二つの世界の共感
NO. 203
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---- 1858年7月4日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」。――ルカ15:10
人間の心は、決してその種々の喜びや悲しみを納めておけるほど大きくはない。あなたも、心が悲しみで一分の隙もなく満たされた人のことなど一度も聞いたことはないであろう。というのも、心は、満ちるや否やあふれ出すからである。魂が最初に思いつくのは、その悲しみを他人に告げることである。なぜかというと、私たちの心は、自分の悲嘆を納めておけるほど大きくなく、その一部分を受けとめてくれる別の心を必要とするからである。私たちの喜びも、全くそれと変わらない。心が喜びに満たされているとき、それは常にその喜びを漏れ出させる。それは、市場の泉のようである。水で満ち満ちているとき、それは滔々と流れるものであり、あふれ流れなくなるや否や、その水が乏しくなったことは確実である。満ち満ちた心とは、あふれ出る心にほかならない。あなたもそれは分かるであろう。愛する方々。あなたは、それが真実であることを示してきた。あなたの魂が喜びで満ちているとき、あなたはまず家族や友人たちを呼び集めて、自分を嬉しがらせている理由を彼らに伝えてきた。また、その器が縁まで一杯になるときには、隣人たちから空の器を借りたあの女のようであった[II列4:3]。あなたは、そのめいめいに自分の喜びにあずかってくれるように頼み、隣人たち全員の心が満たされたときには、それでも十分には足りないかのように感じ、自分の賛美に加わるよう全世界に呼びかけてきたからである。あなたは、底知れぬ大洋に向かって自分の喜びを飲むよう命じた。木々に語りかけて、その手を打ち鳴らすように命じる一方で、山と丘は喜びの歌声をあげるようあなたから念じられた。天の星々さえ、あなたを見下ろしているかに思われ、あなたは自分のために歌うよう彼らに命じた。全世界は、あなたの心にある音楽によって音楽に満ちていた。そして、結局において、人間とは世界の大音楽家でなくて何であろう? 宇宙は、数多くの音管を有する巨大な風琴である。空間、時間、永遠は、この大風琴の口のようなものである。そして人間は、いかにちっぽけな被造物ではあっても、その指を鍵盤の上に置くや、宇宙を轟然たる和音へと呼び覚まし、被造世界全体をかき立てて賛美の大歓声を上げさせるのである。あなたがたは知らないのだろうか? 人間が宇宙で神に仕える大祭司であることを。他の万物は犠牲でしかない。だが、人間は祭司である。――その心に火を携え、その手に木を持ち、その口からは奉献という両刃の剣が突き出しており、それをもってすべての物事を神へとささげ上げるのである。
しかし、疑いもなく、愛する方々。時として私たちは、自分の賛美が、十分に遠くまで達していないと感じることがあったに違いない。私たちは、あたかも本土から切り離された島に住んでいるように思われた。この世界は、一個の麗しい惑星のように、定命の船によって操縦されないまま天界の海に浮かんでいる。時として私たちは、自分たちの賛美など、このあわれな狭い世界の岸辺に捕われているに違いないと思うことがあった。天で鳴り響く鐘の綱を私たちが引くことなど不可能なのだ、自分の手を高く伸ばして、天の御使いたちの立琴の弦をかき鳴らすことなど、いかなる手段をもってしてもできないのだ、と。私たちは自分に向かって、地上と天上の間には何のつながりもないのだと云ってきた。巨大な黒い壁が私たちを隔てている。船も通えない海峡が私たちを締め出している。私たちの祈りは天に達することができず、私たちの賛美も天上界の者たちに影響を及ぼすことはできないのだ、と。それがいかに間違っているかを、本日の聖句から学ぼうではないか。私たちは、結局において、いかに天国から――そして大宇宙から――締め出されているかに思われても、神の広大な連合帝国の一属州なのであり、地上でなされることは天上でも知られているのである。地上で歌われることは、天上でも歌われるのである。そして、ある意味で、地上における涙は、パラダイスにおいても流され、人類の種々の悲しみは、《いと高き方》の御座の上でさえ、やはり感じられているのである。
本日の聖句はこう告げる。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」。あたかも、永遠へと渡ることのできる、一本の橋が示されているように思われる。まさにここでは、いわば、ある種の磁気鋼線が明示されているかのようである。それにより、地上でなされていることの情報が、別の世界の霊たちへと伝達されるのである。この箇所から私が教えられるところ、この下界と、天空の彼方の、神がお住まいになる幸いな国にある世界との間には、現実の、素晴らしいつながりがあるのである。
今朝は、この主題について少し話をしたいと思う。私の第一の項目は、上の世界と下の世界との共感となるであろう。第二は、御使いたちの判断である。――彼らは、悔い改めている罪人たちについて喜んでいる。後に私たちは、彼らがそのようにする理由について考えるであろう。第三は、聖徒たちのための1つの教訓となるであろう。もし天の御使いたちが悔い改める罪人たちについて喜ぶとしたら、私たちもそうすべきである。
I. 第一のこととして、本日の聖句は私たちに、《2つの世界の共感》について教えている。おゝ、人の子よ。あなたが天から切り離されていると想像してはならない。というのも、そこには一本の梯子があり、その頂は《全能者》の御座の足元によりかかっており、その基が据えられている所は人間の悲惨のどん底なのである! こう思ってはならない。自分と御父との間には大きな淵があって、それは御父のあわれみも渡ることができず、自分の祈りや信仰も決して飛び越えることができないものなのだ、と。おゝ、こう考えてはならない。人の子よ。自分の住んでいる所は嵐に取り巻かれた島であり、永遠の大陸から切り離されているのだ、と。どうかこう信じてくれるよう、私は切に願う。その隔たりには、一本の橋がかかっており、徒歩で行ける一本の路があるのだ、と。この世界は分離されてはいない。被造世界の全体は、一体でしかないからである。そして、知るがいい。おゝ、人の子よ。確かにこの世界であなたは、いわば足の上でしか生きていないようなものだが、足から頭に至るまで、からだ全体は神経や血管の組織によって結びつけられているのである。天上で脈打っている偉大な心臓は、地上でも脈打っている。天界の者たちを鼓舞している永遠の御父の愛は、地界の者たちをも喜ばせている。確信するがいい。確かに天界の者の栄光と地界の者の栄光とは異なっているが、それは見かけ上の違いにすぎない。結局において、両者は同じものだからである。おゝ! 聞くがいい。人の子よ。そうすればすぐに分かるであろう。あなたが決して異国に住む異邦人ではないことが。――エジプトの地にいる家無しのヨセフではなく、自分の御父からも、幸いなカナンのパラダイスになおとどまっている御父の子どもたちからも、締め出されてはいないことが。しかり。あなたの御父は、なおもあなたを愛しておられる。あなたと御父の間にはつながりがある。不思議なことではあるが、有限の被造物と無限の《創造主》との間に横たわる何千尋もの距離にもかかわらず、私たち双方を結びつける絆があるのである! あなたが一粒でも涙をこぼすときには、あなたの御父が見ておられないと考えてはならない。というのも、「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」[詩103:13]からである。あなたの吐息は、エホバの心をも感動させることができる。あなたの囁きは、その御耳をあなたに傾けさせることができる。あなたの祈りは、その御手をとどめることができる。あなたの信仰は、その御腕を動かすことができる。おゝ! 考えてはならない。神が永遠のまどろみの中に座していて、あなたを物の数とも思っておられないなどとは。「母が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、母たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」*[イザ49:15]。御父の御手の上にあなたの名前は刻みつけられている。その御心の上には、あなたの姿がくっきりと記録されている。神は、世界が造られる前からあなたのことを考えておられた。諸処の海峡が掘って作られる前、巨大な山々その頭を白雲の中に持ち上げる前から、神はあなたのことを考えておられた。今なおあなたについて考えておられる。「わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている」[イザ27:3]。というのも、主はその御目をもって、あらゆる場所を見渡し、ご自分を恐れる人々に御力を現わしてくださる[II歴16:9参照]からである。あなたは主から切り離されてはいない。あなたは、神の中で動き、神の中で生き、また存在している[使17:28]。「神は……苦しむとき、そこにある助け」[詩46:1]であられる。
やはり思い出すがいい。おゝ、不死性の相続人よ。あなたが単に《神格》につながっているだけでなく、天におられるもうひとりのお方との異様な、だが密接なつながりを有しているということを。御座の真中に座っておられるのは、あなたと血を分けた兄弟なのである。神の御子は、――永遠の、その御父と同等なるお方は、――定めの時に《マリヤの子》となられた。一手幅ほどの幼子となられた。この方は、かつて――しかり、今なお――あなたの骨の骨、あなたの肉の肉であられる。この方がおられる限り、あなたが天界から切り離されていると考えてはならない。というのも、この方はあなたのかしらではないだろうか? また、この方ご自身、あなたがご自分のからだにおける、ご自分の肉とご自分の骨との一器官であると宣言なさらなかっただろうか? おゝ、人よ。イエスからこう告げられている限り、あなたが天から分離されていることはない。――
「われ感ず、汝が 吐息と呻きを
汝れはわが身の 骨肉なれば。
汝が苦しみに かしらも痛まん。
されど無駄なく、つゆ徒(あだ)ならじ」。おゝ、あわれな、やるせなく悲しむ人よ。キリストは四六時中あなたのことを覚えておられる。あなたの吐息は、主の吐息である。あなたの呻きは、主の呻きである。あなたの祈りは、主の祈りである。――
「主なりに新たに 感じまさん、
その肢体(みからだ)の 痛みをば」。主は、あなたが十字架につけられるとき、十字架についてくださる。あなたが死ぬとき、死んでくださる。あなたは主の中で生き、主はあなたの中で生きておられる。そして、主が生きておられるので、あなたも生きるのである。あなたは主にあってよみがえり、主とともに天の所に座ることになる。おゝ、この世のいかなる夫と妻の近しさにもまさり、いかなるかしらと各器官との近しさにもまさり、いかなる魂とこの肉体のからだとの近しさにもまさるのは、キリストとあなたの近しさであり、そうである限り、天と地が分かたれていると考えてはならない。それらは、親類の世界でしかない。互いの近くに係留された二艘の船であり、死という短い厚板一枚で、一方からもう一方へと渡ることができる。こちらの船は、炭団のように真っ黒であり、これまでずっと沿岸貿易に従事してきている。今日という埃っぽい仕事を行ない、暗黒の悲しみを満載している。一方、そちらの船は黄金で、極彩色の旗を翻し、帆という帆を張っている。しかもその帆は、海鳥の綿毛のように真っ白で、御使いの翼のように麗しい。――私は告げるが、人よ。この天国という船は、地上という船と隣り合って係留されているのである。そして、確かにこちらの船は横揺れし、暴風や嵐の中では傾くだろうが、それでも天国という目に見えない黄金の船は、その側を帆走しており、決して隔てられることなく、決して分かたれることなく、常に用意ができているのである。それは、時が来れば、あなたがこの黒い闇の船から跳び上がり、この果報な船の甲板の上に降り立ち、それに乗って永遠に航海するためなのである。
しかし、おゝ、神の人よ。これ以外にも、現在を未来に、時間を永遠につなぐ黄金の絆は多々ある。そして、結局において、時間も永遠も、信仰者にとっては、シャムの双子のようなもの、決して分離すべきでないものでなくて何だろうか? この下界は地上にある天国であり、来世は上にある天国である。それは同じ家である。――こちらは下の階であり、あちらは上階であるが、同じ屋根の下にあり、同じ露がどちらにも降りかかるのである。覚えておくがいい。愛する方々。全うされた義人たちの霊[ヘブ12:23]は決してあなたや私から遠く離れてはいない。もし私たちがイエスを愛しているとしたらそうである。かの大水を越えた人々はみな、なおも私たちと交わりを有している。私たちはこう歌っていないだろうか?――
「地にある聖徒(たみ)も 死す聖徒(もの)みなも
一つの交わり 作るなり。
かしらなる主に みな加(くみ)て
その御恵みに あずからん」。勝利の教会にとっても、戦闘の教会にとっても、《かしら》はただおひとりしかいない。
「生き給う神の ひとつの軍たる
われらは服せり、ただその命令(げち)に、
民の半ばは 大水(みず)渡りたり、
半ば今しも 渡りつつあり」。使徒は私たちに、上にいる聖徒たちは雲のような証人たちであると告げていないだろうか? アブラハム、イサク、ヤコブ、ギデオン、バラク、エフタに言及した後で、彼は云わなかっただろうか? 「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷……を捨て……ようではありませんか」[ヘブ12:1]、と。見よ。私たちは草原を走っており、栄化された者たちは私たちを見下ろしている。青年よ。あなたの母上の目は、あなたを追っているのである。若い娘よ。あなたの父上の目は、あなたを見下ろしているのである。すでに栄化されて久しい私の敬虔な祖母の目は、不断に私の上に据えられているに違いない。疑いもなく、天国で彼らは、しばしば私たちのことを話し合っているであろう。思うに、彼らは時としてこのあわれな地上を訪れているのではないかろうか。――確かに彼らは決して天国から出て来ることはない。天国は彼らにとってあらゆる場所だからである。この世界は、彼らにとっては、神の天国の片隅でしかない。パラダイスの中でも、日陰にある小部屋でしかない。
生ける神の聖徒たちは、非常に遠くにいるものと私たちが考えているときも、私たちの非常に身近にいるに違いない。いずれにせよ、彼らはなおも私たちのことを覚えており、なおも私たちの方を眺めている。というのも、このことが常に彼らの心にかかっているからである。――私たちを抜きにして彼らは完璧になることができないという真理が。彼らが一個の完璧な教会となるためには、すべての者が集め入れられなくてはならない。それゆえ、彼らは私たちの現われを本当に切望しているのである。
しかし、本日の聖句にもう少し詳しい目を向けることにしよう。そこから確かに分かるのは、御使いたちが私たちと交わりを有しているということである。輝く霊たち、神から最初に生まれた子ら。あなたがたが私たちのことを考えているのか? おゝ、偉大で、勇ましい智天使よ。燃え上がり、稲妻の翼をした熾天使よ。あなたがたが私たちのことを考えているのか? あなたがたの身丈は巨大なものである。私たちの詩人たちが告げるところ、ひとりの御使いの手にした指揮棒は、どこかの勇敢な提督にとって帆柱になれるという。そして、彼のその言葉は正しかったに違いない。こうした神の御使いたちは、勇ましく強大な被造物で、神の命令を行ない、みことばに聞き従っている[詩103:20]。――では、彼らは私たちのことなど気に留めているだろうか? 聖書に答えてもらおう。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」[ヘブ1:14]。「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張……る」[詩34:7]。「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする」[詩91:11-12]。しかり。いかに輝く御使いたちも、聖徒たちの召使いでしかない。彼らは私たちの従僕であり、私たちの下男なのである。彼らは私たちに仕えている。私たちの護衛団である。そして、私たちは、この目が開かれさえするなら、エリシャが見たものが見えるであろう。私たちを取り巻く火の馬と火の戦車が見えるであろう[II列6:17参照]。そして私たちは喜ばしく云うであろう。「私たちとともにいる者らは、私たちに逆らう者たちよりも多いのだ」[II列6:16参照]、と。
本日の聖句の告げるところ、神の御使いたちは、悔い改めている罪人たちについて喜ぶという。いかにしてか? 彼らは常に、ありうべき限り幸福である。いかにして、それ以上幸福になれるのか? この聖句は、決して彼らがより幸福になるとは云っていない。だが、ことによると、彼らはその幸福をより大きく表わすのかもしれない。人は、毎日でも安息日を持っているであろう。キリスト者であればそうあるはずである。だが、週の初めの日、彼は自分が安息日を守る姿勢をあからさまに表明するであろう。というのも、そのとき、世は彼が本当に安息しているのを見るからである。「心に楽しみのある人には毎日が宴会である」[箴15:15]。とはいえ、心に楽しみのある人でさえ、それが特に良い宴会を開ける特別な日があるものである。栄化された者にとっては、毎日が安息日である。だが、そのうちの何日かについては、「その安息日は大いなる日であった」[ヨハ19:31]、と云える。ある日々には、御使いたちも普段より大きな声で歌う。彼らは常に、神への賛美をたくみに立琴で奏でているが、時として、全宇宙を遠く飛び回っていた天軍の集団たちが、その中央部隊のもとに集結することがある。そして、神の御座の回りに寄り集まって、戦闘のためではなく音楽のために整列させられ、ある定められた特別な日々の間、神の御子への賛美を歌い上げるのである。この方こそ、「私たちを愛し私たちのためにご自身をお捨てになった」*[ガラ2:20]お方であられる。では、その日がいつ起こるのか、とあなたは問うだろうか? あなたに告げよう。あらゆるキリスト者の誕生日は、天国で十四行詩が歌われる日である。パラダイスにも降誕祭の日があり、そこではキリストの盛大な弥撒が祝われ、キリストの栄光が現わされる。主が、飼い葉桶の中に生まれたからではなく、一個の打ち砕かれた心の中にお生まれになったからである。こうした日々がある。――天国における良き日々、十四行詩の日々、特筆すべき日々、崇敬のあふれ出る日々がある。それは、羊飼いが迷子の羊を肩にかついで家に帰って来る日である。教会がその家を掃いて、なくした貨幣を見つけた[ルカ15:8-9]日である。というのも、そのときには、こうした友人や近隣の人々が呼び集められ、彼らは、ひとりの罪人が悔い改めたからといって、言葉に尽くすことのできない、栄えに満ちた喜び[Iペテ1:8]に躍るからである。
こういうわけで、地上と天上との間に、私たちの中の誰かが夢想する以上に大きなつながりがあることは、これまでのところで十分明らかになったものと思う。そして今、あの青空を仰ぎ見るとき、私たちの中の誰もこう考えてはならない。自分は天国から遠く離れているのだ、と。天国は、私たちからほんの僅かしか離れていない。その日が来れば、私たちは大急ぎでそこに行くはずである。たとい火の馬や戦車がなくともである。バラムはそれを非常に遠くにある国と呼んだが、私たちはもっとよく知っている。――それは、非常に近い国である。今しも、
「われら 信仰によりて
先立つ者と 手をば合わせて、
かつまた迎えん 血注がる民を
とわ永久(とこしえ)の 岸辺にて」。ご機嫌よう、輝く霊たち! 私たちには今あなたがたが見える。ご機嫌よう、御使いたち! ご機嫌よう、あなたがた、贖われた兄弟たち! もうほんの何時間か、何日か、何箇月かすれば、私たちはあなたがたの幸いな群れに加わるはずである。そのときまで、あなたがたの喜ばしい交わり、あなたがたの甘やかな同情は、常に私たちの慰め、また、私たちの慰藉となるであろう。――そして、人生のあらゆる嵐と闘った後で、私たちはついに、あなたがたとともに、永遠の平安の港に投錨するはずである。
II. しかし、御使いたちは、ひとりの罪人が悔い改めるときには常に歌うと云われている。果たして少しでも《彼らの歌の中で正しい判断がなされている》かどうか、それとも、彼らも間違いを犯すかどうか見てみよう。なぜ御使いたちは悔悟した罪人たちについて歌うのだろうか?
最初のこととして、それは彼らが創造の日々のことを覚えているからだと思う。知っての通り、神がこの世界を造り、天国の梁を光の台座に据えられたとき、明けの星々はともに喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ[ヨブ38:7]。星という星が《全能者》の鉄床から火花のように飛び出して来るの見たとき、彼らは歌い始めた。そして、新しい被造物がこの小さな地球の上に造られるたびに、彼らは新たに賛美した。初めて光を見たとき、彼らは両手を打ち鳴らして云った。「エホバは大いなる方。『光よ。あれ』、と仰せられると、光ができた」。また、太陽と月と星々を見たとき、再び彼らは両手を打ち鳴らして云った。「主は大いなる光を造られた。その恵みはとこしえまで。太陽は昼を治めさせるために。その恵みはとこしえまで。月は夜を治めさせるために。その恵みはとこしえまで」[詩136:7-9参照]。そして、神の造られたすべてのものについて、彼らは常にあの甘やかな歌を繰り返し歌った。「《創造主》よ。あなたは、あがめられるべき方。その恵みはとこしえまで」、と。さて、彼らは、ひとりの罪人が立ち返るのを見るとき、創造がさらに繰り返されるのを見るのである。というのも、悔い改めとは新しい創造だからである。いかなる人も、神がその人の中に新しい心とゆるがない霊[詩51:10]を造られるまでは決して悔い改めることがない。私の知る限り、神が世界を造られたその日以来、こうした新しい心という例外を除くと、神が何か他のものをお造りになるのを御使いたちが見たことは決してない。神は、もしそう望まれれば、その時以来新たな世界をいくつも造ることがおできになったであろう。しかし、ことによると、彼らがその最初の日からこのかた少しでも目にした新しい創造の事例は、あわれな悔悟した罪人の胸の中で創造された新しい心とゆるがない霊だけかもしれない。それゆえ、彼らは本当に歌うのである。創造がさらに繰り返しやって来ているからである。
また、疑いもなく、彼らが歌うのは、神のみわざが新たに卓越して輝くのを目の当たりにするからである。神が初めに世界を造られたとき、神はそれを、「非常によかった」[創1:31]、と云われた。――今は、そう云うことはおできにならないであろう。あなたがたの中の多くの人々について、神はそう仰せになることができないであろう。それとは正反対のことを云わざるをえないであろう。こう仰せになるしかないであろう。「否。これは非常に悪い。あの蛇の這った跡が、あなたの美を一掃してしまったからだ。かつて人間性の中に宿っていた道徳的卓越性は消え失せてしまっている」、と。だが、御霊の甘やかな影響力の数々によって人々が悔い改めに至らされ、再び信仰に至らされるとき、神は人間を見て、「非常に良い」、と仰せになる。神の御霊がお造りになるものは、神ご自身に似たものだからである。――善で、聖で、尊いからである。そして神は、ご自分が二度創造されたものを眺めて微笑み、再び、「これは非常に良い」、と仰せになる。そのとき、御使いたちは再び神の御名を賛美し始める。神のみわざは常に良く、美に満ちているからである。
しかし、愛する方々。悔い改める罪人たちについて御使いたちが歌うのは、そのあわれな罪人が何から逃れたかを知っているからである。あなたや私は、地獄の深みのすべてを決して想像できない。闇の黒い垂れ幕によって私たちから見えないよう遮られているため、私たちは、失われた魂たちの陰惨な地下牢の恐しさが何も分かっていない。幸いなことに、罪に定められた者たちの泣き叫ぶ声が私たちを飛び上がらせることは決してない。というのも、一千もの嵐も、罪に定められた霊の泣き叫びとくらべれば、乙女の囁きのようなものだからである。決して軽くなることのない苦悶の内側に永遠に宿る、あの魂たちが受けている責め苦を私たちが目にすることは不可能である。その物凄い拷問のやしろを一瞬でものぞき込むことができたとしたら、この目は視力を失った暗黒の球体と化すことであろう。地獄は身の毛もよだつ所である。というのも、それについては、こう云えるからである。目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を憎む者たちのために、神の備えておられるものの恐ろしさは、みなそうである、と。しかし、御使いたちは、あなたや私の覚束ない推測よりも、ずっと良く知っている。彼らはそれを知っている。それを身に感じたことがあるからではないが、彼らはサタンと彼の使いたちが神に反逆した日のことを覚えているのである。天の星々の三分の一[黙12:4]が自分たちの領主に反旗を翻した日のことを。そして、彼らは忘れたことがないのである。エホバなるイエスの赤い右の御手が、いかに雷で包まれたかを。彼らは忘れていない。《明けの明星》と彼の軍勢がいと高き所からどん底の深淵へと叩き落とされたときの天国の狭間胸壁の破れ目を。彼らは決して忘れたことがなかった。鳴り渡る喇叭の響きとともに、いかに彼らが逃げ散る敵軍を暗黒の絶望の深い穴へと追い落としたかを。そして、彼らは覚えているのである。かの大いなる蛇が鎖で縛られるべき場所に近づいたとき、いかに彼らが、「トフェテ」、と云うかを。それは、古から備えられていた場所であり、そこには火とたきぎが多く積んである[イザ30:33]。また、彼らは思い起こすのである。自分たちが翼をかって飛び戻って来たとき、いかにあらゆる舌が沈黙を守っていたかを。《明けの明星》を打ち負かしたお方への賛美を叫んでいても良かっただろうが関係ない。むしろ、その場にいた彼ら全員の上にのしかかっていたのは、一個の智天使さえも一撃で永劫の絶望という望みなき束縛へとぶち込めるお方への畏怖であった。彼らは地獄がいかなるものかを知っていた。かつてその顎の内側をのぞき込んだことも、自らの兄弟たちがその内側に堅く閉じ込められている姿を見たこともあったからである。それゆえ、ひとりの罪人が救われるのを見るとき、彼らは喜ぶのである。かの決して尽きることのないうじ[マコ9:48]の餌となる者がひとりは少なくなったからである。――獅子の口から逃れ出た魂がひとりは多くなったからである。
そこには、なお良い理由がまだある。御使いたちは、天国の喜びがいかなるものかを知っており、それゆえ、彼らは悔い改めるひとりの罪人について喜ぶのである。私たちは、真珠の門や黄金の通りについて、また、白い衣や金の立琴、そして、常世の花の冠その他の一切について話をする。だが、もしひとりの御使いが天国について私たちに話をすることができたとしたら、彼は微笑んで云うであろう。「こうした結構な物事はみな、子どものお喋りでしかありません。また、あなたがたは幼子たちなのであり、あなたがたには、永遠の至福の偉大さは理解できません。ですから、神はあなたがたに子ども用の入門書とイロハを与えられたのです。それで、天国がいかなるものかについての乱雑なあらましを、まず学べるようにされたのです。ですが、それがいかなるものかを、あなたがたは知っていません。おゝ、定命の者たち。あなたがたの目は、まだ一度もその光輝を見たことがありません。あなたがたの耳は、まだ一度もその旋律に魅了されたことがありません。あなたがたの心は、まだ一度もその比類ない喜びで恍惚となったことがありません」、と。あなたは話をし、考え、推測し、夢見ることはできるであろうが、神がご自分の子どもたちのために備えておられる無限の天国を測り知ることは決してできない。それゆえ、魂が救われ、罪人が悔い改めているのを見るとき、彼らは両手を打ち鳴らすのである。というのも、かのほむべき住まい[ヨハ14:2]がことごとく救われた者たちのものであると彼らは知っているからである。永遠の幸福の甘やかな場所のすべてが、悔い改めるあらゆる罪人の相続財産であるからにはそうである。
しかし、ここでもう一度この聖句を読んでほしい。別の思想について詳しく物語りたいと思う。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」。さて、なぜ彼らは、この罪人が死んで天国に行くまで彼らの喜びをとっておこうとしないのだろうか? なぜ彼らは、彼が悔い改めるときに彼のことを喜ぶのだろうか? 私のアルミニウス主義者の友人は、天国に行って、この御使いたちの考え方をこの件で正すべきだと思う。彼の説に従えば、これは御使いたちのたいへんな間違いに違いない。彼らは早まって喜んでいるからである。アルミニウス主義の教理によると、人は悔い改めても、失われることがありえる。悔い改めて信じる恵みは有していても、その後、恵みから落ちて失格者となることがありえる。さあ、御使いたち。早まってはならない。ことによると、あなたがたは、この日のことを悔やまなくてはならなくなるかもしれない。もしアルミニウス主義の教理が正しければ、より大きな喜びのために、あなたがたの歌をとっておくように私は助言するであろう。何と、御使いたち。ことによると、あなたがたは、今日は喜んでいる人々のことを、明日は嘆き悲しまなくてはならなくなるかもしれない。だが、疑いもなく、アルミニウスは、自分の教理を天国では決して説かなかったに違いない。私は、彼が今そこにいるかどうか分からない。――いてほしいと望むが、彼はもはやアルミニウス主義者ではない。だが、もし彼が自分の教理をそこで説いたことが一度でもあったとしたら、彼は黙らされたであろう。御使いたちは、自分たちが喜ぶ理由を知っているからである。ひとりの罪人が悔い改めるならば、彼は絶対に救われているのである。さもなければ、彼らは早まって喜ぶこととなり、将来に何かが起これば自分たちの歓喜を撤回すべき立派な理由があることになるであろう。しかし、御使いたちは、キリストがこう云ったとき何を意味しておられたか分かっている。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」[ヨハ10:28]。それゆえ、悔い改めている罪人たちのことを喜ぶのである。彼らが救われていることを知っているからである。
もう1つの事実にだけ言及して、この点を離れることとしよう。御使いたちには、「ひとりの罪人が悔い改めるなら……喜びがわき起こる」という。さて、今晩、私は、自分の幸いな特権として、すでに悔い改めた四十八人の罪人たちに、交わりのしるしとして右手を差し伸べる[ガラ2:9]ことになるし、今晩、私たちの諸教会には、大きな喜びと嬉しさがあるであろう。なぜなら、この四十八人がその信仰の告白に基づいて浸礼を受けるからである。しかし、いかに御使いたちは、人間たちに対する愛に満ちていることであろう。というのも、彼らはひとりの罪人が悔い改めることを喜ぶからである。彼女がいるのは、星々が瓦の間から見えるその屋根裏部屋である。部屋には、みすぼらしい寝床が一つあり、一枚しか掛布がかかっておらず、そこに横たわった彼女は今にも死のうとしている! 可哀想に! 浮かれ騒ぎをしていた頃の彼女は、幾晩も町通りを闊歩していたものだが、今や彼女の喜びは失せ去っている。汚らわしい病が、悪霊のように彼女の心をむさぼり食らっている! 彼女がみるみる死に近づいているというのに、誰も彼女の魂を気遣ってはいない! しかし、そこで、その部屋の中で、彼女は壁に顔を向けて、こう叫ぶ。「おゝ、マグダラのマリヤをお救いになった神様、私をお救いください。主よ、私は悔い改めます。私をあわれんでください。切にお願いします」。町通りで鐘が鳴っただろうか? 喇叭が吹き鳴らされただろうか? あゝ! 否。人々は喜んだだろうか? 大会衆の真中で感謝の声が上がっただろうか? 否。誰もそれを耳にしなかった。彼女は人目につかずに死んだからである。しかし、待て! 彼女の枕元にひとりの者が立っていて、その涙をじっと見ていた。ひとりの御使いが、天から降っては、この迷子の羊を見守り、それが帰って行くのを注視していた。そして、彼女の祈りがささげられるや否や、自分の翼を羽ばたかせ、流星のように真珠の門まで飛びかける一個の霊が見られた。天の守衛たちが門に群がり集まっては、こう叫んだ。「何の知らせだ? 炎の子よ」。彼は云った。「なされました」。「して、何がなされたのだ?」、と彼らは云った。「左様。彼女が悔い改めたのです」。「何と! かつては罪人のかしらだった彼女がか? 彼女がキリストに立ち返ったのか?」 「まさにその通りです」、と彼は云った。そこで彼らは、このことを街路という街路で告げ知らせ、天国の鐘が結婚式のような鐘音を響かせた。マグダラのマリヤが救われ、罪人のかしらだった彼女が生ける神に立ち返らされたからである。
それとは別の場所があった。ひとりの、あわれな、人に見放された少年が、襤褸をまとい、何日も町通りをぶらついていた。犯罪を犯すよう仕込まれてきた彼は、絞首台への道のりを築きつつあった。だが、ある日の朝、彼が通り過ぎた粗末な部屋では、何人かの男女が一緒に座って、貧しい、襤褸を着た子どもたちを教えていた。彼は、路上で生活する荒っぽい放浪児としてそこに足を踏み入れた。彼らは彼に話しかけた。魂について、また、永遠について話をした。――そのようなことを、彼はそれまで一度も聞いたことがなかった。彼らは、イエスについて、また、このあわれな友なき子どもにとって大きな喜びとなる、数々の良い知らせについて語った。彼は次の安息日にもやって来た。その次の安息日にも。彼の荒っぽい習慣は彼にまつわりついていた。彼にはそれを除き去ることができなかったからである。とうとう、彼の教師がある日、彼にこう云った。「イエス・キリストは、罪人たちを受け入れてくださるのです」。この少年は走って帰った。だが、家へではない。それを家と呼ぶのは、ふざけた冗談でしかなかったであろう。――そこでは、飲んだくれた父親とみだらな母親が地獄のような争いを絶えず演じていた。彼は走って、どこかの乾いた迫持の下か、自然のままの人も通らないような片隅に行った。その小さな膝を屈めては、そこで叫んだ。その、襤褸をまとった、あわれな幼子は叫んだ。「主よ、救ってください。滅びてしまいます」。そして、この小さな宿無しが膝を屈めているとき、――この小さな盗人は救われた! 彼は云った。――
「わが魂を 愛するイエスよ、飛ばせ給え われを御胸に」。 すると、その古ぼけた迫持から、その見捨てられた物置から、一個の霊が飛び立った。栄光の相続人がもうひとり神に生まれたという知らせを天国へ伝えるためである。私はこうした場面を数多くの描き出せるであろう。だが、あなたがたひとりひとりは、自分自身を描き出そうと努めるではないだろうか? あなたは、主があなたと出会ってくださった折のことを覚えている。あゝ! あなたは天国にいかなる興奮が巻き起こったかほとんど考えなかった。だが、たとい女王が彼女の全兵士に出動命令を下していたとしても、天国の御使いたちは、わざわざそれを知らせようとはしなかったであろう。たとい地上のあらゆる王侯が、その王服をまとい、宝石類と王冠と王家の表章をすべてつけて、その戦車と騎手のすべてを引き連れて、町通りを練り歩いていたとしても、――たとい古代の君主たちの豪勢さが墓からよみがえっていたとしたも、――たというバビロンとツロとギリシヤの栄華のすべてが1つの偉大な行列に集中したとしても、それでも、ひとりの御使いたりとも、その行路の途中で立ち止まって、わざわざこのけばけばしいしろものに微笑みかけたりはしなかったであろう。だが、あなたがた、悪人の中でも最悪の悪人、あわれな者の中でも最もあわれな者、最も名もない、最も世に知られない者、――そのあなたの上では、御使いの翼が空中を舞っており、あなたに関して地上ではこう語られ、天上ではこう歌われたのである。「ハレルヤ、きょう、神にひとりの子どもが生まれたのですから」、と。
III. さて今、しめくくりとして私は、この《聖徒たちに対する教訓》を示さなくてはならない。思うに、愛する方々。それを学ぶことは、あなたにとって困難ではないであろう。天の御使いたちは、罪人たちが悔い改めることを喜ぶ。神の聖徒たち。あなたや私も同じことをしようとは思わないだろうか? 私は、教会が十分に喜んでいるとは思わない。私たちは、十分にぶつぶつ云ったり、十分に呻いたりはしている。だが、十分に喜んでいる者は私たちの中にほとんどいない。教会の中に大人数を加えるとき、それは大きなあわれみであると語られる。だが、そのあわれみの大きさは十分よく理解されているだろうか? 私はあなたがたに告げよう。罪人たちの回心を最も十分によく理解できるのはいかなる人々であるかを。その人々とは、自分も回心したばかりの人々である。あるいは、自分が大罪人であった人々である。自分も奴隷の身から救われたばかりの人々は、最近まで鎖を身に帯びていた他の人々がやって来るのを目にするとき、嬉しさのあまりタンバリンと笛と琴を取って神を賛美できよう。他の囚人たちも恵みによって解放されたことを。しかし、他の人々は、このことをそれよりさらに良く行なうことができる。そして、それは救われた人々の両親や親族である。あなたがたは、ひとりの罪人が救われるの見たとき、神に何度も感謝してきた。だが、母親よ。あなたが最も神に感謝するのは、あなたの息子が回心するのを見たときではなかっただろうか? おゝ! あの聖なる涙よ。それは涙ではない。――神の金剛石である。――わが子がイエスを信じる信仰を告白するときの、母親の喜びの涙よ。おゝ! あの妻の喜ばしい表情よ。長いこと獣のようで酔いどれだった自分の夫が、とうとう人間とされ、キリスト者とされるのを見ているのである! おゝ、ひとりの若きキリスト者が示す喜ばしい顔つきよ。長いこと自分をしいたげ、迫害してきた父親が回心するのを見ているのである。私は今週、ひとりの若い教役者に代わって説教していた。そして、彼の人となりを知りたいと思って、彼の会衆の中の尊重すべきひとりの令夫人に向かって、わざと冷たい様子を装って彼について語った。たちまち彼女は、熱をこめて彼の味方を始めた。彼女は云った。「先生。あの方に反するようなことは云えないはずですわ。云えるとしたら、それはあの方をご存知ないからです」。「おゝ」、と私は云った。「私は、あなたよりもずっと長く彼のことを知っていますよ。彼は、そんなに大した人間じゃないですよね」。「いいえ」、と彼女は云った。「私は、あの方のことを良く云わなくてはなりません。あの方は、私のしもべたちや家族にとって祝福となってくださったのですから」。私は町通りに出て行き、そこに何人かの男女が立っているのを見た。それで私は彼らに云った。「あなたがたの教役者を、私はよそへ連れて行かなくてはなりませんな」。「そんなことをなさったら」、と彼らは云った。「私たちは、先生を世界中追い回しますよ。先生が連れて行こうとしている方は、私たちの魂に、これまでとても大きな善を施してくださったのですから」。十五人か十六人の証言を集めた後で、私は云った。「この人物がこれほどの証しを得ているとしたら、このまま続けさせよう。主が彼の口を開いておられるのだ。悪魔は決してそれを閉ざせないだろう」。こうしたものこそ、私たちの欲する証しである。――自分自身の家族が神に回心したからといって、御使いたちとともに歌うことのできる人々である。私は、あなたがた全員についてそう云えることを望みたい。そして、あなたがたの中の誰かがきょう、自分自身キリストに導かれるとしたら、――というのも、キリストはあなたを喜んで受け入れようとしておられるからだが、――あなたは歌いながらこの場所を出て行くであろう。そして、御使いたちはあなたとともに歌うであろう。地上には喜びがあり、天上にも喜びがあるはずである。地には平和、いと高き所には神に栄光があるはずである[ルカ2:14参照]。主が、あなたがたをひとり残らず祝福し給わんことを。イエスのゆえに。
二つの世界の共感[了]
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