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正しい憎しみ

NO. 208

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1858年8月8日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「主を愛する者たちよ。悪を憎め」。――詩97:10


 キリスト教信仰は一本の黄金の鎖であって、人々を拘束しては、いかなる憎しみにも手出しできないようにしてしまう。キリストの精神は愛である。キリストが治めておられる所では、いずこにおいても愛が一個の必然的結果として統治する。キリスト者である人は、いかなる者を憎むことも許されていない。昔の人々に、「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います」、とイエスは云われた。「自分の敵を愛し、あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」*[マタ5:43-44 <英欽定訳> 参照]。「憎む」という言葉は、キリスト者の言葉遣いの中から切り落とさなくてはならない。ただ1つの例外は、それが、ある特定の意味と意図を有している場合であって、それが本日の聖句の意味である。おゝ、キリスト者よ。あなたは、神の御手によって造られたいかなる者に対しても、憤りや悪意、怒り、荒々しさ、意地悪を内側にとどめておく権利はない。人間のもろもろの罪をあなたが憎むとき、人間を憎むべきではない。その罪人のことは愛すべきである。キリストが罪人たちを愛し、彼らを捜して救うために来てくださった[ルカ19:10]のと全く同じようにである。ある人が偽りの教理を教えているのを憎むときにも、なおその人のことは愛すべきである。そして、その人の魂に対する愛ゆえに、その教理を憎むべきである。その人が自分の過ちを正され、真理の道に導かれるように熱心に願望すべきである。あなたは、いかなる人に対しても、自分の憎しみをぶちまける権利はない。いかに堕落した卑しい相手であっても、いかにあなたの癪に障る相手であっても、あるいは、いかにあなたの財産や評判に危害を及ぼす相手であってもそうである。それでも、憎しみは人間性の一能力であって、私たちの信ずるところ、人間性のあらゆる能力は行使されるべきものである。また、そうした能力は1つ残らず、主を恐れながらであれば行使されて良い。怒っても罪でないことはありえるし、憎んでも罪を犯さず、積極的に1つの義務を果たすことになることもありえる。キリスト者である人よ。あなたは心の中に憎しみをいだいていてかまわない。それをただ一筋の流れに沿ってのみ流すことを許すとしたら、危害を及ぼすことはなく、善をさえ施すはずである。――「主を愛する者たちよ。悪を憎め」。執念深い人間が自分の敵を憎むのと同じくらい悪を憎むがいい。相争い、戦端を開いた専制君主が互いに憎み合い、正面から立ち向かうことしか求めないのと同じくらい悪を憎むがいい。地獄が天国を憎み、天国が地獄を憎むのと同じくらい、あなたは悪を憎んでかまわない。この激情は、誤った方角に好き勝手に解き放つと、獲物に飛びかかる獅子のようになるが、それをあなたは革紐につないでおくことができる(獰猛さだけは持たない、堂々たる獅子のようにである)。傷つけるべきでない相手には決して害を及ぼさないようにしておけば、あなたの神である主の敵どもに向かってそれを解き放ち、大きな手柄を立てることができよう。ある人が決して怒ることをしないという場合、その人は神を思う真の熱心を有していないのである。悪を目にするとき、私たちは、決してそれを犯した人々に向かって悪意をいだいてはならないが、その悪については怒りを覚えなくてはならない。よこしまさを常に憎まなくてはならない。ダビデはこう云っていないだろうか? 「私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました」[詩139:22]。敵は愛すべきだが、神の敵は憎まなくてはならない。罪人たちは愛すべきだが、罪は憎まなくてはならない。人間にかなう限りの憎しみをもって、私たちはあらゆる姿かたちの悪を憎むべきである。

 ここで命じられている義務は、神の民全員に対する一般的な義務である。私たちが憎むべきものは、あらゆる悪であって、一部の悪ではない。知っての通り、昔、ある信仰告白者たちについて、このようなことが云われたことがある。すなわち、彼らは

   「自分が心ひかれる罪とは折り合いをつけ
    その気の起こらぬ罪は厳しく咎める」。

そして、あえて云うが、そうした者たちは今日もいる。自分で犯そうとは思わないような不義を犯す他の人々のことはきわめて罪深いと考えながら、自分自身、他の罪を犯しては、それをやんわり扱うのである。おゝ、キリスト者よ。いかなる罪をも鉄の篭手をはめた手でしかつかんではならない。決して山羊皮の手袋をはめた友愛で迎えてはならない。決して物柔らかな口を利いてはならない。むしろ、いかなる形でも憎むがいい。もしそれが子狐のような姿であなたのもとにやって来るとしたら用心するがいい。葡萄畑が荒らされることになるからである[雅2:15]。戦いを挑む獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら[Iペテ5:8]あなたのもとにやって来るとしたら、あるいは、熊が抱きしめるかのように、見せかけの愛情であなたを罪に誘い込もうとしてやって来るとしたら、それを叩きのめすがいい。それに抱擁されれば死を招き、抱きしめられれば滅びに至るからである。あなたが戦うべき相手は、あらゆる種類の罪である。――唇の罪、手の罪、心の罪である。罪は、いかに利益の金箔で覆われていようと、いかにお上品な道徳で上塗りされていようと、いかに有力な人から賛辞を呈されていようと、いかに一般大衆の間で人気があろうと、いずれの場所においても憎むべきである。いかなる偽装をしていようと、それが何曜日であろうと、どこにおいてであろうと、憎むべきである。罪とは死闘を演じるがいい! 剣を抜き放ち、その鞘は投げ捨てるべきである。おゝ、地獄よ。お前がその全軍勢を率いて来ようと、おゝ、サタンよ。お前がその眷属郎党を引き連れて来ようと、私たちは敵対すべきである。罪という罪を目こぼしせず、むしろ、その一切に対して完全にして徹底的な絶滅戦を布告すべきである。

 この主題について語ろうと努めるに当たり、第一に私は、まず自らの内側から始めたいと思う。キリスト者である人よ。あなた自身の中にあるすべての悪を憎め。それから、第二に、それを外側に広げたい。キリスト者である人よ。他の人々の中に悪を見たときには、そのすべてを憎め

 I. まず第一に、《キリスト者である人よ。あなた自身の中にあるすべての悪を憎め》。さて、これから私は、悪に対するあなたの憎しみをかき立てたいと思う。それから、あなたが悪を断ち切ることを促し、助けることにしたい。

 あなたには、いかなる悪をも憎むべき立派な理由がある。この世で最も痛めつけられた人が、自分の敵たちを憎むべき理由として持ち出せるものにまして大きな理由がある。悪がすでにあなたに対して何を行なってきたか考察するがいい。おゝ! いかなる害悪の世界を罪はあなたの心に引き入れてきたことか! 罪はあなたの目をふさいで、《救い主》を美しさが見えないようにした。あなたの耳に指を突っ込み、イエスの甘やかな招きが聞こえないようにした。あなたの足を悪の道に向かせ、あなたの手を不潔なもので満たした。否、それより悪いことに、あなたのあり方の源泉そのものに毒を注ぎ込んだ。あなたの心を汚し、それを「何よりも陰険で……直らない」[エレ17:9]ものにした。おゝ! 《天来の》恵みによって修繕され始める以前、罪が極度の仕打ちを加えていた時のあなたが、いかなるしろものであったことか! あなたは、他の人たちと同じように御怒りを受け継ぐべき子[エペ2:3]であった。「悪を行なう権力者の側に従って」*[出23:2]きた。あなたの口は「開いた墓」[詩5:9]で、あなたはその舌でへつらいを云った。そして、あなたの同胞の人々について云えることで、あなたについても云えないことは何1つない。あなたは、この罪状を認めざるをえない。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」[Iコリ6:11]。おゝ! あなたには罪を憎むべき立派なわけがある。あなたの切り出された岩、掘り出された穴[イザ51:1]を振り返って見るときそうである。悪はあなたに非常な危害を加えてきたため、あなたの魂は、全能の愛が介入して贖ってくださらなかったとしたら、永遠に失われていたであろう。キリスト者よ。悪を憎め。それはあなたを殺してきた。その短剣をあなたの心臓にぶすりと突き立ててきた。あなたの口に毒を流し込んできた。地獄そのものにできる限りの害悪をあなたに加えてきた。――あなたを永遠に破滅させていただろう害悪を。あなたが救われたのは、ただ主イエス・キリストの恵みがそれを妨げたからでしかない。では、あなたには罪を憎むべき立派な理由があるのである。

 また、キリスト者よ。悪を憎め。というのも、人生におけるあなたの立場を考察するとき、そうしないのは不似合いなこととなるであろう。キリスト者は、宇宙の王族に属している。乞食の子どもたちなら、ボサボサの髪の毛と、靴も履いていない裸足のまま町通りを走り回っていて良いが、王子たちが不潔なことにふけっているべきだろうか? 王侯の子どもたちが襤褸をまとうことなど考えられない。町通りの泥の中を転げ回る姿など思いもよらない。ならば、キリスト者よ。あなたは神の貴族のひとりであり、天国の王子であり、御使いたちの友であり、しかり、神の友なのである。あなたには一切の悪を憎むべき立派な理由がある。何と、人よ。あなたは神に捧げられたナジル人なのである。さて、ナジル人に対して命じられているのは、単に葡萄酒を飲まないことだけではない。葡萄の実を食べること、また、葡萄の木の皮を味わうことさえ許されなかった[民6:2-3]。その木に生ずるいかなるものについてもそうである。それに手で触れることも、扱うことも許されず、そうしない限り、その人は汚れを帯びてしまうのである。あなたも、それと同じである。あなたは、主のナジル人であり、主のために取り分けられた、主のナジル人である。ならば、あらゆる偽りの道を避けるがいい。悪はどんな悪でも[Iテサ5:22]遠ざけるがいい。他の人々が行なっているような恥ずべきもろもろの罪にふけるのは、あなたの品位にかかわることである。あなたは、彼らのように紳士気取りの俗物ではない。もっと高貴な血筋に属している。神の御子の腰から発している。御子はあなたの永遠の父ではないだろうか? 《平和の君》ではないだろうか?[イザ9:6] 私は切に願う。決してあなたのやんごとない血統の品格を落としてはならないし、あなたの聖なる家門に泥を塗ってはならない。あなたは神の所有とされた民、王である民族[Iペテ2:9参照]である。それゆえ、あなたの衣をちりで汚すべきではない。「主を愛する者たちよ。悪を憎め」。

 やはりまた、あなたには罪を憎むべき立派な理由がある。なぜなら、それは、あなたを弱くするからである。愚かな過ちを犯してしまった後で、行って自分の私室に退き、膝まずいて祈ってみるがいい。罪が犯される前のあなたの祈りは神の耳に届き、種々の祝福は電光の閃きのように迅速に下って来た。だが、今やあなたの膝は弱くなっており、あなたの心は願望することを拒み、あなたの舌は、あなたが動かしたいと欲しているかすかな願望を云い表わすことを拒む。あなたは、そうしようと試みても、それができない。呻いても、天はあなたの叫びに対して閉ざされている。いくら泣いても、あなたの涙は神の御胸から答えを獲得するほどよく通るものではない。そこが決定的なところである。あなたは、自分の数ある願いを御座の前に持ち出す。だのに、自分で再びそれを運び去ってしまう。祈りは、何にもまして恵みに富んだ素晴らしい特権である代わりに、痛ましい義務となる。これが罪の結果である。「罪によって人は祈らないようになり、祈りによって罪を犯さないようになる」。おゝ! 力強く祈ることと、力強く罪を犯すことは決して同時にはありえない。情欲や、罪や、何らかの種類の奔放さにふけっている限り、あなたは祈る力を取り去られており、あなたの唇は、あなたの神に近づこうとするとき閉ざされてしまう。あるいは、良ければ別の勤めを考えてみよう。ある罪を犯した後で、世に出て行って善を施そうとしてみるがいい。何と、人よ。あなたにはそれができない。あなた自身が汚れている場合、他の人々をきよめる力は失われているのである。何と! 不潔な指で他の人々の顔を洗うことなどできるだろうか? 別の人の畑を耕そうとする私自身の畑が作付けしていないままで、茨と雑草が一面にぼうぼうと生えているなどいうことがあって良いだろうか? 少しでも善を施す力を得たければ、まず自分自身の器を清潔にし、きよめておかなくてはならない。聖くない教役者は、成功を収めない教役者に違いなく、聖くないキリスト者は、実を結ばないキリスト者に違いない。もしもあなたが自分の腱をがたがたにしたくなければ、もしも自分の骨髄を焼き焦がしたくなければ、もしも自分の活力の大本を枯渇させたくなければ、私は切に願う。罪を憎むがいい。罪はあなたを衰えさせ、弱くさせ、ついには、みじめな生き方をだらだらと続けるだけとしてしまう。神の道を生き生きと歩む代わりに、あなたの魂は骸骨のように痩せこけてしまう。「主を愛する者たちよ。悪を憎め」。

 次のこととして、罪を取り除く上で、あなたは1つのことが、きわめて有用であることに気づくはずである。すなわち、単に罪を抑制するだけでなく、常に聖霊によって罪を一掃しようと努めることである。知っての通り、単なる道徳家たちは自分たちのもろもろの罪を抑制する。それは水門や堤防のある川のようなもので、水が流れないようにせき止められている。だが、そのうちに、それは増水し、だんだん水位が上がり、やがてすさまじい奔流となって溢れ出すのである。さて、単なる抑制の恵みだけで満足していてはならない。それであなたが浄化されることはない。というのも、罪は、表に吹き出さなくとも存在していることがありえるからである。あなたの罪が取り除かれるように、神に祈るがいい。そして、確かにその残滓や根幹はなおも残っており、その水路はそこにあるとはいえ、その流れが干上がってしまうように祈るがいい。あなたの神である主の御前で涸れてしまうユーフラテス川[黙16:12]のように。

 さらに、あなたがたには悪を憎むべき立派な理由がある。というのも、悪にふけっていると、そのために刺すような痛みを感じざるをえなくなるからである。神は決してご自分の子どもたちを殺されない。神はその剣をしまい込まれた。それをキリストの御胸に一度限り永遠に突き刺された。だが、神は鞭を持っており、時としてその鞭を非常に重く打ち据えて、体中を疼かせることをなさる。主は、ご自分の民を打ち捨てるほど怒ることはしないが、彼らがこう叫ばずにはいられなくなるほどお怒りになることはある。「あなたがお砕きになった骨を癒し、私の魂を回復させてください。おゝ、私の神、主よ」。あゝ! あなたがた、これまで信仰後退したことのある人たち。あなたは、散々に鞭打たれることがいかなることか知っている。というのも、キリストの羊が羊飼いのもとから逃げ出すとき、彼はそうした羊が滅びないようにするが、しばしば黒い犬が彼らを口にくわえて連れ戻すのをお許しになるからである。痛ましい危難と激しい患難が彼らをつかみ、彼らがほとんどハデスの門に至ろうとするほど落胆することをお許しになる。キリスト者は決して滅ぼされることはないが、ほとんど滅ぼされんばかりになる。そのいのちが完全になくなることはないが、キリスト者ははなはだ打たれ、傷つけられるあまり、自分の中に少しでもいのちが残っているかどうか、ほとんど分からなくなることがある。危難に遭うことを願うのでなければ、おゝ、キリスト者よ。罪を憎むがいい。自分の通り道に茨をばらまき、自分の死の枕に刺草を入れたいというのなら、罪の中で生きるがいい。だが、天の所に住み、パラダイスで響く永遠の鐘の音を聞いていたいというなら、最後まで聖潔の道を一心に歩むがいい。キリスト者である人よ。悪を憎め。

 ここまでのところ、私の話は自分本位なものであった。いかに悪があなた自身を傷つけるかをあなたに示してきた。さて、これからは別の議論で語りかけたいと思う。キリスト者よ。悪を憎め。あなた自身の中にある悪を憎め。なぜなら、あなたの中にある悪は、他の人々を傷つけるからである。ひとりのキリスト者の罪が、いかにひどく神の子どもたちを傷つけることか! 神の教会がこれまで受けてきた最も激しい試練は、教会自身の息子たちや娘たちからやって来た。私には教会が見える。その衣は裂けて汚れている。その両手はことごとく血を流しており、その背中は傷だらけである。おゝ、生ける神の教会よ。女の中で最も美しい人よ[雅1:8; 5:9; 6:1]。いかにしてあなたが傷ついたのか! その数々の傷をどこで受けたのか? 不信心者があなたの顔につばきをかけ、あなたを罵ったのか? アリウス主義者があなたの衣を引き裂いたのか? ソッツィーニ主義者があなたの真っ白な衣装に汚物を投げつけたのか? 誰があなたの両手を傷つけ、誰があなたの背中を傷だらけにしたのか? これは、不敬虔で俗悪な者らのしわざなのだろうか? 「いいえ」、と教会は云う。「これらは、私の愛人の家[ゼカ13:6]で受けた傷なのです。私の敵たちに対しては、私は秘密の武具をまとっています。ですが、私の愛人たちはその内側で私を刺し貫き、私を骨の髄まで切り裂くのです」。神の教会の主教たち、主の軍勢の指導者たち、《贖い主》に従うふりをしている者たちは、教会のいかなる敵にもまさる危害を教会に加えてきた。もしも教会が天来のものでなく、神に守られていなかったとしたら、とっくに存在しなくなっていたに違いない。それには、教会自らの内部にいた、信仰を告白する友人たちの失敗や不義だけでを十分だったであろう。神の教会が殉教や死を乗り越えて生き延びたことは不思議ではない。だが、真に驚嘆すべきは、教会が自らの子どもたちの不真実さをも、自らの会員たちの残酷な信仰後退をも越えて生き延びてきたことである。おゝ、キリスト者たち。あなたがたは分かっていないが、人がいついかなるときにもまして神の御名に冒涜を招き、教会を汚し、その紋章入りの盾に不名誉をもたらすのは、罪にふけっているときなのである。「主を愛する者たちよ。悪を憎め」。

 さらに、悪を憎まなくてはならないのは、単に教会のためだけでなく、あわれな罪人たちのためでもある。毎年毎年、おびただしい数の罪人たちがキリスト教信仰に全く愛想を尽かしてしまう原因は、信仰告白者たちの裏表ある言動にある! そして、あなたは一度でも気づいたことがあるだろうか? いかにこの世が常に嬉々として、信仰告白者の裏表ある言動を記録にとどめるかを。ほんの昨日も、私が新聞で読んだある記事の中には、情欲の罪を犯したひとりの浅ましい男についてこう云われていた。「彼は、非常に聖められた様子をしていた」。左様、と私は思った。実に新聞界らしい語り口だ、と。だが、私は非常に疑問とするものである。聖められた様子とはどういうことか知っている編集者がどのくらいいるだろうか。少なくとも、自分たち自身の種別の人々の間をよほど長く眺めない限り、さほど多くの聖化を見いだすことはできないであろう。しかしながら、記者はその男が「聖められた様子」をしていたと書き記した。そして、もちろん、これはキリスト教信仰を告白するあらゆる者を嘲るために、この男も信仰告白者のひとりだと他の人々に信じ込ませようとしたものであった。そして、本当にこの世には、そうするべき深刻な理由があるのである。というのも、私たちは近年、信仰を告白するキリスト者たちがキリスト教に恥辱という恥辱を加えるのを次々と見てきたからである。そして、現在イエス・キリストの御名で行なわれている一部のことは、ベルゼブルの名で行なうのも恥ずかしいようなことである。また、私たちの主イエスの教会に属しているとみなされている人々が行なっている一部のことは、思うに、伏魔殿そのものでさえ自分はそんなことをしないと云い張るだろうほど下品なことである。この世は、教会に苦情を云うべき多くの理由がある。おゝ、神の子どもたち。気をつけるがいい。この世は山猫のような目をしており、あなたの欠点をたちまち見てとるであろう。隠し立ては不可能であり、世はあなたの欠点を誇大に云い立てるであろう。たとい何の欠点もなくても、世はあなたを中傷するものである。少なくとも、その裏づけを与えるようなことをしてはならない。「いつもあなたは白い着物を着」ているがいい[伝9:8]。主を恐れながら歩むがいい。そして、これをあなたの日々の祈りとするがいい。「私をささえてください。そうすれば私は救われ……ましょう」[詩119:117]。

 もう一言云おう。思うに、次の議論によって、あなたの心は深く動かされ、悪を憎むようになるに違いない。あなたには、ひとりの友人がいる。無二の親友である。私は彼を知っており、彼を愛してきたし、彼も私のことを愛してくれた。だが、ある日、外を散歩していると、ある場所に行き当たったのである。私の記憶に永遠に刻み込まれた場所に。というのも、そこに私は見たからである。私のこの親友、私のこの唯一の友が殺されているのを。私は、悲しみ恐れて身をかがめ、彼の姿を眺めた。すさまじい殺され方だった。その両手は無骨な大釘で刺し貫かれ、その両足は同じ釘で引き裂かれていた。その死に顔は苦痛に満ちていて、二目と見られないほど恐ろしいものだった。そのからだは、飢えのためにやせ衰え、その背骨は鞭打ちのために血みどろになっており、その額には、輪をかぶせたような一連の傷跡がついており、それが茨に引き裂かれたものであることははっきり見てとれた。私は身震いした。というのも、この友のことを完全によく知っていたからである。彼には全く何の過ちもなかった。彼ほど清廉な人はおらず、彼ほど聖なる人はいなかった。誰が彼を傷つけることなどできたのだろう? というのも、彼はいかなる人をも決して傷つけたことがなかったからである。その生涯のすべてを通じて、彼は「巡り歩いて良いわざをなし」[使10:38]ていた。病人を癒し、飢えた人々を養い、死人をよみがえらせていた。そのうちのどのわざのために、彼を殺したのだろうか? 彼は決して愛のほか何も口にしたことはなかった。そして、そのあわれで悲しげな顔をのぞき込み、非常な苦悶に満ちていながら、非常な愛にも満ちているその表情を眺めるにつれ、誰が彼の手を突き刺すほど下劣で卑しくありえたのだろうかと不思議でならなかった。私は内心こう思った。「その裏切り者どもはどこに生きているのだろうか? どこで生きていられるのだろうか? このような人を、誰が打ち殺すことなどできたのだろうか?」 彼らが殺害したのが圧制者だったとしたら、彼らを赦すこともできたかもしれない。悪徳や悪事にふけっている者を殺したのだったしたら、それは受けて当然の報いだったかもしれない。これが殺人犯や謀反人だったとしたら、あるいは、反乱を扇動していた者だったとしたら、私たちもこう云っただろう。「この死骸を埋めてしまえ。正義がついにしかるべき報いを与えたのだ」。しかし、私の親友であり、唯一の愛する人よ。あなたが殺されたとき、どこにその裏切り者どもは生きているのでしょうか? そいつらを捕えよう。私が殺してやる。私に発明できる拷問があれば、確かにそのすべてでそいつらを責め苦しめてやる。おゝ! 何とやむにやまれぬ渇仰、何という復讐心を私は感じたことか! もしそうした殺人者どもを捕えることができさえしたら、目に物見せてくれる! ところが、そのなきがらを眺めているうちに、ある足音が聞こえ、どこから聞こえるのかと思った。耳をすますと、その殺人者が私の身近にいるのをはっきり察知した。あたりは闇に包まれており、私は手探りで相手を探した。どういうわけか、どこに手を伸ばしてもその相手に向き合うことはできないと感じた。というのも、相手は私の手の先よりも間近にいたからである。とうとう私は自分の胸に手を置いて、「さあ捕まえたぞ」、と云った。というのも、見よ! きゃつは私自身の心の中にいたからである。その殺人者は私自身の胸元に隠れ、私の魂の最も奥まった底に宿っていた。あゝ! そのとき私はさめざめと涙を流した。私が、殺された私の《主人》の目の前で、その殺人者をかくまっていたのだ。私は誰よりも咎ある者と感じながら、主のなきがらの前でうなだれ、あの哀調に満ちた賛美歌を歌った。

   「そは汝れ、わが罪、わがむごき罪、
    主を苦しめし おもだてる者。
    わが咎は みな釘となり、
    わが不信こそ 槍となれり」。

復讐だ! 復讐だ! あなたがた、主を恐れ、主の御名を愛する人たち。あなたのもろもろの罪に対して復讐し、一切の悪を憎むがいい。

 さて、私の愛する方々。私が次に努力すべきは、あなたのもろもろの罪を処刑するようあなたに促すことでなくてはならない。あなたや私が自分のもろもろの罪を取り除くためには、何をすべきだろうか? そこに律法という斧がある。それを持ち出して、それで自分のもろもろの罪を打つべきだろうか? 悲しいかな! それらはモーセに打ち叩かれても決して死なないであろう。

   「律法(おきて)も恐れも それのみにては
    人かたくなにする ほかあらず」。

いかにしばしば私は、罪に打ち勝とうとして、罪につきものの罰を思うよう努めて来たことか。だが、私は、ごくまれにしか自分の心がその理由を受け入れようとする心持ちにならないことに気づいた。私の信ずるところ、私たちの中のほとんどの者らにとって、律法の恐れは、確かに極度に恐るべきものであるべきではあるが、私たちが罪を犯すのを食い止める力がほとんどない。先日、ふとしたことで、ある話を読んだが、それは、他のことはともかく、心を抑えて罪を阻止する上で、恐怖が全く無力であることだけは示してくれた。一部の人々が触れ込むところ、殺人を犯した人々を死刑にしない限り、他の人々に犯罪を思いとどまらせることはできないという。だが、私の信念はどうあれ、殺人者を処刑することによって、そうした効果が生ずる希望はほんのひとかけらもない。この国では、かつて三人の反逆者が処刑された。――シスルウッド*1は、そのひとりであった。――そして、処刑人が最初の男の頭を切り落とし、それを掲げ上げ、「これが反逆者の頭だ」、と云ったとき、群衆には身震いが起こった。冷え冷えとした、ぞっとするような寒気が走ったのが処刑人にさえ感知された。彼が次の男を殺し、同じようにその頭を掲げたとき、それは明らかに強烈な好奇と畏怖の目で眺められたが、最初のときほど大きなおぞけは生じなかった。ところが奇妙なことに、三番目の頭が切り落とされたとき、処刑人はそれを掲げ上げようとして、ぽとりと落とした。すると、一斉に群衆は、「あはは! うまいぞ、下手くそ!」、と叫んで笑い崩れたのである。このようなことが考えられただろうか? 英国人の群衆が、ひとりのあわれな男が死ぬのを見て、これほど短時間のうちに、これほど平然と心をかたくなにし、このような出来事を、現実に冗談の種にしてしまうということを。だが、それが事実なのである。法や恐怖は決して役に立たず、決して良い効果は生み出さない。ただ、人々を駆り立てて罪を犯させ、罪を軽く考えさせるだけである。それゆえ、私は、自分のもろもろの罪を取り除きたいと思っているキリスト者に向かって、刑罰について絶えず思いふけるように助言しようとは思わない。むしろ、そうした人は、ずっと良い方法を採るがいい。行って、キリストの十字架の下に座すがいい。そして、自分たちの咎のためにキリストが差し出してくださった贖罪から、福音的な悔い改めを引き出そうと努力するがいい。私の知る中でも、キリスト者の中にある罪を最も確実に治癒するものは、主イエスとのやりとりを豊富に行なうことにほかならない。主について大いに思い巡らすがいい。そうすれば、罪について大いに思い巡らすことは不可能である。何と! 私の主イエスよ。あの呪われた木の根元に座して、あなたの血が私の咎のために流れているのを見ていながら、その後でそむきの罪にふけることなどできるでしょうか? しかり。できることもある。私は卑しく、何事も行なえるからである。だが、それでも、これは私の罪の車輪を大いに妨げる邪魔物となるはずであり、これによって私の情欲は何にもまして抑えつけられる。――イエス・キリストが私のために生きて死んだと考えればそうなる。

 また、もしあなたが罪を食い止めたければ、できる限り大きな光で罪を照らし出すよう努力するがいい。窓帷を引いたまま家事に忙しくしている主婦は、卓子という卓子の上から埃を払い、何もかも清潔に見えると思うかもしれない。だが、ちょっと窓の端を開けて、日光を一筋射し込ませただけで、何万もの埃の粒子が漂っていることが分かる。「あゝ!」、と彼女は思う。「この部屋は、私が思っていたほど清潔ではないのだわ。一粒も埃などないと思っていたところに埃があるのですもの」。さて、あなた自身の判断という灯心草蝋燭など全くいらないが、努力して、聖霊という陽光を得るようにするがいい。その光が射し込んで来て、あなたの心を照らすようにするがいい。そうすれば、その助けによってあなたは、自分の罪を突きとめるようになるであろう。――そして罪を突きとめれば、それは半ば治癒されたも同然である。あなたのもろもろのそむきの罪をじっと眺めて、それを見つけ出そうと努力するがいい。

 だが、別のこととして、ある1つの罪に陥ったときには、それを告白するがいい。そして、それを手がかりにして、残りの一切の罪を探索するがいい。知っての通り、ダビデがその悲惨きわまりない告白を書き記したのは、1つの罪の行為を犯した後でしかなかった。その罪を犯して初めて彼は、自分の心を探索するよう導かれ、自分の残りのあらゆる不義を見つけ出したのである。そこで彼は、そのすべてについて完全な告白を行なった。あなたも、罪を1つ見たときには、そこに罪がうじゃうじゃ巣くっていると確信するがいい。というのも、罪は常に群れをなして獲物を追うからである。だから、1つの罪について告白し終えたときには、よく注意して、自分の告白に十分な弾薬が籠められているかどうか確認するがいい。その上で、ありとあらゆる罪に深手を負わせて、びっこを引き引き退散させるがいい。1つの罪、あるいは、1つのそむきの罪に打ち勝っただけで満足せず、すべてを取り除くよう力を尽くすがいい。

 さらに、数多くの罪に誘い込まれたくなければ、常に注意を払って、罪の化けの皮をはぎ取るようにするがいい。罪は時として、アカンが見た金の延べ棒のように、シヌアルの外套[ヨシ7:21]をまとった姿であなたのもとにやって来る。その覆いを引き剥がせば、その不義が暴かれるであろう。罪は時として、サウル王の不義のように、一個のいけにえという形で、あなたのもとにやって来る。それをはぎ取り、そむくことが占いの罪[Iサム15:23]であることを暴くがいい。悲しいかな! 罪はイゼベル[II列9:30]のようである。その髪を結い直し、目の縁を塗り、麗しい見かけをする。その仮面を外し、その卑しさを見てとるがいい。その不潔さを暴き、その覆いの金箔としている利益を軽蔑し、それが着飾っている人々の称賛を取り去るがいい。そして、その裸のおぞましさをさらけ出して立たせるがいい。そのとき、あなたは、そう易々と罪に陥りはしないであろう。

 さらには、あなたの精神が聖められた状態にあるときには常に心がけて、罪の悪にどれだけの重みがあるか見積もってみるがいい。罪深い状態にあるとき、あなたは悪の重みを感じないであろう。海に飛び込む人は、何万噸もの重量を自分の頭上に受けていながら、その重みを感じないことがありえる。なぜなら、海水が自分の回り中にあるからである。だが、その人を海から引き上げ、水が半分ほど入った大桶を頭の上に載せれば、地に崩れ折れてしまう。さて、罪にふけっている間のあなたは、その重みを感じないであろう。だが、罪の外に出たときには、――罪が過ぎ去り、御霊があなたの赦しのための血の滴りを振りかけ、あなたの回復のための聖化の働きを始めてくださった後では、――努めて自分の咎の膨大さを悟るようにするがいい。そうすれば、それによって悪を憎み、悪を打ち勝つ助けを得られるであろう。

 いくつかの罪に関して云うと、もしそれを避けたければ、1つ助言を受け取るがいい。――それらから逃げ出すことである。特にもろもろの情欲という罪と戦う道は、ヨセフが取った道による以外にない。そして、あなたもヨセフがどうしたかは知っているであろう。――逃げ出したのである[創39:12]。ある仏蘭西人哲学者がこう云った。「逃げるのだ、逃げるのだ、テーレマコス。勝利の道は、逃げ去ること以外に残されておらん」。キリストの十字架に従う真の兵士たちは、この罪以外のいかなる罪とも白兵戦を演じて退かない。だが、ここでは背中を向けて逃げて行き、そうすることで征服者となる。「不品行から逃げ去りなさい」、と古人のひとりは云う[Iコリ6:18 <英欽定訳>]。そして、この忠言には知恵がある。それに打ち勝つ道は逃げ去ることにしかない。もし誘惑があなたを攻撃するとしたら、目を閉じ、耳をふさぎ、ただただ一目散に逃げるがいい。というのも、あなたが唯一安全なのは、目が届かず、音が聞こえない所しかないからである。「主を愛する者たちよ。悪を憎め」。そして、渾身の力を込めて、あなた自身の中にある悪に抵抗し、打ち勝つよう努力するがいい。

 そしてまた、あなたがた、主を愛する人たち。罪から遠ざかっていたければ、聖霊の新鮮な油注ぎを受けることを常に求めるがいい。一日たりとも決して自分自身を信頼してはならない。自分の敬神の念を新鮮に刷新されないまま、その日の勤めに出て行ってはならない。安全でいるには、主の御手の中にいるしかない。いかなるキリスト者であれ、何をしているキリスト者であれ、――いかに敬神の念と祈り深さで名だたる人であれ、――霊性によって防護されない限り、一日たりとも大罪に陥ることなく存在することはできない。古の大家ダイアーは云う。「あなたの心を毎朝、祈りによって戸締まりし、その鍵を神にお渡しするがいい。そうすれば、何事も中に入ることはできず、夜あなたが自分の心の鍵を開けたとき、そこには愛と喜びと聖さという甘やかな香りと芳香が立ちこめているであろう」。そうするよう心がけるがいい。御霊によってのみ、あなたは罪から保たれることができるのである。

 何にもまして、こうつけ加えよう。いかなる意味においても罪を軽く見せかけようと努力する説教者たちのことは、ことごとく避けるがいい。神の民の罪が卑しいものだという事実を忘れさせようとするような、いかなる経験をも体験書をもすべて避けるがいい。私の知っている一部の連中は、自分たちの罪をあれこれ口にしては、自慢げにそうしている。彼らは、自分の数々の転落について、信仰後退について、そむきの罪について語りながら、まるでそれが祝福された経験であるかのように聞こえる。危険だからというので首に鈴をつけられた犬のように、自分たちの恥辱である当のそのことを自慢しているのである。覚えておくがいい。いかなる場合にも刺草は悪いものだが、それが最悪のものとなるのは、花園の中にある場合である。そして、いかなる場合にも罪は悪いものだが、それが最も憎むべきものとなるのは、キリスト者の中にある場合である。きょう帰宅する途中で、ある男の子が窓を割っているのを見かけたとしたら、まず間違いなく、あなたはその子に声をかけるであろう。だが、それがあなた自身の男の子だったとしたら、その子を厳しく懲らしめるであろう。その子が確実にわが子である限りそうするであろう。それと同じように、神はご自分の民を扱われる。罪人たちが不埒なことをしているとき、神は彼らを叱責される。だが、ご自分の民が同じことをしているときには、彼らを打ち叩かれる。神は、ご自分の子どもたちの中にある罪を見過ごしにしようとはなさらない。それは決して懲らしめられずにはすまない。あなたがた、主を恐れる人たち。決して罪を軽く見せかけてはならない。神がそうしようとはなさらないからである。神は完璧な憎しみをもって罪を憎まれる。

 II. 第二に語りたい点は、《他の人々の中にある罪を憎め》、ということである。よく聞くがいい。他の人々を憎むのではなく、他の人々の中にある罪を憎むがいい。もうほんの少々しか時間が残っていないので、一二の実際的な注釈だけを述べて終わろう。

 他の人々の中にある罪を憎む場合、必要なのはいかなる意味においても決してそれを黙認しないことである。多くのキリスト者は、微笑み1つによって、思いもよらない害悪を及ぼしている。あなたは、ひとりの若者が、自分の行なった悪ふざけのいくつかを話しているのを聞いていた。ことによると、それは鉄道の客車の中であったかもしれない。そして、それが非常に機知に富んだ話だったため、彼に微笑みかけた。彼はあなたを知っており、自分が大層なことを成し遂げたと考えたと思われる。――自分はキリスト者である人を、自分のあれこれの罪について微笑ませたではないか。あなたは時として、不敬虔な人々から、だらしのない、みだらな会話が流れ出るのを聞いたことがあった。そして、あなたはそれを好まなかったし、耳障りに思った。だが、あなたがただ黙って座っていたため、他の人々は云った。「あゝ、よろしい。あいつは身じろぎもしない。耳の穴を開いて聞き入っているんだ。あいつがそれを好んでいることは明らかだ」。このようにして、これは即座にあなたの是認の証印が押されたことになるのである。さて、決して罪を黙認してはならない。どこにいようと、このことをはっきりさせるがいい。あなたは単に罪に我慢できないだけでなく、はっきり罪を憎んでいるのだ、と。人々にこう云わせてはならない。「よろしい。どうも彼はこれを好かないようだな」。むしろ、彼らに知らせるがいい。あなたがそれを憎んでいることを。それに無条件の怒りを感じていることを。それに微笑みを返すことなどできず、そうした恥ずべき事がらが口にされただけであなたの怒りが湧き起こることを。前世紀には、今では軽蔑されているようなあれこれの罪を犯すことが流行し、誉れあることでさえあった。ならば、もう百年も経てば、今日行なわれている一部の事がらは、どうしようもないほど下劣なものであることがはっきりし、人はそれをも蔑視するであろう。キリスト者よ。私は云うが、決して他の人のあれこれの罪を承認してはならない。

 また、そうするように召された時にはいつでも、――そして、そう召されることは頻繁にあるであろうが、――罪に関するあなたの意見をはっきり口に出すよう心がけるがいい。罪深い沈黙を守れば、あなたは罪人の悪い道に加わることになりかねない。もし私が深夜、よその家に忍び込もうとしている誰かを目にして、そのまま通り過ぎたとしたら、――そうした人々が悪事を行なっていることを知りながら、そっと立ち去り、何の警報も発さなかったとしたら、――私は自分がその犯罪の共犯者になったものと考える。そのように、もしあなたが一緒にいる人々の間で悪いことが話されているか、キリストが冒涜されているとき、あなたが自分の《主人》のために一言も口を利かなかったとしたら、あなたはその沈黙によって罪を犯すことになる。その不義の共犯者となる。あなたの主であり《主人》であるお方のために、はっきり喋るがいい。そのためにとがめられたり、清教徒だと呼ばれたりしたらどうなるのか? それは偉大な呼び名である。誰かから、お前は四角四面すぎると云われたらどうなるのか? 非常に多数の人々があまりにも締まりなくなっているときには、ある人々が四角四面すぎるようになるべき立派な理由がある。あるいは、もしも彼らが二度とあなたが一緒にいることを歓迎しなくなったとしたら、それは、そのことによって生じた大きな得であろう。もし彼らがあなたの悪口を云うとしたらどうなるのか? あなたは知らないのだろうか? キリストの御名のために、ありもしないことで悪口雑言を云われるときには、喜ぶべきだということを[マタ5:11-12]。常に大胆に語ることによって、罪を恥じ入らせるがいい。

 さらにまた、誰かのうちに悪を見てとるときには常に、ひとかけらでも善を施す望みが見られる場合、機会を求めて二人きりのところで相手にそう告げてやるがいい。ひとりの紳士の話を聞いたことがあるが、彼が悪態をついていたところ、側に立っていた敬虔な人が、そのことで彼をとがめる代わりにこう云ったという。「すみませんが、少しお話ししたいことがあるのですが」。「よろしい」、とこの紳士は云った。「喫茶店の中に入った方がいいな」。それで二人は喫茶店に行き、この敬虔な人は相手に云った。「実はですね、私は、あなたが神の御名をみだりに唱えていることに気づきました。今そう云うことを勘弁してくださるでしょうね。私は他の人々が聞いているときには一言も云いませんでした。ですが、それは本当は大きな罪なのです。それは何の得にもなりません。これから先は、そうしないようにできませんか」。この諌めの言葉は感謝とともに受け取られた。紳士はお辞儀をして同意を示し、それが小さな頃に受けた教育のせいであると告白し、その叱責がきっと自分にとって良いものとなると思うと云ったのである。あなたも、私たちがしばしば悪に対する自分の憎しみを示す機会を失っていると思うではないだろうか? 罪にふけっている人を見いだすとき、そうした相手と二人きりの所で話をすることによって、私たちはそれができるのである。悪魔を狙い撃ちする機会を決して取り逃がしてはならない。それがどこであろうと関係ない。奴を見かけた時には常に襲いかかるがいい。表立ってそうできないとしても、ある人が悪を行なっているのを見た場合には、二人きりのところでその罪を叱責するがいい。

 だがしかし、別のことがある。もしあなたが悪を憎むとしたら、あなた自身が悪の中に入ってはならない。なぜなら、他の人々に向かって悪について話をしても、それを全くの無駄骨折りにしたくなければ、自分自身の生活が非の打ち所のないものでなくてはならないからである。硝子の家に住んでいる者は、石を投げてはならない。あなた自身の硝子の家から出て来るがいい。その上で、好きなだけ石を投げるがいい。他の人々に向かって話をするのは、まず第一に、あなた自身の生活を《福音》の羅針盤に従って整えるよう努力してからにするがいい。

 そして今、愛する同胞の方々。あなたがた、《救い主》を愛するすべての人たちは、今朝、悪を憎むよう勧告されている。そして、もうひとたびだけ、この勧告を詳しく述べることにしたい。悪を憎むことにおいては、悪を討伐しようとしているすべての人々と、心および手を結ぶがいい。善を施そうと努力している団体を目にするときには常にそれを励ますがいい。これをあなたの教理とするがいい。――キリストのほか何も褒めそやさず、悪のほか何もこきおろさない、と。《贖い主》の王国を広めることに賛成するすべての人々を助けるがいい。この世の何にもましてすみやかに悪を片づけることのできるものは、善を宣言することである。《福音》の教役者を助けるがいい。彼のために祈るがいい。彼を強める努力をするがいい。あなた自身について云えば、小冊子配布者になるがいい。《日曜学校》教師になるがいい。あるいは、村落説教者になるがいい。悪に対するあなたの憎しみを示すために、悪を片づける努力を積極的に行なうがいい。聖書を配布するがいい。国中に広く神のことばをまき散らすがいい。あなたの宣教師たちを外国の土地に送り出し、ロンドンの奥深くや裏通りに潜入させるがいい。わが国そのものの住民の襤褸や不潔の間に分け入り、この大都会のごみ溜めの中に隠されている主の宝石を、一個か二個取り出そうと努めるがいい。このようにして、あなたの財産によって主イエス・キリストに勝利を得させるがいい。また、この世の悪が打ち捨てられるようにするがいい。それを行なう方法として、キリストの教会の総力を結集する以外にあるだろうか? 近年、この国には、戦おうとしさえするなら、キリストの戦闘を戦うべき非常に多くの人々がいる。わが国の諸教会は、非常な勢いで数を増しつつある。今やおびただしい数のキリスト者たちが生きている。だが、私としては、あなたがた全員を合わせたよりも、あのペンテコステの日に二階座敷にいた百二十人の人々にいてほしいと思う。その百二十人の人々が身の裡に有していた血液は、私たちのようにあわれなしろもの何百万人よりもずっと多く、ずっと天来のキリスト者的なものだったと本当に思う。何と、その当時には、教会のあらゆる会員が宣教師であった。確かに女たちは説教しなかった。だが、彼女たちは説教よりも良いことを行なった。《福音》を現実に生き抜いたのである。そして、男たちは全員、何かしら話をした。彼らは、あなたのように、自分の代理として神に仕える自分の教役者にそれをまかせっぱなしにはしなかった。執事たちを立てて、神の働きをすべて彼らにまかせて、自分たちは拱手傍観したりしていなかった。おゝ! 否。キリストの全兵士が戦闘に向かった。彼らの中のひとりか二人が徴兵され、他の者らは本国に残って上手い汁を吸っていたのではない。否。誰もが戦いを行ない、大勝利を収めた。さて、愛するキリスト者たち。あなたがた全員が、地道に努力を続け、精を出すがいい。おゝ、生ける神の御霊よ。あらゆる心に降って、あなたの兵士たち全員に命じ給え。各々その剣を手に取り、勝利に向かってまっしぐらに突き進め、と。というのも、シオンの子どもたちが自分たち個々の責任を感じるそのとき、シオンの勝利の日はやって来るからである。そのときには、エリコの城壁は崩れ落ちてぺしゃんこになり、生ける神のあらゆる兵士が征服者とされるのである。「主を愛する者たちよ。悪を憎め」。今より後、永遠に。

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(訳注)

*1 アーサー・シスルウッド[1774-20]。英国の急進的改革運動家。いわゆる「カトー街の陰謀」により、英国内閣の議員を暗殺しようと計画したとして、仲間たちとともに処刑された。[本文に戻る]

  

正しい憎しみ[了]

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