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キリストの血の声

NO. 211

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1858年8月29日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」。――ヘブ12:24


 あらゆる物質の中でも、血ほど神秘的なものはない。また、ある意味で、血ほど神聖なものはない。聖書が私たちに教えるところ、――そして、結局において、聖書には膨大な量の哲学が含まれているが、――「血は、そのいのちそのものである」*[レビ17:14]。――いのちは、その血にある。それゆえ、血は、物体と霊とをつなぐ神秘的な絆である。その血によって、いかにして魂が、少しでも物体と縁を結ぶことなどありえるのか、私たちには理解できない。だが、確かにこれこそ、その見るからに似ても似つかぬ2つのものを結び合わせている神秘的な絆なのである。そのようにして、魂はからだの中に宿ることができ、いのちは血の中にとどまることができるのである。神は、血を流すことに恐ろしく大きな神聖さを結びつけられた。ユダヤ教の経綸においては、動物の血さえ神聖なものとみなされていた。ユダヤ人は決して血を食べてはならなかった。それは、人の食物となるには神聖すぎるものだった。ユダヤ人が自分で自分の食糧を殺すことは、ほとんど許されていなかった。いわんや、殺した上でその血を、《全能の神》への聖なるささげものとして注ぎ出さずにおくことなど決してあってはならなかった。血は、贖罪の象徴として神にささげられていた。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」[ヘブ9:22]。これは、血がいのちと非常に密接な関係にあり、神が血のほか何もお受け取りにはならない以上、神にはいのちをささげなくてはならないこと、また、神の大いなる、栄光に富む御子が、ご自分の羊のためのいけにえとして、自らのいのちを明け渡さなくてはならないことを意味していたからである。

 さて、本日の聖句では「血」が言及されている。――2通りの血、すなわち、殺害されたアベルの血と、殺害されたイエスの血である。また、この聖句にはもう2つのことがある。――注ぎかけの血とアベルの血との比較があり、かつ、ある特定の状態が言及されている。とはいえ、この節全体を読み、その意味をくみ取ろうとすると、1つのことが分かる。義とは、ある血が注ぎかけられるときにやって来るものであり、その血はアベルの血よりもすぐれたことを語っているのである。だから、本日の講話の後半となるだろうこの状態とは、救われて、栄光に入るために、この注ぎかけの血のもとに来ていることである。

 I. これ以上前置きの言葉は語らず、ここで直ちに示したいのは、《この聖句が、暗に何を対照し、比較しているか》ということである。「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」。告白するが、この箇所を学んでいた際に私は、ギル博士や、アルバート・バーンズ、そして何人かの卓越した注解者の言葉に驚愕させられた。彼らは、これまで私が全く思い浮かべたこともなかったような意味をこの節に結びつけていたからである。彼らによると、この節の意味は、キリストの血が殺害されたアベルの血よりもすぐれているということにはない。確かにそれは真実だが関係ない。むしろ、キリストの血の犠牲は、アベルがささげた犠牲よりもすぐれており、すぐれたことを語っている、というのである。さて、確かに私は、それがこの聖句の意味であるとは考えないし、それなりの理由をもって自分の意見を信じている。すなわち、ここで《救い主》の血と対照されている血は、あの殺害された人アベルの血だと信じるものである。だが、原語をよくよく調べてみると、この件については双方に大きな理があるため、この箇所の説明としては、両方の意味を示すのが公平だと思う。それらは、相矛盾する解釈ではない。確かに、意味合いの違いはあるが、それでも結局は同じ内容を表わしているのである。

 まず最初に、ここで比較されているのは、アベルのそなえたささげ物と、イエス・キリストがそなえたささげ物であると理解できよう。キリストが、ご自分の羊たちのために贖いの代価として自らの血をお与えになった際にそなえられたささげ物のことである。

 アベルのささげ物について説明しよう。これは私が全く疑っていないことだが、アダムは、エデンの園から放逐された、そもそもの最初において、1つのいけにえを神にささげていた。そして、このいけにえが、獣のいけにえであるということも、おぼろげに示されている。というのも、見ると、神である主は、アダムとエバのために獣の皮で衣を作ってくださったからである[創3:21]。そして、おそらく、その皮が得られたのは、いけにえとしてささげる犠牲動物が殺されたからであったろう。しかし、それはおぼろげにしか示されていない。供物としてのいけにえのことを確かに示す最初の記録は、アベルによってそなえられた、このいけにえの記事にほかならない。さて、人間たちはその最初期から2つに区別されていたように見受けられる。カインは蛇の子孫を代表しており、アベルは女の子孫を代表していた[創3:15参照]。アベルは神に選ばれた者であり、カインは《いと高き方》を拒絶する者たちのひとりであった。しかしながら、カインとアベルの二人とも、外的に神に奉仕することにおいては等しかった。彼らは二人とも、ある特定の祭日に、供え物を持って来た。カインが、この供え物という件についていだいた観念は、アベルに思い浮かんだものとは異なっていた。カインは高慢で、偉そうに構えて、こう言った。「われわれが大地から受けている種々の恵みが神の賜物であることは喜んで告白しよう。だが、私が咎ある罪人であり、神の怒りを受けるに価する者だなどと認めるつもりはない。それゆえ」と彼は言った。「地の作物しか持って行かないことにしよう」。「あゝ、しかし」とアベルは言った。「種々の物質的な恵みについて感謝すべきであると感じる点は私も同じですが、それと同時に、私には告白すべき幾多の罪があります。免罪を受けるべき数々の不義があります。そして、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないと私は知っています。それゆえ、おゝ、カインよ。私は作物の供え物を持って来ることで満足しようとは思いません。麦の穂や、豊かな産物の初物で良いとは思いません。むしろ、自分の羊の初子の一頭を持って来て、祭壇の上で血を注ぎ出しましょう。なぜなら、私の信仰によれば、やがて来たるべき、ひとりの偉大な犠牲者がおられて、人々の罪を本当に償うことになるからです。それで、この子羊を殺すことによって、私はそのお方を信じる私の信仰を厳粛に表明します」。カインは違った。彼はキリストのことになど全く関心がなかった。自分の罪を告白するつもりなどなかった。感謝のささげ物をそなえることに文句はなかったが、罪のためのいけにえを持って来ようとはしなかった。受けた恵みに対するお返しとして受け入れられるだろうと思ったものを神に持って来ることは構わなかったが、自分の咎を神に対して認めようとはしなかった。あるいは、身代わりの血による以外に、そうした咎を償うことが全くできないと告白しようとはしなかった。さらにカインは、祭壇のもとにやって来たとき、全く信仰をいだいていなかった。彼も、アベルのように自然石を積んだ。その祭壇の上に自分の麦束を置き、そして待った。だが、彼にとっては、神が自分を受け入れるかどうかなど、比較的どうでも良いことだった。疑いもなく、彼は神が存在すると信じていた。だが、その神がお与えになった数々の約束を信ずる信仰は持っていなかった。神は、女の子孫が蛇の頭を踏み砕くと語っておられた[創3:15]。――それが、私たちの最初の親たちに啓示された福音だった。だが、カインはその福音を全く信じていなかった。――それが真実であろうとなかろうと、どうでもよかった。――土地によって自分の食物がたんまり得られれば十分だった。彼には信仰がなかった。しかし、聖徒アベルは祭壇のかたわらに立った。そして、ことによると、そのいけにえについて不信者カインから笑われたり、嘲られたりしたかもしれないが、ひるむことなく、血を流す子羊をその祭壇にそなえた。そして、万人に対して――当時の人々と、将来のあらゆる時代の人々との双方に対して――こう証しした。自分は、その女の子孫を信じているのだ、――また、その方がやって来て、蛇を打ち滅ぼし、あの堕落による災いを回復してくださるのを待ち望んでいるのだ、と。あなたには見えるだろうか。聖徒アベルがそこに立ち、ひとりの祭司として神の祭壇で奉仕している姿が。また、あなたには見えるだろうか。天が開けて、神の生ける炎がその犠牲動物の上に降ったのを見て、彼の顔が喜びに輝くのが。あなたは注目しただろうか。いかに彼が感謝に満ちた、確かな信仰の表情とともに天を見上げ、その後で涙に目を潤ませながら、こう叫んだかを。「感謝いたします。おゝ、天と地の主なる父よ。あなたは私のいけにえを受け入れてくださいました。それを私は、あなたの御子、来たるべき私の《救い主》の血を信じる信仰によって、おそなえしたのですから」。

 アベルのいけにえは、記録に残っている最初のいけにえであり、反対者の面前でささげられたものであるため、ユダヤ人がささげることになった他の数多くのいけにえよりも重んじられるべき点が多々ある。アベルは、来たるべきメシヤを信ずるその確信と信仰ゆえに大いに称賛されるべきである。しかし、しばしキリストのいけにえとアベルのいけにえを比較してみるがいい。アベルのいけにえは取るに足らないものに縮んでしまう。アベルは何を持って来ただろうか。血の注ぎ出しが必要であると示す一個のいけにえである。だが、キリストが持って来られたのは、血の注ぎ出しそのものであった。アベルは、自らのいけにえによって、自分が一個の犠牲を待ち望んでいることを世界に教えたが、キリストは現実にその犠牲をもたらされた。アベルが持って来たのは型と比喩でしかなかった。世の罪を取り除く神の《小羊》[ヨハ1:29]をかたどる《子羊》でしかなかった。だが、キリストこそは、その《小羊》であった。キリストは影の実体であり、型の本体であられた。アベルのいけにえには何の功徳もなかった。ただ、それをアベルが、メシヤを信じる信仰とともにそなえたにすぎなかった。だが、キリストのいけにえには、それ自体に功徳があった。それそのものが価値あるものであった。アベルの子羊の血は何だったろうか。どこで注ぎ出されてもかまわない、何の変哲もない子羊の血にすぎなかった。アベルにキリストを信じる信仰があったことを除けば、その子羊の血は、水も同然の、卑しむべきものであった。だが、キリストの血はまことのいけにえであった。アベルの祭壇に、また、ユダヤ教の大祭司たちのあらゆる祭壇にささげられた獣の血のすべてをはるかに上回る豊かなものであった。私たちは、これまでにささげられたことのある、あらゆるいけにえについて、こう言うことができよう。それがいかに高価なものであったにせよ、いかに神に受け入れられるものであったにせよ、たといそれが膨大な量の油や、幾万もの肥えた家畜であったとしても、この1つのいけにえとくらべれば無以下であり、卑しむべきものである、と。それを私たちの大祭司は一度限り決定的にささげ、それによって、聖なるものとされる人々を永遠に全うしてくださったのである[ヘブ10:14]。

 このように、キリストの注ぎかけの血と、アベルが注ぎかけた血との違いを述べることは、ごくたやすいことが分かる。しかし、ここで私は、一部の注解者の意見とは異なり、そこには、それよりも深い意味があるものと受け取りたい。私の信ずるところ、ここでほのめかされているのは、殺害されたアベルの血である。カインはアベルを打ち殺した。そして、彼の手が血で染まり、かつ、その祭壇が、そこで祭司として働いていた者の血で汚されたことは間違いない。「さて」とこの箇所で使徒は言う。「そのアベルの血はものを語ったのだ」と。動かぬ証拠がある。神がカインにこう言われたからである。「あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる」[創4:10]。そして、使徒は別の箇所でその血についてこう言及している。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」[ヘブ11:4]。自らの血を通して語っているのである。彼の血が、その土地から神に叫んでいるのである。さて、キリストの血も語っている。この2つの声の何が違うだろうか?――というのも、この聖句では、こう告げられているからである。それは、「アベルの血よりもすぐれたことを語る」と。

 アベルの血は、三通りのしかたで語っていた。それは天で語っていた。人の子らに語っていた。カインの良心に語っていた。キリストの血も、同じように三通りのしかたで、ずっとすぐれたことを語っている。

 最初のこととして、アベルの血は天で語っていた。アベルは聖い人であり、カインが弟を責めようとしても、言えることは1つしかなかった。「自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかった」と[Iヨハ3:12]。この兄弟が連れ立って供え物をささげに行く姿が見える。カインの顔が苦虫をかみつぶしたような顰め面になるのが見える。アベルのいけにえが受け入れられたのに、自分の供え物は神聖な火によって触れられないままだったからである。注目するがいい。いかに彼らが話を始めたかを。――いかに穏やかにアベルがその問題を論じ、いかに猛烈にカインが弟を非難したかを。また、やはり注目するがいい。いかに神がカナンに語りかけ、彼も自分の心の中にあると分かっていた悪について警告を与えておられるかを。そして、見るとカインが、《いと高き方》の謁見室から出て来る。釘を刺され、あらかじめ警告を受けている。だがしかし、その心中には恐ろしい思いを秘めている。その手を弟の血で染めようというのである。彼は弟と会う。親しげに話をする。いわばユダの口づけ[マタ26:49]を与える。自分ひとりしかいない野に来るよう、弟に誘いかける。不意をついて襲いかかる。さらにもう一度、強打する。ついに、殺害されて血みどろになった弟の死体が地に横たわる。おゝ、大地よ! 大地よ! 大地よ! その血を覆うな。これは、お前がこれまでに初めて目にした殺人なのだ。お前の表土をこれまでに汚した最初の血なのだ。聞けよ! 天に1つの叫びが聞こえる。御使いたちが驚愕する。その黄金の座席から立ち上がり、互いに聞き交わす。「あの叫びは何だ?」 神は彼らをご覧になり、こう言われる。「それは、血の叫びだ。ひとりの人間が、その同胞によって殺されたのだ。ひとりの弟が、同じ母親の胎から出た兄によって、冷酷にも、悪意をもって殺害されたのだ。わたしの聖徒のひとりが殺害されたのだ。そして、ここに彼はやって来る」。すると、アベルが朱に染まって天に入って来る。神の聖徒たちの中で、パラダイスに入ったことのある最初の者であり、神の子どもたちの中で、血のように赤い、殉教者の冠をかぶった最初の者である。そのとき、あの叫びが聞こえる。大きく、明瞭に、強く。そして、それはこのように語る。――「復讐を! 復讐を! 復讐を!」 そして、神ご自身がすっくと御座から立ち上がり、犯人をご自分の御座の前に召喚される。ご自分の御口をもって罪にお定めになる。それ以後この者は、さまよい歩くさすらい人とされ、地上を放浪させられる[創4:12]。その地上をいくら耕しても実は生らない。

 さて今、愛する方々。これとキリストの血を対照させてみるがいい。そこに、《受肉した神の御子》イエス・キリストがおられる。木に吊り下げられている。殺されたのである。――ご自分の兄弟たちによって殺されたのである。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。むしろ、ご自分の民に追い出されて殺された」[ヨハ1:11参照]。血を流し、死なれる。そこに、1つの叫びが天に響き渡る。愕然とした御使いたちは再びその座から立ち上がって口々に叫ぶ。「あれは何だ? いま聞こえたあの叫びは何だ?」 すると、《大いなる造り主》がやはりお答えになる。「それは血の叫びである。わたしの愛するひとり子である御子の血の叫びである!」 そして神は、その御座から立ち上がり、天から下界を見下ろし、その叫びに耳をお傾けになる。いかなる叫びだろうか。復讐ではない。むしろ、その声はこう叫んでいる。「あわれみを! あわれみを! あわれみを!」 あなたも、それが聞こえたではないだろうか。それはこう言っていた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」[ルカ23:34]。この点でキリストの血は「アベルの血よりもすぐれたことを語る」のである。というのも、アベルの血は、「復讐を!」と言い、神の剣をその鞘から抜き放たせたが、キリストの血は、「あわれみを!」と叫んで、その剣を元に戻らせ、永遠に眠っていよと命じたからである。

   「血には天空(そら)をも 裂(とお)す声あり、
    『復讐(さばき)を!』叫ぶは アベルの血なるも
    ほふられしイェスの 豊かな血潮
    平和(やすき)語れり 血脈(ちみち)の限りに」。

 やはり気づくのは、アベルの血が復讐を求めて叫んだのが、ただひとりの人に――カインに――ついてでしかなかったことであろう。それは、たったひとりが死ねば満足すると言っていた。殺人者の死だけを要求していた。「血には血を!」 殺人者がその死を受けなくてはならなかった。しかし、キリストの血は天で何と言うだろうか。ただひとりの人についてしか語っていないだろうか。あゝ! 否、愛する方々。「恵みの賜物は多くの人々のもとにやって来るのです」[ロマ5:15参照]。キリストの血が、あわれみを! あわれみを! あわれみを! と叫ぶのは、ひとりの人についてではない。だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆[黙7:9]についてである。――万の幾万倍もの数の人々についてである。

 さらに、アベルの血が天に向かって復讐を叫んだのは、カインの1つのそむきの罪ゆえであった。それ以前にカインが行なってきた、いかなる不道徳で邪悪な事がらについても、アベルの血は全く復讐を要求しなかった。その血が神の御座で大声で求めたのは、1つの罪のためであって、多くの罪のためではなかった。キリストの血が上げた声はそうではない。それが求めたのは、「多くの違反が義と認められる」[ロマ5:16]ことである。おゝ、あなたがたには聞くことができただろうか。その叫びが、そのすべてに打ち勝つ叫びが、今しもカルバリの頂から立ち上るのを。――「父よ。彼らをお赦しください!」 ひとりをではなく、多くの人々をである。「父よ。彼らをお赦しください」。そして、単にこの違反だけでなく、彼らのすべての罪を赦してください、彼らの不義をすべて拭い去ってください。あゝ! 愛する方々。私たちは、キリストの血が御父の御手に求めたのは、復讐だったと思って当然だったかもしれない。確かに、アベルのゆえに七倍の復讐がなされたとしたら、キリストのためには七を七十倍する復讐がなされなくてはならない。もしも、その負い目が完全に払われるまで、地表がアベルの血を呑み込もうしなかったとしたら、確かに私たちはこう思って当然であったかもしれない。地表がキリストのなきがらを覆うとしたら、それは神が世界を火と剣で打ち、全人類を滅びへ追いやってからでしかないだろう、と。しかし、おゝ、尊い血よ! あなたは一言も復讐を口にしない! この血が叫ぶ唯一のことは平和である! 免罪である! 赦しである! あわれみである! 受け入れることである! まことに、それは「アベルの血よりもすぐれたことを語」っている。

 また、アベルの血には第二の声もある。それは全世界に向かって語っていた。「彼は死にましたが、……今もなお語っています」[ヘブ11:4]。――単に天ばかりでなく、地上でも語っている。神の預言者たちは語る人々である。彼らはその様々な行為によって、またその言葉によって、生きている限り語り続け、葬られたときも、後に残したその模範によって語る。アベルはその血によって私たちに語っている。では、何と言っているだろうか。祭壇の上でそのいけにえをささげたとき、アベルは私たちにこう言った。「私は、やがて人々のもろもろの罪のためささげられるはずの、1つのいけにえを信じています」と。だが、アベル自身の血が祭壇に降り注がれたとき、彼はこう言うかのようであった。「これが私の信仰を実証するものです。私は自分の証言に、自らの血によって証印を押しました。あなたには、今や私の真摯さの証拠があります。というのも、私は今あなたに向かって証ししているこの真理を守るためなら、死ぬ覚悟があったからです」。このようにアベルが自分の証言を自らの血をもって実証したことは偉大なことであった。私たちは、殉教者たちが自らの告白のために喜んで死のうとしていなかったとしたら、彼らのことを半分も信じる気持ちにはならなかったであろう。《福音》が古代世界であれほど驚異的な早さで広まったのは、ひとえにその福音の説教者たちが全員、いずれかの時点で、喜んで自らの血によって自分の伝えた使信を証明しようとしていたからにほかならない。しかし、キリストの血は「アベルの血よりもすぐれたことを語る」。アベルの血はアベルの証言を立証したし、キリストの血もキリストの証言を立証した。だが、キリストの証言はアベルよりもすぐれている。というのも、何についてキリストは証言しておられただろうか。恵みの契約――永遠の契約についてである。主がこの世に来られたのは、私たちにこう告げるためであった。神は初めからご自分の民を選んでおられたのだ。――彼らが永遠のいのちを受けるように定めて、ご自分の御子イエス・キリストと1つの契約を結ばれたのだ。御子が代価を支払えば、彼らを自由にする――御子が彼らに成り代わって苦しみを受ければ、彼らを解放する――という契約である。そして、「頭を垂れて、霊をお渡しになった」とき、キリストは叫ばれた。――「完了した」[ヨハ19:30]、と。その契約の目的は果たされた。その目的は、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたら」す[ダニ9:24]ことであった。これが、私たちの主イエス・キリストの証言であった。その心臓から血潮がほとばしり出たとき、それは打ち型となり、証印となり、その契約を批准したのである。アベルが死ぬのを見るときには、彼の証言が真実であることが分かる。だが、キリストが死なれるのを見るときには、この契約が真実であることが分かるのである。

   「この契約(みちかい)の 立たば、信者(みたみ)よ、
    汝れに恐れぞ 起(わ)くも鎮まる。
    署名(みな)と証印(しるし)に これは批准(さだ)まり、
    萬具(よろず)備り 鞏固なり」。

主は、その御頭を垂れて、霊を渡したとき、事実上こう仰せになったのである。「わたしが自らをいけにえとしたことにより、子孫のためのすべては確かにされたのだ」。来るがいい。聖徒よ。この契約が上から下まで血に染まっているのを見て、それが確かなものであることを知るがいい。主は「忠実で、真実な証人、地上の王たちの支配者」[黙3:14; 1:5]であられる。殉教者たちの第一のお方である私の主イエスよ。あなたは、殉教者のすべてにまさる証言を残されました。あなたは永遠の契約について証しされたからです。あなたが魂の牧者であり監督者[Iペテ2:25]であることを証しされたからです。あなたご自身という犠牲によって、罪が取り除かれることを証しされたからです。もう一度言うが、来るがいい。あなたがた、神の民よ。そして、あの黄金の巻き物を読み通すがいい。それは選びで始まる。――永遠のいのちで終わる。そして、こうしたすべてをキリストの血はあなたの耳に叫ぶ。こうしたすべては真実である。それは、キリストの血がそれを真実なこと、子孫のすべてにとって確かなことと証明しているからである。その血は、「アベルの血よりもすぐれたことを語る」のである。

 さて、第三の声に耳を傾けることにしよう。というのも、アベルの血は、3つの声を重なり合わせていたからである。それは、カインの良心の中に語っていた。かたくなにされていたとはいえ、また、その罪については悪鬼そのものの様相をしていたとはいえ、それでもカインは、その良心においては弟の血の声が聞こえなくなるほど、完全に耳をふさがれていなかった。アベルの血がカインに向かって最初に語ったことは、こうであった。あゝ! 咎ある見下げ果てた者よ。実の弟の血を流すとは! その血が傷口から滴り落ち、血を伝わり流れるのを眺めているとき、また、太陽がそれを照らし出し、真っ赤な光が彼の目に飛び込んで来るとき、その血はこう言うかのようであった。「あゝ! 呪われた浅ましい者よ。というのも、お前の母親の子をお前は殺したからだ。お前が顔を伏せた[創4:5]ときの怒りさえ十分に邪悪なものだった。だが、自分の弟に襲いかかり、その命を奪うとは、おゝ! いかに邪悪なことか!」 それは彼に向かってこう言うかのようであった。「弟が何をしたからといって、その命を取らなくてはならなかったのか? 弟の何にそれほど腹を立てたのか? 弟のふるまいに非の打ち所はなく、その生き方はきよいものではなかったか? もしお前の殺したのが悪漢や盗人だったとしたら、人々はお前を責めなかったかもしれない。だが、この血はきよく、汚れなく、完璧な血だ。いかにしてお前はこのような者を殺すことができたのか?」 そしてカインが自分の額を手で押さえると、そこには、これまで感じたことのないような咎の意識が感じられた。そして、そのときその血は再び彼に向かって言った。「何と、お前はどこへ行こうというのか? お前は生きる限りさすらい人となるのだ」。彼は心底ぞっとして、こう言った。「誰でも私に出会えば、私を殺すでしょう」[創4:14参]。そして、確かにお前は死なないとの神の約束を受けたとはいえ、彼はずっとびくびくしていたに違いない。人々が寄り集まっているのを見るときには、藪の中に身を隠したであろう。あるいは、ひとり放浪するとき、遠くに人影が見えると、踵を返しては身を隠し、誰にも姿を見られないようにした。夜のしじまの中で、彼は夢からはっと飛び起きた。かたわらで眠っているのは自分の妻しかいなかった。だが、誰かから首を絞められ、今にも命を取られそうになるのを感じた。そこで寝床の中でまんじりともせずに過ごし、薄気味悪い影におびえるのだった。どこかの悪鬼が自分にとりつき、自分を狙っているものと思ってである。そして、起き出して仕事に行けば行ったで彼はおののいた。ひとりきりになることにおののき、人々の間にいることにおののいた。ひとりきりでいるときには、ひとりではないように思われた。弟の亡霊に、真っ向からにらみつけられているように思われた。また、人々の間にいるときには、人々の声に怯えた。誰もが自分を呪っているように感じ、誰もが自分の犯した犯罪を知っているものと思ったからである。そして、疑いもなく、彼らはそれを知っており、誰もが彼を遠ざけた。誰も彼の手を取ろうとはしなかった。それが血で赤く染まっていたからである。自分の膝の上にいるわが子でさえ、父の顔をのぞき込むのを恐れた。そこには神からつけられたしるし[創4:15]があったからである。彼の妻でさえ、ほとんど夫に話しかけなかった。――神に呪われていた男の唇から、何らかの呪いが自分にかけられるのを恐れたからである。土地そのものすら彼を呪った。彼が足で踏みしめるや否や、それまでは果樹園だった所も、たちまち砂漠と化し、素晴らしく地味の肥えていた土壌はからからの岩地へと変じた。咎は、残酷な侍従のように、血に赤く染まった指で、毎晩彼の寝床の帷を引いた。自らの犯罪のために彼は眠ることができなかった。それが彼の心の中で語り、彼の記憶の壁は、殺された弟の断末魔の叫びを反響させた。そして、疑いもなく、その血はもう1つのことをカインに語りかけたに違いない。その血は言った。「カインよ。お前は今は容赦されているかもしれないが、お前に望みはない。お前は地上で呪われ、永遠に呪われた男なのだ。神は現世でお前を罪に定めたし、来世では地獄に落とすであろう」。だから、カインは、どこへ行こうと決して望みを見いださなかった。山の頂で探そうと、そこにはなかった。いかなる人々にも残されている望みが、彼のものにはならなかった。望みなく、家もない、無力なさすらい人として、彼らは地の表をひたすら放浪した。おゝ! アベルの血は実際すさまじい声をしていた。

 しかし、ここでキリストの血に耳を傾けるとき、いかに甘やかな変化が起こるか見てとるがいい。それは、「アベルの血よりもすぐれたことを語る」。愛する方々! あなたは、今までキリストの血が良心の中で語るのを聞いたことがあるだろうか。私はある。そして、その甘やかで柔らかい声を聞けたことを神に感謝している。

   「かつては望みも 失せし罪人、
    汝があわれみの 御座に祈れり」。

彼は祈った。いくら祈っても無駄だと思った。涙が目からとめどなくあふれた。胸のうちに重い心をかかえていたが、何のあわれみも見いださなかった。何度も何度も、繰り返し天にある恵みの御座に突進しては、あわれみの扉を連打した。おゝ! 誰に知れよう、その脈打つ心の上に、いかなる石臼が乗っていたかを。また、その魂がいかに虐待されて苦しんでいたかを。彼は耐えがたいほどの束縛の下にある囚人であった。その思いの中で、彼は絶望という束縛に固縛されており、永遠に滅びるばかりであった。ある日、この囚人は1つの声を聞いた。「逃れよ、カルバリへ逃れよ!」というのである。だが、彼はその声におののいた。こう考えたからである。「どうしてそこになど行けよう? あそこでこそ、私の最もどす黒い罪が犯されたというのに。そこで私は、自分のもろもろのそむきの罪によって《救い主》を殺したのだ。どうして私が、苦しみを分け合うために私の兄弟として生まれてくださったお方の殺された死体を、行って見ることなどできるだろうか?」 しかし、あわれみは懇願してこう言った。「来なさい。こちらへ来なさい、罪人よ!」 そこで、その罪人は従った。手にも足にも鎖を下げたままで、這いずるのがやっとだった。今なお、《滅び》という黒い禿鷹が空中を待っているように思われた。しかし、彼は自分にできる限りの早さで這い進み、とうとうカルバリの丘の麓にやって来た。その頂に、一本の十字架が見えた。両手と両足と脇腹から血がしたたっている。そこへ、あわれみは彼の耳に触れて、「聞きなさい!」と言った。そこで彼は、その血が語るのを聞いた。そして、それが最初に語ったのは、「愛を!」であった。また、次にそれが語ったのは、「あわれみを!」であった。三度目にそれが語ったのは、「罪を赦せよ」であった。次にそれが言ったのは、「受け入れよ」であった。次にそれが言ったのは、「子とせよ」であった。次にそれが言ったのは、「安泰を給え」であった。そして、最後にそれが囁いたのは、「天国へ入れよ」であった。そして、その声を聞くうちに、罪人は内心こう思った。「では、あの血は自分に語りかけているのだろうか?」 すると御霊が言われた。「あなたにだ。――あなたに、それは語りかけているのだ」。そこで彼は耳を傾けた。そのとき、おゝ、彼のあわれな、悩みにかき乱された心にとって、それが何と妙なる音楽に思われたことか。というのも、一瞬のうちに彼の数ある疑いは消え去ったからである。咎の意識は全くなくなった。自分が邪悪なものであることは分かっていたが、自分の邪悪さが全く洗い流されたのを見てとった。自分に咎があることは分かっていたが、自分の咎がことごとく贖われたのを見てとった。それは、そこに流れる尊い血のおかげであった。以前はひたすら怯えていた。生きることに怯え、死ぬことに怯えていた。だが、今や何の怯えもなくなっていた。喜ばしい信頼の念が心をとらえていた。彼はキリストを仰ぎ見て、こう言った。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ……ることを」[ヨブ19:25]。両腕で《救い主》を抱きしめて、歌い始めた。――「おゝ! 確かなるかなわが心。ほむべきこの血は わがためのもの」。そして、そのとき《絶望》は逃げ去り、《滅び》はきれいに追い払われた。その代わりに、そこには輝かしい、白い翼を生やした《救いの確信》という天使がやって来て、彼の胸の中に住み、常にこう告げるようになった。「あなたは《愛する方》にあって受け入れられています[エペ1:6 <英欽定訳> 参照]。あなたは神に選ばれた、尊い者。あなたは今や子どもとされており、永遠を通じて神にいつくしまれる者」。「キリストの血はアベルの血よりもすぐれたことを語る」*のである。

 さて今、私があなたの注意を向けなくてはならないのは、このキリストの血が一、二の点ではアベルの血に匹敵するが、すべての点においてアベルの血をはるかに凌駕しているということである。

 アベルの血は、「正義を!」と叫んだ。その血について復讐を行なうことは正しいとしか言えなかった。アベルはカインに何の悪感情もいだかなかった。たとい、いだく機会があったとしても、兄を赦していたことであろう。だが、その血の語ったことは正しい。また、それが「復讐を! 復讐を! 復讐を!」と叫び立てたときには、当然のことを要求したにすぎない。そして、キリストの血が語ったことも正しかった。それは、「あわれみを!」と言ったのである。キリストには、罪人のためにあわれみを要求する権利があった。それは、アベルの血がカインに対する復讐を叫ばなくてはならなかったのと同じである。キリストは、ひとりの罪人を救うとき、人目を避けて、あるいは、律法や正義に背いて、こそこそお救いになるのではない。むしろ、正義にかなってお救いになる。キリストには、ご自分の望む者を救う権利がある。ご自分のあわれむ者をあわれむ権利がある[ロマ9:15参照]。というのも、ご自身が義であり、また、不敬虔な者を義とお認めになることがおできになるからである[ロマ3:26参照]。

 また、アベルの血の叫びには大きな力があった。その叫びは無駄にはならなかった。それが「復讐を!」と叫ぶと、復讐が行なわれた。そして、キリストの血は、――その御名はほむべきかな、――決してむなしく叫ぶことがなかった。それが、「罪を赦せよ」と言うと、信仰者はみな免罪を受けることとなり、それが、「受け入れよ」と言うと、悔悟する者はみな《愛する方》にあって受け入れられることとなる。もしその血が私のために叫ぶなら、その叫びが無駄にならないことを私は知っている。キリストのその、すべてに打ち勝つ血は、決して自らの正当な報いを受け損なうことがない。その叫びは必ず聞き届けられる。アベルの血が天を驚愕させたというのに、キリストの血が万軍の主なる神の御耳に達さないことなどあるだろうか?

 そしてまた、アベルの血は不断に叫ぶ。そこには、贖いのふたがあり、そこには十字架がある。そして、その血は、贖いのふたの上に滴り落ちている。私は罪を犯した。キリストは、「父よ。彼をお赦しください」と言われる。そこに一滴の血がある。私が再び罪を犯す。キリストは再びとりなされる。そこにもう一滴の血がある。事実、その一滴一滴こそとりなしをしているのである。キリストは、その御口によって語る必要がない。その贖いのふたに滴り落ちる血の一滴一滴が、こう言うかのようである。「彼を赦せよ! 彼を赦せよ! 彼を赦せよ!」

 愛する方々。あなたが良心の声を聞くときには、立ち止まって、この血の声をも聞くように努めるがいい。おゝ! キリストの血の声を聞くのは、何と尊いことか。あなたがた、それが何を意味するか知らない人たちは、いのちの喜びの真髄を知らないのである。だが、あなたがた、それを理解している人たちは、こう言うことができる。「その血の滴りは、さながら地上に降る天の音楽のようである」。あわれな罪人よ! 私はあなたに願う。来て、その声に耳を傾けてほしい。きょう、あなたの耳とあなたの心の上に滴り落ちるその声に。あなたは罪に満ちている。《救い主》は、目を上げてご自分を見るようあなたに命じておられる。見るがいい。そこで、このお方の御頭と、御手と、御足から流れている血が、また、流れ落ちる一滴一滴が、今なお叫んでいることを。「父よ。おゝ、彼らをお赦しください! 父よ。彼らをお赦しください」。そして、一滴一滴は、それが落ちるときこうも叫んでいると思われる。「完了した。わたしは罪を終わらせ、永遠の義をもたらした」。おゝ! キリストの血の滴りが語る言葉の何と甘やかなことか。それは「アベルの血よりもすぐれたことを語る」。

 II. このように、私はこの主題を十分に詳しく述べてきたものと信じたいが、今からはしめくくりとして、第二の点に関して、一言二言、熱心に語りかけたいと思う。――《あらゆるキリスト者が導き入れられる状態》のことである。その人々は、「注ぎかけの血に近づいて」[ヘブ12:23-24]いると言われている。この件は、ごく手短に、だが、きわめて厳粛で、的確なしかたで語りたい。話をお聞きの方々。あなたはキリストの血に近づいたことがあるだろうか。私が尋ねているのは、あなたが教理知識に近づいたことがあるかとか、種々の儀式を遵守することや、何らかの形の経験に近づいたことがあるかといったことではない。むしろ、キリストの血に近づいたことがあるかを尋ねているのである。あるとしたら、それがいかにしてであったかは分かる。決して自分自身の功績によってキリストの血に近づいたのではないに違いない。咎のある、失われた、無力な存在として、あなたはその血に近づくのでなくてはならない。また、その血だけを望みとして近づくのでなくてはならない。あなたがキリストの十字架に近づき、その血にも近づくときには、おののき、痛む心をもってそうすることを私は知っている。あなたがたの中のある人々は、自分が最初どのように近づいたかを覚えている。そのときは、いかに打ちひしがれ、絶望に満ちていたことか。だが、その血があなたを回復した。そして、このことだけは私は知っている。もしあなたが、ひとたびその血のもとにやって来たとしたら、あなたはそこに日ごとに近づくであろう。あなたの人生は、まさにこのようなものとなるであろう。――「イエスから目を離さない」[ヘブ12:2]ものと。そして、あなたのふるまい全体を要約すれば、こうなるであろう。――「生ける石」としてのこのお方のもとに不断に行くこと、と[Iペテ2:4参照]。ひとたびだけ行ったことのある者ではなく、常に行く者となるのである。一度でもキリストの血のもとに来たことがあるとしたら、あなたはそこに行くべき自分の必要を日ごとに感じるであろう。その泉で毎日身を洗いたいと願わない者は、一度もそこで身を洗ったことがないのである。そこに泉[ゼカ13:1参照]が今なお開かれていること[ゼカ13:1参照]を、私は毎日、自分の喜びとも特権とも感じている。私は、自分が何年も前にキリストのもとに行ったものと信頼しているが、あゝ! そう信頼できるのは、ひとえに今日もやはりそこに行けるからにほかならない。過去の様々な経験は、キリスト者にとって実にあやふやなものである。現在キリストのみもとに行くことこそ、私たちに喜びと慰めを与えるものでなくてはならない。あなたがたの中のある人々は、二十年前にこの賛美歌を歌いはしなかっただろうか。

   「わが信仰は 手を置きぬ
    汝れが尊き みかしらに。
    悔いる思いを もちて立ち
    われはわが罪 告白(あらわ)さん」。

何と、愛する方々。あなたは、そのときと同じくらい、きょうも心からそれを歌うことができるではないか。先日、ある本を読んでいたが、そこでは著者がこう言明していた。私たちは、生きている限り罪人としてキリストのもとに行くべきではない。私たちは聖徒へと成長すべきだと言うのである。あゝ! この人が大してものを良く知っていないことは確かだと思う。というのも、聖徒たちは今なお罪人であり、常に罪人としてキリストのもとに行かなくてはならないからである。私が聖徒として神の御座のもとに行くようなことがあるとしたら、はねつけられるであろう。だが、あわれな、卑しい、求道中の罪人と全く同じようにして行き、ただあなたの血のほか何もより頼まずに行くならば、おゝ、イエスよ。私は決してはねつけられることがないと確信します。「アベルの血よりもすぐれたことを語る……血」のもとに近づくように、主のもとに近づく。これを日ごとの経験としようではないか。

 しかし、この場にいるある人々は、一度もそのように行ったことがないと告白している。その場合、あなたに日々行くよう勧告することはできない。むしろ、いま初めて行くよう勧告したい。しかし、あなたは、「私が行っても良いのでしょうか?」と言うであろう。しかり。もし行きたいと願うなら、行ってかまわない。行くべき必要が自分にあると感じるなら、行ってかまわない。

   「主、汝れに要求(もと)む資格(もの)みなは
    汝が主の必要(もとめ) 感ずことのみ」。

それは、こうでさえある。

   「こは 主の汝れに 賜うものなり、
    こは主の御霊の 立ちし光なり」。

しかし、あなたは言うであろう。「私は、何らかの功績を持って行かなくてはなりません」。聞けよ、この語る血に! それは言う。「罪人よ。わたしは功績に満ちている。なぜここにあなたの功績を持ってくるのか?」 「あゝ! ですが」とあなたは言うであろう。「私の罪は大きすぎるのです」。聞けよ、この血に。それは、下に落ちながらこう叫んでいる。「多くの違反が義と認められる」[ロマ5:16]、と。「あゝ! ですが」とあなたは言うであろう。「私は、自分の咎が大きすぎると知っているのです」。聞けよ、その血に! 「わたしはいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」[マタ12:20参照]。「そうでしょうが」とあなたは言うであろう。「いざ主のもとに行けば、私は主が私を追い払うと知っているのです」。聞けよ、その血に! 「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。「そうでしょうが」とあなたは言うであろう。「私の罪は多すぎて赦されることなどないと分かっているのです」。さあ、もう一度この血を聞くがいい。それで話をおしまいにしよう。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」[Iヨハ1:7]。それが、この血の証言であり、あなたに対するその証言である。「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です」[Iヨハ5:7-8]。そして、見よ。その血の証しはこうである。――「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。来るがいい。あわれな罪人よ。その真理にただ身を投げかけるがいい。あなたの良い行ないだの、あなたが信頼を置く一切のものだのを捨て去るがいい。あのキリストの甘やかなことばの上に寝そべるがいい。その血に信頼するがいい。そして、あなたの信頼をイエスにだけ、イエスの注ぎ出された血にだけ置くことができるとしたら、その血はあなたの良心の中でアベルの血よりもすぐれたことを語るはずである。

 残念ながら、多くの人々は信じるということがどういうことか分かっていないのではないかと思う。かの善良なチャーマズ博士は、あるとき、ひとりの貧しい老女のもとを訪問して、キリストを信じるように告げた。すると老女は言った。「ですが、それこそあたしがさっぱり分からないことなんですよ」。それでチャーマズ博士は言った。「キリストにまかせなさい」。さて、それこそまさに信じるということである。キリストに、あなたの魂をまかせるがいい。キリストに、あなたのもろもろの罪をまかせるがいい。キリストに、あなたの未来をまかせるがいい。キリストに過去をまかせるがいい。キリストに何もかもまかせるがいい。こう言うがいい。

   「咎あり、弱く、甲斐なき虫けら。
    われは優しき 御手に身を投ぐ。
    われの力と 義となり給え、
    わが主イエスよ、わがすべてよ」。

願わくは、主が今あなたにその祝福を与え給わんことを。イエス・キリストのゆえに。アーメン。

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キリストの血の声[了]

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