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万人の説教

NO. 206

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1858年7月25日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「わたしは……多くの幻を示し、……たとえを示そう」。――ホセ12:10


 主は、ご自分の民イスラエルを、その数々の不義からかちとろうとされたとき、あらゆる手段を尽くして、戒めに戒め、規則に規則、ここに少し、あそこに少し[イザ28:10]をお与えになった。時には御手の鞭で彼らを教えることとし、激しい飢饉、疫病、侵略によって彼らを打たれた。別の時には、有り余る豊かさで彼らをかちとろうとされた。彼らの穀物と葡萄酒と油を増やし[ホセ2:8]、何の飢饉もふりかからないようにされたからである。しかし、主のいかなる摂理も功を奏さなかった。差し伸ばされている主の御手を尻目に、なおも彼らは《いと高き方》に反逆し続けた。主は、彼らを叩き直すために預言者を用いられた。ひとり、またひとりと彼らのもとに遣わされた。雄弁なイザヤの後には、哀調に満ちたエレミヤが続いた。そのすぐ後に、多くの先見の明のある、雷鳴のような声をした予見者たちが次々とやって来た。しかし、いかに預言者が引き続きやって来ては、口々に《いと高き方》からの激烈な言葉を語ろうと、彼らは主の叱責を全く受けようとせず、心をかたくなにし、なおもその不義を行ない続けた。だが、それ以外にも神は、彼らの注意を引き、その良心を打つための働きをいくつか行なわれた。その1つが、たとえを用いることである。預言者たちは常々、説教するばかりでなく、自らが民に対するしるしとなり、不思議となった。例えば、イザヤはわが子をマヘル・シャラル・ハシュ・バズと名づけた。主の審きが急迫しつつあることを彼らに知らせるためである。「それは、この子がまだ『お父さん。お母さん。』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである」[イザ8:4]。別の折に、主はイザヤにこう云われた。「『行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。』それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。そのとき、主は仰せられた。『わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く』」[イザ20:2-4]。預言者ホセアも、やはり自らたとえによって民に教えなくてはならなかった。あなたは、第一章の中に、この上もなく異様なたとえがあることに気づくであろう。主は彼に云われた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ」[ホセ1:2]。そこで彼はそうした。そして、この結婚によって生まれた子どもたちは、民に対するしるしと不思議とされた。彼の最初の男の子のことはイズレエルと名づけられた。「しばらくして、わたしはイズレエルの血をエフーの家に報い(る)……からだ」[ホセ1:4]。彼の女の子のことは、ロ・ルハマと名づけられた。「わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ」[ホセ1:6]。このように、様々に意義深いしるしによって、神は民を考えさせられた。ご自分の預言者たちに奇妙な事がらを行なわせられた。それは、ご自分のふるまいについて民に語り合わせ、神が彼らに学ばせようとしている意味を、より強烈に彼らの良心に突き入れ、より良く覚えさせるためであった。

 さて、いま私が思っているのは、神が、日々たとえによって私たちに説教しておられる、ということである。キリストは、地上にいたとき、たとえ話によって説教された。そして、今は天にいるとはいえ、今日も種々のたとえ話によって説教しておられる。摂理は、神がお語りになる説教である。私たちが身の回りで目にする物事は、神のお考えであり、私たちに対する神のことばである。そして、賢くなりさえすれば、私たちの踏み出す足の一歩たりとも、大いなる教えに満ちていないものはないことが分かる。おゝ、あなたがた、人の子たち! 神は日々ご自分のことばによってあなたに警告しておられる。ご自分のしもべである、その教役者たちの唇によって、あなたに語っておられる。だが、それに加えて、種々のたとえによって、あらゆる折々にあなたに語りかけておられる。神は、いかなる手段を尽くしても、ご自分のさまよい歩く子どもたちをみもとに導き、イスラエルの家の滅びた羊[マタ10:6]を囲いに戻らせようとしておられる。今朝あなたがたに話をするに当たり、私が努めて示したいと思うのは、いかに毎日、また、いかにあらゆる季節、あらゆる場所、そして、あなたが実行しているだろうあらゆる職業において、神が、種々のたとえによって、あなたに語りかけておられるかということである。

 I. 《毎日》、神は種々のたとえによって、あなたに語っておられる。まず、早朝から始めよう。あなたは今朝、目を覚ましたときには服を着ていなかった。それで、洋服を身につけ始めた。神は、あなたが聞こうとさえしていたならば、1つのたとえによって、語りかけておられなかっただろうか? このようなことを仰せになっていなかっただろうか? 「罪人よ。お前のはかない夢が終わったとき、永遠の中で目覚めたお前が、裸であることに気づくとしたら、どうなるだろうか? 何を着られるだろうか?」 もしも現世であなたが、婚礼の礼服[マタ22:11]であるイエス・キリストのしみ1つない義を投げ捨てるとしたら、御使いのかしらの喇叭[Iテサ4:16参照]が、墓の中の、土でできた、あなたの冷たい休み場からあなたを目覚めさせるとき、また、諸天が稲妻で燃え上がり、大地の磐石の柱が神の雷鳴を恐れて揺れ動くとき、どうしようというのか? そのとき、いかにして身づくろいしようというのか? 自分の裸を覆うものもなしに、あなたの《造り主》に直面できるだろうか? アダムもそうする勇気はなかったのに、あえてそうできるだろうか? 神はその恐ろしさによってあなたを怯えさせるではないだろうか? あなたを獄吏[マタ18:34]のもとへと叩き落とし、消えることのない火で焼き尽くさせるではないだろうか? なぜなら、あなたは、この執行猶予の場にいる間、自分の魂の衣を忘れていたからである。

 よろしい。あなたは服を着終えて、家族のもとに降りて来る。すると、あなたの《子どもたち》があなたの食卓の回りに集まり、朝食をとる。あなたが賢ければ、そのとき神は、1つのたとえによってあなたに説教しておられたのである。神は、あなたに向かってこう云っておられたと思われる。――「罪人よ。子どもは、自分の父親以外の誰のもとに行くだろうか? また、空腹になったとき、自分の父親の食卓以外のどこに頼るだろうか?」 そして、あなたの子どもたちにものを食べさせている間、あなたに聞く耳があれば、主はあなたにこう語っておられたのである。「わたしが、いかに喜んでお前を養おうとしていることか! わたしが、いかにお前に天のパンを与え、御使いの食物[詩78:25 <英欽定訳>]を食べさせたいと思っていることか! しかし、お前は食糧にもならない物のために金を払い、詰まらぬ物のために労してきた。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そして、脂肪で元気づくがいい[イザ55:2参照]」。そこに神は、ひとりの《父親》のように立って、こう仰せにならなかっただろうか? 「来るがいい。わが子よ。わたしの食卓に来るがいい。わたしの御子の尊い血が流されたのは、お前の飲み物となるためであり、御子がそのからだを与えたのはお前の食べ物とするためだったのだ。なぜお前は飢え渇いたまま、さまよおうとするのか? わたしの食卓に来るがいい。おゝ、わが子よ。わたしは、わたしの子どもたちがそこにいて、わたしの供する多くのあわれみを満喫するのを大いに喜ぶからだ」。

 あなたは家を出て、仕事に行った。私は、あなたがいかなる職業のために時間を用いたか知らない。――この点については、今朝あなたの考えるべき種々のたとえの目当てをまとめる前に、もう少し語りたいと思う。――だが、あなたは自分の仕事に時間を費やす。そして、確かに、愛する方々。あなたの指がせわしなく働いている間中、神はあなたの心に語りかけておられた。もしあなたの魂の耳がふさがれておらず、鈍感で、すぐにまどろみがちな、御声を聞けないものとなってなかったとしたら、そうである。そして、太陽が中天で輝く正午になったとき、あなたは自分の目を上げて、こう思い出したではないだろうか? もし自分の魂を神にゆだねていたとしたら、自分の通り道は、あけぼのの光のように、いよいよ輝きを増して真昼となっていたはずだ、と[箴4:18]。神は、あなたにこうお語りにならなかっただろうか? 「わたしは、太陽を東の暗闇から引き出した。それを導き、天の滑りやすい階段を上るのを助け、今やそれはその絶頂に立っている。その競走を走り終え、終点に達した巨人のように。そして、まさしくそのように、わたしはお前に行なおう。お前の道をわたしにゆだねるがいい。そうすれば、わたしはお前を光で満たし、お前の通り道は朝日のように、お前のいのちは昼間のようになろう。お前の太陽は一日とともに沈まず、お前の嘆き悲しむ日は終わる[イザ60:20]。主なる神がお前の光、お前の救い[詩27:1]となるからだ」。

 そして、太陽が沈み出し、夕闇が迫りつつあった。そのとき主はあなたに、あなたの死のことを思い出させなかっただろうか? 太陽は沈むものであり、人は墓場に入るものである。夕闇が広がって、暗闇が次第に濃くなっていくとき、神はあなたにこう仰せにならなかっただろうか? 「おゝ、人よ。お前の夕暮れに用心するがいい。というのも、日の光はいつまでも保たないからだ。人は十二時間のあいだ働くべきだが、それが過ぎて夜になれば、そこには何の働きも企てもない[伝9:10]。その、墓という夜に人々は急行しつつあるのだ。光がある間に[ヨハ12:35]働くがいい。誰も働くことのできない夜[ヨハ9:4]が来るのだから。それゆえ、お前の手元にあるなすべきことはみな、自分の力で[伝9:10]するがいい」。私は云いたい。まさに没もうとしている太陽を見よ。そして、彼が空に描き出している、目もあやな光彩に注目し、彼が地平線に近づくにつれて、その円をいかに膨らませるように見えるか注意するがいい。おゝ、人よ。膝まずいて、この祈りを学ぶがいい。――「主よ。私の死を日没のようにしてください。私をお助けください。雲と闇が私の回りにあるとしても、それらを光輝で照らし出すことができるように。おゝ、私の神よ。私が死ぬときには、それ以前の一生のあいだ私が示してきた以上の輝きで私を取り囲んでください。たとい私の臨終の床がみじめな藁布団だとしても、また、私が息を引き取る場所がどこかの寂しい小屋の中だとしても、それにもかかわらず、おゝ、主よ。どうか私の貧しさを、あなたがお与えになる光で飾ってください。そして、死の折に私が、キリスト者の旅立ちの壮麗さをはっきり示せるようにしてください」。おゝ、人よ。神は、日の出から日の入りまで、たとえによってあなたに語っておられるのである。

 さて今、あなたは蝋燭を点けて腰を下ろす。あなたの子どもたちがあなたの回りにいる。すると主はあなたに、あなたが聞こうとするなら、小さな説教者を遣わし、1つの説教を伝えさせてくださる。一匹の小さな羽虫である。それは、あなたの蝋燭の回りをぐるぐる飛び回り、その光に狂喜し、とうとうその光に目が眩み、酔いしれては、その羽を焦がし、自らの身を焼く。あなたは、それを追い払おうとするが、それは炎の中に突進し、火傷を負ったあげく、ほとんど空中を羽ばたけなくなってしまう。しかし、再び力を奮い起こすや否や、狂気のように自らの死と滅びに向かって突進する。主はあなたに仰せにならなかっただろうか? 「罪人よ。お前も、こうしたことを行なっているのだ。お前は罪の光を愛している。おゝ! お前が罪の火に震えるほど賢ければどんなに良いことか。というのも、罪の火花を喜ぶ者は、その炎で焼き尽くされなくてはならないからだ!」 その手は、あなたの《全能者》の御手に似ては見えなかっただろうか? このお方は、あなたをあなた自身の滅びから遠ざけようとし、その摂理によってあなたを叱責しては、こう云わんばかりに打ち叩いくださるのである。「あわれで愚かな人間よ。われとわが身を滅ぼしてはならない」。そして、あなたが、――ことによると、軽い悲しみとともに、――この愚かな昆虫の死を見ている間に、それは、あなたのすさまじい運命をあらかじめ警告したではないだろうか? この世の様々な喜びに伴うきらめきに目を眩まされ続けたあげく、とうとう永遠の業火に没入し、ほんの一時の娯楽でしかないもののために自分の魂を失うという、この上もなく気違いじみた運命を。神はそのようにあなたに説教しておられないだろうか?

 さて今は、寝室に入って休むべき時間である。あなたは扉に閂を掛け、それをしっかり閉める。そのことによって、この言葉が思い出されないだろうか? 「家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう」[ルカ13:25]。そのときになれば、いくら叩いても無駄である。不変の正義という柵が、人類に対するあわれみの門を堅く閉ざしてしまっている。《全能の主人》の御手は、ご自分の子どもたちをパラダイスの門の内側に囲い込み、盗人や強盗[ヨハ10:1]を凍てつく冷たい暗闇の中に置き去りにしてしまっている。その外の暗闇[マタ8:12]で、彼らは泣いて呻いて歯ぎしりするのである。神はたとえによってあなたに説教されなかっただろうか? あなたの指が閂に掛かっているその時でさえ、神の指があなたの心の上に置かれていたことはありえなかっただろうか?

 そして、夜の時間、あなたはギョッとさせられた。町通りの夜警が夜の時を知らせる大きな声に、あるいは、通りに響くその重い足音に、目覚めさせられたのである。おゝ、人よ。もしも聞く耳があるとしたら、その警官の規則的な足音にあなたはこの叫びが聞こえたかもしれない。「そら、花婿だ。迎えに出よ」[マタ25:6]。また、真夜中にあなたをまどろみから目覚めさせ、ギョッと寝床から飛び出させるあらゆる物音は、あらかじめあなたに警告しているものと思われよう。《人の子》の来臨を先触れする、あの御使いのかしらの恐ろしい喇叭を。その日、主は、私の福音によれば[ロマ2:16]、生きている人と死んだ人との双方をお審きになる[IIテモ4:1; Iペテ4:5参照]。おゝ、あなたがたが賢くなり、このことを理解するとしたらどんなに良いことか。というのも、朝露に濡れた早朝から、夜闇が迫り、真夜中の暗黒に至るまでの一日中ずっと、神は不断に人に説教しておられる――たとえによって説教しておられる――からである。

 II. さて今、私たちの思想の流れを転じて着目したいのは、《まるごと一年》を通して神は、たとえによって人に説教しておられるということである。ほんのしばらく前まで、私たちは庭に種を蒔き、広々とした畝に穀物を蒔き散らしていた。神が種蒔きの時を送ってくださるのは、私たちにこう思い起こさせるためであった。私たちも土地に似たものであり、神は日々、私たちの心に種を蒔き散らしておられるのだ、と。そして、神は私たちにこう仰せにならなかっただろうか? 「用心するがいい。おゝ、人よ。お前が、種を蒔き散らされた大路に似たものとならないように。そこでは、空の鳥がその種を食べてしまうのだ。用心するがいい。お前が、固く乾燥した岩を薄く覆った地面に似たものとならないように。そこでは、この種は、芽を出しても、日が上ると、土が十分に深くないためじきに枯れてしまうのだ。また、注意深くあるがいい。おゝ、人の子よ。お前が、種の芽を出させはしても、茨を伸ばして、ふさいでしまったような土地に似たものとならないように。むしろ、良い地に似たものとなるがいい。そこでは、この種が落ちると、あるものは二十倍、あるものは五十倍、あるものは百倍の実を結んだのだ」[マタ13:1-9参照]。

 私たちは、種を蒔いているときには、いつの日かそれが再び芽を出すだろうと期待した。そこには、私たちへの1つの教訓がなかっただろうか? 私たちの行動は、いずれもみな種のようではないだろうか? 私たちの小さな一言一言は、からし種に似てはいないだろうか? 私たちの日ごとの会話は、私たちが土壌に蒔き散らしている一掴みの麦に似ていないだろうか? そして、私たちは思い出すべきではないだろうか? 私たちの様々な言葉が生き返るものであり、私たちの種々の行為が私たち自身と同じくらい不滅であり、しばし塵の中に横たわって熟成した後で、確実によみがえるものだということを。どす黒い罪の行ないは、断罪という陰鬱な収穫を実らせる。また、神の恵みによって行なうことが私たちに許された正しい行ないは、あふれるほど豊かな収穫をもたらす。その日には、涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう[詩126:5]。種蒔きの時は、あなたにこう説教していないだろうか? おゝ、人よ。「用心するがいい。自分の畑には良い種を蒔くように」、と。

 また、その種が芽を出し、季節が変わったときには、神は説教するのをおやめになっただろうか? あゝ! 否。初めに苗、次に穂、次に穂の中の実[マコ4:28]、それぞれに、その訓戒がある。そして、とうとう刈り入れがやって来たとき、いかに声高にその説教が私たちに向かって宣べ伝えられたことか! それはこう云った。「おゝ、イスラエルよ。あなたのためには刈り入れが定まっている[ホセ6:11]。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのだ[ガラ6:7-8]」。もし次の三週間の間に田舎を旅する機会があるとしたら、あなたの心が正しく調律されている場合、驚くほど大量の知恵が麦畑によって表現されていることに気づくであろう。何と、私は、そこに隠されている、切妻屋根の倉という巨大な宝庫を開こうとすることは到底できなかった。愛する方々。あなたの刈り入れの喜びを考えてもみるがいい。それがいかに私たちに贖われた者の喜びについて告げていることであろう。私たちは、救われているとしたら、最後には、熟した麦束が倉に収められる[ヨブ5:26]ように連れて行かれるのである。熟しきった麦の穂を眺め、いかにそれが地面へと垂れているか見るがいい! 以前、それはその頭を真っ直ぐに上げていたが、熟していくにつれて、いかにそれが謙遜になることか! そして、いかに神は罪人に向かって語っておられることであろう。もしもあの大いなる刈り入れの時にふさわしい者となりたければ、自分の頭を垂れて、こう叫ばなくてはならないのだ。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]、と。そして、麦の間に雑草が生えているのを見るとき、私たちの《主人》が語られた、麦の間に生えた毒麦のたとえ話[マタ13:24-30]が脳裡によみがえらないだろうか? また、主人が刈る人たちにこう云うとき、かの大いなる分離の日のことを思い出さないだろうか? 「まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい」[マタ13:30]。おゝ、黄金色の麦畑よ。お前は実に良い説教を私に語ってくれる。というのも、教役者である私に、お前はこう云っているからだ。「見よ。畑はすでに熟して、刈り入れるばかりになっています[ヨハ4:35]。あなたは、自分自ら働きなさい。また、収穫の主が、収穫のためにより多くの働き手を送ってくださるように祈りなさい[マタ9:38]」、と。また、老年の人よ。それは、あなたにも実に良い説教を語っている。それはあなたに、死の鎌が鋭く、あなたがたちまち倒れなくてはならないことを告げている。だが、それはあなたを励まし、慰めもする。というのも、麦が安全に納められることを告げるからである。また、あなたが自分の《主人》の倉に持って行かれ、永遠に主の喜び、楽しみとなるとの希望を持つようにも命じている。ならば、耳を澄ますがいい。黄金色の刈り入れがサラサラという雄弁な声に。

 まもなくすれば、私の愛する方々。あなたは、鳥たちが大きな群れをなして屋根という屋根の上に止まるのを目にするであろう。そして、まるでこれが《古き英国》の見納めだというかのように、あるいは、自分たちの嘆願を繰り返し練習するかのように、ぐるぐるぐるぐる旋回した上で、飛び立って行くのが見えるであろう。自分たちのかしらを先頭にして、暗紫色の海を急いで渡り、生まれ育った森を冬の冷たい手が握りしめている間、もっと温暖な地方で暮らしに行くのである。そして、罪人たち。この鳥たちが飛び去りつつ間、神はあなたに向かって説教しているとは思われないだろうか? 神ご自身がそれをいかに云い表わされたか、思い出さないだろうか? 「空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない」[エレ8:7]。神はお告げになっていないだろうか? この世に暗い冬の時期が到来しようとしていることを。それが、昔から起こったことはなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない[ヨエ2:2]ような時期であり、罪のあらゆる喜びが摘み取られ、霜害を受ける時期であり、夏のような人生の状態が暗い冬のような失望に変わる時期であることを。そして、神はあなたにこう仰せになっていないだろうか? 「罪人よ。飛び去れ!――飛んで、飛んで、イエスの住まう美しき地へ行け! 滅びの町から逃れよ! 快楽の旋風から、また、苦難に翻弄される地から逃れよ! 急げよ、休み場に向かう鳥のように! 悔い改めと信仰という海を飛び渡り、あわれみの国にお前の巣を作れ。かの大いなる復讐の日がこの世の上を通り過ぎるときも、岩の裂け目の中で安全にしていられるように」、と。

 今でも良く覚えているが、神は、真冬のただ中で、あるたとえによって私に説教を語ってくださったことがある。地面は真っ黒で、緑や草花はほとんど全く見当たらなかった。野原を見渡しても、黒い色しかない。――目に入るのは、裸の垣根や、葉のない木々、そして黒々とした大地ばかりだった。突然、神が語り、雹の倉[ヨブ38:22]を解き放たれた。すると、白い雪片が降り積もり、黒い所は全く見えなくなり、一面がまばゆいばかりの真っ白な敷布となってしまった。その頃の私は《救い主》を求めていた。そして、それこそ、私が《救い主》を見いだしたときであった。そして、私は目の前に見てとった説教を良く覚えている。「さあ、来たれ。論じ合おう。……たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」[イザ1:18]。罪人よ! あなたの心はその黒い地面のようである。あなたの魂は、その黒い木や生け垣のようで、葉も花も咲いていない。神の恵みは白い雪のようである。――それはあなたの上に降りかかり、疑いを感じるあなたの心が赦罪の白さできらめき、あなたのあわれな黒い魂が神の御子のしみ1つないきよさで覆われるようになる。神はあなたにこう仰せになっているように思われる。「罪人よ。お前は黒いが、わたしは、いつでも喜んでお前を赦そう。お前の心を、わたしの御子の義という毛皮の外套で包み、わたしの御子の衣をまとわせよう。お前は《聖なる者》と同じくらい聖くなるのだ」。

 また、今日のは、木々の間を唸りを立てて吹き抜けるとき、――その多くがなぎ倒されてしまうと、――私たちに主の御霊のことを思い出させる。御霊は「その思いのままに吹き」[ヨハ3:8]、場所を選ばない。そして、それは私たちにこう告げる。その天来の神秘的な影響力を熱心に求めよ、と。それだけが天国に向かう私たちの航海を早めることができる。それは、私たちの高慢という木々を投げ倒し、自己信頼という見栄えの良いレバノン杉の林を根こぎにする。様々な虚偽という私たちの隠れ家を完全に揺さぶり、その嵐からの唯一の隠れ場なるお方を仰ぎ見させる。この方こそ、「横暴な者たちの息が壁に吹きつけるあらしのよう」*[イザ25:4]であるときの、唯一の避難所なのである。

 左様。そして、暑さがやって来て、ある木の陰に私たちが身を隠すとき、ひとりの御使いがそこに立っていて、こう囁く。「罪人よ。あなたが太陽神の焼きつけるような光箭を避け、木陰に身を隠すときには上を見上げるがいい。そのように、林の木の中の林檎の木[雅2:3]のようなひとりの《お方》がいて、あなたに命じておられるのである。来て、わたしの枝の陰に座るように、と。この方は、神の永遠の復讐からかくまい、神の怒りという灼熱が悪者たちの頭を打つとき、あなたを守ってくださるからである」。

 III. さて今、やはり、あなたが向かう《あらゆる場所》、あなたが目にするあらゆる動物、あなたが訪れるあらゆる地点には、あなたのための説教が含まれている。あなたの農家の庭に立ち入れば、あなたの牛や驢馬があなたに説教するはずである。「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」[イザ1:3]。あなたのすぐ後について来る犬さえ、あなたを叱責することがありえる。彼は自分の主人に従い、他の人にはついて行かないであろう。他の人の声を知らないからである。だが、あなたがたは自分の神を捨てて、曲がった道[詩125:5]にそれて行く。向こうの池のほとりにいる鶏を眺めて、あなたの感謝の薄さへの叱責を受けるがいい。それは水を飲むと、一口ごとにその頭を天に上げて、雨を与えて飲み水を供してくださる方に感謝している。だのに、あなたは飲み食いしていながら、食事する折には全く食前の祈りをささげず、自分の御父の恵み深さに対して何の感謝もしない。馬でさえ轡で抑えられ、驢馬には鞭がある[箴26:3参照]。だが、あなたの神は、あなたをご自分の命令で抑え、ご自分の摂理で懲らしめてこられた。だのに、あなたは驢馬や騾馬よりも強情ではないだろうか。なおもあなたは、神の戒めのうちを走ろうとせず、よこしまにも故意に道をそれ、自分自身のゆがんだ心に従おうとする。そうではないだろうか? こうした事がらは、あなたに当てはまらないだろうか? もしあなたが今なお神もなく、キリストから離れている[エペ2:12]としたら、こうした事がらによって良心を打たれるに違いないではないだろうか? それらの中の何か1つによって、あなたは《いと高き方》の前で身震いするよう導かれ、新しい心と揺るがない霊[詩51:10]を乞い求めさせられるではないだろうか? そして、もはや野の獣のようではなく、《天来の御霊》に満たされ、自分の《創造主》に従順に生きる人となることを求めさせられないだろうか?

 また、旅をする中で、あなたは、路がしばしば小石だらけでがたがたいうことに気づき、自分の踏まなくてはならない道について不平を云ってきたであろう。とはいえ、こう気づいたことはなかっただろうか? こうした小石が路をより良いものとする助けとなっており、路の最悪の部分がびっしりと堅い小石で補修されたなら、じきになだらかな、旅行に適したものになるだろう、と。では、あなたは、いかにしばしば神があなたを補修してこられたか考えただろうか? いかに多くの患難という石を、神はあなたの上に投げてこられたことか。いかに多くの警告という荷馬車の積荷をあなたは重ねられてきたことか。だのに、あなたは全く改善されることなく、ただ悪化するばかりであった。そして、神がやって来て、あなたの生き方がなだらかになったかどうか、あなたの道徳的ふるまいという大路がより義という王道に似たものとなっているかどうかをご覧になるとき、いかに神はこう仰せになるだろうことか。「悲しいかな! これまでこの路を修繕してきたが、少しも良くなっていない。もうこれは、泥沼やぬかるみになるにまかせよう。これをこのように荒れたままにしている人間も、自らその中で滅びさせよう」。

 また、あなたは海岸に行ったことがあるが、海はあなたに話をしなかっただろうか? あなたは、海のように変わりやすいが、その半分も従順ではない。神は海を――山のように波立つ海を――砂の帯で抑えておられる。海辺に砂をお広げになると、海でさえその陸標を順守する。「あなたがたは、わたしを恐れないのか。――主の御告げ。――それとも、わたしの前でおののかないのか。わたしは砂を、海の境とした。越えられない永遠の境界として。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない」[エレ5:22]。その通りである。自分の良心に痛みを感じるがいい。海は、その果てから果てまで神に従っているのに、あなたは神をあなたの神としようとせず、こう云うのである。「主とはいったい何者か[出5:2]。私が恐れなければならないというのは。エホバとはいったい何者か。私がその道を認めなければならないというのは」。

 山々丘々に聞くがいい。というのも、それらは一個の教訓を示しているからである。そうしたお方が神であられる。神は、とこしえにながらえる。神がお変わりになると考えてはならない。

 さて今、罪人よ。私はあなたに切に願う。きょう帰宅する際には、よく目を見開いていてほしい。たとい私がここまで語ってきたことが何1つあなたを打たなかったとしても、ことによると、神はあなたがその途中で何か1つの聖句となるものに出くわすようにしてくださるかもしれない。そこからあなたは、自分自身に向かって、決して忘れられないような説教を語ることになるかもしれない。おゝ! もしも時間と、思想と、言葉さえあれば私は、上の天にあるもの、下の地にあるもの、地の下の水の中にあるもの[出20:4]を持ち出し、それをあなたの目の前に並べたい。そうすれば、それは1つ残らず、それを見つめるあなたの前で警告を発するであろう。また、私はその声がこう云うことを知っている。「あなたの《創造主》なる主のことを考え、主を恐れ、主に仕えよ。というのも、主があなたをお造りになったのであり、あなたが自分を造ったのではないからだ。私たちは主に仕える。そして、従順であることは私たちの美しさであり、みこころに従って常に動くことは私たちの栄光であることを見いだしている。あなたも、それと同じであることに気づくはずである」、と。そうできる間に主に従うがいい。さもないと、この世の生が終わるときに、もしや、こうした事物があなたに向かって一斉に立ち上がり、町通りの石が断罪を求めて叫び立て、壁から突き出た梁があなたを責める証言を行ない、野の獣たちがあなたの告発者となり、谷や丘があなたを呪い始めるといけないからである。おゝ、人よ。大地はあなたへの警告とされている。神はあなたが救われることを望んでおられる。自然界と摂理との至る所に道しるべを立てては、《のがれの町》[民35:6]への道を指し示しておられる。そして、あなたは、賢くありさえすれば、道に迷うことはありえない。故意に無知であり続け、事をいい加減にしているからこそ、あなたは過誤の道をひた走り続けているのである。というのも、神はすでにあなたの前に真っ直ぐな道を作っては、そこを走るべきあらゆる励ましを与えておられるからである。

 IV. さて今、あなたを飽き飽きさせるといけないので、ほんの一言だけ述べることにしよう。あらゆる人は、その《職業》の中に、自分に語りかける説教を有している、と。

 農夫には、一千もの説教がある。それらは、すでに明らかにしたことである。彼が自分の目を見開きさえすれば、もっと多くを見てとるはずである。彼は、一吋たりとも余所へ出かけなくとも、御使いたちの歌を聞くことができるし、義へといざなう霊たちの声が聞こえるであろう。というのも、彼の回りにある自然界のすべてには、人が聞く耳を持ちさえすれば、それぞれに舌が与えられているからである。

 しかしながら、他の何らかの仕事に携わっている人々は、自然界のものをごく僅かしか目にすることができない。だがしかし、そこにおいてさえ、神は彼らに教訓を供しておられる。そこにいるパン屋は、私たちのパンを供してくれる。彼は、かまどに自分の燃料をくべ、それを熱で赤々と燃え輝かせては、その中にパンを入れる。たとい彼が不敬虔な人間だとしても、そのかまどの口の前に立っている際には身震いして当然であろう。というのも、そこに立っていると、良く理解できるだろう1つの聖句があるからである。「その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。……焼き尽く」される[マラ4:1]。人々が藁を集めては束にし、火に投げ込むと、それは燃えてしまう。かまどの口から出て来るのは、熱く燃え上がる警告であり、人の心は、それを省みさえするなら、蝋のように溶けて当然である。

 それから、肉屋を見るがいい。その獣は彼に向かって何と語るだろうか? 彼は、子羊が彼の小刀を舐めんばかりにしているのを見る。雄牛は、何とも思わずに屠殺人のもとにやって来る。何も考えていない(死についても自分の運命についても全く知らない)動物を殺すたびに、いかに彼は考えて良いことであろう。私たちは、――私たちの中の、キリストから離れている者たちはみな、――屠殺されるために肥え太りつつあるのではないだろうか? 私たちは雄牛よりも愚かではないだろうか? というのも、悪人は自分の処刑者について行き、自らを破滅させるものの後を地獄の奥の間まで歩いて行くからである。酔いどれがその酩酊を追い求めているとき、あるいは、不身持ちな男が放縦の道をひた走っているとき、彼は屠殺人のもとに行く雄牛のようではないだろうか? そして、ついには、矢で肝を射通されるのである[箴7:23]。神は、その小刀を研ぎ、その斧の用意をしておられないだろうか? そして、この世の肥えた者らは殺されることになり、神は空の鳥や野の獣に向かってこう仰せになるのである。「見よ。わたしはお前たちのために宴会を開いた。お前たちは、殺された者らの血に舌鼓を打ち、その流れで酔いしれるがいい」、と。左様。肉屋よ。あなたの商売には一個の講義がある。また、あなたの仕事はあなたを非難するであろう。

 また、あなたがた、一日中座って、私たちの足のための靴を作ることを生業としている人たち。あなたの膝の上にある膝石は、あなたを非難するであろう。あなたの心は、ことによると、それと同じくらい硬いかもしれないからである。あなたは、自分の膝石と同じくらいしばしば打ち叩かれてきたのに、だがしかし、決して心が砕かれることも溶かされることもなかったではないだろうか? そして、最後になってもあなたが石のような心を内に宿しているとき、主は、あなたに向かって何と仰せになるだろうか? 主はあなたを罪に定め、投げ捨てるはずである。なぜなら、あなたは主の叱責を全く受けようとせず、主の勧告の御声によって立ち返ろうとしなかったからである。

 造り酒屋は、醸造すれば飲まなくてはならないことを思い出すがいい。陶器師は、自分がろくろの上で損なわれた器のようではないかを思って震えるがいい。印刷業者は用心するがいい。自分の人生が天的な活字で組まれるようにし、罪という黒体活字で組まれないように。塗装屋は油断してはならない! というのも、上塗りだけでは十分でなく、私たちには飾らない現実がなくてはならないからである。

 あなたがたの中の他の人々は、絶えず秤や物差しを使うような仕事に携わっている。あなたは、しばしば自分をそうした秤に載せるのが良いではないだろうか? かの大いなる《審き主》の姿を思い浮かべてみるのが良いではないだろうか? その方が、ご自分の《福音》を一方の秤に載せ、もう一方の秤にあなたを載せてから、あなたを厳粛に見下ろし、こう仰せになるになる姿を。「メネ、メネ、テケル。――あなたははかりで量られて、目方の足りないことがわかった」[ダニ5:25-27参照]。――あなたがたの中のある人々は物差しを使っており、ものを測っては、顧客の求める分量だけ切り分ける。あなたの人生についても考えてみるがいい。それは、ある特定の長さと定まっており、毎年その物差しは少しずつ進んでいる。そして、とうとう鋏がやって来て、あなたの人生を切り落とすと、一巻の終わりになる。いつ最後の一吋になるか、あなたにどうして分かろう? あなたのかかえるいかなる病が、その鋏の最初の一裁ちだろうか? あなたの骨のいかなる震えが、あなたの視力のいかなる衰えが、あなたの記憶のいかなる薄れが、あなたの若い活力のいかなる抜け落ちが、最初の裂け目だろうか? いかにたちまち、あなたは真っ二つに引き裂かれ、あなたの日々の残りが過ぎ去り、あなたの年々がみな数えられて消え失せ、無駄にされ、永遠に浪費されることか!

 しかし、あなたは云うであろう。自分は召使いとして従事しており、種々雑多な勤めを行なっているのです、と。ならば、種々雑多な講義を神はあなたに説教しておられるのである。「しもべは自分の報いを待ち望み、日雇い人は一日の仕事を果たす」。そこには、あなたのためのたとえがある。あなたは地上における日々の仕事を果たし終えるとき、最後に自分の報いを受け取るはずである。それでは、誰があなたの主人だろうか? あなたはサタンと肉の欲とに仕えているだろうか? そして、最後には、滅びにおいて焼けた金属の賃金を受けるだろうか? それとも、あなたはインマヌエルという麗しい君主に仕えていて、天において黄金のクラウン貨幣で賃金を受けるだろうか? おゝ! 良い主人に仕えている人の幸いなことよ。というのも、人の報いは、その主人に応じて変わるからである。人は、その労働に応じた終わりに至る。

 あるいは、あなたは清書業に就いており、何時間も何時間も飽きるほど文字を書いている。あゝ! 人よ。あなたの人生が、文字を書くことであると知るがいい。あなたの手が洋筆の上に置かれていないときも、やはりあなたは文字を書いているのである。あなたは常に、永遠という頁の上に文字を書いている。自分のもろもろの罪を書いているか、自分を愛してくださったお方に対するあなたの聖い信頼を書いている。何と幸いなことよ。おゝ、文字を書く人よ。もしあなたの名前が《小羊》のいのちの書[黙13:8]に書き記されているとしたら、また、もし地上における巡礼物語の中にあなたが記した黒い文字はキリストの赤い血で拭い消され、あなたの上にはエホバの麗しい御名が書き記されていて、永遠に読みとることができるとしたら、どうであろう。

 あるいは、ことによると、あなたは医者薬剤師かもしれない。あなたは、人のからだのための薬剤を処方するか、調整する。神は、あなたの乳棒と乳鉢のかたわらに、また、あなたがその処方箋を書く卓子のそばに立って、あなたにこう仰せになる。「人よ。お前は病んでいる。わたしは、お前に薬を処方できる。キリストの血と義が信仰によってつかまれ、御霊によって適用されるならば、お前の魂は治るのだ。わたしは、お前のために1つの薬剤を調合することができる。それによってお前は、もろもろの罪を取り除かれ、ある場所に連れて行かれるであろう。そこに住む者は、誰も『私は病気だ』とは云わないのだ[イザ33:24]。お前は、わたしの薬剤を受け入れるか? それとも、拒むか? それは、お前にとって苦く、お前はそれから顔を背けるだろうか? さあ、飲むがいい。わが子よ。飲むがいい。お前のいのちはこれにかかっているのだから。それに、お前は、これほど素晴らしい救いをないがしろにした場合、どうして逃れることができようか?[ヘブ2:3]」 あなたは、鉄を鋳たり、鉛を溶かしたり、鉱業場の硬い金属を融解させたりしているだろうか? ならば、祈るがいい。主があなたの心を溶かし、あなたを福音の鋳型に鋳込んでくださるように、と。あなたは人々のために洋服を作っているだろうか? おゝ、注意して、あなた自身の永遠の衣を見いだすがいい。

 あなたは一日中、建物の中で忙しく働き、石を積み重ねたり、ひび割れに漆喰を詰めたりしているだろうか? ならば、あなたが永遠のためにも家を建てていることを思い出すがいい。おゝ、あなたが自分を良い基礎[Iテモ6:19]の上に建て上げるならどんなに良いことか! おゝ、あなたがそこに立てるものが、木、草、藁[Iコリ3:12]ではなく、金、銀、宝石であり、火にも持ちこたえるものだとしたらどんなに良いことか! 注意するがいい。人よ。あなたが神の用いる建前足場とならないように。神がご自分の教会を建てるために地上で用いる足場となり、神の教会が建てられたときには、投げ捨てられ、消えることのない火で焼き尽くされるということにならないように。用心するがいい。あなたが岩の上に建てられており、砂の上に建っているということがないように。また、《救い主》の尊い血という朱色の接合剤が、あなたをこの建物の基礎に、また、そのあらゆる石に結びつけるように。

 あなたは、宝石細工人で、日々あなたの宝石を切削し、金剛石を研磨しているだろうか? 願わくは、あなたが自分の技量の限りを尽くして完成させたその石の対照形から警告が発されるように。あなたはそれを切削し、それは、切削すればするほどきらびやかに輝く。だが、あなたは、たとい切り刻まれても、すりつぶされても、虎列剌や熱病にかかっても、そして、何日もの間、虫の息であっても、それだけ輝きを増すということは全くなく、かえって輝きを濁らせるばかりであった。というのも、悲しいかな! あなたは金剛石でも何でもなかったからである。あなたは小川の玉砂利でしかなく、神がご自分の宝石類を作る日には、その宝物の小箱の中にあなたを収めることはない。あなたが、純金にも比すべき、シオンの尊い子らのひとりではないからである。しかし、あなたの状況がいかなるものであろうと、あなたの職業がいかなるものであろうと、そこでは絶えざる説教があなたの良心に語られている。私は願う。あなたが今この時から、あなたの目と耳を開き、神があなたに教えようとしておられることを見聞きするように、と。

 さて今、時計がもうしばし時を刻む間、たとえについて話すのはやめ、事をこう云い表わさせてほしい。――罪人よ。あなたは、まだ神もなく、キリストから離れている[エペ2:12]。あなたは、いつ死んでもおかしくない。この時計がきょう《一時》を打つ前に、地獄の火焔の中にいるかも分からない。あなたは、今日、「すでにさばかれている」[ヨハ3:18]。神の御子を信じていないからである。そして、イエス・キリストはこの日あなたにこう云っておられる。「おゝ、あなたが自分の終わり[申32:29]をわきまえるならどんなに良いことか!」 主は、今朝あなたにこう叫んでおられる。「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」[マタ23:37]。私は切に願う。あなたがたの現状をよく考えよ[ハガ1:5]。地獄に床を設ける[詩139:8]ことに価値があるというなら、そうするがいい。もしもこの世の種々の快楽が、それを楽しむことで永遠に罪に定められても良いほど価値のあるものだというなら、また、もしも天国がいかさまで、地獄がまやかしだというなら、自分のもろもろの罪の中を進み続けるがいい。しかし、もしも罪人たちのためには地獄が、また、悔い改める者たちのためには天国があるとしたら、また、もしもあなたがそのどちらかの場所で永遠のすべてを過ごさなくてはならないとしたら、たとえなど用いず、私はあなたに向かって、1つ平明な問いを発したい。――あなたが、今のような生き方をしているのは賢いことだろうか? 考えもなく――無頓着に、不敬虔なままで。あなたは、いま救いの道を尋ねたがっているだろうか? それは単純にこうである。――「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。主は死なれた。よみがえられた。あなたは主があなたのものだと信じるべきである。主が、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになる[ヘブ7:25]と信じるべきである。しかし、それにもまして、それを事実と信じた上で、自分の魂をその事実にゆだね、のるかそるか主に信頼すべきである。神の御霊よ! 私たちひとりひとりを助けて、それを行なわせ給え。そして、たとえによって、摂理によって、あるいは、あなたの預言者たちによって、私たちひとりひとりをあなたご自身のもとに導き、永遠に救い給え。あなたに栄光があらんことを。

  
 

万人の説教[了]

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