。私は臆することなく、神のご計画の全体をあなたに宣言してきた。もし私がことなかれ主義者であって、真理の一部を押し隠してきたとしたら、私は今以上の誉れを人々から受けていたことであろう。だが私は、あなたの血の責任について、自分の良心に何の曇りもないようにしてきたと信ずる。何度私は、人々が泣くのを見てきたことか。熱い涙が、とめどなくその頬を流れるのを見てきたことか。そしてあなたがたの中のある人々の生活に変化が生ずるのを見たと思ったことか。しかし、あなたがたの中のいかに多くの人々が、数々の警告に背いて罪を犯し続けたことか。私の確信するところ、そうした警告は、雄弁においては劣ることがあっても、その真情においては決して何者にもひけをとらないものだったというのに! あなたは神の使節に逆らって罪を犯すことを小さなことと考えるのだろうか? それは決して小さな罪ではない。私たちは、自分の受けた警告に背いて罪を犯すたびに、その分だけ極悪の罪を犯すのである。しかし、ある者たちの場合――私はあなたには見込みがあると思っていたのに、あなたがたは破滅の道に戻っていった。私は叫んだ。「悔い改めよ。立ち返れ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか?」*[エゼ33:11] しかし私は、自分の《主人》のもとにこの叫びとともに行かざるをえなかった。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか」[イザ53:1]。あゝベツサイダ[マタ11:21]。お前はツロやシドンであった方がましだった。数々の特権の真中に置かれていながら、結局は滅びてしまうとしたら! あゝニューパーク街で話を聞いている者たち! あゝ、ここにいる教役者の声に耳を傾けている者たち! もしあなたがたが私たちの警告の下で滅びるとしたら、あなたがたは戦慄すべき恐ろしいしかたで滅びるのである! あゝ、カペナウム! どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ[マタ11:23]。あゝ、若い婦人たち! あなたには敬虔な母親があり、あなたは多くの警告を受けてきた。あゝ、若い男たち! あなたは放蕩無頼の若者であった。あなたは幼少の頃からこの祈りの家に連れて来られていたし、今でさえここに座っている。あなたの良心はしばしばあなたを刺した。しばしばあなたの心はあなたに、お前は間違っていると告げてきた。だがしかし、あなたはなおも変わってはいない! あゝ、わざわいなるかな! わざわいなるかな! だがしかし、私は私の神に叫ぶであろう。神がそのわざわいをそらし、あなたを赦してくださるようにと。神があなたを死なせず、ご自分に立ち返らせ、今あなたが自分の罪の中で滅びないようにしてくださるようにと。あなたがた、罪人よ! 神はあなたと云い争われる[ホセ4:1]。神は海を馴らされるが、あなたがたは馴らされようとしない。あなたの中で発揮される神の驚くべき恵み以外の何物をもってしても、自分の数々の情欲の中にあるあなたを抑えることはできないであろう。あなたは数々の警告と叱責に逆らい、数々の摂理とあわれみと審きとに逆らって罪を犯してきたし、今も罪を犯し続けている。

 おゝ! 話をお聞きの方々。あなたが罪を犯すとき、あなたは他の人々のように微々たる罪を犯すのではない。というのも、あなたが罪を犯すとき、あなたは地獄そのものに面と向かって罪を犯すからである。私が確信するところ、この場にいる男女のうちひとりとして、罪を犯すときに地獄が必然的な結果であることを知らない者はいない! 方々。あなたがたは暗闇の中で罪を犯しているのではない。神があなたにあなたの不義の報いを与えるとき、あなたは神に向かって、「私は、これが自分の労賃だったとは知りませんでした」、と云うことはできない。あなたが毒麦を蒔いたとき、自分が麦を刈り取ることになるだろうと期待することはできなかった。あなたは、「肉のものを蒔く者は、肉のものを刈り取る」*[ガラ6:8]ことを知っていた。あなたは肉のために蒔いているが、救いを刈り取ることになる見込みを持ってはいない。というのも、あなたは、「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取」る[ガラ6:8]、と知っているからである。罪人よ。神が地獄をあなたの前につきつけておられるときに罪を犯すのはすさまじいことである。何と! 神がその脅やかしを宣告しておられるときに罪を犯すというのか? 罪を犯す! シナイが雷を轟かせ、地獄が燃え盛っているときに? 左様。それは罪の中の罪である。しかし、話をお聞きの愛する方々。あなたがたの中のいかに多くの人々が、そのようにして罪を犯してきたことか。願わくは神がこの家をボキム[士2:5]に変えてくださり、あなたが自分の咎のために泣くようにしてくださるように。この世の何にもまして困難なことは、人々に自分の咎を信じさせることである。もし私たちがひとたび人々にそうさせることができたとしたら、私たちは、キリストがご自分の救いを彼らに啓示するのを見いだすであろう。私は、この弱々しい声と、このかぼそい話によっては、あなたにこう考えさせることすらできない。すなわち、キリスト・イエスこそ、その御霊の働きによって、あなたに真に、また現実に自分の罪を感じさせることのできるお方である、と。主はそうしてくださっただろうか? 主は私の言葉をあなたがたの中のだれかにとって祝福としてくださっただろうか? あなたがたの中に、だれか自分のもろもろの罪を感じている人がいるだろうか? あなたがたの中のだれかは、自分が逆らう者であると知っているだろうか? あなたは、この時以来、自分の道を立て直そうと云うだろうか? 方々。あなたに云わせてほしい。あなたがそうすることはできない。あなたは、人々の中の最強の者よりもすぐれているのだろうか? 人々の中の最上の者のであっても、やはり人間でしかなく、自分には自分自身の荒れ狂う情動を馴らすことができない、と確信していたのである。神は、海が砂によって馴らされうると云われるが、人の心は抑えられず、なおもかたくなである。あなたは、神が不可能だと仰せになっていることを、自分ができると思うのだろうか? あなたは自分が《全能の神》よりも強いと思うのか? 何と! あなたは、上から新しく生まれなければ神の国を見ることはできない[ヨハ3:3]、と神が宣言して織られるというのに、自分の心を変えられるというのだろうか? 他の人々はそうしようと試みたが、できなかった。私は切に願う。自力でそうしようなどと試みないでほしい。私はあなたが自分の咎を知っていることを嬉しく思う。だが、おゝ、その咎を、あなた自身の決意という汚れた流れで洗いきよめようとすることによって、悪化させてはならない。行って神に、自分は自分の罪を知っています、とお告げし、それを御前で告白するがいい。そして神に、どうか自分にきよい心を造り、ゆるがない霊を自分のうちに新しくしてください[詩51:10]、と願うがいい。自分は逆らう者です、あなたが自分の心を変えてくださらない限り、これからもずっとそのような者であり続けるに違いありません、とお告げするがいい。そして私は切に願う。新しい心を手に入れるまで、決して満足してはならない。話をお聞きの方々。バプテスマに満足していてはならない。主の晩餐で満足していてはならない。日曜日に店を閉めることで満足していてはならない。酔っ払うのをやめたからといって満足してはならない。悪態をつかなくなったからといって満足してはならない。覚えておくがいい。あなたは、そうしたすべてのことをしていても、罪に定められることがありえる。新しい心とゆるがない霊こそあなたに必要なものである。そこから始めるがいい。それを得さえすれば、残りのすべては正しくなるであろう。よく考えるがいい。話をお聞きの方々。あなたは自分のうわべを飾り、めっきをかけることはできるかもしれないが、決してあなた自身を変えることはできない。自分の心を道徳的にすることはできるかもしれないが、霊的にすることはできない。しかし、このことをとくと考えるがいい。あなたは今朝失われている。そして、このことだけを考えることである。――あなたは自分を救うためには何1つ行なうことができない。この思いをあなたの魂の中で立ち上げ、自らを低く低くして、神のもとに行っては、こう叫ぶがいい。「おゝ、主よ。私にできないことを、あなたがなさってください。私をお救いください。おゝ、私の神。あなたのあわれみのゆえに」。

 話をお聞きの愛する方々。私はあなたに対して無情なことを語っているだろうか? それとも、あなたがたはむしろ、それを愛によって受け取ろうとするだろうか? あなたがた、このように神に対して恐ろしい罪を犯してきた人たち。あなたはそれを実感しているだろうか? よろしい。私にはあなたに恵みを差し出すことはできない。あなたにキリストを差し出すことはできない。だが、あなたにキリストを宣べ伝えることはできる。おゝ! 私は何と云うだろうか? こうである。――あなたは罪人である。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。その罪人のかしらでさえも」*[Iテモ1:15]。あなたは罪人だろうか? ならば、キリストはあなたを救うために来られたのである。おゝ! 喜ばしき調べよ。私は、あなたにこのことを宣べ伝えることのできる幸いに、今にも講壇の上で喜び踊り上がりたい気がする。こうあなたに告げることを許されている幸いに、私は心を恍惚とさせてこの両手を打ち鳴らせる。――「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」。ぜひ云わせてほしい。主がこの世に来られたとき、主は十字架に釘づけられた。そこで主は、絶望的な悲嘆と苦悶のうちに息を引き取られた。そして、こう絶叫された。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]。主の御手と御足からは血が流れた。そして主は、苦しまれたがゆえに、赦すことがおできになるのである。罪人よ。あなたはそれを信じるだろうか? あなたはどす黒い。あなたは、自分のどす黒さを面前にしても、キリストの血ならあなたを白くできると信じるだろうか? 罪人よ。あなたは何というだろうか? 神はあなたに、あなたの罪を確信させてくださった。あなたは今朝、神の道によって喜んで救われたいと思っているだろうか? 思っているとしたら、あなたは救われる。こう書かれている。――「ほしい者は、来なさい」*[黙22:17]。あなたは今朝、渇いているだろうか? ここへ来て飲むがいい。空腹だろうか? 来て食べるがいい。死にかけているだろうか? 来て生きるがいい。私の《主人》は、こう告げるよう私に命じておられる。自分の罪を感じているすべての者よ。あなたは赦される。自分のそむきの罪を知っているすべての者よ。主はこう告げるよう私に命じておられる。――「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去る」*[イザ43:25]。あなたは姦淫を犯してきただろうか? 娼婦を買ってきただろうか? 盗人、酔いどれ、安息日を破る者、悪態をつく者だっただろうか? 私はこの宣言にいかなる例外も見いださない。――「ほしい者は、来なさい」。私はここにいかなる例外も見いださない。――「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。あなたは自分の咎を知っているだろうか? ならば私は、あなたの咎がいかなるものであるかを問わない。あなたが、最悪の人間であったとしても、もう一度あなたに云うが、もしあなたが自分の咎を知っているとしたら、キリストはあなたを赦してくださるであろう。それを信ずるがいい。そうすればあなたは救われる。

 さて今あなたは外へ出て行き、これらすべてを忘れてしまうだろうか? あなたがたの中のある人々は今朝泣いた。何の不思議でもない。不思議なことは、自分が救われていると見いだしていない者がみな泣かないでいられることである! あなたは明日、自分の畑に出て行ったり、自分の卸売りや、自分の店や、自分の事務所に出て行くであろう。そして、この安息日の朝あなたの上に及ぼされたかもしれない影響は、朝もやのように消え去るであろう。話をお聞きの方々。私は泣こうとは思わない。あなたは私を思いつく限りの悪口雑言でののしるが、私は、あなたが自分のために泣かないがゆえに泣くであろう。罪人たち。なぜあなたがたは罪に定められようとするのか? 地獄の火焔の中でかたくなになっているのが快いことだろうか? 方々。あなたの死に何の意味があるのか! 何と! 神に反逆するのは誉れあることだろうか? 突っ立って、神の宇宙の笑いぐさになるのは栄誉だろうか? あなたは、自分は死なないと云うのだろうか? だが、少しでもそのときを引き延ばせるだろうか? もしきょう都合が悪ければ、明日はもっとそうであろう。きょう先延ばしにして、あなたの目から涙を拭うなら、やがて来たるべき日にあなたは、一滴の涙と引き替えに百万もの世界を与えても惜しくはないのに、それが得られないであろう。多くの人々は、かつては柔らかい心をしていた。それは過ぎ去り、後年になってその人は云った。「おゝ、私に一滴でも涙を流すことができたとしたら!」 おゝ、神よ! あなたのことばを今朝、この岩のような心を砕ける槌としてください! あなたがた、自分のもろもろの罪を知っている人たち。神の使節として、私は切に願う。「神の和解を受け入れなさい」[IIコリ5:20]。「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている」[詩2:12]。覚えておくがいい。ひとたび失われたなら、あなたがたは永遠に失われるのである。だが、もしあなたがたが、ひとたび救われたなら、あなたがたは確かに永遠に救われているのである。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31]、と古のパウロは云った。イエスご自身が云われた。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。私は、呪いをもってしめくくるつもりはない。「信じる者は、救われます」。願わくは神が、あなたがた全員を、この永遠の祝福にあずからせてくださるように。主イエスのゆえに!

 

人の罪に対する神の防壁[了]

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