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罪人たちに対する訴え

NO. 219

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1856年9月14日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ストランド街、エクセター公会堂


「この人は、罪人たちを受け入れている」*。――ルカ15:2


 こうした言葉が発されたとき、私たちの《救い主》の周囲に集まっていたのは、異様な集団であった。福音書記者はこう私たちに告げている。――「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た」[ルカ15:1]。取税人たち――社会の最底辺に属する、民衆の抑圧者で、どれほど卑しいユダヤ人からも軽蔑され、憎まれていた人間たち――こうした者らが、最悪の品性の持ち主たち、町通りのくずたち、エルサレムの社会の最下層の人間たちとともに、この力強い説教者、イエス・キリストを取り巻き、そのことばに聞き入っていたのである。この群衆から距離を置いて、何人かの上品な人々が立っていた。当時、パリサイ人や律法学者と呼ばれていた者たち――会堂ではつかさ、指導者、教師として高く尊敬されていた人々である。その彼らは、この《説教者》を蔑んだ目で眺め、不愉快そうに見つめながら、何かあらを探そうとしていた。そして彼らは、たとい主の個人的なあらを見つけることはできなくとも、主の会衆にはそれを簡単に見つけることができた。こうした群衆に対する主の態度は、彼らが正当であると誤って思い込んでいた考え方にとって、衝撃的なものであった。道徳的に下の下でしかない者らにも主が優しく接し、堕落しきった人間にも愛のこもった言葉をかけておやりになるのを見てとったとき、彼らは主をはずかしめるつもりで1つの言葉を発した。だが、実はそれは主の非常な名誉となるものであった。「この人は、罪人たちを受け入れている」*。私の信ずるところ、私たちの《救い主》が、ご自分について口にされたいと願っておられた意見の中でも、これほど歴然として正しいもの、あるいは、これほど徹底的にその聖なる使命と一致したものはありえなかった。これは、主のご性格の正確無比な肖像画である。まるで巨匠の手が、主を生き写しに描き出したかに思える。主は、「罪人たちを受け入れる」お方であった。これまでも、多くの真実な言葉が冷やかしの言葉として語られてきたし、多くの真実な言葉が中傷として口にされてきた。人々は時として冷やかしのつもりで、「そこを聖徒様が通るぞ」、などと云うが、それは本当のことなのである。彼らは、「そこに、神に選ばれたお方のひとりが通るぞ、選民様のひとりが通るぞ」、などと云う。彼らはそれで中傷しているつもりになっているが、彼らがののしった教理は、それを受け取っている者にとっては慰めであった。それはその人の栄光であり、その人の誉れであった。さて、律法学者とパリサイ人たちは、キリストを中傷しようと思っていたが、そうすることによって、自分たちの意図を越えて、主に栄誉ある称号をささげることとなったのである。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」。

 今晩、私は、あなたがたに語りたい内容を3つの部分に分けたいと思う。第一に、キリストは罪人たちを受け入れてくださるという聖書の教理である。第二に、それによって罪人に与えられる励ましである。そして第三に、そこから自然に生じてくる、そうした人に対する勧告である。

 I. まず第一に、《教理》である。この教理によると、キリストはあらゆる人を受け入れるのではなく、「罪人たちを受け入れる」。罪人たち、というこの言葉は、俗な云い方では、万人を意味する。当節は、だれもが自らの内心に反して嘘をつき、自分は罪人ですと云うのが流行りである。自分はどこに出ても恥ずかしくない品行方正な人間だと思い、生まれてこのかた何1つ間違ったことはしていないと信じている場合でさえそうである。人々が、自分は罪人ですというとき、それは一種決まり文句に近い告白なのである。それは、何の変哲もない慣用句であって、外国語の羅列を繰り返しているのと、ほとんど変わらない。そこで意味されているのは、深く心で感じた悔恨の念ではないからである。人々は、自分が罪人であることを本当の意味ではまるでわかっていない。この律法学者とパリサイ人たちは、実質上、自分たちは罪人ではないと主張しているに等しい。彼らは取税人や遊女や役立たずたちに目星をつけては、「奴らは罪人だが、われわれは違う」、と云っていた。「よろしい」、とキリストは云われた。「わたしは、あなたがたがつけた区別を裏書きしよう。あなた自身の意見によると、あなたは罪人ではないという。よろしい。しばらくの間は、あなたが、罪人呼ばわりされることから免除しよう。――わたしは、あなたがつけた区別を裏書きしよう。しかし、あなたに云っておくが、わたしがやって来たのは、自らの評価においてもあなたがたの評価においても、罪人とみなされている当の人々をこそ救うためなのだ」。私は、この聖句の教理はこのことであると信ずる。――すなわち、キリストが受け入れてくださるのは決して、自分を義とする人や、善人や、清廉潔白な人や、自分には《救い主》など必要ないと夢見ている者たちではなく、むしろ、魂の打ち砕かれた者、悔いた心の者――自分は神の律法を破ってきました、神の不興に値することをしてきました、と進んで告白する人々なのである。こうした人々を――こうした人々だけを――救うためにキリストは来られた。先週の安息日の夜にも、同じ主題を主張したが、――イエスが死なれたのは、こうした人々のためであって、他のいかなる者のためでもなかったのである。主がその血を流されたのは、自分のもろもろの罪を進んで告白する者たち、主の傷ついたみからだの開いた血管を通してあわれみを求める者たちであって、その他のいかなる者のためにも、主はご自分をあえて十字架上でおささげになることはなかった。

 さて、愛する方々。ここで私が思うに、罪人たちのほか何者も選ばず、召し出さない、という区別を神がおつけになったのは、非常に賢明なことである。というのも、そのような人々でなければ、決して神のもとに来るはずがないからである。自分を義とする人が、キリストのもとにあわれみを求めてやって来るなどという奇蹟は、一度も起こったためしがない。《救い主》を欲する人々のほか、だれひとり主のみもとに来たことはない。当然のことながら、人々は自分が《救い主》を必要としていると思っていないときには、決して主の御座に近づくものではない。そして、確かに、キリストが罪人たちを受け入れると云われたのは、あらゆる点から見て満足の行くことであるに違いない。罪人たちこそ、あわれみを求めて主のもとに行くであろう唯一の人々であり、それゆえ、もし主が、自分はだれでも受け入れるが、確実にやって来るだろう者だけは受け入れない、などと仰せになっていたとしたら、それは無益なことであったろう。

 さらにまた注目したいのは、こうした人々以外のだれもやって来ることができない、ということである。人はみな、自分が罪人であることを本当に悟るまでは、キリストのもとに来ることができない。自分を義とする人は、キリストのもとに来ることができない。というのも、キリストのもとに来るということには、いかなる含みがあるだろうか? 悔い改めて、主のあわれみにより頼み、自分の自我に対する一切の信頼を否定することである。さて、自分を義とする人は、悔い改めて、なおかつ自分を義としていることはできない。その人は、自分には何の罪もないと思い描いている。ならば、なぜ悔い改めなくてはならないのだろうか? へりくだった悔悟とともにキリストのもとに来るよう、その人に告げると、その人は叫ぶ。――「あゝ! あなたは私の尊厳を侮辱しています。なぜ私が神に近づかなくてはならないのです? どこで私が罪を犯したのです? 私は赦しを求めて膝まずいたりしません。罪を犯したことなどないのですから。この口は、自分が神にそむきの罪を犯したと信じてもいないのに、赦しを求めはしません。私はあわれみを求めはしません」。自分を義とする人は、神のもとに来ることができない。その人が神のもとに来るということは、その人が自分を義としなくなることを含んでいるからである。また自分を義とする人は、自分の信頼をキリストに置くこともできない。なぜそうしなくてはならないのか? 私は自分が必要ともしていないキリストにより頼むだろうか? もし私が自分を義としているとしたら、キリストから救われる必要などないと判断するであろう。ならば、いかにして私は次のような告白とともに行くことができるだろうか?

   「わが手にもてる もの何もなし」。

私の両手は、たくさんのもので一杯になっているというのに。いかにして私は、自分が純白だと信じているのに、「私を洗ってください」、などと云えるだろうか? いかにして私は、自分が全く病んでなどいないと思っているのに、「私をいやしてください」、などと云えるだろうか? いかにして私は、自分が全く奴隷などではなく、「決してだれの奴隷になったこともない」*[ヨハ8:33]と信じているのに、「私に自由を与え、私を解放してください」、などと云えるだろうか? 罪の桎梏ゆえに自分が奴隷となっていることを悟っている者、咎の感覚ゆえに自分が死に至る病にかかっていることを悟っている者、また、自分で自分を救えないことを感じている者だけが、信仰をもって《救い主》により頼むことができるのである。また、自分を義とする人は、自分を捨ててキリストをつかむことができない。なぜなら、自分を放棄すれば、たちまちその人は、キリストが受け入れると仰せになっている当の人格になってしまうからである。自分の義をかなぐり捨てるとき、その人は自分を罪人の立場に置くことになるであろう。何と、方々。キリストのもとに来るということには、私たち自身の義という汚れた衣を脱いで、キリストの衣を着るという含みがあるのである。もし私が意固地に自分自身の衣服を身に巻きつけているとしたら、いかにして、私はそのようなことができるだろうか? また、もしキリストのもとに来るために私が自分自身の隠れ家を捨て、私自身の一切の希望を捨てなくてはならないとしたら、いかにして私はそうできるだろうか? もし私の希望が確かなものだと信じ、私の隠れ家が堅固だと信じ、すでに自分は《小羊》の婚宴に入るのに十分な衣裳を着ていると思っているとしたらどうだろうか? しかり。愛する方々。罪人こそ――また、罪人だけこそが――キリストのもとに行ける者なのである。自分を義とする人にはそうできない。それは完全に不可能である。――たといそうできたとしても、その人はそうしようとはすまい。その人の自己義そのものがその人の足に枷をかけ、行かせないようにする。その人の腕を麻痺させ、キリストをつかめないようにする。その人の目を盲目にし、《救い主》を見えないようにする。

 だが、もう1つ理由がある。もし罪人ではないこうした人々がキリストのもとに来るとしても、キリストは彼らから何の栄光も受けないであろう。医者が病人たちのためにその扉を開いているとき、かりに五体ぴんぴんしている私が中に入ったとする。彼は私によって何の誉れも受けないであろう。なぜなら、私を相手にしては、彼はその腕を振るえないからである。慈悲深い人が自分の富をすべて貧者に分け与えているかもしれない。だが、あり余る財産を持っている人が彼のもとに行った場合、いくら彼が飢えた者に食事を与え、裸の者に着物を着せても、彼は相手から何の敬意も得られないであろう。というのも、そこに来た者は飢えてもおらず、裸でもないからである。もしイエス・キリストが、ご自分の恵みを求めてやって来る者すべてにそれを与えると宣言しておられるとしたら、それだけで十分であるに違いない。焦眉の急によって追い立てられて来た者たち以外のだれも、それを求めて来ようとはせず、来ることもできないからである。左様! それで十分である。主の誉れのためには全く十分である。大罪人が救われるとき、彼はキリストに大きな栄光をもたらす。罪人でない人は、たとい天国に行き着くことができたとしても、自分の栄光はたたえても、キリストの栄光をたたえようとはすまい。いかなるしみもない者は、水の源に飛び込むであろうが、きよめを与えるその力をたたえることはできない。というのも、洗い落とすべき何のしみもないからである。何の咎も持たない人は決して「赦し」という言葉をたたえることができない。ならば罪人こそ――罪人だけこそ――キリストの栄光を現わせるのである。こういうわけで、「この人は、罪人たちを受け入れている」が、それ以外のいかなる者を受け入れるとも云われていないのである。「彼は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」*[マコ2:17]。これがこの聖句の教理である。

 しかし、この言葉をもう少し敷衍させてほしい。「この人は、罪人たちを受け入れている」。さて、これによって理解したいのは、主が罪人たちを受け入れているのは、彼らのためにご自分が獲得したすべての恩恵に入らせるためだということである。もしそこに泉があるとしたら、主は罪人たちを受け入れて、彼らの病をいやしてくださる。もしそこに魂のための薬があるとしたら、主は罪人を受け入れて、彼らの病をいやしてくださる。もし病人のための家や病院、死に行く者らのための癩病院があるとしたら、主はそうした者たちを、こうしたあわれみの隠遁所へと受け入れてくださる。愛ゆえに主がお持ちの一切のもの、あわれみゆえに主がお持ちの一切のもの、贖いゆえに主がお持ちの一切のもの、聖めのゆえに主がお持ちの一切のもの、義のゆえに主がお持ちの一切のもの――こうした一切のものへと、主は罪人を受け入れてくださる。しかり、それ以上である。罪人をご自分の家に連れて行くだけでは満足できず、主は彼をご自分の心へと受け入れてくださる。主は黒く不潔な罪人を取り上げては彼を洗ってくださる。――「さあ」、と主は仰せになる。「あなたはわたしの愛する者である。わたしはあなたを恋い慕っている[雅7:10]」。そして、すべての総仕上げとして、最後に主は聖徒たちを受け入れて天国へ至らせてくださる。聖徒たち、と私は云ったが、これは、かつて罪人たちであった者たちのことである。というのも、真に聖徒となれる唯一の人々は、かつて罪人であった者、そして、キリストの血で洗われ、子羊のいけにえによって白くされた者たちのほかにいないからである。

 ならば、注目するがいい。愛する方々。罪人たちを受け入れるということで、私たちは救いの全体を意味しているのである。そして、本日の聖句にあるこの言葉、「この人は、罪人たちを受け入れている」、は契約の全体をつかんでいるのである。主は彼らを受け入れて、パラダイスの喜び、天国で幸いとされた者の至福、栄化された者の歌、永久に続く幸福の永遠へと至らせてくださる。「この人は、罪人たちを受け入れている」。そして、私は特別に強調して語りたい点がある。――主は、他のいかなる者をも受け入れない、ということである。主がお救いになる唯一の人々は、自分が罪人であると知っている人々である。完全な、無代価の救いは、全宇宙のあらゆる罪人に宣べ伝えられているが、私は、自分を罪人であると認めようとしない人々に宣べ伝えるべき救いなど全く有していない。そうした人々に私は律法を宣べ伝え、彼らの義が不潔な着物のようであること[イザ64:6]、彼らの善良さが蜘蛛の巣のように散り去り、ばらばらになること、だちょうの卵のように馬の足でつぶされること[ヨブ39:14-15]を告げなくてはならない。「この人は、罪人たちを受け入れている」。そして、他の何者をも受け入れない。

 II. さて、それでは《励まし》である。もしこのお方が罪人たちを受け入れておられるとしたら、あわれな病んだ罪人よ。これはあなたにとって何と甘やかな言葉であることか! ならば確かに、この方があなたを拒絶することはないに違いない。さあ、今晩、私の《主人》のみもとに来て、その大いなる贖いを受けとり、その義のすべてをまとうように、あなたを励まさせてほしい。注意するがいい。私が語りかけている人々は、bona fide[真正]の、本物の、現実の罪人たちである。口先だけの罪人ではない。現今の信心家――と彼らの考える人々――をなだめるために、神妙そうに、自分は罪人ですと云う者らではない。私が語りかけているのは、自分が失われ、滅びていて、望みのない状態にあることを感じている人々である。こうしたすべての人々が今、率直に、無代価で、イエス・キリストのもとに来て、キリストによって救われるよう招かれているのである。来るがいい。あわれな罪人よ。来るがいい。

 来るがいい。なぜなら、主はあなたを受け入れると云っておられるからである。私はあなたの恐れを知っている。私たちはみな、キリストのもとに来るとき、一度はそうした恐れを感じた。あなたが心中こう云っていることは承知している。「主は私を拒絶するでしょう。私が自分の祈りを差し出しても、主はお聞きにならないでしょう。私が主に叫び求めても、もしかすると天は青銅のようになるかもしれません。私は途方もない大罪人であって、主は決して私をご自分の家に連れて行き、ご自分と一緒に住まわせてなどくださらないでしょう」。あわれな罪人よ! そう云ってはならない。主は、その判決を公表しておられる。人間同士の間でも、普通、同胞を正直な相手であるとみなすなら、約束をとりつけただけで十分である。罪人よ! あなたと神の御子との間でも、それで十分ではないだろうか? 主はこう云われた。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。あなたは、この約束に思い切って身をまかせてみないだろうか? あなたは、主が云われた、というこの頑丈な船に乗って海に出てはみないだろうか? これは聖徒にとってしばしば、また時には唯一の慰めであった。主が云われた。これに頼って彼らは生き、これに頼って彼らは死んだ。何と! あなたはキリストがあなたに嘘をついたと思うのだろうか? 主は、ご自分があなたを受け入れると告げながら、そうしないのだろうか? 主は、「太った家畜もほふりました。どうぞ宴会に来てください」*[マタ22:4]、と云っておきながら、あなたの面前で戸口をぴしゃりと閉めるというのだろうか? 否。主がご自分のところに来る者を決して捨てないと云った以上、主にはそうすることができない。主があなたを捨てることはない。そう確信するがいい。ならば、来るがいい。主がそう云われたというこの根拠に立って、主の愛を試してみるがいい。

 来るがいい。そして、恐れてはならない。なぜなら、思い出すがいい。もしあなたが自分を罪人だと感じているとしたら、その感情は神からの賜物であり、それゆえ、あなたは、すでにあなたを引き寄せるためにかくも多くのことを行なってくださったお方のもとへ全く無事に来ることができるからである。見知らぬ人が私の戸口の前に立ち、施しを求めるとする。そして、そうした人々は、最初はごく率直な語り方をする。自分は私とは一面識もないのだと云い、私の慈悲に頼るべき何の根拠もないのだと云う。彼は、私が自分の胸に起こすかもしれない慈悲心にすべてを賭けている。しかし、もし私が以前一度でも何かを彼に恵んだことがあったとしたら、彼は私が富んだ人間だと考えてこう云えるであろう。「旦那様。あなた様は、あっしにたいへんなお恵みをくださいやした。あなた様は、最後の最後になってあっしを見捨ててしまうようなことは、きっと、なさらねえと思います。あれほどのお情けを下さった後で、あなた様があっしを空きっ腹にさせておくなんて考えられねえこってす」。あわれな罪人よ! もしあなたが、自分には《救い主》が必要だと感じているとしたら、キリストがあなたにそう感じさせておられるのである。もしキリストを追い求めたい願いを有しているとしたら、キリストがその願いをあなたにお与えになったのである。もし神を求める何らかの願望を持っているとしたら、神があなたにその願望を与えてくださったのである。もしキリストを求めて渇望できるとしたら、キリストがあなたに渇望させてくださったのである。キリストを求めて涙することができるとしたら、キリストがあなたを涙させてくださったのである。否。もしあなたが、自分には見いだせないのではないかと恐れながらも、見いだしたいと希望する強い願いをもって主を願い求めることができさえしたら――もしあなたが主を希望することだけでもできるとしたら、主があなたにその希望を与えておられるのである。そして、おゝ! あなたは主のもとに来ようとしないのだろうか? あなたには、今やあなたについての王の恵み深さがあるのである。来て、主がなしてくださったことを申し立てるがいい。それを申し立てる嘆願が、神に容れられないことは決してありえない。神の過去の数々のあわれみに動かされて自分は将来においても神をお頼みしようとしているのだ、と神に告げるがいい。膝まずくがいい。罪人よ。膝まずいて、こう申し上げるがいい。――「主よ。私は、自分で自分が罪人であるとわかっていることについて、あなたに感謝します。あなたが私にそれを教えてくださったのです。私が自分のもろもろの罪を包み隠さず、それを自覚できること、それを感じられること、それが常に私の前にあることについて、あなたをほめたたえます。主よ。あなたは私に、私の罪を見せておきながら、私の《救い主》はお見せにならないのでしょうか? 何と! あなたは傷口を開き、槍状刀を突き入れながら、私をお癒しにはならないのでしょうか? 何と、主よ! あなたは、『わたしは殺す』、と仰せになったのですか? ですが、返すことばであなたは、『わたしは生かす』、と仰せになったではありませんか[申32:39]。あなたは私を殺してから、私を生かしてくださらないのですか?」 そう申し立てるがいい。あわれな罪人よ。そのときあなたは、このことが正しいことを見いだすであろう。「この人は、罪人たちを受け入れている」。

 これでもあなたには十分ではないだろうか? ならば、ここにもう1つの理由がある。「この人が罪人たちを受け入れる」ことを私が確信するのは、このお方が、あなた以前にも数多くの罪人を受け入れてこられたからである。見るがいい。そこに《あわれみ》の扉がある。いかに多くの者がそこにやって来たかに注目するがいい。ほとんど今も、過去からの残響のように、その扉を叩く音が聞こえるかに思える。あなたは覚えているであろう。いかに多くの疲れきった旅人たちが、安息を求めてそこを訪れ、いかに多くの飢えきった魂がパンを求めてそこで願いの声をあげたかを。行くがいい。《あわれみ》の扉を叩き、その門番にこう問いかけるがいい。「この扉に向かって願いの声をあげた者のうち、ひとりでもはねつけられた者がいますか?」 私はその答えを請け合ってもいい。「いいえ、ひとりもいません」。

   「罪ある者みな 追い返されじ
    主のあわれみを 求め来たらば」。

では、あなたが追い返された最初の者になるのだろうか? あなたは神が、あなたを追い払うことによって、その名声を失おうとなさるなどと思うのだろうか? 《あわれみ》の門は、人間が罪を犯して以来、昼も夜も開け放されている。あなたは、それがあなたの面前で初めて閉ざされると思うのだろうか? 否。人よ。行って試してみるがいい。そして、もしそれが閉ざされているのを見いだしたというなら、戻ってきて云うがいい。「あなたの聖書の読み方は、まともではありません」、と。さもなければ、自分は成就されていない約束を聖書に1つ見つけた、と云うがいい。――というのも、主はこう云われたからである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。私は信じない。自分は神に対して真摯にあわれみを求めてもそれを見いだしませんでした、などと云うことを神から許された者が、この世にひとりでもいたなどとは。否。それだけでなく、そのような存在は今後も決して存在しないだろうと信ずる。キリストのもとに来る者は絶対確実にあわれみを見いだす。これ以上いかに大きな励ましをあなたは欲するだろうか? あなたは、救われるためにやって来もしない者たちまで救われることを欲するのだろうか? キリストのもとに来ようとしない者たちにまで血が振りかけられることを欲するのだろうか? ならば、あなたはそれを欲しているに違いない。私はそれをあなたに説教するつもりはない。私はそれを神のことばの中に見いださない。それゆえ、そのようなことはあえてしない。

 そして今、罪人よ。私には、なぜキリストがご自分のもとに来るあらゆる罪人を受け入れてくださると信ずべきかについて、あなたに勧め、訴えたい、もう1つのことがある。すなわち、主はそのようなすべての者を召しておられるのである。さて、もしキリストが私たちをお呼びになり、私たちに来るように命じておられるとしたら、私たちは主のもとに行くとき、主が私たちを追い返さないと確信してよいであろう。昔々、ひとりの盲人が乞食をしながら道端に座っていた。その彼の耳に聞こえてきたのは――というのも、彼の目は見えなかったからである。――、聞こえてきたのは、自分の前を通り過ぎて行く大勢の人の足音であった。これはどういうことかと聞くと、彼らはナザレのイエスがお通りになるのだと云った。大声で彼は叫んだ。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください!」[マコ10:47] あわれみの耳は明らかにつんぼであったらしく、《救い主》は歩き続け、この嘆願に気をとめなかった。この貧乏人は、そのときじっと座ったままだったが、動かなくとも、大声で叫んだ。だが、《救い主》が、「ここへ来なさい」、と云ったとき、あゝ! そのとき彼は一瞬たりとも遅れを取らなかった。人が、「さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」、と云った。すると、並みいる人をみな押しのけ、彼は群衆をかき分けて、こう嘆願した。「先生。目が見えるようにしてください」。よろしい。ならば、自分が失われ、滅びていると感じているあなたは、立って語るがいい。主はあなたを呼んでおられる。罪を確信させられている罪人よ。キリストは、「来なさい」、と行っておられる。そして、あなたは確かに主がそう仰せになっていると確信してよい。いま一度聖書を引用しよう。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」[ルカ5:32]。あなたは招かれているのである。人よ。ならば来るがいい。もし女王陛下が馬車で通り過ぎるとしたら、あなたは陛下に語りかけるなどと大それたことをしようとはまず思うまい。だが、もしあなたの名が呼ばれ、しかも陛下ご自身の口によって呼ばれたとしたら、あなたは陛下の四輪馬車のもとに行かないだろうか? そして陛下があなたにお語りになることを耳にしようとしないだろうか? さて、天の《王》が、「来なさい」、と云っておられるのである。しかり。いつの日か、「さあ、祝福された人たち」*[マタ25:34]、と仰せになるのと同じ御口が、今晩こう云っているのである。「来なさい。あなたがた、あわれな苦悩する罪人たち。わたしのもとに来なさい。私があなたを救ってあげよう」。この公会堂の中にいて苦悩している魂のうち、もしその苦悩が神の聖霊のみわざであるとしたら、キリストの御傷のうちに救いを見いだすことのない魂は1つとしてない。ならば信ずるがいい。罪人よ。イエスを信ずるがいい。イエスがあなたさえをも、完全に救うことがおできになる[ヘブ7:25]と信ずるがいい。

 そして今、この励ましをあなたに託するために、もう1つの点だけ語らせてほしい。あわれな魂たち。実際、あなたがたが罪意識に打ちひしがれているとき、信ずることが非常に困難であることは、私も承知している。私たちは、「ただ信ぜよ」、と云うことがある。だが、信ずるとは、罪があなたの肩に重くのしかかっているときには、この世で最も難しいことである。私たちは、「罪人よ。ただキリストに信頼するがいい」、と云う。あゝ、あなたがたは、それがいかに大きな「ただ」かを知らない。それはあまりにも巨大なわざであるため、神に助けられなければいかなる人も行なうことができないのである。というのも、信仰は神の賜物であり[エペ2:8]、神はそれをその子どもたちにしかお与えにならないからである。しかし、もし何かが信仰を存在させることができるとしたら、それは私が言及したこの最後のことである。罪人よ。キリストがあなたを喜んで受け入れたいと思っておられることを思い出すがいい。というのも、主が天からわざわざやって来られたのは、あなたを探し、さまようあなたを見つけ出し、あなたをそのみじめさの中から救い出し、助け出すためだったからである。主は、あなたの幸福を心から望んでおられる証拠として、まさにご自身の心血を注ぐことまでして、あなたの魂を死と地獄から贖い出してくださった。もし主が聖徒たちとの交友を望んでいたのだとしたら、天国にとどまっておられたであろう。そこには多くの聖徒たちがいたからである。栄光のうちには、アブラハムも、イサクも、ヤコブも主とともにいた。だが主は罪人たちを欲された。主は滅びゆく罪人たちを渇望された。主は彼らをご自分の恵みの戦勝記念碑とすることを願われた。主は真っ黒な魂を白くすることを欲された。死んだ魂たちを生きた者とすることを欲された、主の慈悲は、その力を発揮する対象を欲した。それゆえ、

   「輝く天(あめ)の 御座よりくだり
    主は喜びて 急ぎきたりぬ、
    死ぬる肉たる 墓に入りては
    死人(しびと)とともに 住み給いけり」。

おゝ、罪人よ。そこを見るがいい。かの十字架に目をやるがいい。そこにかけられた、かの人に目を注ぐがいい。

   「見よ、主のみかしら、御手と御足を
    悲しみ恵みぞ こもごも流る!
    いまだかくなる 恵み悲しみ、
    いばらの冠、世にぞありしか?」

その眼差しは、あなたの目に入っただろうか? そのどんよりした目に、あなたの魂のための憐憫が浮かんでいるのが見えるだろうか? そのわき腹が目にとまっただろうか? その深紅の血潮の滴りを見るがいい。その一滴一滴は、あなたのためにしたたっているのである。かのいまわの際の悲鳴、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」[マコ15:34]が聞こえるだろうか? その悲鳴は、その深く響きわたる厳粛さのすべてにおいて、あなたのためのものなのである。しかり。あなたの。もしあなたが罪人であるならそうである。もしあなたが今晩、神に対してこう云うならばそうである。「主よ。私は、自分があなたに罪を犯してきたことを知っています。イエスのゆえに、私をあわれんでください」。もし今、御霊に教えられてあなたが、罪を犯してきたがゆえに、自分をちりと灰の中でさげすむならば[ヨブ42:6]、まことに、私はあなたに神の前で――神の御目の前で――そのしもべとして告げる。あなたは救われるであろう。イエスは、あなたのために死んだのに、あなたを滅びるにまかせるなどということはなさらないからである。

 III. さて、最後の点は《勧告すること》にある。もしキリストがただ罪人たちを救うだけのために来られた、ということが本当だとしたら、話をお聞きの愛する方々。自分の魂の中で、あなた自身がいかに罪人であるかを自覚できるように努め、苦闘し、必死に努力するがいい。この世で最も大きな苦悩とは、自分が罪人であると感ずることである。だが、だからといって、私がそれを求めるようあなたに勧告すべきでない理由には全くならない。というのも、それは、苦悩を与えるものであると同時に、その苦い薬の苦悩だけが、効果的な治癒をもたらすからである。あなた自身を偉いものと考えようとしてはならない。あなた自身が失われた者と思えるようになることを求めるがいい。飾り物で自分を装おうとしてはならない。金銀で自分を飾り立てようと努めてはならない。自力で良くなろうとしてはならない。むしろ裸になろうと努めるがいい。自らをへりくだらせるようにするがいい。高く舞い上がるのではなく、低く沈み込むがいい。登るのではなく、降るがいい。自分が全く無であることを悟らせてくださるように神に願うがいい。ただこの一言しか云えないようにしていただくよう神に願うがいい。

   「われ罪人の かしらなり」

そして、もし神があなたの祈りをお聞きになるとしたら、まず間違いなくサタンはあなたに、お前は罪人なのだから救われることはありえない、と告げるであろう。しかし、マルチン・ルターはこう云っている。「かつて私が痛みと罪にしぼり上げられていたとき、サタンは云った。『ルターよ。お前が救われることはありえないぞ。お前は罪人なのだからな』。『否』」、とマルチン・ルターは云った。「私は、お前自身の剣でお前の頭を切り落としてやろう。お前は私が罪人だと云う。それについては感謝しよう。お前は聖なるサタンだ」(疑いもなく、彼は嘲ってこう云っているのである)。「お前が私を罪人だと云うときにはな。よし、ならばサタンよ。キリストは罪人たちのために死なれたのだ。それゆえ、主は私のために死んだのだ。あゝ」、と彼は云った。「もしお前が私にそれを証明できないとしたら、サタンよ。それについてはお前に感謝しよう。そして、呻き声をあげるどころか、私は歌い出すだろう。というのも、私たちが欲するのは、私たちが罪人であることを知り、感ずることだけだからだ」。それを感じようではないか。知ろうではないか。そのとき私たちはこれを、啓示された、疑う余地のない事実として受け入れることができよう。私たちにはキリストのもとに行く権利があり、キリストを信じ、キリストを私たちの救いのすべて、また私たちの願いのすべてとして受け入れる権利があるのだ、と。疑いもなく《良心》がやって来ては、あなたを止めようとするであろう。だが、《良心》の口をふさごうとしてはならない。むしろ《良心》に、あなたが彼の言葉すべてに感謝していると告げるがいい。「おゝ、お前はどうしようもない奴だ。お前は若かったときに罪を犯した。今に至るまで罪を犯し通しだった。いかに多くの説教をお前は無駄に聞き流してきたことか! いかに多くの安息日をお前は破ってきたことか! いかに多くの警告をお前は蔑んできたことか! おゝ、お前はどうしようもない罪人だ」。《良心》に、ありがとうございますと告げるがいい。あなたが私を罪人であると――外的な行為によってではなく、内奥の心によって――証明できればできるほど、私は自分が本当に咎ある者であることを知り、キリストにもとに行ってこう云うべき理由をより多く得られるのですから、と。「主よ。私はあなたが咎ある者のために死なれたことを信じます。あなたが無価値な者を救おうとなさったことを信じます。私はあなたに身を投げかけます。主よ。私をお救いください!」 これは、あなたがたの中のある人々には気に入らないではないだろうか。これは多くの人の気分をほくほくさせるような類の教理ではない。しかり。あなたがたは良い人々になり、ほんのちょっとはキリストの手助けをしたいと願っている。あなたがたは、一部の教役者たちが四六時中宣べ伝えているような理論を好んでいる。「神はあなたのために大きなことをなしてくださいました。あなたはその残りをするのです。そうすればあなたは救われるでしょう」。これは非常に人気のある種類の教理である。あなたが一部を行ない、神がそれ以外の部分を行なう。だが、それは神の真理ではない。それは、熱に浮かされた夢にすぎない。神は仰せになっている。「わたしがすべてを行なうのだ。来て、私の足元にはいつくばるがいい。あなたの行ないを放棄するがいい。あなたに代わって、わたしに引き受けさせるがいい。その後で、わたしは、あなたをわたしの栄光のために生きる者とするであろう。ただわたしは、あなたが聖くなるためには、自分は聖くない者であることをあなたが告白することを望む。あなたが聖化されるためには、自分は聖ならざる者であることを告白しなくてはならない」。おゝ、それをするがいい。話をお聞きの方々。主の前にひれ伏し、打ち伏すがいい。高慢ちきに立ち上がっていてはならない。神の前にへりくだって、はいつくばるがいい。私は、神の主権の恵みがなければ、もう駄目です、と神に告げるがいい。自分は何も持っていません、自分は何者でもありません、自分は決して無以上の者にはなれません、ですがキリストは私のうちにある何物も求めてはいないことを知っています、主は私をあるがままで受けとってくださるからです、とこう神に告げるがいい。あなたの罪以外の何かを手みやげにキリストのもとに行こうなどとしてはならない。あなたの取り柄を並べ立てた祈りとともにキリストのもとに行こうとしてはならない。あなたの信仰の告白すら携えて来てはならない。あなたの罪をもって主のもとに来るなら、主はあなたに信仰を与えてくださる。もしあなたがキリストから離れて立ち止まり、自分はキリストから離れたままでも信仰を持てるのだと考えるとしたら間違いである。キリストこそが私たちをお救いになるのである。私たちは、自分の求めるすべてについてキリストのもとに来なくてはならない。

   「おゝ主よ、われの 望みのすべてよ!
    汝のたまもの すべてにまされり。
    倒れるを起こし 憂うを励まし
    病めるをいやし 目しいを導く」。

イエスはそうしてくださり、それ以上のこともしてくださる。だが、あなたは、盲人として来なくてはならない。病人として来なくてはならない。失われた者として来なくてはならない。さもなければ、あなたは全然来ることはできないし、来てはならないのである。

 ならばキリストのもとに来るがいい。私は切に願う。今の今まで、何があなたを引き止めていたとしても関係ない。あなたの疑いはあなたを引き止めようとするであろうが、云うがいい。「下がっていろ。不信仰よ。キリストは、罪人たちのために死なれたと仰せになっているのだ。そして、私は自分が罪人だと知っているのだ」。

   「わが信仰は 約束(みちかい)に生き、
    約束(みちかい)にこそ 死ぬるべし」。

そして、話を終える前に、もう1つのことだけ云っておきたい。あなたが自分は罪人だと知ったときには、神学のあらゆる点を理解していないからといって、キリストから離れていてはならない。非常にしばしば私が初信の回心者と話をすると、彼らは、「私は、この教理とか、あの教理とかを理解していません」、と云う。よろしい。私は心から喜んで、自分にできる限り、それを彼らに説明するであろう。しかし、時として私は、初信の回心者ではなく、初信の確信者と話をする。罪の確信の下にある人々のことである。そして、私がこのことに彼らを至らせようとするとき、すなわち、もし彼らが罪人でありさえすれば、キリストを信じてよいのだと教えようとするとき、彼らはこの難解な点や、あの難解な点を持ち出し始める。――そして彼らは、自分は徹底的な神学者になるまで救われることができないのだと想像しているかのようなふしがあるのである。さて、もしあなたが、神学のすべてを理解するまでキリストに自分の信頼を置けないと思っているのだとしたら、あなたは決してキリストを信頼することができないと云うしかない。というのも、あなたがどれだけ長生きしようと、あなたには探りきわめられない深みがあるはずだからである。議論の余地ないいくつかの事実はあり、それをあなたは信じなくてはならない。だが、あなたに見通すことのできない何らかの困難は常にあるものである。地上で最も恩顧を受けている聖徒といえども、すべてのことを理解しているわけではない。だが、あなたはキリストのもとに来る前に、すべての事がらを理解したがっている。ある人は私に、いかにして罪が世にやって来たのかを尋ね、それがわかるまではキリストのもとに来ようとしない。何と、もしその人がそれを理解できるまで待とうとするなら、取り返しの望みが全くないほど失われてしまうであろう。というのも、それを知ることになる人はだれもいないであろうからである。私は、天国にいる人々にさえ、それが啓示されていると信ずべき何の理由もない。別の人は、いかにして人々が来るように命じられているのか――聖書の中で、私たちはだれひとり来ることができないと教えられているにもかかわらず――ということを知りたがり、ぜがひでも、そのことを明解にしなくてはならないという。まるで、あの片手のなえた人[マコ3:1]が、キリストから、「手を伸ばしなさい」、と云われたとき、こう答えたかのようである。「主よ。私の頭の中には1つ困難があるのです。私は、いかにしてあなたが私に向かって、私の手を伸ばせと云われるのかを知りたく存じます。私の手はなえているのですから」。かりに、キリストがラザロに向かって、「出てきなさい」、と云われたとき、ラザロがこう云えたと考えて見るがいい。「私の頭の中には1つ困難があります。いかにして死人が出てくることなどできましょうか?」 何と、このことを知っておくがいい。ひとりよがりな人よ! キリストが、「手を伸ばしなさい」、と仰せになるとき、主はあなたに、そのご命令とともに、あなたの手を伸ばす力をも与えてくださるのであって、この困難は、実際上は解決するのである。理論的には、決して解決しないだろうとは思うが関係ない。もし人々が、あたかも英国全土の地図を手に取るように、神学の精密な見取り図を持ちたがるとしたら、――もし彼らが福音の御国のうちにあるあらゆる小村、あらゆる生け垣に至るまで精密に図示されることを望んでいるとしたら、――彼らは聖書の中以外のどこにもそれを見いださないであろう。そして彼らは、そこに記されているあらゆる小さな事がらを見つけ出そうとしても、それがそこには、メトシェラの寿命をもってしても足りないようなしかたで記されていることに気づくであろう。私たちはキリストのもとに来てから学ばなくてはならない。学んでからキリストのもとに来るのであってはならない。「あゝ、ですが」、と別の人は云うであろう。「それが私の心許なさの原因ではないのです。私は神学的な点ではさほど思い悩みはしません。私には、それよりもずっと悪い心配事があるのです。私は、自分が救われるには悪すぎるのではないかと感じるのです」。よろしい。ならば、あなたは間違っていると私は信ずる。それが、あなたへの答えとして私に云えるすべてである。というのも、私は、あなたを信ずるにまさってキリストを信じているからである。あなたは、自分は救われるには悪すぎると云う。キリストは、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」、と云っておられる。さて、どちらが正しいだろうか? キリストは、最悪の者をも受け入れると仰せになる。あなたは、キリストがそうしないと云う。ならば、どうなのか。「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」[ロマ3:4]。しかし、あなたも受け入れるであろうと思いたい、1つの助言がある。私が神に願うのは、神があなたを主イエス・キリストのもとにやって来させて、主があなたを追い返すかどうかを試してみさせなさることである。私は、非常にしばしば、最悪の罪人たちに対して訴えかけをするといって非難されてきたが、私にとってそれが何だろうか? 世間では、私が自分の牧会活動を、酔いどれや、売春婦や、冒涜する者や、どぎつい種類の罪人たちを相手にするものにしていると云っている。だが、そのようにして、蔑みの指が私に対して向けられるとしても、あるいは、私が公衆の前で馬鹿だとみなされるとしても、彼らの皮肉によって私がたじろくとでも思うだろうか? 彼らの卑劣な嘲笑によって、私が恥じ入って立ち止まるとでも思うだろうか? おゝ、否。主の箱の前で踊ったダビデのように、また、サウルの娘ミカルから恥知らずだとして嘲られ、なじられたときの彼のように、私はただこう答える。もしこれが卑しいということであるなら、私はもっと卑しくなるつもりだ、と[IIサム6:22]。私が、自分の前を行く《主人》の足跡を見ている間は、また、私がなおも主の恵み深い承認が私の労苦の後をついてくるのを見ている間は、また、主の御名が崇められ、主の栄光が増し加わり、滅びゆく魂が救われているのを見ている間は(神に感謝すべきことに、私たちはその証拠を毎日見ている)、また、この福音が私を正当化している間は、また、神の御霊が私を動かしている間は、そして、つき従う数々のしるしが私の使命の証印を増大させている間は、――私は何者だからというので、人のために自分の歩みを止めたり、鼻で息をする肉のために聖霊に抵抗すべきだろうか? おゝ、ならば、あなたがた、罪人のかしらたち。あなたがた、悪者の中でも最も極悪な人たち。あなたがた、町のくず、地上のごみ、被造世界のかすであり、いかなる人からも惜しまれていない者たち。あなたがた、その品性は形無しとなり、その内奥の魂は汚れ果て、世のさらし屋ではとても白くできないほどどす黒く、いかなる道徳家も匙を投げるほど低劣に堕落しきっている者たち! 来るがいい。――キリストのもとに来るがいい。主ご自身の招きに答えて来るがいい。来れば、確実に心からの歓迎をもって受け入れていただけるに違いない。私の《主人》は、罪人たちを受け入れると仰せになった。主の敵たちが主についてそう云った。「この人は、罪人たちを受け入れている」。事実まことに私たちは、主が罪人たちを受け入れてくださる保証について知っている。敵たち自身がそう証言しているのである。では来るがいい。そして、主のみわざと、ご招待と、御約束を心の底から信ずるがいい。あなたは、主が罪人たちを受け入れたのは、主が地上に滞在しておられた間の数日の恵みの期間中だけのことだと反対するだろうか? 否。そうではない。このことは、その後のあらゆる経験によって確証されている。イエスの使徒たちは、主が昇天された後も、同じことをおうむ返しに語ってきた。主ご自身が地上で云い表わされたのと同じくらい無条件の言葉によってそうしてきた。あなたがたはこのことを信じないというのだろうか? 「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」[Iテモ1:15]。あなたがた、蔑む人たちは、ここを出てから、このことについて笑うがいい。そうしたければ、行って、宣べ伝えられた福音をあざ笑うがいい。だが、いつの日か私たちは、私たちの《主人》の前で互いに顔を合わせて会うことになるであろう。そして、それはキリストを蔑み、その恵み深いことばを笑いものにしてきた者たちにとって、つらいこととなるかもしれない。この場にいる不信心者の中には、だれかこう云っている者がいるだろうか。たとい自分が死んでも、すべては無に帰し、死後の世界で暮らすようなことがないとしたら、今のままで十分だ、と。よろしい。愛する方々。かりにあらゆる人が、犬のような死に方をするとしたら、私はあなたと同じくらい安心するであろう。この世の幸福と平安についても、もう少し安心すると思う。しかし、もし(注意するがいい。私は、疑っているがゆえに「もし」と云っているのではない)――もし来世があるということが本当だとしたら、私は来世であなたと同じ立場につきたいとは思わない。かりに審きの座があるとしよう。地獄があるものとしよう。――(私はこれを疑っているがゆえに仮定的な云い方をしているのではない。あなたがそれを疑っていると私に云うので、そうするのである。そのあなたの言葉は本当ではないと思うが)、――もしそうした場所があるとしたら、あなたがたはそのときどうしようというのか? 何と、今でさえあなたがたは、夜に木の葉が落ちただけで震えるではないか。町に虎列剌があれば恐怖するではないか。ちょっとした病気になっただけであわてふためき、医者や、だれであれ薬をくれる者のもとに駆けつけるではないか。なぜなら、あなたは死を恐れているからである。ヨルダンの川がいっぱいに溢れるとき、死があなたをつかむとき、あなたはどうしようというのか? もしちょっとした苦痛があなたをおののかせるとしたら、あなたのからだがぶるぶる震え、あなたの膝があなたの《造り主》の前でがくがくと打ち鳴らされるとき、あなたは何をしようというのか? 話をお聞きの方々。その燃える眼差しがあなたの魂そのものまで食い入るとき、あなたは何をしようというのか? 万の雷の最中で主が、「離れよ、離れよ」、と仰せになるとき、あなたは何をしようというのか? 私はあなたが何をするか、あなたに告げることはできない。だが、あなたがあえてすることのできない、1つのことだけは告げるであろう。すなわちあなたは、私が、自分にあたう限りの平易さをもって、罪人のかしらそのひとに対しても福音を宣べ伝えようとしてこなかった、とあえて云うことはできないであろう。もう一度聞くがいい。――「主イエス・キリストを信じる者は救われます」*[使16:31 <英欽定訳>]。キリストを信ずるとは信頼することである。この世で息をしたことのある罪人の中で、最も重い荷を背負った罪人をさえ、とらえることのできる、かのほむべき御腕の中に身を投げることである。この約束の上にべったり寝そべることである。主があなたを生かしてくださるまで、自分に代わって主に何もかもしていただくことである。その後で初めてあなたは、あなたのうちで主がすでになされたことを――「あなたの救いを」――達成していくことができるようになる。だが、それすらも、「恐れおののいて」である[ピリ2:12-13]。願わくは全能の神によって、今晩、何人かのあわれな魂が祝福されるように! あなたがた、岸辺にいる人たち。私はあなたに何らかの善を施せると期待してはいない。もし私が海に火矢を送り出すとしても、その綱を喜ぶのは座礁した船だけ、難破した水夫だけである。あなたがた、自分は安全だと考えている人たち。私はあなたに対して宣べ伝えるべき何の必要もない。あなたがたはみな、あなた自身の目では善良であって、危険なほどである。あなたは、私からの警告などなくとも、十分安泰に自分自身の道を進んでいくことができる。それゆえ、あなたは、もし私がただ次の一言を除いてあなたに何も云わなくとも、許してくれなくてはならない。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち!」[マタ23:13-29] あなたに勘弁してもらって私は、別の種別の人々にもっぱら語りかけることにしたい。それは、悪人の中でも最も悪辣な種別の人々である。私は、最も卑しい人々、最も悪辣な人々に対する説教者という仇名を得ることになっても、全く気にしない。ロウランド・ヒルのように最下層民への説教者だとののしられても、恥じ入りはしない。というのも、彼らもまた、天の下のすべての造られたもの[コロ1:23]に劣らず福音を必要としているからであり、もしだれも彼らにそれを宣べ伝えようとしないのであれば、神の御助けにより、私がそれを彼らに、彼らが理解できる言葉で宣べ伝えるようと力を尽くしたいからである。そして、もし生まれの良い人々がそうした様式の説教を好まないというのであれば、そうした人々は、望めばそこから離れていくこともできる。もしそうした人々が、一般の罪人たちの知能を越えた、知的な口調で説教されるのを聞きたいというのであれば、そうしたことをしている人々のところに行くがいい。私は、私の主に従うことで満足していなくてはならない。主は、「ご自分を無にして」[ピリ2:7]、――風変わりな罪人たちを、風変わりなしかたで追い求められた。私は、たとい講壇の端正さにはずれたことをし、講壇の上品さを打ち破るようなことをしても、堅い心を打ち砕かないよりはましだと思う。私が正しい種類の説教であるとみなす説教は、どうにかして心に届く説教であり、そのどうにかが何であるかに私は頓着しない。告白するが、もし私がある1つのしかたで説教できなければ、別のしかたで説教するであろう。黒い上着を着ている限りだれも私の話を聞きに来ないというのであれば、私は赤い上着を着ることで彼らを惹きつけるべきであろう。何とかして私は彼らに、できるものなら福音を聞かせたいと思う。そして私は、いかなる労苦を払っても、いかに卑しい理解力の人であれ、この1つの事実だけはつかめるように説教するであろう。「この人は、罪人たちを受け入れている」。願わくは神が、あなたがたみなを祝福してくださるように。キリストのゆえに!

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罪人たちに対する訴え[了]

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