HOME | TOP | 目次

薄信者のための講義

NO. 205

----

----

1858年7月18日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです」。――IIテサ1:3


 「兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです」。神を賛美すべきかどうかは、私たちの意見にまかされてはいない。「主を賛美しなくてはならない」、という戒めはないが、それでも賛美は神が最も受けてしかるべきものであり、あらゆる人――特にあらゆるキリスト者――は、神の恵み深さにあずかる者として、神を賛美しなくてはならない。それが当然である。確かに、日ごとの賛美を権威的に命じる典礼規範は、どこにもない。特定の時間を賛美歌と感謝のために用いよと規定するような戒めは、何も記されていない。だが、それでも、その律法は心に書かれており、天来の権威によって私たちにこう教えている。神を賛美するのは正しい、と。そして、この不文律に伴っている権限と権威は、それが石の板に記録されていたか、雷鳴轟くシナイの頂上から手渡されたかした場合と同じくらい重い。キリスト者の義務は、神を賛美することである。あなたがた、常に嘆いている人たちは、その点で自分に落ち度がないと考えてはならない。賛美も歌わずに、あなたの神に対する義務を果たせると想像してはならない。神を賛美するのは、あなたの義務である。あなたは、生きてある限り、神の愛の絆によって、御名を賛美しなくてはならない。それが当然であり、適切である。神への賛美を実行するのは、単に喜ばしいばかりでなく、キリスト者生活の絶対的な義務なのである。このことは、この聖句で私たちに教えられている。――「兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです」。ならば、あなたがた、嘆いている主の子どもたち。あなたの立琴を柳の木々[詩137:2]に掛けておいてはならない。あなたの義務は、それを鳴らし、その最大の音で音楽を引き出すことである。神への賛美をやめるのは罪深いことである。あなたが祝福されるのは、ほめたたえるためである。そして、神を賛美しない場合、天来の農夫である神が当然あなたに期待して良い果実を、あなたは結んでいないのである。では、あなたがた、神の子たち。出て行って、御名を賛美し、歌うがいい。毎朝、暁とともに、あなたの感謝の歌声を響かせ、毎晩、夕日を、あなたの歌で追いかけるがいい。大地をあなたの賛美で取り巻くがいい。それを旋律の大気で囲み、神ご自身が天から見下ろして、あなたの賛美を受け入れられるようにするがいい。程度においては等しくなくとも、その種類においては、智天使や熾天使の賛美と似たものを。

 しかしながら、使徒パウロがこの場合に実行している賛美は、彼自身についてのものではなく、他の人々についてのもの、テサロニケにある教会についてのものであったことが見受けられる。かりに、あなたがたの中の誰かが、無知のためにこう尋ねたとしよう。なぜパウロが、この聖徒たちの救いに、また、彼らの信仰における成長に、これほど深い関心を寄せなくてはならないのか、と。私はこう思い起こさせたいと思う。その秘密は、子どもたちを産んで養ったことがあり、それゆえ、彼らを愛している人々にしか分からないのだ、と。使徒パウロは、かつてテサロニケ人に教会を創設したことがあった。この信徒たちのほとんどは、彼が口にした――そして御霊の力が伴っていた――言葉によって産まれた彼の霊的子孫であった。そのようにして彼らは、闇の中から驚くべき光の中[Iペテ2:9]に引き出されていた。そして、霊的な子どもたちを持つ人々、多くの子たちを神へと導いてきた人々は、あなたに告げることができるであろう。霊の父に感じとれる関心は、いたいけな自分の赤子に対して母親がいだく優しい愛情をさえしのぐものである、と。「左様」、と使徒は云う。「私は乳母のようにあなたがたに優しくしてきた」。また、別の箇所で彼は、自分が彼らの魂のために「産みの苦しみ」[ガラ4:19]をしていると云う。このような秘密は、雇い人の[ヨハ10:12]教役者には知られていない。ただ神ご自身から叙任され、働きに押し出された者、ただ祭壇の上から取られた燃えさかる炭[イザ6:6]で舌に触れられた者しか、次のようなことをあなたに告げることはできない。人々が回心する前に、彼らの魂のために苦悶するとはいかなることかを。また、神の選民の救いのうちに自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て[イザ53:11]、言葉に尽くすことのできない栄えに満ちた喜びに躍る[Iペテ1:8]とはいかなることかを。

 さて今、愛する方々。このようにこの聖句から自然と生ずるように思われる2つの思想を示した上で、ただちに今朝の講話の目当てに赴くことにしたい。使徒が神に感謝しているのは、テサロニケ人たちの信仰が目に見えて成長していたからである。この聖句の残りは全く割愛し、私は今朝あなたの注意を信仰の成長という主題に向けたいと思う。信仰には、異なる程度があるのである。

 第一のこととして、私が努めて注意したいのは、小さな信仰に伴う種々の不都合である。第二に、その成長を押し進める種々の手段である。そして、第三に、勤勉に水をやり、培うなら、信仰がいかに高い境地に達するに違いないかである。

 I. 第一のこととして、《小さな信仰に伴う種々の不都合》である。魂の中で信仰が最初に始まるとき、それは、《救い主》がどんな種よりも小さいと云われたからし種[マタ13:31-32]のようなものだが、聖霊なる神が、ご自分の恵みという神聖な水分で濡らしてくださると、それは芽を出し、成長し、枝を張り始め、ついには大木となる。別の比喩を用いれば、魂の中で信仰が始まるとき、それはイエスを仰ぎ見ることしかしない。ことによると、そのときでさえ、疑いの雲があまりにも多く、目がかすみすぎているため、御霊の光に照らし出されない限り十字架を見ることさえできないかもしれない。だが、信仰が少しは成長すると、それはキリストを仰ぎ見るところから身を起こし、キリストのみもとにやって来る。遠く離れて立っていた者が、次第に勇気を奮い起こし、思い切って十字架のもとに走り寄るのである。あるいは、ことによると、走ることはしないかもしれない。引っ張られなくては、にじり寄ることもできず、その時でさえ、びっこを引き引きでなくては《救い主》キリストに近寄れないかもしれない。しかし、それがなされると、信仰はもう少し先まで行く。それはキリストをつかむ。キリストがこの上もなく素晴らしいお方であることを見てとり始め、ある程度までキリストの真価を認め、主が本物のキリストであること、本物の《救い主》であることをとらえ、主がそれにふさわしいお方であることが分かる。そして、そこまで行なうと、それはさらに進む。キリストによりかかる。自らの《愛する方》によりかかり、自らの思い煩いと、悲しみと、悲嘆との重荷をすべて、そのほむべき御肩に投げかけ、自らのもろもろの罪を、ことごとく《救い主》の血という赤い大海に呑み込ませてしまう。そして、それから信仰はなおも先へ行く。というのも、主を見てとり、みもとに走り、主をつかみ、主によりかかった後で、信仰は次に、キリストのあり方すべて、また、キリストが成し遂げてくださったことすべてを、へりくだりつつ、だが、間違いないものとして、断固請求するからである。それから、このことだけに信頼し、このことすべてを自らのものとして、信仰は完全な確信に達する。そうなると、これほどきわめて喜ばしく、ほむべき状態は、天国の外側には全くない。しかし、先に述べたように、最初、信仰は非常に小さいものでしかなく、一部のキリスト者たちはこの地上にいる間、その小さな信仰から決して脱することがない。あなたもジョン・バニヤンの『天路歴程』の中で注目するであろう。彼がいかに多くの薄信者たちに言及しているかを。そこには、私たちの古馴染みの足なえ者がいる。彼は、天の都への道中をずっとしゅもく杖にすがって歩いて行き、ヨルダン川に入ったときそれを手放した。それから、そこには小さな気弱者がいる。彼も、その川の岸辺まで自分の気弱さをずっとかかえて行き、それからそれに向かってこう命じた。堆肥の中に埋まり、二度と誰もそれを受け継がないようにと。それから、そこには恐怖者もいる。彼は、藁しべ一本にもつまずくのが常で、雨粒一滴でも見れば常に、天の大水が自分の上にぶちまけられると思って脅えるのだった。また、落胆氏と心配子のことも覚えているであろう。二人は、あまりにも長く巨人絶望者の地下牢に閉じ込められていたために、ほとんど飢え死にしそうになり、骨と皮ばかりであった。そして、巨人殺善者の洞穴に連れ込まれていたあわれな気弱者は、まさに食われそうになっていたところを、やって来た大勇氏から救い出されたのだった。ジョン・バニヤンは非常に賢明な人物であった。彼がこうした非常に多くの登場人物たちを自分の著書の中で書き表わしたのは、こうした人々が非常に多くいるからである。彼は、足なえ者をひとり描くだけでなく、生彩に富む七、八人の登場人物を示している。なぜなら、彼自身、かつてはそうした者たちのひとりだったからであり、同じ通り道を歩く他の多くの人々を知っていたからである。疑いもなく、今朝のこの場には、こうした種別の人々が大勢いるに違いない。さて、そうした小さな信仰に伴う種々の不都合について特に言及させてほしい。

 小さな信仰の最初の不都合は、それが、常に確実に天国には入れるものの、そう考えることがめったにしかないということである。薄信者は、篤信者と同じくらい確実きわまりなく天国に入ることができる。イエス・キリストは、最後の日にご自分の宝石を数えるとき、大粒の真珠と同じように小さな真珠をもご自分のものとされるであろう。たといある金剛石がこれ以上ないほど小さいものだとしても、それは金剛石である以上貴重である。信仰もそれと同じである。いかに小さなものだとしても、それが真の信仰であるなら、キリストは決してご自分の王冠から最も小さい宝石すらお失いにならないであろう。薄信者は常に確実に天国に入ることができる。なぜなら、薄信者の名前は永遠のいのちの書に記されているからである。薄信者は、世界の基の置かれる前から[エペ1:4]神に選ばれていた。キリストの血で買い取られていた。左様。そして彼の価は、篤信者のそれと同じであった。贖いについては、「ひとり当たり一シェケル」であった。大きな者も小さな者も、王侯も農民も、誰もが一シェケルで自分を贖わなくてはならなかった。キリストはあらゆる者を――大きな者も小さな者も――同じこの上もなく尊い血で買い取っておられる。薄信者は常に確実に天国に入ることができる。というのも、神はすでに彼のうちに良い働き[ピリ1:6]を始めており、それを行ない続けてくださるからである。神は彼を愛しており、最後に至るまで愛してくださる。神は彼のために一個の王冠を用意しており、その王冠が載せる頭もなしに吊り下がったままになることをお許しにならないであろう。神は彼のために天に住まいを建てており、その住まいが永遠に空き家のままとなることをお許しにならないであろう。薄信者は常に安全である。だが、彼がそれを知ることはめったにない。彼に会うと、時には地獄を恐れていることがある。神の怒りが自分の上にとどまっているのではないかと、しきりに心配している。彼はあなたに告げるであろう。あの大水の彼方にある国が、自分のような虫けらのものであるはずありません、と。時として彼は、自分をあまりにも無価値な者と感じ、別のときには、神のみこころのことが真実であるとしたら話がうますぎるように感じると云う。あるいは、自分のような人間にとって真実でありえるとは考えられないと云う。時には、自分など選ばれていないのだと心配する。別のときには、自分は正しいしかたで召されていないのだ、正しいしかたでキリストのみもとに行っていないのだ、と恐れる。別の折に彼が恐れるのは、自分が最後まで持ちこたえないのではないか、耐え忍ぶことができないのではないかということであり、たといそうした恐れを一千殺したとしても、翌日になれば確実に別の恐れを山ほどかかえているはずである。というのも、不信仰は、人が滅ぼせないものの1つだからである。「それは」、とバニヤンは云う。「俗に命を九つ持つと言われる猫のよう」である。それを何度殺しても、まだ生きているのである。それは手に負えない雑草の1つで、焼き払っても地中で眠り続け、ちょっと元気づけるだけで再び生えてくる。さて、篤信者は確実に天国に入ることができ、彼もそれを知っている。彼はピスガの頂に登り、その景色を見渡す。かの真珠の門の中に入る前からさえ、パラダイスの神秘を吸い込んでいる。彼は黄金で敷かれたその通りを見てとる。宝石を土台石とした、その都の城壁[黙21:19]を目にする。栄化された者たちの荘厳な音楽を耳にし、地上で天国の芳香を嗅ぐことを始める。しかし、あわれな薄信者は、太陽を眺めることもほとんどできない。めったに光を見ることがない。谷間を手探りし、すべてが安全な間も、常に自分は安全ではないと考える。これが、薄信者に伴う不自由な点の1つである。

 もう1つの不自由な点は、薄信者が、常に十分な恵みを有していながら、(というのも、それが薄信者への約束だからである。「わたしの恵みは、あなたに十分である」[IIコリ12:9]。)だが、決して自分には十分な恵みがあると思わないことである。彼は、天国に行くのに全く十分なだけの恵みを得るであろう。そして大勇氏もそれ以上は持っていないであろう。いかに偉大な聖徒も、天国に入るときには、自分のずだ袋が空っぽになっていることに気づく。そこに着いたときには、最後のパンの皮も食べ尽くしてしまっている。マナは、イスラエル人がカナンに入ったときには降らなくなった[ヨシ5:12]。彼らは、そこでは持ちかかえるべきものが何もなかった。荒野のマナがやんだ後では、地の穀物を食べ始めた。しかし、薄信者は、常に自分に十分な恵みがないのではないかと恐れている。彼が悩んでいる姿が見える。「おゝ!」、と彼は云う。「私は決して頭を水の上に出しておくことができないでしょう」。神をほむべきことに、彼が沈むことは決してありえない。富み栄えているように見受けられるとき、彼は自分が高慢に酔いしれるのではないかと恐れる。バラムのように道をそらされるのではないかというのである。敵の攻撃を受けている彼に出会うと、彼は自分のためにほとんど三語も口にすることができない。敵のなすがままにされている。主イエス・キリストのために闘っている彼の姿を見ると、彼は自分の剣を十分に堅くつかんでいる。上出来である。だが、その剣を力強く振り下ろすだけの腕力がない。彼にはほとんど何もできない。神の恵みが自分には十分ないのではないかと恐れているからである。それとは逆に、篤信者は世界を揺るがすことができる。悩みや、試練や、義務について、彼が何を気に病むだろうか?

   「かれを助けし 主かれを耐えさせ
    勝ち得てあまる 者としたもう」。

彼は、神に命じられるとしたら、ただひとりで一軍隊にも相対するであろう。そして、「ろばのあご骨で、山と積み上げ……ろばのあご骨で、千人を打ち殺」[士15:16]すであろう。彼が力に欠ける恐れなど決してない。彼は、あらゆることを行なうことができる。あるいは、あらゆる苦しみに耐えることができる。彼の主がそこにおられるからである。何が起ころうと、彼の腕は常に彼にとって十分である。彼は自分の敵を踏みにじり、彼の叫びは日々あのデボラの嘆声のようである。「私のたましいよ。力強く進め」[士5:21]。薄信者も力強く進んではいるが、それを知らない。自分の敵たちを殺してはいるのだが、殺された者を見てとるだけの視力がない。しばしば自分の敵兵を激しく打って退却させているのに、彼らがまだそこにいると考えている。彼は一千もの幽霊の姿を思い浮かべる。自分の真の敵どもを敗走させてからも、他の敵どもをこしらえては、自分でこしらえた幽霊どもに震える。薄信者は、確かに気づくに違いない。自分の衣が古びず、自分の靴が鉄と青銅であり、自分の力が、生きる限り続くことに[申33:25 <英欽定訳>]。だが、その間ずっと彼はつぶやいているであろう。自分の衣が古くなると思い、自分の足に水膨れができて痛くなると思うからである。また、時代が自分にとって重すぎるのではないかと恐れ、この時代の悪に自分の恵みが釣り合わないのではないかと恐れる。左様。小さな信仰しかないのは不都合なことである。小さな信仰はあらゆるものを悲しみと悲嘆にねじ曲げるからである。

 やはりまた薄信者には、1つの悲しい不都合がある。それは、激しく罪に誘惑されるとき、転落しやすいということである。強信者は、勇敢に敵と争うことができる。サタンが現われて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」[マタ4:9]、と云ったとする。「否」、と私たちは云う。「お前がこれを全部私たちに与えることはできない。これはすでに私たちのものだからだ」。「ええ」、と彼は云う。「だが、あなたがたは貧しく、裸で、みじめではありませんか」。「左様」、と私たちは彼に云う。「だが、それでも、こうした物事は私たちのものなのだ。そして、私たちにとって貧しいことは良いことなのだ。地上的な財産を持たないのは良いことなのだ。さもなければ、私たちの御父はそれを私たちに与えてくださるだろう」。「おゝ」、とサタンは云う。「あなたがたは自分を欺いているのです。あなたがたは、こうしたことに何の分け前も持っていません。ですが、もし私に仕えるなら、私があなたがたを地上で金持ちにし、幸せにしてあげましょう」。強信者は云う。「お前に仕えるだと、この悪鬼め! 消え失せろ! お前が私に銀を差し出すと?――見るがいい。神は私に金を与えてくださるのだ。お前は私にこう云うのか? 『もしも背くなら、これを差し上げましょう』、と。――この大馬鹿者め。私が従順ゆえに受ける報いは、不従順ゆえにお前が差し出せるものの千倍も上なのだ」。しかし、サタンが薄信者に出会うと、彼はこう語りかける。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい」[マタ4:6]。すると、あわれな薄信者は、自分が神の子ではないと恐れるあまり、そうした仮定に基づいてあっさり身を投げる。「さあ」、とサタンは云う。「もし不従順になるなら、これを全部あなたに差し上げましょう」。薄信者は云う。「私は自分が神の子どもかどうか、あまり確信が持てない。聖とされた人々の間に分け前を持っているのかどうかが分からない」。それで彼は、自分の信仰の小ささを理由に、ごく頻繁に転落しがちである。だが、それと同時に私はこう述べなくてはならない。これまで私が見たことのある何人かの薄信者たちは、他の者たちにはるかにまさって罪に陥ることが少なかった、と。彼らは、あまりにも用心深すぎて、ほとんど一歩も前へ踏み出せなかった。その足を曲がった所に下ろすのを恐れたからである。彼らは、ほとんど自分の唇を開くことさえあえてしなかったが、彼らは祈った。「おゝ、主よ。あなたが私の唇をお開きください」。自分が語ると、間違った言葉を発さないかと恐れた。無意識のうちに罪に陥らないかと、常に不安を感じていた。非常に繊細な良心をしていたからである。よろしい。私はそうした種類の人々を好ましく思う。時々私は、薄信者こそ他の誰よりもキリストによって堅くつかまれている人々だと思うことがある。まさに溺れる寸前の人は、溺れかけている人にしかできない死に物狂いの力で流木を堅く握るに違いない。望みが薄くなればなるほど、その把握はきつく、締めつけるようなものとなるはずである。さて、愛する方々。薄信者は転落することから守られるであろう。だが、それは、小さな信仰ではなく、繊細な良心ゆえの成果である。慎重な歩みは、小さな信仰から出たものではない。それは、小さな信仰とともに行き、そのようにして薄信者が滅びないように守るかもしれない。だが、小さな信仰それ自体は危険なものであり、私たちを無数の誘惑の前にさらし、それらに抵抗する私たちの力をあらかた取り去ってしまう。「主を喜ぶことは、あなたがたの力である」[ネヘ8:10 <新改訳聖書欄外訳>]。ならば、その喜びがやむとしたら、あなたは弱くなり、非常に脇道にそらされやすくなる。愛する方々。あなたがた、薄信者である人たち。私はあなたに告げるが、いつまでもそうした者のままであり続けるのは、あなたにとって不都合なことである。というのも、あなたには多くの夜があり、昼間がほとんどないからである。あなたの年々は、ノルウェーの年々のようである。――非常に長い冬と非常に短い夏しかない。泣きわめくことは何度となくあっても、喜び叫ぶことはごく少ない。悲嘆の笛はしばしば吹くが、歓喜の喇叭はめったに鳴らさない。願わくは、あなたが自分の調べを少し変えることができるように。なぜ王の子らが嘆きの生涯を過ごすべきだろうか? あなたが常に悲しんでいるのは主のみこころではない。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」[ピリ4:1]。おゝ、あなたがた、これまで断食してきた人たち。自分の頭に油を塗り、顔を洗うがいい。それは、断食していることが、人には見られないためである[マタ6:17-18]。おゝ、あなたがた、心に悲しみのある人たち。「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために」[詩97:11]。それゆえ、喜ぶがいい。あなたがたは主を賛美するはずだからである。自分に向かって云うがいい。「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」[詩42:11]、と。

 II. このように、小さな信仰に伴う種々の不都合や不自由な点について言及した上で示したいのは、《この信仰を強める方法に関する、いくつかの規則》である。自分の小さな信仰を大きな信仰としたければ、それを良く養う必要がある。信仰は、栄養を求める恵みである。それはあなたに、見えるものを与えるよう求めはしないが、目に見えない、いつまでも続くもの[IIコリ4:18]の約束を与えてくれるよう求める。あなたは、私には小さな信仰しかないのです、と私に告げる。では、問いたい。果たしてあなたは、神のことばの瞑想に打ち込んでいるだろうか。果たして毎日、どこに行くときも、そうした神聖な事がらの1つを思いにとどめている習慣があるだろうか? あなたはそれに、「いいえ」、と答えるだろうか? ならば、あなたが不信仰なのも不思議はないと云いたい。種々の約束と不断にやり取りをしている人は、恵みの下にあれば、それらを信ずる大きな余地があることに急速に気づくものである。愛する方々。毎日1つ約束を取り上げ、どこへ行くにもそれを携えるがいい。それに目を注ぎ、それを学び、魂でそれを消化するがいい。一部の人々のようなことをしてはならない。――彼らは毎日聖書を一章読むのがキリスト者の義務だと考え、長々と聖書を読みながらも、全く理解しないのである。むしろ、いくつかのえり抜きの聖句を抜き出し、日中、主に祈るがいい。それが、あなたの思いの前で解きほぐされるようにと。

 ルターが云っているようにするがいい。「ある約束をつかむとき」、と彼は云う。「私は、それを一本の果物の木を見るように眺める。私は思う。――私の頭の上には果物が生っている。そして、それを手に入れたければ、この木を揺さぶらなくてはならないのだ、と」。そのように私は、ある約束を取り上げては、それについて瞑想する。それをゆさゆさ揺する。すると、あるときには、熟した果実が私の手に転がり込み、別のときには、その実はなかなか落ちてこないが、私は手に入れるまで決してやめない。一日中、揺すって、揺すり続ける。その聖句を何度も何度も引っくり返し、とうとうその柘榴がぽとりと落ち、私の魂は林檎で元気づけられる。それは愛に病んでいる[雅2:5]からである。そうするがいい。キリスト者よ。種々の約束と大いにやり取りするがいい。この商人のこうした粉を大量に交易するがいい。神のあらゆる約束には強い芳香がある。手に取るがいい。それは石膏のつぼ[マタ26:7]である。瞑想によってそれを割るがいい。そうすれば、信仰という甘やかな香りが、あなたの家全体に満ちるはずである。

 また、その約束を試すがいい。そのようにすれば、あなたの信仰が強められるであろう。苦悩の中に置かれているときには常に1つの約束を取り上げて、それが真実かどうか見てみるがいい。かりに、あなたが、まもなくパンにも事欠くようになる寸前だとしよう。この約束を取り上げるがいい。「あなたのパンは与えられ、あなたの水は確保される」*[イザ33:16]。朝起き出して、食料棚の中に何もないときには云うがいい。「神がこの約束をお守りになるかどうか見ることにしよう」。そして、もし神がそうしてくださるとしたら、それを忘れてはならない。あなたの帳面にそれを書き留めるがいい。あなたの聖書の、隣の余白に印をつけるがいい。ある約束の隣に「タホ」という字を記していた、あの老婦人のようにするがいい。彼女は、自分の教役者に、その字は「試してみて本当だった」という意味だと告げたのである。それで、再び苦悩に陥るときも、彼女は信じずにはいられないのだと云った。あなたはサタンに心を悩まされたことがあるだろうか? このように云う約束がある。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」[ヤコ4:7]。それを受け取り、試すがいい。そして、本当だと分かったなら、その隣の余白に印をつけ、こう云うがいい。「これが本当だと私には分かっている。本当であると試してみたのだから」。この世の中の何にもまして信仰を確固たるものにするのは、証明である。「私が欲するのは事実です」、とある人が云った。そして、キリスト者もそれと同じである。キリスト者に必要なのは、自分を信じさせてくれるような事実である。年を取れば取るほど、あなたの信仰は強くなるべきである。というのも、それだけあなたの信仰を脇支えし、いやでも神を信じさせる事実が増し加わるからである。七十歳になった人のことを考えてみるだけで良い。もし神の摂理的ないつくしみ深さを、また、神の恵みのすべてを記録に取っていたとしたら、いかにうずたかい証拠の山が積み上がることであろう。天から陽光を受けながら髪の毛を白くしていった人が、立ち上がって次のように云うのを聞いても何の不思議もない。「この五十年間、私は神に仕えてきました。そして、神は決して私をお見捨てになりませんでした。私は神の信実さについて喜んで証言できます。主が約束されたすべての良いことは、1つも違わず、みな実現しました[ヨシ21:45; 23:14参照]」、と。さて、私たち、若年の初心者たちは、いま自分の信仰が、来たるべき年々にそうなるほど強くなることは期待できない。神の愛が示されるたびに、私たちはより神を信ずべきであり、ある約束が実現するたびに、また、その成就を間近で見ることができるたびに、否応なしに、こう口にせざるをえなくなるべきである。神はこれほど多くのこうした約束を守ってきたし、最後まで守ってくださるであろう、と。しかし、最悪のことは、私たちがそのすべてを忘れてしまい、そのため自分の頭に白いものが混じり出したときも、始めたときと同じ程度の信仰しか有していないということである。そうなるのは、私たちが神の度重なるお答えを忘れてしまい、かつ、神が約束を果たされたにもかかわらず、私たちがそれを忘却の下に埋もれるにまかせてしまうからである。

 あなたの信仰を強めるために勧めたいもう1つの計画は、いま述べたばかりのものほどすぐれてはいないが、敬虔で、大きな試みを受けてきた人々と親しく交際することである。年季を積んだ年配のキリスト者たちと語り合うことによって、若い信仰者たちがいかに信仰を清新なものとされるかには驚くべきものがある。ことによると、あなたは大きな疑いと苦悩の中にあるかもしれない。そこで、あなたは、ある年配の信仰者のもとに駆けつけて、こう云う。「おゝ、どうか話を聞いてください。私は自分が神の子どもなどでは全くないのではないかと不安なのです。いま途方もない苦悩の中にあるのです。心には冒涜的な考えがいくつも投げ込まれてきます。もし私が神の子どもだとしたら、このようには決して感じるはずがないでしょう」。その老人はにっこりして云う。「あゝ! あなたは、天国への路を歩き始めて間もないのですよ。さもなければ、もっと分別があるでしょうからね。何と、私もそうした思いをごく頻繁にいだくのですよ。いくら年を取っていても、また、自分では完全な確信を長いこと有してきたと希望としてはいるものの、こうした折々があるのです。種一粒ほどの信仰で天国を自分のものにできるとしても、天国が自分のものだとは思えないような折々がね。なぜって、そうしたときには自分の中に種一粒ほどの信仰も見いだせないからですよ。本当はあるのにね」。そして、彼はあなたに自分が経てきた数々の危険について告げるであろう。また、いかに主権的な愛が自分を守ってきたか、いかに数々の誘惑が自分を罠にかけようと脅かし、いかに知恵が自分の足を導いてくれたかを告げるであろう。そして、自分の弱さと神の全能性についてあなたに語るであろう。自分の空しさと、神の満ち満ちた豊かさを語るであろう。自分の変わりやすさと、神の不変性について語るであろう。そして、もしこうした人と語り合った後でも信じることをしないとしたら、あなたは実に罪深い人間に違いない。というのも、「ふたり……の証人の口によって、すべての事実が確認される」[マタ18:16]からである。だが、このように神について証言できる人が大勢いるときに神を疑うとしたら、それは汚らわしい罪であろう。

 信仰を増すためのもう1つの道は、できる限り自我から自由になるよう努めることである。私はこれまで、あらゆる人々に対して完璧に無関心になるように全力を尽くして努力してきた。時として私はこう気づくことがあった。私が人前であまりにも称賛され、また、少々自制心を失い、そのことを気に留めて、嬉しがると、その次の機会には、酷評され、悪口雑言を云われることになるのである。そうした酷評や悪口は非常に痛烈に感じられた。というのも、先に称賛を受け取っていたという事実によって、そうした酷評をつかみやすくなっていたからである。それで私は常に、また、特に最近は、人間の酷評に劣らずその称賛をも気に留めないように努め、むしろ、ひたすら次のように心がけてきた。――私は、自分が正しい動機によって事を行なおうとしていることをわきまえ、ただ神の栄光だけを目当てに神に仕えていることを意識すべきであり、それゆえ、人間からは称賛も酷評も受け取ることなく、正しく事を行なうという唯一の岩の上に独立して立つべきなのだ、と。さて、同じことはあなたにも当てはまるでちあろう。ことによると、あなたはある日、自分が美徳と恵みに満ちていることに気づくかもしれない。すると悪魔はあなたにへつらうであろう。「あゝ! あなたは輝かしいキリスト者ですね。あなたは、もはや教会に加入してかまいませんよ。そうすれば教会に大層な栄誉をもたらすでしょう。あなたがどんなに生き生きと成長しているかご覧なさい」。そして、自分でも意識しないうちにあなたは、その海精の音楽の響きを信じ、半ば自分が本当に恵み豊かな者に成長しつつあると信じてしまう。よろしい。次の日、あなたは自分が敬虔に関する事がらにおいて低調をきわめてていることに気づく。ことによると、何らかの罪に陥るかもしれない。そこで今や悪魔は云う。「あゝ! もうお前は神の子どもなどでは全くない。お前の罪を見るがいい」。愛する方々。あなたが信仰を保つことのできる唯一の道は、自我の称賛をも、自我の酷評をも越えて生きることである。単純に、私たちの主イエス・キリストの血と功績に立って生きることである。かりにある人が、いかに多くの美徳を身につけても、こう云えるとしよう。「これらは金滓で糞土でしかない。私の望みは、ただイエス・キリストの完成した犠牲以下の何物にも据えられていない」。――そのような人は、罪がはびこるときも、自分の信仰に変わりがないことに気づくであろう。というのも、その人はこう云うからである。「私はかつて美徳に満ちていた。そのときも自分自身には信頼しなかった。また、今の私には何の美徳もない。そして、なおも私の《救い主》に信頼する。私は変わるが、主はお変わりにならないからだ。もしも私が、ごく僅かな程度でも自分により頼まなくてはならないとしたら、それは絶えず上り下り、上り下りしているであろう。だが、キリストが行なってくださったことにより頼んでいる以上、また、キリストが私の希望の、何の支えもいらない大黒柱である以上、何がやって来ようと、私の魂は安定したままであり、信仰について不安になることはない。信仰は、自我が弱いからといって決して弱くならないし、自我が強いときも、信仰が強くなることはありえない。というのも、自我とは、園丁が吸枝と呼ぶところのものに似ているからだ。それは、ある木の根元にくっついて、ただ木そのものから養分を吸い込むだけで、決して実を生らせないのだ」、と。さて、自我は、信仰から養分を吸い取る吸枝であり、それを切り刻まない限り、あなたの信仰は常に小さな信仰となるであろう。また、あなたの魂の中に少しでも慰めを保つことは困難となるであろう。

 しかし、ことによると、ほとんどの人々が自分の信仰を増し加える唯一の道は、大きな苦難を受けることかもしれない。私たちは、好天の日々には信仰において強くならない。ただ荒れ模様の日々にのみ、人は信仰を得るのである。信仰という境地は、天からの露のように優しく降ってくるものではない。普通、それは旋風や嵐の中をやって来る。樫の古木を眺めるがいい。いかにしてそれは、あれほど深く地中に根を張ったのだろうか? 三月の風に尋ねれば、告げてくれるであろう。それを行なったのは、四月の小雨でも五月の陽光でもなく、三月の強風であったことを。古の風神の吹きすさぶ口がその木を前後左右に揺さぶり、その根を岩盤の回りに縛りつけさせたのである。私たちもそれと同じでなくてはならない。人は母国の兵営にいるだけでは偉大な兵士にならない。飛び交う弾丸と、轟く大砲の間に置かれなくてはならない。サーペンタイン池*1の上にいては立派な船乗りになれる見込みはない。大海原の真っ直中に押しやられ、猛風が吠えたけり、神の軍勢の行進の太鼓のように雷が鳴り轟く所まで行かされなくてはならない。嵐と暴風によってこそ、人は逞しく勇敢な船員となる。主のみわざとその奇しいわざを深い海で見る[詩107:24]。キリスト者もそれと同じである。篤信者は、大きな試練を受けなくてはならない。大勇氏は、かつて大患氏でなかったとしたら、決して大勇氏にはならなかったであろう。真勇者は、最初にその敵どもから攻撃を受けなかったとしたら、決して彼らと戦い、あれほど真の勇気を示すことはなかったであろう。私たちもそれと同じである。数々の大きな苦難を期待しなくては、大きな信仰に到達することはありえない。

 それから、大きな信仰を持ちたければ、自分の有するものを実際に用いるのでなくてはならない。私は明日、行って馬に蹄鉄を打ちたいとは思わない。あるいは、鉄床の上で蹄鉄を作りたいとは思わない。その重い鎚を振り上げて、打ち下ろし続ければ、最初の一時間で腕が痛くなるに違いない。どんな調子であれ、私がそれに合わせることはできまい。鍛冶屋の腕が疲れない理由は、それに慣れているからである。長年の間それをし続けたので、まことに役立つ腕を得たのである! 袖をまくり上げれば、疲れを知らぬ強力な筋肉が見えるであろう。それほど強力になったのは用いたからである。あなたは、自分の信仰を強くしたいだろうか? それを用いるがいい。あなたがた、怠け者で朝寝坊のキリスト者たち。自分の教会か会堂に行き、自分の席に着き、私たちの説教を聞き、善良になることについて語りはするが、善を施すことについては決して考えない人たち。あなたがた、自分の足の下にある地獄が満杯になるにまかせながら、怠慢のあまり、自分の手を差し伸ばして永遠の炎から燃えさしを引ったくろうとはしない人たち。あなたがた、自分の町通り沿いに罪が流れ下っているのを目にしながら、その流れを転じたり、止めたりするためには決して自分の足を踏み入れることができない人たち。あなたが自分の信仰の小ささについて愚痴を云っても何の不思議もない。小さくて当たり前である。あなたは、ごく僅かしか行なっていない。では、なぜ神は、あなたが用いようとする以上の強さをあなたに与えなくてはならないだろうか? 強い信仰は常に実践される信仰でなくてはならず、自分の持っている信仰を実践しもしない人が、より多くを有することはない。「その一タラントを彼から取り上げて、持っている者にやりなさい。彼は利息がつくように預けなかったのだから」[マタ25:28参照]。ホイットフィールド氏の伝記を見ると、彼が信仰の不足について不平を云っている姿はほとんど見当たらない。あるいは、たといそうしたことがあったとしても、それは彼が一週間に九回しか説教しなかったときである。十六回説教していたときには決して不平を云わなかった。グリムショーの伝記を読むがいい。彼は、七日間で二十四回も説教していたときには、意気阻喪して悩んでいる姿などめったに見せない。それが見られるのは、彼が多少手を抜いて、二十回しか説教しなかったときだけである。地道な努力を続け、精を出すがいい。そうすれば、あなたの信仰が弱くなる恐れはそれほど多くない。私たちの信仰は、冬の間の少年たちのようである。そこに彼らが火に当たっている。両手をこすり合わせては血の巡りを良くしようとし、ほとんど喧嘩せんばかりに、誰が火の前に座って暖をとるかを争っている。とうとう父親がやって来て、こう云う。「お前たち。そんなことをしても何にもならんぞ。こんな、うわっつらだけのもので暖かくなるものか。とっとと外へ行って、何か仕事をしてこい」。それで彼らがみな外へ出ると、戻って来たときには頬が真っ赤になり、その手はもうこわばっておらず、こう云うのだった。「ねえ、父さん。こんなに暖かくなるなんて半分も思ってなかったよ」。あなたもそれと同じに違いない。何か仕事に取りかからない限り、信仰が強く暖かなものとなることは決してない。確かに、あなたの行ないであなたが救われることはない。だが、行ないのない信仰は死んだものであり[ヤコ2:17]、凍死しているのである。だが、行ないのある信仰は、熱烈さで赤熱され、安定した強いものとなる。行って《日曜学校》で教えるがいい。あるいは、行って七、八人の襤褸を着た貧しい子どもたちをつかまえるがいい。行って、あばら屋に住んでいる貧しい老女を訪問するがいい。行って、私たちのこの大都会の路地裏のどこかで死にかけているあわれな人々を見舞うがいい。そうすれば、あなたは云うであろう。「これはしたり。ただ何かを行なうだけで、何と私の信仰が清新にされることでしょう」、と。あなたは、他の人々に水をやっている間に、自分自身に水をやっていたのである。

 さて、私の最後の助言はこうである。――あなたの信仰を強める最上の道は、キリストとの交わりを持つことである。キリストと交わるならば、信じないでいることはありえない。主の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとき[雅2:6]、疑うことはできない。私の《愛する方》がそのうたげの座に着き[雅1:12]、私を酒宴の席に伴われ、私の上に翻るその方の旗じるしが愛であるとき[雅2:4]、私はまぎれもなく本当に信じる。主とともに宴席に着くとき、私の不信仰は恥じ入らされ、頭を隠す。語るがいい。あなたがた、緑の牧場に伴われ、いこいの水のほとりに伏させられた人たち[詩23:2]。あなたがた、主の鞭と杖を見たことがあり、死の陰の谷[詩23:4]を歩くときも、それらを見ることを希望している人たち。語るがいい。あなたがた、マリヤとともに主の足元に座るか[ルカ10:39]、愛されていたヨハネのように主の胸に頭をもたせかけたことのある人たち。あなたは見いだしたことがなかっただろうか? キリストの間近にいるときには自分の信仰が強くなり、キリストから遠く離れるときには自分の信仰が弱くなることを。キリストの御顔をのぞき込み、その上でキリストを疑うことなど不可能である。主が見てとれないとき、あなたは主を疑う。だが、主との交わりの中に生きているときには、ナタンのたとえ話に出て来た雌の子羊のようになる[IIサム12:3]。主のふところで休み、主の食卓で食べ、主の杯から飲むからである。《愛する方》から語りかけられ、こう云われるとき、あなたは信じるに違いない。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで」[雅2:10]。そのとき、そこには何のためらいもない。自分の疑いという低地から立ち上がり、確信という丘に上るに違いない。

 III. さて今、しめくくりとして云いたいのは、《信仰が勤勉に培われるならば確実に到達するだろう、ある高い境地》があるということである。人は、その信仰が強さをきわめれば、それ以後二度と疑わなくなることがありえるだろうか? 私の答えは否である。いかに強い信仰を有している人も、時たまは悲しい意気阻喪に陥るであろう。いずれかの折に、自分が《愛する方》に受け入れられているかどうかについて、きわめて悲痛な疑いをいだかなかったキリスト者など、これまでひとりもいた試しがないのではないかと思う。神の子どもたちはみな、通常は、強い信仰をいだいているときでさえ、疑いの発作を起こすものである。では人は、その信仰を培うならば、自分が神の子どもであることを何の誤りもなく確信できるようになるだろうか?――いかなる疑いや恐れに押し迫られようとも、もはや上手を取られることが全くないほどの確信をいだけるだろうか? 私の答えは、しかり、である。確かにその人はそうなることができる。人は、現世において、《愛する方》に受け入れられていることを、自分の存在と同じくらい確信することがありえる。否、単にありえるだけではない。私たちの中のある者らは、こうした尊い状態と特権を何年も享受している。それは、途切れることなく何年間も、ということではない。――私たちの平安は中断されることがあったし、時々は疑いに陥ることもある。だが、私の知っているある人々は、――特に、ひとりの人は、三十年もの間、自分がキリストにおいて受け入れられているという完全な感覚をほとんど不断に享受してきたという。「これまで私は」、と彼は云った。「非常にしばしば罪の感覚を覚えてきましたが、それとともに、キリストの血の力をも感じてきました。時々は、ほんのしばし非常に意気阻喪することもありました。ですが、それでも私は、おおむねこう云うことができます。この三十年間ずっと私は、自分が《愛する方》において受け入れられているという、この上もなく完全な確信を享受してきました、と」。私は、おおかたの神の民が、次のような歌を何箇月も何年も歌わずにいられるものと思いたい。

   「こは わが切に知らんと欲し……しこと」。

むしろ、彼らはこう云うことができる。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、……守ってくださることができると確信している」、と[IIテモ1:12]。そうしたキリスト者の状態を努めて描き出してみよう。その人は、極貧のどん底にあろうと、富んでいる。その人は、明日のための心配をしない。明日のことは明日が心配するからである[マタ6:34]。その人は神の摂理に身をゆだねる。野の百合を装い[マタ6:30]、烏を養ってくださる[ルカ12:24]お方は、ご自分の子どもたちを飢えさせておいたり、裸足のままにしておいたりなさらないと信じている。自分の物質的な状況については、ほとんど気遣わない。腕組みをし、摂理という川を流れ下りながら歌っている。たとい自分の脇に、暗く、荒涼とした、悪臭のただよう泥の浅瀬があろうと、はたまた、麗しい宮殿や爽やかな低地が広がっていようと、自分の立場を変えない。身じろぎすることも葛藤することもない。どちらの方角に泳ぎたいとも思わず、ただひたすら願うのは、「御手に身(み)ゆだね、みこころのみ知る」ことである。嵐が頭上を吹き抜けるときも、彼はキリストが暴風からの避け所であることを悟る。炎暑の熱を覚えるときも、キリストが、乾ききった地にある大きな岩の陰[イザ32:2]であることを悟る。彼は、ただ自分の錨を海中深く下ろす。そして、風が吹きつのっても眠っている。台風が回りに起こるかもしれず、帆柱はきしるかもしれない。あらゆる材木がひずみ、釘という釘が抜け始めるが、そこで彼は眠っている。キリストが舵を取り、こう仰せになる。「わたしの錨は幕の内側にある。わたしはそれが堅く動かないことを知っている」[ヘブ6:19参照]、と。大地は彼の足の下で揺れ動くが、彼は云う。「たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも、私たちは恐れない。神が私たちの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助けなのだから」[詩46:1-2参照]、と。彼に、自分の永遠の利益について尋ねてみるがいい。すると、あなたに告げるであろう。私の唯一の頼みはキリストにあり、たとい死んでも、かの最後の大いなる日に、自分は《救い主》の義をまとって大胆に立つはずだ、と。彼は、決して自慢する調子ではないが、確信をもって語る。目もくらむような増上慢の舞踏を踊っている暇などないが、信頼という岩の上に堅く立っている。ことによると、あなたは彼を高慢だと思うかもしれない。――あゝ! 彼は謙遜な人である。彼は十字架の前に這いつくばるが、あなたの前ではそうしない。彼はあなたの顔を大胆に見つめ、あなたに告げる。キリストは、ご自分にゆだねられた者を守ることがおできになる、と。彼はこう知っているのである。――

   「わが主の栄誉(ほまれ) かかりたり、
    いかな小羊(ひつじ)の 救いにも。
    天父(ちち)の給いし ものみなを
    主の御手かたく 守り抜かん」。

そして、死の折にも、彼は自分の頭を約束という枕の上に載せ、苦しむことも、つぶやくこともなく、《救い主》の胸の上で息を引き取りながら、こう叫ぶことができる。――死の腕の中にあっても、「勝利した」、と。《死》に向かって、そのとげを出してみよと、墓に向かって、勝利してみよと挑戦しながらそうできる。そうしたことが、強い信仰の効果である。繰り返すが、この世で最も弱い信仰も、勤勉に培えば、そこまで達することがありえるのである。ひたすらに、《天来の御霊》の清新にする影響力を求め、キリストの戒めのうちを歩き、キリストのそば近くで生きるがいい。そうすれば、あなたがた、ザアカイのような小人たちも、巨人のようになるはずである。城壁の上のヒソプは、荘厳なレバノン杉へと育ち始める。そして、あなたがた、自分の敵たちの前から逃げ失せる人たちは、これから千人を追いかけることができるようになり、あなたがたの中の二人で万人を敗走させるはずである。願わくは主が、ご自分のあわれな小さな者たちをそのように成長させてくださるように!

 あなたがたの中の、キリストを信じていない人々について云えば、1つ悲しいことを思い起こさせてほしい。――すなわち、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」[ヘブ11:6]、ということである。もしあなたがまだキリストに信頼を置いていないとしたら、神はあなたのことを日々、怒っておられる。「悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め」られる[詩7:11-12]。私は切に願う。どうかキリストに身をゆだねてほしい。キリストは、信頼するにふさわしいお方である。他に信頼すべきお方はない。主は喜んであなたを受け入れようとしておられる。あなたを招いてくださる。あなたのためにご自分の血を流してくださる。あなたのために、とりなしてくださる。主を信じるがいい。その約束にこう云われているからである。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。この双方のことを行なうがいい。主を信じ、それから、バプテスマによって自分の信仰を告白するがいい。そうすれば、主があなたを祝福し、あなたを最後まで支え、あなたの信仰を目に見えて増し加えてくださる。願わくは、主がその祝福を加え給わんことを!

----
-- 


(訳注)

*1 ロンドンのハイド公園にあるS字形の池。[本文に戻る]

  
 

薄信者のための講義[了]

HOME | TOP | 目次