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主権の恵みと人間の責任

NO. 207

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1858年8月1日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「またイザヤは大胆にこう言っています。『わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした。』またイスラエルについては、こう言っています。『不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた』」。――ロマ10:20-21


 疑いもなく、これらの言葉が第一義的に言及しているのは、ユダヤ人が退けられたこと、そして、異邦人が選ばれたことである。異邦人とは、神を求めない、偶像礼拝の中に生きていた民であった。それにもかかわらずエホバは、この後の時代には、ご自分の恵みの福音を彼らにお送りになった。一方、それまで長いこと神のことばに発する種々の特権を享受していたユダヤ人は、自らの不従順と反逆ゆえに退けられた。しかしながら、私の信ずるところ、確かにそれが本日の聖句の言葉の第一義的な目的ではあるものの、それでも、カルヴァンが云うように、この聖句で教えられている真理は、ある普遍的事実の1つの型である。神は、かつてご自分を知らなかった民を選んだのと同じく、その恵みのあふれるほどの豊かさにより、ご自分の救いを、道をはずれた所にいる人々に対して明らかに示すことを選んでこられた。それとは逆に、みことばを聞いた後で失われる人々は、自分の故意の罪ゆえに失われるのである。というのも、神は事実、一日中、「不従順で反抗する民に対して……手を差し伸べ」ておられるからである。

 真理の体系は、一本の直線ではなく、二本の直線である。いかなる人も、正しい福音観を身につけたければ、その二本の線を同時に眺めるすべを知らなくてはならない。ある書の中では、人は蒔いたものを刈り取るものと信じるよう教えられている[ガラ6:7]。別の箇所では、「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」[ロマ9:16]、と教えられている。ある箇所からすると、神は摂理によってすべてを統括しておられるように見える。だがしかし、一見すると、人間は得手勝手な行為をしており、神は人間の種々の行動を、大いに人間自身の意志にまかせておられるのだと思わずにはいられない。さて、かりに私がこう宣言したとしよう。人間はいかなる行為も自由に行なうことができ、その種々の行動は全く神の統括を受けていないのだ、と。その場合、私は、きわめて《無神論》に近い立場に陥るであろう。また、それとは逆に、かりに私がこう宣言したとしよう。神は万物を上から支配しておられ、人間は何の自由も持っておらず、いかなる責任も負っていないのだ、と。その場合、私は直ちに無律法主義か運命論に陥ってしまう。神は予定し、人間には責任がある、という2つのことを、ほとんどの人は見てとることができない。それらは、首尾一貫しない矛盾したものと信じられている。だが、そうではない。それは単に私たちの劣弱な判断力のせいでしかない。2つの真理が矛盾しているはずはない。ならば、ある箇所で、すべての事があらかじめ定められていると教えられていることに気づくとき、それは正しい。また、別の箇所で、人間にはそのあらゆる行動について責任があると教えられていることに気づくとき、それは正しい。そして、その2つの真理が互いに矛盾し合うことがありえるなどと想像するとしたら、それは私が愚かだからである。この2つの真理が、どこかの人間的な鉄床の上で1つに鍛接されることがありえるなどとは信じないが、永遠の中では1つとなるはずである。それらはほぼ全く平行線であり、人間の知性では、どこまで辿っても、決して一点に収束する所は見られないであろう。だが、それらは収束するのであり、永遠のいずれかの地点で相会うのである。すべての真理の源である神の御座の近くにおいてそうである。

 さて、今朝これから考察したいと思うのは、この2つの教理である。20節では、主権の恵みという教理が教えられている。――「またイザヤは大胆にこう言っています。『わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした』」。次の節には、神を拒絶する人間の咎という教理が示されている。「イスラエルについては、こう言っています。『不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた』」。

 I. まず第一に、《神の主権は救いにおいて典型的に示されている》。もし誰かが救われるとしたら、その人が救われるのは、《天来の》恵みのおかげであり、《天来の》恵みのおかげでしかない。そして、その人の救いの理由は、彼のうちにではなく、神のうちに見いだされるべきである。私たちが救われるのは、私たちが行なう、あるいは、私たちが志を立てるいかなることの結果としてでもない。むしろ、私たちが事を行ない、志を立てるのは、神のみこころの結果としてであり、私たちの心における神の恵みの働きなのである[ピリ2:13参照]。いかなる罪人も神を妨げることはできない。すなわち、神に先んじることはできない。神を出し抜くことはできない。神は常に、救いの件において第一であられる。神は私たちが回心する前におり、私たちが願望する前におり、私たちが希望する前におられる。私たちのうちにある良いもの、これから良くなるものはみな、神の恵みの後に生じたもの、また、内なる《天来の》力によって引き起こされたものである。

 さて、今朝、救いにおける神の恵み深い行為について語るに当たり、最初に言及したいのは、そうした行為が全く功なくして得られたものだということである。あなたにも見てとれるであろう。ここで言及されている人々が、確かに神の恵みを功によって得たのではないことが。彼らは神を見いだしたが、決して神を求めてはいなかった。神はご自分を彼らに現わされたが、決して彼らは神をたずねてはいなかった。救われた者のうち、それを功によって得た者はいた試しがない。神の聖徒たち全員に尋ねてみるがいい。そうすれば、彼らの以前の生活が種々の肉の情欲の中で費やされていことを語ってくれるであろう。無知であった時代の彼らは、神に反抗し、神の道に背を向けていた。みもとに来るよう招かれたときには、その招きを軽蔑し、警告されれば、その警告を背後に放り捨てた。彼らはあなたに告げるであろう。自分が神によって引き寄せられたのは、決して回心前のいかなる功績によるものでもなかったことを。というのも、彼らの中の何人かは、何か功績があるどころか、この世のいかなる者にもまして堕落していたからである。彼らは、罪の汚水溝そのものに埋没していた。私たちが口にするのも恥ずかしく思う一切のことを恥じていなかった。彼らは犯罪の首謀者だった。敵軍の首領そのものだった。だがしかし、主権の恵みが彼らのもとにやって来たとき、主を知るよう導かれた。彼らは、告げるであろう。それが彼らの性向の中にあるいかなる良いものの結果でもなかったことを。というのも、彼らは、今はこの上もなくすぐれたものが自分の中に植えつけられていると思っているが、肉にあった時代には、彼らの資質のうち1つたりともサタンに奉仕するようにゆがめられていないものは見当たらなかったからである。彼らに、自分が選ばれたのはその勇気のためだったのかどうか尋ねてみるがいい。彼らは、否と答えるであろう。彼らに勇気があったとしても、その価値は形無しになっていた。というのも、彼らは悪を行なうことについて勇敢だったからである。彼らが神に選ばれたのは、その才質のためだったのかどうか問うてみるがいい。彼らは、否と答えるであろう。そうした才質は持っていたが、それをサタンに奉仕するために悪用していたからである。彼らが選ばれたのは、彼らの心の広さや性向の寛大さのためだったのかどうか問うてみるがいい。彼らは告げるであろう。まさに、そうした気質の広さゆえに、また、そうした性向の寛大さのゆえに、そうでなかった場合にまして自分は罪の深みにどっぷり浸かることになったのだ、と。というのも、彼らは、いかなる悪人と出会っても、「いよう、ご同輩! 会えて嬉しいぜ!」、と云い、喜んで杯を交わしては、手当たり次第に乱痴気騒ぎという乱痴気騒ぎに加わってきたからである。彼らの中には、神からあわれまれるべき何の理由もなかったし、彼らにとって驚きなのは、そのもろもろの罪の最中に神が彼らを切り倒すことも、彼らの名前をいのちの書から拭い去ることも、悪人を滅ぼす火が燃えている深淵の中に一掃することもなさらなかったことである。しかし、ある人々の説によると、神が彼らをお選びになるのは、選ばれた後の彼らが、あれやこれやのことを行なうことになる と予見されたからであり、そうした卓越したものが彼らの功績となるのだという。やはり神の民に問い合わせてみるがいい。すると彼らはあなたに告げるであろう。自分たちは回心以来、嘆き悲しむべきことをさんざん行なってきた、と。神が自分たちのうちで良い働きを始められたこと[ピリ1:6]は喜べるが、しばしば、それが神の働きでも何でもないのではないかと思って身震いする。彼らはあなたに告げるであろう。たとい自分に信仰が満ちていようと、不信仰がふんだんに満ちあふれるほどになる時もある。たとい聖潔の行ないに富んでいることが時たまあろうと、そうした聖潔の行為そのものが罪に汚れていることを思ってさめざめ涙を流すことがある、と。キリスト者は自分の涙そのものをも嘆き悲しんでいると告げる。最上の願望の中にさえ不浄なものがあるのを感じる。自分の種々の祈りをも赦してくださるよう神に祈らなくてはならない。自分の願いの真中にも罪があるからである。また、自分の最上のささげ物にさえ贖罪の血を振りかけなくてはならない。さもないと、傷も汚れもないささげ物を持って来ることは決してできないからである。あなたは、最も輝かしい聖徒――社会のただ中にあって、さながら御使いが存在しているかのように存在している人物――に訴えるに違いない。すると、その人はあなたに告げるであろう。自分は今なお自分自身のことを恥じています、と。「あゝ!」、と彼は云うであろう。「あなたは私を称賛するかもしれませんが、私は自分を称賛することはできません。あなたは私のことを良く云い、褒めそやしますが、私の心を知っていたとしたら、私のことをあわれな罪人だと考えるべき理由を山ほどご覧になるでしょう。私は、恵みによって救われた罪人であり、何1つ誇るものはなく、頭を垂れて神の御前で自分のもろもろの不義を告白するしかない者なのです」。ならば、恵みは全く功なくして得られるものなのである。

 また、神の恵みは主権的である。これは、神には、ご自分の選ぶ所に恵みを与えたり、ご自分のみこころのままにそれを差し控えたりする絶対的な権利があるという意味である。神には、いかなる人にも恵みを与えるべき義理はない。いわんや、すべての人に恵みを与えるべき義理などない。そして、もし神がある人にそれを与え、別の人にそれを与えないことをお選びになるとしたら、神のお答えはこうである。「わたしの気前がいいので、お前の目にはねたましく思われるのか? 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法があるだろうか? わたしは自分のあわれむ者をあわれむ」[マタ20:15; ロマ9:15参照]。さて、私が今あなたに注目してほしいのは、この聖句に例示されている《天来の》恵みの主権性である。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現わした」。あなたは、こう想像するであろう。たとい神がその恵みを誰かに与えるとしても、彼らが熱心にご自分を探している様子になるまでお待ちになるだろう、と。あなたは神が、いと高き諸天でこう仰せになるものと想像するであろう。「わたしには、あわれみがある。だが、人々のことは放っておこう。そして、そうしたあわれみが自分に必要であることを彼らが感じて、熱心に、心を尽くして、昼も夜も、涙と誓いと願いによってわたしを探すなら、そのときには彼らを祝福してやろう。だが、そうしない限り絶対にそうすまい」、と。しかし、愛する方々。神は決してそのようなことを仰せにならない。確かに、神はご自分に向かって叫ぶ人々を祝福するが、彼らが叫ぶ前から彼らを祝福してくださるのである。というのも、彼らの叫びは、彼ら自身の叫びではなく、神が彼らの唇にお授けになった叫びだからである。彼らの願望は、彼ら自身が産み出したものではなく、神が彼らの心という土地に良い種のように蒔いた願望なのである。神は、ご自分を求めない人々をお救いになる。おゝ! 不思議さのきわみ! 求める者を神がお救いになるのは、実にあわれみである。だが、失われた者を神自らがお捜しになるというとき、それはいかにいやまして大きなあわれみであろう! 注目するがいい。失われた羊についてのイエス・キリストのたとえ話に。それは、このようには語られていない。「ある人が百匹の羊を持っていた。そのうちの一匹が迷子になった。そこで彼が家でじっと待っていたところ、見よ。その羊が戻ってきたので、彼はそれを喜んで迎え入れて、友だちに向かって云った。『いなくなった羊が戻ってきましたから、喜んでください』」。否。彼がその羊を捜し歩いたのである[ルカ15:4]。羊は決して彼を捜そうとはしなかったであろう。さらにさらに遠くへさまよって行ったことであろう。彼がそれを捜し歩いたのである。苦難の丘々を越え、意気阻喪の谷間に下っては、曲がりくねった足跡を追いかけ、とうとうそれを捕まえた。それから、それを追い立てることも、自分の後について来させることもせず、帰途の間中かかえて行き、家に連れ戻ったときには、「羊が戻ってきました」、とは云わずに、「いなくなった羊を見つけました」、と云ったのである。人々が最初に神を求めるのではない。神が最初に彼らをお求めになるのである。そして、もしあなたがたの中の誰かがきょう神を求めているとしたら、それは、神がまずあなたを求めてくださったからである。もしあなたが神を願望しているとしたら、神がまずあなたを願望されたのである。また、あなたの良い願望や熱心な求めは、あなたの救いの原因にはならないであろう。先にあなたに与えられた恵みの結果であろう。「よろしい」、と別の人は云うであろう。「云われてみれば確かに、《救い主》が熱心な求めだの、吐息だの、呻きだの、ご自分を絶えず求めることだのを要求なさることはないかもしれませんな。ですが、確かに主は、誰であれ恵みを与える前には、その人がその恵みをたずねることを願望し、要求なさったに違いありませんよ」。実際、愛する方々。それは自然なことに思われる。また、神は現実に恵みをたずねる人々に、それをお与えになる。だが、注目するがいい。この聖句によると、神がご自分を現わされたのは、「わたしをたずねない者に」対してだったのである。すなわち、私たちがたずねる前に、神は私たちに恵みを与えてくださるのである。誰かが少しでも祈りを始める唯一の理由は、神がその人の心に、先立つ恵みを入れてくださったからにほかならない。それが、その人を祈りへと導くのである。思い起こせば、神に回心したときの私は、徹底したアルミニウス主義者であった。この良い働きを自分自身で始めたのだと思っていたし、つらつらこう考えることもあった。「ヤレヤレ。四年も主を求めてきた果てに、ようやく主を見いだしたよ」。そして私は、その事実について自画自賛し始めていたと思う。自分が、いかにはなはだしい落胆のただ中にあっても、ねばり強く主に懇願し続けたからである。しかし、ある日、次のような考えが思い浮かんだ。「いかにして、お前は神を求めるようになったのか?」 そして、一瞬にして私の魂からの答えが届いた。「何と、神がそうするように私を導いてくださったからだ。最初に神が、ご自分を必要とすることを私に示してくださったに違いない。さもなければ、私は決して神を求めはしなかったはずだ。神がご自分の尊さを私に示してくださったに違いない。さもなければ、私は決して神が求める価値のあるお方だなどとは思わなかったはずだ」。そして、たちまち私は恵みの諸教理を明晰きわまりない形で見てとった。神がお始めになったに違いない。天性は、決して自分以上に上ることができない。貯水池に水を入れれば、その高さまでは上るだろうが、何の手も加えなければ決してそれ以上に高く上ることはない。さて、人間の天性には、主を求めるものはない。人間の性質は堕落している。それゆえ、聖霊からの常ならぬ圧力を心に受けない限り、最初に私たちがあわれみをたずねるよう導かれることはありえない。しかし、注目するがいい。私たちは、御霊が働いておられる間、そのことについて全く知らないのである。後になって分かるのである。私たちは、全く自分自らたずねているかのように、力を尽くしてたずねる。私たちの務めは、あたかも聖霊など全くおられないかのように主を求めることにある。しかし、私たちには分からなくとも、私たちの心の中には常に御霊の先立つ動きがあるに違いない。それがあって初めて、私たちの心が神に向かって動くことがありえるのである。

   「罪人、汝れに 先立てじ、
    御恩寵(みめぐみ)主権(つよ)く、豊けく、代価(かた)なし」。

1つ例証を示させてほしい。見るがいい。そこに、ひとりの人物が自分の馬にまたがって、一団の騎兵たちに取り巻かれている。いかに尊大な様子であろう。いかに勿体ぶったしかたで馬の手綱を引いていることであろう。もしもし、お手に何を持っておられるのですか? 後生大事にかかえておられる、その公文書は何ですか? 「なあに、君。この手に握っているのは、ダマスコにある神の教会を苦しめてやるためのものさ。これまでも私は、そいつらを男も女も会堂の中に引きずり込んできたし、鞭で打っては、無理矢理に涜し言を云わせようとしたものだ。そして、大祭司から受けたこの指令は、奴らをエルサレムまで連行するためのもので、そこで死刑にしてやるのさ」。サウロさん! サウロさん! あなたはキリストを全く愛してはいないのですか? 「キリストを愛するだと! いいや。人々がステパノを石打ちにしていたとき、私は証人たちの着物の番をしてやったし、そうすることが嬉しかったよ。私自ら、奴らの《主人》を十字架につけていたら良かったのにな。なぜって、私は奴らを憎悪しきっているからだ。私は、奴らに対する脅かしと殺害の意に燃えているのだ」。この人物について、あなたは何と云うだろうか? もし彼が救われるとしたら、彼を回心されるのは何らかの《天来の》主権性でなくてはならないとあなたも認めるではないだろうか? あわれなピラトを眺めるがいい。いかに有望なものが彼にはあったことか。彼は喜んで《主人》を救おうとしていた。だが、彼は恐れて震えた。もし私たちに選ぶ権利があったとしたら、こう云ったはずである。「主よ。ピラトをお救いください。彼はキリストを殺すことを望んでいません。主を逃れさせようと手を尽くしています。ですが、この血に飢えたサウロは殺してください。彼はまさに罪人のかしらなのです」。「否」、と神は云われる。「わたしは、自分のものを自分の思うようにする」。諸天が開き、栄光の輝きが降り注ぐ。――真昼の太陽よりも輝かしい光である。その光に驚倒して、彼は地面に転げ落ちる。すると、語りかける1つの声が聞こえる。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」[使26:14]。彼が身を起こす。神が彼に現われてくださる。「見よ。わたしはお前を、異邦人の間にわたしの名を運ぶ選びの器とした」[使9:15参照]。これは、主権ではないだろうか?――先立って全く求められることのなかった、主権の恵みではないだろうか? 神は、神を求めない者に見いだされ、神をたずねない者にご自分を現わされた。ある人は、それは奇蹟だと云うであろう。だが、それは一週間のうちに連日繰り返されているものなのである。かつて私が知っていたひとりの人は、長いこと神の家に来たことがなかったが、ある日曜の朝、日曜の夕食のための家鴨を二羽買おうとして市場に出かけたところ、たまたま神の家の前を通りかかり、その扉が開いているのを見た。「よろしい」、と彼は云った。「1つ、この連中が何をしてるのか聞いてやろうじゃないか」。彼は中に入った。そのとき歌われていた賛美歌が彼の注意を引いた。彼は説教に耳を傾けた。家鴨のことを忘れた。自分がいかなる者であるかを見いだした。家に帰って、即座に神の前に膝まずいた。そして、しばらくしてから、神は彼に、信ずる喜びと平安をお与えになった。その男のうちには、始めるべきものは何もなかった。救われるだろうと人が想像できるようなものは何もなかった。だが、単に神がそうお望みになったというだけの理由で、神は有効な恵みの一撃を加えられた。すると、その男は正気に返らされた。しかし、私たちは――私たちの中の救われているめいめいの者は――まさにこの件を示す最上の例証となる人々にほかならない。今日まで不思議でならないのは、主が私のような者を選ばれたということである。私にはそれが理解できない。そして、その問いに対する私の唯一の答えはこうである。「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」[マタ11:26]。

 ここまでで、この教理はきわめて平明に言明したものと思う。もう二言三言だけ語らせてほしい。ある人々は、この真理を非常に恐れている。彼らは云う。「これは真実だと私もあえて云おう。それでも、信者未信者が入り混じった会衆の前ではこのことを説教すべきではない。それは、神の民を慰めるには非常に良いものだが、取り扱いには細心の注意が必要だ。そして、公には説教されるべきではない」。非常に結構。方々。その件は、あなたと私の《主人》との間で決着をつけてもらおう。主は私にこの偉大な書を与えて、ここから説教するように云われた。私は他の何からも説教することはできない。もし主がそこに、あなたにはふさわしくないと思われるものを入れておられるとしたら、行って、私にではなく主に文句をつけるがいい。私は主のしもべでしかない。そして、もし私に対する主の云いつけが不愉快なことを告げることだとしたら、私にはどうすることもできない。もし私が召使いをある家に送って伝言を伝えさせるとしたら、彼は叱責される筋合いにはない。召使いにではなく、私に責めを帰すがいい。だから私は云う。私ではなく、私の《主人》を責めるがいい。というのも、私は主の使信を宣告しているにすぎないからである。「いいえ」、とある人は云うであろう。「それは説教されるべきではないのです」。しかし、それは説教されるべきである。神のあらゆることばは霊感によって与えられており、それは何らかの良い目的のために有益である。聖書はそう云っていないだろうか?[IIテモ3:16] あなたに告げさせてほしい。わが国の諸教会の多くが衰退しつつある理由は、まさにこの教理が説教されてこなかったことにあるのだ、と。この教理が断言されてきた所ではどこででも、それは常に、「カトリック教を打ち倒せ!」、であった。最初の宗教改革者たちはこの教理を奉じて、それを説教した。いみじくも英国国教会のある神学者は、自分を痛罵する一部の人々に向かってこう云った。「あなたがた自身のルターを眺めるがいい。あなたは、彼が英国国教会の教師であるとは考えないのか? カルヴァンや他の宗教改革者たちが教えたことは、意志の自由に関する彼の著書の中に見いだされるのだぞ」。その上、私たちは、原初から今の今に至るまで連綿と続く教役者たちを指摘することもできる。まさに使徒的継承とはこのことである! 恵みの諸教理を説教する人こそ、使徒的継承にほかならない。あなたは、私たちの系図を辿って、ニュートンや、ホイットフィールドや、オーウェンや、バニヤンといった一連の人々から真っ直ぐにカルヴァンや、ルターや、ツヴィングリまで至ることができるではないだろうか? そして、彼らからサヴォナローラへ、プラハのヒエローニュムスへ、フスへ、そして、かのキリスト教の強大な説教者アウグスティヌスへと遡ることができる。そして、聖アウグスティヌスからパウロまではほんの一歩である。私たちが自分たちの系図を恥じる必要はない。今はカルヴァン主義者たちが正統でないとみなされているとはいえ、私たちこそ今も常に正統派であるに違いない。これは古い教理である。行って、清教徒の本を何か買い、その中にアルミニウス主義が見つかるかどうか見てみるがいい。古書屋を隅から隅まで探して、古い時代の巨大な二折判の本のうち、神の無代価の恵み以外の教理を含んでいるものが何かあるかどうか見てみるがいい。ひとたびこのことが人々の精神に影響を与えるようになれば、悔悛だの告解だのといった教理は失せ去り、自分の罪の赦免のために金を払うことは失せ去る。もしも恵みが神の御手の中にある無代価で主権のものだとしたら、司祭尊重の教理は衰え、免償だの何だのの売り買いは失せ去る。それらは天の四方に吹き飛ばされ、種々の善行の効験は、主の契約の箱の前のダゴンのように[Iサム5:4]粉々に打ち砕かれてしまう。「よろしい」、とある人は云うであろう。「その教理は好きですよ。ですが、それを説教する人は非常に少なく、説教している人も非常に高踏的ですよね」。その可能性は非常に高い。だが、私は誰から何と呼ばれようとほとんど気にかけない。人々から何と云われるかは、大したことではない。かりに人があなたを「超何とか」と呼ぶとしても、それであなたが何かよこしまな者になるわけではない。そうではないだろうか。かりに人から無律法主義者と呼ばれたとしても、それであなたが無律法主義者になるわけではない。しかしながら、私も告白せざるをえないが、この教理を説教する一部の人々は、善を施すよりも一万倍も大きな悪を行なっている。なぜなら、次に私が宣告しようとしている教理を説教しないからである。その教理も全く同じくらい真実だというのにである。彼らはこの教理を船の帆としていながら、他の教理を船の底荷としてはいない。一方のものは説教できるが、もう一方は説教できない。高踏的な教理には同調できるが、みことばの全体を説教しようとはしない。そうした人々は、神のことばを戯画化してしまう。そして、ここで一言云わせてほしい。悔い改めて信じることはあらゆる人の義務だと教える、私たちの中のある者らのことを、一部の極端なカルヴァン主義者たちの団体は、「合の子のカルヴァン主義者」と呼ぶのを習慣としている。もしあなたが、そうした人々の中の誰かがそう云うのを聞くとしたら、どうか私からよろしくと伝えてほしい。そして、彼らに、果たして一生の間一度でもカルヴァンの著作を読んだことがあるかどうか尋ねてみてほしい。それは、カルヴァンが何と云ったか、何と云わなかったかを私が気にかけているからではない。だが、果たして彼らがその著作を読んだことがあるかどうか尋ねてほしい。そして、もしも彼らが「いいえ」と云うとしたら、――彼らはそう云うに違いない。というのも、世には四十八巻の大冊がありますよ、とあなたは彼らに告げることができるからである。それは、彼らから「合の子のカルヴァン主義者」と呼ばれている人間が、その全巻とまでは云わなくとも大部分をすでに読んでおり、その精神を汲みとっているものである。そして、その人間は、自分が実質的にカルヴァンが説教したのと同じことを説教していると知っているのである。――自分が説教しているいかなる教理をも、いずれかの聖書箇所に対するカルヴァンの注解書の中に見いだすことができるのである。しかしながら、私たちこそは《真の》カルヴァン主義者である。カルヴァンは、私たちにとって大して重要な人間ではない。イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方[Iコリ2:2]と、昔ながらの聖書こそ、私たちの基準である。愛する方々。神のことばは、あるがままに受け取ろうではないか。もしそこに高踏的な教理が見いだされるなら、それを高踏的なままにしておこう。もし低踏的な教理が見いだされるなら、低踏的なままにしておこう。聖書が差し出す以外の基準を設けないようにしよう。

 II. さてそれでは、第二の点である。「さあ今こそ」、と私の過激な友人は云うであろう。「こやつは自己矛盾したことを云うぞ」。否。残念ながら、そのようなことはしない。私が語るのはただ、あなたと矛盾することにすぎない。第二の点は《人間の責任》である。「またイスラエルについては、こう言っています。『不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた』」。さて、神に投げ捨てられたこの民は、それまで懇願され、求められ、救われるよう嘆願されていた。だが、彼らはそうしようとはしなかったし、彼らが救われなかったことに限って云えば、それは彼らの不従順と反抗の結果であった。これは、この聖句から明白に分かることである。神が預言者たちをイスラエルに遣わし、その御手を差し伸ばされたとき、それは何のためだっただろうか? 神は何のために彼らがみもとに来ることを願われたのだろうか? 何と、救われるためである。「いいえ」、とある人は云う。「それは、一時的なあわれみのためだったのですよ」。生憎だが、そうではない。その前の節は霊的なあわれみについて語っており、この節もそうである。2つは同じことに言及しているからである。さて、神は真摯にその申し出をしておられたのだろうか? そうでないなどと云おうとする人を、神よ、赦し給え。疑いもなく、神は、そのあらゆる行為において真摯であられる。神は預言者たちを遣わされた。霊的なものをつかむように、イスラエルの民に請願された。だが、彼らはそうしようとしなかった。そして、神がその御手を一日中差し出しておられたにもかかわらず、彼らは「不従順で反抗する民」で、神の愛を受け入れようとしなかった。だから、彼らの血の責任は彼らの頭上に[エゼ33:4]帰されるのである。

 さて、神の懇願と、それがいかなる種類のものであるかに言及させてほしい。最初に、それは、この世で最も愛情のこもった懇願であった。福音をずっと聞いていながら失われた罪人たちは、決して深い愛情のこもった招きに欠けていたために失われたのではない。神は、御手を差し伸ばしたと云われる。それがどういうことかは、あなたにも分かるであろう。あなたは、不従順で父親のもとにやって来ようとしない子どもを見たことがある。父親は手を差し伸ばして云う。「戻っておいで、わが子よ。戻っておいで。私はいつだってお前を赦してやるよ」。涙を目に浮かべ、胸も張り裂けんばかりの哀れみの念をもって彼は云う。「戻っておいで、戻っておいで」、と。神は、それこそご自分が行なったことだと云われる。――「わたしは……手を差し伸べた」。それこそ、神があなたがたの中のある人々に対して行なってくださったことである。あなたがた、きょう救われていない人たちには、弁解の余地がない。というのも、神はご自分の御手をあなたに差し伸べ、「戻っておいで、戻っておいで」、と云われたからである。長い間あなたは、福音を伝える教役者の声を聞いてきた。そして、その声は信実なものだったと思いたいし、涙を伴ったものであった。あなたの教役者は、密室であなたの魂のために祈ること、あるいは、誰の目にも触れていないときにあなたのために涙を流すことを忘れたことはなかったし、神からの使節としてあなたを説得しようと努力してきた。神が私の証人である。時として私はこの講壇に立ち、自分のいのちのためにも到底できないほど激しくあなたがたに嘆願してきた。キリストの御名によって、私は叫んできた。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]、と。私は、《救い主》がしたのと同じように、あなたのために涙を流してきたし、主に代わってそのみことばを用いてきた。「ああ、エルサレム、エルサレム。……わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」[マタ23:37]。あなたも、自分の良心にしばしば迫りを覚えたことを知っている。あなたは、しばしば感動させられてきた。神は、あなたに対して非常にいつくしみ深くあられた。みことばによって、豊かな愛情をもってあなたを招かれた。その摂理によって、非常に優しくあなたを扱われた。その御手は差し伸ばされていたし、その御声の語りかけはあなたの耳に聞こえた。「わたしのもとに来たれ。さあ、来たれ。論じ合おう。たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、羊の毛のようになる。たとい、紅のように赤くても、雪のように白くなる」*[イザ1:18参照]。あなたには、神の大きな声が聞こえた。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い」[イザ55:1]。神が、父親の切なる愛情を尽くしてこう仰せになるのをあなたは聞いてきた。「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」[イザ55:7]。おゝ、実際に神は、人々が救われるよう彼らに懇願しておられる。そして、この日、神はあなたがたひとりひとりにこう云っておられる。「あなたがたの罪を赦していただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。わたしに帰れ。――万軍の主の御告げ。――あなたがたの現状をよく考えよ」[使3:19; ゼカ1:3; ハガ1:5参照]。そして、天来の愛をもって神は、父親がわが子に懇願するように、あなたに懇願し、その御手を差し伸べて叫んでおられる。「わたしのもとにおいで。わたしのもとにおいで」、と。「否」、と硬直した教理に立つ人は云うであろう。「神は決してすべての人々をご自分のもとに招いてはおられない。神がお招きになるのは、ある特定の人格の人々だけだ」。黙るがいい。この件について、あなたは、それを一つ覚えにしているだけなのである。次のように語っているたとえ話を、あなたは一度も読んだことがないのだろうか? 「雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」[マタ22:4]。ところが、招待されていた人々は、来ようとしなかったのである。また、彼らがみな断り始め[ルカ14:18]たこと、その招待を受けなかったために罰されたことを、あなたは一度も読んだことがないのだろうか? さて、もしもその招待がすべての人に対しては行なわれるべきでなく、それを受け入れる人にだけ行なわれるべきだとしたら、いかにしてこのたとえ話が真実でありえるだろうか? 実は、雄牛も太った家畜もほふられ、宴会の用意は整い、喇叭が鳴っているのである。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い」。ここには、豊かなごちそうが供されている。その招待は自由である。それは、無制限の大いなる招待である。「だれでも、いのちの水がほしい者は来て、それをただで受けなさい」*[黙22:17 <英欽定訳>]。そして、その招きは、優しいことばで表わされている。「戻っておいで、わが子よ。戻っておいで」。「わたしは一日中、手を差し伸べた」。

 また、やはり注意するがいい。この招きは、きわめて頻繁になされたものであった。「一日中」という言葉は、「毎日」と訳すことができる。――「わたしは毎日、手を差し伸べた」。罪人よ。神は一度だけあなたに来るよう呼びかけて、それからは、あなたを放っておかれたのではない。連日、神はあなたにお求めになった。連日、良心はあなたに向かって語りかけた。連日、摂理はあなたに警告した。そして、毎週安息日に、神のことばはあなたに懇願した。おゝ! あなたがたの中のある人々は、神の大いなる法廷で、いかに大きな責任を負わなくてはならないことか! 私は今、あなたの人格を読みとることはできない。だが、あなたがたの中に、最後にはすさまじい目に遭うだろう人々がいることは知っている。一日中、神はあなたに懇願しておられた。あなたの人生が明け初めた時から、神はあなたの母上を通してあなたに懇願しておられた。母上はあなたの小さな両手を合わせて、こう云うことをあなたに教えた。

   「柔和で温和な、優しきイエスは
    いまも子らを 見つめたもう。
    わが幼さを あわれみなさり
    われをみもとに 近づけなさる」。

そして、少年時代に、神はなおも御手をあなたに向かって差し伸べておられた。いかにあなたの《日曜学校》の教師が、あなたを《救い主》のもとに導こうと力を尽くしたことか! いかにしばしば、あなたの幼い心が深く感動させられたことか。だが、あなたはそれをことごとく遠ざけ、今なおその影響を及ぼされてはいない。いかにしばしば、あなたの母上があなたに語りかけ、父上があなたに警告したことか。また、あなたが病気にかかったときの、あの寝室での祈りをあなたは忘れてしまっただろうか。母上があなたの燃える額に口づけし、膝まずいて、あなたのいのちをお救いくださいと神に祈ったとき、そして、その祈りにこうつけ加えたときのことを。「主よ。この子の魂をお救いください!」 あなたはまた、最初に徒弟奉公に出て行くとき、母上から与えられた聖書のことを、また、その黄色い最初の頁に書き記された祈りのことを思い起こすであろう。母上がそれを与えたとき、ことによると、あなたは知らなかったかもしれない。だが、今は知っているであろう。いかに熱心に母上があなたのことを思いやり、あなたがキリスト・イエスにあって新しく形作られることを願っていたことか。いかにその祈りによってあなたの後を追っていたことか。そして、いかにあなたのために自分の神に請願していたことかを。そして、あなたは確かにまだ忘れてはいないであろう。いかに多くの安息日を、あなたが費やしてきたか、また、いかに何度となく警告を受けてきたことかを。何と、あなたは荷馬車一杯に積み上げた説教を降り注がれていながら、それを無駄にしてきた。毎年、百四もの説教を聞いてきたし、中にはもっと多く聞いてきた人もいるが、しかし、あなたは今なお以前と同じあり方をしたままである。

 しかし、罪人たち。説教を聞くことは、それが私たちの魂にとって祝福とならない限り、恐ろしいことである。もし神がその御手を日々、また、一日中差し伸ばし続けておられたとしたら、あなたが律法を破ってきたことばかりでなく、故意に福音を拒否してきたことゆえに正当に罪に定められるとき、それは辛いものとなるであろう。おそらく神は、あなたの頭が白髪になるまで御手をあなたに差し伸ばし続け、なおも絶えずあなたを招き続けてくださるであろう。そして、ことによると、あなたが死に近づきつつあるときにも、なおも、「戻っておいで、戻っておいで」、と仰せになるかもしれない。しかし、もしあなたがそれでも自分の心をかたくなにすることに固執するとしたら、もしそれでもキリストを拒絶するとしたら、私は切に願う。決して自分が罰されずにすむなどと想像しないでほしい。おゝ! 私は時々ある種別の教役者たちのことを思って身震いすることがある。彼らは罪人たちに向かって、《救い主》を求めなくとも咎はないと告げるのである。神の大いなる日に、いかにして彼らが無罪となるのか、私には分からない。彼らが、あわれな魂たちをあやして眠らせているのは、恐ろしいことと思われる。彼らは、魂に向かって、キリストを求めて悔い改める義務などないと告げ、そのことについては好き勝手にしていて良いのだ、滅びるとしても、みことばを聞いていたからといって咎が重くなることはないのだ、と告げているのである。私の《主人》は、そうは仰せにならなかった。思い出すがいい。いかに主がこう云われたかを。「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ」[マタ11:23-24]。イエスは、コラジンやベツサイダに向かって語ったときには、そのような話はなさらなかった。というのも、こう云われたからである。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ」[マタ11:21-22]。それは、パウロが説教したしかたではなかった。彼は罪人たちに向かって、十字架を蔑むことに何の咎もないとは告げなかった。もう一度、使徒の言葉を聞くがいい。「もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し……ました」[ヘブ2:2-3]。罪人よ。神の大いなる日に、あなたは自分がこれまで受けてきたあらゆる警告について申し開きをしなくてはならない。あなたが自分の聖書を読んだあらゆる折について、左様。また、それを読むのを怠ったあらゆる折について、また、神の家が開かれており、あなたがみことばを聞く機会を利用するのを怠ったあらゆる日曜日について、そして、現実にそれを聞いたが、生かそうとしなかったあらゆる折についてそうである。あなたがた、話を無頓着に聞いている人たちは、自分自身を永遠に燃やす火にそだ束を縛りつけているのである。あなたがた、聞いても直ちに忘却するか、軽薄な思いをもって聞いている人たちは、自分が投げ込まれなくてはならない穴を自ら掘っているのである。覚えておくがいい。最後の大いなる日に、あなたが地獄に落とされるとき、その責任はあなた以外の誰にもないだろうことを。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ」、――そして、これは重大な誓言である。――「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない。かえって、わたしに立ち返って、生きることを喜ぶ」*[エゼ33:11; 18:32参照]。神は、あなたのために大きな事を行なってこられた。ご自分の《福音》をあなたに送られた。あなたは異教国に生まれはしなかった。神はあなたに《本の中の本》をお与えになった。あなたの良心に光を与えてくださった。では、もしあなたが福音を語る教役者の声を聞きながら滅びるとしたら、他のどこで滅びるよりも恐ろしくすさまじい滅び方をするのである。

 この教理は、もう1つの教理と同じくらい神のことばである。あなたは私に、その2つを和解させるよう求める。答えよう。それらを和解させる必要は全くない。私は決して自分ではそれらを和解させようと試みたことがない。なぜなら、いかなる食い違いも見てとることができなかったからである。たといあなたが私に、五十か六十もの屁理屈を云い始めるとしても、私は何の答えを返すこともできない。両方とも真実である。真理は、どの2つを取ってもつじつまが合わないことはありえない。そして、あなたが行なわなくてはならないのは、両方とも信じることである。最初の真理は、何よりも聖徒に関係がある。聖徒は神の無代価で主権の恵みを称賛し、神の御名をほめたたえるがいい。二番目の真理は、何よりも罪人に関係がある。おゝ、罪人よ! 神の力強い御手の下にへりくだるがいい[Iペテ5:6]。神が、ご自分のもとに来るようあなたに命じることによって、いかにしばしばその愛をあなたに示してくださったかを考えるがいい。だがしかし、いかにしばしばあなたは、そのみことばをはねつけ、いかなる招きにも耳を貸さず、神の愛に反抗する道を歩んでは、あなたを愛されたお方の命令に違反してきたことか。

 そして今、いかにしてしめくくれば良いだろうか? 私の最初の勧告は、キリスト者である人々に対してである。私の愛する方々。私は切に願う。どうか、神のことばからかけ離れた、いかなる信仰の体系にも心を許さないでほしい。聖書が、また、聖書だけが、プロテスタント教徒の信ずるキリスト教信仰である。私は、かの偉大な尊崇すべきギル博士の後継者である。博士の神学は、より強硬なカルヴァン主義的諸教会の間で、ほぼ普遍的に受け入れられている。だが、確かに私は博士の思い出を尊んでおり、博士の教えたことを信じてはいるが、それでも博士は私の《先生》[マタ23:8]ではない。人は、神のことばの中に見いだすものをこそ信じ、受け入れるべきである。何らかの教理に怯えてはならない。何にもまして、決して誰かの名前に怯えてはならない。先日ある人が私にこう云った。真理は、2つの極端の間のどこかにあるのですよ、と。彼は善意からそう云ったのだが、間違っていると思う。私は2つの極端の間に真理があるとは思わない。その両方の中にあると思う。私は、人は救いの件を説教しているときには、高踏的になればなるほど良いと信じる。ある人が救われる理由は恵み、恵み、恵みである。そこでは、人は好きなだけ高踏的になってかまわない。しかし、ある人が地獄に落ちるのはなぜかという問題に至ったときには、アルミニウス主義者の方が無律法主義者よりもはるかに正しい。私は、いかなる教派にも集団にも頓着しない。私は、救いの件にかけては、猟犬座ほども高いところにいるが、地獄に落ちることについては、非常に異なる答えを返すであろう。神の恵みによって、私はいかなる人の拍手喝采をも求めない。私は、自分の見いだす通りに聖書を宣べ伝える。私たちが道を誤るのは、カルヴァン主義者が永遠の断罪という問題に首を突っ込んでは、神の正義について差し出口をし始める場合である。あるいは、アルミニウス主義者が恵みの教理を否定するときである。

 私の二番目の勧告はこうである。――罪人よ。私はあなたがた、回心しておらず不敬虔である人々ひとりひとりに向かって今朝、切に願う。どうか今のあなたが回心していない理由として、悪魔があなたに云わせようとしている、いかなる形、いかなる種類の弁解をも捨て去ってほしい。覚えておくがいい。世界中のいかなる教えをもってしても、あなたがよこしまな行ないによって神の敵となっていることは決して弁解できないということを。神と和解させられるよう私たちがあなたに切に願うとき、それは、あなたが和解させられるまで、しかるべき立場には決していないと私たちが知っているからである。神はあなたを造られた。あなたが神に従わないのは正しいことでありえるだろうか? 神は毎日あなたに食物を与えてくださる。あなたがなおも神への不従順のうちに生きるのは正しいことでありえるだろうか? 覚えておくがいい。諸天が紅蓮の炎に包まれ、キリストが義をもって地を審き、公正をもってご自分の民を審きに来られるとき[詩98:9]、その最後の大いなる日にも一理あるような弁解を、1つとしてあなたは行なえないであろう。かりにあなたが、「主よ。私は一度もみことばを聞いたことがありません」、と云おうとしても、神の答えはこうであろう。「お前は確かにそれを聞いた。この上もなくはっきりと聞いたはずだ」。「しかし、主よ。私には、悪い意志があったのです」。「お前の言葉によって、お前を審こう[ルカ19:22]。お前には、その悪い意志があった。ならば、わたしはそれをかどにお前を審こう。その審きというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである[ヨハ3:19]」。「しかし、主よ」、とある人は云うであろう。「私は予定されていませんでした」。「それがお前と何の関係があったのか? お前は、お前自身の意志によって反抗したのだ。お前はわたしのもとに来ようとしなかった。だから今、わたしはお前を永遠に滅ぼす。お前はわたしの律法を破ってきた。――お前自身の頭上に咎はあるのだ」。かりに、ある罪人がその大いなる日にこう云えたとしよう。「主よ。いずれにせよ、私に救われることはできませんでした」。地獄におけるその人の苦悶は、そう考えれば和らぐであろう。だが、このことが剣の刃先そのものとなり、燃える火焔そのものとなるであろう。――「お前たちは、自分の義務を知っていたが、それを行なわなかった。お前たちは、あらゆる聖なるものを踏みつけた。《救い主》をないがしろにした。では、お前たちは、これほど素晴らしい救いをないがしろにした場合、どうして逃れることができようか?」

 さて、私自身について云えば、あなたは――あなたがたの中のある人々は――この場を去って云うであろう。私が説教の最初の部分では無律法主義者であり、最後の部分ではアルミニウス主義者であった、と。私は何も気にしない。私があなたに願いたいのは、自分で聖書を調べてみることである。天地神明に誓って、もし私がこのみことばに従って語っていないとしたら、それは私のうちに何の光もないためである。私は喜んでその試験に服したい。私がキリストと何の関係も持っていない所では、私と何の関係も持たないようにするがいい。私が真理から離れている所では、私の言葉を投げ捨てるがいい。しかし、もし私の云うことが神の教えだとしたら、私はあなたに命ずる。私を遣わされたお方にかけて、こうした事がらを考え、心を尽くして主に立ち返るがいい。

  
 

主権の恵みと人間の責任[了]

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